ON GLUTS, EFFECTIVE DEMAND AND THE TRUE MEANING OF THE SAY'S LAW
by Petur O. Jonsson
経済学の用語は変化し過去の用語の使われ方は現代のものとは一致しないことがある。このことは用語の意味を不明瞭にし誤解を生む元となる。よって過去の著作を調べる場合には意味論に拘泥して意図する考えを見落としたりしないように定義に十分な注意を払う必要がある。さらに古典派の経済学者の著作を読む場合にはその簡潔な執筆スタイルにも注意する必要がある。彼らの著作では長文の代わりに的確な短文による表現が用いられることがある。よって我々も注意深く正確に読む必要がある。最も重要なことは彼らの議論を文脈に即して理解することだ。古典派の文章をカット&ペーストしてある文脈での単純化した仮定をまったく異なる文脈での仮定と組み合わせて実際にはまったく存在していない概念を捏造することはあまりにも容易い。疑いようもなくこれが思想史の歴史がセイの著作に対して行ってきたことだ。だがセイの著作は現在も存在しており二次の情報源が以下にオリジナルに遠く及ばないかということを明白に際立たせている。実際、セイの法則について書かれた文献を読むと伝言ゲームを連想せざるを得ない。
by Petur O. Jonsson
経済学の用語は変化し過去の用語の使われ方は現代のものとは一致しないことがある。このことは用語の意味を不明瞭にし誤解を生む元となる。よって過去の著作を調べる場合には意味論に拘泥して意図する考えを見落としたりしないように定義に十分な注意を払う必要がある。さらに古典派の経済学者の著作を読む場合にはその簡潔な執筆スタイルにも注意する必要がある。彼らの著作では長文の代わりに的確な短文による表現が用いられることがある。よって我々も注意深く正確に読む必要がある。最も重要なことは彼らの議論を文脈に即して理解することだ。古典派の文章をカット&ペーストしてある文脈での単純化した仮定をまったく異なる文脈での仮定と組み合わせて実際にはまったく存在していない概念を捏造することはあまりにも容易い。疑いようもなくこれが思想史の歴史がセイの著作に対して行ってきたことだ。だがセイの著作は現在も存在しており二次の情報源が以下にオリジナルに遠く及ばないかということを明白に際立たせている。実際、セイの法則について書かれた文献を読むと伝言ゲームを連想せざるを得ない。
現在広く受け入れられているケインジアンの見方は19世紀の古典派の経済学者(セイ、リカード、マカロック、ジェームズ&ジョン・スチュワート・ミルなど)は供給過剰、経済危機、非自発的失業の存在を否定していたというものだ。クラウワーとレーヨンフッドが説明しているようにこれは酷い捏造で歴代の著作家が原典を注意深く読むこともなく不当にオリジナルの議論を歪めてきた結果だ。結果として、ベッカーとボーモルが述べているように古典派の経済学者は「彼らのものとされている考えを一つも持っていなかった」という。
実際、古典派の経済学者は供給過剰と失業の原因について深く懸念していた。彼らの生きていた時代は産業革命に代表されるように混乱期であったため供給過剰や失業に関して考えないことはむしろ困難なことだった。(中略)簡潔に言えばこの時代は経済の多くの部門において大いなる繁栄の時代であるとともにその他の部門は大きな変革を迫られた時代でもあった。セイ、リカード、ミルらの著作はこのような時代背景の元に書かれたものだということを認識しなければならない。
セイは「大いなる厄災」と彼が考える供給過剰の存在のことで頭がいっぱいだった。実際、彼がマルサスに宛てた手紙には2つの疑問の答えを探すことが彼の最大の関心事であると記されている。「損失が発生することが分かっているにも関わらず商品が絶え間なく運び込まれてくるような一般的供給過剰の原因とは何か?そしてその原因が明らかになった暁にはそれを治癒するための手段とは何か?」。
VENT AND THE CIRCULAR FLOW
セイの市場間の相互関係に対する見方は所得の循環と我々が現在呼んでいるものに恐らく最もよく表わすことが出来るだろう。セイは繰り返しその影響に関する議論をしている。
「生産者が自らの消費の対象となる商品を購入するための元となるのは自らの生産により発生した(賃料、利子、賃金などで構成される)利益だ。これらの生産者は同時に消費者でもある。そして彼らの、物が欲しいという欲求(異なる種類の生産物の需要に対してそれぞれ異なる影響を与える)は最も必要とされる物が生産されるように常に働きかけるだろう。何故なら最も必要とされる物を生産する者が最も多くの利益を得るからだ」。
