2016年12月9日金曜日

カストロ政権が中南米に破壊と貧困をもたらした?

U.S.-Cuba policy: Myth vs. reality

Yleem D.S. Poblete and Jason I. Poblete

キューバとの関係を「正常化」するとの名目で、オバマはアメリカの対策を「時代遅れだ」と評した。この主張は、十分なほど繰り返せば真実になるとでも言わんばかりに、議会演説でも繰り返された。

歴史の説明が少し必要だろう。

アイゼンハワー大統領の対応はキューバの度重なる傍若不尽な振る舞いによって引き起こされた。その初期のうちの一つがアメリカ人が所有していた民間資産の補償も払わない不法な押収と国有化だった。現在では、それらの資産価値は8000億円から1兆円だと試算されている。ほとんど言及されることはないが、この問題がキューバ政策の開始地点となっている。キューバがソビエトから武器を購入するようになり文明社会から遠ざかっていくようになると、増大する脅威に対抗するためにワシントンが採用する外交手段も増えていった。

ミサイルをアメリカに向けていることからアメリカ人を拷問する目的でベトナムにエージェントを送っていること、テロの輸出から民主主義国家の転覆工作に至るまで、この独裁国家に課せられる制裁も増えていった。キューバが西側向けの麻薬を製造する武装組織のネットワークを創設して拡大させたことは数多くの政府の文書で明らかにされている。キューバによるスパイ勧誘工作によってアメリカ人が死亡してもいる。

キューバは現在でもイランと共同で破壊活動を行っている。テロリストを養成し殺害や破壊活動を奨励している。真逆のことが主張されるのとは異なり、キューバは現在でもテロリストのスポンサーの一つでそれが通商禁止の最大の理由の一つでもある。

だが制裁は、カストロを弱体化させ孤立させるアメリカの戦略のほんの一面でしかない。

アメリカのキューバ政策は、アメリカに対する攻撃に対してハバナに責任を取らせるという意味で懲罰的であるとともにカストロ体制の危険な政策を封じ込めるという意味で予防的でもある。カストロの犯罪行為からアメリカ経済と金融システムを保護し、アメリカの納税者が知らずにテロリズムにファイナンスしてしまうことを防ぐように出来てある。アメリカのキューバ政策は将来民主的に選ばれたキューバ政府と協力関係を築くことも目的とされている。

これらの優先事項が再びないがしろにされることになった。

カストロに対する抵抗運動の指導者たち(ほとんどはカストロによって捕らえられたことがある人々)はオバマの「政策」を「裏切り」だと非難した。キューバのネルソン・マンデラと呼ばれるJorge Luis Garcia Perez (Antunez)と彼の妻、Yrisはゲストとして議会演説に招かれた。彼らは、オバマの政策は(膨大な資産を持っていることが暴露されている)カストロだけに利益を与え民主化へのさらなる障害を生み出したと酷評している。

だがキューバ政策の見直しと称した事件は、今回が初めてでも何でもない。例えばカーター大統領の下で、制裁は緩和され縮小された。クリントン大統領は、人道支援のために飛行していた2機の航空機が国際海上でキューバの軍事用ジェット機に撃墜された時にさらに緩和しようとした。クリントン大統領はHelms-Burton法として知られるCuban Liberty and Democratic Solidarity Actにサインする以外に他に道はなかった。この超党派の法案は多面的なアプローチを強化することを目的とし、大統領の勝手で勝手に変更することが出来ないように既存の禁止事項を成文化させた。

オバマを止めるために議会はどのように行動すればよいか?すべてではないが、ここにその一部がある。

(以下、省略)
The 1964 “Made in Brazil” coup and US contingency support-plan if the plot stalled

