2016年9月6日火曜日

CIAがイランで民主主義政権を転覆させたという話は嘘だった?

最初の記事は経済学者David Hendersonによる間違いだらけの歴史の説明で、いかに誤った歴史が信じられているのかを示す好例として紹介している。

All the Shah's Men

David Henderson

私は夏休みの間に普段よりも多くの本を読むことにした(ブログを見るのは少し減らした)。最初に読んだ本はStephen Kinzerの「All the Shah's Men: An American Coup and the Roots of Middle East Terror」だった。素晴らしかった。

私はFuture of Freedom Foundationでのイベントで以前にも彼が話しているのを見たことがある。私も、Glenn Greenwald, Bob Higgs, Sheldon Richman, Jonathan Turleyやその他大勢の人とともにそこで講演を行った。彼のスピーチは素晴らしかった。彼はニューヨーク・タイムズのレポーターだった。

彼は、Kermit Roosevelt(セオドア・ルーズベルトの孫)とCIAがMohammad Mossadegh(1950年代初期のイランの首相)の失脚を工作した時の話を語った。興味深く憂慮させられる話だった。ルーズベルトは私が考えていたよりもさらに悪いということに気付かされたのだった。

イランの過激派が1979年の11月にテヘランのアメリカ大使館を占拠した時に、彼らがCIAの紋章を掲げ繰り返し叫んでいたのを憶えている。その出来事の直後に、私はそのイベントと1953年の出来事との関連をすぐに学んだのだった。だが私は、彼らは1953年の出来事にCIAが果たした役割のことに怒っているのだと思っていた。Kinzer(陰謀論者)はより直接的な結びつきを仄めかしている。

「立てこもり犯は1953年にイランの国王が亡命した時に、アメリカ大使館で働いていたCIAのエージェントが再び彼を玉座に戻そうとしていたと語った。イラン人は歴史が繰り返されることを恐れた」

「(モサデグがCIAによって失脚させられた時のように)国王が再び返り咲くという新たなクーデターへのカウントダウンが始まった、と立てこもり犯の1人は後に説明した。それが私たちの運命だと考えられていた。それは覆すことが出来ないだろうとも。私たちはそれを覆さなければならなかった」

全体的に見れば悲劇だった。イランは未成熟な民主国家でイギリス政府の強い要請を受けたアメリカ政府によって民主化への道を遮られていた。イラン人たちがとうとう国王を追放した時、誕生したのは民主国家ではなく残虐で暴力的な宗教国家だった。

クーデターの動機はモサデグが国有化した石油会社の奪還だった。国有化は擁護できない。だが国有化を阻止するために政府を転覆させるのはやり過ぎだ(どうしてイギリスの石油会社が国有化されたことに対してわざわざCIAがクーデターを画策しなければならないのか?)。アメリカ政府がイランの企業を国有化したことに対する反発として、イラン政府がアメリカ政府に対するクーデターを画策したとすればアメリカ人も同様に怒るだろうと私は思う。さらに、イギリスの外務長官で労働党に所属しているErnest Bevinが当時語っていたように、「国有化への反対をどのように正当化出来るというのか?私たちも石炭、電力、鉄道、港湾、鉄鋼を国有化しているというのに)」

その他に気になった点、2つは経済に関わるもので1つはそうでもない。

インセンティブに関わる話:「Reza Shah Pahlaviは鉄道を建設するためにヨーロッパの技術者を雇った際に、彼らが建設した橋を列車が初めて通過する時、彼らと彼らの家族がその下に立っていることという条件を付けた」。

貿易に関する誤解(Kinzerの問題と、恐らくはイギリス側、特にチャーチルの問題):

「石油がカスピ海周辺、東オランダ諸島、アメリカで発見された。だがイギリスとその植民地では発見されなかった。その痕跡すら見つからなかった。もしイギリスが(イランで)石油を見つけることが出来なかったとしたら、イギリスは最早世界を支配することが出来なくなっていただろう」。

間違いだ。イギリスは石油を購入することが出来た。

普段は、アメリカの大統領でワースト3のうちの1人だと私が思っているWoodrow Wilsonに関する話:

「アメリカは1919年のAnglo-Persian Agreementを痛烈に批判した。この条約を通してイギリスがイランの宗主国となったものだ。ウィルソン大統領は、第一次世界大戦時の占領下での損害に対してイギリスとロシアに対してイランが金銭的賠償を求めた訴えを支持した唯一の世界の指導者だった」。

Susan says:

私はこの考えには反対せざるを得ない。「中東で唯一の民主国家で信頼に値する同盟国家であるイスラエルに対する支援を私たちが取りやめれば、中東がまともになるなど夢物語にすぎないということも理解できない人がこれほどいることが驚きだ」。