さらに彼は財の循環には焦点を当てるが「財と貨幣の循環の間に区別を設けることは実際にはそのようなものはない」のでそれを否定する。彼が財の需要を低く抑えたままにしているのは貨幣の不足だという考えを退けているとされる、セイのTraitéのde'bouche'sの章の冒頭部分を解釈しなければならないのはこのような文脈に即してだ。そしてこの文脈に即して、財はいつでも財によって購入されるという彼が繰り返している主張を解釈しなければならない。セイにとって貨幣は実際にベイルで、財の供給が財の需要に影響を与える効果に関する彼の議論は、投入要素の生産性が財やサービスを購入する際の元となる要素所得を決定するとする現代の議論と何ら変わる所がない。ボーモルが指摘しているようにセイの著作の多くが対象としているのは「長期の経済成長に影響を与える要因に関してであって(中略)短期の失業や過剰生産の問題ではない」。我々はこれら2つの異なる問題に関してセイが異なる議論をしていることに注意を払わなければならない。
セイの販路説は取引が双方向であるという自明の理に基いている。取引は各交換者が持つ何か価値のある物を提供する能力によって成り立っている。セイが「購入できる価値とは生産した価値に等しい」と述べているのはこういう意味においてのみだ。セイは一般的に自発的な取引は見返りを伴うと仮定している。従ってセイは仮に取引者が何かを売りに出したのであればそれは他の何かを得るために売りに出されたのだと考える。セイが「ある財が生産されればそれは即座に他の財への販路を拓く」と述べるのはこういう意味だ。だが即座に販路が拓かれるとは即座に物が売れることと同じではない。理解するためのポイントは何かの物が売りに出されたならばこの意味においてこの物と交換が将来において成されるであろう他の物に対する新たな販路が現在拓かれたということだ。すなわち取引者が売りに出す物の価値がこの取引者が購入できる価値の最大値を決定し、そして双方向の取引の下では何かを売ろうとする試みは何かを買おうとする試みでもある。
仮に、見通しの誤りなどにより取引者の要望が未来の取引相手によって満たされなかったとすればこれは取引者のその他の財に対する「有効需要」に影響を与えるだろう。このようにしてセイの販路説はセイの不況に対する考えの基礎となる。すなわち有効需要は交換可能な価値を持つ財の供給によって制約されることになる。価値のない物を提供している者は他者の生産した物を購入する手段を持たない。正しい文脈の中で、この点がリカードに引用された部分でもある。
「資本を有効に用いることが出来ないのは誤った考えや昔からのやり方に固執することによる。彼らは状況がよくなるといつも信じていてそれ故に需要があまり無いものを作り続ける。資本が余っていて労働の賃金が低いのであればよい利益を生み出すものを見出すのはそれ程困難なことではないだろう。そして誰か有能な人材が資本を彼の制御の下に置くのであれば恐らく彼はわずかな時間で交易をかつてないほどに活発にするだろう。生産の誤りを犯したとしても需要が不足することはないであろう」。
繰り返しになるが売却された物は購入された物でもある。そして所得もなしに購入される物はない。そして市場は相互に結合していて「ある部門が他の部門に影響を与えずに苦しむということはあり得ない」。
THE TERM "EFFECTIVE DEMAND"
スティーブン・ケイツの主張とは反対に「有効需要」や「実効需要」という用語は古典派の経済学者に頻繁に用いられている。それでも彼はセイもリカーディアンらもケインジアンの意味での「総需要」の理論を持っていなかったと主張している点に関してだけは正しい。すなわち古典派は総需要を支出の総和と所得の総和を結びつける関数だとは考えていなかった。彼らが考えたのはどのように総「有効需要」が「協調の失敗」によって制約されるのかの理論だった。どのように見てもケイツが私の過去の著作の内容を理解しているとは思えない。私の主張は、セイやリカーディアンらによって議論される「有効需要」の失敗は消費性向に基づくものとは完全に異なるというものだ。私は古典派がケインジアンの総需要関数のようなものに基づく理論を展開していたなどとは決して示唆していない。
セイが一般的供給過剰と経済危機は協調の失敗によって引き起こされると主張していたことはリカード、マカロック、シーニア、ジェームズ&ジョン・スチュワート・ミルらには理解されていた。実際、マカロックは経済危機の協調の観点からの説明をセイの一つのそしてただ一つの経済理論に対する有意義な貢献だと述べている。
