Over 670 million non-Muslims massacred since the birth of Islam
これらの数字は、歴史から忘れられた虐殺が加えられる毎に増加していく。
バルカン半島、ハンガリー、ウクライナ、ロシアでムスリムの手によって8000万人が500年間の間に殺害された。
ムスリムの手によって虐殺されたユダヤ人の人数は正確には分かっていない。
それからインドだ。ムスリムの手によって殺害されたヒンドゥーの人数は8000万人ということになっている。だがイスラムの歴史家であるフィリシュタ(b. 1570)はムスリムが4億人のヒンドゥーを殺害したと記している。
これらを加えるとイスラムが誕生して以降、ムスリムによって殺害された非イスラムの人数は6億6900万人を上回るかもしれない。
Islam: The Religion of Genocide
これを幾つかの事例と比較してみよう。
イスラムのテロリストはKKKが過去50年間に殺害したよりも多くの人を毎日殺害している。
イスラムのテロリストはタイで9.11以降、KKKが1865年から1965年の100年間に殺害したよりも多くの人を殺害している。
IRAが36年間の間に殺害したよりもより多くの市民が9.11の2時間の間にイスラムのテロリストによって殺されている。
It’s actually much worse than that: MORE PERSPECTIVE: Tears of Jihad
以下の数字はジハードによって殺害された非イスラムの大まかな人数だ。
Africa
Thomas Sowellは1100万人の奴隷が大西洋(南米や中南米)へと、1400万人がアフリカのイスラム国家や中東へと送られたと試算している。
奴隷が1人捕まえられる毎に多くの人が殺害された。
宣教師だったデビッド・リビングストンはプランテーションへと無事たどり着けた1人の奴隷に対して5人が殺害されている(捕虜にされた際の最初の攻撃の時や病気、強制的に行軍させられたことなどのせいで)と試算している。
残された人々は子供や働けない人、病人や老人たちばかりだった。働き手が殺害されたか奴隷にされたせいで彼らもすぐに亡くなった。
奴隷として送られた人が2500万人なので、1億2000万人が殺害されたということになる。イスラムはアフリカの奴隷貿易のすべてを取り仕切っていた。
Christians
改宗を拒んだことによりイスラムによって殉教させられたキリスト教徒は900万人だと云われている[David B. Barrett, Todd M. Johnson, World Christian Trends AD 30-AD 2200, William Carey Library, 2001, p. 230, table 4-10]。
アナトリアではジハードによってキリスト教徒が5000万人殺害されたとRaphael MooreのHistory of Asia Minorには記されている。
そして20世紀には100万人のアフリカのキリスト教徒が殺害された。
ようするに、アナトリア(現在のトルコ辺りの地域)では5900万人のキリスト教徒が殺害された。
バルカン半島、ハンガリー、ウクライナ、ロシアでは8000万人のキリスト教徒が殺害された。
(ここには中世にアラブがヨーロッパに持ち込んだ伝染病などは含まれていない。奴隷にされペストに大量に感染していたユダヤ人が、それまではほとんど住んでいなかったヨーロッパへと送られるようになっていた。アラブの奴隷貿易や、ジズヤを払うことにより何とか生き延びていた黒人、キリスト教徒、ユダヤ人などから病気が運ばれていった。これらの感染者たちはムスリムがイタリア半島、ギリシャ、スペインなどを征服しようとしている間にヨーロッパに広がっていった。ペストはヨーロッパの人口を半減させたと云われている)。
Hindus
Koenard Elstはジハードによって8000万人のヒンドゥーが殺害されたと試算している。
ジハードのせいで現在のインドは古代インドの半分の大きさでしかない。インド周辺の山岳地帯は「ヒンドゥーの墓場」と呼ばれていた。
8000万人+3億2000万人=4億人のヒンドゥーが殺害された。
(インドの宗教指導者、Swami Vivekanandaは歴史家のフィリシュタを参考に、800年間に4億人が殺害されたと1899年に報告している。もしムスリムがヒンドゥーを4億人殺害していれば、イスラムの被害者は8億9000万人を上回ることになる)。
Buddhists
仏教徒はイスラムの攻撃に防戦一方だった。ジハードでは、キリスト教徒とユダヤ人だけ(啓典の民だけ)がズィンミー(下僕)として生きることが許されていた。他は改宗か殺されるかを選ばなければならなかった。
ジハードによりトルコ、アフガニスタン、シルクロード沿い、インドで仏教徒が殺害された。
合計で1億人が殺害されたと云われている[David B. Barrett, Todd M. Johnson, World Christian Trends AD 30-AD 2200, William Carey Library, 2001, p. 230, table 4-1.]
