常識のような内容だと思っていたのにヴェルサイユ条約(もしくはドイツ)などで検索していると驚いた。ほとんどすべてと言っていいサイトがドイツ被害者説を展開しているからだ。敗戦国を罰しすぎたことが第二次世界大戦の引き金になったとかドイツを厳しく罰しすぎた連合国側にも責任があると言った大きな災いを生み出した(左翼的な)風評が生まれる源となった出来事なのに(その影響は恐らく計り知れないところにまで及んでいると思われる)これほどまでに嘘が語られていていいのだろうか?
World War I reparations
第一次世界大戦の賠償とはヴェルサイユ条約により決定されたドイツに課せられた支払いの事を指す。条約の第231条はドイツとその同盟国に戦争中の連合国のすべての損失と損害の責任があると宣言し賠償の根拠となった。
1921の1月にInter-Allied Reparations Commissionにより総額が1320億金マルクと決定された。しかし実際にドイツが支払うことになっていた額はこの額ではなく500億マルクだった。歴史家のSally Marksは債権Cと呼ばれる1120億マルクは完全に架空のものだと述べている。ドイツが多額の賠償金を支払うことになると大衆を欺くための仕掛けであったという。1920から1931の期間に実際に支払われた総額は200億金ドイツ金マルク(50億ドル、または10億ポンド)だった。その額のうち125億マルクは現金でこれは大部分ニューヨークの銀行からの融資で賄われたものであった。残りの額は石炭、工業製品、鉄道設備のような資産として支払われた。賠償金の総額は連合国の要求に基づいてではなくドイツの支払い能力に基づいて1921に固定された。ドイツが連合国のすべての損害とすべての軍人の退職給付を支払うという大きく誇張された1919のレトリックは賠償金の総額とは無関係であったが連合国内での配分には影響した。オーストリア、ハンガリー、トルコも賠償金を支払うことになったがその額はわずかだった。ドイツが賠償金を支払うことの出来る唯一の国で対象はフランス、イギリス、イタリア、ベルギーが大半を占めた。
支払いは1931の6月にアメリカのHerbert HooverによるHoover Moratoriumにより一度中止され1932の7月のLausanne Conferenceにより再開された。最初に決定された賠償金の8分の1が支払われた。1953のLondon Debt Agreementにより西ドイツが債務の支払いを継続することが決定した。最終的な支払いはドイツ統合20周年の2010の10月3日に行われた。
Evolution of reparations
ヴェルサイユ条約とその他の条約の締結前後に掛けて賠償金の与える影響に関して集中的な議論が行われた。イギリス財務省代表であったJohn Maynard Keynesは賠償金の総額に抗議して辞退しベストセラーとなったThe Economic Consequences of the Peaceを出版した。
1924のDawes Planによりドイツの支払額は変更された。Owen D. YoungとParker Gilbertがこの計画の実行に任命された。1929の5月のYoung Planは支払いをさらに59年間で1120億金マルクに変更した。加えてこの計画では年間の支払い(20億金マルク)を2つの部分に分割した。一つは無条件の部分で全体の3分の1を占め残りは延期可能な部分で全体の3分の2を占めた。
しかし1929の株式市場の暴落とその後の大恐慌によりモラトリアムが宣言された。1931の6月20日にオーストリアとドイツが金融危機の只中にあると考えたHerbert Hooverは1年間の世界的なモラトリアムを宣言した。イギリスはこの提案にすぐに賛成したがフランスのAndré Tardieuの反対により16日間延期された。この期間中にドイツの状況は悪化しハイパーインフレーションの恐れが再度襲ったこともあり全国的な銀行危機となった。結果としてすべてのドイツの銀行は一時閉鎖された。