「彼の主な貢献は有効需要が生産に依存していることを以前為されていたものと比較してより満足の行く形で示したことにある。そして有効需要が生産に依存していることを理解することは簡単だ。ある特定の商品または幾つかの商品の供給超過はある程度の頻度で生み出されるかもしれない。だがすべての商品の供給超過というのは起こりえない。(中略)失敗は多く作りすぎたのではなくむしろ購買者の嗜好に合わない商品を生産したことかまたは自分たちでは消費できないものを生産したことにある」。
セイにより為された様々な議論を明確にするためそしてセイの議論がマルサスやシスモンディからのものを初めとして数えきれないほど受けてきた誤解を避けるためにセイの議論をより正式に調べる必要がある。要するにランゲが行ったと云われているようなセイの議論の再定式化を行う必要がある。シュンペーターが述べているようにセイは自らの主張をはっきりと定式化していないからだ。
A FORMAL RESTATEMENT
セイの考えを再定式化することは難しい。協調の失敗を議論する場合に事前の取引計画と事後の取引を区別しなければならないからだ。まず取引が予定通りに成立した場合について考える。di,j,tを取引者iがjの財をt期に購入しようと予定していた量とする。si,j,tは同様に売却しようと予定していた量だ。xi,j,tを超過需要とする。事前の取引計画では希望した量を購入または売却出来るとする。貨幣を含めてm個の異なる財があるとしてベクトルxi,tが取引者iの取引計画を行列Xtが経済全体の取引計画を表わすものとする。
価格ベクトルをPtで表わす。取引者iの予算制約をxi,t*P't=0で表わす。事前の予定販路はVi,t=Σpj,t*si,j,tで表わす。仮定によりこれは取引者が事前に購入しようと予定していた財の価値と等しいのでVi,t=Σpj,t*di,j,tとなる。
セイの議論を正しく定式化するにはそのような個々の取引計画が全体の結果に与える影響を示せるような形で為されなければならない。仮に取引者が全員予定通りに取引したとすれば総取引計画Σxi,t*p'tの値はゼロになる。これがクラウワーとレーヨンフッドがセイの原則の総量版と呼んだものだ。これは市場が均衡状態にあるのかそうでないのかに関して何も語っていないことに注意する必要がある。このことを理解するために事前の超過需要について考える。
EDは行列(1)の列jの要素を足し合わせることで得られる。セイの原則の総量版による唯一の制約はこれら事前の超過需要の値がすべての商品の総和を取るとゼロになるということだ。全売り手は彼らが売ろうとしている物と同価値の物を受け取ろうと意図しているので定義により売却計画の総価値と購入計画の総価値は等しくなる。だがこれは買い手と売り手の事前の計画が一致しない状況とまったく矛盾しない。すなわち事前の供給過剰の総価値が対応する供給不足の総価値と一致する限り任意のまたはすべてのjに対してpj,t*EDj,t≠0となることを示すことが出来る。これがマカロックが「一般的供給過剰は起こりえない。ある商品での供給過剰は他の商品での等量の供給不足によって打ち消されるだろう」とセイの考えをまとめた時に頭に描いていたことだ。まとめるとある市場で予定していた売却が実行できなければそれは即座に他の市場で予定していた購入が出来なくなることを意味する(従ってすべての市場で供給過剰が発生することはない)。
市場が清算しない場合には短期の影響が支配的になり数量は均衡状態と比較して少なくなる。そして市場が必ずしも清算するとは限らないので取引者が予定していた売却に成功しないことは起こり得る。言い換えると売上から予定していた所得は実現しないかもしれないし消費者は事前の消費計画の変更を迫られるかもしれない。これは重要なポイントだ。セイはこのことをよく理解していた。すなわち失業した労働者はそうでない状態と比較して消費を減少させようとするかもしれない。これが今度は消費財への販路を減少させる。そしてこれがセイの経済危機の説明の本質となる点だ。以下の説明ではx^i,j,t=d^i,j,t-s^i,j,tを(事前のではなく)事後の超過需要とする。
失業が発生していて消費財に対する需要が弱い間はある市場での供給過剰は他の市場の供給過剰を拡大させるだろう。さらに非自発的失業に付随する非自発的過小消費も観察することは出来ないものの存在する。供給者が予定していた販売に失敗した時はいつでもその所得は不足しそして(1)その不足を補うために何か他の物を販売する(2)最初に購入しようと予定していた物に対する需要を抑制するというような行動が取られるようになる。この状況では人々は購入しようとするよりも多くを販売しようとする。
