2017年2月22日水曜日

イラク攻撃の費用はどれぐらいだった?

Iraq: The War That Broke Us -- Not

Randall Hoven

イラク攻撃のコストは幾らだったのか?

ここに評論家たちがイラク攻撃のコストについて述べた例がある。

「ブッシュ大統領の下で、必要のないイラク攻撃の300兆円の費用のせいで財政赤字が制御不能なまでに拡大した」

James Carville, the Financial Times

「イラクへの攻撃によってアメリカの経済は大きな打撃を受け、そのダメージはサブプライム問題を凌ぐまでになった。300兆円を支出して、そう300兆円、国内でダメージを感じないことはできない」

Linda J. Bilmes and Joseph E. Stiglitz, The Washington Post

「第一に、今年度の財政赤字と来年度、さらに中期的な財政赤字の見通しのほぼすべては3つの要因から成り立っている。イラクでの攻撃とブッシュ大統領による減税と不況によるものだ。財政赤字の解決策は簡単だ。攻撃を終わらせることだ」

Christopher Hayes, The Nation

最初の質問に対する本当の正解は、CBOによると70兆円だ。イラク攻撃のコストは70兆円だった。どうしてスティグリッツが300兆円と答えたのかは共産主義者だけが答えを知っている秘密だ。だが323%の誤差はひどすぎると思ったのではないだろうか?

CBOはこのコストを2003年から2010年に分解している。以下の図にはイラク攻撃があった場合とイラク攻撃がなかった場合の財政赤字のその8年間の推移が示されている。


上の図を用いて、Christopher Hayesの主張が正しいのかどうかを検証してみよう。

イラク攻撃と減税は実質には2003年から2007年までだ。上の図から2003年から2007年に掛けて財政赤字が制御不能なまでに拡大しているようなトレンドが確認できるだろうか?確認できたという人はどこかが壊れている可能性がある。実際、2003年から2007年に掛けて財政赤字はむしろ縮小している。確認できるのは財政赤字が2008年に増加し始めたことと2009年に急増加したことだ。ではこの時に起こったことはといえば何だっただろうか?

デモクラットが上院と下院、そして大統領職を乗っ取った、それがこの期間に起こったことだ。共和党は2007年までしか予算の決定権を握っていない。2008年以降はデモクラットが予算を取り仕切っている。オバマが大統領に就任すると、彼らは早速と言わんばかりに81兆円の「財政刺激策」を通過させた(この数字もCBOによるものだ)。

2003年から2010年までの財政赤字の合計は473兆円だ。イラク攻撃の費用を差し引いてもまだ402兆円赤字が残っている。

70兆円が大した金額ではないと言っているのではない。だがそれは8年に渡って散りばめられたお金だ。第二に、それを他の観点から見ていこう。下にあるのは同様に8年間に渡る予算の合計額だ。

連邦政府の総予算額:2229兆円

累積財政赤字:473兆円

メディケアの支出:293兆円

イラク攻撃の費用:70兆円

オバマの財政刺激策:57兆円

刺激策の数字には記しておかなければいけないことがある。この刺激策という無駄は2009年までは開始さえされていなかった。CBOは2019年までにこのコストが81兆円にまで拡大すると試算している。

ブッシュ大統領が政権にいた時だけを比較すると(2003年から2008年)イラク攻撃のコストは55兆円にまで減少する。

以下に述べる数字はすべて政府自身が公開している資料によるものだ。

オバマの財政刺激策はイラク攻撃全体よりも費用が掛かった--10兆円以上(15%)もコストが掛かった。

刺激策の最初の2年間だけで、ブッシュ大統領の下でのイラク攻撃の全コストよりも余計に掛かった。

イラク攻撃に掛かった費用は連邦予算の3.2%だった(これには州や地方政府の予算は含まれていない)。

イラク攻撃に掛かった費用は同時期のメディケアへの支出の4分の1にも満たなかった。

イラク攻撃に掛かった費用はこの時期の財政赤字の15%にも満たなかった。累積赤字はイラク攻撃があったとしてもなかったとしてもほとんど変わらなかっただろう。

イラク攻撃に掛かった費用は連邦政府の債務の8%以下だった。

私は他の場所でイラク攻撃は正統で比較的うまく行ったと書いた。だがその考えに反対だとしても、イラク攻撃が経済に大きな損害を与えたと言うことはできない。

イラク攻撃の批判者たちは300%以上のエラーを犯しているだけではなく、彼らは自分たち自身とも矛盾を犯している。オバマが刺激策を議会に売り込んでいる時に、彼はこのように語っている。

「これは刺激策ではない、単なる支出策だと言う人がいる。そういう人にはこのように言い返してあげましょう。あなたは刺激策というものが分かっているのですか?(議場が笑いに包まれる)」

2年間で57兆円を支出すると経済が刺激されて、でも6年間で55兆円を支出すると経済が破綻する???

それに、ケネディ大統領やジョンソン大統領の時代には経済は素晴らしかったと私たちに数十年間も説教し続けてきたのはこの連中ではなかったのか?1961年から1969年の間では、連邦政府の支出の46%は国防支出だった。ブッシュ大統領の8年間では、国防支出は連邦政府の支出の20%にさえ達していない。JFK/LBJの時代には国防支出はGDPの8%から9%だった。ブッシュ大統領の時代には国防支出はGDPの4%以下だ。

国防支出が半分にまで削減されたというのに、1960年代の経済が素晴らしくて2000年代の経済が悪いなどということが起こりうるのだろうか?

今の質問は単なるレトリックだ。国防支出、特にイラク攻撃は2008年の不況の原因とは少しも関係がない。ロン・ポールやスティグリッツなどがそれが不況の原因だと語っているのを聞いたとしてもどうでもいいことにしか見えない。

2017年2月15日水曜日

トランプ大統領はイラク攻撃に反対したと嘘をついた?

Iraq: The Real Story

VICTOR DAVIS HANSON

ドナルド・トランプはジェブ・ブッシュはイラク攻撃を支持した一方で、自分はイラク攻撃が始まる前から反対していたと主張している。

これは完全な嘘だ。トランプが2003年3月20日の前からイラク攻撃に反対していたという証拠はない。彼は攻撃を支持しインタビューでそれをはっきりと語っている。それから反対に転じた。彼の一連の記憶違いは、イラクに関して人々が語っていることがどれだけ間違いだらけかということを改めて証明してくれている。

事実を幾つか思い出す必要がある。ビル・クリントン大統領は議会からも国連からの承認もなく1998年12月16日から19日の間にイラクを攻撃した。その攻撃の目的は「イラクの大量破壊兵器プログラムを攻撃すること周辺国を脅かす軍事能力を破壊すること、アメリカと中東の人々の国益を守ること。サダム・フセインが大量破壊兵器で周辺の国や世界を脅すような事態は阻止しなければならない」と訴えた。その時にはブッシュ大統領はテキサス州でひっそりと知事をしていた。

その数週間前にクリントン大統領はIraq Liberation Actに署名していた。この法案は360対38の賛成で下院を、全会一致で上院を通過していた。その法案は「サダム・フセインの打倒、イラクの民主主義への移行、サダムの大量破壊兵器プログラムの強制阻止を求める法案」と表立って呼ばれていた。左翼がネオコンという藁人形を捏造する遥か前に、そして「ブッシュ大統領が嘘をついた」というスローガンを大合唱する遥か前に、クリントンが警告していたようにこの法案がなければサダム・フセインは「このまま計画を続行できると結論し大量破壊兵器の製造を再開するだろう。そしていつの日にか、何らかの方法で、彼はその兵器を使用する」という事態になっていただろう。クリントン政権時代の国務長官マデリーン・オルブライトはサダムの破壊的な本能と彼が保有する大量破壊兵器のことを声を大にして警告していた(「イラクは西側からは離れているように見える。だがイラクで起こることは西側にとっても重要だ。ならず者国家の指導者が私たちや私たちの同盟相手に対して大量破壊兵器を使用するリスクは私たちが直面する安全保障上最大の脅威だ」)。事実、ほとんどの人はアメリカはサダムがクルド人に対して毒ガス兵器を使用したのを何が何でもやめさせるべきだったと思っていた。

2002年にブッシュ大統領は議会にイラク攻撃への同意を求めた。クリントン大統領がバルカン半島に介入した時やオバマがリビアを攻撃した時は議会の同意を求めなかったというのに。上院と下院はサダムの強制的な退陣を求める23の令状を圧倒的多数で採決した。行動の理由にはフセインが国連決議を幾つにも渡って無視したこと、フセインが国際的にテロリストを支援したこと(1993年に世界貿易センタービルを爆破しようとして失敗したケースも含まれる)、ブッシュ前大統領を殺害しようとしたこと、(停戦決議で合意したはずの)飛行禁止地帯を繰り返し侵略したこと、ヨルダン川西岸で自爆テロを奨励したこと、クルド人やマーシュアラブに対する大量虐殺、その他の犯罪が含まれる。その攻撃の理由のうちのわずかしか大量破壊兵器の保有には関連していなかった。

その時の議会での演説の様子を振り返ってみよう。最も声高に武力行使を支持した者たちにはJoe Biden, Hillary Clinton, John Kerry, Harry Reid, and Chuck Schumerがいる。武力行使を支持した評論家たちはAl Franken, Thomas Friedman, Nicholas Kristof, David Remnick, Andrew Sullivan, Matthew Yglesias, and Fareed Zakariaたちで全員がサダム・フセインを退陣させることの必要性を情熱的に語り訴えていた。全員が人道上の懸念を訴えていた。ニューヨーク・タイムズはサダムの統治によって100万人が暴力によって殺害されたと記事にしている。そして全員が少し前まで支持していた人々を非難した。

攻撃を支持したリベラルたちのうちで、ブッシュ政権が存在もしない大量破壊兵器の証拠をでっちあげたと主張している人はいない。それには4つの理由がある。第一に、クリントン政権と国連がサダムは大量破壊兵器の在庫を保有していると断言した。第二に、CIAが議会の指導者に対して大量破壊兵器に関するブリーフィングをホワイトハウスへのブリーフィングとは別に独立して自発的に2回行っていた。クリントン大統領が指名したCIA長官ジョージ・テネットが後に強調しているように。第三に、議会が武力行使を承認した理由のうちで大量破壊兵器の保有は重要度の低いものだった。武力行使を承認した理由はイラクがテロリズムを支援していること、国連決議の違反、イラク国民と近隣周辺国へと向けられた幾度にも渡る大量虐殺などが大部分を占めていた。第四に、武力行使は最初は順調に行っていた。

大量破壊兵器の問題は、武力行使を非難するために後付で言い出されたことだ。大量破壊兵器が見つかっていないことが他の23の令状を無効にすると本気で思っているのだろうか?