CIAは、1964年にブラジルで起こったクーデターに対するアメリカ政府の関与について「サニタイズドされた(秘密にするべき部分が削除されたという意味)」文書を公開した。これはブラジル人にとって悪いニュースだった。アメリカが民主的に選ばれたブラジルの政府を転覆させたというよく聞かされる主張とは異なり、自分たちの民主主義を破壊した責任のほとんどはブラジル人にあることをこの文書は示しているからだ。ブラジルの軍部が非常に手際よくクーデターを実行したためにアメリカはすることがほとんどなかった。この文書(オースティンにあるリンドン・ジョンソン大統領図書館で見られる)には、クーデター時のブラジル軍の動きと軍隊の内部政治のことが主に記されている。この文書よりずっと前に国防総省より公開されていた文書は1964年4月の「Operation Brother Sam」の詳細だけを記していて、ブラジルの大統領Joao Goulartを転覆させようとするアメリカ政府の陰謀と左翼世界では語られた。もちろん、当然の懸念に対応するためにアメリカ政府は行動を行った。ブラジルの子供が学校で習うように、ワシントンは「想定外の危機が発生した時にタスクを指導、実行することによりこの地域でのアメリカのプレゼンスを確保するために」この海域に空母を送った。当時のペンタゴンは秘密の電報でミッションのことを婉曲的に語っている。暴徒の鎮圧のために250丁のショットガンがブラジルの警察に送られた。そのことをブラジルの学生は知らないかもしれない。燃料タンクもまたブラジル国境沿いのウルグアイの海岸に送られた。そして催涙ガスを含む110トンの備品が緊急空輸のために準備されていた。このどれ一つをとってみても緊急時には普通に行われていることだ。だがそのようなことはブラジルの学校では教えられないだろう。

また、必要になった時にはサンパウロにアメリカの海軍を上陸させるというバックアッププランもワシントンでは議論されていなかった。ワシントンで議論されていた予想もつかない緊急事態への対応策とは、「補給ラインを防衛するためにアメリカ軍が送られるかもしれない、駐留アメリカ軍、物流サポート基地を保護するために部隊が派遣される可能性がある」というものだった。

左翼の大統領が支配したリオデジャネイロを空爆するというプランももちろんなかった。だが(もし必要で、それもジョンソン大統領の許可があればという前提で)超緊急時に空爆を行うという計画が話し合われることもあった。その主な目標はサンパウロだった。当時の諜報活動によると、サンパウロはブラジル軍の支援のための物流基地をアメリカ軍に提供するだろうと云われていた。

事前の計画のどれ一つも実際には必要なかった。クーデター初日のアメリカ大使からの電報には(クーデターの指導者)ブラジルの将軍Humberto Castelo Brancoの言葉が伝えられていて、「私たちの支援は必要ないと彼は語っている」とはっきりと断言している。その次の日に、U.S. Joint Chiefs of Staffのメモは状況を以下のようにまとめている。「武器や弾薬はマクガイア空軍基地に保管されたままとなっている。アメリカ大使が入港命令もしくはアメリカ海軍によるデモンストレーションの必要性が完全になくなったと語るまでは念のため海軍特殊部隊は南大西洋に向かい続ける」。

新しいCIAの文書はその同じ日に行われたPresident GoulartとGeneral Amaury Kruel(これまでのところ一度も反乱軍に対する支持を変えなかった唯一の勢力であるSecond Brazilian Armyの司令官)との会談の様子をほぼリアルタイムで詳しく伝えている。大統領は、「彼からの支援をこれからも保持したいと語った」とCIAの文書は記している。だがKruelは大統領が今も続けている政治同盟についての譲歩を求めた。「大統領は、政治同盟に少しでも変更を加える前にまずはGeneral Worker’s Commandの指導者たちに相談しなければならないと答えた。この時点でKruelは会談を切り上げ、そして個人的友情や司令官としての立場以上に大統領を支援しようという気持ちはなくなったと語ってこの場を去っている」。そしてこれがクーデターの始まりもしくは終わりとなった。彼は軍隊を引き連れて反乱軍のキャンプに向かった。大統領は国外逃亡し二度と戻らなかった。国務長官のDean Ruskはリオデジャネイロにいるアメリカ大使に電報を打った。「ブラジル軍を補助するための限定的な任務に向かっていた海軍特殊部隊は任務を中断し戻っていった。私たちは元の目的はずっと秘密にしておくつもりだ」。もちろん、そのようなことは行われなかった。

