2013年5月28日火曜日

第二次世界大戦はケインズのせいで引き起こされた?

常識のような内容だと思っていたのにヴェルサイユ条約(もしくはドイツ)などで検索していると驚いた。ほとんどすべてと言っていいサイトがドイツ被害者説を展開しているからだ。敗戦国を罰しすぎたことが第二次世界大戦の引き金になったとかドイツを厳しく罰しすぎた連合国側にも責任があると言った大きな災いを生み出した(左翼的な)風評が生まれる源となった出来事なのに(その影響は恐らく計り知れないところにまで及んでいると思われる)これほどまでに嘘が語られていていいのだろうか?

World War I reparations

第一次世界大戦の賠償とはヴェルサイユ条約により決定されたドイツに課せられた支払いの事を指す。条約の第231条はドイツとその同盟国に戦争中の連合国のすべての損失と損害の責任があると宣言し賠償の根拠となった。

1921の1月にInter-Allied Reparations Commissionにより総額が1320億金マルクと決定された。しかし実際にドイツが支払うことになっていた額はこの額ではなく500億マルクだった。歴史家のSally Marksは債権Cと呼ばれる1120億マルクは完全に架空のものだと述べている。ドイツが多額の賠償金を支払うことになると大衆を欺くための仕掛けであったという。1920から1931の期間に実際に支払われた総額は200億金ドイツ金マルク(50億ドル、または10億ポンド)だった。その額のうち125億マルクは現金でこれは大部分ニューヨークの銀行からの融資で賄われたものであった。残りの額は石炭、工業製品、鉄道設備のような資産として支払われた。賠償金の総額は連合国の要求に基づいてではなくドイツの支払い能力に基づいて1921に固定された。ドイツが連合国のすべての損害とすべての軍人の退職給付を支払うという大きく誇張された1919のレトリックは賠償金の総額とは無関係であったが連合国内での配分には影響した。オーストリア、ハンガリー、トルコも賠償金を支払うことになったがその額はわずかだった。ドイツが賠償金を支払うことの出来る唯一の国で対象はフランス、イギリス、イタリア、ベルギーが大半を占めた。

支払いは1931の6月にアメリカのHerbert HooverによるHoover Moratoriumにより一度中止され1932の7月のLausanne Conferenceにより再開された。最初に決定された賠償金の8分の1が支払われた。1953のLondon Debt Agreementにより西ドイツが債務の支払いを継続することが決定した。最終的な支払いはドイツ統合20周年の2010の10月3日に行われた。

Evolution of reparations

ヴェルサイユ条約とその他の条約の締結前後に掛けて賠償金の与える影響に関して集中的な議論が行われた。イギリス財務省代表であったJohn Maynard Keynesは賠償金の総額に抗議して辞退しベストセラーとなったThe Economic Consequences of the Peaceを出版した。

1924のDawes Planによりドイツの支払額は変更された。Owen D. YoungとParker Gilbertがこの計画の実行に任命された。1929の5月のYoung Planは支払いをさらに59年間で1120億金マルクに変更した。加えてこの計画では年間の支払い(20億金マルク)を2つの部分に分割した。一つは無条件の部分で全体の3分の1を占め残りは延期可能な部分で全体の3分の2を占めた。

しかし1929の株式市場の暴落とその後の大恐慌によりモラトリアムが宣言された。1931の6月20日にオーストリアとドイツが金融危機の只中にあると考えたHerbert Hooverは1年間の世界的なモラトリアムを宣言した。イギリスはこの提案にすぐに賛成したがフランスのAndré Tardieuの反対により16日間延期された。この期間中にドイツの状況は悪化しハイパーインフレーションの恐れが再度襲ったこともあり全国的な銀行危機となった。結果としてすべてのドイツの銀行は一時閉鎖された。

ドイツの状況が悪化したこともあってLausanne Conferenceが開催され賠償金の取り消しが投票された。この頃までにドイツは賠償金の8分の1を支払っていた。しかしLausanne agreementはヨーロッパ諸国のアメリカに対する債務の支払いの延期に対する同意を条件としていた。この計画が失敗に終わったのはアメリカの議会が反対にまわったからではなくヒトラーが台頭し賠償金の支払いを拒否したためにほとんど無意味となったからだ。ドイツは200億マルクを支払った。歴史家のMartin Kitchenはドイツが賠償金の支払いに苦しめられたという印象は作り話だと述べる。弱いドイツではなくその逆が真実だ。ドイツは継続的に譲歩を勝ち取り賠償金の減額を勝ち取る程に強大だったという。

As viewed within Germany 

ドイツの大衆の間ではドイツ軍が戦争で敗北したという認識はわずかだった。German High Commandは軍は戦場で敗北していないと主張し責任は文民、特に社会主義者、共産主義者、ユダヤ人にあるとした。これはDolchstoßlegende(stab-in-the-back myth)として知られるようになった。さらにドイツに戦争の責任があるという認識もわずかだったしドイツ人は何も間違ったことはしていないという感覚がほとんどであった。さらにドイツの指導者の故意の虚偽誘導による賠償金に対する憤りが募りつつあった。

Impact on the German economy 

支払いがもたらした経済的問題とその立場に対するドイツの憤りがワイマール共和国の終焉とAdolf Hitlerの独裁の始まりの最も主要な要因として引用される。John Maynard Keynesは賠償金がドイツの経済と政治の安定を脅かすことになると書いている。歴史家の大多数(カナダの歴史家Margaret MacMillanの2001の本Peacemakers: The Paris Peace Conference of 1919 and Its Attempt to End Warを一例として)はこの見方を支持していない。フランスの経済学者Étienne Mantouxは1946のThe Carthaginian Peace, or the Economic Consequences of Mr. Keynesの中でドイツは賠償金を全額支払うことが出来たとし問題はドイツに支払い能力がなかったことではなくドイツに支払う気がなかったことだったと指摘している。Sally MarksはKeynesは当時ドイツの代表団のメンバーだったCarl Melchiorに恋をしており賠償金に関する認識は「休戦後程なくして休養地での交渉の場で出会った会計と賠償の専門家であるドイツのCarl Melchior(*ケインズが同性愛者であったことはよく知られている)に対する恋愛感情によって形成された」とコメントしている。

Keynesの主張に対してMantouxはドイツが戦争によって起こされた損害のすべてを支払うことは正当であると主張しKeynesの予想のほとんどが外れていることを示してみせた。例えばKeynesはヨーロッパの鉄の生産が減少するだろうと信じていたが1929までにヨーロッパの鉄の生産は1913の数字を10%上回っていた。Keynesはドイツの鉄と製鉄の生産が減少するだろうと予想していたが1927には製鉄の生産は30%、鉄の生産は38%増加していた。Keynesはさらにドイツの石炭の生産性が減少するだろうと書いていたが1929までに労働生産性は30%上昇していた。Keynesはドイツは石炭を輸出出来ないだろうと主張したがドイツの石炭純輸出は一年以内に1500万トンに達し1926には輸出は3500万トンに達した。さらにドイツの国内貯蓄は条約締結後に20億マルク以下になるだろうと主張していた。しかしドイツの1925の国内貯蓄は64億マルクで1927では76億マルクと推計されている。Keynesはドイツは以降30年間で20億マルク以上の賠償金を支払うことが出来ないと書いていたがMantouxはドイツの再軍備費は1933から1939の期間中に毎年その額の7倍に達したと主張している。

経済学者らは(Keynesを含めて)賠償金の支払いは経済的に不可能であると主張した。しかしアメリカの歴史家William R. Keylorは彼のエッセーVersailles and International Diplomacyの中で「増税と消費の削減により賠償金を支払うのに必要な輸出超過を生み出すことが出来た」という。しかしこの輸出超過と賠償金を受け取っている側の貿易赤字が政治的に難しい状況を作り出した。実際これがイギリスの1926のゼネラルストライキの要因の一つになっている。

Sally MarksはLondon Conferenceにより課せられた1320億マルクの数字は極めて誤解を招くものだという。賠償はA、B、Cに分割されていた。賠償の大半は債権Cに分類されていた。Marksはこれを架空のものと呼び連合国は債権Cを回収する意図はなくフランスの大衆に多額の賠償が支払われるとの印象を与えるためだけに存在したと語っている。連合国は債権Aと債権Bだけを回収するつもりで総額は500億マルクとなりこれはドイツが支払うと提案した510億マルクをわずかに下回る。1987にドイツの歴史家Detlev Peukertは賠償金についてこのように書いている。

「意見は賠償により予算と経済が耐えがたいほど圧迫されたというものとその正反対で負担は現在の途上国への援助と大して変わらないというものとで幅がある。正解はこの両者の間のどこかにあるように思われる。ドイツの経済が賠償金の支払いによってさらに制限を受けたというのは恐らく事実だろう。その一方で実際の支払いは完全に管理可能なものだった。賠償は少しも耐えられない負担ではなかった。さらに債務が減額されるだろうという見通しもかなり高かった」。

1920年代の初期にドイツの外交政策は2つの軸に別れていた。一つはErfüllungspolitik(fulfilment politics)というものでドイツはヴェルサイユ条約の完全履行を果たすべきでそれに失敗すれば条約の改訂につながるという恐れに支えられたものだった。もう一つはKatsatrophenpolitik(catastrophe politics)というものでドイツは壊滅的な状況を引き起こすことを目指し連合国に条約の改訂を迫るというものだ。

Marksはフランスが賠償金の担保としてデュッセルドルフを占領している限りはドイツは賠償金の全額を期限通りに支払っただろうとしている。ドイツが定期的にデフォルトを始めたのは1922にフランスがデュッセルドルフから撤退をして以降だ。Peukertは1920年代初期のドイツの経済的問題は賠償金が問題ではなく第一次世界大戦が原因だという。1914にドイツ政府は戦費を賄うために増税をしない、または新税を設けないという決定をした。代わりに「最終勝利」が達成された暁には払い戻すという名目で借入を増やし「金融的限界を試すかのように政府は貨幣の供給を増やし戦争以前には保たれていた紙幣と金との関係を徐々に取り払っていった」という。1918の敗戦はドイツが今や壊滅的な額となった債務を連合国に賠償金の形で支払わせることが出来なくなったことを意味し残された唯一の方法は通貨改革だった。Peukertは「だがドイツ保守派の政府はこの手の苦痛を伴う改革を決して行おうとはしなかった。それは戦時債や財産の押収を伴うだろう。そして反感は実際に問題を作り出したワイマール共和国ではなく新しい国家に向けられる」という。政治的に不人気な通貨改革を行う代わりに1920年代に後を継いだ政府は結果として残った経済的問題を先送りしその一方で経済に関する問題はすべて賠償金のせいであると非難することを決定した。

