2017年2月15日水曜日

左翼にとって、14万人を殺害したキューバのカストロは英雄で1000人の共産主義者を殺害したと云われているチリのピノチェトは大悪魔?Part2

Fidel's Favorite Propagandist

Glenn Garvin

アメリカのジャーナリズムに欠けているものが何か私たちはとうとう分かったようだ。このところ新聞の購読数もテレビの視聴率も低下しているのはビタミン不足が原因だったらしい。アメリカ人が求めているものは情報ではなく弱者への思いやりらしい。カトリーナの報道の勝者は最も正しい報道をしたレポーターではなくて最もやかましく騒いだレポーターらしい。

CNNのアンダーソン・クーパーは最も称賛を浴びた。「この4日間で、通りに死体が転がっているのを幾つも見た。非常に混乱し、怒り、不満を露わにしている人々でここは溢れている」と語り、ハリケーンの被害者の救援のために全力を尽くしていると説明しているMary Land-rieu (D-La.)議員をその場で怒鳴りつけた。この子供じみたかんしゃくは全米に放送され、Vanity Fairから「国家の良心」との称賛が彼に与えられた。

そのような放送は見世物としては面白いのかもしれない。だがその報道の中身はすべてが信じ難いほどに、そして滑稽なほどに間違いだった。ニューオリンズのスーパードーム内部でレイプと殺人が横行しているという狂ったように世界中に伝えられた報道は?1つも起こっていなかった。死体の山は?なかった。救援ヘリに向かって発砲があったという報道は?空想だった。カトリーナによる死者数が1万人を超えるという報道は?500%ぐらい外れていた。もう少し感情を抑えて冷静な報道を心掛ければ皆が幸せになれるだろう。

これはジャーナリズムが学ぶべき新たな教訓という訳ではまったくない。だがジャーナリストにとってこれを受け入れることは恐ろしいまでの苦痛なのだろう。その教訓を受け入れなかったことの結果は、嘘がバレていない人たち(Anderson Cooper, meet Geraldo Rivera)から、汚名を着せられた人(Judith Miller)まで多岐にわたる。後者の汚名を着せられたに当てはまるのがまさにハーバート・マシューズだろう。彼はカストロにインタビューした初めてのアメリカ人で、カストロが残虐で少し狂っていた殺人狂の独裁者だということを最後まで受け入れなかったアメリカ人でもあった。

愚か者だけが「キューバ革命のような出来事に対して、ジャーナリストは考えや感情、さらにはバイアスまでも持つべきではない」と主張するだろうと彼は書き記している。『良い記事に必要不可欠なものの1つはスコット・フィッツジェラルドがかつて呼んだように「強烈な感情から迸るカタルシス」でなければならないとマシューズは語っている。「カタルシスはドラマが生まれる感情のはけ口のようなものだ」。アンソニー・デ・パルマがマシューズの伝記で記しているように、それこそが彼を破滅に追いやったものだ。「特派員の報道を有名なものにしたのと同じそのパッションは諸刃の剣にもなりうる。そして信頼も信憑性もどちらも粉々にしてしまう危険性をはらんでいる」と自身もニューヨーク・タイムズのラテンアメリカ特派員であるデパルマはこの出来事に対してはっきりと不快感を露わにしている。

マシューズの死後から30年以上が、ニューヨーク・タイムズから姿を消してから40年以上が経っている現在では、アメリカでも彼のことを覚えている人はほとんどいない。だが冷戦の真っ最中だった1950年代から1960年代では、彼はアメリカのジャーナリストとして最も論争を呼んだ人間だった。保守派はとりわけNational Reviewなどは当時ニューヨーク・タイムズに対して「私はニューヨーク・タイムズのお陰で仕事にありつけた!」と口にしているカストロの絵を掲載するなど彼らを皮肉った広告を打ち出した。左翼のシンポジウムなどでも彼は出席を断られた。議会(そしてデパルマによるとFBIも)も彼のことを調べていた。カストロと敵対するキューバのグループなどはニューヨーク・タイムズのビルで抗議活動を行っていた。彼をキューバの英雄として称賛する声もあれば、彼を裏切り者のユダとして糾弾する声もあった(こちらが圧倒的だったが)。このビルの10階をオフィスとしているニューヨーク・タイムズの役員たちはこの惨状を呆然と眺めているしか出来なかった。

