Anthony DePalma
フィデル・カストロは1956年のキューバ侵攻に大敗した数ヶ月後にはもう亡くなっていて、彼の革命は失敗したものと思われていた。当時のニューヨーク・タイムズの編集長かつ記者だったHerbert L. Matthewsは、カストロが生きているばかりではなくバチスタ政権を倒せるだけの大人数かつ強力なゲリラ軍に彼が支えられていると、20世紀最大のスクープの一つを記事にした。明らかにカストロに魅せられていて、判断力を失っていた彼は事実を歪めて記事にした。マシューズは、カストロをキューバ憲法の守護者、民主主義を愛している人間、アメリカ人の友達と呼んだ。
マシューズによって生み出されたイメージは衝撃的で、カストロに力を与え彼の国際的な知名度を一気に高めた。キューバでの紛争に対するアメリカの態度は変化しバチスタに対して厳しい姿勢で臨むようになった。だが革命が終了してみると、騙されたことに気がついたアメリカはカストロを一切信用しなくなりマシューズはカストロが権力を握る手助けをしたことに対して非難されるようになった。ワシントンがマシューズと国務省のカストロの信奉者たちにいいように操られたという印象が生まれたことによって現在でもアメリカとキューバとの関係に影を落としている。
POLICY AND THE PRESS
マシューズがキューバの革命が始まった地であるOriente Provinceに向かったのはいくつかの偶然が重なってのことだった。彼が留まったのはほんの数時間だったが、20世紀最大のスクープと一般的に云われている記事が埋まるのにはそれで十分だった。
マシューズのカストロに対するインタビューはアメリカにとって色々なことが重なった重要な時期に行われた。彼らは追跡している兵士たちの目から逃れられる場所を会談の場に選んだ。彼らは、自由、独裁、正義など多くのことについて語り合った。それでも中心を占めたのは革命についての話だった。マシューズが聞いた話は彼の心を大きく揺さぶった。彼はスペイン内戦を取材していたことがあり、彼が熱心に応援していたスペイン共和党の敗北から数十年が経過していたというのに彼の心は未だに傷ついたままだった。これは彼にとってその時の傷を癒やし、今回こそは革命の成功を見届ける機会だった。そのためにはマシューズはカストロを蘇らせる必要があった。彼の記事が出版される前にはカストロはその3ヶ月前の自らのキューバ侵攻によって殺害されたと思われていた。マシューズはカストロが生きていることを明らかにし、カストロは強力な軍隊に支えられていてその勝利はほぼ確実だと信じさせることに成功した。
「カストロのカリスマ性は圧倒的だった」とマシューズは初めの記事に書いた。「彼の部下は彼に心から心酔し、どうしてキューバの若者は彼を支持しているのかを理解することは簡単なことだった」。マシューズは、カストロのことを「体制に反抗する燃え盛るようなシンボル」と呼んだ。そして「数千人のキューバ国民がカストロと彼が約束する新しい未来に熱狂していた」とためらいもせずに語った。彼はカストロが「独裁を終わらせてキューバに民主主義をもたらすために戦っていて」、「アメリカやアメリカの人々に対する敵意はまったくないと保証できる」と大胆にも断言した。カストロのことを悪く言うことはほとんどなく、そのわずかもカストロの馬鹿げた経済的考えに向けられていた。
彼が描いたカストロの英雄的イメージは、その後も革命の記憶としてアメリカ人の心に残り続けた。カストロがキューバの憲法を復活させ自由選挙を行うと約束したことを積極的に記事にしたことで、ワシントンにはバチスタ政権への支援をやめさせるよう圧力が掛かった。キューバ軍がSierra Maestraで市民を空爆したことが決定打となって、1958年3月に支援が停止された。それはバチスタ政権がアメリカからの支援を失い失脚することが決定的となったことを意味した。国務省の高官は、カストロが共産主義者ではなく共産主義革命を起こすつもりもないというマシューズの主張を非難した。
マシューズのカストロへのインタビューを元にした3つの記事がその関係性を無茶苦茶にした。アメリカでのカストロの知名度は一気に上昇した。アルゼンチン、コロンビアなどでの独裁者は失脚していた。バチスタは友好的だったとはいえ、強硬な彼に対してワシントンの支持は低かった。その記事に対するキューバでの反響はまったく別のものだった。カストロはキューバではよく知られていたからだ。
