2017年11月7日火曜日

イスラム教徒は4億人のインド人を殺害した?

Islamic Invasion Of India: The Greatest Genocide In History

イスラムの歴史家フィリシュタ(1560年に生まれて1620年に死亡したと見られる)はイスラムの支配下にあったインドで行われた大虐殺のことを初めて記している。彼は4億人のインド人がイスラムの支配下で殺害されたと記している。生き残った人々も奴隷にされ迫害された。イスラムに侵略される前のインドの人口は6億人ほどだったと云われている。1500年代の中頃にはインドの人口は2億人ほどにまで減少していた。

イスラムによって数百年間支配された後では、ヒンドゥー(インド人)は本来の姿を失っていた。彼らはムスリムのように振る舞っていた。(イギリス人にとっては)ショッキングなヒンドゥーの恐ろしい振る舞いがイギリスの文書には数多く記されている。それ故イギリス人たちは彼らのことをしばしば「野蛮」と呼んでいたようだ。イスラムの文化に汚染されれば彼らが野蛮になったとしても不思議はないだろう。それが、イスラムに汚染されるということが非常に破壊的であり危険な理由でもある。

イスラムに魂を破壊された他の国と同じように、インドはかつての真のヒンドゥーの国ではない。インドは以前にはそのような野蛮性とは無縁だった所にすべての人類の悪徳が文化へと組み込まれていったイスラムの影だ。そしてイスラムという病気が流入するに連れてそれらイスラムの慣習がインド文化の「普遍的な」側面として取り入れられ受け入れられていった。

ウマイヤ朝の時代(AD711年)からムガル帝国最後の皇帝バハードゥル・シャー2世の時代(1858)に至るまで都市という都市が破壊され侵略される毎に数十万という人々が虐殺されそれと同じぐらいの人々が奴隷として連れ去られていった。すべての侵略者がヒンドゥーの頭蓋骨で(文字通り)丘を築いた。イスラムによるアフガニスタンの征服によってその地で暮らしていたヒンドゥーは死に絶えることになった。この地域は今でもHindu Kush、すなわち「ヒンドゥーの墓場」と呼ばれている。

800年間に及ぶヒンドゥー教徒とシク教徒に対するアラブ人による虐殺はほとんどと言っていい程世界に認知されていない。

これに匹敵するものはナチスによるユダヤ人に対する虐殺だけだ。

ヒンドゥー教徒に対する虐殺はさらに規模が大きなもので、唯一の違いはそれが800年間続いたということだろう。

世界最大のホロコーストの証拠は当時の目撃者の説明を加えることでより精巧になる。侵略者たちそしてその後のインドの支配者たち(アラブの歴史家、書記官たち)はヒンドゥーの身に降り掛かった悲劇の記録を詳細に残している。

これらの資料には彼らがヒンドゥーに対して犯した犯罪、数千万人に及ぶヒンドゥーの虐殺、女性に対する暴行、古代ヒンドゥー教/仏教遺跡と図書館の数千という破壊などが詳細に記されている。

歴史家Koenraad Elstは「Was There an Islamic Genocide of Hindus?」という記事の中でこのように語っている。

「イスラムによって殺害されたヒンドゥーの総数ははっきりとは分かっていない。イスラムの歴史家たちによる重要な証言をざっと見たところでは、イスラムの聖戦士たちはホロコーストの被害者を優に超えるヒンドゥーを容易に殺害し得たということが分かっている」

「フェリシュタは中央インドのスルタンたち(1347-1528)が10万人のヒンドゥーを殺害した事件を表にして並べている。10万人という数字はヒンドゥーを罰する必要があると彼らが思った時に与えられる刑罰の最小限度の単位だ。しかもそれは3番目に規模の大きな地方王朝だけでの出来事というに過ぎない…」