1922の後半までにドイツのデフォルトは巨額になりしかも頻発したのでフランスとベルギーの代表団は賠償金の担保としてルール地方の押収を要請した。イギリスの代表団は支払いの減額を要請した。1922の12月の木材の巨額のデフォルトの結果としてReparations Commissionはドイツにデフォルトを宣告し1923の1月のルール地方の占領を決定した。特にフランスを苛立たせたのはドイツがデフォルトした木材の割当はドイツ自身の供給能力の評価に基づいて決定されたものでそこからさらに大幅に引き下げられたものだったことだ。連合国の間ではWilhelm Cuno内閣が連合国を挑発するために故意に木材の供給をデフォルトしたという見方が支配的だった。火に油を注いだのは1923の1月のドイツの石炭供給のデフォルトだった。それは36ヶ月で34回目のデフォルトだった。フランスの首相Raymond Poincaréは渋々ながらルール地方の占領の指令を出した。これを決定したのもイギリスが彼の提案(ドイツにより穏やかな制裁を課す)を拒絶した後ようやくのことだ。ドイツに苛立たされながらもPoincaréはイギリス-フランスによる経済制裁に望みを託し軍事行動に反対していた。だが1922の12月に彼はイギリス-アメリカ-ドイツと対立しさらにフランスの製鉄生産のための石炭、破壊された工業地帯の再建のための資金が枯渇しているのを目撃する。彼はイギリスが行動しないことに激昂しロンドンでフランス大使宛にこう書いている。

「彼ら以外が判断するところではイギリス人は(彼らは自らの忠誠心によって目を曇らされているのであるが)ドイツがヴェルサイユ条約に明記された誓約を遵守しなかったのはドイツがそれに同意していない(*遂行できないために)からだと常に考えてきたようだ。反対に我々はドイツ(平和の条約を実行するわずかな誠意さえ示さなかったのであるが)が常に義務から逃れようとしてきたのは今になってもドイツが敗北を受け入れていないからだと信じている。我々はまたドイツが国家として必要性の観点のみから誓約を破棄し続けていると確信している」

彼は1923の1月にルール地方を占領することを決心した。これは「1922に始まりドイツのルール地方の占領に対する対応によって加速したドイツのハイパーインフレを起こしてもいなければフランスの金融業界の慣行と賠償金の消滅により発生した1924のフランの下落を起こしてもいない」。占領の費用を引いた後の利益は9億金マルクだった。1923のRuhrkampf(Ruhr struggle)の真の問題はドイツのデフォルトではなくヴェルサイユ条約の不可侵性だった。彼は仮にドイツが賠償金に関して条約を無視することを許せば前例が作られ必然的にドイツはヴェルサイユ条約の残りの条文の解体に掛かるだろうとイギリスに対して抗議している。最終的には条約によってドイツを拘束していた鎖が一度取り壊されれば必然的にドイツはまたもや世界を新たな世界大戦へと陥れるだろうと彼は警告している。

ルール地方での「消極的抵抗」と併せてドイツ政府はハイパーインフレーションを開始した。2008にイギリスの歴史家Richard J. EvansはKeynesは賠償金に関して単純に間違えていたと議論しさらに1923の大インフレーションの責任はそれを選択したドイツ政府にあると主張している。フランスは賠償金の担保としてのルール地方の占領を継続したがドイツはルール地方での「消極的抵抗」と自身の経済を破壊したハイパーインフレによって世界の同情を勝ち取った。さらにイギリス-アメリカからの強い金融的圧力の下(この頃に起きていたフランの価値の下落によりフランスはウォール・ストリートとシティからの圧力に晒されていた)フランスは1924の4月にDawes Planを承諾するように強いられた。この計画の下ではドイツは1924にわずか10億マルクを支払うことになった。その後支払いは3年間に渡って増加し1927に22億5000万マルク支払うことになる。1927からはドイツは年間25億マルクの支払いをすることになる。この減額された計画の下でもドイツはデフォルトを続けた。この計画を遂行させるために1924の7月から8月に掛けてロンドンで会議が開かれた。イギリスの首相J. Ramsay MacDonaldはKeynesの賠償金の支払いは不可能であるとの意見を採用しておりフランスの首相Édouard Herriotにドイツへの譲歩を強く迫った。イギリス側の傍聴者で大使のEric Phippsは「ロンドン会議はフランスにとってゴルゴダの丘のようなものだ。M. HerriotはReparations Commissionでフランスが大切に保持してきた優位性を一つ一つ引き剥がされていった。ドイツのデフォルトに対して制裁を課す権利、ルール地方の経済的占領、フランス-ベルギーの鉄道Régie、ついにはルール地方の一年以内の撤収」と述べている。Dawes Planはドイツが初めて条約を無効化し自身に有利な方向に改定することに成功したヨーロッパの歴史にとって象徴的な出来事となった。ロンドン会議はイギリスの宥和政策が初めて主導権を握った会議だった。

Dawes Planの下での賠償金が重すぎるというドイツの苦情が受け入れられ1928のYoung Planではドイツは各種の賠償金を払うことになったもののその額は年間25億マルクを超えないことが決定された。Reparations Commissionは廃止されBank for International Settlementsに取って代わられた。この計画の実装は1929の8月に開かれたハーグの国際会議が行うことになった。この会議の最中にドイツの外相Gustav Stresemannは「無条件のラインラントの明け渡し」を5年前倒しすることをドイツがこの計画を受け入れることの条件として要求した。彼はイギリスからの強力な支援を得ていてイギリス-ドイツからの強い圧力を受けてフランスは1930の6月にラインラントから撤退することに同意した。労働党は1929の選挙で再び政権に返り咲きMacDonaldはフランスの懸念を省みることなくフランスにドイツに対して譲歩をするように圧力を掛け続けた。この計画はラインラントからの撤退の困難さが原因で1930の1月までは効力を持たないことになっていたが1929の9月に前倒しで実行され結果としてドイツは1929の9月からはDawes Planの下での額の半分以下を支払うことになった。これらのドイツへの譲歩にも関わらず1929の12月にLiberty Lawと呼ばれるこの計画を破棄しこの計画を受け入れたドイツの政治家を国家反逆罪として裁く法案を可決させようとする国民投票が要求された。

1930の9月にドイツの首相Heinrich BrüningはYoung Planの下での賠償金支払いは高すぎると主張し無条件の賠償金の全額取り消しを要求した。彼はドイツは大恐慌が原因で賠償金を支払うことが出来ないと主張していたが真の理由は外交で成果を上げて彼の極めて不人気な政権への支持を取り付けることにあった。同時に彼はgleichberechtigung(equality of status)を要求しドイツの武装を解除していたヴェルサイユ条約の第5条の破棄を望んだ。彼は大恐慌によって疲弊し減額された賠償金でさえ支払う余裕のないドイツがなぜ条約によって禁止されていた戦車、戦闘機、重砲、徴兵、潜水艦を保持する余裕が有るのかを決して説明しなかった。

Marksはドイツは500億マルクの賠償金を余裕で支払うことが出来たがヴェルサイユ条約を無効化する政治的戦略としてデフォルトを選択したという。Marksはさらに「war guilt clause」と呼ばれる第231条はそのようなものではなかったと指摘している。それが指すのは「戦争の結果として生じた損害に対するドイツとその同盟国の責任」だ。第231条が戦争責任を意味するとの主張は国際的同情を得ようとして誤解させるように誘導したドイツの政治家と擁護者の創作だという。さらにMarksは次の第232条はドイツの責任を市民に与えた損害だけに限定しておりさらに1921にロンドンで会議が開かれた際には賠償金の額は連合国の必要に基づいてではなくドイツの支払い能力に基づいて決定されたと指摘している。

1919から1939に掛けてのドイツの経済的苦境が賠償金によるものだというのは誤謬だと議論されている。ドイツは賠償金のわずかしか支払っておらず1920年代のハイパーインフレーションはワイマール共和国の政治的、経済的不安定の結果だ。実際フランスによるルール地方の占領の方が賠償金よりも経済に損害を与えた。その他の誤謬は賠償金がヒトラーが権力を得る背景になった経済的状況を招いたというものだ。ドイツは1923のハイパーインフレの後は急速に回復しており再び世界最大の経済の一つになった。

ドイツの経済は外国の投資(ほとんどアメリカからの)が流入している間は成長を続けていた。しかし1929の株式市場の暴落により賠償金の支払いの資金源となっていた外国からの資金が突然引き上げられてしまう。この暴落はアメリカからのドイツ企業への融資が途絶えたことにより増幅されてしまう。Dawes planにより減額された賠償金の支払いも主に外国からの借入によってファイナンスされていた。1924からその後に掛けてドイツは「外国からの融資の申し入れで完全に満たされていた」。これらの債務の満期が一度に到来した場合には賠償金の数年分の支払いがまるで数週間に圧縮されたような状態になった。