ブラジル中央銀行の新しい総裁とペトロブラスの社長が指名された。新しい大臣も指名された。イデオローグに代わって実務主義者が代わりを務めるだろうとCIAは語っている。アメリカと同盟国によるブラジルに対する債権の放棄計画が実行された。「金融秩序の回復は長期的な発展には必要不可欠で、それは不可能ではない」とクーデターの2日後にCIAはホワイトハウスに語った。「それ以外にも、ブラジル北東部の衰退や農業改革などの慢性的な問題に新しい政府は取り組まなければならない」とも語った。その数日後に、警察部隊は国内の大手新聞社を閉鎖させた後、ニューヨーク・タイムズのブラジル支社を閉鎖させた。国務長官のRuskは、新政府はどこまでやる気なのかと懸念していた。「ニューヨーク・タイムズの代表が今日、内密に電話を掛けてきた」と彼はアメリカ大使に向けた電報で語っている。「彼は政府がリオデジャネイロの支部に押しかけてきたこと、ファイルを接収していったこと、特派員に対して検閲が敷かれようとしていることなども懸念していた。さらには、逮捕者が続出していること、協力を拒めば議会が閉鎖されるのではという噂が立っていることにも懸念が寄せられた。このような展開はブラジルのイメージを悪化させ将来のためにはならない」と付け加えられている。同日の異なるメモには、Ruskは大使に宛てて、「どの政府が選ばれようとも少なくともその政府の正当性を維持するために出来る限りのことをするべきだと考える」と書かれている。一方でCIAは、「軍部の指導者たちは譲歩の姿勢を一向に見せない。議会や政府、国家の職員から共産主義者を排除することで一致団結している」と報告している。CIAはこれまた正確に、「新しい政府をブラジル人が支持するのはほぼ間違いないだろう」と報告している。

これからの見通しとしてCIAはホワイトハウスに以下のように語っている。「新政府は非常に大きな社会的、経済的問題に対する解決策を探すようにとの強烈な圧力の下に曝されるだろう。この方面において建設的な努力が試みられる見通しは顕著に増加している。だが現在権力を握っている軍部の多数派は急激な変革ではなく穏当な改革の方を恐らく好むのではないかと思われる」。

「中道派」の歴史学者はこのクーデターを、現在のブラジルの経済的成長の礎になったと議論するだろう。だが逃亡先のアルゼンチンで亡くなったGoulartは彼のやり方の方がブラジルをより速く発展させたと主張しただろう。だがこの新しいCIAの文書で最も興味深いのはCIAの情報源は誰だったのかということかもしれない。

今回の情報開示の真の価値は、海兵隊がどこに上陸したかなどとは異なる意味で歴史的なものであるかもしれない。最近ブラジルは経済規模でイギリスを上回った。ブラジリアは世界的な都市として浮上することになったが、未だに「Operation Brother Sam」の犠牲になったというおとぎ話が繰り返されている。ブラジル人にとって歴史認識を正す時が訪れたのかもしれない。

まとめると、アメリカから予備の備品が送られていたとはいえ、このクーデターはほとんどが「メイド・イン・ブラジル」だった。

民主的に選ばれたチリのアジェンデ政権をCIAが陰から操るクーデターによって転覆させたというのは嘘だった?

The Allende Myth

Vladimir Dorta

1970年から1973年のチリに社会主義を生み出そうとするサルバトール・アジェンデとPopular Unity(以下、人民連合)の悲劇的な試みは世界中の左翼の間に、(暴力革命によってではなく)平和的で民主的な社会主義への移行の可能性が悪のCIAが陰からチリを操ったがためだけに破壊されたという神話を生み出した。この神話は繰り返し語られることによって自らを補強し、その後は冷戦という文脈が語られることも、CIAの文書は公開されている一方でキューバとソビエトの文書はまったく公開されていないという事実もまったく語られないまま左翼の怒りの材料として利用されている。アジェンデの神話は社会主義者の延命に一役買っているかもしれないが、明らかに歴史の事実とは食い違う。

ピノチェトの抑圧とテロリズムは正当化することは出来ないものの、どうして彼とチリ軍がクーデターを起こすことになったのかは説明する必要がある。CIAが美しく開放された社会主義の夢を破壊するために命令を下したという幻想を打ち砕くためにも。チリのマルクス主義の実験が(他の国と同じように)内戦に発展していったとすれば、もしくはその狙い通りに全体主義へと移行していったとすればピノチェトよりも遥かに長く大きな悲劇がチリを襲っただろうことは確実だろうと確信している。