激怒したバチスタ(彼はマシューズを非難しその記事と写真は捏造だと主張した)はカストロの反乱軍を制圧することに注力するようになった。バチスタはカストロを脅威に感じているというメッセージを送ってしまった。カストロはマシューズの記事を自らの勢力が拡大していることの証拠として用い、資金集めにも新兵の徴兵にも非常に有利に働くことになった。インタビューが行われた時にはすでにカストロと合流していたアーネスト・チェ・ゲバラは、戦場での勝利よりマシューズの記事の方が遥かに重要だったと語っている。その記事によりカストロが注目を集めたことは他の人々にも影響を与えた。Revolutionary Directorateはかねてから大統領官邸を襲いバチスタを殺害するつもりだった。
その記事が掲載されてから丁度2週間後に彼らは失敗に終わることになるその攻撃を開始した。反乱軍はバチスタに辿り着く前に制圧され指導者のアントニオ・エチャベリアは殺害された。マシューズはバチスタへの攻撃を幾度も繰り返していた。一時期は彼の記事がニューヨーク・タイムズのラテンアメリカ関連の紙面を埋め尽くしたほどだった。マシューズの記事はアメリカとキューバとの関係に決定的影響を与えた。
マシューズはジャーナリズム全体が置かれていた重大な岐路に立たされていたのだった。ジャーナリストは出来事の単なる記録係かそれとも歴史の解釈者か。ラジオとテレビの普及によってニュースの需要は大幅に拡大した。それがニュース報道自体にも大きな影響を与えていた。戦場からニュースを伝えるのに数日を必要とするということは最早なくなっていた。映像にインパクトを与えるためにレポーターはすぐに現場に駆けつけなくてはならなくなった。そのためには、それまでに知られている情報だけを頼りとするのでは不足だった。これは、情報に対して判断を下す人間を必要としたことを意味する。その危険性は言うまでもなく、レポーターが必ずしも正確ではない情報を漏らす動機のある人間を頼りとしてしまうことにある。マシューズとフィリップスとの衝突はこのような事情が背景にあると見ることも出来る。その結果、2人のベテランジャーナリストがキューバに関して互いに矛盾する情報を伝えてくるという奇妙な状況が生まれることになった。彼女は自分が見たものだけを主観を交えずに淡々と報道する昔ながらのジャーナリストだった。キューバ政府とのパイプを維持するという思惑がキューバ革命に関する彼女の初期の報道姿勢に影響を与えたのかもしれない。彼女は反乱軍を支援するような報道は手控えていた。だがカストロが実際に権力を握ると、彼女はカストロの残虐な振る舞いと暴君性を伝えそのせいでキューバを追放されることになった。それとは対象的にマシューズは、カストロとの初めてのインタビューのその時から、歴史の解釈者、解説者、そして最終的には自らの考えを全面に押し出すライターとしての側面をジャーナリズムの世界に持ち込もうとしていた。
マシューズは、彼がキューバで見たというものを自らの視点から解釈し直して報道した。そのせいで、彼が書いたものは当時の状況を正確に言い表したとはとてもいえないものになってしまっただろう。その逆にフィリップスの報道はその当時の状況を遥かに正確に伝えていたように思われる。フィリップスはバチスタを、マシューズはカストロを情報源とした。どちらもその代償を払った。フィリップスはカストロから検閲を受け最終的にはキューバから追放されることになった。マシューズはあまりにもカストロに近づきすぎてしまったために客観性をすべて捨て去る羽目になってしまった。
(省略)
ニューヨーク・タイムズはその詩の掲載を正しくも断った。だがマシューズはそのコピーを生涯手元に置き続けた。マシューズはニューヨーク・タイムズの編集部に対して勝利したと考えるようになった。彼がカストロ(当時30歳)と会談したのは57歳の時で、このスクープにより彼は自分より若い記者にも負けない記事を書くことが出来るということを証明した。
ケーブルテレビも24時間放送のニュースもない時代では、マシューズの言うことの方がより影響力を持っていた。カストロがニューヨーク・タイムズで大々的に扱われたことの重大性を過大に評価することは難しい。その記事が印刷されると、カストロの暗い過去は明るいものへとすぐに塗り替えられた。マシューズはカストロを好感のもてる反乱軍の指導者に仕立て上げた。
シエラでのインタビューの後、カストロもマシューズもアメリカとキューバで英雄となった。後に、両者は国際的な悪人に転落した。カストロはアメリカの敵となった。つかの間の勝利の後でマシューズは自分の利益のために意図的に嘘の情報を流した裏切り者と呼ばれた。カストロと革命に取り憑かれていた彼は、批判を無視しあの時では自分が唯一真実を探し出すことが出来た人間だと主張し、彼があの場で見たと信じたものを書き続けた。