「最大の虐殺はガズナ朝のマフムードによる侵略の期間中とデリー・スルタン朝の時代(1206-1526)に起こった」

彼は「Negation in India」という本も記している。

「イスラムによる征服はヒンドゥーにとっては苦しみでしかなかった。都市という都市が破壊され侵略される毎に数十万という人々が虐殺されそれと同じぐらいの人々が奴隷として連れ去られていった。すべての侵略者がヒンドゥーの頭蓋骨で(文字通り)丘を築いた。イスラムによるアフガニスタンの征服によってその地で暮らしていたヒンドゥーは死に絶えることになった。この地域は今でもHindu Kush、すなわち「ヒンドゥーの墓場」と呼ばれている」

Will Durantは1935年に「The Story of Civilisation: Our Oriental Heritage」という本の中でこのように主張している。

「イスラムによるインドの征服は恐らく世界の歴史で最も大量の血が流された出来事だろう。イスラムの歴史家や学者たちは虐殺を詳細に記録しそれを誇っていた。虐殺だけではなくヒンドゥーの強制的な改宗、女性への暴行、子供を奴隷として持ち帰ったこと、寺院の破壊などが誇らしく称えられていた。数百万人というヒンドゥーが剣によって強制的にイスラムへと改宗させられていた」

Francois Gautierは「Rewriting Indian History」にこのように記している(1996)。

「イスラムによるヒンドゥーに対する虐殺は他に例がなくナチスによるユダヤ人に対する虐殺やトルコによるアルメニア人に対する虐殺よりも遥かに規模が大きい。南アメリカの原住民に対するスペイン人やポルトガル人による虐殺よりも規模が大きかっただろう」

Fernand Braudelは「A History of Civilisations」の中でイスラム支配下のインドのことをこのように記している。

「この植民地支配」は「極めて暴力的だった」、そして「イスラムは制度化された暴力なくしてはインドを支配することは出来なかった。残虐行為(放火、一切の裁判なしの処刑、磔刑、串刺し刑、ありとあらゆる種類の拷問など)は日常のことだった。ヒンドゥー教の寺院はモスクを建設するために破壊された。暴力による改宗が日常的に行われた。反乱が起ころうものならば、それは即座に暴力的に鎮圧された。家は焼かれ反乱を起こした地域は跡形もなく破壊され男は虐殺され女は奴隷として連れ去られた」

Alain Danielouは「Histoire de l」にてこのように記している。

「イスラムがインドを侵略し始めた632年頃から、インドの歴史は長く苦しみに満ちたものとなった。「ジハード」という名目の下に、野蛮人たちは文明を破壊し種族全体を排除していった」

Irfan Husainは「Demons from the Past」にてこのように記している。

「歴史上の出来事はその当時の文脈に照らして判断されなければならないが、その当時の基準からしてみてもアラブ人のヒンドゥーに対する仕打ちは悲劇的なものだった。私たちの歴史書の中に描かれているイスラムの英雄たちは恐ろしい犯罪に幾つも手を染めていた。ガズナ朝のマフムード、クトゥブッディーン・アイバク、ギャースッディーン・バルバン、ムハンマド・ビン・カシム、ムハンマド・ビン・トゥグルクたちは全員が数千年経っても洗い落とされないような犯罪を犯している。ヒンドゥーにとっては彼らの故郷に対するイスラムの侵略は悲劇以外の何物でもなかった」

「彼らの寺院はモスクに改修された。偶像は破壊された。女性たちは暴行された。男たちは殺害されるか奴隷として連れ去られた。ガズナ朝のマフムードが毎年のように行っていた行軍の1つでは、彼はサムナスに住んでいた5万人の住人すべてを虐殺した。アイバクは数十万人を殺害し奴隷とした。この恐怖の歴史は長く苦しみに満ちたものだ。これらの征服は異教徒を改宗させるのは宗教的な義務であるとの主張によって正当化された。自分たちは信念のために戦っていると彼らは主張していたが、実際には彼らは虐殺や略奪を楽しんでいただけだった」

当時の目撃者たちの証言を幾つか紹介しよう。

アフガニスタンの支配者ガズナ朝のマフムードは1001年から1026年という短い期間の間に少なくとも17回以上インドを侵略している。彼の書記官が書いた「Tarikh-i-Yamini」には彼の血なまぐさい行軍の様子が記されている。

