2013年2月28日木曜日

賃金に下方硬直性があっても失業率が上昇するわけではない?

Downward Nominal Wage Rigidity:Evidence from the Employment Cost Index

by David E. Lebow, Raven E. Saks, and Beth Anne Wilson

1. Introduction

この研究では新規に利用可能となったデータ-労働局のemployment cost index (ECI)にもとづくミクロデータ-を用いて賃金の下方硬直性に関するまだ答えられていない2つの疑問に焦点を当てる。第一に最近の数多くの研究にも関わらず賃金硬直性の程度に関するコンセンサスは形成されていない。特定の労働者や企業に対する回答では賃金カットを不当と感じ企業がそれを提示したがらないと示唆するものはある。だがより広範な国民を対象とした調査ではわずかな名目賃金の下方硬直性しか見つかっていない。その原因としてよく引き合いに出される理由はそれらのデータは測定誤差により硬直性の程度が覆い隠されているというものだ。その代わりとしてWilson (1999)は2つの大企業からの給与記録-測定誤差の心配がない-を用いてある程度の名目賃金硬直性(注 以下では特に名目とつけません)を発見している。Altonji and Devereux (1998)も同じく大企業のデータを用いて賃金硬直性を発見している。しかしこの企業が労働市場全体の代表であるかは定かでない。

ECIデータはこれら2つの方法の長所を併せ持つ。データは雇用主の記録から成るので家計データよりも測定誤差の恐れが小さい。そしてサンプルサイズは大きい。1四半期あたり5000の民間企業をカバーしている。よってこれらのデータは賃金硬直性を調べるのに適している。これは以下で述べるように測定単位が個人ではなく特定の職業の時間あたり平均報酬費用であるという短所を持つにも関わらずだ。

第二に少なくともいくらかの名目賃金硬直性があるというミクロでの証拠にも関わらず、この硬直性がマクロ経済に害を為したという証拠がほとんどまったくといっていいほど存在しないことだ。賃金下方硬直性の理論による予測によればインフレ率と均衡失業率との間には負の相関が表われる。だがGordon’s (1998)によればNAIRUはインフレ率と正の相関を示している。彼の推計によると60年代の初期から80年代の初期に掛けてNAIRUは上昇しそれから下落している。我々も5章で同様の発見をしている。同様にAkerlof, Dickens, and Perry (1996)が賃金下方硬直性をフィリップスカーブに組み込んだ場合に関連するパラメータのいずれも有意ではなかったと報告している(ただ30年代の賃金の振る舞いを説明する手助けになったと主張している)。

このミクロとマクロのパズルを解く鍵の一つとして雇用主は給付-労働者が価値を知ることも比較することもより難しい-を賃金調整の手段として利用しているのかもしれない。ECIデータは賃金費用同様に給付費用の情報も含むのでこの仮説を検証することが出来る。つまり総報酬(賃金+給付)の硬直性は賃金だけの硬直性と違いがあるのかどうかを調べることが出来る。

先に結論を述べると実際のデータでは賃金硬直性がない場合に比べて約半分の賃金カットがあることが判明した-PSIDデータで報告されたものよりもいくらか強い賃金硬直性だ-。これには職業単位での硬直性の程度は個人単位での硬直性未満になることも加味する必要がある。さらに給付を加えれば硬直性の程度が弱まることも判明した。総報酬もいくらか下方硬直性を示すが賃金のみの場合よりも小さい。給付はミクロとマクロのパズルのおよそ3分の1を説明するように思われる。

2. Measuring the Extent of Downward Nominal Wage Rigidity

下方硬直性の程度を知るために賃金変化(または報酬)の分布を調べる。下方硬直性がないならばゼロ点を通して賃金変化の分布は基本的に滑らかであることが予想される--だが下方硬直性がなかったとしても長期契約の存在等によりゼロでの観測値の偏りが見られる可能性もあることに留意する必要がある(注 長期契約では賃金変化はゼロだから)。対照的に下方硬直性があれば賃金カットの(賃金上昇に対する)相対的不足とゼロ点での偏りが見られるだろう。

これは非対称な分布、または右側への歪みとして表われる。しかし単に分布が右側へ歪んでいることを示すことだけでは十分ではない。下方硬直性が無くても分布が歪む可能性があるからだ。より適切な方法はインフレ率が減少した場合にこの非対称性が増加するかを調べることにあるだろう。

少なくとも5つのテストが提案されている。そしてそれらの長所と短所が表1にまとめてある。第一の最も直接的なテストはインフレ率(または賃金変化分布の中央値)が低下した場合に歪度が増加するかどうか調べるものだ。このテストの問題点は歪度が分布の裾での観察値に対して極めて敏感であることでそして賃金変化の分布もばらつきが大きいことが知られている。この問題に対処するためにMcLaughlin (1998)は歪度を賃金変化の分布の平均値と中央値の差で置き換えることを提案している。極端な値は平均値に影響を与えるのでこの方法で外れ値から受ける影響を小さく出来る。しかしそれでも外れ値に対して十分にロバストではない。第三のテストはカーネル法(Card and Hyslop, 1997)で賃金変化の右側の分布を下方硬直性がないと仮定した場合の左側の分布の形状を決定するのに用いるものだ。この方法はもととなる分布が対称的な場合のみに有効だ。これら3つのテストは下方硬直性に特定のものではなくいかなる種類の非対称性も拾い上げてしまう短所がある。

対照的に第四のテストは下方硬直性に固有の非対称性を用いる。これを我々はLSW統計量と呼んでいる。これは中央値の2倍以上での累積頻度(分布のゼロ以下の累積頻度)として定義している。

LSW / [1 - F(2*median)] - F(0)

図1でこのテストを説明する。中央値の2倍とゼロは中央値から等距離なので分布が対称ならば右側と左側で等量となりLSW統計量はゼロとなる。しかし下方硬直性が存在すれば賃金カットが少なくなりLSW統計量は正となるだろう。このケースでLSW統計量はインフレ率(または分布の中央値)が低下した場合に上昇するだろう。前回のテストとは違いLSW統計量は正確に下方硬直性によって発生した非対称性を測る。そして純粋な順序統計量であるのでLSW統計量は極端な観測値の影響を受けない。だがLSW統計量は分布にもとづく非対称性に対してロバストではないという短所がある。つまり分布が下方硬直性とは独立に右側に歪んでいると仮定する。するとインフレ率が低下し分布が左にシフトした場合に分布の形状が変化していないにも関わらずLSW統計量は変化するだろう(figure 1, lower panel)。


最後のテスト(我々が最も重視するもの)はKahn (1997)によって提案された。このテストは中央値から(特定の)任意の距離にあるヒストグラムバーの高さをバーがゼロを下回った年とバーがゼロを上回った年とで比べる。まず各年のヒストグラムを作成し(バーの幅は1%ポイントに相当する)、以下の方程式体系を推定する。