ドイツの状況が悪化したこともあってLausanne Conferenceが開催され賠償金の取り消しが投票された。この頃までにドイツは賠償金の8分の1を支払っていた。しかしLausanne agreementはヨーロッパ諸国のアメリカに対する債務の支払いの延期に対する同意を条件としていた。この計画が失敗に終わったのはアメリカの議会が反対にまわったからではなくヒトラーが台頭し賠償金の支払いを拒否したためにほとんど無意味となったからだ。ドイツは200億マルクを支払った。歴史家のMartin Kitchenはドイツが賠償金の支払いに苦しめられたという印象は作り話だと述べる。弱いドイツではなくその逆が真実だ。ドイツは継続的に譲歩を勝ち取り賠償金の減額を勝ち取る程に強大だったという。
As viewed within Germany
ドイツの大衆の間ではドイツ軍が戦争で敗北したという認識はわずかだった。German High Commandは軍は戦場で敗北していないと主張し責任は文民、特に社会主義者、共産主義者、ユダヤ人にあるとした。これはDolchstoßlegende(stab-in-the-back myth)として知られるようになった。さらにドイツに戦争の責任があるという認識もわずかだったしドイツ人は何も間違ったことはしていないという感覚がほとんどであった。さらにドイツの指導者の故意の虚偽誘導による賠償金に対する憤りが募りつつあった。
Impact on the German economy
支払いがもたらした経済的問題とその立場に対するドイツの憤りがワイマール共和国の終焉とAdolf Hitlerの独裁の始まりの最も主要な要因として引用される。John Maynard Keynesは賠償金がドイツの経済と政治の安定を脅かすことになると書いている。歴史家の大多数(カナダの歴史家Margaret MacMillanの2001の本Peacemakers: The Paris Peace Conference of 1919 and Its Attempt to End Warを一例として)はこの見方を支持していない。フランスの経済学者Étienne Mantouxは1946のThe Carthaginian Peace, or the Economic Consequences of Mr. Keynesの中でドイツは賠償金を全額支払うことが出来たとし問題はドイツに支払い能力がなかったことではなくドイツに支払う気がなかったことだったと指摘している。Sally MarksはKeynesは当時ドイツの代表団のメンバーだったCarl Melchiorに恋をしており賠償金に関する認識は「休戦後程なくして休養地での交渉の場で出会った会計と賠償の専門家であるドイツのCarl Melchior(*ケインズが同性愛者であったことはよく知られている)に対する恋愛感情によって形成された」とコメントしている。
Keynesの主張に対してMantouxはドイツが戦争によって起こされた損害のすべてを支払うことは正当であると主張しKeynesの予想のほとんどが外れていることを示してみせた。例えばKeynesはヨーロッパの鉄の生産が減少するだろうと信じていたが1929までにヨーロッパの鉄の生産は1913の数字を10%上回っていた。Keynesはドイツの鉄と製鉄の生産が減少するだろうと予想していたが1927には製鉄の生産は30%、鉄の生産は38%増加していた。Keynesはさらにドイツの石炭の生産性が減少するだろうと書いていたが1929までに労働生産性は30%上昇していた。Keynesはドイツは石炭を輸出出来ないだろうと主張したがドイツの石炭純輸出は一年以内に1500万トンに達し1926には輸出は3500万トンに達した。さらにドイツの国内貯蓄は条約締結後に20億マルク以下になるだろうと主張していた。しかしドイツの1925の国内貯蓄は64億マルクで1927では76億マルクと推計されている。Keynesはドイツは以降30年間で20億マルク以上の賠償金を支払うことが出来ないと書いていたがMantouxはドイツの再軍備費は1933から1939の期間中に毎年その額の7倍に達したと主張している。
経済学者らは(Keynesを含めて)賠償金の支払いは経済的に不可能であると主張した。しかしアメリカの歴史家William R. Keylorは彼のエッセーVersailles and International Diplomacyの中で「増税と消費の削減により賠償金を支払うのに必要な輸出超過を生み出すことが出来た」という。しかしこの輸出超過と賠償金を受け取っている側の貿易赤字が政治的に難しい状況を作り出した。実際これがイギリスの1926のゼネラルストライキの要因の一つになっている。