この出来事は初めはスクープとして歓迎された。1957年の2月時点ではキューバの独裁者バチスタを含め多くの人々がゲリラのリーダー、フィデル・カストロは死亡したと思っていた。マシューズは彼をシエラ・マエストラ山で見つけインタビューをし写真を撮った。このニュースはバチスタを激怒させバチスタの敵対者を勇気づけ最終的にはカストロが勝利することになる武力闘争を開始させた。

マシューズの擁護者たちが繰り返しプロパガンダ(カストロについて彼を非難することは雷雨が起こったことで気象学者を非難するようなものだ)を流しているように、話が本当にそれほど単純であったならばどれほど良かったことだろう。マシューズの最初期の記事が明らかにしているように話はそのように単純ではない。バチスタも他の記者たちも掴めなかった情報をマシューズが入手したことは称賛に値するが、彼はカストロをバチスタの「最大の敵」と明らかな嘘をついてしまった。そして「キューバ社会に影響力を持つ数百人という人々がカストロを支援している。彼が急進的で、民主的で、それ故反共産主義である新しいキューバを約束すると宣言しているからだ」と断言した。「数千人というキューバ市民がカストロと彼の約束を心から支持している」ことを保証するともマシューズは語った。カストロが狂信的だということは一部認めるものの、彼は「抗しきれない」カリスマ性を持った「理想の人、勇気の人、特筆すべき指導者の資質を兼ね備えた人」だとマシューズは伝えた。

他にも彼を称賛する言葉が延々と綴られていた、その数は4000単語にも及ぶ!だがその影響を知っておくだけで十分だろう。

カストロが共産主義者ではないとマシューズが断言したことは、言うまでもなくその後の彼を苦しめ続けた。この主張はマシューズの信じられないほどの騙されやすさを示す最も極端な事例ではあるものの、間違ってもただ1つの事例ではない。要するに、マシューズが私たちに伝えたことはほぼすべてが嘘だった。

独裁者バチスタの生徒だったカストロはメキシコに長い間国外追放された後、3ヶ月前にキューバに帰ってきていたところだった。マシューズがインタビューした時のカストロの兵士の人数は「数百人ではなくて」たったの18人でまともな装備もなかった。マシューズの主張とは異なりカストロは大規模な軍事作戦など遂行しておらず、たった2回の攻撃、それもそのうちの1つはせいぜいが政府の偵察隊の小隊6人ほどを撃破したに過ぎなかった。マシューズはバチスタが「敗走している」と私たちに伝えた。実際にはカストロの軍は(そもそもが極めて少人数だったが)政府の空爆によってほとんど殲滅状態にあり地元の農民たちから度重なる裏切りを受けていた。直近の裏切り者もマシューズがカストロのキャンプを離れた恐らく数時間内に射殺されていた。恐らくはゲリラ軍の最も残虐な処刑人であるフィデルの弟ラウル・カストロの手によって(ラウルのことを少ししか言及しなかったことこそがマシューズの記事を本当に貶めているものだ。「ラウル・カストロのことを愉快な人だったなどとは二度と言わない」と恐らくは体を震わせながら1961年にマシューズは書いたのだろう)。

私たちはこれらのことをカストロの側近であるラウルとチェ・ゲバラの日記から知った。それとカストロに仕えた兵士たちが書いたものからも。だが最大の情報源はカストロ自身だ。インタビューの間、カストロはマシューズを意図的に騙したと2年後のWashington Press Clubでのスピーチで自慢げに話している。ほんの少数の兵士たちが帽子や服装を変えたりしながらキャンプを往復していたため、マシューズは40人ぐらいの兵士を見たと勘違いしたのだそうだ(その時のメモはコロンビア大学に保管されている)。それから山岳一体にゲリラ軍のキャンプを張り巡らせているという主張を信じさせるために、兵士の1人に息を切らせながら「第二小隊からの連絡が届きました!(もちろん嘘)」と会話に割り込ませて報告させた。カストロは、「これが終わるまで待て」と取り澄ましたふりをしてそれに答えた。