イギリスの経済歴史家Niall Fergusonは1998の本「The Pity of War」の中でドイツは政治的意志があれば賠償金を支払うことが出来たと主張している。彼はまず第一次世界大戦のすべての交戦国はドイツだけでなく甚大な経済的損失を被ったことを指摘することから始める。さらに1920-21にドイツの純国内生産は17%成長していたという。彼は1920のドイツの貿易収支の赤字はドイツの急激な経済成長とマルクの減価が生み出した投機によるもので賠償金の見通しによるものではないという。彼によると1920の3月以降のマルクの増価は投機によるものでこのマルクの増価が1921以降ドイツで深刻な問題になるインフレーションにつながったという。彼は1921のドイツの総債務/GNPは同年のイギリスの総債務/GNP以下だったと主張している。彼は1921のロンドン会議で課せられた年間総支払額30億マルクはドイツの国民所得の4-7%でKeynesのドイツの国民所得の25-50%が長期に渡って支払われるという主張からはかけ離れているという。同様に彼はフランスは1871から1873にフランスの国民所得の25%に相当する49億3300万フランを国家が破産することもなくドイツに支払っており賠償金がドイツを破綻させるとのドイツの主張は賠償金を支払わない単なる口実だったという。彼は1929のヤング委員会によって決定された1988までドイツが賠償を続けるとの計画はEconomic European Communityに実際に支払われた額は1630億マルクをはるかに下回っており生活水準の劇的な下落を引き起こした痕跡もないとしてそもそもYoung Planは経済的に意味のあるものではなかったと主張している。アメリカの歴史家Stephen Schukerはドイツは賠償金として支払っていた資金を大量にアメリカからの融資として受け取っておりそれらは決して返済されることはなかったと主張している。彼は1921から1931の期間にドイツは191億マルクを賠償金として支払い、同時にアメリカから270億マルクの融資を受けており1932にドイツはこれをデフォルトした。Fergusonは賠償金の問題はその額ではなく連合国が領地を賠償金支払いの担保として取らずにドイツの自発的意思を信用したことにあるという。ドイツの政治家は賠償金の支払いのための増税に抵抗を示していたのでドイツ政府は連合国が賠償金の回収を諦めるとの望みを託してデフォルトを選択したという。賠償金がなかったとしても1920から1923のドイツの総政府支出はドイツの純国内生産の33%を占めていた。彼は賠償金が課せられなかったとしてもドイツは第一次世界大戦時の債務を支払う必要と市民からの社会サービスに対する要求とによって深刻な問題に直面していただろうという。インフレーションの結果ドイツの債務は1922までに1914の水準にまで低下した。彼はドイツの1920年代のインフレーションは賠償金が原因ではなく第一次世界大戦時の(国内)債務と賠償金に対する経済的戦略としてドイツ政府の明確な意思の下で起こされたものだという。

1931の6月のフーバーモラトリアムの下でドイツは賠償金の支払いを停止した。1932の6月のローザンヌ会議で賠償金は正式に停止された。Marksは1921から1931の期間にドイツは総額で200億マルクの賠償金を支払いその大部分はドイツが1932にデフォルトしたアメリカの融資であったと計算している。こうしてドイツは第一次世界大戦の債務のほとんどから逃れその費用をアメリカの投資家に移すことに成功した。アメリカの歴史家Gerhard Weinbergはドイツが第一次世界大戦の費用の支払いから逃れるために賠償金を用いた方法についてこのようにコメントしている。「賠償金を自身の負担から交戦国の負担へと移すことにより」第一次世界大戦の債務とその他の費用に苦しんでいた連合国と賠償金も第一次世界大戦の債務も支払わなかったドイツとの乖離を一層際立たせることになったと。

Reasons for the size of the reparations demands

多くの点でヴェルサイユ条約の賠償金は普仏戦争後に調印された1871のフランクフルト条約によってドイツがフランスに課した賠償金の再現となった。フランクフルト条約の賠償は人口に基づいて計算された。これはロシアの敗退後ナポレオンが要求した賠償と等価だ。

ドイツの侵攻によって起こされたインフラへの損害もよく引き合いに出される。Margaret MacMillanは彼女の本「Peacemakers: The Paris Peace Conference of 1919 and Its Attempt to End War」の中で初めからフランスとベルギーは直接の損害に対する賠償に優先順位を置いていたと記述している。フランス北部の重工業地帯でドイツは自身の役に立つものを持ち去り残りの大部分は破壊していった。1918にドイツ軍が撤退した後でもフランスの最も重要な炭鉱が炎上しているのが目撃される有様だった。

(以下省略)

2013年5月21日火曜日

財政政策は大恐慌の時でも無効だった?

WHAT ENDED THE GREAT DEPRESSION?

by Christina D. Romer

I. INTRODUCTION

1933から1937にアメリカの実質GNPは平均8%以上成長した。1938から1941には平均10%以上成長した。大恐慌からの回復期であったにせよこの成長率は壮観だ。大恐慌からの回復はこれまであまり注目を集めてこなかった。1930年代前半の不況がとても大きいものだったので経済学者はその下落と反転の原因に焦点を絞っていたからだろう。一旦その原因が説明されてしまうと関心も失われてしまう。完全雇用への回復も単に調整の遅れとかまたは第二次世界大戦の勃発まで完了しなかったとして片付けられてしまった。

政府支出の変化の形での総需要刺激策が大恐慌からの回復の要因であったか否かは1940年代と1950年代に集中的に調べられた。Smithiesは「財政政策は回復の手段として唯一有効であったことが証明された」と主張した。だが彼の主張は根拠と言うよりも信念に基づいているように思われる。Hansenは逆に財政政策は1930年代に集中的に行われなかったと主張した。Brownはその主張を支持した。彼のよく引用される結論はこうだ。「財政政策は有効に機能しなかった。効果がなかったからではなく用いられなかったからだ」。

Friedman and Schwartz [1963)は連邦準備銀行の政策は大恐慌からの回復の要因ではないと主張した。彼らは「その期間中には連邦準備制度はハイパワードマネーの量を変えようとする試みを一切行わなかった」と主張した。その一方で彼らは特にニューディールの金政策が1930年代中頃の貨幣供給の増加につながったことを明らかに認識していた。だが彼らは連邦準備の不作為に注目を集める意図を持っていたためこの期間の貨幣供給の増加はわずかな関心しか得られなかった。

II. THE STRENGTH OF THE RECOVERY

ここで大恐慌からの回復がとても速いものだったと強調することは回復はとてもゆっくりしたものだったと聞かされてきた者にとっては奇妙に思われるかもしれない。通説ではアメリカ経済は1930年代を通してずっと落ち込んだままで完全雇用に回復したのは第二次世界大戦が勃発した後だけだということになっている。これは1930年代前半の生産の落ち込みと1938の落ち込みがあまりに大きかったので驚異的な成長を持ってしても落ち込みを打ち消して元の水準に回復するためには何年も掛かったからだ。

(省略)

この研究の大部分の分析の中でBureau of Economic Analysisからのreal CNPの年間推計を用いる。このデータは1929からしか得られないので必要な場合にはKendrick—Kuznets CNPを用いて拡張する。図1は1929から1933の生産の低下とその後の回復の力強さをはっきりと示している。1929から1933に実質CUPは35%下落した。1933から1937には33%上昇した。1938には生産はまた5%下落したが1938から1942に今度はさらに壮観に49%上昇した。明らかに1938の前後の4年間の実質成長率は圧倒的だ。


だがこの急激な成長にも関わらず生産は1942まで正常には戻らなかった。1930年代のトレンド成長率を簡単に推計する方法は過去の成長率を外挿するものだ。1923-1927を選んだのは1920年代の最も普通の期間だったからだ。この期間は価格の安定した期間でもあったので生産は極端に高かったわけでも極端に低かったわけでもないと思われる。この期間の成長率は3.15%だった。図2にそれを示す。図はCUPが1935のトレンド水準を38%下回っていることを示す。1937には26%下回っている。トレンドに回復したのは1942になってからだ。

失業率の動向も実質GNPの動向と完全に整合的だ。多くの経済学者が失業率は1940まで10%近かったと強調しているが1932の23%の高さからは大幅に下落している。実際に失業率は1934と1936に4%以上下落している。1942まで失業率が元の水準に戻らなかったのは単にその時まで生産がトレンドを下回っていたからだ。

III. THE EFFECTS OF AGGREGATE DEMAND STIMULUS IN THE RECOVERY

金融緩和政策がこの回復を説明できるかどうかを調べるために簡単な計算を行う。初めに政策がどの程度の規模で行われていたかを示す。次に金融政策と財政政策のスタンスを測る方法を示す。それからこの2つの推計を組み合わせる。

A. Application of the Narrative Approach to the Interwar Era

これらの中で最も難しいのは金融政策と財政政策の乗数を推計することだ。ここでは過去の回復期に注目する。1920と1937に金融政策と財政政策の両方に収縮的な動きがあった。これらの動きの後に比較的大きな不況があった。さらにこの不況を説明する要因として他に尤もらしいと思われるような出来事もなかった。

よってこの2つの不況の生産の変化を金融政策の変化と財政政策の変化に分解することが出来る。

(1) Output changer — pm(Motary Change) + flf(Fiscal Change)_1.

flは金融政策と財政政策の乗数だ。tは1921か1938のどちらかを示す。実際の生産の変化と金融政策と財政政策のスタンスを代入して金融政策と財政政策の乗数を得ることが出来る。

1921と1938が根拠として相応しいものであるためには政策の変化が生産の動きに対応するものでないことが重要だ。政策の変化が生産の低下に対応するためのものであったら政策の効果を過大推計してしまう。さらにこの不況を説明する要因が政策以外にないことも重要だ。他の要因が重要であればここでも政策の効果を過大推計してしまう。

政策変化の独立性。戦間期からの政策変化として1920の財政政策の変化は実体経済の変化によって引き起こされたものでないことは明らかだ。政府支出の大幅な低下をもたらしたものは第一次世界大戦の終了だった。この変化の大きさは財政収支/GNPが1919の-8.3%から1920に0.5%になったことから伺える。

この時の金融政策の変化もまた大きくそして独立だ。Friedman and Schwartzによると1919の連邦準備は第一次世界大戦と戦後の好況からによるインフレーションを懸念していた。その対応として連邦準備は1919の12月に3/4%金利を引き上げた。当時の理事の日記や手記によると連邦準備は金融政策のラグについてよく分かっていなかったらしい。結果として経済が金利の引き上げに対応出来なかった期間に連邦準備は1920の1月にさらに金利を1 1/4引き上げ1920の6月に1%ポイント金利を引き上げた。これらの大幅な金利の引き上げは連邦準備の経験不足によるものなので生産の動きに対応するものではない。

1937の財政政策の引き締めはそこまで急激なものではなかったがそれでも大きなものだ。1936に第一次世界大戦の退役軍人に巨額のボーナスが支払われこれが政府支出の急増として記録された。1937にこの支払が無くなっただけでなくこの時に初めて社会保障税が集められた。この歳入の増加は明らかに経済の動きとは関係していない。年金の支払いをファイナンスするために税金が引き上げられたのを反映しただけだ。この2つの変化により財政収支は1936の-4.4%から1937に-2.2%になった。