「異教徒たちの血があまりにも大量に流れ出したので(テインザーというインドの都市で)澄んでいた川の水は真っ赤に染まり人々は水を飲むことが出来なくなった。異教徒たちは砦を捨てて血で泡立った川を渡ろうとしたがその多くは斬り殺されるか捕まるか水に沈められるかのいずれかだった。5万人ほどが殺害された」

Hassn Nizam-i-Naishapuriが書いた「Taj-ul-Ma’asir」という当時の記録によると、クトゥブッディーン・アイバク(アフガニスタン出身で1194年から1210年のデリーの最初のスルタン)がメーラートを征服した時、彼はヒンドゥーの寺院をすべて破壊しその土地にモスクを建設したという。アリーガルでは、彼は住民たちを剣によってイスラムへと改宗させ従わなかった人々の首をすべて刎ねさせたという。

ペルシアの歴史家であるWassafは「Tazjiyat-ul-Amsar wa Tajriyat ul Asar」という本の中でこのように記している。アラー・ウッディーン・ハルジー(トルコ出身のアフガニスタン人でAD1295-1316頃のハルジー朝の2番目の支配者)がカンバヤットを占領した時、彼はイスラムの栄光を称えるためと称して男の住民を殺害し川を血で赤く染め、(持っていた財産をすべて奪った後で)その妻たちを自分の家に持ち帰ったという。そして2万人ほどの未婚の女は彼の奴隷とされた。

インドは深く長い文化的な歴史がある。ヒンドゥー主義は紀元前1500年頃にはすでに存在し仏教は紀元前6世紀頃には誕生していた。ヒンドゥー主義は知的、宗教的、芸術的産物を数多く生み出した。イスラムに侵略される前のインドでは、数学(ゼロの概念、代数、幾何学、10進数、所謂「アラビア」数字と呼ばれているものなど、だが実際にはヒンドゥーのものだ!)、物理学、薬学、哲学などが発展し他の国へと伝えられていった(バグダッドなどを含む)。

すでに設立されていたインドの大学に他の国から人々が訪れていた。インドの子どもたちは比較的広く行き渡っていた教育システムの中で数学、物理学、薬学、哲学など幅広い学問を学んでいた。インドの芸術と建築は素晴らしかった。そこには繁栄した人々が存在していた。それからイスラムが現れた。虐殺が始まった。人々は奴隷にされ、レイプされ、暴力を振るわれ、略奪が行われた。寺院、芸術、建築物などは破壊された。貧困、搾取、辱め、飢饉、強制的な改宗、学問の衰退、社会の崩壊と社会的病が蔓延した。イスラムにとって、イスラム的でないものはすべて無知の時代の産物であると見做され、それ故破壊されなければならなかった(もしくは強奪されイスラムのものと呼ばれた!)。この時の虐殺がきっかけでロマ族(ジプシー)が生まれ、アフガニスタンに住んでいたヒンドゥーは消滅し、パキスタンとバングラデシュが生まれることになった。

イスラムの侵略によって生じたコストは膨大なものだ。1000年から1525年の間に6000万人から8000万人が殺害されたと云われている。信じられないだろうか?1971年のバングラデシュの独立時に、パキスタン軍は9ヶ月間の間に150万人から300万人を殺害している。当時の世界はそれを逆さまにして伝えた。イスラムが暴力に走るのは私たちが彼らを虐げ続けていたせいだと!(フィリシュタ [1560-1620]によると、イスラムによって殺害されたヒンドゥーの人数は6000万人から8000万人ではなく4億人だ)。

Rizwan Salim (1997)はイスラムの侵略者が行ったことはどういうものであったのかを本に記している。

「アラビアから西アジアまでを侵略したイスラムは攻撃の矛先をインドに向け始めた。侵略者たちは数え切れないほどの寺院や彫像と仏像を破壊し、ヒンドゥーの王族の王宮や神殿から財宝を奪い取っていった。多くの男が殺害され女性は連れ去られていった。だがインド人の多くはイスラムの侵略者たちが地球上で最も進んだ文明を破壊していったのだということに気が付いていないように思われる」