政府軍に追われ敗走を繰り返していたカストロは山岳一体をわずか18人の兵士と一緒に逃げ続けていた。そして彼の唯一の味方は賄賂で買収した盗賊団だけだったというストーリーは恐らくはニューヨーク・タイムズの売上にあまり影響を与えないと判断されたのだろう。一方で、無敵のゲリラがバチスタ政権を打ち負かそうとしているというメロドラマ的なストーリーは、愛用するスナイパーライフルを大胆に胸で抱えるカストロの写真と相まってニューヨーク・タイムズの発行部数を大幅に増加させた。その記事はアメリカだけではなくキューバでもセンセーションを与えた。ニューヨークにいるカストロの同盟相手は3000以上のコピーを印刷し(その2日後のマシューズの長大な他の記事も一緒に印刷された)、それをキューバの首都ハバナに配送した。バチスタが検閲を敷いていることも無効にした。

バチスタは愚かにもマシューズが語った中で唯一正しかったことを頑なに否定してしまったことでこのストーリーの信憑性をかえって高めてしまった。カストロが生きているということだ。それに対してニューヨーク・タイムズはマシューズのノートに書き殴られたカストロのサインのコピーを掲載し、それからタバコを吸っている2人の男の写真も掲載した。それから数週間はカストロを訪ねるジャーナリストたちの一行でシエラ・マエストロは一杯になった。

彼らはほとんど全員がマシューズが生み出した様式に従っていった。カストロの髭と長髪、カストロの若さ、屈強な肉体とカリスマ性を秘めたパーソナリティ、曖昧ではあるが民主主義を志向するという発言、彼の闘争は弱者の強者に対する戦いなのだということを強調など、これらは今も左翼が語っている神話と細部に至るまでまったく変わりがない。たった1つの記事で、マシューズは現在も語り継がれている神話を生み出してしまった。

ジャーナリストたちはマシューズよりもさらにカストロに魅せられてしまったようだ。「Rebels of the Sierra Maestra: The Story of Cuba's Jungle Fighters」というドキュメンタリーを制作したCBSのプロデューサーRobert Taberはカストロに捧げたそのドキュメンタリーの最後でマイクをカストロに渡し、思ったことを何でもアメリカ人に話して欲しいと訴えた。驚きを隠し切れないながらも喜んだ様子のカストロはバチスタ政権への支援をアメリカ政府に止めさせるように要求した。カストロにあまりにも魅せられてしまったTaberはその後に「Fair Play for Cuba Committee」という組織までをも立ち上げた。その組織の最も有名なメンバーは恐らくLee Harvey Oswald(ケネディ大統領の暗殺犯)だろう。

戦場取材での取材の誤りを正そうとすることは簡単な仕事だ。戦争の第一の発生原因は真実であるということわざは決まり文句のように用いられている。だがそれを何回唱えようともそれによって真実になるというわけではない。そして戦争の間では、事実を確認することは通常は難しい傾向にある。

特にゲリラ戦争では、「難しい」が「ほとんど不可能」に変化する。軍隊はどこにいるのか探すことが難しい。尋問となるとなおさらだろう。戦闘は突然発生し、あっという間に終了する。深いジャングルの中で、誰にも見られることなく。戦闘に参加した者たちでさえ、何が起こったのか正確には把握していないかもしれない。ゲリラの行動パターンというのはその性質上人を欺こうとするもので、その指導者も真実を言うことが出来ない立場に晒されていることが多い。フィデル・カストロはまさにこのパターンに完全に当てはまる。「最初から嘘を付くのがうまかったことに加えて、彼は実践を積みながら学習していった」とかつてJohn Silberは書いたことがある。デパルマがかつて書いたように、カストロが5百万人以上のキューバ人に自分は共産主義者ではないと信じさせることが出来たのであれば、マシューズを責めることは酷なことなのかもしれない。「マシューズの最大の失敗はカストロの人間性を見抜けなかったことではなくむしろデマゴーグと転落してしまうほどにカストロを理想主義者と思い込み続けてしまったことにある」とデパルマは書き記している。