クーデターの原因となった要因は数多くあるが、ここでは神話を打ち砕くのに十分と思われるものだけを選んだ。この記事を補強するためにイデオロギーの異なる4冊の本、一つは保守派の筆者によるもの(Moss)、もう一つはマルクス主義者の筆者によるもの(Roxborough)、残りは有名な歴史学者によるもの(Sigmund and Alexander)を選んだ。彼ら全員がチリの歴史に精通しており、アジェンデ政権の時代の生き証人でもある。

これらの書籍からもアジェンデと人民連合は、経済的、政治的、社会的要因の組み合わせ、それもほとんどが自らの手で生み出したものによって自ら崩壊していったことは明らかなように思われる。

そもそもがマイノリティの集合体だったマルクス主義の政府は、どのようにそしてどのようなスピードで社会主義への移行を進めていくかで対立しあっていた。人民連合の政治戦略は国民投票に大きく依存していたというのに、選挙では一度も過半数を占めたことがなかった。そしてそのような戦略は内部の過激派の派閥や人民連合外部の同盟相手から無視されるようになっていった。

財政ファイナンス、賃金上昇、価格コントロール、生産の低下と食料輸入の増加、世界記録に達するインフレーション、仕事の放棄や労働争議、国家による産業統制の失敗、労働者からの絶え間ない要求と労働活動の政治化、そして物資不足と配給がチリの経済を崩壊させた。

政局の分裂によって、行政機関がアジェンデと人民連合派と(軍部にクーデターを起こすように求めた)野党連合派とで対立するようになっていった。

最終的には民主制度を転覆させ破壊することになった社会的動乱、内戦に発展する恐れのあった「二重権力構造」、自分たちを最終的な調停者だと見做していた(実際にそうだった)チリ国防軍と警察隊からの強い圧力はアジェンデ政権の終焉を意味していた。

From Frei to Allende

チリの歴史は他のラテンアメリカの国々と共通するところが多かった。ラテンアメリカ全体を衰退させた強まる一方の統制主義とポピュリズム、latifundioと鉱物の輸出に基づいた脆弱な経済。だがチリの政治制度は強固で、20世紀初期に一度だけ政治に介入したことがある程度というぐらいに軍隊は中立を保っていた。チリには以前にも社会主義政権が1932年に誕生したことがある。その後も幾度も政治同盟が組織されたがいずれも失敗に終わった。アジェンデ自身も1964年に大統領選挙に勝利したのはほんの僅差で、中道左派でキリスト教民主主義政党のEduardo Freiが大統領に選ばれた時も38.6%の票を集めただけだった。

「イデオロギー的には起源が異なるにも関わらず、フレイの政策はポピュリスト的という意味でこれまでのチリの政権とほとんど変わらなかった(Sigmund, p. 126)」。

フレイの改革は不十分だったようで、チリはより過激な改革を必要とするようになった。それが人民連合が約束したものでもある。フレイが「chileanization」と呼ぶ改革によってすでに統制が強められた国にとってそして富裕層を絞れるだけ絞りとった国にとって人民連合の教義は致命的なダメージを発生させ、スターリン風の経済の中央統制主義が誤った解であるということを証明するのにさほど時間は掛からなかった。

1970年の大統領選挙ではAllendeが36.2%を、Alessandri(国民党)が34.9%を、Tomic(キリスト教民主主義政党)が27.8%を集めた。チリの憲法によると、議会は第一当選者と第二当選者から大統領を選ばなくてはならない。キリスト教民主がアジェンデに投票する絶対の条件は民主主義の存続をアジェンデが約束することだった。それを確約させるために彼らは政治文書で協定を交わした。この文書の存在がどうしてこのような形でこのドラマが終了したのかを理解するための鍵の一つとなる。この文書はアジェンデが権力の座に居座るつもりであれば超えてはならない2つの境界線を設定した。第一は、民主制度の存続で大きな変革を行う際には議会の承認を必ず必要とすることを意味した。第二は、軍部に対する不可侵を定めたものでこれは軍部が民主制度の最後の守護者で在り続けることを保証させることを意味した。