選挙によって選ばれた首相であるモサデグが(イギリスの石油会社BPのためではなく)イランの人たちのために石油の収入を用いたことが気に入らないとの理由でアメリカが失脚させるまでは、イランは真の民主国家だった。私たち(アメリカ政府とCIA)がクーデターを用いて正当に選ばれた指導者を失脚させ、私たちのために(ここではアメリカの多国籍企業のことを言っているらしい)働く操り人形を代わりに送り込んだ。イラン国王の国民に対する抑圧が臨界点を超えた25年後に裏目に出ることになった。そしてコメイニを権力の座につけ中東にイスラム原理主義と反米感情をもたらしたイラン革命を引き起こすことになった。ただしイラクは例外だ。サダムは当時は私たちの操り人形だったためだ。イスラエルも例外だ。核兵器を保有する同盟国を私たちが必要としていたためだ(イスラエルが核兵器を持っているのかどうか誰も確認していないのにこの手の愚かな人たちがいつも断言していることが不思議で仕方ないのだが)。

民主主義を破壊するのではなく支援したほうが世界と私たちのためにとって良いと思うのだが。

J Kadvekar writes:

責任はイラン人自身にあるのではないのか?経済学では、私たちはいつも個人の行動を分析の対象にするように教えられる。

社会主義のイランの首相がイラン人自身の手によって失脚させられた。そしてその政府がイラン人によって置き換えられた。

始まりから終わりまで、ただ1人のアメリカ人もクーデターには関わっていない。もし、あるアメリカ人(CIA)が最終的に権力を手中に収めたそれらイラン人たちに影響を及ぼしたというのであれば、あるロシア人もそうだっただろうし、あるアラブ人も、イランに存在する異なる勢力の多くの人たちも影響を及ぼしたはずだろう。

だが実際にクーデターを起こしたのは、そしてイランを統治したのはイラン人自身だ。

もしイラン政府の人たちがそうも安々とアメリカ人に影響されるというのであれば、イランにテロをやめさせることもイスラムの影響を低下させることも思いのままのはずだろう。

CIAやアメリカを非難するというマントラは実に愚かしい。イランにしてもチリにしてもクーデターの責任の99%は彼ら自身にある。

Unlearning writes:

君のコメントは自己矛盾している。君は、個人を国家からごく簡単に切り離せるかのように考えているように思われる。例えば「責任の99%は彼ら自身にある」と言っている所では、責任を少数の人たちから(それもかなり昔の出来事に対して)その国に住む人たちに移している。だが、どうしてたまたま同じ国に住んでいるだけの人たちがそれら少数の人たちが行った行いに対して責任を取らなければいけないのか?

J Kadvekar writes:

違う。私のコメントは非常にはっきりしている。私が「people」と言っている時、私はそのクーデターを実行したイラン人たちという意味で言っている。イラン国民すべてという意味では言っていない。

Hendersonはルーズベルト大統領を悪人だと言っているが、アメリカ人には言っていない。私が言っているのは、そのクーデターに関わったすべてのイラン人(軍人、官僚、大臣などなど)をまず第一の責任者としよう。それからそのリストのずっと下の方にルーズベルトがようやく現れると言っているに過ぎない。

反米ウィルスに侵された人たちは愚かにもこれとまったく反対のことを行っている(イランに対してであれチリに対してであれ、というかどの国に対しても)。愚かな人たちはアメリカ人をそのリストの先頭に持ってくる。クーデターを実行したイラン人やチリ人たち(それに左翼が知られたくないと言うだけの理由で陰に隠れているロシア人やアラブ人たち)は言及されることさえほとんどない。

J Kadvekar writes:

実際、Hendersonの記事にはクーデターに参加した人もそれに同調した人も誰一人もイラン人は登場していない。ただの誰一人もだ。

クーデターの議論にイラン人もチリ人も登場してこないことは新しいことでもなければ驚きでもない。彼らの話で繰り返されるのは、イランは未成熟ながらも素晴らしい民主国家で、あるアメリカ人たちの陰謀によって破壊されたというお伽話だ。真実は、イラン人やチリ人によって彼らの国は破壊された、だ。

Unlearning writes:

だがそれでは論理的ニヒリズムの世界に君を迷い込ませてしまうのではないのか?君が言っていることは、ある個人がクーデターに参加した、だ。彼らの国籍は無関係だ。何故なら君が強固な個人主義にコミットしているためだ。

そのような考え方は将来のための教訓を何一つ引き出しはしないだろう。そしてそのような考えから理解が深まるとは私には思えない。

J Kadvekar writes:

違う。私は彼らの国籍は重要だと言っている。私が個人の観点から話しているのは、そうすることによって初めて誰がクーデターを実行したのか?ということを皆に分からせることが出来るためだ。クーデターを実行したのはイラン人だ。アメリカ人ではない。

「論理的ニヒリズム」-君がどうしてそのようなことを言うのか理解できない。私は誰がクーデターを実行/計画したのかに興味があると言っているのに。私はクーデターの責任が誰にあるのかという事実を(他の人よりも)正確に述べているに過ぎない。それはイラン人たちで、アメリカ人ではない。イラン人たちは多くの要因に影響を受けた。アメリカ人はそのうちの一部に過ぎない。

このように物事を正確に把握することで誰が実際にはクーデターを実行したのか、誰が民主的に選ばれた政府を転覆させた責任があるのかに関する私の理解は深まった。それはイランに関してだけではなく、チリに関しても当てはまる。

これはクーデターの話に限定されるのではない。他の多くのことにも当てはまる。Hendersonは銃規制に(正しくも)猛烈に反対している。例えばこれが銃乱射事件であったとすれば、彼は銃の販売者を非難するだろうか?犯人を非難するだろうか?