Sally MarksはLondon Conferenceにより課せられた1320億マルクの数字は極めて誤解を招くものだという。賠償はA、B、Cに分割されていた。賠償の大半は債権Cに分類されていた。Marksはこれを架空のものと呼び連合国は債権Cを回収する意図はなくフランスの大衆に多額の賠償が支払われるとの印象を与えるためだけに存在したと語っている。連合国は債権Aと債権Bだけを回収するつもりで総額は500億マルクとなりこれはドイツが支払うと提案した510億マルクをわずかに下回る。1987にドイツの歴史家Detlev Peukertは賠償金についてこのように書いている。
「意見は賠償により予算と経済が耐えがたいほど圧迫されたというものとその正反対で負担は現在の途上国への援助と大して変わらないというものとで幅がある。正解はこの両者の間のどこかにあるように思われる。ドイツの経済が賠償金の支払いによってさらに制限を受けたというのは恐らく事実だろう。その一方で実際の支払いは完全に管理可能なものだった。賠償は少しも耐えられない負担ではなかった。さらに債務が減額されるだろうという見通しもかなり高かった」。
1920年代の初期にドイツの外交政策は2つの軸に別れていた。一つはErfüllungspolitik(fulfilment politics)というものでドイツはヴェルサイユ条約の完全履行を果たすべきでそれに失敗すれば条約の改訂につながるという恐れに支えられたものだった。もう一つはKatsatrophenpolitik(catastrophe politics)というものでドイツは壊滅的な状況を引き起こすことを目指し連合国に条約の改訂を迫るというものだ。
Marksはフランスが賠償金の担保としてデュッセルドルフを占領している限りはドイツは賠償金の全額を期限通りに支払っただろうとしている。ドイツが定期的にデフォルトを始めたのは1922にフランスがデュッセルドルフから撤退をして以降だ。Peukertは1920年代初期のドイツの経済的問題は賠償金が問題ではなく第一次世界大戦が原因だという。1914にドイツ政府は戦費を賄うために増税をしない、または新税を設けないという決定をした。代わりに「最終勝利」が達成された暁には払い戻すという名目で借入を増やし「金融的限界を試すかのように政府は貨幣の供給を増やし戦争以前には保たれていた紙幣と金との関係を徐々に取り払っていった」という。1918の敗戦はドイツが今や壊滅的な額となった債務を連合国に賠償金の形で支払わせることが出来なくなったことを意味し残された唯一の方法は通貨改革だった。Peukertは「だがドイツ保守派の政府はこの手の苦痛を伴う改革を決して行おうとはしなかった。それは戦時債や財産の押収を伴うだろう。そして反感は実際に問題を作り出したワイマール共和国ではなく新しい国家に向けられる」という。政治的に不人気な通貨改革を行う代わりに1920年代に後を継いだ政府は結果として残った経済的問題を先送りしその一方で経済に関する問題はすべて賠償金のせいであると非難することを決定した。
1922の後半までにドイツのデフォルトは巨額になりしかも頻発したのでフランスとベルギーの代表団は賠償金の担保としてルール地方の押収を要請した。イギリスの代表団は支払いの減額を要請した。1922の12月の木材の巨額のデフォルトの結果としてReparations Commissionはドイツにデフォルトを宣告し1923の1月のルール地方の占領を決定した。特にフランスを苛立たせたのはドイツがデフォルトした木材の割当はドイツ自身の供給能力の評価に基づいて決定されたものでそこからさらに大幅に引き下げられたものだったことだ。連合国の間ではWilhelm Cuno内閣が連合国を挑発するために故意に木材の供給をデフォルトしたという見方が支配的だった。火に油を注いだのは1923の1月のドイツの石炭供給のデフォルトだった。それは36ヶ月で34回目のデフォルトだった。フランスの首相Raymond Poincaréは渋々ながらルール地方の占領の指令を出した。これを決定したのもイギリスが彼の提案(ドイツにより穏やかな制裁を課す)を拒絶した後ようやくのことだ。ドイツに苛立たされながらもPoincaréはイギリス-フランスによる経済制裁に望みを託し軍事行動に反対していた。だが1922の12月に彼はイギリス-アメリカ-ドイツと対立しさらにフランスの製鉄生産のための石炭、破壊された工業地帯の再建のための資金が枯渇しているのを目撃する。彼はイギリスが行動しないことに激昂しロンドンでフランス大使宛にこう書いている。
