2017年2月15日水曜日

日本以外の左翼は本当にまともなのか?

Zinn's influential history textbook has problems, says Stanford education expert

DAVID PLOTNIKOFF

先週87歳で死亡したHoward Zinnは大変悪い影響力を持った歴史学者だった。どれほどの影響力かというと、これほどまでに多くの若いアメリカ人の心を汚染した人間はほんの数人しかいないというほどだった。

彼は20冊以上の本を書いているが、その中でも最も売れたのは1980年出版の「A People's History of the United States」だろう。その初版は4000冊しか売れていなかったが、2003年までには合計で100万冊を売り上げた。2010年現在ではその本の売上は200万冊になろうとしている。売上のほとんどを支えているのが、全米中の高校と大学でこの本が指定図書に指定されているという事実だろう。その結果として、彼は大学関係者で最も有名な人間となり最も公演を依頼される人間の一人となった。彼の同僚で同好の士のNoam Chomskyが先週語ったように、「彼にとって幸運だったのは彼の本が有名になり多くの人に読まれるようになったことだろう。彼は公演の依頼をたくさん抱えていた」。それに付け加えて、「彼の本は数百万人の人々が過去を見るその見方を変えた」と語った。

その点においてだけは彼は正しい。その根本思想において「A People's History」はマルクス主義者の狂った歴史観を背景としていて,
アメリカが国内だけに留まらず地球上のすべての人々に性差別主義、レイシズム、帝国主義などを拡散させているすべての悪の根源として描かれている。

彼の狂った歴史観には、自由市場は強欲や悪徳、苦しみを生み出すという彼の確信が深く反映されている。「資本主義は貧しい人に苦しみしか生み出さない」と長年主張してきた彼だったが、「アメリカの資本主義はようやく崩壊しようとしている。素晴らしいことだ!私はとてもうれしい!」と2009年の3月に喜びの発言をしている。

この本は、資本主義の荒波によって貧困と抑圧に飲み込まれていった人々の目を通してアメリカの歴史を描いたものだと主張している。インディアン、黒人、女性、搾取された「労働者」などだ。彼は自身の著作や授業が政治活動であると1995年にはっきりと宣言している。

「私は自分の著作や授業を社会的闘争の一部であるようにしたいと願っている。私は自分が歴史の記録者や教師としてだけではなく歴史の一部でありたいと願っている。歴史自体が政治的行いであり、そのような歴史に対する態度が私の著作や授業に一貫して反映されている」

その3年後のインタビューで、彼はこの本を書いた目的が客観的な歴史や歴史の全体像を伝えることそのどちらでもないとはっきりと記している。

「客観的な歴史や全体像というものは存在しない。すべての説明は不十分だ。伝統的な歴史はもう数千回と繰り返し教えられたのでもう必要ないというのが私の考えだ」。

彼の本は「デタラメだらけだ」と主張する批判者に対しては、彼は次のようにやり返す。

「だから何だ?抑圧された人々の観点から見れば、そんなことはどうでもいい!」。

そのような考えと整合的になるように、彼はアメリカの歴史を継続した堕落と記している。彼が言うところでは、アメリカは生まれながらにして原罪を背負っているので、指導者たちがマルクス主義の素晴らしさに目覚めるまでは永久に倫理を欠くだろうと主張している(つい最近、これに似た主張を何処かで見たばかりのような…)。

彼が語るところでは、アメリカの建国の父は「国民をコントロールする最も効率的なシステムを作り上げた。そして将来の指導者たちにパターナリズムと命令の組み合わせの優位さを示したという」。独立宣言は神から与えられた権利についてやそこから論理的に導かれる制限された政府の基本原則に関する革命的な声明ではなく、すでに裕福なほんの一握りの「白人男性」をさらに豊かにするためだけの目的で、イギリス国王に刃向かうように人々を操作した皮相的な試みだという。そして「イギリスの北米侵略」をすべては「私有財産権に基づいた文明が生み出した強力なエネルギーによって突き動かされた」結果だとし、「競争によって支配」された「暴力的な歴史の一時代」だったと記している。