PROP2t=p2+np2DNEG2t+[z-nΣpj]DZERO2t

PROP3t=p3+np3DNEG3t+[z-nΣpj]DZERO3t
.
.
.
PROPmt=pm+npmDNEGmt+[z]DZEROmt

PROPrtはt年に中央値からr%ポイント下回る観測値の割合を示す。DNEGrtはPROPrtが完全にゼロを下回った場合に1を取るダミー変数を示す。DZEROrtはPROPrtがゼロを含む場合に1を取るダミー変数を示す。

これらの式を図2を用いて説明する。中央値を3%ポイント下回るバーの高さPROP3tを考える。中央値が3以上の年度ではこのバーのすべての観測値は正でDNEG3tとDZERO3tはともにゼロだ。そしてこのバーの高さをp3と推計する(上段)。しかし中央値が3以下の年度ではこのバーのすべての観察値はゼロ以下になる(下段)。よってDNEG3tは1になりバーの高さを(1+n)p3と推定する。パラメータnはゼロを下回った場合にバーが変化する割合を捉える。n=0ならばバーの高さは両方のケースで同じだ。そして下方硬直性は存在しないことを示す。n=-1ならば負の賃金変化は存在しない(下方硬直性の最極端なケース)。中間のケースのn=-1/2を図2に示す。nを各式において同一であるように制限していることに注意する必要がある。カーンテストはある年度にゼロを上回り違う年度にゼロを下回る各バー(bars in the dotted box in figure 2)に対して一つの式を持つ。そしてこれらのバーはnを識別するのに役立つ。


賃金変化の中央値が3%の年度ではDNEG3tはゼロだがDZERO3tは1になる。そしてバーはp3よりも大きい(中段)。nΣpの項は下方硬直性により負の賃金変化として表われなかった観測値が代わりに賃金変化がゼロとして表われると仮定していることを反映している。ゼロのバーはインフレ率が低下した場合に大きくなると仮定している。(今までよりも)分布の多くがゼロ以下になれば今までよりも多くの部分に影響するようになるからだ。さらにゼロを含むバーが定数zによって押し上げられることも可能にしている。このzは長期契約または下方硬直性以外の他の理由によるゼロでの観察値の偏りを説明している。

カーンテストは多くの長所を持つ。それは下方硬直性を正確に計測し、外れ値に対してロバストで、もととなる分布が対称であることを仮定していない。分布に対する唯一の仮定は中央値から任意の距離のバーは下方硬直性がなければすべての年で同じ高さを持つということだ。

カーンテストの問題の一つはゼロ変化周辺のノイズに対してロバストではないことだ。カーンテストは下方硬直性が原因で分布の左側から取り除かれた観測値は代わりにゼロのバーに表われると仮定している。バーは1%ポイントの幅を持つのでゼロ変化を含むバーはゼロに近いが正確にはゼロではない観測値も含むことになる(これがカーンテストはゼロ変化周辺のノイズにロバストでないと述べたことの意味だ)。だが下方硬直性がない場合の架空の分布の左側の観測値がゼロ近傍(例えば-1から1のバー)であって正確にはゼロのバーにはないとすればカーンテストは下方硬直性の程度を過小評価するだろう。

この問題を扱うために修正カーンテストの結果も提示する。そこでは下方硬直性により分布の左側から取り除かれた観測値はすべてゼロのバーに集められるという仮定を緩める。この形式ではそれらの観測値のうちθ<1の割合はゼロのバーに集められる。δは負の変化を含むバーに集められ残りの(1-θ-δ)は正の変化を含むバーに集められる。

PROP2t=p2+np2DNEG2t+[z-θnΣpj]DZERO2t-δnΣpjDNEG12t-(1-θ-δ)nΣpjDPOS12t

PROP3t=p3+np3DNEG3t+[z-θnΣpj]DZERO3t-δnΣpjDNEG13t-(1-θ-δ)nΣpjDPOS13t
.
.
.
PROPmt=pm+nPmDNEGmt+[z]DZEROmt-δnΣpjDNEG1mt

DNEG1rはPROPrtが負の変化を含む場合に1を取るダミー変数でDPOS1rtはPROPrtが正の変化を含む場合に1を取るダミー変数だ。明らかに=1かつ=0の場合に式(2)は式(1)になる。この修正カーンテストを四章二編で扱う。

3. The ECI data

チャート1にサンプルから得た(ECIデータの)総報酬の平均変化を示す。一目見て分かるように我々の作成したミクロデータの集計量は公表ECIデータと大部分の年度において極めて良く一致している。これらの平均値を計算するために各職業の賃金変化をその職業(に就いている人数)が全体の就労人口に占める割合で加重している。

3.1 Jobs versus individuals

ECIでの測定単位は特定の分類された職種、それに対する報酬の1時間あたり平均費用だ。例として公認会計士、電気技師、秘書などだ。100人以上の従業員を抱える企業の職種1単位あたりの従業員の中央値は7人だ。小さい企業では2人になる。

ECIは費用を同一の職種に就く個人間の平均として計測するのでECIデータは職種内での労働者の構成変化を反映した平均賃金変化と各従業員の実際の賃金変化とを区別することが出来ない。例えばある職種で最も任期が長く最も高給な従業員が退職すればその職種の平均賃金は低下しデータの中では賃金カットとして記録される。実際には誰も賃金をカットされていないのにだ。そのような事例は下方硬直性の程度をある程度覆い隠すだろう。

個々の賃金の平均化により職種データの場合で賃金カットが少なくなるような事例を挙げることが出来る。過去に行われた研究の中には下方硬直性は個人レベルよりも職種レベルでより小さいことを示したものがある。サービス部門の大企業を追跡したデータを用いてWilson (1999)は個人レベルのデータから職種平均賃金を算出した。チャート2の上段はその企業の1982-1994期間のおよそ6000人の賃金変化の分布を示したものだ。このデータは下方硬直性の存在を示す。チャートの下段は同一の職種内での平均給与を用いて賃金変化の分布を算出したものだ。ここでは下方硬直性はより見えにくくなっている。より多くの負の賃金変化が含まれておりLSW統計量ははっきりと減少する。


4. Results

この章では最初の2つの疑問に答える。下方硬直性は存在するのか?存在するならば企業は給付を用いて賃金カットを行うのか?以前の章で説明したように下方硬直性は賃金変化の分布を見るのが適切な方法だと思われる。労働者が賃金カットに抵抗しさらに賃金が硬直的ならば賃金変化の分布は正に非対称でゼロでの偏りがあることが予想される。より重要なのは非対称性とゼロでの偏りが低インフレ期によりはっきりと表われるかどうかだ。

4.1 What is the extent of downward nominal wage rigidity?

チャート3と表2に結果を示す。データは1981-1998期間の対数化した賃金と給与の年率変化だ。チャート3の上段はすべての年度の賃金変化の分布を示す。分布は下方硬直性を示す。


(一番下は下方硬直性が最も小さいがその理由はこの下に書いてある)