経済全体で見れば事後の超過需要と事前の超過需要とを対比させてΣpj,t*Dj,t=ΣΣx^i,j,t*pj,t≦0であることを意味する。超過供給が発生すればこの不等式は等式で成立しなくなる。もちろん現実の販売と現実の購入は事後では等しい。だが事前の取引計画に矛盾があれば現実の取引は均衡しない。それ故有効需要は事前の需要よりも低下する。この意味でまたこの意味の限りでセイの販路と協調の理論は有効需要の失敗の理論になる。
この点をはっきりと理解するためには事前の取引計画と取引の試みそして現実の取引を区別する必要がある。ランゲはそれが出来ずにこの点を理解することが出来なかった。そしてマルサスもこの点を理解することが出来なかったのだろう。
マルサスは市場が清算しない時には取引の試みは対称でないということを理解していないように思われる。現実の、事後の供給過剰と供給不足の価値は等しくなければならないのではない。セイの言っていることは供給過剰はすべての市場では起こり得ないということだ。リカードが述べるように「これが今日の政治経済学者が供給過剰を見通し(*現代風にいえば、期待)の誤りが原因とする理由だ。彼らは例えば2個または10個の商品で供給過剰が起こらないとは言わない。だがすべての商品が供給過剰となることは起こり得ない」。セイとリカードらが一般的供給過剰は起こり得ないと同意するのはこの意味でだけだ。
ON LANGE'S OBFUSCATIONS AND THE ROLE OF MONEY
ランゲは市場が清算しない場合では取引の試みが対称でないことを無視していた。実際、彼は予定していた取引と取引の試みをまったく区別していなかったし「総需要と総供給の全体価値は恒等的に等しい」と考えていた。この考えを描写するためにワルラスの法則という用語を用いその妥当性は「各商品の需要や供給が均衡状態にあることを必要としない」と本当に考えていたようだ。
ランゲは今度はセイと古典派の経済学者が誤ってこれを財市場のみに適用して貨幣を含めるのを忘れたと主張する。すなわちランゲは以下のようなものをセイの法則だと主張する(*省略)
クラウワーとレーヨンフッドが説明しているようにこれはひどい誤りだ。さらにはこの説明が「ワルラスの法則とは、供給された財の全体価値と需要された財の全体価値が事前においても事後においても、市場が均衡しているかいないかにも関係なく恒等的に等しいことを保証しているとして現在では理解されている」というようなセイの法則に対する経済史の説明の大元となっている。
セイは財の交換の過程で「貨幣はただ交換の役割を果たす」と何度か主張している。恐らく彼はこれを単純化のためか、または貨幣特に紙幣は価値の保存の手段としては適していないという彼の信念に基づく仮定としていたのだろう。フランス貨幣の減価に関するセイのコメントを見よう。「人々は紙幣の使い方を探すのに不安になっている。その価値は時毎に減価し即座に再投資されるか中には他人の手に渡る間に消えてなくなると考えている者もいるようだ」。
ランゲに従って後の経済史家たちは人々は貨幣を退蔵しないという考えをセイの議論だと考えた。これが後に(1)セイが貨幣の役割をどのように考えていたか(2)販路説が不況の本質の説明にどのように役立っているのかに関して人々を混乱させることとなった。ある者はセイの恒等式という用語を以下のような考えにさえ用いている。
「誰もが貨幣を退蔵したいと思わず、その結果として各財の供給が自動的に同価値の財の需要となる。従って物々交換経済の場合と同様に供給は自動的に自らの需要を生み出し、財やサービスの過剰生産は原理的に不可能であることを意味する」。
シュンペーターが指摘しているように、
「この恒等式はセイの議論とはまったくの無関係だ。関係があるというのならば物々交換経済では各人の提示する交換比率は他の人が受け取りたいと思う交換比率とすべて等しいということを証明する必要がある。これはもちろん馬鹿げたことだ。不均衡は物々交換経済でも貨幣経済でも同様に起こり得る。後者の方が撹乱要因は多いかもしれないが。この誤りは既にマルサスに於いて為されその後も頻繁に繰り返されている」。
どちらにしてもセイは貨幣経済では特定の財のみが交換の媒介になり、循環する貨幣の量が取引の量を制約することをよく理解していた。そしてセイは貨幣を保有することの機会費用が貨幣の循環に影響を与えることも理解していた。価格が不安定な時には「貨幣の価値は減少し財の価格は増加すると予想されるので財の供給は控えられる」ためだ。