武力行使への支持は攻撃の前ではなくその後に頂点に達した。2003年4月の世論調査ではサダムの突然の失脚もあって70%から90%の支持率に上昇した。攻撃が速やかに終了したこと、負傷者がほとんどいなかったことが要因だった。

2003年6月から7月にテロが発生するようになってから、「でっちあげの」諜報活動という言葉に丸め込まれた人たちが騒ぐようになった。2003年4月には大量破壊兵器が見つからないことへの懸念がすでに語られていた。だがどうでもいいこととして片付けられた。議会は大量破壊兵器とは関係のない様々な理由を武力行使の根拠に挙げていたし、それにサダム・フセインがあれだけ派手に使った後にどこにそしてどうやって大量破壊兵器の備蓄が消えたのか不明だからだ(1998年の砂漠の狐作戦でクリントン政権がすべて破壊したのか?サダムが秘密裏にそれらを破壊したのか?威嚇のためにサダムがわざと誤った情報を流したのか?もしくはそれらはシリアに運び込まれたのか?オバマがレッドラインだと宣言した後に大量破壊兵器が現れたシリアへ?)。

2003年の6月から7月になって初めて「でっちあげの」諜報活動にそして「ブッシュとチェイニー」に騙されたと騒ぎ出す人たちが表れるようになった。初期の占領が攻撃と同じようにうまく行っていれば、大量破壊兵器の話は誰も覚えてはいなかっただろう。

ご都合主義的な抗議活動が行われた。2003年には武力行使に反対していたがイリノイ州の州議会の議員であったため反対票を投じる立場にはなかったというオバマは2008年にはすべての軍を撤退させることを公約にして大統領選を戦うと断言していた。2007年には上院議員として彼は「増派」に反対した。彼は、増派は失敗に終わるばかりか事態を悪くさせると断言した。

増派が状況を劇的に改善させると、オバマは選挙のキャンペーンウェブサイトからイラクに関して言及した部分を大部分削除した。2004年に上院議員としてキャンペーンをしていた時に、占領後のブッシュ政権の政策に対して大きく反対するところは1つもないと告白していたことは一度も言及しなかった(「現段階ではイラクに関して自分の立場とジョージ・ブッシュの立場との間に大きな違いはない」)。これも2004年のことではあるが、彼は武力行使に賛成したか反対したかどうか分からないと告白していたことも忘れたのだろうか(「私は上院の諜報委員会の報告書を読む立場にはなかった。読んでいたらどうしていただろうか?私には分からない」)。オバマはブッシュ・チェイニーとは無関係に、上院が個別の諜報活動部門を保有していたと示唆しているように思える。

ペトレイアス長官が指揮した増派はあまりにもうまく行ったので2008年の選挙ではイラクはほとんど争点ではなくなっていたほどだった。大統領に当選したオバマは平穏なイラクとともにホワイトハウス入りしていた。例えば、戦闘に関連する2010年のアメリカ軍の兵士の死亡は60人だった。オバマがイラク攻撃のことを巧みではないと呼んだ(彼が支持したアフガンへの攻撃と比べて)にも関わらず、イラクが穏やかだったことを受けて世論の態度は3度めの変化を見せた。

イラクがあまりにも成功していたので、副大統領のバイデンが2010年の2月にイラクはこの政権の「最大の成功」の1つとなるかもしれないと主張したことは不思議ではない。オバマ自身もイラクの見掛けの安定を受けて2012年の選挙の前にアメリカ軍を撤退させたいと欲した。(アフガニスタンやアラブの春の混乱とは対象的に)イラクが見掛け上は安定したことを受けてアメリカ軍の撤退が可能となったとオバマは宣言した。「安定し自力で立てるようになったイラクを残して私たちは撤退する」。

突然に、イラクは「ブッシュの戦争」ではなくなった。そして「私たち」という項目で語られるようになった。そしてアフガニスタンやイギリスとフランスが攻撃したリビアと比べて遥かに好ましい状況と見られるようになった。

保守派が予想していたように、アメリカ軍が撤退したことによってシーア派のマリキ首相はすべてのイラク国民を対等に扱うというこれまでの約束を反故にし始めた。イランは権力の空白を感じ取りシーア派の工作員を送り込んだ。アラブの春の混乱がイラクにもとうとう達した。増派によって壊滅状態に陥ったアルカイダに代わってISISが活動するようになった。

ISISの暴力行為をオバマがどれほど歪曲に表現しようとも隠すことはできなかった。大量破壊兵器は国家安全保障のイシューとしてミステリアスにも再び現れるようになった。今度はアサドのシリアで。そしてもし再びアサドが大量破壊兵器を使用すれば攻撃も辞さないとオバマを苦悩させるほどの規模で(ところがアサドは使用し、私たちはアサドを攻撃しなかった)。アサドがあれほどの量の大量破壊兵器をどうやって、そしてどこから手に入れたのかを尋ねた人は1人もいなかった。

ブッシュ大統領が政権入りする前から、多くのアメリカ人はサダムは取り除かなければならない危険な存在だとクリントン政権と議会から説得されていたというのが事実だ。ブッシュ大統領が軍を派遣したのは、クリントン政権の空爆、サダムの国連決議違反、飛行禁止地帯への10年以上に渡る侵攻を見て、サダムは押さえ込むことが出来ないとアメリカ人を恐れさせたからに他ならない。イラク攻撃は成功した。その点に関しては世論も政治も同意している。だが2003年から2007年まではイラクの統治がうまく行っていなかった。世論調査や2つの選挙の結果はそのことも確実に反映しているだろう。

武力行使に関して考えを変えたり一時期は統治がうまく行っていなかったと批判するのは自由だ。だが以前の立場を否定したりかつては正当と見做されていた理由が突然変えられたりするのは卑劣だ。

最後に、イラク攻撃を韓国の場合と比較してみよう。ハリー・トルーマン大統領は共産主義の韓国への侵略に対して1950年の8月に援軍を派遣した。彼の行動は大衆からの支持(80%近くが承認した)、国連からの支持、そして少なくとも予算面に関して議会との同意が為されていた。

だが計画面での失敗、第二次世界大戦後に急速に武装解除したことによる準備不足、ダグラス・マッカーサー将軍の誇大妄想、中国の赤軍による11月の侵攻、ソビエトからの核兵器による威嚇、アメリカ軍の兵士の死傷者数の増加(1953年までには死者数3万6000人、負傷者数13万人に達していた)などが重なって泥沼の様相を呈していた。不支持率も50%にまで上昇した。1950年の後半から1951年の前半の100日間の電撃的な作戦で韓国を破滅から救ったMatthew Ridgway将軍でさえも、援軍の決定に対して大衆からの支持を与えることはできなかった。

韓国での戦争は数百万の韓国人をスターリンの悪夢から救ったかもしれない。だがトルーマン政権には打撃を与えた(トルーマンは1953年の1月に23%の支持率でホワイトハウスを去った。ブッシュ大統領が政権を去った時の33%よりも遥かに悪かった)。大衆の怒りにより共和党のドワイト・アイゼンハワーが大統領になった。

キャンペーンではご都合主義的なことを言っていたにも関わらず、アイゼンハワー大統領はトルーマン大統領の政策をほぼ継承した。1953年の6月には彼は停戦合意を勝ち取った。そして平和維持軍としてアメリカ軍を大規模に駐留させることによって韓国に民主主義と現在の経済をもたらした。もしアイゼンハワーがオバマのように1956年の再選を気にして1955年の12月にアメリカ軍をすべて撤退させると宣言してその責任を前任の民主党の大統領に押し付けていたとしたら、韓国が北朝鮮に容易く併合されたことは容易に想像が付くだろう。韓国は金正恩の下で統一されていただろう。サムソンとキアは存在せず、私たちは未だにトルーマンの責任や国家建設の無益さ、韓国を失ったこと、3万6000人のアメリカ人が無駄に犠牲になったことを論じ合っていただろう。1954年や1955年にアメリカ軍が撤退していたら、韓国が崩壊していたら、中国と北朝鮮が勝利していたらアジアにおける冷戦の結果にどれほどの大きな影響を与えたか誰も知ることが出来ないだろう。特に日本や台湾がどうなっていたかは分からない。だが1956年の南シナ海は現在の中東の混乱に似たものかもしれないということは予想が付く。

私たちはイラクについて議論することは出来る。だが事実を無視することは許されない。イラクにまつわるファンタジーで不思議なのはかつては熱心に支持していた民主党の議員やリベラル派の評論家たちのようにイラク攻撃に関してドナルド・トランプが誤ったことを言っていることではない。共和党の議員たちが彼の間違いを正そうとしないことにある。

以下、アメリカ人のコメント

Whitehall • 9 months ago

イラク攻撃の真の歴史に関して今まで見たうちで最も良いサマリーだった。

トランプはこの嘘をついたことによって私からの支持を失った。「カジノでは誰もが勝者です」といったようにあれは多分誇大広告だったのかもしれない。だが大統領には高い基準が求められる。

NoSpinEd • 9 months ago

左翼にとっては、自分たちに都合が良ければ嘘の物語というのは客観的な事実に等しいということを覚えておく必要がある。これこそが左翼の「状況によって変化する倫理」の本質だ。もしブッシュ大統領がリベラル派の嘘に無謀にもこれらの事実で反論を試みたとしよう。彼らは共和党が存在しなくなるまでありとあらゆる嘘をつき続けて嘘の洪水で大地を満たそうとするだろう。

Whitehall  itellu3times • 9 months ago

共和党予備選ではトランプに投票するつもりだった。彼がイラクについて嘘をつくまでは。今度の投票ではクルツに投票して少額ながら寄付も行うことに決めた。

paulejb • 9 months ago

イラク攻撃の正統性を短い標識で説明できないのであれば、知識もなく左翼の相対主義に毒されている人たちに説明しても何の意味もない。

PF Novak  paulejb • 9 months ago

北朝鮮は韓国を侵略した。北朝鮮は中国から支援されていた。北朝鮮は共産主義の国でそのイデオロギーはアメリカの直接の脅威だった。イラクはクウェートを侵攻した後、ほとんど動きを見せなかった。イラクはアメリカの主な敵対国から支援などされていない。バース主義はアメリカの直接の脅威ではなくむしろイスラム原理主義と敵対していた。それらを除けば良い比較だ。

Thrasybulos  PF Novak • 9 months ago

「バース主義はアメリカの直接の脅威ではなくむしろイスラム原理主義と敵対していた。それらを除けば良い比較だ」。

は???