表2の行1は調査期間中の全体の賃金変化のうち14.5%が負で18%がゼロであったことを示す。LSW統計量によると賃金変化の分布は正に有意に非対称で分布の右側の観察値が左側の観測値よりも13%多い。PSIDと比べてECIデータはゼロ以下の観測値が少なくゼロでより大きな偏りが見られる。

上記の結果は下方硬直性を示唆するものであっても真のテストは分布がインフレとともにどのように変化するかを見ることだ。表2の行2と行3に高インフレ期と低インフレ期での結果を示す。低インフレ期にゼロでの偏りとゼロ以下の観測値の増加が見られる。低インフレ期での賃金変化がちょうどゼロであった割合は22%で高インフレ期では11%だった。LSW統計量は低インフレ期から高インフレ期へ移行した場合に15%から4%へ低下する。チャート4により詳細に各年の賃金と給与の変化の分布を示す。1981と1982に分布の左側で観測値が多いことが見てとれる。


表3にインフレ率とLSW統計量との相関、カーンテストの結果を示す。最初の2行は回帰分析の結果だ(インフレ率、失業率が説明変数)。失業率はビジネスサイクルが分布に及ぼす影響を制御するために含めてある。インフレ率としてCPIの対数値とECIの賃金変化の中央値を用いている。分布の非対称性が下方硬直性によるものであればLSW統計量はインフレ率が上昇した場合に低下し分布はゼロからさらにシフトすることが予想される。これは回帰分析においてインフレ率の係数が負として表われる。表3では実際にインフレ率の係数は負で有意であることが示される。例えば分布の中央値の1%ポイントの増加は非対称性の1.6%ポイントの減少を意味する。

以前述べたように下方硬直性以外の理由で分布に歪みがある場合にも係数は負となって表われる。このためカーンテストの結果に焦点を絞る。

以前述べたようにカーンテストは分布の形状に対してロバストである特性を持つ。このテストの仮定は下方硬直性がなければ分布の形状はインフレ率とともに変化しないというものだ。この仮定が成立するならばヒストグラムのバーに関して、中央値から特定の任意の距離にあるバーはどの年度においてもほぼ同量の観測値を含まなければならない。だが企業が賃金カットが難しいと判断すればゼロ以下の値を含むバーに対してその観測値の数は減少しなければならない。パラメータnはバーがゼロ以下になった場合にそのバーに含まれる観測値の数が減少する割合を示す。下方硬直性はゼロでの偏りも意味するのでカーンテストはゼロ以下のバーから除かれた観測値の数はゼロのバーに反映されるだろうという制約も課す。だが他の理由も考えられる(丸め誤差、長期契約等)。よってカーンテストは下方硬直性以外の理由でゼロになる程度を表すパラメータzも推計しなければならない。

表3の下部に標準的なカーンテストの結果を示す。パラメータnは有意に負でその値は-0.5だ。これはバーがゼロ以下に移動した場合に半分になることを意味する。このnの値は下方硬直性が存在することを示唆し、賃金が完全に流動的ならばゼロ以下の観測値の割合は2倍になるだろうことを示唆している。PSIDデータを用いたカーンテストの結果と比較してより大きな下方硬直性が存在することが分かった。興味深い事にここでの結果は時間給労働者のみに対するカーンテストの結果と同じだ。

4.2 Do firms use benefits to achieve greater flexibility?

賃金と給与のデータに下方硬直性の存在が示唆された一方で企業が給付を変動させている可能性も考えられる。詳細な給付に関する情報によりこの仮説をテストすることが出来る。

総報酬を3つのカテゴリーに分解する。賃金と給与、法律で義務付けられた給付を除いた総報酬、総報酬の3つだ。チャート3と表4にそれらのデータを示す。チャートに見られるように賃金と給与の場合同様、負の報酬の変化に不足がある。だがこの不足は給付を加えた時に減少する。より範囲の広い報酬を用いた場合にゼロでの偏りが減少するのもはっきりと分かる。意外にもこの分布の変化は企業の制御下にある給付(ボーナス、保障等)と法律上の給付とでちょうど半分ずつから構成されている。

これは表4からも確認できる。法律上の給付を除いた報酬は負の観測値の割合を5%ポイント増加させLSW統計量を4%ポイント減少させる。法律上の給付を加えた場合は上記の割合を3%ポイント増加させLSW統計量を3-4%ポイント減少させる。変化がゼロの観測値の割合も大幅に減少する。

表5に3つの報酬の分類に対するカーンテストの結果を示す。表の上段に標準的なカーンテストの結果を示す。列1には賃金と給与に対する先程の結果を掲載している。列2には企業の制御下にある報酬に対する結果を示す。係数は未だ有意に負であるもののnの値は大幅に下落する。結果を文字通り解釈すれば列1では賃金カットが47%潜在的に抑制されていて列2では34%抑制されていることを示唆している。総報酬の結果はさらに劇的だ。潜在的に抑制された賃金カットの割合は17%にまで減少する。

しかしこの結果はミスリーディングだ。表4の給付が追加された場合にゼロ変化の割合が大きく減少し一方でゼロ近傍(-1から1)の割合が増加したことを想起する必要がある。つまり追加の負の観測値は絶対値が小さいもので流動性に対する貢献としては小さい可能性がある。2章で述べたようにカーンテストはこのような状況での下方硬直性を過小評価するかもしれない。抑制された賃金カットはゼロのバーに集められると仮定されているからだ。よって式(2)で示した修正カーンテストを用いることにする。ゼロ以下のバーから除かれた観察値を次の3つのうちの1つに追加することを許容する(ゼロより一つ上のバーと一つ下のバー、そしてゼロを含むバーのいずれか)。もし除かれた観測値がゼロのバーに加えられればこの修正によってもnの値はあまり変化しないだろう。だがゼロ近傍のバーに加えられればnはより負になるだろう。

表5の後半部分にその結果を示す。3つのうち2つに関しては除かれた観測値はゼロを含むバーに加えられる。仮定を緩めてもnの値をわずかしか変化させない。総報酬に関しては結果が大きく変化する。除外された観測値の大部分は-1と1のバーに加えられる。そしてnは-0.17から-0.30へ絶対値で増加する。ゼロ近傍での小さな変化しか与えず流動性をそれほど増加させていないことを示唆する。

この結果は直感的にも理解できる。下方硬直性に直面した企業が給付を変化させることは合理的に思われる。しかし法律上の給付に企業が同程度頼ると考えることは難しい。第一にこれらの給付は企業の制御外にある。第二に企業が賃金カットを行う場合には個々の従業員や特定の集団をターゲットにするだろうが法律上の給付への変更は常に全体的な規模になる。

表5の結果は下方硬直性を完全には取り除かないものの給付を加えることでそれが緩和されることを示す。パラメータは0.47から0.30へと3分の1以上減少する。この結果をもとに給付のうちどの部分が重要なのかを調べる。表6に結果を示す。最上段の列は賃金と給与だけのベンチマークで、以降の列はそれに特定の給付を付加したものだ。興味深い事に給付なしのケース自体も結果に影響を与える。給付の組み合わせを調べることの重要性を示唆する。その中でも2,3の給付の影響が大きいことが分かる(ただ修正カーンテストには大きく影響しない)。一つはボーナスで全体の報酬の1.6%を占めるに過ぎないにも関わらず下方硬直性を緩和するのに貢献している。残りの医療保険、有給休暇、年金と貯蓄勘定に対する雇用主負担は(合計で全体の報酬の10%以上を占める)少しずつ貢献している。