Missing Data
イスラムはゾロアスター教を信仰していたペルシアを侵略して征服した。
中東のキリスト教徒も殺害した。
モンゴル帝国時代に中国人も殺害した。
それに加えてムスリムは1948年以降だけでも、1100万人のムスリムを虐殺している。それ以前にどれだけのムスリムを彼ら自身が殺害していたのかは分かっていない。
6億7000万人がイスラムによって殺害された。これはスターリン、ヒットラー、毛沢東、ポル・ポト、イディ・アミン(スンニ派のムスリム)、そして20世紀の社会主義者たちが引き起こしたジェノサイドを上回る。ムスリムによる殺害は現在も続いている。
左翼はKKKや死刑制度をこの上なく非難している。
どうして彼らはイスラムを非難しないのか?
イスラム以上に虐殺を奨励しているイデオロギーは存在しない。
これほどまでに血に飢えたイデオロギーは存在しない。
自由や民主主義、女性に対してこれほどまでに敵対的なイデオロギーは存在しない。
これはアルメニアで150万人から2000万人のキリスト教徒がムスリムによって殺害された時の様子だ(凄絶な写真なので掲載は控える)。この虐殺は大ムフティ、フセイニによってヒットラーとナチスに紹介され売り込まれた。そしてユダヤ人に対してその手法が採用され、ホロコーストが生まれた。彼に関わるまでヒットラーはユダヤ人の逮捕や抑圧にコミットしてはいなかった。ジェノサイドはヒットラーがイスラムと関わってから、そしてジハーディストたちがナチに協力しだしてから始められるようになった。
ROYE GABRIALY says:
1)ヒットラーはパレスチナの大ムフティからユダヤ人を絶滅させるという考えを聞かされた。直接的にはユダヤ人を殺害していないのかもしれない。だが彼との会話がなければホロコーストが実行されるまでにもっと長い時間が掛かったのは間違いないだろうし、殺害された人数は遥かに少なくなったはずだ。
2)イスラム世界では数千人というユダヤ人が殺害されたりコミュニティ全体が消滅させられた虐殺が数多くあった。それに加えてイスラエルはムスリムから戦争を仕掛けられたりテロ攻撃を受けている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Category:Anti-Jewish_pogroms_by_Muslims
虐殺の期間中に多くの人が負傷し、家や農作物は破壊され女性は暴行された。そのような虐殺はほとんどの場合において記録されていない。
3)ムスリムは非イスラムの家族から女性を誘拐していた。女性たちは二度と家に帰ることはできず奴隷とされた。その女性たちのこともほとんどが記録に残されていない。それは彼女たちにとっては悲劇でしかなかった。そのせいで、少女たちは9歳までには男の子と「婚約」を済ませるようになっていた。誘拐されるのを防ぐためだ。婚約を破棄するか続けるかは後になって判断することになっていた。
The Arab slave trade: 200 million non-Muslim slaves from all colors and nationalities
10年前にアジアを旅行している時に、不幸なことに西側では見つけることの出来ない非常に珍しい本に出会った。本屋で立ち読みしたのだが、荷物が一杯だったためにその本を購入しなかったことを後悔している。それはアラビア語から英語へと翻訳された900年も前のムスリムの「奴隷の取扱いに関するマニュアル」だった。そこには異なる地域から集められた奴隷たちの文化的、民族的慣習(とそれに対する取り扱い)が事細かに記されていた。このことは奴隷がコーランで肯定されていること、現在でもムスリムが奴隷制を続けていることを思えば驚くことではない(Sudan, Saudi Arabia, Mauritania, United Arab Emirates, Qatar)。