バース主義がアメリカの直接の脅威ではない?フセインがテロリストの家族に2万ドルの報奨金を出していたことはどう説明するんだ?テロリストに隠れ家を与えていたことは?ブッシュ前大統領を暗殺しようとしたことは?油田やタンカーを攻撃したことは?アメリカからの援助を使って政権を維持しながらテレビを使ってプロパガンダを大量に流し続けていたことは?これは9月11日以降の重要な時期にも変わらなかった。君は脅威を一体どのように定義しているんだ?

Toppins  PF Novak • 9 months ago

それに加えてイラクはイランに対する緩衝材だった。敵の敵は味方だとよく言うだろう?アメリカの外交政策はアメリカの国益に叶うべきだ。バース主義は有益だった。

Thrasybulos  Toppins • 9 months ago

ナチとファシストはロシアを押さえ込むのに有益だと言っているのと同じだ。その結果が地獄以外の何かであったことを祈ろう。あの記事をもう一度よく見るんだ。国連決議の17回の違反、飛行禁止区域への度重なる侵攻、1992年の停戦合意のすべての条項の意図的な違反、自爆テロを影から指揮していること、アラブ世界でのサダムの立場を大きく押し上げた数々の示威行動など。これと引き換えに何が得られると言うんだ?次回は何もしないで結果を見守ろうじゃないか。

paulejb  PF Novak • 9 months ago

Novak、(反戦の英雄として祭り上げられた)ジョン・エドワーズはサダムが「差し迫った現在の脅威」だと言っていた。

"I mean, we have three different countries that, while they all present serious problems for the United States -- they're dictatorships, they're involved in the development and proliferation of weapons of mass destruction -- you know, the most imminent, clear and present threat to our country is not the same from those three countries. I think Iraq is the most serious and imminent threat to our country."

-- Sen. John Edwards (D, NC) Feb. 24, 2002

民主党の指導者たちは全員が嘘を言っていたのか?

paulejb  CFL68 • 9 months ago

イラクはシリアやリビアと同じくオバマの政策のせいで混乱に陥った。オバマは2011年にイラクから大部分の部隊を撤退させた。そのせいでアメリカがイラクを守ることが出来なくなった。オバマは左翼の支持母体を喜ばせるために性急で強引な撤退を行った。それにより権力の空白が生まれイランとISISがその間隙を埋めることになった。

paulejb  PF Novak • 9 months ago

まだ狂っているやつがいるのか。イラク攻撃は(イギリスとフランスからの要請を受けた)オバマのリビアに対する不法な攻撃よりも正統だった。議会からの承認があり両党とも支持していた。国連もそれを承認し48ヶ国が武力行使に賛成した。

Novak、君はいつまで嘘を言い続けるんだ。

John Mumaw • 9 months ago

素晴らしいサマリーだった!

Neo Conscious • 9 months ago

アメリカの外交政策で最も愚かしいことはイスラムを丁重に扱いすぎていることではないのだろうか。アメリカ軍はすぐにでも撤退しなければならない、でないとムスリムをテロに駆り立ててしまうといったぐあいに(とんでもない嘘だった)。私たちは未だに28500人を韓国に、50000人を日本に、75000人をドイツに駐留させている(戦争に勝利してから62年と71年が経っている)。少なくとも25000人をイラクに駐留させるべきだ。テロリストを捕まえることはかえってテロの原因を生み出すと主張する愚かな人たちに多くの人が騙されたのとよく似ているが、私はそんな戯言を信じていない。

Henry Hansen • 9 months ago

リベラルの友達とイラクや中東に関して議論することがある。その時には決まって、ブッシュが大統領になる前のことを彼らがほとんど覚えていない/知らないことにいつも驚かされていた。彼らにクリントンやアル・ゴア、オルブライトが言っていたことを伝えてあげると、キョトンとした目で私を見つめるのが常だった。

そんなことで一体どうしてブッシュ大統領を非難しているんだ?と驚いてみせると、彼らはブッシュがイラクを攻撃しなければシリアでの戦争はなかったと意味不明なことを言い始めた。リビアでの事態はどうなっているんだと尋ねると、彼らは「ベンジャジ!ベンジャジ!君はベンジャジのことを忘れたのか?」と騒ぐだけだった。彼らが知っていることはそれだけであるかのように…

Crazy Diamond • 9 months ago

2010年の2月までは、かわいそうなジョー・バイデンは自分たちの政党がアメリカにとってベストだと未だにナイーブにも信じていた。彼の上司は火遊びに明け暮れてイラクに混乱をもたらした。バラク・オバマはイラクを使って民主党が共和党の首を絞めることが出来ると感じ取ったようだ。株に例えるならば、彼は大量の売りを仕掛けてイラクの株価を暴落させた。イラクは恐ろしい間違いだった。だがそれは空っぽ頭たちが喋っている理由からではない。ブッシュ大統領が自分たちの対立相手がどこまで程度が低いのかということを予想できなかったという意味でだけ間違いだった。もしイラクで失敗がなかったならば、左翼がそれを生み出していただろう。そして実際にそれが起こったことだ。この記事を書いた人に感謝したい。私たちの兵士たちが勝ち取った勝利が愚か者たちの政治によって浪費されたということが誰かに伝われば素晴らしい。

achtung14  Crazy Diamond • 9 months ago

イラクの失敗とやらはオバマが実現させるまでは存在しなかった。もちろん、このことは未だに「集団的ブッシュ(と聞いたら)錯乱(を起こす)症候群」に罹っているメディアによってごまかされてきた。だがブッシュ大統領は自分たちの権利にしか興味がない現代で戦闘に勝利する方法を見つけたのだった。

Crazy Diamond  PF Novak • 9 months ago

Novak、バイデンがラリー・キング・ライブに出演していた2010年の2月にはイラクは混乱してなかったんだよ。その後の混乱に対してデモクラットが失うものは何もないだって?

左翼にとって、14万人を殺害したキューバのカストロは英雄で1000人の共産主義者を殺害したと云われているチリのピノチェトは大悪魔?Part2

Fidel's Favorite Propagandist

Glenn Garvin

アメリカのジャーナリズムに欠けているものが何か私たちはとうとう分かったようだ。このところ新聞の購読数もテレビの視聴率も低下しているのはビタミン不足が原因だったらしい。アメリカ人が求めているものは情報ではなく弱者への思いやりらしい。カトリーナの報道の勝者は最も正しい報道をしたレポーターではなくて最もやかましく騒いだレポーターらしい。

CNNのアンダーソン・クーパーは最も称賛を浴びた。「この4日間で、通りに死体が転がっているのを幾つも見た。非常に混乱し、怒り、不満を露わにしている人々でここは溢れている」と語り、ハリケーンの被害者の救援のために全力を尽くしていると説明しているMary Land-rieu (D-La.)議員をその場で怒鳴りつけた。この子供じみたかんしゃくは全米に放送され、Vanity Fairから「国家の良心」との称賛が彼に与えられた。

そのような放送は見世物としては面白いのかもしれない。だがその報道の中身はすべてが信じ難いほどに、そして滑稽なほどに間違いだった。ニューオリンズのスーパードーム内部でレイプと殺人が横行しているという狂ったように世界中に伝えられた報道は?1つも起こっていなかった。死体の山は?なかった。救援ヘリに向かって発砲があったという報道は?空想だった。カトリーナによる死者数が1万人を超えるという報道は?500%ぐらい外れていた。もう少し感情を抑えて冷静な報道を心掛ければ皆が幸せになれるだろう。

これはジャーナリズムが学ぶべき新たな教訓という訳ではまったくない。だがジャーナリストにとってこれを受け入れることは恐ろしいまでの苦痛なのだろう。その教訓を受け入れなかったことの結果は、嘘がバレていない人たち(Anderson Cooper, meet Geraldo Rivera)から、汚名を着せられた人(Judith Miller)まで多岐にわたる。後者の汚名を着せられたに当てはまるのがまさにハーバート・マシューズだろう。彼はカストロにインタビューした初めてのアメリカ人で、カストロが残虐で少し狂っていた殺人狂の独裁者だということを最後まで受け入れなかったアメリカ人でもあった。

愚か者だけが「キューバ革命のような出来事に対して、ジャーナリストは考えや感情、さらにはバイアスまでも持つべきではない」と主張するだろうと彼は書き記している。『良い記事に必要不可欠なものの1つはスコット・フィッツジェラルドがかつて呼んだように「強烈な感情から迸るカタルシス」でなければならないとマシューズは語っている。「カタルシスはドラマが生まれる感情のはけ口のようなものだ」。アンソニー・デ・パルマがマシューズの伝記で記しているように、それこそが彼を破滅に追いやったものだ。「特派員の報道を有名なものにしたのと同じそのパッションは諸刃の剣にもなりうる。そして信頼も信憑性もどちらも粉々にしてしまう危険性をはらんでいる」と自身もニューヨーク・タイムズのラテンアメリカ特派員であるデパルマはこの出来事に対してはっきりと不快感を露わにしている。

マシューズの死後から30年以上が、ニューヨーク・タイムズから姿を消してから40年以上が経っている現在では、アメリカでも彼のことを覚えている人はほとんどいない。だが冷戦の真っ最中だった1950年代から1960年代では、彼はアメリカのジャーナリストとして最も論争を呼んだ人間だった。保守派はとりわけNational Reviewなどは当時ニューヨーク・タイムズに対して「私はニューヨーク・タイムズのお陰で仕事にありつけた!」と口にしているカストロの絵を掲載するなど彼らを皮肉った広告を打ち出した。左翼のシンポジウムなどでも彼は出席を断られた。議会(そしてデパルマによるとFBIも)も彼のことを調べていた。カストロと敵対するキューバのグループなどはニューヨーク・タイムズのビルで抗議活動を行っていた。彼をキューバの英雄として称賛する声もあれば、彼を裏切り者のユダとして糾弾する声もあった(こちらが圧倒的だったが)。このビルの10階をオフィスとしているニューヨーク・タイムズの役員たちはこの惨状を呆然と眺めているしか出来なかった。