5. Potential Effects of Downward Nominal Wage Rigidity and the Micro-Macro Puzzle

4章では下方硬直性の存在を示唆しその硬直性がマクロ変数に与える影響に対する疑問を取り上げた。少なくとも理論上では賃金カットへの抵抗に直面した企業は雇用水準を引き下げることが予想される。推計した硬直性の度合いが均衡失業率にどう影響するのかを簡単なモデルを用いて示す。

まず下方硬直性が存在しないと仮定した場合の賃金変化の分布を生成する。これは表5の修正カーンテストを用いて簡単に出来る。そこでは47%の観測値が除かれゼロかゼロ近傍のバーに集められた。架空のデータを生成するために除かれた観測値を元に戻す。ここでは下方硬直性は賃金変化の分布に何の影響も与えていないと仮定されている。

この分布の平均賃金変化はnが負であるならば実際の分布でのものよりも小さい。この2つの分布の間の平均賃金変化もインフレ率に依存している。任意のnに対してインフレ率が高く下方硬直性がわずかな割合にしか影響しない場合、架空の平均賃金変化は実際のよりもわずかに小さいだけだ。しかしインフレ率が低く下方硬直性が広範に及ぶ場合、架空の分布に大きな影響を与えるだろう。

カーンテストではすべてのバーは硬直性の影響を等しく受けると仮定している。nの推計では10%の賃金カットまでのみを用いている。架空の分布を構築するにあたって10%以上の賃金カットを扱うべきかという問題が浮上してくる。極端に大きな賃金カットが労働者の抵抗によりゼロに集まってくるというのは考え難い。そしてこの扱いは分布のはるか左側は硬直性の影響を受けないと扱うことになる。ここではnは-10%、-25%、-50%までを用いて推計されるとしそれより大きい値ではnはゼロとする。

この演算の結果はチャート5に示す。チャートは各年の賃金変化の中央値を硬直性の費用(実際と架空の間の平均賃金変化の差、以下ではα=α(n,p')と呼ぶ)とを関連付ける。この仮定では賃金費用はインフレ率が低い場合に大きい。予想されるように分布の傾きは平坦ではなく非線形だ。2次の回帰曲線を引いてみた。総報酬の曲線と賃金、給与の曲線を比較して前者がより下方硬直性の影響が小さいことが分かる。これはnの推定値が小さいことを反映している(前者が-0.30、後者が-0.47)。-25%を賃金カットの最小値として曲線を求めている。しかし絶対値でより大きな値が仮定されれば実際と架空の分布の平均値の差は大きくなるだろう。


この演算のロジックをさらに進めて賃金費用がNAIRUに与える潜在的な効果を計算することが出来る。下方硬直性がない場合ではインフレ率と失業率に関して短期の関係しかないと仮定されている。この関係はフィリップスカーブを用いて定式化される。報酬の伸び率w、期待インフレ率p(通常インフレ率のラグで代用)、トレンド生産性成長率π、失業率U、その他の変数Zが関連付けられる。

w'=α+p'+π'+βU+γZ+ε

価格インフレ率と賃金変化率、トレンド生産性成長率を関連付ける(p'=w'-π')。αとβとγはNAIRUの計算に用いられる(期待過誤がなく(p'e=p')ショックが存在しない(Z=ε=0)状態と整合的な失業率として)。

NAIRU=α/β

このモデルではNAIRUは定数だ。だが下方硬直性が賃金費用に対して影響を持つのであれば(チャート5のようにインフレ率が低下した場合に増加する)この費用を打ち消しインフレ率を一定に保つためには失業率が上昇しなければならない。このケースではインフレ率と失業率は長期で負の相関を示しNAIRUは定数ではなくなるだろう。

より具体的には実際の賃金変化は下方硬直性がない場合の架空の賃金変化+正の賃金費用の項に等しい。このケースでは実際の賃金変化を用いた式(3)は好ましくない。そこで用いた賃金のデータは下方硬直性に影響を受けているが推定式では硬直性がないと仮定されているからだ。よってフィリップスカーブを硬直性と整合的な形に書き直す。

w'=a+α+p'+π'+βU+γZ+ε

時変NAIRUは式(5)から得られる。

NAIRU=(a+α)/β

式(6)からNAIRUに関して2つのことが分かる。第一に極端に高いインフレ率を除いて硬直性のもとでのNAIRUはそうでないものよりも常に高い。第二に式(6)のNAIRUはインフレ率が減少した場合に増加し下方硬直性の費用は増加する。インフレ率の減少に対してNAIRUがどの程度変動するか求めるため(例えば10%のインフレ率から0%へ)以下の関係を求める。

NAIRU(p'=0)-NAIRU(p'=10)=[α(n,0)-α(n,10)]/β

式(5)からαt(チャート5の総報酬に対応する)を用いてフィリップスカーブを求める。表7の行1に示すようにαtの係数を1に制限してフィリップスカーブに組み込んだ場合、-0.37が得られる。

この推計値を式(7)に代入してインフレ率が10%から0%に減少した場合のNAIRUに与える影響を調べる。結果は表8に示す。25%の賃金カットを上限値として賃金と給与に関する結果について述べると10%から2%へのインフレ率の減少は1.4%ポイントのNAIRUの増加につながりゼロへの減少はさらに0.6%ポイントの増加につながるとこのモデルでは予想される。総報酬では10%から0%へのインフレ率の減少は1.4%ポイントのNAIRUの増加につながると予想される。これらの数字は50%を上限にした場合には少し大きく10%を上限にした場合には少し小さくなる。

5.1 The Micro-Macro Puzzle

表8に下方硬直性がNAIRUに与える潜在的影響の推計値を示す。最後の行は他の条件を同一にして1980-1999期間にインフレ率が10%から1%に減少した場合にNAIRUは3/4から2-1/4の間で増加しただろうことを示している。予想された硬直性の効果は実際のデータと食い違う。実際には増加ではなくNAIRUの推計値は低下している。Gordon (1998)の推計ではNAIRUはインフレ率とともに低下している。

注25 この結果は Akerlof, Dickens, and Perry (1998)らの議論と矛盾する。戦後のインフレ率は賃金カットの必要性を避けるのに十分な程高かったので下方硬直性の影響は戦後のデータを見てはわからないというものだ。しかし我々が推計した下方硬直性によると4%へのインフレ率の低下、そして特に2%へのインフレ率の低下は確実に均衡失業率に顕著な影響を与えると予想される。