1937の金融政策の変化は1920のものほど判りやすいものではないが大部分独立だ。Friedman and Schwartzは貨幣への撹乱を1936の7月から1937の3月に掛けて3段階で行われた要求準備の倍増の結果だとしている。連邦準備は要求準備を引き上げた。高い水準となっていた超過準備を懸念していて超過準備を要求準備へと転換することを望んでいたからだ。この動きはマネーサプライを大きく減少させた。銀行は超過準備を保有しておくことを望んでいたからだ。銀行は準備の水準を高く保つために貸出を減少させた。

結果としてのマネーサプライの変化は独立だ。なぜなら連邦準備は経済と関係なく動いているからだ。彼らはマネーサプライを縮小させた。なぜなら銀行の動機を誤解していたからだ。マネーサプライの縮小が彼らの意図的な判断によるものではないさらなる根拠として1937の会合の記録がある。何回かの会合の中で当時の議長Mariner Ecciesは要求準備の倍増は金融緩和政策の終了を意味するものではないと主張した。明らかに連邦準備は将来の生産の減少を予期して意図的にマネーサプライを減少させたのではない。

この変化に加えて1936に財務省は金の流入を不胎化し始めた。その結果減少ではないにしてもハイパワードマネーの増加率の大幅な減少となった。不胎化への転換は要求準備の増加と併せて同種の政策ミスのように思われる。Chandlerによると財務省は金の流入が超過準備問題を悪化させることを恐れた連邦準備の要請を受けて不胎化を行った。財務省がマネーサプライに影響を与える意図を持っていなかった根拠は1937の金利の上昇を大変懸念していたことから得られる。

その他の要因。上記に加えて金融政策と財政政策の変化以外に生産の低下の原因となったと思われる要因に関する直接的な根拠はない。1921と1938の不況を研究した経済学者のほとんどは政策変化が重要だったと見ている。例えばFriedman and Schwartzは低下の原因をほとんどすべて金融政策に求めている。彼らは「両年の貨幣残高の減少は連邦準備の政策の結果だ。貨幣残高の減少は生産の低下と関連している」と主張している。この主張にLewis [1949, pp. 19—20)とRoose [1954, p. 239]も賛同している。

その他の者は財政政策により重要な役割を与えている。Hansen (1938]、Smithies [1946)、Cordon [1974]はすべて1938の不況を政府支出の減少の結果だと主張している。Ayresは政府支出の減少が「1937の秋に起こった生産の急低下の主要な要因として最も適切だと思われる」と主張している。Gordonも第1次世界大戦後の政府支出の減少が1921の生産の低下の重要な要因だったと主張している。彼は「1920の始めまでに強いデフレ要因を経済に与えた」と主張している。

恐らく最も重要なのは政策要因以外の生産の低下の説明が根拠として弱いことだ。政策要因は逆に経済変数の動きと完全に整合的だ。例えば政策要因以外の説明として労働組合の組織率の増加による賃金の上昇がある。つまり1937に負の供給ショックがあった。この説明の問題点は負の供給ショックによる価格の上昇が見られなかったことだ。1937から1938には小売価格は9.4%下落した。政策要因仮説はこの価格の動きと整合的だ。貨幣要因による説明はさらに金利が急激に上昇したこと建設支出などの金利に敏感な支出が減少したことと整合的だ。

1921の不況に関するその他の説明は第一次世界大戦の特需が終了したというものだ。1920までにこの需要は満たされ企業は売上の急減に直面したと続く。この説明の問題点は消費は実際には1920と1921に増加しているということだ。実質消費支出は1919から1920に4.8%、1920から1921に6.2%増加した。消費に関する説明はいずれも金利が大幅に上昇したという問題に直面する。

B. Policy Multipliers

政策変化の独立性とその他の要因の欠如によりこの2つの時期を金融政策と財政政策の乗数の推計に用いることが出来る。それを求めるにはデータを式(1)に代入すればいいだけだ。

生産と政策手段。成長率のトレンドからの乖離を示す。さらに政策スタンスに関してまず通常時の政策スタンスを定義しそこからの乖離部分のみが総需要に影響を与えるとする。

金融政策変数としてM1成長率の通常時(1923から1927)からの乖離を用いる。この期間の成長率は2.88%だった。

財政政策変数として実質財政余剰/実質CNPの変化率を用いる。実質財政余剰に変化がなかった場合を通常時とする。つまり財政赤字か財政黒字が一定であった場合は総需要に変化がないとする。

政策変数は1年のラグを伴って生産に影響を与えるとする。これは粗い仮定ではあるもののこの2つの期間に対しては合理的だ。政策変数の変化は生産が大幅に低下する前年に起こっている。実際に(生産が低下した)同年の政策変数はわずかに拡張的だ。よって意味のある乗数の推計を得るにはラグを1年とおくしかない。

結果。金融政策の乗数の推計値は0.823、財政政策の乗数の推計値は-0.233となった。符号が-なのは財政政策変数が財政黒字を基準としているからだ。

金融政策変数の乗数の大きさは妥当なものだ。M1成長率のトレンドからの1%ポイントの低下は生産の成長率のトレンドからの0.82%ポイントの低下になる。

財政政策変数の乗数の大きさは極めて小さい。財政余剰/GNPの1%ポイントの増加は生産の成長率のトレンドからの0.23%ポイントの低下となる。これは1921の生産のトレンドからの乖離が1938に比べて小さく逆に財政政策変数の変化が1920が1937の4倍近いからだ。よって生産の低下を財政政策の要因に割り当てるのは困難になる。だが極めて大きい財政政策変数の乗数であったとしても以下の結論にはほとんど影響を与えない。

C. Simulations

これらの乗数から1930年代の政策効果を計算することが可能だ。乗数×政策変数により生産の成長率のトレンドからの乖離に与える影響を示すことが出来る。仮に実際の生産の成長率からこの非常時の政策の効果を差し引けば政策が通常時であった場合に生産の成長率がどうなっていただろうかを示すことが出来る。

財政政策。図3に財政政策の効果を示す。点線は財政政策が通常時の水準であったと仮定した場合の生産の推移を対数で示す。実線は実際の生産の推移を対数で示す。2つの線が非常に似通っているのは財政政策が大恐慌からの回復にほとんどまったくといっていいほど貢献していないからだ。1942だけは識別可能な違いが見られるがそれですら差はわずかだ。


財政政策の効果が小さいのは前述の1921と1938の効果が小さいことから部分的に説明できる。だが根本的には1930年代を通して財政政策の通常時からの乖離が大きくないことが原因だ。図4に財政収支/CNPの変化を示す。1930年代の財政収支/GNPの変化は1%ポイント以下で幾年かはプラスだ。戦争による支出が増加した最初の年である1941でさえわずか6%ポイント増加したにすぎない。


金融政策。図5に金融政策の効果を示す。点線は貨幣成長率が大恐慌前のトレンドに保たれていたと仮定した場合の生産の推移を対数で示す。実線は実際の生産の推移を対数で示す。2つの線は今回は大きく異なる。2つの線の差は貨幣成長率が通常時のトレンドに保たれていたならば1937の実質GNPは25%低かっただろうことを示す。1942までにはこの差は50%にまで拡大している。この計算は金融政策が大恐慌からの回復に重要だったことを示している。


この効果の要因を探し出すことはそれほど難しいことではない。前述のように金融政策の乗数は戦後のマクロ経済モデルで計算されたものとほぼ同じ大きさだ。よってこの大きな効果は有り得ない程大きな乗数によってもたらされたものではない。むしろこの効果は貨幣成長率の高さが要因となっている。図6に金融政策変数を示す。図に見られるように通常時の貨幣成長率からの乖離は大きい。この期間のほとんどで乖離は10%以上に及ぶ。よってこの通常時からの乖離がゼロに保たれていたならば大恐慌からの回復が劇的に遅かったことを示しても驚きではない。


D. Robustness

この結果は非常にロバストだ。乗数を大きく変えても結果は変わらない。

例えば金融政策の乗数を半分に財政政策の乗数を倍にしてみる。金融政策の乗数の変化は極めて大きいもののはずだ。にも関わらず1942の実質GNPは貨幣成長率が通常時のトレンドを保っていたと仮定した場合に実際のGNPから25%低いに過ぎない。財政政策の場合は1942の実質GNPは財政収支/GNPの変化がゼロに保たれていたと仮定した場合と比較して3%低い。財政政策の効果は高まるが劇的というわけではない。

戦後のマクロ経済モデル(MPSモデル)から得られた乗数を用いて計算しても結論は変わらなかった。金融政策が通常時の状態に保たれていたならば1942の実質GNPは実際よりも70%低かっただろう。乗数を十倍にした財政政策でも役割は高まるものの劇的というわけではない。この計算によると仮に財政政策が通常時の水準に保たれていたとするならば1942の実質GNPは実際よりも14%低かっただろう。しかもこの効果のほとんどはこの計算の最後の年から得られている。先程と同様の仮定で1941の実質GNPはわずか1%低いだけだっただろう。この巨大な乗数でさえも財政政策は1941までの回復にまったく貢献していない。よって違う方法から得られた乗数を用いても回復に重要だったのは金融政策で財政政策はほとんど重要でなかったという結論は変わらない。

IV. THE SOURCE OF THE MONETARY EXPANSION AND THE TRANSMISSION MECHANISM

貨幣成長率が通常時のトレンドに保たれていたならば経済の展開が大きく異なっていただろうことは上記の計算で示した。だがそれを金融政策の展開が回復をもたらしたと言うことは出来ない。ここまで示してきた根拠からでは貨幣成長率が生産の回復に対する内生的な反応であった可能性を否定出来ない。よって金融緩和が回復をもたらしたと言うためには高い貨幣成長率が政策によるものかまたは歴史の偶然によるものであり生産の回復によるものではないことを確認しなければならない。

ハイパワードマネーの増加。この期間に貨幣乗数が低下したのでM1の増加はハイパワードマネーの増加が原因であることは明らかだ。実際ハイパワードマネーの残高の増加はM1の残高の増加を大幅に上回っている。金融政策当局者が生産の回復からくる取引需要を緩和するためマネーサプライを増加させた内政的な反応だと考えることも可能だ。だが実際には連邦準備の金融政策は緩和的からは程遠かった。本質的にこの期間のハイパワードマネーの増加は連邦準備の政策とは関わりがない。連邦準備はインフレ警戒的(または投機を警戒)政策を維持し続けたし連銀信用の増加を停止させさえした。よってハイパワードマネーが生産の回復に反応して増加したと考える根拠はない。

アメリカのマネーサプライの急増の源は1933に始まった膨大な金の流入だった。Friedman and Schwartzは「貨幣残高は1933から1936の3年間に急速に増加した。この増加は金価格の変化とアメリカへの資本の逃避の結果だ。同時期のビジネスの拡大の結果ではない」と述べている。

BloomfieldもFriedman and Schwartzも1930年代後半までの金の継続的な増加をヨーロッパの政治の展開に求めていた。Bloomfieldは金の流入はアメリカへの外国資本の巨額の流入によって引き起こされていると指摘している。アメリカは継続的に巨額の経常収支黒字を記録していた。それから彼は「この流入の恐らく最も重要な要因は国際的政治状況の急激な悪化だ。ヨーロッパでの戦争の恐れが敵国による富の収奪や破壊、為替の制限、戦時課税の恐れを生み出した」と述べている。Friedman and Schwartzは「ヨーロッパでの戦争の勃発が当時のアメリカの貨幣残高の主要な決定要因だ」と述べている。

V. CONCLUSION

(省略)

2013年5月5日日曜日

ケインズは古典派の主張を捻じ曲げた?