イスラム法の下では奴隷ははっきりと認められている[145]。Senior Council of ClericsのメンバーであるSheikh Saleh Al-Fawzanが語っているように、奴隷が廃止されたと言っている人は「単なる愚か者で学者ではない。そのようなことを言う者は異教徒だ」[146]。ムハンマド自身が奴隷主だった。数多くの奴隷を所有していただけではなく、彼自身が奴隷を売り買いし捕まえ暴行していた。彼の妻でさえも奴隷を所有していた。
マニュアルにはアラブ人がアフリカ人だけではなくすべての人々を奴隷にしていたことが記されていた。彼らの航海の目的は金銭だけではなくそれと同じぐらいに奴隷を捕まえること財宝を略奪することであると記されていた。マニュアルにはアラブ人が奴隷貿易のすべてを作り上げたことが示唆されていた。ムスリムは1億5000万人のアフリカ人と他の地域から5000万人を奴隷にしたことが他の記録から示唆されている。さらに、彼らはアフリカ人をイスラムへと改宗させた。それにより奴隷貿易で巨額の富を得た少数のアフリカの王族を除いてアフリカ大陸全体に社会的、経済的崩壊を引き起こした。このようなことは西側ではほとんど教えられることはない。
そのマニュアルはアラブの奴隷商人の手によって書かれたアラブの奴隷制の歴史だった。そこには西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、アフリカ、インド、オリエント、トルコ(トルコが初めはイスラムではなかったことを証明している)などから集められた奴隷の特徴のことが記されていた。インドに侵略する遥か前からアラブがインド人を奴隷にしていたことも記されていた。そのマニュアルによれば最も蔑まれていた奴隷はインド人とアフリカ人の奴隷で最も酷い言葉で記述されていた。最も好まれていた奴隷はトルコ人の奴隷で次はヨーロッパの奴隷だった。奴隷制は黒人だけの歴史という訳ではなく、奴隷制はイスラムによる世界の歴史でもある。
Muslim Slavery In The Modern Age: Real Life Stories
子供の奴隷として捕まったFrancis Bokが20世紀のスーダンでのムスリム奴隷の話を語っている。
10ドルで売られたSimon Dengがシャリア法の下で存続する20世紀の奴隷制のことを語っている。彼はアメリカの黒人に自分たちを未だに奴隷と見做しており兵士としてしか利用するつもりのないイスラムにだまされないようにと警告している。スーダンではムスリムによって350万人が殺害されている。
A. Arabs and Slave Trade
By Shirley Madany
ムスリム世界を理解するには歴史の知識が必要とされる。彼らの過去は現在とつながっている。地理を把握することも助けになるだろう。
Slavery in Early Islamic History
紀元前105年に中国で紙が初めて製造された。751年にヤクサルテス川の東でアラブ人は中国の商隊を撃破した。アラブ人は捕虜にした中国人の中に紙の製造職人がいたことを知った。そのような技術の多くがこのようにしてイスラム世界に持ち込まれていった。
アラブ人は捕虜にした奴隷から紙の製造方法を教わった。考古学者の調査や古代に残された記録から、奴隷貿易がアラブ世界では遥か昔から存在していたことを我々は知ることが出来る。奴隷を母親に持つこと、それが社会的スティグマとならないことはカリフの時代にまで遡ることができる。一夫多妻制が認められていたこともあり極めて当たり前のことだった。
カリフ制は貴族制に似たようなものだった。アラブの族長の娘を母に持つことは極めて重要だった。だがより多くの奴隷がイスラムに改宗するようになると生まれの高貴さや部族の特権などといったものはその価値を失っていった。817年頃になるとアッバース朝やそれ以降のイスラムの支配者たちは奴隷の女性の息子であることが多くなっていった(彼女たちは外国人だった)。
Growth of the Slave Trade