ニューイングランドに移民してきたピルグリムたちは「広大な空き地にやってきたのではなくインディアンの部族が住む領土が目的だった」と彼は説明する。白人の「侵略者」が北東アメリカの海岸沖に初めて現れるその時までは兄弟愛に溢れたインディアンたちは完全な調和に包まれた格差も戦争もない共同生活をずっと送っていたと描きながら。

彼の説明からは、インディアンの歴史が部族間の凄まじい暴力による戦争の歴史だったことや奴隷制が多くのインディアンの部族で極めて大きな役割を果たしていたことを少しも学ぶことはないだろう。実際、ヨーロッパ人が初めて訪れる遥か前から、奴隷制はアメリカ北東部でもすでに発達していて、幾つかの部族では人口の10%から15%を構成するほどだった。だが彼の歴史では、唯一重要なのは白人と黒人間の奴隷だけとされる。白人以外の悪徳は彼の興味から外れ存在しなかったものとされる。善と悪との境界は大胆にはっきりと引かれる。曖昧なものは一切ない。白人だけが悪いことをし、白人以外は良いことをしていたという世界観だ。

彼の非難は過去だけに留まらない。彼は現代のアメリカを「空気、海、河川を汚染し」(環境汚染が劇的に改善している)、「あまりにも多くのお金を軍事費に支出し」(GDP比で見て3%以下)、「その逆に福祉には少ししか費やしていない」(GDP比で見て北欧と大して変わらない)と主張している。これらはすべて自由市場のせいだと彼は訴える。

それに対して共産主義の独裁国家に対する彼の評価はアメリカとは際立った好対象を見せる。例えば毛沢東の中国は(彼の見るところでは)、「長い歴史の中で、人民の政府に最も近い時代」だったと評価する。同様にカストロのキューバも、(彼によると)「血塗られた抑圧の時代は存在しなかった」。そして1980年代のニカラグアのマルクス主義ゲリラのサンディニスタ政権はニカラグア国民に「歓迎」されていたと記している一方で、自由選挙で大統領選に勝利した敵対勢力のコントラ(アメリカによって支援されていた)は「ニカラグア国民からはまったく支持されていない」「テロリストグループ」として記されている。

冷戦時に彼はソビエトを支持していた。そして「Terrorism and War」という記事で彼はアメリカをテロリスト国家として非難し、ジハーディストたちはアメリカの帝国主義から身を守っている勇敢な自由の闘士と評価していた。

中東の同盟国であるイスラエルも彼の攻撃の対象とされた。例えば「1967年の6日間戦争とその戦争でイスラエルが土地を占領した後で」、彼は「イスラエルを敵対的なアラブ諸国に包囲され窮地に陥った小国ではなく拡大主義の国として見始めるようになった」と語っている。彼の話からすっぽりと抜け落ちているものは、6日間戦争でのイスラエルの立場はアラブ諸国の侵略に対する完全に自己防衛的なもので、その戦いでイスラエルが占領した土地は領土の拡大が目的ではなくイスラエルを地上から消滅させたいと願っているアラブ諸国から身を守るための絶望的な戦いに勝利するために必要に迫られて占領したものだという事実に関する認識だ。

長きに渡って大衆に向かって喋り続けているうちに、イスラエルとアメリカに対する彼の憎悪は彼の著作や授業の支配的なテーマとなった。すでに述べたように、彼は歴史の授業を「政治的な戦い」の道具にしたいと率直に語っている。彼の最終的な目的は、若年世代を革命闘士へと仕立て上げ革命闘士が抱くアメリカに対する憎悪を利用して「国家の優先事項」と「システム」を変更させるように駆り立てることにある。「システムの囚人は反抗を続けるだろう」と彼は語り、いつの日にか「私たちの孫たち、ひ孫たちは素晴らしい世界を見ることになるだろう」と。

その「世界」とは1億人以上を殺害したマルクス派のユートピアのことだろう。そしてアメリカの歴史家の1人はそのユートピアをどのような手段を用いてでも地上に実現させよと生徒と読者に働き掛けている。