ミクロレベルでの下方硬直性はなぜインフレ率や失業率のような集計量に影響を与えるように見えないのか?前のモデルで仮定されていた硬直性の賃金費用αtは賃金インフレ率に一対一に影響するという仮説をテストする必要がある。表7の列2に示すように賃金硬直性αtの係数はゼロと有意差がない。実際、αtの係数が1という制約がない場合にフィリップスカーブを推計すると正確には推計されていないが係数は負になる。この結果を硬直性が失業率を低下させると解釈するのではなくインフレ率と均衡失業率の関係は前に用いたモデルが示すよりもより入り組んでいると解釈することにする。

ミクロとマクロのパズルを解くことはこの研究の範囲外なのでここではいくつかの説明に留める。もちろん前で述べたように企業が下方硬直性に対処する方法の一つは給付の調整で3分の1のパズルが解消する。給付以外では2つのリンクが考えられる。硬直性と報酬費用のリンク、報酬費用と雇用水準のリンクだ。

第一に調査期間に対して硬直性が一定と仮定している(例えばnを定数と置くことにより)。硬直性は低インフレ期では時間と共に減少しているかもしれない。ボーナス等の使用が増加するか賃金カットへの抵抗自体が低下しているかもしれない。

さらに硬直性と報酬費用のリンクに関して硬直性はゼロより左側の分布にしか影響を与えないと仮定して推計されている。だが硬直性に直面した企業が分布の右側でも増加を抑えることにより対応することが予想される。それにより下方硬直性に対して全体の労働費用を不変に出来る。分布の右側もインフレ率に対して感応的であることを示唆する。そのような賃金抑制は雇用に影響を与えるだろうがその経路ははっきりとしない。

注27 簡単にテストしてみると分布の右側はインフレ率に対して反応的ではない。分布の中央値と75、90、95、99%タイル値との差がインフレ率に対して反応的かをテストしたがそのような結果は得られなかった。

企業は下方硬直性の影響を避ける方法を他にも持っているかもしれない。企業は昇進と退職を労働費用の調整に用いている可能性もある。さらに企業は硬直性の存在を最初から把握して賃金の決定をしているかもしれない。企業は初期時点での賃金を低めて将来の賃金カットの必要性を避けているかもしれない。

第二に企業は利益を調整することにより対応することが可能だ。仮に報酬に対する制約が一時的なものならば企業は労働時間または利益を取り崩すことにより雇用を減少させることなく調整するかもしれない。制約が一時的と見られない場合でも生産性の上昇を促すことによる調整が可能かもしれない。

もちろん下方硬直性はNAIRUに上向きの圧力を加えているがその影響は他の要因により打ち消されている可能性もある。Katz and Krueger (1999)はNAIRUの低下を説明するいくつかの仮説を調べている。そして最大の要因は人口構成だろうと述べている。しかしこの効果は我々の計算では人口調整済みの失業率の中に既に含められている。彼等の推計によるとその他の要因(マッチング率の上昇、収監率の上昇、労働者の交渉力の低下等)は下方硬直性の効果を打ち消すのに十分な大きさを持っていない。おそらく他の要因がある程度の影響を与えているとは思われる。最後の可能性としては低インフレ率自体が労働や財市場の機能を向上させ下方硬直性の影響を打ち消した可能性が考えられる。

6. Conclusions

(省略)

2013年2月16日土曜日

生涯所得の格差はアメリカとヨーロッパで変わりがない?

An International Comparison of Lifetime Labor Income Values and Inequality: A Bounds Approach

by Audra J. Bowlus Jean-Marc Robin

1 Introduction

個人は所得分布内での位置の変化を伴う様々なイベントに遭遇するのでクロスセクションのデータは賃金格差に関して不十分な情報しか与えない。失業や賃金の流動性の影響を考慮するために長期の賃金格差を調べることが重要だ。

長期の賃金格差に関する研究は少なくとも5年かそれよりも長い賃金のデータを平均した恒常所得(の代理)にもとづいて行われる。しかしこのようなパネルデータを収集している国は限られるので長期の賃金格差に関する研究はクロスセクションの研究に比べて数が限られる。

パネルデータを必要とすることに加えて5年以上の賃金を平均することにより構造的流動性(定常状態での均衡賃金分布の変化)と賃金流動性(ある特定の定常状態均衡内での賃金の変化)を混同する恐れがある(経済自体の流動性と個人の流動性)。従って賃金流動性のモデル化にはマクロ経済のトレンドを取り除き生涯所得をシュミレーションする必要がある。

この研究での目的は幅広い応用が可能な信頼できる長期のシミュレーションを構築することにある。初めに賃金のデータから構造的流動性を取り除く。賃金は性別、教育、技能などの観察可能な特性に関する関数と仮定する。分析は男性と女性で分割して行い、共変量は賃金と教育、技能の時間変化に関する従属関係と仮定する。分析では観察できない異質性も取り扱う。固定効果と残差項の分布の推定をノンパラメトリックで行う。次に周辺分布内での残差項の個々の順位の変動をモデル化するためにコピュラ法を用いる。それからこれら2つの部分をまとめ実現値を計算する。最後に生涯所得格差と基準年の所得格差の比から所得の平等化効果を求める。

ここでは残差項の順位の変動を賃金階級間の移動と雇用形態の変化を組み合わせることによりフレキシブルな形でモデル化した。過去の研究同様に相対的流動性を対象とし順位の同時分布をモデル化した。モデル化に際してなんらの対称性も課さなかった。

加えて過去の研究で指摘された賃金の変動に関するいくつかの特徴もモデルに組み込んである。モデルは恒常的部分と一時的部分を持つ。恒常的部分は固定効果を持ち一時的部分は単に一階のマルコフ過程に従う。前者の部分はAlvarez et al. (2007), Altonji et al. (2007) and Pavan (2008)らと比較して我々のモデルはわずかな非観測の異質性しか組み込んでいない。後者の部分は例えばMeghir and Pistaferri (2004)と比較してはるかにシンプルだ。

ここでは個人に特有の非観測の要因を固定効果として扱い測定誤差を扱わない。この扱いによりモデルはとてもシンプルになる。しかしパネルデータの短さが原因で一致性を満たさない恐れがある。異質性を無視すれば賃金流動性は過大になる。固定効果モデルは賃金流動性を過小にする傾向があるがその代わりに賃金の順位相関のパターンをよく再構成する。固定効果があるモデルと固定効果がないモデルは賃金の平等化効果の上限と下限を示す。ランダム効果モデルは推定が難しいが我々の方法は標準的な計量ソフトウェアしか必要としない。

対象国はアメリカ、イギリス、カナダ、フランス、ドイツだ。1998を基準年として90年代後半の3-7年間のパネルデータを用いる。大部分の過去の研究は80年代から90年代初期のデータを用いているが、90年代後半のデータを用いることでより最近の傾向を知ることができる。