どうしてケインズ経済学と呼ばれているのか意味がまったく分からない。

Classical Deflation Theory

by Thomas M. Humphrey

デフレーションは一般価格が下落する現象だ。ディスインフレーションと混同してはならない。1990年代のディスインフレーションが最近のデフレーションに対する懸念を生み出した。この懸念は日本で実現した。デフレーションの最も有名な事例は1929-1933の大恐慌だろう。価格は4分の1下落し産出は5分の2下落した。

古典派の経済学者はデフレーションを恐れていた。何故なら予期されなかった場合には債務者から債権者への所得と富の移転が起こるからだ。だが古典派はこの更に先を見ていた。古典派はデフレーションの経済に対する影響として以下のものを挙げていた。価格と賃金の粘着性、実質債務や税負担の増加、名目価値の調整の遅れによる費用の増大、将来のデフレーションの予期による現金の保蔵、その他諸々。一般的に古典派はデフレーションを予期されないものと仮定していた。

古典派は一般に戦間期または戦後のインフレーションについて書いている。そのような時期では政府は戦前の平価に戻ることをコミットしていた。そのような復元は金の価格、財の価格、為替レートがインフレーション前の価格に下落しなければならないことを意味していた。この価格の下落を達成するためには貨幣残高の縮小と名目支出水準の下落を必要とした。上述の粘着性により名目支出の減少は価格と費用を減少させるより先に産出と雇用を縮小させる。価格の硬直性により支出の減少は数量の減少として表れるだろう。売れ残った財は在庫として積み上がり生産者は生産の縮小を余儀なくされ労働者は解雇されるだろう。硬直性が価格ではなく費用に作用したとすれば支出の削減は生産物価格を費用以下へと押し下げるだろう。それによる損失は生産者に事業の縮小を余儀なくさせるだろう。だがいずれ硬直性は消滅し価格と費用は貨幣残高の縮小に比例して下落するだろう。労働者と生産者が所得と雇用の喪失を経験した後に経済活動は自然水準へと回復するだろう。

古典派はこれらの現象を貨幣数量説と粘着価格の仮定のもとで整合的に分析していた。数量説はデフレーションの原因を貨幣残高の減少と見做していた。粘着価格の仮定は一時的な生産や雇用への影響を説明していた。これら2つの柱により貨幣の短期非中立性と貨幣の長期中立性とを融合させていた。デフレーションの影響とその伝播するメカニズムにおいて古典派の中では概ね合意が出来ていた。

だがそれは政策に関する具体的な合意にまでは至らなかった。古典派の数量説の枠組みによればデフレーションを避ける方法は貨幣残高の縮小を避けることだ。しかしその処方箋に対する反応はそれぞれの古典派経済学者の中で異なっていた。完全雇用を選好する者はインフレーション後の高い価格を受け入れるべきだと考えていた。処方箋が金本位制と対立するものであったとしても後者の方が問題だと見做していた。完全雇用の提唱者は金本位制を廃止して管理された兌換制と変動相場制に移行することを提案していた。戦前の金平価への復帰を望んだ者も貨幣残高の縮小に同意したもののデフレーションのコストを最小にするために穏やかなペースで移行することを提案していた。

前述の古典派の貢献は彼らのものとして認識されることは決してなかった。私の知りうる限りでは古典派のデフレーション理論について系統的に調べたものは存在しない。その代わりに、アービング・フィッシャーのデットデフレーション理論や名目利子率、実質利子率の区別、クヌート・ヴィクセルの完全に予期されたデフレーションの概念、ウィラード・ソープの実証分析などの新古典派の文献(1870-1936)への参照を目にすることがほとんどだろう。これらの新古典派の文献はよく知られているものの対照的に古典派の文献はほとんどが無視された。この研究はその欠落を埋めるものだ。6人の古典派経済学者の豊かで整合的なデフレーション理論に焦点をあて間違って新古典派の経済学者のものとして扱われているその理論の構成要素が現在でもなお生き残っていることを示す。これら6人はデフレーションについて述べた古典派経済学者のすべてでは決してない。それでも彼らは影響力という点に関して際立っている。彼らの著作は古典派のデフレーション理論を代表している。

1. DAVID HUME (1711–1776)

古典派のデフレーション理論はDavid Humeから始まる。他の古典派と違い彼は当時の時事問題からではなく彼の著作の百年以上前の出来事から考えを得た(1560から1650のスペインの新大陸での植民地からの銀の流出に関連する経済の停滞)。彼の著作は古典派の理論の主要部分を確立したという点で重要だ。彼によればデフレーションは情報の不足により予期されていないか認識されておらず価格は貨幣残高の変化に遅れて反応しそれ故その貨幣残高の縮小は短期において実質変数に対して非中立の効果を与えるという。中でも彼の著作は価格が粘着的な場合でのデフレーションの影響と価格が伸縮的な場合でのデフレーションの影響を描いて見せている。

1752のエッセイ「Of Money」の中で彼はデフレーション的な貨幣残高の縮小が粘着的な価格を通して一時的に産出と雇用を減少させると主張している。粘着価格は(彼はこれを価格設定者の貨幣残高に関する不完全情報とその変化に対する対応の失敗に求めた)デフレ圧力が価格を下落させるより先に実質数量にまず影響を与えることを意味していた。貨幣数量説をMV=PQとしMを貨幣残高、Vを貨幣乗数、Pを物価水準、Qを実質数量とするとVを一定として(彼はいつものようにこう仮定していた)Pが粘着的ならばMの下落は総需要MVを減少させることにより一時的な財の供給過剰となり価格が下落するより前に生産者にQをカットさせ労働者を解雇させるように強いる結果とならなければならない。貨幣残高の縮小は彼によれば「商品価格の同時の比例的な変化を伴わない。物事が新しい状況へと適応する前には必ず期間がある。そしてこの期間は(産業にとって壊滅的なのであるが)貨幣が減少している場合に発生するだろう」。ここには単なる債権者-債務者間の分配効果以上のデフレーションの影響に対する古典派の認識の源がある。

これらの有害な効果を記述する際に彼は「貨幣が減少する国家は十分な貨幣で満たされしかもそれが増加している国と比べて弱くそして不幸であろう。労働者はかつての雇用を得られずしかも市場にあるすべての物に対してかつてと同じ価格を支払わなければならないだろう。農家は穀物や家畜を処分することが出来ずしかも地主に対してかつてと同じ地代を支払わなければならないだろう。結果として起こる貧困、困窮、嘆きが簡単に見て取れるだろう」。この考えが後の古典派経済学者に大きな影響を与えた。

デフレーションのコストを分析する中で彼は一度限りの貨幣残高の縮小と連続して起こる貨幣残高の縮小との効果を区別した。一度限りの縮小は短期に一時的な損失を与えるだけで長期ではそのような損失は起こらない。始めに貨幣残高の縮小は経済活動を低下させる。だがその停滞はやがては終了し物価水準の低下だけが残る。この段階では彼は後にスウェーデンの経済学者であるP. N. Christierninが詳細に描いて見せたデフレーションのミクロ的基礎のヒントを仄めかしただけだ。彼は価格(と賃金)は価格(賃金)設定者が在庫が増えたり未活用の労働が尋常でないほど増加したことに気づきこれらを価格(賃金)の下方調整へのシグナルとして解釈した場合に初めて下落を開始すると示唆した。この修正はすべての認識過誤が消滅するまで続きその後経済活動は自然水準にまで回復する。これが古典派の貨幣の短期非中立性、長期中立性の教義の源流だ。

彼は長期の中立性は一度限りの貨幣の縮小に対しては成立するが継続する貨幣の縮小に対しては成立しないと主張し後者は持続的な影響を与えると考えていた。彼の説明はシンプルだ。連続する貨幣の縮小は主体の情報の欠如により部分的にしか予期または調整することが出来ず情報の欠如は主体に静的な期待を抱かせ現在の貨幣残高と物価水準が将来に渡っても続くであろうとの期待を抱かせる。そのような貨幣の予期されない縮小は常に価格の粘着性に一歩先行し主体に持続的な調整を強いる。結果は貨幣の縮小が先導して物価の低下が漠然と続くことになる。そして持続的な経済活動の低下を生み出す。(一度限りの貨幣の縮小に対して)古典派の貨幣中立性の提唱者であった彼は継続する貨幣の縮小に対しては長期の非中立性が成立すると考えていた。

注2 前述の同一の貨幣残高から出発し一方は負の変化をもう一方は正の変化をしている2つの国について彼は言及している。ここには長期の実質変数に対して重要なのは貨幣の量ではなくその変化率だという彼の考えが示されている。

前述の説明は粘着価格の仮定が支配する閉鎖経済に向けられたものだった。だがその仮定は開放経済へと分析が向けられた場合には取り除かれる。今では価格は伸縮的となり正貨流出入機構によりそのような現象は迅速に取り払われるだろうと考えていた。