革命から7ヶ月が経過してカストロの左翼志向が明らかになっていたというのに、「これはどのような意味においても共産主義革命ではないし指導部の中には共産主義者は1人もいない」とマシューズは書いている。プライベートでは彼はさらに頑なで、カストロは「知識の拠り所としても感情的にも彼は反共産主義者だ」とアメリカのキューバ大使とやり合ったこともあった。彼以外のニューヨーク・タイムズのジャーナリストが彼とは異なる主張を記事で展開すると、マシューズは彼らを貶す秘密のメモを出版社に送りつけそれどころか時には彼らを直接叱りつけさえもした。1960年にJames Restonがキューバはソビエトの衛星国家に転落したと書くとマシューズは彼に反論を送りつけた。「カストロがキューバの指導者である限り、キューバは共産主義に走ることもなければ共産主義の手に落ちることもない。その影響を感じることさえないだろう」と彼はRestonを説教した。そして「これは私がアメリカの他の誰よりも学んできたことだ」と見下すように付け加えた。

それから1年もしないうちにカストロは自らが共産主義者であると公言した。そしてそれから数ヶ月でキューバにソビエトのミサイルが展開され、世界は核戦争の危機に包まれた。どちらの出来事もマシューズの考えを変えることはなかった。彼はカストロの伝記で、それらの出来事は大きく誤解されていると主張している。「フィデルは共産主義を利用している。彼は共産主義が役に立つと考えているようだ。だがそれは共産主義のイデオロギーを信じているのとは異なる」とマシューズは書いている。マシューズは自分と考えが異なる人間には容赦がなかった。1959年にカストロが側近で人気のあった司令官の1人Huber Matosを牢屋に入れることがあった。キューバ政府は共産主義者だらけだと無謀にも証言しようとしたためだ。マシューズは冷酷にも「革命はお茶会のようなものではない」と言い放った。マトスはそれから20年間を刑務所で過ごすことになった。

マシューズはキューバに関して自分が偏っているということを少しも隠そうとはしなかった。1961年に「The Cuban Story」という本で、自分はカストロから「信頼されており、尊敬されており、友人であり、彼の耳ですらもある。多くの人はフィデルが私の言うことを聞くだろうと、私の言うことだけを聞くだろうと思っている」とうそぶいた。それを聞いてもワシントンで彼をキューバ大使に推す人はいなかった。カストロを恐れる人々の間でさえもそうだった。マシューズは、私を大使に任命することは間違った考えだ、何故ならば「大使には中立であることが求められる。自分がキューバに深く関わっていることを考えると私はキューバ大使としては相応しくないだろう」と記している。ようするに、彼は外交官としては関わりすぎてしまったがジャーナリストとしてはそうではないと考えているということだ。

初めはマシューズとカストロに対する歓喜をともにしていた多くのジャーナリストたちも次第に彼から離れるようになっていった。かつては「カストロが現れるまでキューバの人々は失った自由のために戦ってくれる指導者を見つけることができなかった」と書いたシカゴ・トリビューンのJules Duboisは革命の初期から不穏な傾向を感じるようになっていた。彼は1959年に「Fidel Castro: Rebel, Liberator or Dictator?」という本を出版した。その本には最後のラベルが事実であることを示す多くの証拠が記されていた。それでもマシューズは決して動じることはなかった。カストロが数十万人を処刑しても、ゲイの強制収容所を建設しても、ソビエトから核ミサイルを搬送しても、アフリカで軍事作戦を行っても、数百万人が難民としてマイアミに逃げ出すほどにキューバを貧困に貶めたとしてもマシューズは考えを変えなかった。

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