この出来事は初めはスクープとして歓迎された。1957年の2月時点ではキューバの独裁者バチスタを含め多くの人々がゲリラのリーダー、フィデル・カストロは死亡したと思っていた。マシューズは彼をシエラ・マエストラ山で見つけインタビューをし写真を撮った。このニュースはバチスタを激怒させバチスタの敵対者を勇気づけ最終的にはカストロが勝利することになる武力闘争を開始させた。

マシューズの擁護者たちが繰り返しプロパガンダ(カストロについて彼を非難することは雷雨が起こったことで気象学者を非難するようなものだ)を流しているように、話が本当にそれほど単純であったならばどれほど良かったことだろう。マシューズの最初期の記事が明らかにしているように話はそのように単純ではない。バチスタも他の記者たちも掴めなかった情報をマシューズが入手したことは称賛に値するが、彼はカストロをバチスタの「最大の敵」と明らかな嘘をついてしまった。そして「キューバ社会に影響力を持つ数百人という人々がカストロを支援している。彼が急進的で、民主的で、それ故反共産主義である新しいキューバを約束すると宣言しているからだ」と断言した。「数千人というキューバ市民がカストロと彼の約束を心から支持している」ことを保証するともマシューズは語った。カストロが狂信的だということは一部認めるものの、彼は「抗しきれない」カリスマ性を持った「理想の人、勇気の人、特筆すべき指導者の資質を兼ね備えた人」だとマシューズは伝えた。

他にも彼を称賛する言葉が延々と綴られていた、その数は4000単語にも及ぶ!だがその影響を知っておくだけで十分だろう。

カストロが共産主義者ではないとマシューズが断言したことは、言うまでもなくその後の彼を苦しめ続けた。この主張はマシューズの信じられないほどの騙されやすさを示す最も極端な事例ではあるものの、間違ってもただ1つの事例ではない。要するに、マシューズが私たちに伝えたことはほぼすべてが嘘だった。

独裁者バチスタの生徒だったカストロはメキシコに長い間国外追放された後、3ヶ月前にキューバに帰ってきていたところだった。マシューズがインタビューした時のカストロの兵士の人数は「数百人ではなくて」たったの18人でまともな装備もなかった。マシューズの主張とは異なりカストロは大規模な軍事作戦など遂行しておらず、たった2回の攻撃、それもそのうちの1つはせいぜいが政府の偵察隊の小隊6人ほどを撃破したに過ぎなかった。マシューズはバチスタが「敗走している」と私たちに伝えた。実際にはカストロの軍は(そもそもが極めて少人数だったが)政府の空爆によってほとんど殲滅状態にあり地元の農民たちから度重なる裏切りを受けていた。直近の裏切り者もマシューズがカストロのキャンプを離れた恐らく数時間内に射殺されていた。恐らくはゲリラ軍の最も残虐な処刑人であるフィデルの弟ラウル・カストロの手によって(ラウルのことを少ししか言及しなかったことこそがマシューズの記事を本当に貶めているものだ。「ラウル・カストロのことを愉快な人だったなどとは二度と言わない」と恐らくは体を震わせながら1961年にマシューズは書いたのだろう)。

私たちはこれらのことをカストロの側近であるラウルとチェ・ゲバラの日記から知った。それとカストロに仕えた兵士たちが書いたものからも。だが最大の情報源はカストロ自身だ。インタビューの間、カストロはマシューズを意図的に騙したと2年後のWashington Press Clubでのスピーチで自慢げに話している。ほんの少数の兵士たちが帽子や服装を変えたりしながらキャンプを往復していたため、マシューズは40人ぐらいの兵士を見たと勘違いしたのだそうだ(その時のメモはコロンビア大学に保管されている)。それから山岳一体にゲリラ軍のキャンプを張り巡らせているという主張を信じさせるために、兵士の1人に息を切らせながら「第二小隊からの連絡が届きました!(もちろん嘘)」と会話に割り込ませて報告させた。カストロは、「これが終わるまで待て」と取り澄ましたふりをしてそれに答えた。

政府軍に追われ敗走を繰り返していたカストロは山岳一体をわずか18人の兵士と一緒に逃げ続けていた。そして彼の唯一の味方は賄賂で買収した盗賊団だけだったというストーリーは恐らくはニューヨーク・タイムズの売上にあまり影響を与えないと判断されたのだろう。一方で、無敵のゲリラがバチスタ政権を打ち負かそうとしているというメロドラマ的なストーリーは、愛用するスナイパーライフルを大胆に胸で抱えるカストロの写真と相まってニューヨーク・タイムズの発行部数を大幅に増加させた。その記事はアメリカだけではなくキューバでもセンセーションを与えた。ニューヨークにいるカストロの同盟相手は3000以上のコピーを印刷し(その2日後のマシューズの長大な他の記事も一緒に印刷された)、それをキューバの首都ハバナに配送した。バチスタが検閲を敷いていることも無効にした。

バチスタは愚かにもマシューズが語った中で唯一正しかったことを頑なに否定してしまったことでこのストーリーの信憑性をかえって高めてしまった。カストロが生きているということだ。それに対してニューヨーク・タイムズはマシューズのノートに書き殴られたカストロのサインのコピーを掲載し、それからタバコを吸っている2人の男の写真も掲載した。それから数週間はカストロを訪ねるジャーナリストたちの一行でシエラ・マエストロは一杯になった。

彼らはほとんど全員がマシューズが生み出した様式に従っていった。カストロの髭と長髪、カストロの若さ、屈強な肉体とカリスマ性を秘めたパーソナリティ、曖昧ではあるが民主主義を志向するという発言、彼の闘争は弱者の強者に対する戦いなのだということを強調など、これらは今も左翼が語っている神話と細部に至るまでまったく変わりがない。たった1つの記事で、マシューズは現在も語り継がれている神話を生み出してしまった。

ジャーナリストたちはマシューズよりもさらにカストロに魅せられてしまったようだ。「Rebels of the Sierra Maestra: The Story of Cuba's Jungle Fighters」というドキュメンタリーを制作したCBSのプロデューサーRobert Taberはカストロに捧げたそのドキュメンタリーの最後でマイクをカストロに渡し、思ったことを何でもアメリカ人に話して欲しいと訴えた。驚きを隠し切れないながらも喜んだ様子のカストロはバチスタ政権への支援をアメリカ政府に止めさせるように要求した。カストロにあまりにも魅せられてしまったTaberはその後に「Fair Play for Cuba Committee」という組織までをも立ち上げた。その組織の最も有名なメンバーは恐らくLee Harvey Oswald(ケネディ大統領の暗殺犯)だろう。

戦場取材での取材の誤りを正そうとすることは簡単な仕事だ。戦争の第一の発生原因は真実であるということわざは決まり文句のように用いられている。だがそれを何回唱えようともそれによって真実になるというわけではない。そして戦争の間では、事実を確認することは通常は難しい傾向にある。

特にゲリラ戦争では、「難しい」が「ほとんど不可能」に変化する。軍隊はどこにいるのか探すことが難しい。尋問となるとなおさらだろう。戦闘は突然発生し、あっという間に終了する。深いジャングルの中で、誰にも見られることなく。戦闘に参加した者たちでさえ、何が起こったのか正確には把握していないかもしれない。ゲリラの行動パターンというのはその性質上人を欺こうとするもので、その指導者も真実を言うことが出来ない立場に晒されていることが多い。フィデル・カストロはまさにこのパターンに完全に当てはまる。「最初から嘘を付くのがうまかったことに加えて、彼は実践を積みながら学習していった」とかつてJohn Silberは書いたことがある。デパルマがかつて書いたように、カストロが5百万人以上のキューバ人に自分は共産主義者ではないと信じさせることが出来たのであれば、マシューズを責めることは酷なことなのかもしれない。「マシューズの最大の失敗はカストロの人間性を見抜けなかったことではなくむしろデマゴーグと転落してしまうほどにカストロを理想主義者と思い込み続けてしまったことにある」とデパルマは書き記している。

革命から7ヶ月が経過してカストロの左翼志向が明らかになっていたというのに、「これはどのような意味においても共産主義革命ではないし指導部の中には共産主義者は1人もいない」とマシューズは書いている。プライベートでは彼はさらに頑なで、カストロは「知識の拠り所としても感情的にも彼は反共産主義者だ」とアメリカのキューバ大使とやり合ったこともあった。彼以外のニューヨーク・タイムズのジャーナリストが彼とは異なる主張を記事で展開すると、マシューズは彼らを貶す秘密のメモを出版社に送りつけそれどころか時には彼らを直接叱りつけさえもした。1960年にJames Restonがキューバはソビエトの衛星国家に転落したと書くとマシューズは彼に反論を送りつけた。「カストロがキューバの指導者である限り、キューバは共産主義に走ることもなければ共産主義の手に落ちることもない。その影響を感じることさえないだろう」と彼はRestonを説教した。そして「これは私がアメリカの他の誰よりも学んできたことだ」と見下すように付け加えた。

それから1年もしないうちにカストロは自らが共産主義者であると公言した。そしてそれから数ヶ月でキューバにソビエトのミサイルが展開され、世界は核戦争の危機に包まれた。どちらの出来事もマシューズの考えを変えることはなかった。彼はカストロの伝記で、それらの出来事は大きく誤解されていると主張している。「フィデルは共産主義を利用している。彼は共産主義が役に立つと考えているようだ。だがそれは共産主義のイデオロギーを信じているのとは異なる」とマシューズは書いている。マシューズは自分と考えが異なる人間には容赦がなかった。1959年にカストロが側近で人気のあった司令官の1人Huber Matosを牢屋に入れることがあった。キューバ政府は共産主義者だらけだと無謀にも証言しようとしたためだ。マシューズは冷酷にも「革命はお茶会のようなものではない」と言い放った。マトスはそれから20年間を刑務所で過ごすことになった。