「デフレーションを発生させよう」。彼は「Of the Balance of Trade」の中でイギリスの貨幣残高の5分の4が価格の同時比例的な下落を伴って一夜にして消滅すると思考実験した。すぐにイギリスの財は世界市場に対して安くなり他国の財を圧倒するであろうと。

輸出の拡大と輸入の縮小は金の流入を伴った貿易黒字を生み出すとした。金の流入は国内の貨幣供給と総支出を拡大することにより国内の物価をデフレーション以前の水準まで引き上げるであろうと。これらのことは瞬時に起きるのでデフレーションは極めて短い期間で収束するであろうと。さらに「我々が失った貨幣を取り戻させ近隣諸国と同一の物価水準へと引き上げさせざるを得ないであろうと」彼はレトリックを込めて述べる。実際に他の文章の中で彼は商品間の裁定により自国と他国の価格差は瞬時にして消滅するであろうと仄めかしている。

彼の結論は、金の量を需要に対して可能な限り速やかに増加させよ、そうすればデフレーションは開放経済下においては最悪でも一時的な問題であるとし深刻な問題にはならないであろうというものだった。デフレーションは貿易収支を通した貨幣の拡大により自己修復的な現象となるであろうと。結果は彼の価格の慣性の重要性を強調するものとなる。価格の慣性により閉鎖経済では粘着的価格により苦痛を伴い開放経済では伸縮的な価格によりその苦痛は穏やかなものとなる。

2. PEHR NICLAS CHRISTIERNIN (1725–1799)

ヒュームは恐らく金本位制と固定相場制の国に対するデフレーションの分析を行った最初の古典派の経済学者だった。Pehr Niclas Christierninはウプサラ大学で経済学の講師をしていたスウェーデン人で純粋な紙幣本位制と変動相場制に対して分析を行った最初の古典派の筆者だ。スウェーデンは1745に兌換制へと転換し7年戦争の期間中インフレーションに苦しめられていた(1755-1762)。彼はその期間の最後の年に著作を残している。インフレーションが許容できない水準にまで達したのでスウェーデンの政府はその対策を考慮し始めたところだった。政治家の中のある集団はインフレーション以前の物価水準へ復帰するためにデフレーションを提案していた。

彼はその政策に反対した。1761の講演で彼は最善の方法は既に起こったインフレーションを許容し現在の物価水準のもとで価格を安定化させることだと述べた。物価の水準はそれが大きなものであれ実質変数にとってはそれほど重要ではないと。主体はどのような物価水準にも適応し既知のもののように振る舞うであろうと。だが彼らはその水準からの変化には耐えることが出来ない。どのようなことがあっても物価を下落させてはならない。繁栄を破壊し経済を不況へと陥れるだろうと。彼の懸念は1768に政策当局者が物価水準を半分にすることを決定したことにより現実のものとなった。

ヒュームの意見は彼の「デフレーションは貿易と産業と一般の幸福を減少させる」という主張の中に反映されていた。ヒュームと同様に(ヒュームの著作を彼は知っていた)彼は価格-賃金の粘着性がデフレ圧力を産出と雇用の減少へと転換させるものと見ていた。価格と賃金の調整が遅れるために(後者は前者に対して特にそうだ)貨幣の減少は実質賃金の上昇へとつながり(実質)利潤を低下させ(実質)支出は減少し貨幣賃金と価格が完全に低下するまでの間、経済活動を停滞させるだろうと述べた。その期間では国内と海外との取引の間で停滞が起こるだろう。

国内部門ではヒュームの粘着価格以外のいくつかの要因がデフレーションの効果を増大させるだろう。彼によるとそれらの要因とは、望ましくない在庫の蓄積(ヒュームによって述べられていた)、債務の実質価値の増大、税の実質負担の増大、デフレ期待(貨幣を保有することにより得られる予想利益率)が増大させる現金の退蔵だ。これらすべてが実質で見た支出を阻害し経済を潜在水準以下へと低下させることになる。

そして輸出部門では貨幣の減少の結果としての為替の増価は粘着価格と併せてその国の財を他国の通貨から見て高価なものとさせる。その国の財に対する外国の需要を低下させ輸出材の国内生産を減少させる。増価した為替レートは外国の財の価格を自国の通貨から見て安価なものとさせ国内需要を輸入へとシフトさせるだろう。輸出部門と輸入競合部門の活動を低下させることにより「外国通貨の下落は我々の国家の商業と産業にとって最悪の結果となるだろう」と述べた。

既に彼がヒュームの著作に更なる改良を加えていることが示されている。彼はデフレーション理論をヒューム以上に推し進め近代的な分析へと大きく近づけた。それは少なくとも3つの要素を含む。第一はヒュームの粘着価格の洗練だ。ヒュームとは違った要素が追加されることになる。「価格が上方に調整するのは簡単だ。しかし価格が下落するのは常に困難を伴う」と彼は述べる。

第二にヒュームによって仄めかされただけであった価格と賃金の粘着性のミクロ基礎をはっきりと言明したことだ。「誰も」と彼は述べる。「売上の低下がそう仕向けるまでは自分の商品の価格や労賃を下げないだろう。この条件のために労働者は苦しみ賃金獲得者は現在の市場価格が低下する前に生産を停止しなければならない」。言い換えると生産者と労働者は価格と賃金を供給が余った場合にのみ引き下げるだろう。財と労働の余剰の増価は価格と賃金を引き下げる契機となるシグナルを形成するだろう。

第三に最も重要なこととしてヒュームが挙げたもの以外のデフレーションの効果がある。これらには(1)消費と投資の減少、(2)望ましくない在庫の蓄積、(3)実質で見た税負担の増大、(4)実質で見た債務負担の増大とそれに関連する倒産の連鎖、(5)デフレ期待の増大(財ではなく貨幣を保有することにより得られる利益の増大)とその結果としての貨幣の退蔵、(6)相対価格構造の変化、(7)為替レートの増価がある。印象深いリストだろう。

このリストの中で消費と投資の減少に関して彼は以下のように述べている。「銀行紙幣の減少は全員の消費を減少させすべての部門の生産を縮小させるであろう[資本財生産部門も含めて]。資本の欠如[労働者の雇用とさらに生産性を高めるのに必要な]は失業と労働者の労働意欲の減退を意味し産出の減少へとつながるだろう」。望ましくない在庫の蓄積に関しては「貨幣の不足は財の需要を減少させ生産を阻害するであろう」。実質で見た税負担の増大に関して「貨幣の形態で課せられ支払われる税は価格が下落した場合に以前と同額の税を支払うのにより多くの労働と財を必要とするのでその負担を増大させるだろう」と述べている。

更に続ける。実質で見た債務負担の増大とそれに関連する倒産の連鎖に関して「価格が下落した場合に債務者は彼の債務を返済するためにより多くの労働と商品を必要とする。債務はより返済するのが困難となるだろう。倒産が起こり一つの倒産がより多くの倒産を引き起こすであろう」。デットデフレーションの連鎖は「すべての債務者に(債務の支払いをするために)価格がさらに下落する前に彼の持つすべての財を売却したいと考えさせるだろう」。売り抜けることを望んで市場を財で溢れさせている売り手はだが消費者が「低価格でしか財を購入しないことに気付くだろう。そして例え消費者が購入したとしても(さらに債務が支払われたとしても)銀行への元本の償還は新たな貨幣の循環の減少を引き起こすだろう」。結果は「完全な信用の崩壊となり」そして「債権者は債務者の支払い能力の欠如を恐れて貸出を行わなくなり債務者は価格の下落が[債権者の貸出意欲を低下させそれにより金利が上昇するので]債務負担を増大させるので借入を行わなくなるだろう」。

これらの現象に対する詳細な説明は1933のフィッシャーの著作まで待たなければならなかっただろう。それまでは彼の説明が標準を為していた。

同様に彼のデフレ期待の説明と結果としての貨幣の退蔵に関する議論は1920年代まで標準となっていた。この期待が生み出す現金への需要に関して「デフレーションは投機と退蔵が原因となって貨幣への需要を増加させる。貨幣供給の減少の結果として銀行紙幣がより価値を増してその結果すべての価格が低下することが一旦明らかになると全員がその時の到来を待つようになりその時が訪れるまでは本当に必要なもの以外の購入は控えられるようになるだろう。その代わりに現金が退蔵されるだろう」と述べている。

3. HENRY THORNTON (1760–1815)

Christierninの著作はThorntonの著作より先だったとは言え彼(ロンドンの銀行家で内閣の一員であり貨幣理論に関する19世紀の最も有名な2つの著作のうちの1つの筆者)がそれを知っていたと考える理由はない。Christierninはスウェーデン語で書いていたのでThorntonと彼の同時代人には読めなかった。そしてThorntonはChristierninと重要な点において意見を異にしていたからだ。両者とも価格の上昇を戻そうとする行為がもたらす結果を恐れていたことでは共通していた。しかしChristierninが価格の上昇を単に紙幣の過剰発行に求めたのに対してThorntonは実質的な要因もまた原因であると考えていた。Christierninは貨幣の過剰発行を元に戻そうとすることに反対したがThorntonは混乱を避けるために穏やかな速度で戻すことを望んだ。彼は貨幣残高の一部である紙幣の過剰発行は金が流出した後でも(彼の時代では金はまだ硬貨として流通していて輸出のために溶かすことが出来た)持続的な影響をもたらすと考えていた。つまり紙幣の過剰発行は価格を高止まりさせてその国の商品の世界市場での競争力を奪うだろうと考えていた。それは貨幣的要因というより実質的要因による価格の上昇だった。実質的要因は紙幣の過剰発行と異なり一時的で自己修復的傾向を持っていた。そのようなものを貨幣の収縮を通して修復しようとすることは意味のないことのように思われた。

彼は差し迫ったナポレオン戦争がイングランド銀行にその紙幣と金との兌換を停止させた銀行制限時代(1797-1821)の最初のインフレ期に著作を残している。正貨支払いの停止と不換紙幣体制への移行は財、金、外国通貨の価格の上昇という結果になった。地金主義者として知られる古典派の集団はこの原因を単に紙幣の過剰発行に求めイングランド銀行が兌換を停止して紙幣の過剰発行を招いた責任を追求した。この純粋な貨幣的要因に対する説明に対して彼はイングランド銀行の責任であると主張するためにはインフレーションが何年か継続しなければならないと主張した。短い期間においては銀行の制御外の負の実質要因が真の原因かもしれない。