「(フレイの後継者である)アジェンデに課せられた経済的、政治的制約は同じものであったが、彼はそれを無視する傾向が強かった。社会主義への移行がまったく簡単ではないことが明らかになってくると、政治的正当性を確保することが中心的な課題となっていった。このままいけばアジェンデはナショナリストの従来型の伝統であるポピュリズムを選択するか、遅かれ早かれ暴力的な闘争に発展するであろうマルクス主義に触発された階級闘争型の政策を選択するか迫られることは明らかだった。今となっては明らかなように、彼は両方の政策を、彼やチリ国民にとって悲劇的な結果をもたらすことになったが、一度に実行しようとした(Sigmund, p. 127)」。

Political Dilemma

「人民連合の政治戦略は(党の綱領にも書かれていたが)以下のような仮定に基づいていた。社会主義への移行は幾つかの段階を踏まなければならない。その第一のステップは選挙で過半数を集めることだ」。第二のステップは国民投票で過半数を維持し続けることだ。これが社会主義への移行の鍵となる。これにより政府の三権分立による力の均衡が破壊されるからだ。これにより東ドイツ型の単一政党議会とキューバ型の最高裁を組み合わせた政治体制を生み出すことが可能になる。だが国民投票は一度も実施されることはなかった。彼は人民連合が勝つことは出来ないことをよく知っていたからだ。

人民連合は自らが生み出したジレンマに陥っていた。

その一方で、社会主義への移行を永久に先延ばしにすることも不可能だった。自分たちの支持者への裏切りと解釈されるからだ。だが漸近派が主張する憲法に則ったうえでの平和的な社会主義への移行も人民連合が過半数を割り込んでいたことを考えればこれまた不可能だった。

そのまた一方で、人民連合内部(社会主義政党のAltamirano派閥)と外部(MIRとキリスト教左派)の革命派の左翼(それ自体がマイノリティの中のマイノリティだった)も社会主義への急激な移行を推し進めることが出来ず、ロシア革命初期にも似た「二重権力構造」を生み出しつつあった。都市部の工業予定地、不法占拠された廃墟が集まる地域、スラム街などに人が集まり、「チリ南のプロヴィンスで長きに渡るゲリラ活動を展開した」労働者と農民による軍隊が組織されつつあった。その勢力は日増しに拡大し最終的にはチリ国防軍と対等、もしくは打ち破れるまでになっていた(Roxborough, pp. 71-73; Moss, pp. 101-103, 107)。

それ故、人民連合は自らが生み出した次第に勢力を拡大させる嵐のまっただ中にいた。マイノリティであるのにマジョリティであるかのように振舞ってきたツケが回ってきた。正当性は主張する、だが法律は守らない。キリスト教民主とは交渉をする、だがその裏では彼らを分裂させようとする。中間層から票を集めたくせに、内心では彼らを恐れている。過激派がそばにいる時だけは改革を語る。この行き当たりばったりの政治が人民連合が3年間の間に行ってきたことのすべてで、2つに分裂した勢力が国家と社会をそれぞれ別々の方向に引き裂き、極右からの暴力的な反応を引き起こしていった。さらに、民主右派(Partido Nacional)、中道、左翼穏健派(Partido Demócrata Cristiano and others)とが連立を組まざるを得ない状況に追いやられていった。

議会と地方での選挙に関して、キリスト教民主と民主右派がバルパライソでの1971年の選挙時には団結するようになっていた。チリは政治的な行き詰まり状態に完全に陥った。そしてほぼすべての選挙の結果で明らかなように人民連合は選挙での優位を失っていた。オイギンス/コルチャグア とリナレスでの1972年の1月の選挙でもまたも野党が与党に対して勝利を収めた。CDPはオイギンス/コルチャグアで与党の得票率46.4%に対して52.7%で勝利した。リナレスでは国民党が与党(女性)の40.9%に対して58%で勝利した。それも女性がほぼ2対1の割合で野党に投票するという始末だった。共産党の選挙対策委員会の報告書は、「この結果は政府の立場が悪くなっていることを改めて確認した」と語っている。「この選挙は人民連合に対する劣勢に対して右派の政党を団結させたが、逆に人民連合の方は改革派と革命派との対立をさらに深めている」(Roxborough, p. 206)。アジェンデが必要としていた過半数を集めるだろうと期待していた1973年3月の議会選挙では野党が55%、与党が44%と勢力は維持されたままだった。人民連合がわずかに議席数を伸ばしたために与党の勝利とプロパガンダが行われたが、議席数は以前の選挙と一緒で政治的行き詰まりを明らかに示している。