奴隷制が維持されたこと、奴隷が社会的に広く受け入れられていたことはイスラムがアフリカに進出していく強い動機だった。多くのアフリカ人は、歴史を教えられないためにイスラムの奴隷商人が東アフリカの港から数世紀にも渡って奴隷貿易を行っていたという事実を知らずにいる。だがイスラム商人の手により世界中で奴隷が取引されていたという記録ははっきりと残されている。
イスラム商人はインドからケイロン、東インド、中国へと海や砂漠を越えて至る所まで出掛けている。彼らが取引したものはシルク、スパイス、香料、木材など多岐にわたる。記録にはビザンチン帝国から奴隷の少女たちが送られたことが言及されている。驚くべきことにイスラム商人は遥か離れた北欧(この記事は、最近になって北欧にムスリムとの交流の証が見つかったことからバイキングはムスリムだった!という勘違い記事をニューヨーク・タイムズが記す何年も前に書かれていることを思い出す必要がある)まで、特にスウェーデンにまで足を運んで取引を行っていた。スウェーデンでは7世紀から8世紀頃のイスラムの硬貨が見つかっている。商人たちが北欧から輸入したものは「スラブ人の奴隷たち」と羊や牛などだ。9世紀の探検家、Ibn Kurradadhbehは「アラビア語、ペルシア語、ギリシャ語、フランク語、スペイン語、スラブ語を話す」フランスの南から訪れたユダヤ人の商人のことを記している。
奴隷の中には高い身分を与えられた者もいたがそれらは例外だった。「奴隷には鉱山での仕事や舟漕ぎ、沼地の灌漑など過酷な労働が与えられた。彼らは狭くて粗末な住居に閉じ込められていた。時には数千人が1人の地主に仕えることもあった。奴隷たちは主に黒人だった。彼らは東アフリカから捕まえられたり売られたりもしくは国からの贈り物の形で奴隷の身分に落とされた。バスラの東に広がる塩の平原を農地とするために灌漑したのは奴隷たちだ。5百人から5千人が常時働いていた。彼らの健康状態は極めて劣悪だった。労働は過酷を極め賃金はないに等しかった。奴隷たちは自分たちの主人が誰であるかを知らされていなかった。奴隷たちの間から指導者が現れ反乱を起こすこともあったが、それらは奴隷制の廃止を目指してのものではなく生活条件の改善を目指してのものだった。
A Recent Study
1990年にOxford University Pressにより出版された「Race and Slavery in the Middle East: An Historical Enquiry」という本には1237年から1500年にまで遡る絵画の写真が、その背景を説明する80ページの資料とともに掲載されている。見る人を不快にさせるこれらの絵画はロンドン、パリ、イスタンブールなどの図書館で見つかったものだ。それらには奴隷たちの生活の様子などが描かれている。
この本の筆者は奴隷制の廃止が世界中で叫ばれ始めた19世紀に、イスラム世界がそれに対してどのような反応を示したのかを記している。
「イングランドや西側諸国で廃止運動の原動力となった、奴隷制に対する反感がイスラム世界にも影響を与え始めていた。奴隷制の廃止には初期には至らなかったが、少なくとも奴隷制の緩和、特に奴隷貿易の制限、さらには一部廃止へとつながっていった。イスラム法の下では、奴隷たちに法律上の身分が与えられ奴隷主に対する権利と義務が与えられていた」
奴隷制の廃止はほとんど不可能だった。ムスリムにとって神が許可したことを禁止することは神が禁じたことを許可するのと等しく神に対する冒涜だった。奴隷制は神聖なる法によって定められていた。もっとはっきりと言うと奴隷制はイスラム社会の中心を形成する身分を定める法の一部を為していた。これは他の法、例えば民事であったり刑法などが、現代的な法律によって修正されたり置き換えられたりすることがあったにも関わらず、今も変わらず機能し続けている。改革の提案に対して最も強く反発しているのは宗教保守派、特にメッカやメディアなどの聖地であったりする。