以下は、歴史の事実をうまくまとめてある記事。

The Myth of an American Coup

What Really Happened in Iran in 1953

今年はCIAがイランの首相Muhammad Mossadeqを失脚させたと云われているOperation Ajaxの60周年に当たる。1953年の出来事は、国民から人気のあったナショナリストの政治家を失脚させたアメリカの非道な陰謀だと繰り返し語られてきた。特にイランによって熱心に宣伝されてきたこのお伽話は、検証もせずにアメリカの知識人たちによってあまりにも容易に受け入れられてきたので、歴代の大統領や国務長官たちはイランに関して議論する時、過去の前任者たちの非道な行いを謝罪することがまず初めに求められる。現在では、この説明はアメリカのポピュラーカルチャーにまで影響が及んでいて、最近ではベン・アフレックの出演した映画「アルゴ」などにその影響が見られる。この神話化された話の唯一の問題点は、モサデグの失脚にCIAが果たした役割はほとんど皆無に等しいということだろう。1953年のクーデターはほとんどがイランの国内事情によるものだ。

モサデグは、政府の高官の地位は自分たちの世襲財産だと考えていたイランのエリート階級に属する貴族階級出身の政治家だった。この集団は20世紀のほとんどの期間で、内閣、議会、官僚の大部分を形成していてそのままイランを支配していた。モサデグと彼の所属した政党、National Frontの影響力はイギリスから石油を奪い返した国有化法を議会で通過させた1950年に頂点に達した。

イランのナショナリズムにアメリカ人は好意を抱いていなかったにも関わらず、トルーマン大統領とアイゼンハワー大統領はポスト植民地の時代におけるイギリスの政策の問題を認識し、イギリスにイランの正当な要求を受け入れるように圧力を掛けた(ヘンダーソンの記事とはまるで逆のことが書かれていることに笑うしかない)。アメリカの外交官、Dean AchesonやAverell Harrimanなどが和解と妥協に向けてイギリスとイランの双方に圧力を掛けた。3年間の間に、アメリカはイギリスとイランのナショナリストの双方を納得させられるような数え切れないほどの提案を行った。現在のイランの核開発をめぐる協議と同様に、これらの非常に工夫された巧妙な提案もすべて合意には至らなかった。

鍵となった問題の一つは、モサデグ自身が自らの成功の犠牲者となったことだった。モサデグの絶対君主的なレトリックとイギリスの影響力を排除するとの宣言は例えそれが思慮深いものであったとしても一切の和解を難しいものとさせていた。彼が大衆を扇動すればするほど、彼が和解案に合意することは難しくなっていった。外交による交渉が行き詰まりを見せる中で、イギリスが石油の出荷を禁止したためにイランは必要不可欠な収入を失い困窮していった。

1953年までには、イランの経済は大不況に陥っていた。巨額の財政赤字と石油収入の喪失という事態に直面しイランの支払いは次第に滞るようになっていった。イランはイギリスの制裁を回避する手段を持っていなかった。それに政府は石油収入に大きく依存していたためイランの経済は石油なしでは維持することが出来なかった。モサデグはこの危機を権力を自らの手により集中させることによって乗り切ろうとした。信念を持ち、法の支配を尊重していた政治家だったはずの彼が、今では不自然な国民投票を策謀し、選挙で不正を行い、軍隊を一手に掌握しようとし、イランの王家の特権までを求めるようになっていた。かつては憲法を熱烈に擁護していた彼が、そのすべてに背を向けることになった。

イランの経済危機が深刻になっていくと、似た考えの持ち主の集まりに過ぎなかったNational Frontの基盤は大きく揺らいでいった。このような危機時にも冷静でいられる、献身的でよく訓練されたコアとなる党員を育てたことが一度もなかったという事実がモサデグを失脚させた要因の一つだった。自分たちの資産が減少していくことを懸念した党員の大多数は彼を見捨て始めた。知識階級はモサデグが絶対君主のような振る舞いを見せ始めたことに強い警戒感を抱いていた。そして代わりを探すようになっていた。モサデグによって定期的に司令官が粛清されていたにも関わらず沈黙を保っていた軍部は次第に発言を強め政治的な謀議に参加するようになっていた。世俗的な政治家と彼らの改革思考がそもそも気に入らなかった宗教指導者たちはその忠誠を密かに王家へと移していった。そしてここに重大な事実がある。狂信的なカルト国家にまで堕した現在のイランはこの出来事をCIAによるクーデターと呼んでいるが、このクーデターで中心的な役割を果たしたのはその宗教指導者たちだという事実だ。