キリスト教民主から中間層を引き離そうという人民連合の政策が失敗に終わったというのに、中間層の生活水準が急速に低下していっている中で彼らが抵抗もなく急激な変化を受け入れるだろうと仮定すること自体が非常にナイーブなことだった。もしくはカソリック教会、軍部、議会や司法などの機関が、民主主義が破壊された後でも中立のままでいるだろうと考えること自体がナイーブだった。特にそれが政治的な都合で採用された一時的な戦術にすぎない時は。アジェンデ自身がRegis Debrayに語っているように、『ゲバラのような暴力と彼との違いは、彼は仕方なく単に「戦術的」にやっているに過ぎないということだ。加えて、彼は正当性を「当面の間」は確保すると答えているしキリスト教民主との政治文書に合意したことは「戦術的に必要」だったと答えている(Sigmund, p. 140)』。そして彼自身の所属政党であるチリ社会党が1971年1月の議会で語っているように、「人民連合が権力を握ることを可能にした特別な条件が今では真の中産階級の国家を建設する障害となっている」。そして政党の所属メンバーに、「ブルジョアジーと帝国主義者との大規模な戦い」に備えよと警告している。

Economic Debacle

野党が議会の過半数を占めていたため、人民連合はすぐに倒れた1932年の社会共和党が残していった遺産である古い法律を悪用しようと考えた-過去一度も廃棄されたことがない法律で、破綻した企業を一時的に「だけ」政府が保有することを認めるものだった。政権就任1年目にこの法律を非合法的な方法で用いることにより、アジェンデは「硝酸、ヨウ素、銅、石炭、鉄、鋼鉄の生産をほぼ完全に掌握し、金融と銀行部門のほぼ90%、輸出部門のほぼ80%、輸入部門の55%、さらには繊維、セメント、金属、漁業、飲料、電化製品の大部分と流通部門の一部を手に収めた(Roxborough, pp. 89-90)」。1969年にはすでにチリ政府は33の大企業を所有していた。それが1972年になると、アジェンデの手によって264の企業が国有化されている。これは人民連合が当初予定していた数よりも91も多い。そして最後に、共産党が支配していたCentral Workers Confederation (CUT)が1973年6月29日のクーデターの失敗を盾に取り多くの民間企業を不法に手中に収めた。「たった一日で、政府により接収された企業の数は282から526へとほとんど2倍になった。アジェンデはこれを止めようとしなかったばかりか、自分たちの国家を建設するようにと労働者に呼び掛けた(Sigmund, p. 215)」。

企業はありとあらゆる手段によって接収された。国有化、経営への介入、破綻の強制、政府による無理矢理の徴収、株式の購入とストライキを起こさせ労働者に乗っ取らせるなど。典型的に行われてきた接収の手順はこのようなものだ。まずこの企業は将来の政府の計画に必要だと宣言する。そして株主から株を購入する。それからその企業に必要な資源の資源価格を強制的に引き上げさせて(すでに賃金も強引に引き上げさせているというのに)、その一方では製品価格の値上げを禁じることによって破綻させようとする。銀行は「国有化の脅迫によって株価を叩き落とし、それから市場で提示されている以上の価格で政府が買うことにより」(Sigmund, p. 157)国有化された。

賃金上昇と価格コントロールは中小企業を直撃した。供給は不足し始めブラックマーケットが拡大し政府が支援するPeople’s Supply Committeesは供給不足の解決策として店主を解雇し始めた。中間層を支援するために始めたはずの彼らの政策は失敗し、政権就任の2年目には人民連合とアジェンデは完全に孤立しまだ比較的小規模ではあったがチリ国民の多数は彼に強く抗議を唱え始めていた。