もちろんインド人たちは抵抗した。だがインドには戦奴隷、戦術としての都市などの破壊もしくは虐殺、寺院の破壊、作物の破棄や農民の殺害などといった慣行は存在していなかった。戦いは軍人同士の間で通常は行われていた。敵から「戦利品」を奪うという概念は存在していなかった。インド人たちはイスラムの虐殺に対してなす術がなかった。インド人たちはジャングルや山に逃げ込むことを余儀なくされた。もしくは搾取、重税、虐殺、奴隷としての扱いに耐えるしかなかった。侵略者たちはヒンドゥーを継続的に攻撃し続け、そして将軍たち、将校たち、王族などがひっきりなしに反乱を起こしていたので自分たち同士でも戦い続けた(Khan p 205)。

かつての「インド」にはパキスタン、バングラデシュ、ベンガル地方、カシミール地方が含まれていた。アフガニスタンでは7世紀頃までヒンドゥー教と仏教が信仰されていた。16世紀には、アフガニスタンはムスリムが支配するインドのムガール帝国とペルシアのサファウィー朝とによって分割されていた。

ウマイヤ朝は初期にはヒンドゥーにズィンミーの地位を与えていた。恐らくはヒンドゥーの人数が多かったこと、イスラムへの抵抗、税収を失うことへの恐れが原因だろう。これは偶像崇拝者や多神教信仰者に対して殺害か改宗を迫るイスラムのテキストや法に違反していた。スルタンのイルトゥトゥミシュはどうしてヒンドゥーには死か(イスラムへの)改宗の選択が与えられていないのかと尋ねられた時に(1236年)、このように答えている。

「現在のインドでは、ムスリムの人数はあまりにも少ない(中略)だが我々の勢力が拡大し続ければヒンドゥーに死か改宗かの選択を与えられるようになるだろう(Lal [c] p 538)」

ズィンミーの地位が与えられていたはずにも関わらず、大量虐殺や大規模な強制的改宗、大人数が奴隷にされたことによってヒンドゥーの多くにはイスラムに改宗する以外の選択肢は残されてはいなかった。20世紀になっても偶像崇拝者/多神教信仰者の多くは改宗か死を迫られた。ヒンドゥーの戦士と男たちは殺害され女性と子どもたちは奴隷にされた。男の子たちは去勢された後に奴隷にされた。

実際の人数が記されていることはあまりない。「数え切れないほど」とか「すべての女性と子供たち」が連れ去られたというコメントが残されているだけだ。だが記されている場合にはその数は恐ろしいものだ。人を連れ去ったことに加えてムスリムは持ち去ることが出来るものであればすべてを奪っていった(コイン、宝石、布、衣服、家財道具、偶像、家畜、穀物などすべてだ。そして持ち去ることが出来なかった場合にはそれらを破壊した)。

イスラムの支配者たちは外国人だった。13世紀まで奴隷の多くはインドの国外へと連れ去られていた。デリー・スルタン朝が誕生すると(1206年)奴隷たちは労働力として用いられるようになった。他の国からも奴隷が流入するようになった。ムスリム軍は(イスラムに改宗させられた)外国人の奴隷の集団と同じく(イスラムに改宗させられた)インド人たち、そしてヒンドゥーの奴隷たちで構成されていた。

奴隷はアラーから約束されていた戦利品で、奴隷を得ることがジハードの最大の動機の1つだった。

「あまりにも大量にいたので奴隷たちの価格は非常に安くなっていった。男たちの地位はさらに下げられていった。だがこれはイスラムを称え異教を断罪したアラーの思し召しである」

(イスラムに最初に攻撃された)シンド地方のイスラムのコミュニティを形成していたのはイスラムに改宗させられた奴隷たちと少数のアラブの支配者たちだった(Khan p 299)。奴隷たちは初期にはシンド地方を征服したカシムの手によってワリード1世が支配するウマイヤ朝へと送られていた。712年から715年の3年間の間に30万人が送られていった(Khan p 299, Trifkovic p 109)。イスラムの聖戦士たちは「聖戦」に参加しようとあらゆる場所からシンド地方を目指した。カシムは唐突に解任されそして処刑された(恐らくは八つ裂きの刑によって)。カリフのハーレムに送られることになっていたシンド王国の2人のプリンセスを暴行したとの容疑が掛けられたためだ!(Lal [c] p 439)