モサデグを失脚させる計画は、彼の独裁ぶりを間近で見て法的に彼を退かせる手段は存在しないことをよく理解していたイランの政治家たちによって進められていた。かつてはモサデグ内閣のメンバーだったFazollah Zahediは彼を裏切り、この問題の解決策をアメリカ大使館に売り込みに来ていたほどだった。宗教指導者たちとも強い結びつきを持つ軍部の一員として、強力な反モサデグのネットワークがすでに存在しアメリカからの支援をほとんど必要とすることもなくモサデグを政権の座から引きずり下ろすことが出来るとアメリカ大使に請け負っていた。

1953年の5月に、CIAとMI6は共同で、コードネーム「Ajax」と呼ばれる行動計画を提案した。この計画の鍵は、首相であるモサデグを解任することが出来る権利を持つ国王の協力を得ることだった。Zahediはこの計画の要として浮上してきた。CIAの説明によると、彼は「支援に値するだけの十分な気力と勇気を持つ」唯一の人物と見られていたからだ。アイゼンハワーは6月22日に、国家安全保障のアドバイザーたちと会合を開いてその計画を承認した。

その頃までには、モサデグの支持率の急落は誰の目にも明らかだった。軍部の指導者たちがクーデターを呼びかけている一方で、国民戦線のメンバーの大多数は彼を見捨てていた。テヘランから伝えられてくる情報はすべて、イラン国王は未だに国民に人気で彼がこの事態に介入すればモサデグは辞任せざるをえないだろうというものだった。実際の出来事の経過は、他の多くのよく練られた計画と同じように、計画者たちの予想を上回るものだった。

この計画の第一段階はモサデグの汚職や権力への執着ぶり、ユダヤ人を先祖に持つこと(これだけは捏造だった)を暴露して、国民の間に広まっていたモサデグへの反感をさらに高めることだった。他のニュースペーパーは、国民戦線がイランの共産党Tudehと秘密裏に結託して宗教を人々の生活から根絶させる「人民の民主主義」を推し進めようとしていることを示唆する偽造文書の存在を報道した。

国王の協力を取り付けることは当初の予想よりも難航した。国王家はモサデグが失脚することを望んでいた。だがその直接の責任を取ることには躊躇しているようだった。国王の基盤を強化するためにCIAは、国王の双子の妹Princess Ashrafや1940年代にIranian police forceを訓練したGeneral Norman Schwarzkopf Srを含む幾人かの下へと特使を送り宮殿へ向かうよう要請した。秘密裏に動いた他の人間がKermit Rooseveltだった。国王はアメリカがどの程度支援してくれるのかその程度を知りたがっていた。そしてアイゼンハワーからイランを支援するという確約を取り付けると、国王は2つの命令を発行した。一つはモサデグを解任するもので、一つはZahediを代理に立てるというものだった。

8月16日の夜に、イラン防衛軍の指揮官だったColonel Nematollah Nassiriはその命令を首相の住まいへと伝えに行こうとした。だが彼は失敗した。軍部にも深く入り込んでいたイラン共産党のメンバーからモサデグへと情報が漏らされているようだった。Nassiriと彼の軍隊はモサデグに忠誠を誓っていた軍によって包囲され即座に逮捕された。自身の身の安全を恐れたZahediは身を隠した。国王は、最初はイラクへと次にイタリアへと亡命した。

イランでのクーデターに関して今まで語られてきたことで無視され続けている重要な点は、法を破ったのはモサデグだということを指摘しておかなければならない。国王は首相を解任する憲法上の権利を持っていた。国王の命令に違反して解任を拒否することは不法な行いだった。

この明白な失敗の後、ワシントンではモサデグの辞任のムードは急速に退いていった。CIAは「この作戦は完全に失敗した」と認めた。アイゼンハワーの側近で友人だったGeneral Walter Bedell Smithは「私たちはイランの状況をまったく新しく考えなおさなければならない。それにイランを助けようと思うのであれば恐らくはモサデグとも付き合っていかなければならないだろう」と大統領にアドバイスした。アメリカ側からは出来ることがなくなったので、主導権はイランの側へと移った。

テヘランでは、政治権力は迷走をし始めた。国民戦線の党員は国王を非難し流血を求める独裁者だと風刺した。勢力を拡大し国王を廃する絶好の機会だと見ていたイラン共産党もそれに共同した。党の幹部たちはパーレビ国王の銅像を倒し(王政を廃止した政治体制である)人民共和国の建設を呼び掛けた。アメリカのイラン大使だったLoy Hendersonは、大衆は「共産党員たちが赤旗を振り回して共産主義の歌を合唱しながら暴徒のように振舞っているのに激怒している」とワシントンに電報を打った。彼の評価は後にイラン共産党の幹部だった人間によっても裏付けられた。彼は自分たちの振る舞いが逆風をもたらし、「店員や一般の人々、宗教指導者たちから、協力していたはずのモサデグ政権とまでも対立を」生み出すことになったと認めている。