「彼ら以外が判断するところではイギリス人は(彼らは自らの忠誠心によって目を曇らされているのであるが)ドイツがヴェルサイユ条約に明記された誓約を遵守しなかったのはドイツがそれに同意していない(*遂行できないために)からだと常に考えてきたようだ。反対に我々はドイツ(平和の条約を実行するわずかな誠意さえ示さなかったのであるが)が常に義務から逃れようとしてきたのは今になってもドイツが敗北を受け入れていないからだと信じている。我々はまたドイツが国家として必要性の観点のみから誓約を破棄し続けていると確信している」
彼は1923の1月にルール地方を占領することを決心した。これは「1922に始まりドイツのルール地方の占領に対する対応によって加速したドイツのハイパーインフレを起こしてもいなければフランスの金融業界の慣行と賠償金の消滅により発生した1924のフランの下落を起こしてもいない」。占領の費用を引いた後の利益は9億金マルクだった。1923のRuhrkampf(Ruhr struggle)の真の問題はドイツのデフォルトではなくヴェルサイユ条約の不可侵性だった。彼は仮にドイツが賠償金に関して条約を無視することを許せば前例が作られ必然的にドイツはヴェルサイユ条約の残りの条文の解体に掛かるだろうとイギリスに対して抗議している。最終的には条約によってドイツを拘束していた鎖が一度取り壊されれば必然的にドイツはまたもや世界を新たな世界大戦へと陥れるだろうと彼は警告している。
ルール地方での「消極的抵抗」と併せてドイツ政府はハイパーインフレーションを開始した。2008にイギリスの歴史家Richard J. EvansはKeynesは賠償金に関して単純に間違えていたと議論しさらに1923の大インフレーションの責任はそれを選択したドイツ政府にあると主張している。フランスは賠償金の担保としてのルール地方の占領を継続したがドイツはルール地方での「消極的抵抗」と自身の経済を破壊したハイパーインフレによって世界の同情を勝ち取った。さらにイギリス-アメリカからの強い金融的圧力の下(この頃に起きていたフランの価値の下落によりフランスはウォール・ストリートとシティからの圧力に晒されていた)フランスは1924の4月にDawes Planを承諾するように強いられた。この計画の下ではドイツは1924にわずか10億マルクを支払うことになった。その後支払いは3年間に渡って増加し1927に22億5000万マルク支払うことになる。1927からはドイツは年間25億マルクの支払いをすることになる。この減額された計画の下でもドイツはデフォルトを続けた。この計画を遂行させるために1924の7月から8月に掛けてロンドンで会議が開かれた。イギリスの首相J. Ramsay MacDonaldはKeynesの賠償金の支払いは不可能であるとの意見を採用しておりフランスの首相Édouard Herriotにドイツへの譲歩を強く迫った。イギリス側の傍聴者で大使のEric Phippsは「ロンドン会議はフランスにとってゴルゴダの丘のようなものだ。M. HerriotはReparations Commissionでフランスが大切に保持してきた優位性を一つ一つ引き剥がされていった。ドイツのデフォルトに対して制裁を課す権利、ルール地方の経済的占領、フランス-ベルギーの鉄道Régie、ついにはルール地方の一年以内の撤収」と述べている。Dawes Planはドイツが初めて条約を無効化し自身に有利な方向に改定することに成功したヨーロッパの歴史にとって象徴的な出来事となった。ロンドン会議はイギリスの宥和政策が初めて主導権を握った会議だった。
Dawes Planの下での賠償金が重すぎるというドイツの苦情が受け入れられ1928のYoung Planではドイツは各種の賠償金を払うことになったもののその額は年間25億マルクを超えないことが決定された。Reparations Commissionは廃止されBank for International Settlementsに取って代わられた。この計画の実装は1929の8月に開かれたハーグの国際会議が行うことになった。この会議の最中にドイツの外相Gustav Stresemannは「無条件のラインラントの明け渡し」を5年前倒しすることをドイツがこの計画を受け入れることの条件として要求した。