主要な結論は以下になる。第一にモデルはデータに極めて良く適合する。モデルは分布の裾の形状もよく捉えている。第二にアメリカが最も賃金流動性が高く、次にイギリス、カナダ、ドイツ、フランスと続く。第三にアメリカが最も雇用流動性が高く、次にイギリス、カナダが続く。フランスとドイツは他の国に比べてはるかに雇用流動性が低い。第四に賃金流動性だけを組み込んだ生涯賃金格差の各国の順位はクロスカントリーの賃金格差の順位と基本的に変わらない。第五に雇用流動性を含めると各国の差はかなり小さくなる。雇用流動性はアメリカ、イギリス、カナダに平等化効果をもたらすがフランス、ドイツにはないからだ。従って現在時点間で賃金に大きな違いがあっても生涯賃金格差ははるかに小さい。そしてその程度は異質性を含めるか含めないかに依存している。

注7 1996のOECD Employment Outlookには1986-1991期間のアメリカ、フランス、ドイツを含むOECD加盟国に関して以下のような結論を引き出している。「各国の賃金流動性は似通っていてこれは階級間の移動を調査対象にしても同様の結論が引き出される。デンマーク、イギリス、アメリカ、(そしておそらくフィンランド)はフランス、ドイツ、イタリア、スウェーデンよりも幾分か流動性が高いことを示している。しかしそれでも全体像としては似通っている」。Contini (2002)はOECD(1996)のデータを用いてEmployment Outlookの内容を再調査し以下のような結論を引き出している。「賃金流動性により暮らし向きがよくなる労働者の割合はアメリカの方がヨーロッパよりも高い」。従って、この研究で我々が見出した各国間の賃金流動性の違いは90年代に増幅された比較的最近の現象だろうと思われる。

この研究で得られた結果から賃金流動性は賃金格差をアメリカ、カナダ、イギリスで20-30%減少させ、フランス、ドイツでわずかに減少させると我々は推計している。我々が調べた対象の国では相対的に高い賃金格差のある国は同時に流動性の高い国でもあることが示される。従って、流動性を考察に加えることにより長期の賃金格差に関して北米型の労働市場と欧州型の労働市場ではより似通っていることが示される。

この研究で我々が用いた方法はFlinn (2002)、Bowlus and Robin (2004)、Cohen (1999)、Cohen and Dupas (2000)らの方法と密接に関連している。これらの研究はサーチモデルを用いて個々人の厚生の現在価値を求めている。これらの研究はすべて賃金流動性がアメリカにおいて大きな賃金平等化効果を持っていることを示した。賃金平等化効果により長期の賃金格差がアメリカとイタリアで等しくなり(Flinn, 2002)、アメリカとフランスで等しくなる(Cohen, 1999)ことを示した(奇妙なことに、アメリカとイタリアの生涯(長期)賃金格差は同じ、だから実はイタリアの賃金格差はあまり知られていないがアメリカ並みに大きいんだ!とでも言いたげだった馬鹿な経済学者をツイッターで見掛けたことがあった。言うまでもなく解釈を真逆に間違えている)。結果において同様であるものの我々のモデルは異質性を含める点、サーチモデルに制約されない点においてよりフレキシブルなものになっている。

2 The Model

2.1 Model Specification

上記の必要事項を満たすために(注 省略している)以下のモデルを構築する。第一に賃金の対数値を時間ダミーに対して回帰することによって賃金からトレンド成分を取り除く。Whtは時間tにおける労働者hの非トレンド化した賃金を示す。次に以下の回帰式を仮定する(興味がない人は飛ばして構わない)。

lnWht = Xht + fh + eht, (1)

Xhtは教育ダミーを含む回帰変数のベクトル。fhは固定効果(または比較のために含めない)を示す。パラメータβの一部分はwithin-group推定によって推計される。パラメータβの残りの部分と固定効果fhはwithin-group回帰の残差項にOLSを適用することにより推定される。

さらに以下の条件付不均一分散を仮定する。

Var (eht|xht) = xhtγ, (2)

パラメータγは^e2htをXhtに対して回帰することにより推定される。効率性を高めるためにβとfhを重み付き最小二乗法により再推定する。

Gを残差項μht = eht/√Xhtの累積分布関数とする。Gを実際の^μht = ^eht/√Xht^γの累積分布関数を用いて推定する。rht = G(μht)は分布Gの中での残差項μhtの順位を示す。rhtを^rht = ^G(^μht)を用いて推定する。最後にQhtはrhtの離散型を示す。

qht = max{[Nrht] + 1/N, 1} , (3)

[·]はinteger part functionを示す。QhtはWhtが最低所得だとしてもゼロにはならない。Qht = 0は個人hが時間tにおいて失業している場合に用いる。状態を{0, 1/N , 2/N , ..., 1}の範囲のQhtの値で表す。分析においてNは10とする。

就業と失業の間の状態の遷移を分析に組み込むことはこの分野の研究においてはあまり前例がない。分析期間中の全年度において賃金が正である個人の記録が必要とされることがあるからだ。しかし失業のリスクは単年度の賃金の変動だけでなく生涯賃金格差においても重要な影響を与えることが示されている(Bowlus and Robin (2004)、Altonji et al. (2007)、Pavan (2007))。加えて失業のリスクには各国間で違いがありこれを分析に加えることは各国間の比較をする際に意義があると思われる。従って分析では失業を遷移行列の中の状態の一つに加える。失業期間中の賃金の水準を決定することはアドホックな作業になるので感度分析を行いこの選択が適切かどうか判断する。

標準的なARIMAモデルは平均と分散はよく捉えられるが裾依存性を記述するのには向いていない。これが理由でこの分野では階級間、十分位数間の遷移確率行列を調べることが慣例になっている。この研究でもその慣例に従う。

P(i,j|Xht)は時間tでの状態Qht = iから時間t+1での状態Qh,t+1へ遷移する確率を示す。遷移確率P(i,j|Xht)を各状態iに対して多項ロジットモデルを用いて求める。

P (i, j|Xht) = exp[Xhtκ (i, j)]/NΣm=0exp[Xhtκ (i,m)]. (4)

これら多項ロジットモデルの共変量の組は技能の2次の項や教育ダミーの集合を含む。ここでのケースでは(特定の教育*技能の属性を持つ集団に関する)一部のサンプルサイズが小さいので教育*技能の交差項は含めない。

与えられたXhtのもとでの時間tと時間t+1における順位の同時分布の近似を求め、最近隣法を用いて順位の近似を求める。与えられたRhtとXhtのもとで多項ロジットモデルにより時間t+1における階級Qh,t+1を予想する。それに最も一致するRhtとQh,t+1を得られるようなRh,t+1を予想する。

この研究では賃金データの測定誤差はモデルに組み込んでいない。賃金と収入データの妥当性を検証した研究では測定誤差は非古典的で平均回帰の傾向があると報告している。古典的な測定誤差は収入格差を過大評価する一方、非古典的な測定誤差は収入格差を過小評価する傾向がある。賃金流動性に関して言えば非古典的な測定誤差の影響ははっきりとしない。U.S. Survey of Income and Program Participation (SIPP)のデータをU.S. tax recordsに照合させたGottschalk and Huynhの研究では非古典的な測定誤差の影響は賃金流動性を調べる場合には大部分打ち消されることが示された。従ってSIPPのデータに測定誤差があったとしてもこのデータを用いて推計を行った場合とtax recordsのデータを用いて推計を行った場合で同様の結果が得られる。各国のデータの妥当性に加えて測定誤差の範囲や誤差が古典的か非古典的かまでを知ることは困難なので測定誤差は考慮に含めない。申告バイアスは各国で同様であろうと予想しGottschalk and Huynhの結果がここでの研究においても当てはまると期待する。