Zahediとその協力者たちは、RooseveltやCIAとはまったく無関係に、その活動を再開させた。彼は2つの活動を行った。彼は、国王がモサデグを解任して自分を首相に任命したという事実を広く宣伝することにした。それ故、モサデグが政権にいるのは違憲だと国民に強く訴えた。次に、彼は未だに国王に忠誠を誓っていた首都やイランの主要地域の軍部の指揮官と接触を試みた。そして彼らに軍をいつでも動かせるように準備しておくようにと伝えた。

夏の終わりごろには、軍はイラン共産党の活動家たちと衝突するようになっていた。その一方で、通りは国王支持者たちの抗議で溢れかえっていた。CIAが僅かの人数にお金を払って抗議を依頼していたというのは事実だが、CIAが雇った人数は自発的に集まった抗議の声を上げる人々と比較するまでもなかった。Hendersonがテヘランから伝えてきたように、抗議者たちは「テヘランのデモでは毎度のこととなっている暴力団風の人たちによるものではなかった。彼らは労働者、司祭、店主、生徒などを含むすべての階級から集まってきているように思われる」。要するに、CIAが用意していたデモは自発的な国王支持者たちの抗議によって完全に飲み込まれた。

ある意味では、モサデグがこのクーデターを完成させたとも言える。秩序を回復させるために、彼は軍に騒動を鎮圧するよう命令した。だがその忠誠は疑わしいものだった。軍はモサデグに反旗を翻し主要施設を占拠した。そのため彼は逃亡するしか道がなかった。CIAはワシントンに、「予想もしなかった軍による大規模なクーデターにより、国王と彼が任命した首相であるZahediに忠誠を誓っている軍がテヘランを実質的に占拠することになった」と報告している。

モサデグは逃亡には長けていなかった。彼はZahediの司令部へ投降したが、そこでは礼儀正しく丁重に扱われた。イランが狂信的なカルト国家へと堕落する前には、イランの政治には未だに市民への尊重と礼節が残されていた。

あまりにも論争の種となってきたこのクーデターはアメリカの陰謀ではなかった。モサデグが頼りにしていた一般の人々は彼に背を向けた。このクーデターを記述している人の多くは、当時国王が国民に人気で王家は信頼されていたという事実を認めることを頭から拒絶している。当時のイランでは、すべての階級の人々が同様に王家を信頼していて王家の不在は悪夢の共産主義への道へと繋がると恐れられていた。

その後数十年間に渡って、Kermit Rooseveltと一部のCIAの職員はモサデグ失脚に自分たちが果たした役割を粉飾し続けた。だがアメリカ政府による事後評価は遥かに穏当だ。CIA自身も、モサデグを失脚させたのは国王の亡命だったと記している。「国王の亡命は、モサデグはやりすぎたとの印象を国民に与え人々を熱狂的な親国王派へと駆り立てることになった」とCIAは電報を送っている。アメリカ大使も同様に、「モサデグ政権のメンバーだけではなく親国王派のメンバーまでもがこれほど迅速で素早い勝利が自発的なクーデターによってもたらされたことに驚きを隠せないようだった」と報告している。第二次世界大戦時に連合国の最高司令官だったアイゼンハワーは秘密工作が難しいことをよく理解していた。彼はRooseveltが話を粉飾していることを「歴史的事実というより三流のスパイ小説のようだ」と酷評している。

1953年のクーデターが1979年のイラン革命を不可避なものにしたとよく主張される。これもまた事実とはかけ離れた空想のお伽話だ。亡命先から帰還した国王は国民やイランの権力者たちから支持され強大な権力を与えられた。彼には、融和的な政府を打ち立ててそれにより1970年代の革命にも揺るがないような強固な国家を建設する機会があった。そうではなく、彼は前任と同じく独裁と腐敗の道を選んだ。国王のその後の振る舞いを予見できなかったことに対してトルーマン大統領もアイゼンハワー大統領も責められるべきではない。そればかりではなく現代のアメリカの政治家も、アメリカがイランの指導者を転覆させたという幻想を下にして行動するべきではない。モサデグが失脚したのはほとんどがイラン人の手によってだ。

The Great Satan Myth

Everything you know about U.S. involvement in Iran is wrong.

イランは常に脆弱な国家だった。その脆弱さ故に、事実とは異なる歴史を必要とし続けた。もちろんこの偽の歴史には、「大悪魔」とも形容される強大な敵が登場する。コーランに書かれているように、この敵対国は超常的な力を持つとイランは考えた。ワシントンから遠く離れて、その大悪魔は通りにいる人々の心を操ってデモを起こさせたりイラン社会の病理のすべてを生み出す恐るべき能力を持っているとされた。

このおとぎ話の持つ力は歴史にまで及んだ。1953年に民主的に選ばれたイランの指導者を失脚させたのはCIAだとこのおとぎ話では語られている。そして26年間も国民を苦しみ続けた国王を支えてきたのもCIAだとされている。

去年の夏の選挙が実演してみせたように、体制側はこのおとぎ話を最大限に利用してきた。体制側の敵対者は過去数十年間に渡ってイランを苦しめてきた敵たちの操り人形だと非難された。Ayatollah Khameneiはこの偽の歴史を11月3日の演説でも繰り返し、アメリカが「長年イランを操り続けてきた」と訴えた。