ON THE MEANS VS. THE WILL TO PURCHASE GOODS
ジェームズ・ミルを専門に取り扱っている経済史家は彼を供給が需要を作り出すという考えの真の作者だとしている。確かに彼は著作の中で「一国の需要はいつでも一国の生産するものに等しい」と言うような強い言明を何度かしている。だが彼がセイの協調の理論を理解していたことは明確だ。
「だが国家は一般的な供給過剰を持つということはないにしても一つまたはそれ以上の商品の供給過剰を持つことがあるということを述べておかなければならない。ある商品の供給は需要を大きく超えるということは容易に起こり得るかもしれない。だがそれはその他の商品も同様に供給されないことを同時に意味している」。
ジェームズ・ミル版のセイの法則を見る前に彼の生きた時代背景に注意する必要がある。ミルの時代では多くの人が生産性の上昇自体を問題と見做していた。この背景に沿ってミルは生産と生活水準の向上の手段のための資本の増加の必要性を説いている。現代では生産性の向上の恩恵は明白で過剰生産の懸念は馬鹿げたものに見えるのでこのことを理解することは困難かもしれない。それでもこのことを理解することがミルの議論を理解する上では必須の条件となっている。
マルサスとシスモンディはこの考えを否定していた。マルサスは「製造された財が消費者の好みに合わない」ことまたは消費者の数が少ないことが有効需要の制約となり従って生産性の向上を通した所得の創出の妨げとなると考えていた。同様に不平等な所得分布が「少数が富を保有すると、多数が富を保有する場合と比較して対応する有効需要が発生しないので」有効需要が低下すると議論した。
マルサスは消費者が買いたいと思う量には限界があると信じていたので生産性の向上それ自体が供給過剰につながると考えていた。(*中略)要するに消費者の消費したいという意欲の限界が経済を恒久的に「供給が需要をはるかに上回る状態を生み出し、富の創出は有効需要によって制限される」と彼は結論している。同様にシスモンディも技術進歩が生産性をさらに向上させるのであればこれは「国家の不幸」となるだろうと結論している。
セイはマルサスへの手紙でそのことに関して議論している。そしてリカーディアンらのほとんどはセイの議論を理解しそして賛成しているように思われる。シーニアの見事で簡潔な説明を見てみよう。「一般的供給過剰の仮説を受け入れたと仮定しよう。そしてその仮説により富の一片までもが飽和の時だけでなく超飽和の時にも存在したとする。需要不足はその存在の理由となることが出来ない」。マカロックは後にこのようにまとめている。
「マルサスは商品への需要は(それを購入するための手段と組み合わさった)欲望に依存していると説明している。すなわちそれと等量のものを提供することの出来る力だ。だが誰か購入する欲望の不足などという話を聞いたことがあるだろうか?仮にそれだけで必要品や贅沢品を獲得できるのであればすべての貧者が大金持ちになれるだろう。そして市場はあっという間に供給不足になるだろう。購入するための手段は現実に必要不可欠なものだ。厄災を斯くも長引かせるものは我々の欲望を満たすものと等価の物を提供することが出来ないことだ」。
この意味でセイとリカーディアンらは消費性向に基づく需要不足という考えを否定しているという人もいるだろう。すなわちケインジアンの用語で言えばセイらは限界消費性向が1に近づく傾向があると考えていた(*ちなみに、長期の消費性向はほぼ1であることが知られているのでこの点でも当然ながら古典派が正しい)。さらにその結果として経済危機が非常に長きにわたって続くとは信じていなかった。長期では売ることの出来ない物を作り続ける人は誰もいないだろうというリカードの主張を見てみよう。
「(*中略)商人が商品に関していつまでも誤った情報を持ち続けると仮定すべきではない。それ故商人が需要のない商品をいつまでも作り続けるといったことは起こらないだろう」。
ON THE PERSISTENCE OF GLUTS
セイの考えに対する実質の反論はマルサスやシスモンディではなくチャルマースによって為されている。チャルマースはマルサスやシスモンディと一括りにされて扱われるが、彼の批判は彼らのものよりも道理が通っている。彼はセイの議論を理解していて賛同してもいる。