パンジャブ王国を滅ぼしたガズナ朝のマフムードについて

17回の侵略の間に(997年から1030年)、マフムードは数十万人の奴隷をガズニー(現在のアフガニスタンにある都市)に送った。虐殺や奴隷、インド国外へと売られたことによってインドから200万人が消失した(Khan p 315)。イスラムの歴史家たちは一部ではあるが記録を残している。それによるとイスラム軍は20万人の奴隷をガズニーへと送った。1019年には5万3000人が連れ去られた。カリフは奴隷全体の5分の1を所有していてそれは15万人だと云われている。そこから75万人が奴隷にされたと推測することが出来る。マフムードの書記官によると一度のキャンペーンで50万人が連行された。

「剣が稲妻のように駆け抜け血しぶきが流星のごとく流れ出した。神の僕は異教徒を打ち倒した。聖戦士は神の敵を1万5000人殺害した。彼らは動物や鳥の餌となった。さらに神は僕に50万人の奴隷を含む数え切れないほどの戦利品をお与えになった(Khan p 191)」

マフムードの支配は1186年まで続いた。1079年の攻撃では10万人が虐殺され奴隷にされた(Tarik ?i-Alfi in Khan p 276-7,  Lal [d] p 553)

シハーブッディーン・ムハンマドの統治の後にデリー・スルタン朝が建国された。大量の首切り、奴隷、強制的な改宗、略奪や寺院の破壊が続けられた。奴隷は驚くほどの人数だった。1195年に、アイバクはラージャ・ビーマから2万人をカーリンジャル (1202)からは5万人を奴隷として連れ去った(Lal [c] p 536)。

「貧しい(ムスリムの)世帯でさえ奴隷を数多く所有するようになった(Khan 103, Lal [c] p 537)」

13世紀から14世紀に掛けてイスラムが広がっていくとともに奴隷の人数も増加していった。毎日のように数千人という奴隷が安い価格で売られていった(Khan p 280)。アラー・ウッディーン・ハルジーが所有していた奴隷の人数は膨大だった。彼は奴隷たちに足かせをはめ鎖でつなぎ辱めた(Lal [c] p 540)。

「彼は2万人以上の奴隷を所有していた。モハメドの軍はその地を完全な廃虚とし住民を殺害し都市を破壊し彼らの財宝を奪った(Bostom p 641, Lal [c] p 540)」

数千人が虐殺された。アラー・ウッディーン・ハルジー(1296-1316)は5万人の少年奴隷に身の回りの世話をさせていたが彼の住居では7万人の奴隷が働かされていたと云われている(Lal [c] p 541)。

女性は辱めを避けるため自らの手で命を絶った。

Sufi Amir Khusrauは「トルコ人はヒンドゥーを欲するままに捕まえ売り買いすることが出来た」と記している(Lal [c] p 541)。

Enslaved and Castrated

イスラム世界では被征服者は去勢された。これは支配者たちに現世での耽溺を与えるハーレムを、男たちに警備させるためだ。家族を持つ望みを奪うことにより支配者たちに忠誠を誓わせる狙いもあった。奴隷たちの人数を制限して必要な食料の量を減少させるためでもあった。去勢はイスラムに支配された地域では当たり前のように行われていたので500年間に渡るインドの人口の減少にも一役買っていただろうと思われる。

1205年にベンガル地方がBakhtiyar Khiljiによって征服されるとその地は去勢された奴隷たちの最大の供給源となった。その状態はムガール帝国の時代(1526-1857)になっても続いている。

アクバル(1556-1605)は去勢された奴隷を所有していた。チャガタイ・ハンは1200人の去勢された奴隷を所有していた!ゴールコンダ (ハイダラバード)では1659年に2万2000人の子供が去勢されイスラムの支配者に送られるか売られるかしたという(Khan 313)。