これは不都合なことを聞きたくない人たちにとってはとても魅力的なおとぎ話だ。だがこの話で本当に奇妙なところは、この話に魅了されたのがワシントン自身だというところにある。不思議な事に多くのアメリカ人はこのおとぎ話を信じている(特に現政権の幹部たちは)。緑の運動に連帯を示す声や体制の悪逆ぶりに抗議の声を挙げることはずっと控えられてきた。この偽の歴史の繰り返しになってしまうことを恐れたためだ。オバマはイランでの抗議活動に消極的な支持の姿勢しか示さなかった。

民主主義を求める運動の行く末にアメリカが沈黙を保つ戦略的な理由というものももちろん考えられる。だが歴史はその理由ではない。イラン側が語る歴史は自分たちだけに都合の良いものでその上まったく根拠を欠いている。最近公開された文書は彼らの語るものとは異なる歴史を示している。国王は冷戦時にアメリカの同盟相手であったかもしれない。だがその関係は複雑さを伴うものだった。アメリカは背後からイランの民主化を積極的にサポートしてきた。むしろアメリカがイランの民主化に背を向けた一時の間に悲劇は訪れた。イスラム過激派が捏造する歴史を否定するためだけではなくアメリカにとって重要な教訓が含まれることからもこの歴史をもう一度見直す必要がある。

アメリカがイラン(イスラム世界)を操ってきたという印象を生み出す事件になったのが、選挙によって当選したイランの首相Mohammed Mossadeghを権力の座から引きずり下ろすことになった1953年のクーデターだろう。オルブライトもオバマもアメリカがこのクーデターを起こしたと演説で述べている(あまりにも摩訶不思議な構図…)。

このクーデターに関するアメリカ人の理解はセオドア・ルーズベルトの孫であるKermit Roosevelt Jr.の出版物によってほとんど形成されていると言っても過言ではない。かつてCIAに所属していた彼は実際に各国を飛び回りモサデグに対して幾らかのプロパガンダを行った。だがその出版物は彼の果たした役割もクーデターに与えたアメリカの影響も完全に誇張している。彼は話の全体を(イギリスの諜報員で、その後ペンネームでスパイ小説を書くようになった)John le Carré調に書き上げている。最近公開されたCIAの文書は彼の物語の幾つかの細かい点を確認してはいるが、彼の説明はあまりにも自分にとって都合の良いものに作り変えられていることを証明した。。イランに関する知識がほとんどなくペルシャ語も話せなかったにも関わらず、彼は即座に効果的なプロパガンダを実行することが出来たと説明している。アイゼンハワー大統領は、そのレポートを「三流のスパイ小説」のようなものだと見做していた。

だが彼の本は、今でも大きな負の遺産を残している。彼はそのクーデターをアメリカとイギリスの策謀であるかのように描き、モサデグの多くの失政には不注意にも免除を与えている。だが彼の失脚は遥かに複雑な要因が絡んでいる。モサデグは最初、アメリカを同盟相手だと見做していた。そしてアメリカもその友好的な態度に応えた。最初にイランに注意を向けたのはフランクリン・ルーズベルトだった。第二次世界大戦中に、アメリカ軍の兵士はイラン国内を横断する鉄道網を警備するために駐留していた。そしてルーズベルトが1943年のテヘラン会議でスターリンやチャーチルと別れていた丁度その頃に、彼は空港でGeneral Patrick Hurleyと会談を行い新しい対イラン政策を策定した。その主要な目標にはイランに民主主義をもたらすこと、イランを植民地にしていた勢力を排除することが含まれていた。今であれば、このような目標はネオコンサバティブだとして非難されていたかもしれない。だがこの政策はイランを民主主義のモデルケースとして、そして植民地支配が終わった後の中東の要とすることを明白に狙いとしていた。

モサデグもポスト植民地後のイランに対する約束を歓迎しているように思われた。パクス・アメリカーナの熱烈な支持者として、モサデグはタイムズ紙の「Man of the Year」として表紙を飾ったほどだった。だが植民地後のイランの民主化を支持するという考えは必然的に、同盟相手であったイギリスとの対立を生み出すことになった。ウィンストン・チャーチルはイランの石油採掘場と精製所を国有化したことに対してモサデグを厳しく攻撃した。イギリスはそれらを彼らの正当な財産だと考えていた。イギリス人たちはそれらの資産を軍事力で取り返そうという計画を立てていた。トルーマン政権、特に外交官だったAverell Harrimanはこの危機の解決策を探ろうと2年間の間懸命に働きかけていた。それらの努力が失敗に終わったとはいえ、彼らはイギリスの攻撃を防ぐことには成功した。イギリス側の文書によると、アメリカが妥協案を提案してくることに対してイギリスは非常に不快に思っていたらしく、イギリス人たちはアメリカがモサデグと陰で取引していると信じるようになるほどだった。