HOWARD ZINN’S HISTORY OF HATE

John Perazzo

Howard Zinnの「A People's History of the United States」は最初に出版されたのが1980年になるが現在ではアメリカ人が歴史を学ぶスタンダードな情報源となっている。スタンフォード大学の教育学教授のSam Wineburgはその本が正すと主張していた歴史の教科書の誤りを自らが犯していると指摘した。

この本が大衆にどれぐらい受けたかは誇張してもし切れない。この本に込められたイデオロギーは疑いようもなく極左のものではあるが、その影響力は200万冊というコピーが示す数字や郊外のスーパーストアの店頭などによく陳列されていることが示すよりも遥かに大きい。

彼は2008年にNational Council for the Social Studies(アメリカで社会学を学ぶ教師たちの最大の集会)で公演を行った。彼はその2年後に亡くなっているが、彼の本はアマゾンのベストセラーの7番目を記録している。

『この本が最初に出版されて以来、「A People's History」はこれまで語られてきた歴史に対して懐疑的な見方を提示するという立場から、多くの人にとって歴史の教科書そのものと変貌しましたとWineburgは最新版のAmerican Educatorの記事で記している。「多くの生徒にとってこの本は彼らが最初に読む歴史の教科書であり、そして人によっては唯一読む歴史の教科書でしょう」と彼は語っている』。

歴史教育の分野では世界で最高の研究者の1人であるWineburgは、歴史がどのように教えられるべきかというもっと大きな問題に関して言及する。彼は、歴史的不正義とZinnが見做すものに光を当てようとする試みは質の低い二次的なソースや彼の主張を否定する証拠の排除などに象徴されるように独善的な行いであると語った。

彼の批判は1930年代から冷戦時に関する記述を特に扱っている。彼がまず批判するのはアフリカ系アメリカ人は第2次世界大戦の勝敗にほとんど無関心だったという主張だ。その主張は3つの個人的な主観的事例に基づいていると彼は語る。黒人のジャーナリストからの引用と黒人の生徒からの引用、黒人向け雑誌に掲載されていたポエムだ。そしてそれに反するすべての証拠は排除している。

彼はその個人的事例を二次的なソースであるLawrence Wittnerの1969年の本「Rebels Against War」から引っ張ってきているが、その本の内部で彼の主張とは反する部分は無視している。彼が無視している部分で目を引くのは徴兵制の対象者のうちアフリカ系アメリカ人の24%は戦える能力があるとされていたのに対して徴兵を逃れようとした黒人は全体の4.4%を占めるに過ぎなかったという事実だ。同様のことが他の事例にも当てはまる。「驚くほどわずかの黒人しかC.O.とならなかった」とWittnerは付け加える。

同様に、彼はアメリカが日本に原子爆弾を投下する前に降伏の準備を進めていたという自らの主張の根拠を日本からロシアに宛てられたたった一通の電報に求めている。彼はその電報に対する反応を無視しているばかりか、日本は最後の最後まで戦うつもりだったという主張を支持する大量の証拠が彼の本が出版されて以降に現れていることも完全に無視しているとWineburgは記している。

Wineburgは、最初に出版された時には彼の本にも価値はあっただろうということを認める。当時の歴史の教科書は確かに一面的な見方で書かれていたことは否めない。ジンは当時は見逃されがちだった異なる視点からの見方を前面に推し進めた。

だが、彼の本があまりにも多くのアメリカ人にとって唯一の歴史の教科書となってしまった現在では問題が発生しているとWineburgは語る。

歴史は複雑なものだとWineburgは語る。教育者に課せられた最も大きな責任はその複雑さを解釈する余地を残しておくことだと彼は語る。「左翼や右翼が推し進めたがる、真実としての歴史、は曖昧さをひどく忌み嫌うものです」と彼は記している。「真実としての歴史といったものは複雑さを受け入れる私たちの能力を衰えさせるでしょう。そのような歴史観はそのルールに従わない例外の存在に対して私たちにアレルギーを起こさせます。最も問題なのは、新しい証拠が現れた時に考えを改める勇気を私たちから奪い去ってしまうことです」と付け加えた。

「そのような歴史観はこれからも未来永劫自分たちの考えは変わることはないという安心感を与えるのでしょう」と彼は語った。

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