マシューズはキューバに関して自分が偏っているということを少しも隠そうとはしなかった。1961年に「The Cuban Story」という本で、自分はカストロから「信頼されており、尊敬されており、友人であり、彼の耳ですらもある。多くの人はフィデルが私の言うことを聞くだろうと、私の言うことだけを聞くだろうと思っている」とうそぶいた。それを聞いてもワシントンで彼をキューバ大使に推す人はいなかった。カストロを恐れる人々の間でさえもそうだった。マシューズは、私を大使に任命することは間違った考えだ、何故ならば「大使には中立であることが求められる。自分がキューバに深く関わっていることを考えると私はキューバ大使としては相応しくないだろう」と記している。ようするに、彼は外交官としては関わりすぎてしまったがジャーナリストとしてはそうではないと考えているということだ。

初めはマシューズとカストロに対する歓喜をともにしていた多くのジャーナリストたちも次第に彼から離れるようになっていった。かつては「カストロが現れるまでキューバの人々は失った自由のために戦ってくれる指導者を見つけることができなかった」と書いたシカゴ・トリビューンのJules Duboisは革命の初期から不穏な傾向を感じるようになっていた。彼は1959年に「Fidel Castro: Rebel, Liberator or Dictator?」という本を出版した。その本には最後のラベルが事実であることを示す多くの証拠が記されていた。それでもマシューズは決して動じることはなかった。カストロが数十万人を処刑しても、ゲイの強制収容所を建設しても、ソビエトから核ミサイルを搬送しても、アフリカで軍事作戦を行っても、数百万人が難民としてマイアミに逃げ出すほどにキューバを貧困に貶めたとしてもマシューズは考えを変えなかった。

左翼にとって、14万人を殺害したキューバのカストロは英雄で1000人の共産主義者を殺害したと云われているチリのピノチェトは大悪魔?Part1

MYTHS OF THE ENEMY: CASTRO, CUBA AND HERBERT L. MATTHEWS OF THE NEW YORK TIMES

Anthony DePalma

フィデル・カストロは1956年のキューバ侵攻に大敗した数ヶ月後にはもう亡くなっていて、彼の革命は失敗したものと思われていた。当時のニューヨーク・タイムズの編集長かつ記者だったHerbert L. Matthewsは、カストロが生きているばかりではなくバチスタ政権を倒せるだけの大人数かつ強力なゲリラ軍に彼が支えられていると、20世紀最大のスクープの一つを記事にした。明らかにカストロに魅せられていて、判断力を失っていた彼は事実を歪めて記事にした。マシューズは、カストロをキューバ憲法の守護者、民主主義を愛している人間、アメリカ人の友達と呼んだ。

マシューズによって生み出されたイメージは衝撃的で、カストロに力を与え彼の国際的な知名度を一気に高めた。キューバでの紛争に対するアメリカの態度は変化しバチスタに対して厳しい姿勢で臨むようになった。だが革命が終了してみると、騙されたことに気がついたアメリカはカストロを一切信用しなくなりマシューズはカストロが権力を握る手助けをしたことに対して非難されるようになった。ワシントンがマシューズと国務省のカストロの信奉者たちにいいように操られたという印象が生まれたことによって現在でもアメリカとキューバとの関係に影を落としている。

POLICY AND THE PRESS

マシューズがキューバの革命が始まった地であるOriente Provinceに向かったのはいくつかの偶然が重なってのことだった。彼が留まったのはほんの数時間だったが、20世紀最大のスクープと一般的に云われている記事が埋まるのにはそれで十分だった。

マシューズのカストロに対するインタビューはアメリカにとって色々なことが重なった重要な時期に行われた。彼らは追跡している兵士たちの目から逃れられる場所を会談の場に選んだ。彼らは、自由、独裁、正義など多くのことについて語り合った。それでも中心を占めたのは革命についての話だった。マシューズが聞いた話は彼の心を大きく揺さぶった。彼はスペイン内戦を取材していたことがあり、彼が熱心に応援していたスペイン共和党の敗北から数十年が経過していたというのに彼の心は未だに傷ついたままだった。これは彼にとってその時の傷を癒やし、今回こそは革命の成功を見届ける機会だった。そのためにはマシューズはカストロを蘇らせる必要があった。彼の記事が出版される前にはカストロはその3ヶ月前の自らのキューバ侵攻によって殺害されたと思われていた。マシューズはカストロが生きていることを明らかにし、カストロは強力な軍隊に支えられていてその勝利はほぼ確実だと信じさせることに成功した。

「カストロのカリスマ性は圧倒的だった」とマシューズは初めの記事に書いた。「彼の部下は彼に心から心酔し、どうしてキューバの若者は彼を支持しているのかを理解することは簡単なことだった」。マシューズは、カストロのことを「体制に反抗する燃え盛るようなシンボル」と呼んだ。そして「数千人のキューバ国民がカストロと彼が約束する新しい未来に熱狂していた」とためらいもせずに語った。彼はカストロが「独裁を終わらせてキューバに民主主義をもたらすために戦っていて」、「アメリカやアメリカの人々に対する敵意はまったくないと保証できる」と大胆にも断言した。カストロのことを悪く言うことはほとんどなく、そのわずかもカストロの馬鹿げた経済的考えに向けられていた。

彼が描いたカストロの英雄的イメージは、その後も革命の記憶としてアメリカ人の心に残り続けた。カストロがキューバの憲法を復活させ自由選挙を行うと約束したことを積極的に記事にしたことで、ワシントンにはバチスタ政権への支援をやめさせるよう圧力が掛かった。キューバ軍がSierra Maestraで市民を空爆したことが決定打となって、1958年3月に支援が停止された。それはバチスタ政権がアメリカからの支援を失い失脚することが決定的となったことを意味した。国務省の高官は、カストロが共産主義者ではなく共産主義革命を起こすつもりもないというマシューズの主張を非難した。

インタビューの前までは、カストロは確かにバチスタに反旗を翻した人間と見られていた。だが唯一の反乱者でもそもそも脅威ですらもなかった。6月26日に起こしたカストロの残虐な行動は多くのキューバ人を恐怖に陥れていた。カストロの反乱軍は宣伝がうまかった。それどころか最大のグループでも最強のグループでもなかった。1953年のMoncada barracksでの攻撃によりカストロはキューバで知られるようになったが1955年に刑務所から釈放されてメキシコに追放されると、Revolutionary Directorateを含む他のグループが勢力を拡大し反乱軍のリーダーとしての立場を確立していた。

マシューズのカストロへのインタビューを元にした3つの記事がその関係性を無茶苦茶にした。アメリカでのカストロの知名度は一気に上昇した。アルゼンチン、コロンビアなどでの独裁者は失脚していた。バチスタは友好的だったとはいえ、強硬な彼に対してワシントンの支持は低かった。その記事に対するキューバでの反響はまったく別のものだった。カストロはキューバではよく知られていたからだ。

激怒したバチスタ(彼はマシューズを非難しその記事と写真は捏造だと主張した)はカストロの反乱軍を制圧することに注力するようになった。バチスタはカストロを脅威に感じているというメッセージを送ってしまった。カストロはマシューズの記事を自らの勢力が拡大していることの証拠として用い、資金集めにも新兵の徴兵にも非常に有利に働くことになった。インタビューが行われた時にはすでにカストロと合流していたアーネスト・チェ・ゲバラは、戦場での勝利よりマシューズの記事の方が遥かに重要だったと語っている。その記事によりカストロが注目を集めたことは他の人々にも影響を与えた。Revolutionary Directorateはかねてから大統領官邸を襲いバチスタを殺害するつもりだった。

その記事が掲載されてから丁度2週間後に彼らは失敗に終わることになるその攻撃を開始した。反乱軍はバチスタに辿り着く前に制圧され指導者のアントニオ・エチャベリアは殺害された。マシューズはバチスタへの攻撃を幾度も繰り返していた。一時期は彼の記事がニューヨーク・タイムズのラテンアメリカ関連の紙面を埋め尽くしたほどだった。マシューズの記事はアメリカとキューバとの関係に決定的影響を与えた。

「これほどの影響力を1人の記者が社会広範に与えたことはほとんど例を見ない」と政治学者のWilliam E. Ratliffは本の中で記している。イギリスの歴史家Hugh Thomasは「マシューズの記事によってカストロは国際的なスターとなった」と断言している。1960年には、El TiempoのBogotáはカストロの勝利のことを「ハーバート・マシューズの革命」とまで呼んでいる。ラテンアメリカ全体にそのような考えが共有されていた。

マシューズは記者生命をキューバに掛けなければならないほどニューヨーク・タイムズで追い込まれていた若手の記者という訳ではなかった。例えカストロと会談しなかったにしても、20世紀で最も影響力があり最も論争を呼んだ記者の1人としてすでに知られていた。マシューズがカストロのところに出向いていく必要などまったくなかった。カストロが彼の所に使いを出すことも出来たし、外国の特派員に自分がまだ生きているということを世界に伝えさせるだけでも良かった。実際、ニューヨーク・タイムズのハバナ特派員Ruby Phillipsに最初にインタビューの申し出が送られていた。ところが彼女はキューバ政府とのパイプを失う、もしくはキューバから完全に追い出されるかもしれないリスクに見合わないと考え、その申し出を断った。カストロが自分は強力な軍隊を持っているとマシューズを故意にミスリードしようとしたのは事実だ。だが実際には、事実はそこまで単純ではない。アメリカの大使もまたカストロがバチスタに対して脅威となるほどの軍隊を保有していると欺かれていたことを文書は示している。マシューズはゲリラが潜む山に向かう前に、打ち合わせのために大使館に向かわなければならなかった。

マシューズはジャーナリズム全体が置かれていた重大な岐路に立たされていたのだった。ジャーナリストは出来事の単なる記録係かそれとも歴史の解釈者か。ラジオとテレビの普及によってニュースの需要は大幅に拡大した。それがニュース報道自体にも大きな影響を与えていた。戦場からニュースを伝えるのに数日を必要とするということは最早なくなっていた。映像にインパクトを与えるためにレポーターはすぐに現場に駆けつけなくてはならなくなった。そのためには、それまでに知られている情報だけを頼りとするのでは不足だった。これは、情報に対して判断を下す人間を必要としたことを意味する。その危険性は言うまでもなく、レポーターが必ずしも正確ではない情報を漏らす動機のある人間を頼りとしてしまうことにある。マシューズとフィリップスとの衝突はこのような事情が背景にあると見ることも出来る。その結果、2人のベテランジャーナリストがキューバに関して互いに矛盾する情報を伝えてくるという奇妙な状況が生まれることになった。彼女は自分が見たものだけを主観を交えずに淡々と報道する昔ながらのジャーナリストだった。キューバ政府とのパイプを維持するという思惑がキューバ革命に関する彼女の初期の報道姿勢に影響を与えたのかもしれない。彼女は反乱軍を支援するような報道は手控えていた。だがカストロが実際に権力を握ると、彼女はカストロの残虐な振る舞いと暴君性を伝えそのせいでキューバを追放されることになった。それとは対象的にマシューズは、カストロとの初めてのインタビューのその時から、歴史の解釈者、解説者、そして最終的には自らの考えを全面に押し出すライターとしての側面をジャーナリズムの世界に持ち込もうとしていた。