彼が要因に挙げたものは国際収支への非貨幣的な撹乱要因だった。これら撹乱要因には飢饉、戦争、同盟国への資金援助、外国での軍隊の維持が挙げられる。これらは国際収支を赤字にする要因になる。

当時はその赤字をデフレ的な貨幣の縮小で修正するのが一般的だった。そのような修正はその国の財を自国と外国において安くし輸出を促進し輸入を制限することにより外的均衡を回復することが出来た。だが彼はこの処方箋は輸出と輸入代替品のために利用可能な財の生産を減少させ国際収支を改善するよりもむしろ悪化させるとして反対した。その説明として彼はヒュームの粘着価格以外の経路を挙げることが出来た。

第一の経路は貨幣需要要因だ。Christierninと異なり彼はデフレ期待による貨幣退蔵の影響を主張しなかった。彼は製造業者と商人が取引を行うため、卸売業者に支払いを済ませるため、労働者に賃金を支払うために貨幣に対する需要が発生すると述べた。

この一定の貨幣需要に対して貨幣残高の突然の急激な減少は現金の不足を生み出し経済を停滞させるだろう。貨幣残高を元の望ましい水準にまで回復させようとする商人たちは「製造業者からの購入を遅らせその結果として商業は停止するだろう」。この商業活動の停止は製造業者の生産と雇用に影響を与えるだろう。その影響は商人よりも製造業者の方が大きい。「以前よりも即時決済のための資金が不足し」その一方で労働や原材料に対して支払いをするので「お金が出て行くが入ってこない」状況を作り出すからだ。この懸念により「貨幣の尋常でない不足が故に製造業者は商品の売値が利益の出る水準であったとしても生産を緩めるように強いられるだろう」。要約すると商人が購入を遅延させることが貨幣に対する超過需要を製造業者の財に対する需要不足へと転換する。

彼の第二の経路は粘着的な貨幣賃金だ。価格が下落した場合に賃金が下落しなければ名目賃金の粘着性は実質賃金の上昇と利潤の減少へとつながり雇用と生産の動機を破壊するだろう。Christierninはもちろん同じ事を述べていた。

Christierninは価格下落時の粘着性の原因や源については何も述べていない。ここにThorntonの優位点がある。彼はこの源を当時の金本位制のもとでは(ナポレオン戦争期間中には一時的に停止されていたが)価格の下落は一時的で元に戻されるという労働者の信念に求めていた。下落した価格がすぐに元の水準に戻ると予想している労働者は移行期間中に賃金カットに中々応じないだろう。彼の1802のPaper Credit of Great Britainの中で彼は全容を古典派に並ぶものがないだけでなく現在においても超えられていない明晰で正確で明察な文章で表現している。

製造業者の価格の逓減はあまりに大きく下落した場合には商品を製造する労働を停止させるかもしれない。工匠は商品の売上が極端に悪い場合には手を休めるかもしれない。銀行紙幣の逓減が同様の商品価値の逓減を生み出しそれに賃金の逓減が伴うと仮定すれば在庫の損失が残るとはいえ生産の意欲はそのままとなるだろう。だが慣れ親しんだ水準からの急激で突然の銀行紙幣の減少は尋常でない苦痛を生み出しそこから価格の下落が生じてくる。だがその価格の下落は対応する賃金の下落を生み出さない。価格の下落と苦痛は一時的なものと理解され(我々もよく知っての通り)賃金は財の価格のようには変動しない。よって尋常でない価格の下落は生産の大幅な停止を招くと恐れる理由がある。

彼の第三の経路は遊休資源と資源の誤配置が引き起こす無駄と非効率性だ。これは「紙幣の逓減がそうでない場合と比べ産業を非生産的にする」ことによって起こる。彼は生産計画が中止し捨てられそれに従事していた労働が失われるような資源投入の浪費へとデフレーションが導くシナリオを描写する。設備は何も生み出さない期間には閉鎖される。売れ残った財は物理的減耗と老朽化により価値を失い在庫として積み上がる。現金を渇望する生産者は流動性を確保しようと財を投げ売るだろう。これらの理由により彼は「(生産が)消費に応じて変動しすべての商品を生産者の手から消費者のもとへと送り届けていたもの、これは産業を生産的にする手段の一つなのであるが、さらに富をもたらしていたものは停止するだろう」と述べる。

さらに「紙幣の制限は産業の制限のみでなく資源の誤用へとつながる」。この無駄は生産のさらなる縮小を招き「富の逓減と輸出財の減少へとつながる」。要するにデフレーションにより効率性は損なわれその結果として生産をさらに押し下げる。

彼は実質要因に生じた国際収支の赤字であろうとデフレーションによって輸出の促進と輸入の制限を行うことは間違った方法であると結論した。デフレーションは「そのような圧力を商業の世界に加えることにより必然的に製造業者の労働の中断を引き起こす。それは輸出可能な財を増加させ輸入材に対する超過により金を国内へ流入させるのに適した方法では明らかにない」。撹乱要因が自身を修正するまで紙幣はそのままかまたは紙幣の増加によって撹乱要因を乗り越えた方が良い。

まとめると彼の意見はこうなる。紙幣の過剰発行による価格上昇はデフレートせよ(*ただし穏やかな速度で)。だが国際収支に対する撹乱要因を是正するためには決してデフレートするな。そのようなデフレーションは先程述べた経路により輸出可能な財と輸入競合財の生産を低下させ貿易収支に対して逆の効果を与えるだろう。この場合のデフレーションは実質要因が一時的であり国際収支は自ら是正するので不必要であろう。

4. DAVID RICARDO (1772–1823)

古典派の中でDavid Ricardoは貨幣と物価水準の変化は短期においても長期においても実質変数に対して影響を与えないと考えていると思われてきた。しかしこの評価は妥当ではない。彼のデフレーションのコストに対する認識は金の市場価格と法定価格の等価性を回復させようとする彼の政策ルールの根底を為していた。兌換性の再開にあたって彼は金の市場価格と法定価格の価格差が小さな場合にデフレートすることを提案していた。価格差が大きな場合には金の市場価格を過去の法定価格へと引き下げるのではなく法定価格を現在流通している金の市場価格へと引き上げることにより価格差を取り除くことを提案していた。彼は更にデフレーションを慎重に推し進めることとデフレーションを悪化させる政策の誤りを取り除くことを推奨していた。

彼は銀行制限時代の第二のデフレ期(1815-1821)に著作を残している。戦争期間中に金の価格は大幅に上昇し地金は法定価格に対してプレミアムを要求するようになった。金の兌換性の再開の決定はこのプレミアムの縮小を意図していた。紙幣を法定価格で金に変換出来ればそのようなプレミアムは存在することが出来なくなるだろう。裁定取引によりプレミアムは消滅する。だが政策当局者はどちらの価格(市場価格か法定価格か)が調整するかを法定平価を通して決定することが出来る。金の市場価格を戦前の金の法定平価まで下落させるか金の法定平価を現在の金の市場価格まで上昇させるかによって2つの価格の等価性を確保することが出来る。1つ目の選択肢は貨幣残高の縮小を意味する。2つ目の選択肢は戦間期の金価格の上昇を受け入れて金の法定平価をその水準で維持し貨幣残高を変更しないことを意味する。

彼は2つの前提条件付きで1つ目の選択肢を好んだ。1つ目は金の市場価格と法定価格の差が大き過ぎないことだ。5%の差を取り除くことはよく30%の差はだめだ。30%以上の差になると彼は戦前の金の法定平価への復帰を取りやめた方がよいと考えていた。戦前の平価に復帰するのではなく価格をそのままにしておくほうがよい。1821の9月にJohn Wheatleyへ宛てた手紙に書かれてあるように「私は政府に30%以上のデフレによって通貨価値を回復させよと提案したことは一度もない。私は平価を引き上げて減価した状態で通貨価値を固定しそこからの更なる変動を起こさないことを推奨するだろう。私が推奨したのは5%以内であって30%以上のものではない」。

彼の助言は単なる歴史的資料以上の価値を持っている。彼は今日で言うところのインフレーションターゲットとプライスレベルターゲットの違いについて述べている。価格水準の上方への上昇に直面した中央銀行はどうすべきか?そのような上昇を受け入れてそれから新しい高い価格水準でインフレ率を安定化すべきか?それとも上昇を受け入れずに昔の目標水準に価格を戻すべきか?彼の意見ははっきりしている。金の市場価格と法定価格の差が大きい場合には彼は上昇を受け入れた。価格をデフレートするのではなくそのまま受け入れた。既に起こってしまった価格の上昇を受け入れる一方でこの水準からの更なる上昇を防ぐために兌換性を再構築した。だから彼のは価格水準を再設定するという意味で厳密なインフレーションターゲットではなかった。

彼の第二の前提条件はデフレーションは、一度イングランド銀行がそれを起こすと決めたのであればゆっくりと行わなければならないというものだ。Thorntonの著作の影響からか彼は急激なデフレーションは経済を破壊すると考えていた。「貿易と商業に対して最も破壊的な結果を伴うだろう。荒廃と恐慌をもたらすので通貨価値を回復する手段としては得策ではない」。急激で突然のデフレーションは絶対に避けなければならない。漸進主義が小さな価格差を埋めるためのデフレ政策の鍵となる。「(ゆっくりと)段階的に行えば」と彼は述べる。「わずかの不利益しか感じられないだろう」。この関連で彼は一時的な減価を、つまり市場価格が適合するであろう一時的な法定平価を設定してそれから両者を以前の水準へと戻していくことを提案した。

彼の漸進主義は合理的期待に関しては特に述べていない。だがルーカス、サージェント、ウォレスが教えるように完全に予想させたデフレーションは実質変数に影響を与えないことが知られている。イングランド銀行の旧平価への回帰の事前通告はこの格好の事例だ。イングランド銀行は漸進主義ではなく不況の恐れなくすぐにでもデフレーションを起こすことが出来る。