Slaves of all colors and creeds – in accordance with Sharia
筆者はコーカサス地方から白人の奴隷が数多く連れ去られたことにも言及している。それはオスマン帝国の時代で、グルジアやサーカシアからの奴隷の搬送は1854年まで禁じられなかった。
A Puzzling Question
ここで1つの疑問が思い浮かぶ。どうしてアラブ世界には新世界の黒人たちに匹敵するようなコミュニティを目にすることはないのか?筆者はそれに対する答えを提供している。「理由の1つは明らかだ。去勢された黒人が高い割合でイスラム世界に送られたからだろう。他には死亡率の高さや出生率の低さが挙げられる。チュニジアに滞在していたルイス・フランクは数多くの黒人の幼児が幼くして亡くなっていること、ほんの僅かの子供しか成人まで生きられないことをその目で目撃している。それから30年後ぐらいに、エジプトに滞在していたイギリス人が状況はさらに悪いことを伝えている。「1世代の奴隷の命を奪うには5年か6年ぐらいあれば十分だと云われていた。それまでには以前の水準まで(奴隷を)補充しておかなければならなかった」と彼は伝えている。
B. President Obama’s African Forebears Were Slave Traders
18世紀にイスラムの奴隷商人は部族間の対立を利用するためにケニアの奥地へと移動していった。ムスリムたちは「戦いの囚人たち」を捕まえて奴隷にするために部族間を争わせた。
ケニアの部族長たちも奴隷を様々な品物と引き換えに交換していた。奴隷たちは海岸へと運ばれ、イスラム領のザンジバル(ケニアの南にある島)へと船で一旦運ばれていった。
奴隷と象牙は莫大な富を生み出しザンジバルのムスリムたちはその貿易によって豊かになっていった。奴隷貿易は、ヨーロッパの大衆が怒りを露わにしていたにも関わらずその後も続いていた。
イギリス人たちは実際に激しい怒りをスルタン(イスラムの支配者)たちに対して直接伝えていた。
イギリスが長年に渡って圧力を掛け続けた結果、スルタンは奴隷制の規模を縮小し始め1847年に奴隷制を廃止することに同意した。だが、ザンジバルで奴隷の取引が最終的に禁止されたのはアメリカの市民戦争が終結してから11年が経った1876年だった。
では、実際に奴隷たちを送ったのは誰だったのだろうか?
Obama’s American Forebears Were Slave Owners
民主党で選挙戦を戦っているオバマの父はケニア出身で母はカンザス出身だということを多くの人が知っている。だが(2007年の3月2日のBaltimore Sunの記事によると)、「彼の家系の歴史はこれまで誰も気に留めることがなかった。だが家系図や国勢局の記録によると、彼の母の先祖たちは奴隷を所有していたことが記されている」と記されている。
オバマを含めて多くの人が奴隷制に関して白人を非難しているが、彼らは先に事実を確認する必要がある。
先程の記事が意味するところは明らかだ。オバマの先祖は奴隷制によって連れ去られたのではない。何故ならばアフリカ人を奴隷にして運んでいたのはオバマの先祖だからだ。オバマは白人を悪魔、傲慢、抑圧者などと呼んで非難している。(自分の先祖が奴隷商人で)奴隷制の廃止のために戦ったのは白人だというのに。
彼も語っているように彼の祖父、Hussein Onyango Obamaはアラブ人だった。彼の母方の祖母、Akumaは彼女が逃亡するまで祖父によって誘拐され暴行され奴隷にされていた(彼が所有していた他の多くの少女と同じように)。従って、アフリカにいる彼自身の祖母が彼の祖父の奴隷だった。このことは彼の義祖母、Sarah Obamaによっても語られていて、彼自身の回顧録にも(暗示的に)言及されている。
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