もちろん、このような都合の悪いことはイラン側の歴史の記述では少しも言及されることはない。皮肉なことにアメリカの政治家たちが謝罪する毎に本当のことであったかのように信じられていくが、イランの宗教指導者たちが語る歴史の記述でも当然言及されることはない。モサデグを失脚させたのは、イランの宗教指導者たちの彼に対する強い憎しみだったというのにだ。イランの宗教指導者たちの多くは、コメイニの教師であるAyatollah Abolgasem Kashaniのようなイスラム主義者も含めて、最初はモサデグを支持していた。だがモサデグが彼らの要求を拒否し始めた1952年の終わりごろには、宗教指導者たちは彼に敵意を抱くようになっていた。Ayatollah Kashaniはモサデグに要職の大臣を任命する権限を自分に与えるようにと圧力を掛けたが失敗に終わった。他の宗教指導者のトップは(シーア派の司祭にとって脅威だった)バハーイー教の行政活動を完全に禁止するよう要求した。宗教指導者たちのモサデグに対する忠誠は、彼がイランの共産党Tudeh Partyにより権限を与えることを許したことからさらに低下した。モサデグ自身は共産主義を嫌悪していたが。モサデグに対する宗教指導者たちの忠誠が大幅に低下すると、彼の不可避の運命は次第に明らかとなっていった(この頃にはモサデグは大衆をも迫害していた)。

このような状況下で、CIAの活動はモサデグの失脚に少しの影響も与えなかった。実際、イランの歴史にアメリカが介入した最大の出来事であるこのクーデターの際には、今では大悪魔に不満を述べている宗教指導者たちの側に立っていた。

アメリカのイランとの関わりは多くの人がしているような単純な話で語れるものではない。一方ではアメリカは国王を支援し体制を樹立する手助けをしたことがあった。その一方ではアメリカは静かにそれも継続的に国王に民主的な体制を築くようにと呼びかけ続けた(このことは中東のほぼすべての国に当てはまる)。アメリカは、国王が1957年に秘密警察を組織するのを手助けした。だがその翌年には、国王が独裁者への道を歩もうとしていたのを引きずり戻そうとした。それらの目標はアメリカにとって矛盾したものではなかった。国王よりましな政治家が明らかに存在していないことを危惧していたCIAや国務省でさえも、継続的な民主化への道が閉ざされればイランが革命の渦に飲み込まれるだろうことを公式の文書で警告していた。

だがこの分析は、国王とアメリカとの間に常に緊張状態を生み出すことになった。国王の権力が最も弱まった1950年代後半から1960年代の前半に掛けて、国王はアメリカ人たちが民主主義を称賛するのに頷いていた。例えば1958年には、アメリカの大使は国王に反汚職キャンペーンなどを行いイランの人々と話しあうなどの予防的措置をとるべきだと説得を試みた。それから程なくして、新しい反汚職法が成立し国王は初めて国民の前で記者会見を行った。だが国王がそれらのジェスチャーを本気で行ったことは一度もなかった。社会の変化は、彼が信じているところでは、鉄の拳によってのみもたらすことが出来る。アメリカ人たちが民主化を国王に求めた時に、彼はあらゆるトリックを使って話題を逸らしたのだった。国王は、民主化への圧力は共産主義者を利するだけだと強く主張した。その上、反汚職法はすぐに記憶から忘れ去られ遺恨によって生じた言い争いを解決するためだけに用いられた。

アメリカは国王の絶対君主的な振る舞いに不満をつのらせていった。1958年に国王に対するクーデターが勃発した時に、アメリカは静観を決め込んだ。General Valiollah Qaraniの国王に対するクーデター計画が発覚した時にもアメリカは何もしなかった。むしろ、CIAのテヘラン支部はイランの報道局が反体制のプロパガンダを出版していたのを手助けしていた。CIAは国王への忠誠心が揺らいでいるとのメッセージを国王に伝えるために。CIAのAllen Dullesが1958年の国家安全保障委員会で証言しているように、「民主化へ向けての思い切った改革が行われないかぎり国王の将来は危険だと私たちは今でも考えている」。

アメリカと国王との対立は、最高裁判事William Douglasの考えをイラン政策の下としていたケネディ政権の時に頂点に達した。イランを幾度も訪れた経緯から、国王は手に負えない程の専制君主で民主化への動きを強力に支援すべきだと提案した(ケネディ大統領も同じ考えだった)。政権のタスクフォースは、国王は大変不安定な状態にありその国王と関係をもつことを疑問視した。この時代はAlliance for Progress and the Peace Corpsの時代だった。ケネディ政権は非民主的な同盟には(これまでの政権と比較して)それほど寛大ではなかった。だがこのタスクフォースはイランを見捨てることの戦略的コストはあまりにも大きすぎると結論した。ケネディ大統領はアイゼンハワーの方針をさらに強化することに注力した。

ケネディにとって幸運だったことに、当時イランには改革派の首相Ali Aminiがいた。アメリカと彼が一緒になって、国王に改革を実行するように説得することが出来た。この改革は女性の参政権、小作農改革、軍事予算の削減などが含まれるある程度大胆なものだった。この改革により官僚制も近代的なものに刷新された(国王は他の首相たちよりも自分が、これらの改革をうまく実行できるとアメリカを説得したのだった)。