2.2 Simulation of the Value Functions

各個人に対してある時間tからそれ以降の賃金の経路をシミュレートするにあたって現在の就業状態と賃金をスタート時の状態とする。次に時間tから退職年までの期間に対して状態の列をランダムに選ぶ。その状態は(年齢に従って上昇する)技能水準と個人の特性(周辺分布Gと遷移確率行列Pによって表される)にもとづいて変化する。年齢の変化をモデルに組み込み、さらにマクロ経済環境を時間tでの状態に固定して賃金変動がマクロ経済の変動から影響を受けないようにする。

就業していれば個人は年率換算した賃金を受け取る。失業中の所得は各国固有の失業保険の所得代替率×(前期就業していれば)前期の年間所得、(前期就業していなければ)最小所得水準wに等しい。最後に年齢aでの退職以降の所得はゼロとする。

Eat(w)を時間tにおいて賃金がwであった個人の退職時年齢a時点での将来の予想賃金流列の和の割引値とする。同一のコーホート内だけでなくすべての個人間での比較を可能にするためにstock valueではなくannuity valueを求める。stock values Ea(w)をannuity valuesに変換するために利子率rで以下の公式を用いる。

Aat(w) = Eat(w)/a−a+1Σt=11/(1+r)t = rEat(w)(1 + r)a−a+1/(1 + r)a−a+1 − 1. (5)

分析では利子率rは年利5%とする。

3 Data Description

1998-1999のデータを用いるのみでは遷移確率の正確な全体像を得るのにサンプルサイズが十分ではない国がある。従って多項ロジットモデルを推定するためにサンプル期間中に観測された遷移をすべて用いる。アメリカだけが十分なサンプルサイズと11×11の遷移行列を得られるだけの賃金流動性の水準を持つ。他の国に関しては(セルに関して)サンプルサイズの問題に直面する(特定の遷移に関してはゼロの場合さえある)。この問題は最も高い賃金から失業へと遷移する場合(またはその逆)に特に顕著だ。この問題を元の階級が[i−1/10 , i/10]で|j − i| > kとなるようなすべての遷移先の階級[j−1/10 , j/10]を一纏めにすることによって解消する。カナダ、イギリス、ドイツに対してはkは3としフランスにはより制約の少ない4とする。

表1に我々が予想した遷移確率から得られる定常均衡分布を示す。就業状態に関する流動性のみを取り出せたならば各列内の要素は等しくなければならず1から均衡失業率を10で割った値を引いたものに等しい。ほとんどの国においてそして男性と女性において(固定効果を含めない)モデルから得られた均衡分布は階級間で幾分か偏っている。アメリカの場合は中央付近の階級にわずかな偏りがあるに過ぎない。しかしイギリス、カナダの場合は上位階級にはっきりとした偏りが見られる。フランスでは下位階級に、ドイツでは分布の両裾に偏りが見られる。固定効果を含める場合にはイギリス、カナダ、ドイツでは結果が大きく改善する。フランスの場合は今度は中央付近に偏りが発生する。これは固定効果を含めたモデルを推定するに際してサンプル期間が3年では不十分であることを示唆する。より長期のパネルデータ(フランス以外)に関しては我々が行ったデータの非トレンド化は成功していることを示唆している。さらにサンプル期間中の失業率を適合させることに関してもこの方法でうまくいっているようだ。

4 Data Analysis and Model Fit

4.1 Cross-Section and First-Order Markov Dependence

適合度に関して、モデルは賃金データの特徴を原系列でも対数値でもよく捉えている。表2と表3に対数化した賃金の平均値と分布を実際の値、モデルによる予測値に対して示す。対数化した賃金の平均値と標準偏差は実際のデータとほとんど正確に一致する。原系列の賃金分布の平均値と標準偏差も実際のデータとよく一致する。歪度と尖度は完全には一致しないが大半の場合で妥当な水準にある。どちらのモデルも平均と分散は良く一致するが固定効果モデルの方が歪度と尖度に関してより一致する。



多項ロジットモデルにより得られた相対的賃金流動性がどれだけ実際のデータと一致しているかを調べるためにスピアマンの順位相関係数を用いる。その準備として隣接する期の実際の賃金の対数値に対する順位相関と、初年度の実際の賃金の対数値とモデルから得られた次年度の賃金の対数値の予想値との順位相関を計算する。モデルでは残差項を用いて推定しているが、このテストでは残差項の順位相関ではなく賃金データの順位相関を調べる。従ってこのテストはモデルが観測された賃金流動性をどれだけ再現できているかを効果的に捉える。(所得の)水準ではなく順位相関を調べるのは我々が関心があるのが分布内での順位の変動であって水準の変動ではないからだ。さらにシミュレーションにおいては周辺分布は固定しているので賃金流動性は完全に順位の変動から来ている。表4に結果を示す。適合度は全体として非常に良いが分布の中央付近で分布の裾よりもわずかに良い。(固定効果ありなしの)どちらのモデルも分布の中央付近でデータに良く一致するが固定効果モデルが分布の裾でわずかに良く一致する。


この表からいくつかの特徴が浮かび上がる。1)アメリカの順位相関が他の国より大幅に低い。2)順位相関は分布の中央付近よりも分布の裾で高い。3)最も賃金が高い階級が最も賃金が低い階級よりも順位相関が高い。4)各国内での男性と女性の順位相関の水準は極めて似通っている。2番目と3番目の結果が我々の手法の妥当性を判断する上で特に重要だ。つまり、単一の相関係数では分布全体を通しての特徴を捉えることはできない。

4.2 Long Run Dynamics

最初の方に述べたようにモデルの定式化はフレキシブルな形で行われたのでこの結果が得られたことは驚きではない。生涯賃金に関して真のテストは長期の変動だ。モデルの長期のパフォーマンスを測るために(パネルの長さが許す限りで)すべての組み合わせに対してスピアマンの順位相関係数を求める。つまり2年、3年、4年などの組に対して実際の賃金水準間の順位相関と、初年度の実際の賃金と2年、3年、4年後の賃金水準との予測値との順位相関を求める。表5にこの方法でのスピアマンの順位相関係数を示す。


注22 例としてアメリカの場合は4つの観測値(1996、1997、1998、1999)がある。従って各回答者に対して最大で2つ(1996-1998 & 1997-1999)、それと1つ(1996-1999)の観測値がある。実際の数字に関して両方の期間に就業している回答者だけを計算に含め、予測値に関して初年度に就業していて後期に就業していると予測される回答者だけを計算に含めている。