マシューズは、彼がキューバで見たというものを自らの視点から解釈し直して報道した。そのせいで、彼が書いたものは当時の状況を正確に言い表したとはとてもいえないものになってしまっただろう。その逆にフィリップスの報道はその当時の状況を遥かに正確に伝えていたように思われる。フィリップスはバチスタを、マシューズはカストロを情報源とした。どちらもその代償を払った。フィリップスはカストロから検閲を受け最終的にはキューバから追放されることになった。マシューズはあまりにもカストロに近づきすぎてしまったために客観性をすべて捨て去る羽目になってしまった。

カストロにインタビューを行ったマシューズに、彼のジャーナリズムに対して異様なまでの歓声が送られた。マシューズは新聞記者として初めてのスーパースターとなった。そしてテレビがニュースのプラットフォームとして取って代わる前の時代の最後の新聞記者となった。彼はThe Tonight Showに出演するなどしてセレブの仲間入りを果たした。シエラ・マエストラでのインタビューは歌や詩などの題材にされたほどだった。Florence Ripley Mastinによって書かれ、ニューヨーク・タイムズに送られてきた詩が今も保存されている。

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ニューヨーク・タイムズはその詩の掲載を正しくも断った。だがマシューズはそのコピーを生涯手元に置き続けた。マシューズはニューヨーク・タイムズの編集部に対して勝利したと考えるようになった。彼がカストロ(当時30歳)と会談したのは57歳の時で、このスクープにより彼は自分より若い記者にも負けない記事を書くことが出来るということを証明した。

マシューズの知名度はアメリカで大きく高まった。だがキューバではヒステリーのような状態だった。「私は自分がクラーク・ゲーブルやフランク・シナトラのような大衆のアイドルになるとは思っていなかった」と1957年の6月にキューバに初めて戻った後に編集長に向かってメモを送っている。「この旅行で、大衆のアイドルでいることよりも恥かしいものも疲れるものもないということを学んだ。そしてそれが非常に苦痛であるということも」とメモに記している。

マシューズを追いかけてシエラ・マエストラに向かった他の記者や、革命を主観的に分析しようとキューバに渡った記者たちは革命に対して同情的な記事ばかりを書いた。そのうちの幾つかはマシューズよりもさらにひどい脚色ぶりだった。Norman Mailerはシエラ・マエストラに出掛けてはいないが、彼はカストロについて語る時、「コルテスの亡霊がザパタの白い馬に跨って私たちの時代に現れた」と例えた。彼の誇張ぶりは恐らくマシューズのそれを上回っていただろう。

だが記者の幾人かはカストロの人間性に疑問の兆しを感じ取っていた。1957年の6月に、キューバ国民の圧倒的大多数がカストロを心から支持しているとマシューズが請け負った丁度3ヶ月後に、確かにキューバ国民の一部はカストロを解放者だと考えているが「他の人々はカストロを残酷で何をするのか予想が出来ない独裁者だと見做している」とCarleton BealsはThe Nationに記していた。

ケーブルテレビも24時間放送のニュースもない時代では、マシューズの言うことの方がより影響力を持っていた。カストロがニューヨーク・タイムズで大々的に扱われたことの重大性を過大に評価することは難しい。その記事が印刷されると、カストロの暗い過去は明るいものへとすぐに塗り替えられた。マシューズはカストロを好感のもてる反乱軍の指導者に仕立て上げた。

シエラでのインタビューの後、カストロもマシューズもアメリカとキューバで英雄となった。後に、両者は国際的な悪人に転落した。カストロはアメリカの敵となった。つかの間の勝利の後でマシューズは自分の利益のために意図的に嘘の情報を流した裏切り者と呼ばれた。カストロと革命に取り憑かれていた彼は、批判を無視しあの時では自分が唯一真実を探し出すことが出来た人間だと主張し、彼があの場で見たと信じたものを書き続けた。

COLD WAR PARANOIA

マシューズはメディア業界にあまり友達を持っていなかった。外交官と政府の高官が彼を攻撃した時、同僚の誰も彼を庇おうとはしなかった。それどころかその攻撃に加わる人間もいた。ニューヨーク・タイムズは特に彼に批判的になった。彼を以下のように非難している。

「革命という大義に最初から目を眩まされていた彼は、未熟な記者が陥る罠へと転落していった。彼は感情によるバイアスを優先させ自らの判断を停止させた」。

マシューズはその後も自分が書いたものは正しいと訴え続けた。他の信者が、カストロがバチスタ政権の支持者たちを処刑したことやアメリカ人の財産を強奪したことを受けて革命を批判するようになった後も、マシューズはカストロを擁護し続け彼とその革命が共産主義であることを否定し続けた。彼は自分が見るように物事を見ようとしない他のジャーナリスト、編集者、外交官、国務省の高官を非難した。彼はキューバ革命に関するアメリカの報道は「ジャーナリズムの歴史で最大の失敗」だと繰り返し主張した。そしてマシューズは編集長の1人に「キューバ人の視点」から見なければ私たちにはキューバで起こっていることを理解することが出来ないと訴えた。マシューズとニューヨーク・タイムズはカストロの報道について厳しく批判されることになった。

William F. Buckley Jrはカストロは「ニューヨーク・タイムズのおかげで職に就けた」とあざ笑っていると痛烈に皮肉った。カストロとパイプがあるということはマシューズにとってむしろ重荷となった。カストロへのインタビューはむしろ彼の人生を飲み込むブラックホールとなった。彼の評判だけでなく生命力までも奪っていった。人々はマシューズと聞くだけでも嫌がった。ニューヨーク・タイムズも同罪と見做されるようになった。カストロは共産主義者ではないという彼の評価に同意していたはずの国務省でさえも、カストロは最も危険な共産主義のグローバルな陰謀の一環だと態度を急変させた。カストロが権力を握ることを助けたことからマシューズがあまりにも分かりやすいスケープゴートとされた。

マシューズの私的な文書(彼はそれをコロンビア大学に寄贈している)には、愚か者と見られたことさらに悪いことに敵を生み出した裏切り者と見られたことに彼が激怒していたことが示されている。冷戦の真っ只中であった1960年代の共産主義の脅威に関しての一連の議会公聴会ではすべての会で必ずマシューズの名前が恨みを持って言及されていた。自らの記事が強い憎しみを生んでしまったことに気が付いたマシューズは安全が脅かされると考えるようにまでなった。情報公開法によって開示された文書によると、実際マシューズは脅迫状を受け取っていた。当時のFBI長官だったJ. Edgar Hooverは彼にボディガードを付けることを約束した。その他の文書によると、FBIはマシューズを数年に渡って調査していたことが示されている。そして彼の電話の内容をすべてではないが幾度か盗聴していた。フーバーが彼のことを「キューバ政府の代理ではないか」と疑っていたためだ。

彼の上司はマシューズを擁護しようと苦闘していた。だが非難の声がそれを上回ったので彼にもニューヨーク・タイムズにも手のうちようがなかった。彼の上司は最終的に、マシューズがジャーナリストとして自殺行為を行いニューヨーク・タイムズを救うためには彼を見捨てたほうが良いと決定を下した。「彼は多くの人から不当な扱いを受けている。だがその事態は、彼が論理を捨てて主観的で感情的なジャーナリズムに走ったことによって招いたものだ」と語った。ニューヨーク・タイムズの外国部の編集長だったEmanuel R. Freedmanは「彼はキューバのレポーターとしての自らの有用性を自らの手で破壊した」と記している。

ニューヨーク・タイムズのアーカイブスにはマシューズのキューバでの報道のやり方を巡って、彼の主観的なジャーナリズムを非難する編集長とそれを擁護する編集長との間で激烈な論争が起こったことが記されている。どちらにしてもマシューズはキューバについての記事を書くことをニューヨーク・タイムズから禁止された。これはニューヨーク・タイムズに人生を捧げてきた彼にとっては痛手だった。

マシューズとカストロは個人的信条に従ってあの日の歴史的なインタビューを行った。彼らの関係は、始まりと同じように運命によって結び付けられた他人同士のように、終了した。カストロは「自分が私の父親であると思っているあの老人にうんざりしている」と側近に語っていた。「彼はいつも私にアドバイスを送ってくる」とも。

カストロはプロパガンダによってキューバ国民にアメリカを恐れさせた。反米を利用してキューバ国民を団結させるカストロの能力の高さはアメリカ政府の高官を怯えさせた。マシューズがカストロは民主主義を望んでいると記事を書いたことがキューバはその革命を裏切ってアメリカを欺いたのではないかという政府高官の疑心をさらに煽った。

他のジャーナリストたちも革命に過度の肩入れを示したことで歴史から拒絶されることになった。Walter Durantyは1930年代のソビエトに関する彼の取材の誠実さ、信憑性に大きな大きな疑問符をつけられた1人だった。彼は、彼の記事が撤回されるまでは今日でも怒りが収まらないというウクライナ人たちのターゲットになった。ニューヨーク・タイムズ自身も数百万人、数千万人が犠牲になったウクライナの飢饉の原因を彼が隠蔽したことを認めている。ピューリッツァー委員会はソビエト連邦についての彼の取材は当時の基準を遥かに下回っていると認めた。だが70年前の委員会が下した決断なので自分たちには責任がないと主張した。

他にも誤った情報を伝えたジャーナリストたちは存在する。Edgar Snowは中国共産党を善良であるかのように伝えた。Richard Harding DavisはSpanish-American Warを偏って報道した。John Reedのボルシェビキ革命の報道も間違いだらけだった。歴史的には重要だったがジャーナリズムとしては疑わしい(真実からはかけ離れている)ジャーナリストたちの海外報道のリストは長大に及び現在でも議論されている。マシューズもそのリストに含まれてしまったのは避けられないことだった。だが彼の場合には同情の余地が存在する。

マシューズはNew RepublicのStephen Glassのような捏造者やニューヨーク・タイムズを辱めた最近のレポーターJayson Blair(その嘘は精巧で故意によるものだった)のような人間と一緒にされるべきではなかった。マシューズは利益のために動いたのではなかった。カストロと別れてからも彼にはキューバへの自由な渡航が認められていた。マシューズは編集長からは革命に関する記事を描くことを禁止されていたが、外国の指導者によってではない。マシューズがカストロを擁護し続けたのはキューバから締め出されることを恐れたためではない。彼にとってジャーナリズムとは弱者の声に耳を傾けるものだったからだ。彼はニューヨークの労働者階級のユダヤ人として育った。散髪屋の子供でありまた帝国ロシアに占領された19世紀ポーランドからのユダヤ人移民の孫でもあった。マシューズがコロンビア大学の学位から恩恵をこうむっていたのは事実だが、彼が学位を取得したのはフランスでアメリカ軍に従軍した後のことだった。1930年代から40年代に彼は社会主義にのめり込んでいった。そして時には自分を犠牲にしてでも労働者や貧しい人のために尽くした。戦時下のローマでは食料が不足しアメリカの特派員へ支給されるPX配給カードは黄金よりも価値があった。マシューズは彼に割り当てられた食料をすべて蓄えて飢えていたイタリアの労働者に与えた。

(省略)

日本以外の左翼は本当にまともなのか?