彼はイギリスからの強力な支援を得ていてイギリス-ドイツからの強い圧力を受けてフランスは1930の6月にラインラントから撤退することに同意した。労働党は1929の選挙で再び政権に返り咲きMacDonaldはフランスの懸念を省みることなくフランスにドイツに対して譲歩をするように圧力を掛け続けた。この計画はラインラントからの撤退の困難さが原因で1930の1月までは効力を持たないことになっていたが1929の9月に前倒しで実行され結果としてドイツは1929の9月からはDawes Planの下での額の半分以下を支払うことになった。これらのドイツへの譲歩にも関わらず1929の12月にLiberty Lawと呼ばれるこの計画を破棄しこの計画を受け入れたドイツの政治家を国家反逆罪として裁く法案を可決させようとする国民投票が要求された。
1930の9月にドイツの首相Heinrich BrüningはYoung Planの下での賠償金支払いは高すぎると主張し無条件の賠償金の全額取り消しを要求した。彼はドイツは大恐慌が原因で賠償金を支払うことが出来ないと主張していたが真の理由は外交で成果を上げて彼の極めて不人気な政権への支持を取り付けることにあった。同時に彼はgleichberechtigung(equality of status)を要求しドイツの武装を解除していたヴェルサイユ条約の第5条の破棄を望んだ。彼は大恐慌によって疲弊し減額された賠償金でさえ支払う余裕のないドイツがなぜ条約によって禁止されていた戦車、戦闘機、重砲、徴兵、潜水艦を保持する余裕が有るのかを決して説明しなかった。
Marksはドイツは500億マルクの賠償金を余裕で支払うことが出来たがヴェルサイユ条約を無効化する政治的戦略としてデフォルトを選択したという。Marksはさらに「war guilt clause」と呼ばれる第231条はそのようなものではなかったと指摘している。それが指すのは「戦争の結果として生じた損害に対するドイツとその同盟国の責任」だ。第231条が戦争責任を意味するとの主張は国際的同情を得ようとして誤解させるように誘導したドイツの政治家と擁護者の創作だという。さらにMarksは次の第232条はドイツの責任を市民に与えた損害だけに限定しておりさらに1921にロンドンで会議が開かれた際には賠償金の額は連合国の必要に基づいてではなくドイツの支払い能力に基づいて決定されたと指摘している。
1919から1939に掛けてのドイツの経済的苦境が賠償金によるものだというのは誤謬だと議論されている。ドイツは賠償金のわずかしか支払っておらず1920年代のハイパーインフレーションはワイマール共和国の政治的、経済的不安定の結果だ。実際フランスによるルール地方の占領の方が賠償金よりも経済に損害を与えた。その他の誤謬は賠償金がヒトラーが権力を得る背景になった経済的状況を招いたというものだ。ドイツは1923のハイパーインフレの後は急速に回復しており再び世界最大の経済の一つになった。
ドイツの経済は外国の投資(ほとんどアメリカからの)が流入している間は成長を続けていた。しかし1929の株式市場の暴落により賠償金の支払いの資金源となっていた外国からの資金が突然引き上げられてしまう。この暴落はアメリカからのドイツ企業への融資が途絶えたことにより増幅されてしまう。Dawes planにより減額された賠償金の支払いも主に外国からの借入によってファイナンスされていた。1924からその後に掛けてドイツは「外国からの融資の申し入れで完全に満たされていた」。これらの債務の満期が一度に到来した場合には賠償金の数年分の支払いがまるで数週間に圧縮されたような状態になった。
イギリスの経済歴史家Niall Fergusonは1998の本「The Pity of War」の中でドイツは政治的意志があれば賠償金を支払うことが出来たと主張している。彼はまず第一次世界大戦のすべての交戦国はドイツだけでなく甚大な経済的損失を被ったことを指摘することから始める。さらに1920-21にドイツの純国内生産は17%成長していたという。彼は1920のドイツの貿易収支の赤字はドイツの急激な経済成長とマルクの減価が生み出した投機によるもので賠償金の見通しによるものではないという。彼によると1920の3月以降のマルクの増価は投機によるものでこのマルクの増価が1921以降ドイツで深刻な問題になるインフレーションにつながったという。