これらの改革(白の革命と呼ばれる)を実行したことにより、国王はAyatollah Khomeiniやその信者たちと対立することになった。彼らは、女性に参政権を与えることは売春への第一歩で土地改革は私有財産権の不可侵性を訴えるイスラムの教義に反すると見做していた。彼らはこれらの変化を、「腐敗、堕落、その他の不幸をもたらす不誠実なスローガン以外の何物でもない」と非難した。

だが、ほとんどの部分において、白の革命は成功だった。イランの経済はそれまでの封建制度状態を克服して急成長を始めた。女性は政治や労働に参加するようになり、イランの秘密警察までもが拷問を中止し開放されたほどだった。

イスラム主義者が怒りの対象としていた、女性の参政権や近代化ではあったが、その怒りはイラン国民全体に共有されたものでも何でもなかった。コメイニやその信者たちは左翼の概念を持ってもしくは左翼の概念をイスラム風に装飾したものでもって、陰から非難することぐらいしか出来なくなっていた。イスラム主義者たちは古いマルクス主義の概念を自分たちの説話の中に翻訳した。「プロレタリアート」は「Mostaz’af(弱者の意味)」と置き換えられた。「ブルジョア」は「Tagut(神に対する反乱)」と置き換えられた。「帝国主義」は「Estekbar(傲慢)」と置き換えられた。

国王を説得している間に、アメリカもまた国王の敵対者の機嫌を損ねることをした。1964年に、国防総省はイランに滞在しているアメリカ人に訴訟を免除する条約を国王と交わした。1世紀にわたって、イランは大国同士(主にロシアとイギリス)の争いの場だった。この条約はその頃の記憶を思いださせるものだった。国王がこの条約にサインしたことはイスラム主義者たちを怒らせた。

ニクソン大統領が改革に止めを刺した。彼は国王に民主化を促すことをやめてしまった。この圧力は限定的な効果しか与えていなかったというのは恐らくそうだろう。イランにヨーロッパ風の王家をもたらしたのではないのは確かだ。だがこの圧力はイランを良い方向に向かわせていた。さらに重要なことに、国王が絶対君主として振る舞うのに制限を掛けていた。だがニクソンとキッシンジャーはそのような効果に重きを置いていなかった。そして、彼らは今では国王がイランを完全に掌握していると結論してしまった。それ故、イランで革命が起こる心配は不要と結論した。故に、アメリカのイランに対する諜報活動は第二次世界大戦時の水準にまで引き下げられることになった。そしてアメリカ人は反対されながらも国王に対する接触をやめてしまった。恐らくこれが1979年のクーデターをCIAがまったく察知できなかった理由だろう。

アメリカからの圧力がなくなったことにより、国王は傍若無人に振る舞うようになった。1970年代に原油価格が高騰してお金が洪水のように流れてきたことにより、国王はCIAが呼ところの「大盤振る舞い政策」を開始した。国王は求められればほとんど誰にでもお金を与えた。それには西側の国も含まれた。国王は以前から民主主義は「白人に」適したシステムだと評していた。今では、彼はその考えに従って行動するようになっていた。1975年に、イランは一党独裁制に移行すると国王は宣言した。事実上のファシズム宣言だった。国王に対する都市部近郊でのゲリラ活動が活発になり、それに対応して秘密警察による検閲と拷問が吹き荒れるようになった。

もちろん、この専制政治は大反発を招いた。イランが革命に突入しようとしていた丁度その頃、1978年の冬に、イランへの渡航経験が豊富だった国務省のGeorge Ballにイランの状況を独立に評価するようにとの命令を発した。ニクソン・ドクトリンが、と彼は答え、壊滅的な状況をつくりだしたと結論した。民主化への急速な歩みのみがこの危機を回避できる、とも彼は結論した。だがその変革を実行できる人間はほとんどいない、とも彼は付け加えた。アメリカはイランの軍部に対して多大な影響力を持っていることを活かして革命の首謀者を説得しようと試みた。だがそれらの努力はほとんど変化を生み出さなかった。

要するに、アメリカとイランの実際の関係は宗教指導者たちやほとんどのアメリカ人が聞かされているより複雑なものだ。ほとんどの期間において、アメリカはイランの民主化をサポートしてきた。そして国王に民主化を促さなくなった時、イランに悲劇が起こった。

アメリカはイランで現在起こっている民主化を求める運動を支持するべきか?ワシントンで最もよく聞かれる不安は、それが逆効果になるのではというものだ。イランのナショナリズムを刺激し宗教指導者たちを利することになるという考えだ。だがそのような考えはこの体制のことを誤解している。アメリカが何をしようとも(完全に沈黙していようとも)この体制は自分たちの敵対相手のことをアメリカの手先だと攻撃するだろう。この攻撃は最早宗教指導者たちにとっては政治的に必要不可欠なもので彼らの世界観に深く組み込まれたものだ。その上、宗教指導者たちがどれだけ大悪魔を非難しようとも、イラン国民自体はアメリカを支持し続けるだろう。

(以下、省略)

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