Zinn's influential history textbook has problems, says Stanford education expert

DAVID PLOTNIKOFF

先週87歳で死亡したHoward Zinnは大変悪い影響力を持った歴史学者だった。どれほどの影響力かというと、これほどまでに多くの若いアメリカ人の心を汚染した人間はほんの数人しかいないというほどだった。

彼は20冊以上の本を書いているが、その中でも最も売れたのは1980年出版の「A People's History of the United States」だろう。その初版は4000冊しか売れていなかったが、2003年までには合計で100万冊を売り上げた。2010年現在ではその本の売上は200万冊になろうとしている。売上のほとんどを支えているのが、全米中の高校と大学でこの本が指定図書に指定されているという事実だろう。その結果として、彼は大学関係者で最も有名な人間となり最も公演を依頼される人間の一人となった。彼の同僚で同好の士のNoam Chomskyが先週語ったように、「彼にとって幸運だったのは彼の本が有名になり多くの人に読まれるようになったことだろう。彼は公演の依頼をたくさん抱えていた」。それに付け加えて、「彼の本は数百万人の人々が過去を見るその見方を変えた」と語った。

その点においてだけは彼は正しい。その根本思想において「A People's History」はマルクス主義者の狂った歴史観を背景としていて,
アメリカが国内だけに留まらず地球上のすべての人々に性差別主義、レイシズム、帝国主義などを拡散させているすべての悪の根源として描かれている。

彼の狂った歴史観には、自由市場は強欲や悪徳、苦しみを生み出すという彼の確信が深く反映されている。「資本主義は貧しい人に苦しみしか生み出さない」と長年主張してきた彼だったが、「アメリカの資本主義はようやく崩壊しようとしている。素晴らしいことだ!私はとてもうれしい!」と2009年の3月に喜びの発言をしている。

この本は、資本主義の荒波によって貧困と抑圧に飲み込まれていった人々の目を通してアメリカの歴史を描いたものだと主張している。インディアン、黒人、女性、搾取された「労働者」などだ。彼は自身の著作や授業が政治活動であると1995年にはっきりと宣言している。

「私は自分の著作や授業を社会的闘争の一部であるようにしたいと願っている。私は自分が歴史の記録者や教師としてだけではなく歴史の一部でありたいと願っている。歴史自体が政治的行いであり、そのような歴史に対する態度が私の著作や授業に一貫して反映されている」

その3年後のインタビューで、彼はこの本を書いた目的が客観的な歴史や歴史の全体像を伝えることそのどちらでもないとはっきりと記している。

「客観的な歴史や全体像というものは存在しない。すべての説明は不十分だ。伝統的な歴史はもう数千回と繰り返し教えられたのでもう必要ないというのが私の考えだ」。

彼の本は「デタラメだらけだ」と主張する批判者に対しては、彼は次のようにやり返す。

「だから何だ?抑圧された人々の観点から見れば、そんなことはどうでもいい!」。

そのような考えと整合的になるように、彼はアメリカの歴史を継続した堕落と記している。彼が言うところでは、アメリカは生まれながらにして原罪を背負っているので、指導者たちがマルクス主義の素晴らしさに目覚めるまでは永久に倫理を欠くだろうと主張している(つい最近、これに似た主張を何処かで見たばかりのような…)。

彼が語るところでは、アメリカの建国の父は「国民をコントロールする最も効率的なシステムを作り上げた。そして将来の指導者たちにパターナリズムと命令の組み合わせの優位さを示したという」。独立宣言は神から与えられた権利についてやそこから論理的に導かれる制限された政府の基本原則に関する革命的な声明ではなく、すでに裕福なほんの一握りの「白人男性」をさらに豊かにするためだけの目的で、イギリス国王に刃向かうように人々を操作した皮相的な試みだという。そして「イギリスの北米侵略」をすべては「私有財産権に基づいた文明が生み出した強力なエネルギーによって突き動かされた」結果だとし、「競争によって支配」された「暴力的な歴史の一時代」だったと記している。

ニューイングランドに移民してきたピルグリムたちは「広大な空き地にやってきたのではなくインディアンの部族が住む領土が目的だった」と彼は説明する。白人の「侵略者」が北東アメリカの海岸沖に初めて現れるその時までは兄弟愛に溢れたインディアンたちは完全な調和に包まれた格差も戦争もない共同生活をずっと送っていたと描きながら。

彼の説明からは、インディアンの歴史が部族間の凄まじい暴力による戦争の歴史だったことや奴隷制が多くのインディアンの部族で極めて大きな役割を果たしていたことを少しも学ぶことはないだろう。実際、ヨーロッパ人が初めて訪れる遥か前から、奴隷制はアメリカ北東部でもすでに発達していて、幾つかの部族では人口の10%から15%を構成するほどだった。だが彼の歴史では、唯一重要なのは白人と黒人間の奴隷だけとされる。白人以外の悪徳は彼の興味から外れ存在しなかったものとされる。善と悪との境界は大胆にはっきりと引かれる。曖昧なものは一切ない。白人だけが悪いことをし、白人以外は良いことをしていたという世界観だ。

彼の非難は過去だけに留まらない。彼は現代のアメリカを「空気、海、河川を汚染し」(環境汚染が劇的に改善している)、「あまりにも多くのお金を軍事費に支出し」(GDP比で見て3%以下)、「その逆に福祉には少ししか費やしていない」(GDP比で見て北欧と大して変わらない)と主張している。これらはすべて自由市場のせいだと彼は訴える。

それに対して共産主義の独裁国家に対する彼の評価はアメリカとは際立った好対象を見せる。例えば毛沢東の中国は(彼の見るところでは)、「長い歴史の中で、人民の政府に最も近い時代」だったと評価する。同様にカストロのキューバも、(彼によると)「血塗られた抑圧の時代は存在しなかった」。そして1980年代のニカラグアのマルクス主義ゲリラのサンディニスタ政権はニカラグア国民に「歓迎」されていたと記している一方で、自由選挙で大統領選に勝利した敵対勢力のコントラ(アメリカによって支援されていた)は「ニカラグア国民からはまったく支持されていない」「テロリストグループ」として記されている。

冷戦時に彼はソビエトを支持していた。そして「Terrorism and War」という記事で彼はアメリカをテロリスト国家として非難し、ジハーディストたちはアメリカの帝国主義から身を守っている勇敢な自由の闘士と評価していた。

中東の同盟国であるイスラエルも彼の攻撃の対象とされた。例えば「1967年の6日間戦争とその戦争でイスラエルが土地を占領した後で」、彼は「イスラエルを敵対的なアラブ諸国に包囲され窮地に陥った小国ではなく拡大主義の国として見始めるようになった」と語っている。彼の話からすっぽりと抜け落ちているものは、6日間戦争でのイスラエルの立場はアラブ諸国の侵略に対する完全に自己防衛的なもので、その戦いでイスラエルが占領した土地は領土の拡大が目的ではなくイスラエルを地上から消滅させたいと願っているアラブ諸国から身を守るための絶望的な戦いに勝利するために必要に迫られて占領したものだという事実に関する認識だ。

長きに渡って大衆に向かって喋り続けているうちに、イスラエルとアメリカに対する彼の憎悪は彼の著作や授業の支配的なテーマとなった。すでに述べたように、彼は歴史の授業を「政治的な戦い」の道具にしたいと率直に語っている。彼の最終的な目的は、若年世代を革命闘士へと仕立て上げ革命闘士が抱くアメリカに対する憎悪を利用して「国家の優先事項」と「システム」を変更させるように駆り立てることにある。「システムの囚人は反抗を続けるだろう」と彼は語り、いつの日にか「私たちの孫たち、ひ孫たちは素晴らしい世界を見ることになるだろう」と。

その「世界」とは1億人以上を殺害したマルクス派のユートピアのことだろう。そしてアメリカの歴史家の1人はそのユートピアをどのような手段を用いてでも地上に実現させよと生徒と読者に働き掛けている。

HOWARD ZINN’S HISTORY OF HATE

John Perazzo

Howard Zinnの「A People's History of the United States」は最初に出版されたのが1980年になるが現在ではアメリカ人が歴史を学ぶスタンダードな情報源となっている。スタンフォード大学の教育学教授のSam Wineburgはその本が正すと主張していた歴史の教科書の誤りを自らが犯していると指摘した。

この本が大衆にどれぐらい受けたかは誇張してもし切れない。この本に込められたイデオロギーは疑いようもなく極左のものではあるが、その影響力は200万冊というコピーが示す数字や郊外のスーパーストアの店頭などによく陳列されていることが示すよりも遥かに大きい。

彼は2008年にNational Council for the Social Studies(アメリカで社会学を学ぶ教師たちの最大の集会)で公演を行った。彼はその2年後に亡くなっているが、彼の本はアマゾンのベストセラーの7番目を記録している。