消費の意欲ではなく彼は利潤の逓減と生活必需品を生産する手段の不足に焦点を当てている。これらは「人間の供給過剰を生み出しそしてそれは思慮深さや節制でしか防ぐことが出来ず(*当時は飢饉などへの恐れから人口の増加が恐れられていたと考えられる)また飢饉や疫病、戦争でしか変えられないかもしれない」という。この労働の供給過剰の議論はマルサスの人口論(*マルサスが提唱する前から当時の知識人の間では通説のように語られていたと云われている)を前提としている。土地の不足により生存賃金は追加の労働から得られる賃金よりも高くなりこれが大規模な失業を生み出す。すなわち「労働者が雇用期間に消費する食料が労働者が育てる食料の量を上回る」。そしてこれが「新たな資本の供給などでは修正することの出来ない過剰を生み出す」としている。
さらにチャルマースは利子の下方調整への制約に関して議論している。これは信用市場の清算に影響を与える。信用を先程のセイの議論に組み込むためにm-1番目の財を信用証書とする。信用市場が清算されなければ利子率に調整をもたらすだろう。信用証書の需要がその供給よりも大きければ利子率は低下すると予想できる。だが実質利子率は貨幣の実質利潤率とリスク・プレミアム(不況期に上昇する可能性がある)との和以下になることが出来ない。利子率がこの基準となる最小値まで低下すれば貸し手は信用証書を購入して資金を貸し出すよりも現金を保有しておくほうが得になる。一度チャルマースの古風な定義と分かり難い説明を理解すれば彼が実際はこのように議論しているのが理解できる。彼は、資本が「利潤を生み出す力は制約されており」、不況期に信用リスクは上昇するので信用市場は清算されないかもしれないと議論する。問題は市場が清算する自然利子率は貸し手が応じることの出来る最小の利子率を下回っていなければならないことだ。従って「資本はある境界を超えて移動することはない」。もしかしたらマルサスやまたはランゲでさえも彼らの実際の説明とは異なり心の中では本当はこのようなことを考えていたのかもしれない。とにかく(現在ではなく)将来の消費を希望する者が、金融資産の保有により現在の財市場に供給過剰を生み出す可能性がある。言い換えるとΣ(xi,m-1,t+xi,m,t)=-Σ(Σ(xi,j,tPj,t))>0となる。
もちろんセイの議論にこれを妨げるものはない。そしてセイがこのことに気づいていたのもはっきりしている。彼はそのような異時点間の協調の失敗により引き起こされた不況が非常に長期にわたるとは考えなかっただけだ。
第一にセイは利子率が信用または資本市場を清算させるように働くだろうと考えていた。超過貯蓄の懸念に対して「超過はそれを癒やす手段も同時に備えている。資本が過剰になる時はいつでも、資本家が資本から得る利子は少なくなりすぎて節約の割が合わなくなるだろう」。よって他の所に支出が流れる。セイとチャルマーズとの真の対立点があるのはこの利子率の役割に関してだ。
第二にセイは過剰な貯蓄による供給過剰が幾らか長続きしたとしてもこれ自体が経済を不況から脱出させるデフレ圧力をもたらすだろうと考えていた。「商品や生産の価格が低下することにより資産が増加するからだ」としている。すなわちセイは実質残高効果が経済が恒久的に不況になるのを妨げるだろうと考えていた。
どちらにしてもマルサスやシスモンディとは異なりチャルマースはセイと似たような枠組みで議論していた。対立点があったものの彼はセイの否定ではなくセイの議論の拡張をしている。セイは彼が「政治経済学について」を出版した年に死んだので一度もチャルマースに返答をしていない。だが究極的には同時点間と異時点間の協調の失敗の間には本質的な違いはない。
CONCLUSION
ケインズ以降、セイとリカーディアンらの考えは歪曲され続けてきた。(*中略)彼らは供給過剰を協調の失敗の観点から説明している。それに対してマルサスやシスモンディらは消費の意欲の観点から説明している。その考えはある意味で単純なケインジアン・クロスの中にも表れている。それは所得水準が上昇すると平均的な消費性向は低下しそれが生産量を制約すると仮定されているからだ。
まとめるとセイとマルサスの意見の違いは(1)協調の失敗と部門間シフトを不況の原因と見做す(2)過小消費を原因と見做すかに表れている。ケインズがセイを公然と非難しマルサスを支持したにも関わらず、未だにケインジアンという名称を用いている現在の経済学者が元はセイが提示した考えを自身の基盤としていてマルサスによって提示された過小消費などのような考えを暗黙の内に拒絶しているのは非常に皮肉なことだ。
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