アラー・ウッディーン・ハルジー(1296-1316)は5万人の少年奴隷を所有していた。ムハンマド・ビン・トゥグルク(1325-51)は2万人をフィールーズ・シャー・トゥグルク(1351-1388)は4万人(彼は少年を集めることを趣味にしていた。そして合計で18万人の奴隷を所有していたと云われている)を所有していた。イスラムの歴史家はガズナ朝のマフムード, クトゥブッディーン・アイバク, シカンダル・ローディたちが少年に夢中になっていたと記している。ガズナ朝のマフムードはヒンドゥーの司令官ティラクに熱を上げていたと記している(Khan p 314)。

Conclusion:ムスリムの非人道的なふるまいはそのムスリムがSufis, Arabs, Afghanis, Turks, or Mogulであろうと変わらなかった。その全員がイスラムの法、テキスト、ムハンマドの例に(忠実に)従った。暴力と奴隷制は彼らがインドをほぼ完全に支配した後も続けられた。彼らの目的は単にインドを征服することではなく全員をイスラムに改宗させることだったからだ。ムスリムはインドの社会に溶け込むために現れたのではない。ヒンドゥーを排除しイスラムで塗り替えるために現れたのだ。それは彼らがすべてを所有していることの証でもある。何故ならばそれはアラーによって約束された戦利品だからだ。無神論者/偶像崇拝者そして多神教信仰者は改宗するか死ななければならない。その時になって初めてイスラムによる平和が訪れる!奴隷はアラーによって約束されたイスラムの聖戦士に与えられる戦利品の1つにすぎない。

PANKAJ says:

すべてのヒンドゥーがこれらの事実を知っている。殉死や子供との結婚、去勢などインド社会にはびこるこれらの悪習はイスラムの圧政によってもたらされたものだ。これらの醜い事実を暴くために膨大な調査が必要とされた。人々には知る権利がある。イスラムの侵略時に一体何が起こったのか?愚か者(左翼)たちに隠させてはならない。

JOE says:

馬鹿馬鹿しい記事だ。チンギス・ハーンは1200年代に数百万人のヒンドゥーを殺害しているが彼はムスリムではない。これを書いた臆病者はヘイトのプロパガンダを撒き散らしたいのだろう。

JAMES VILLA says:

君は記事を呼んだのか?どこにチンギス・ハーンのことなど書いてあった?

GINO says:

Sanjay Leela Bhansaliはイスラムの虐殺の歴史を知る歴史家を雇うべきだ。ムスリムの入国を禁止したトランプ大統領は正しい。我々インド人もそれに従うべきだ。それでも大量のムスリムが残ったままだろうが。

JOE says:

インドの歴史で最も暗い時代だって?チンギス・ハーンの時代やイギリスの植民地だった時代のようにか?

SANTOSH says:

チンギス・ハーンは中国とkhwarazemiaを攻撃した。インドじゃない。

SULTAN MAHMOOD says:

「イスラムが世界宗教に発展した唯一の理由は剣によって改宗させたからだ」という非難がイスラムに対して寄せられる。それは、イスラムが西側世界に脅威を与えていると恐怖を扇動しているイスラモフォビアたちによるお決まりの発言だ。

強制的に改宗させられたというのであればどうして中東に未だにキリスト教徒が残っているというのか?イスラムに征服された初めの頃には、この地域の大部分はキリスト教徒であり続けた。現在でもキリスト教徒がエジプト(9%)、シリア(10%)、レバノン(39%)、イラク(3%)といったように高い割合で残っている。彼らの存在がイスラムは剣で改宗させたのではないという証だ。

The Indian Subcontinent

世界最大のイスラム人口を抱える2つの国、パキスタンとインドがインド大陸を支配している。イスラムはこの地域に暮らす住民の生活すべての面において計り知れないほどの影響を与えている。だがイスラムによる支配が長く続いているにも関わらずヒンドゥー教や他の宗教はこの地域で未だに息づいている。