『この本が最初に出版されて以来、「A People's History」はこれまで語られてきた歴史に対して懐疑的な見方を提示するという立場から、多くの人にとって歴史の教科書そのものと変貌しましたとWineburgは最新版のAmerican Educatorの記事で記している。「多くの生徒にとってこの本は彼らが最初に読む歴史の教科書であり、そして人によっては唯一読む歴史の教科書でしょう」と彼は語っている』。

歴史教育の分野では世界で最高の研究者の1人であるWineburgは、歴史がどのように教えられるべきかというもっと大きな問題に関して言及する。彼は、歴史的不正義とZinnが見做すものに光を当てようとする試みは質の低い二次的なソースや彼の主張を否定する証拠の排除などに象徴されるように独善的な行いであると語った。

彼の批判は1930年代から冷戦時に関する記述を特に扱っている。彼がまず批判するのはアフリカ系アメリカ人は第2次世界大戦の勝敗にほとんど無関心だったという主張だ。その主張は3つの個人的な主観的事例に基づいていると彼は語る。黒人のジャーナリストからの引用と黒人の生徒からの引用、黒人向け雑誌に掲載されていたポエムだ。そしてそれに反するすべての証拠は排除している。

彼はその個人的事例を二次的なソースであるLawrence Wittnerの1969年の本「Rebels Against War」から引っ張ってきているが、その本の内部で彼の主張とは反する部分は無視している。彼が無視している部分で目を引くのは徴兵制の対象者のうちアフリカ系アメリカ人の24%は戦える能力があるとされていたのに対して徴兵を逃れようとした黒人は全体の4.4%を占めるに過ぎなかったという事実だ。同様のことが他の事例にも当てはまる。「驚くほどわずかの黒人しかC.O.とならなかった」とWittnerは付け加える。

同様に、彼はアメリカが日本に原子爆弾を投下する前に降伏の準備を進めていたという自らの主張の根拠を日本からロシアに宛てられたたった一通の電報に求めている。彼はその電報に対する反応を無視しているばかりか、日本は最後の最後まで戦うつもりだったという主張を支持する大量の証拠が彼の本が出版されて以降に現れていることも完全に無視しているとWineburgは記している。

Wineburgは、最初に出版された時には彼の本にも価値はあっただろうということを認める。当時の歴史の教科書は確かに一面的な見方で書かれていたことは否めない。ジンは当時は見逃されがちだった異なる視点からの見方を前面に推し進めた。

だが、彼の本があまりにも多くのアメリカ人にとって唯一の歴史の教科書となってしまった現在では問題が発生しているとWineburgは語る。

歴史は複雑なものだとWineburgは語る。教育者に課せられた最も大きな責任はその複雑さを解釈する余地を残しておくことだと彼は語る。「左翼や右翼が推し進めたがる、真実としての歴史、は曖昧さをひどく忌み嫌うものです」と彼は記している。「真実としての歴史といったものは複雑さを受け入れる私たちの能力を衰えさせるでしょう。そのような歴史観はそのルールに従わない例外の存在に対して私たちにアレルギーを起こさせます。最も問題なのは、新しい証拠が現れた時に考えを改める勇気を私たちから奪い去ってしまうことです」と付け加えた。

「そのような歴史観はこれからも未来永劫自分たちの考えは変わることはないという安心感を与えるのでしょう」と彼は語った。

リベラルが言っていた反米気運とは真逆に世界中で親米気運が高まっていた?

America’s Global Image Remains More Positive than China’s

Chapter 1. Attitudes toward the United States

アメリカに対する国際的態度は全体的に見てポジティブだった。38カ国のうち28カ国で半数以上の人たちがアメリカに対して好意的だと語った。

ヨーロッパはアメリカに対して高い評価を与えた。特にイタリアでは76%の人がアメリカに対して好意的だと答えている。ギリシャは好意的だと答えた人が半数を下回った唯一の国だった。

イスラエルでは83%がアメリカに対して好意的だと答えた。だがユダヤ人(90%)とアラブのコミュニティ(42%)の間では大きな違いがあった。

アメリカはアジア/太平洋地域でほとんどの国から好意的評価を受けた。これは特にフィリピン、韓国、日本、オーストラリアでそうだった。これらの国では3分の2以上がアメリカに対して好意的だと答えた。アメリカはイスラム教徒が多数を占めるインドネシアとマレーシアでも好意的な評価を受けた。仏教徒のコミュニティ(72%)はイスラム教徒よりもアメリカに対して好意的だと答える人が多かった。

だがアジアでは2つの例外があった。中国とパキスタンだ。中国の態度はここ3年ほどで大きく変化した。2010年には58%がアメリカに対して好意的だと答えていた。現在では40%となっている。その一方で、パキスタンでは反米感情が強かった。

アメリカはラテンアメリカでもほとんどの国から好意的な評価を受けた。特にエルサルバドル、ブラジル、チリ、メキシコでそうだった。ブラジルとメキシコはアメリカに対して好意的だと答える人を大幅に増やした。国家の指導者がアメリカに対して敵対心を露わにしていたボリビアやベネズエラでからでさえも、アメリカに対して好意的だと応える人が多かった。政治的左派よりも政治的右派の方でこの傾向は強く見られたが。ラテンアメリカでも例外はアルゼンチンで、41%が好意的だと答えるに留まった。

これまで同様に、アフリカの国々はアメリカに対して好意的だと答える人が圧倒的だった。調査が行われたすべての国で、最低でも70%以上の人がアメリカに対して好意的だと答えた。これには大部分がキリスト教国家であるウガンダ、ガーナ、ケニア、南アフリカなどに加えて、イスラム教徒が多数を占めるセネガルなども含まれている。人口がキリスト教徒とイスラム教徒に半分ずつに分かれているナイジェリアでも半数以上がアメリカに対して好意的だと答えた。その割合はキリスト教徒(82%)の方がイスラム教徒(57%)よりも高かったが。

Young People Give U.S. Higher Marks

調査したほとんどの国で、30歳以下の人たちが特にアメリカに対して好意的だと答えた。

中国の30歳以下の半分はアメリカに対して好意的だと答えた。これが50歳以上だと27%だった。同様に、マレーシアでは30歳以下と50歳以上の間に21%ポイントの差が見られた。二桁以上のギャップはヨーロッパ、中東、ラテンアメリカ、アフリカでも見られた。

多くの国で、大卒の方がアメリカに対して好意的だと答える割合が高かった。例えば、中国の大卒の60%がアメリカに対して好意的だと答えた。大卒以外では39%だった。ロシアでは、大卒の60%がアメリカに対して好意的だと答えた。大卒以外では48%だった。パキスタン、ベネズエラ、チュニジアでも大卒と大卒以外の間で二桁のギャップが見られた。

Rating the American People

アメリカ人に対する好意的な評価はアメリカに対する好意的な評価と高い相関を見せた。38カ国のうち29カ国でアメリカに対して好意的な評価が半数を上回った。フィリピン、ガーナ、韓国、イスラエル、セネガル、ケニア、エルアルバドルなどで少なくとも75%を上回った。

イスラム教徒が大多数を占めるパキスタン、トルコ、エジプトで好意的だと答えた人は少なかった。だが一般的に、エジプト(アメリカ人に対して32%、アメリカに対して16%)とヨルダン(アメリカ人に対して31%、アメリカに対して14%)など国ではなくアメリカ人に対して好意的だと答えた人の割合が有意に高かったことは特筆に値する。

Many See U.S. as Partner

アメリカが自分たちの国にとってパートナーか、敵か、どちらでもないかと尋ねられると、大多数はパートナーだと答えた。敵だと答えたのはイスラムの4つの国だけだった。

アメリカをパートナーと見る人の割合が特に高かったのはアフリカだった。調査したすべての国で大多数がアメリカをパートナーだと答えた。ヨーロッパでも8カ国のうち5カ国で半数以上がアメリカをパートナーだと答えた。だがギリシャではパートナーだと答えた人は30%だった。

ロシアでは回答がきれいに分かれた。31%がパートナーだと答える一方で26%が敵だと答え35%がどちらでもないと答えた。

アジア/太平洋地域の7カ国のうち5カ国の半数以上がアメリカをパートナーだと答えた。敵だと答えた人はほとんどいなかった。唯一の例外はパキスタンだった。

ラテンアメリカでは、エルサルバドル、ブラジル、チリ、メキシコの大多数がアメリカをパートナーだと答えた。前述したようにラテンアメリカでは例外的なアルゼンチンとボリビアでは33%ほどだった。だがどちらの国でもパートナーだと答えた割合が敵だと答えた割合よりも高かった。

American Culture and Ideas

調査したアフリカの国々で、人々はアメリカのソフトパワーを評価した。ラテンアメリカでも、アルゼンチン、ボリビア、ヴェネズエラでは少し割合が低下するが、この傾向は同じだった。

アメリカの科学と技術は特に強烈な印象を与えていた。ラテンアメリカの7つの国すべてとアフリカの6つの国すべてで大多数がアメリカの科学と技術を評価すると答えた。

アメリカの音楽、映画、テレビも世界中で人気だった。半数を下回った唯一の例外はウガンダだった(47%)。

アフリカでは、アメリカのビジネスは非常に人気だった。だがラテンアメリカでは少し分かれた。エルサルバドル、ブラジル、チリ、メキシコでは少なくとも半数以上がアメリカのビジネスに好意的だと答えた。だがボリビアでは44%、ベネズエラでは42%、アルゼンチンでは35%だった。

同様に、アメリカの民主主義もアフリカで人気が高く、ラテンアメリカで少し分かれた。エルサルバドルとブラジルが半数を超えた唯一の国だった。だがアメリカの民主主義は過去よりも現在の方が3つのラテンアメリカの国で好意的だと応える人が多くなっていた。この傾向はウガンダとケニアでも見られた。

アメリカの文化に関するこれらの質問すべてで、アメリカに対して好意的だと答える人の割合は若年層で特に高かった。例えば、30歳以下のボリビア人は72%がアメリカの音楽、映画、テレビを好むと答えた。50歳以上では32%だった。セネガルでも似た傾向が見られた。30歳以下の77%がアメリカの音楽、映画、テレビを好むと答えた。50歳以上では33%だった。

U.S. Economic Aid

アメリカの援助はアフリカで高い評価を受けた。調査した6つの国で少なくとも半数がアメリカの援助は自分たちの国に良い影響を与えていると答えている。ケニア、ガーナ、ウガンダでは少なくとも60%以上がそのように答えた。

(以下、省略)