COLD WAR PARANOIA
マシューズはメディア業界にあまり友達を持っていなかった。外交官と政府の高官が彼を攻撃した時、同僚の誰も彼を庇おうとはしなかった。それどころかその攻撃に加わる人間もいた。ニューヨーク・タイムズは特に彼に批判的になった。彼を以下のように非難している。
「革命という大義に最初から目を眩まされていた彼は、未熟な記者が陥る罠へと転落していった。彼は感情によるバイアスを優先させ自らの判断を停止させた」。
William F. Buckley Jrはカストロは「ニューヨーク・タイムズのおかげで職に就けた」とあざ笑っていると痛烈に皮肉った。カストロとパイプがあるということはマシューズにとってむしろ重荷となった。カストロへのインタビューはむしろ彼の人生を飲み込むブラックホールとなった。彼の評判だけでなく生命力までも奪っていった。人々はマシューズと聞くだけでも嫌がった。ニューヨーク・タイムズも同罪と見做されるようになった。カストロは共産主義者ではないという彼の評価に同意していたはずの国務省でさえも、カストロは最も危険な共産主義のグローバルな陰謀の一環だと態度を急変させた。カストロが権力を握ることを助けたことからマシューズがあまりにも分かりやすいスケープゴートとされた。
彼の上司はマシューズを擁護しようと苦闘していた。だが非難の声がそれを上回ったので彼にもニューヨーク・タイムズにも手のうちようがなかった。彼の上司は最終的に、マシューズがジャーナリストとして自殺行為を行いニューヨーク・タイムズを救うためには彼を見捨てたほうが良いと決定を下した。「彼は多くの人から不当な扱いを受けている。だがその事態は、彼が論理を捨てて主観的で感情的なジャーナリズムに走ったことによって招いたものだ」と語った。ニューヨーク・タイムズの外国部の編集長だったEmanuel R. Freedmanは「彼はキューバのレポーターとしての自らの有用性を自らの手で破壊した」と記している。
カストロはプロパガンダによってキューバ国民にアメリカを恐れさせた。反米を利用してキューバ国民を団結させるカストロの能力の高さはアメリカ政府の高官を怯えさせた。マシューズがカストロは民主主義を望んでいると記事を書いたことがキューバはその革命を裏切ってアメリカを欺いたのではないかという政府高官の疑心をさらに煽った。
他にも誤った情報を伝えたジャーナリストたちは存在する。Edgar Snowは中国共産党を善良であるかのように伝えた。Richard Harding DavisはSpanish-American Warを偏って報道した。John Reedのボルシェビキ革命の報道も間違いだらけだった。歴史的には重要だったがジャーナリズムとしては疑わしい(真実からはかけ離れている)ジャーナリストたちの海外報道のリストは長大に及び現在でも議論されている。マシューズもそのリストに含まれてしまったのは避けられないことだった。だが彼の場合には同情の余地が存在する。
マシューズはNew RepublicのStephen Glassのような捏造者やニューヨーク・タイムズを辱めた最近のレポーターJayson Blair(その嘘は精巧で故意によるものだった)のような人間と一緒にされるべきではなかった。マシューズは利益のために動いたのではなかった。カストロと別れてからも彼にはキューバへの自由な渡航が認められていた。マシューズは編集長からは革命に関する記事を描くことを禁止されていたが、外国の指導者によってではない。マシューズがカストロを擁護し続けたのはキューバから締め出されることを恐れたためではない。彼にとってジャーナリズムとは弱者の声に耳を傾けるものだったからだ。彼はニューヨークの労働者階級のユダヤ人として育った。散髪屋の子供でありまた帝国ロシアに占領された19世紀ポーランドからのユダヤ人移民の孫でもあった。マシューズがコロンビア大学の学位から恩恵をこうむっていたのは事実だが、彼が学位を取得したのはフランスでアメリカ軍に従軍した後のことだった。1930年代から40年代に彼は社会主義にのめり込んでいった。そして時には自分を犠牲にしてでも労働者や貧しい人のために尽くした。戦時下のローマでは食料が不足しアメリカの特派員へ支給されるPX配給カードは黄金よりも価値があった。マシューズは彼に割り当てられた食料をすべて蓄えて飢えていたイタリアの労働者に与えた。
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