この地域へのイスラムの侵攻は当時の軍事的状況により正当化出来る。当時スリランカとの交易を行っていたムスリム商人の娘たちを乗せた船がシンド地方(現在のパキスタン)の海賊に攻撃された。海賊たちを討伐するためにカシムによって率いられた軍が710年に派遣された。

カシムの(この隔絶された地域への)遠征はインド社会に極めて大きな成功をもたらした。カースト制度によってインドでは身分が厳密に定められていた。それに加えて仏教徒はヒンドゥーの王族によってインドの至る所で抑圧されていた。多くの仏教徒や身分の低い人々は平等な社会を約束したムスリムの軍隊を歓迎した。

シンド地方を征服したカシムは仏教徒とヒンドゥーに宗教的自由を与えた。例えば仏教徒たちはムスリム軍が彼らにイスラムを強制するのではないかとの恐れをカシムに伝えた。カシムは彼らに宗教の自由を約束し今まで通りの生活を続けて欲しいと彼らに要請した(パキスタンの仏教徒はどこへ?)

PHI says:

嘘を言い続ける(もしくはコピペし続ける)ことは可能だろう。だがイスラム教徒が現在でも神のためと称してテロによって世界を不安定化させていることに関してヒンドゥーを糾弾することは出来ない。今現在でもそんなことをしているのはイスラムだけだ。ヒンドゥーではない。

嘘を付くこと、それもアメリカの学校で子どもたちに嘘を教えることも君たちの云うところのジハードの一環なのだろう。

SULTAN MAHMOOD says:

この地域へのイスラムの侵攻は当時の軍事的状況により正当化出来る。当時スリランカとの交易を行っていたムスリム商人の娘たちを乗せた船がシンド地方(現在のパキスタン)の海賊に攻撃された。海賊たちを討伐するためにカシムによって率いられた軍が710年に派遣された。

カシムのこの隔絶された地域への遠征はインド社会に極めて大きな成功をもたらした。カースト制度によってインドでは身分が厳密に定められていた。それに加えて仏教徒はヒンドゥーの王族によってインドの至る所で抑圧されていた。多くの仏教徒や身分の低い人々は平等な社会を約束したムスリムの軍隊を歓迎した。

シンド地方を征服したカシムは仏教徒とヒンドゥーに宗教的自由を与えた。例えば仏教徒たちはムスリム軍が彼らにイスラムを強制するのではないかとの恐れをカシムに伝えた。カシムは彼らに宗教の自由を約束し今まで通りの生活を続けて欲しいと彼らに要請した(このパターン何処かで見たような…)

YOUSEF says:

これほど愚かしい記事は見たことがない。ここに書かれていることは嘘で、そのような虐殺があったという証拠を持っていないじゃないか。殺害されたというインド人たちの墓地を見せるんだ。

PALLAV ARORA says:

Zaharnama, Baburnama, Futuh Al buldanを読むといい。すべてムスリムの手によって書かれている。ヒンドゥーの虐殺のことが詳しく書かれているのを目にすることだろう。

INFIDEL says:

アフガニスタンやバングラデシュのムスリムも最初はヒンドゥーだった。アショカ王の時代には中東でさえもがヒンドゥーの領土だった。このフォーラムで不快なコメントをしているムスリムもヒンドゥーの子孫たちだ。彼らの祖先は剣によって改宗させられた。アフガニスタン、パキスタン、インド、バングラデシュのムスリムはすべてヒンドゥーから改宗させられた人たちだ。

INDER JIT CHOPRA says:

イスラムの支配下でヒンドゥーは虐殺されていた。財産は略奪され女性は暴行され奴隷にされた。それを疑っている人は誰もいない。現在でさえも破壊された寺院の跡がそこかしこで見ることが出来る。どれだけが殺害されどれだけが暴行されたかははっきりとは分からないだろう。この悲劇はイギリスがインドに現れだした頃に初めて止まった。イギリスも1857年にインドが蜂起を起こした時に力によって抑えようとした。だが彼らはイスラムの支配者たちほど野蛮でもなければ残酷でもなかった…ヒンドゥーは歴史から何も学んでいない。ヒンドゥーは団結しなければならない。

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