彼は1921のドイツの総債務/GNPは同年のイギリスの総債務/GNP以下だったと主張している。彼は1921のロンドン会議で課せられた年間総支払額30億マルクはドイツの国民所得の4-7%でKeynesのドイツの国民所得の25-50%が長期に渡って支払われるという主張からはかけ離れているという。同様に彼はフランスは1871から1873にフランスの国民所得の25%に相当する49億3300万フランを国家が破産することもなくドイツに支払っており賠償金がドイツを破綻させるとのドイツの主張は賠償金を支払わない単なる口実だったという。彼は1929のヤング委員会によって決定された1988までドイツが賠償を続けるとの計画はEconomic European Communityに実際に支払われた額は1630億マルクをはるかに下回っており生活水準の劇的な下落を引き起こした痕跡もないとしてそもそもYoung Planは経済的に意味のあるものではなかったと主張している。アメリカの歴史家Stephen Schukerはドイツは賠償金として支払っていた資金を大量にアメリカからの融資として受け取っておりそれらは決して返済されることはなかったと主張している。彼は1921から1931の期間にドイツは191億マルクを賠償金として支払い、同時にアメリカから270億マルクの融資を受けており1932にドイツはこれをデフォルトした。Fergusonは賠償金の問題はその額ではなく連合国が領地を賠償金支払いの担保として取らずにドイツの自発的意思を信用したことにあるという。ドイツの政治家は賠償金の支払いのための増税に抵抗を示していたのでドイツ政府は連合国が賠償金の回収を諦めるとの望みを託してデフォルトを選択したという。賠償金がなかったとしても1920から1923のドイツの総政府支出はドイツの純国内生産の33%を占めていた。彼は賠償金が課せられなかったとしてもドイツは第一次世界大戦時の債務を支払う必要と市民からの社会サービスに対する要求とによって深刻な問題に直面していただろうという。インフレーションの結果ドイツの債務は1922までに1914の水準にまで低下した。彼はドイツの1920年代のインフレーションは賠償金が原因ではなく第一次世界大戦時の(国内)債務と賠償金に対する経済的戦略としてドイツ政府の明確な意思の下で起こされたものだという。
1931の6月のフーバーモラトリアムの下でドイツは賠償金の支払いを停止した。1932の6月のローザンヌ会議で賠償金は正式に停止された。Marksは1921から1931の期間にドイツは総額で200億マルクの賠償金を支払いその大部分はドイツが1932にデフォルトしたアメリカの融資であったと計算している。こうしてドイツは第一次世界大戦の債務のほとんどから逃れその費用をアメリカの投資家に移すことに成功した。アメリカの歴史家Gerhard Weinbergはドイツが第一次世界大戦の費用の支払いから逃れるために賠償金を用いた方法についてこのようにコメントしている。「賠償金を自身の負担から交戦国の負担へと移すことにより」第一次世界大戦の債務とその他の費用に苦しんでいた連合国と賠償金も第一次世界大戦の債務も支払わなかったドイツとの乖離を一層際立たせることになったと。
Reasons for the size of the reparations demands
多くの点でヴェルサイユ条約の賠償金は普仏戦争後に調印された1871のフランクフルト条約によってドイツがフランスに課した賠償金の再現となった。フランクフルト条約の賠償は人口に基づいて計算された。これはロシアの敗退後ナポレオンが要求した賠償と等価だ。
ドイツの侵攻によって起こされたインフラへの損害もよく引き合いに出される。Margaret MacMillanは彼女の本「Peacemakers: The Paris Peace Conference of 1919 and Its Attempt to End War」の中で初めからフランスとベルギーは直接の損害に対する賠償に優先順位を置いていたと記述している。フランス北部の重工業地帯でドイツは自身の役に立つものを持ち去り残りの大部分は破壊していった。1918にドイツ軍が撤退した後でもフランスの最も重要な炭鉱が炎上しているのが目撃される有様だった。
(以下省略)
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