固定効果のないモデルでは長期の変動を捉えるのがうまくいっていない。特に時間の経過に対して賃金流動性を高く予想する傾向があり実際のデータよりも相関が速く減少する結果となっている。例えばアメリカの場合は実際のデータでの1年後の相関が0.76だったものが3年後には0.66にまで減少する。しかしモデルは3年後の相関を0.49と予測している。この傾向はすべての国で男性、女性ともに見られる。比較して固定効果のあるモデルは実際のデータよりも高い相関を予測する傾向がある。実際、固定効果モデルは時間の経過に対して非常にわずかしか相関が減少しない。固定効果モデルは分布内の個人の順位をほとんど維持していることが示唆される。これら2つのモデルは実際の順位相関を挟み込むような結果を示し、各国の賃金流動性に関して有益なベンチマークを提示してくれる。

前回の結論同様に今回も、アメリカの賃金流動性が最も高く他国を大きく引き離している。イギリスは2番目に高い流動性を示すがカナダとドイツは驚くことに非常に似通っている。最後にフランスは最も流動性が低く1年後との相関が最も高くさらに2年後にも相関が減少していない。興味深いことに所得分布自体に違いがあるにも関わらず男性と女性で同じ傾向を示す。

表5の全サンプルに関する相関は表4の相関よりもずっと高い。これは全体の相関の大部分は階級間で発生していて残りが階級内で発生していることを示唆する。これはアメリカに特に当てはまる。

相関の傾向が教育、または技能によって変化するのかを調べる。表6に男性の教育に関する結果を、表7に技能に関する結果を示す。一般的に若く教育水準の高くない個人は高い流動性を示し賃金の経路も大きく変動する。これは多項ロジットモデルの教育と技能に対する係数がすべての国で負の傾向であることから確認できる。この効果はアメリカ、イギリス、ドイツで強くカナダ、フランスで弱い。技能に関する効果は教育に関する効果よりは各国で似通っているがそれでもフランス、カナダで弱い。最後に1年後の相関に関してモデルは人口全体の時と同様にデータによく一致する。時間の経過とともに固定効果のないモデルは相関が低めに固定効果のあるモデルは相関が高めになる。

5 Lifetime Inequality

5.1 Education and Experience Earnings Differentials

賃金とannuity valuesにどの程度違いがあるかを把握するために表8に性別毎の教育、技能間での賃金差を示す。すべての国で男女間に賃金差があることがまず確認できる。この差は当期の賃金とannuity valuesでほぼ同一だ。よって賃金流動性は男女間の賃金差を変化させない。この研究での男女間の賃金差は他の研究で報告させるものよりも大きい。女性労働者の割合が多いパートタイム労働者を含んでいるからだ。女性のパートタイム労働の割合が特に高いイギリス、ドイツでは男女間の賃金差は顕著に大きい。

教育と技能について、すべての場合で教育プレミアムはannuity valueの方が高い。逆に技能プレミアムは低くなる。よって賃金流動性は教育水準の違いを強化し技能水準の違いを低下させる。後者に関してそのようになる理由は初期時点の技能水準の低さはannuity valueで見た場合の将来の賃金の成長を意味し逆に技能水準の高さは将来の所得の減少を意味することになるからだ。教育水準の差は長期での賃金格差を拡大する傾向があり技能水準の差は縮小させる傾向がある。

以上の傾向は固定効果のないモデル、固定効果のあるモデル両方で成り立つ。よって固定効果モデルを採用したとしてもこれらの比較に影響を与えない。

5.2 Earnings and Lifetime Income Inequality

ここで賃金と生涯賃金格差の比較に戻る。表9に賃金とannuity valuesの固定効果のないモデルでの格差の水準についてp90/p10比とジニ係数を男性と女性別々に示す。表10に同様の結果を固定効果のあるモデルに関して示す。この表は長期の賃金格差に対する賃金流動性と失業リスクが与える影響を示す。

Bowlus and Robin (2004)同様に、annuity valueの格差の水準は一般的に賃金格差の水準よりも低い。この発見の例外はフランスだ。予想されることだがアメリカが賃金とannuity valueの格差の水準に関して最も大きな差を示す。次にカナダ、イギリス、ドイツと続いてフランスが最も小さい賃金平等化効果を示す。

女性は男性よりも高い賃金格差を示す。前回説明したようにこれはパートタイム労働者の割合の高さに起因している。そしてイギリス、ドイツでその割合が高い。さらに女性は男性よりも高い生涯賃金格差を示す。しかし男女間のギャップはすべての国で縮小する。フルタイムとパートタイム間の流動性が男女間のギャップを縮小させるのに寄与したと思われる。

流動性の種類の相対的重要性を理解するために様々なシナリオでシミュレーションした。上方への賃金流動性のみ、下方への賃金流動性のみ、そして両方の場合で行った。結果は上方への流動性、下方への流動性ともに等しい大きさの賃金平等化効果を持つことが示された。そして両方の場合ではさらに賃金格差が縮小することが示された。

失業リスクの効果は別の傾向を示す。就業と失業の間の流動性のみを考慮する場合には賃金平等化効果は小さくある国では長期において格差を拡大させることが分かった。これはフランス、ドイツのような失業からの退出率が非常に低い国で表われる。よって長期では賃金流動性ははっきりと平等化効果を持つが失業リスクではそうではない。このことはフランス、ドイツの長期の格差縮小効果がどうして小さいのかを説明する。失業リスクの効果を含めなければフランス、ドイツが他の3ヶ国と同様の平等化効果を持つと間違った結論を導いてしまうだろう。

注30 例えば失業からの退出率はフランスが0.27、アメリカが0.75だ。

フランス、ドイツの失業リスクの効果の確認は表11と表12でできる(それぞれ固定効果がない、固定効果があるに対応する)。この表では失業期間の所得水準がゼロと仮定してある。失業リスクが最小のアメリカ、イギリス、カナダでは結果は基本的に変化しない。しかしフランス、ドイツでは長期の格差の水準は上昇しさらにはクロスセクションでの水準を超えてしまう。

失業リスクが生涯賃金格差の重要な位置を占めるということはAltonji et al. (2007)、Pavan (2008)でも確認されている。この研究の結果はFlinn (2002)、Cohen (2000)のように賃金流動性と失業リスクとをサーチ理論の枠組みを用いて組み込んだ研究の結果とも整合する。特に固定効果のないモデルはクロスセクションでの賃金格差の水準に違いがあるにも関わらず生涯賃金格差の水準は各国で驚くほど似通っていることを示している。結果の類似性は異質性を組み込んでいないが失業リスクは組み込んであることに一因がある。

これまでの結果から我々は賃金流動性は賃金格差をアメリカ、カナダ、イギリスで20-30%減少させ、フランス、ドイツで少し減少させると推測する。相対的に賃金格差の大きい国は相対的に流動性の高い国でもある。従って北米型の労働市場は欧州型の労働市場と長期の賃金格差に関して短期の賃金格差を見る場合よりもはるかに似ていることが示される。

6 Conclusions

(省略)