彼の主張では、また他の多くの古典派の粘着価格の系譜のもとでは完全に予想された貨幣残高の縮小であっても生産に負の影響を与えることを記さなければならない。その場合では期待の錯誤ではなく価格の粘着性が損害を与える。即時のデフレーションはリカードの著作から100年後、スウェーデンの経済学者Knut Wicksellが伸縮価格と合理的期待のもとでの事例を明らかにするまでは見られなかった。「価格の下落が前もって明らかにされはっきりと予想されるならば」とWicksellは述べる。「事業主は貨幣価値の増加を考慮に入れて損失を被らないようにしなければならない」。合理的期待と伸縮価格により貨幣残高の縮小は実質変数に対して中立となるので政策当局者は一気に元の平価へ戻すことが出来る。ここではリカードの分析の重要な構成要素が欠けている。

彼の最大の懸念は兌換性の再開にあたってイングランド銀行の政策ミスがデフレーションを悪化させることにあった。特に彼はイングランド銀行が金の世界市場での需要に対して大きな影響を及ぼすことを懸念していた。この需要は金の価値を競り上げまたは言い換えれば金から見た他の財の価格を下落させるだろう。この価格の下落によるデフレーションは金の貨幣価格のデフレーションをより一層押し進めて(その他の)財の貨幣価格に2重の下押し圧力を加えるだろう。

リカードの議論は極めて独創的だ。財の貨幣価格Pは定義により金の貨幣価格Gと財の世界実質金価格Rとの積P=GRに等しい。彼は兌換性の再開に伴うデフレーションは2つの要因から発生すると考えていた。第一の要因は金プレミアムの下落、または金の貨幣価格Gの下落で平価に復帰するために必要なものだ。第二の要因は金の世界供給量を固定的として兌換性の再開の結果として生じるイギリスの追加的な金需要によって引き起こされる財の実質金価格Rの下落だ。

後者の要因を防ぐために1816のProposals for an Economical and Secure Currencyの中で彼の有名なインゴット・プランを発表する。そこではイギリスの貨幣は金塊によって価値を保証された紙の紙幣のみで構成される。そのような紙の紙幣は金貨に対して大きな利便性をもたらすだろう。紙の紙幣は、準備比率の変動という費用を伴うが容易に増大させたり縮小させたりすることが可能で貨幣需要の一時的な変動を大きく緩和するだろう。

注7 「商人が(商売の先行きに関して)自信を持つときは常により多くの貨幣が必要とされる。紙の紙幣の優位性はこの追加の量に対して(追加の需要に対して)通貨全体の価値の変動を引き起こすことなく即時に供給できるところにある。一方で金属の通貨はこの追加の量に対して即時に供給することができない。さらにそれがようやく供給された場合であっても通貨自体の価値が増加していることに気づくだろう」

だがこれ(貨幣需要の変動の緩和)だけがこのプランの利益ではない。彼はもっと本質的なものを主張していた。金貨を廃止することによりさらにイングランド銀行の準備の必要性を根絶することによりインゴット・プランは固定的な金の世界供給量に対してイギリスの金への需要を最小化することが可能となる。金塊に対して輸出需要や産業からの需要があるのは事実だ。だがそのような需要は金貨やその準備に対する需要と比べればわずかだ。

イングランド銀行の準備保有の必要性を解放することによりイングランド銀行は世界の金市場から切り離され結果として財の金価格Rにわずかな低下圧力しか加えないだろう。金の実質価値がほとんど変動しないので商品価格Pのデフレーションは正貨の名目価格Gの下落に限定されるだろう。

彼は彼の計画のもとではデフレーションは5%に満たない水準に抑えられるだろうと推計していた。だが議会もイングランド銀行も彼の計画を採用しなかった。議会は彼の計画が実行可能か検討しなかったしイングランド銀行は金庫を金で満たした。この金は世界市場から吸収されたものだ。デフレーションは彼が推計したものの2倍になった。この超過のデフレーションは兌換性の再開にあたって彼が政策ミスとして非難していたものだ。

要約すると彼の価格の下落に関する懸念は提唱する政策ルールの中に明らかに見て取れる。目標水準からの小さな価格の乖離に対してのみデフレートせよ。大きな価格の乖離に対してはデフレートせずに価格の上昇を受け入れよ。デフレートしなければならない場合であってもゆっくりと行え。デフレーションを悪化させる政策ミスは避けよ。

5. THOMAS ATTWOOD (1783–1856)

銀行制限時代の筆者でバーミンガムの銀行家であったThomasAttwoodは最も急進的な反デフレ論者だった。彼はリカードの提案のいずれにも賛成しなかった。それらのすべて、漸進主義や切り下げを含め金の市場価格を安定させる構想が少なくとも完全雇用が達成されていた時期のピークを下回ることを意味する場合には。リカードの価格安定化の目的は戦後の恐慌に最も強く打撃を受けた地域にいた彼にとって有害なものに思われた。「第一にして最も重要な使命は」と彼は述べる。「労働に対する需要を回復させ国中にそれを行き渡らせることである」。需要を増幅させることにより「労働に対する需要は恒久的にその供給を上回る」と彼は述べる。

彼にとって完全雇用は最優先の政策目標で価格の増加がそれを確保する本質的な手段だった。政府は「完全雇用が達成されるまで通貨を減価し続ける義務がある」と述べる。政策当局者は裁量的な天井ではなく完全雇用と両立する水準まで価格の上昇を認めるべきだ。この水準(ただし超えてはならない)までのインフレーションは許容可能であるしまた望ましくすらある。「通貨を減価した際には、産業の利潤を回復させ、自信を回復させ、生産を回復させ、消費を回復させ、国家の繁栄を構成するすべてのものを回復させることが出来るだろう」。だがデフレーションは「雇用を減少させ貧困を生み不幸を呼び寄せ国家を衰退させるだろう」ので避けなければならない。

彼の同僚よりもよりデフレーションを恐れたのはデフレーションがゆっくりと不均一に破壊的に価格機構を通して機能すると考えていたからだ。「価格が急激に全般に均一にすべてのもので下落するならば」彼は述べる。「債務と負債の額が同時に同率で下落することがよく理解されているならば消費や生産に打撃を与えないということがありうる。その場合には損害も利益も発生しないだろう。だが下落が最初の商品から次の商品へと知られないままに発生するならばまた対応する債務と負債の減額が起こらないならば繁栄を破壊し生産を縮小させ雇用を減少させる効果を持つだろう」。

同じく重要なこととしてデフレーションは生産物価格を賃金とその他の契約で固定されている費用以下に押し下げる。そして「商品の価格が固定費用の範囲内まで落ち込んだ場合その産業は死に至る」。なぜなら価格と費用の差である利潤が消滅しそれにより生産の手段とその目的が失われるからだ。生産と雇用は自己強化的なスパイラルで縮小する。固定的な費用要素と伴って利潤を減少させた価格の下落により在庫の山が積み上がる。この積み上がった在庫の山が価格と利潤にさらなる下落圧力を加えまた新たな在庫の山が積み上がる。この運動は在庫が尽きるまで続きその結果として財の不足が発生し価格が上昇を始める。そこが景気循環の谷となる。この循環は多くの失業者を生み出し事業主に打撃を与える。これらの理由でデフレーションを避ける事が重要だ。

彼にとって選択は明白だ。拡張的政策を行え。完全雇用を達成するまでインフレートせよ。イングランド銀行に「王国のすべての労働者が増加した賃金で再び雇用されるまで紙幣の循環を増加させる」ように要請せよ。一旦雇用目標が達成されたならばその水準の金の市場価格を受け入れそれを新たな法定平価として定めよ。金のプレミアムを取り除くために決してデフレートするな。金の準備が枯渇しそうな場合であってもデフレートするな。代わりに金本位制を廃止して変動相場制と不換紙幣へと移行する準備をせよ。後者の選択肢は政府に外的要因に左右されることなく完全雇用の目標を達成する自治権を与えるだろう。

6. ROBERT TORRENS (1780–1864)

Robert Torrensの関税を理論に加える努力に対する言及なしには古典派のデフレーション理論の調査は完了しない。1812に彼は既に価格の下落を阻止する手段として国内の関税を引き上げることを推奨している。そのような制限は国際的な特化と分業の利点を犠牲にすることを認めてデフレーションの費用を避けることは自由貿易からの利益を喪失することを凌駕するとしている(*TPP参加がもう決定したので時効ということでいいでしょう)。

1844の彼のThe Budgetの中で彼は金本位制のもとで外国関税が国内にデフレーションをどのように波及させるかを示している。彼はこの結果を2国2財モデル(有名なキューバ-イングランド、砂糖-布地)を用いて示している。彼のモデルは各国が比較優位を持つ財の生産に特化した輸出部門を持つ。モデルはさらに両国の両財に対して弾力的な需要という特徴を持つ。

これらの仮定のもとで彼はキューバが布地に100%の関税を課せばイギリスが貿易赤字を被ることを示した。赤字をファイナンスするための正貨の流出は貿易収支が再び均衡するまでにイギリスの貨幣残高の3分の1をキューバへと送ることになるだろう。どの国であってもこの規模の貨幣残高の縮小と価格の下落には耐えることが出来ない。価格の下落は名目価値を粘着的として実質で見た壊滅的な債務の増大、賃金の増大、税の増大を引き起こすだろう。厄災的な「危機、国家の破産、革命が結果として起こりうるだろう」。

彼にとって政策的意義は明らかだ。関税には関税で対抗せよ。外国関税によるデフレ圧力には報復関税で効果を打ち消せ。そのような報復関税により「金を取り戻すことが出来るだろう。貨幣の循環は以前の水準に回復し国内の価格を上昇させ債務の圧力を軽減するだろう」。一言で言うと互恵関係だ。相手が関税を上げたらこちらも上げよ。相手が下げた場合のみこちらも下げよ。言うまでもなくそのような報復的考えは彼の同時代の古典派の考えとは相容れなかった(今日で言う囚人のジレンマ的状況を懸念していたからだと思われる)。だが彼は金本位制の世界での単独的な自由貿易と関税によるデフレ圧力との対立を強調していた。良いにせよ悪いにせよ彼の議論は国内のデフレ圧力を外国の商業政策が原因と非難する者によって今日でも用いられている。

7. CONCLUSION

(省略)