「アジェンデの経済政策はほとんど完全に失敗だった。就任一年目に行われた一部の例外を除いて、それらの政策は負の影響をもたらし独立して以来で歴史上最悪の経済危機をチリに生み出した。この経済危機は幾つかの段階に渡って被害をもたらしてきた。アジェンデ政権が終了するまでには、生産は急激に縮小し、投資は完全に削減され、貯蓄は存在しないも同義で、大衆の生活水準はアジェンデが政権についた時と同じぐらい低いもしくはそれよりも低かった。供給不足はいたるところで見られた。そして最もショッキングだったのはインフレーションがまったくのコントロール不能となり、1年で見ると300%以上、価格は毎日上昇している有様だった(Alexander, p. 173)」。

「1970年にマルクス主義者はインフレを終わらせることを約束していた。だが1972年のインフレ率は163%以上で世界記録だった。1973年の8月までの12か月の間にインフレ率は323%にまで拡大した。これらは恐らくはワイマール時代のドイツやクーデター勃発時のブラジルとのみ比較可能なものだろう。アジェンデ時代のインフレーションは無謀な国家による民間企業の接収が原因の生産の低下と財政ファイナンスの結果だった(Moss, p. 54)」。「1973年の財政赤字は(中略)政府予算の53%に達していた(中央銀行の数字は1973年の終わりまでに貨幣供給量が3400%増加したことを示している(Sigmund, p. 234)」。

「農業は製造業よりもさらに生産が低下した。1972年には生産が6.7%落ち込んだと見られ、1973年にはさらにそこから16.8%落ち込んだと見られている。個々の農作物の落ち込みはさらに特筆に値する。例えば、小麦の生産は50%低下した。大麦の生産は25%以上低下した。オーツ麦の生産は12.4%低下した。米の生産は30%減少した。同様の低下がほとんどすべての他の生産物でも記されていた。農産物の生産が低下した原因ははっきりしている。耕作地が減少したためだ。アジェンデ政権の3年間で、耕作地は22.4%減少した。1972年の社会党の「シークレット・レポート」は農地改革でアジェンデ政権が接収した土地のほとんど半分が耕作されていなかったと密かに認めた(Alexander, p. 179)」。

「貧困地域で営業している店舗が協力して行った調査によると1972年の終わりまでに、家庭でよく使用され常時在庫されている3000の生産物のうち2500が最早入手可能ではないと報告している。この不足に直面したアジェンデではあったが、配給制に移行することだけは言及を避け続けた。決して配給制は行わないと彼は繰り返し主張した。彼は最後まで配給制が存在することを否定し続けた。だが実際には、少なくともアジェンデ政権の最終年には実質の配給制が存在していた。配給制には少なくとも2種類が存在し、労働者が住む地域と中間層から都市部のアッパー・ミドルが住む地域とで別れていた(Alexander, p. 185)」。

「この危機は政府が意図して起こしたものではなかった。民間企業に社会主義を強要した結果だった。投資の激減、メンテナンスの減少、所得の再分配と経済の拡大という矛盾した政府の目標、社会的騒乱と政策の失敗によって引き起こされた生産の低下、大衆の不満に向きあおうとしなかった政府の怠慢が招いた不安定な政治的状況。経済危機の原因が何であったにせよ、それが政治に与えたダメージは壊滅的だった。経済的状況、特に供給不足とインフレーションは人民連合政府の最後の数週、最後の数か月にはすでに「革命前夜」という空気を生み出していた(Alexander, p. 193)」。

Chile, Armed Camp

1972年の3月に、人民連合のための武器を1トン以上積んだ13隻のキューバからの巨大な貨物船が到着し(あまりにも大量だったのでアジェンデの大統領邸宅にまで保管されていたほどだった)、1973年に軍部によって実施された武器の捜索により政府側、野党側双方が武器を隠し持っていたことが明らかにされている。これがこの年の終わりごろに軍部がクーデターを決行した最大の理由だった。1973年の5月23日に、空軍の8人の将軍が、アジェンデがMIRに対して何もしないことに抗議した。軍部は遅くとも1972年の4月頃には介入の可能性を考え始めていた。ピノチェト自身も認めているように、「この事態に対する平和的な解決は不可能だった(Sigmund, p. 226)」。

6月には、キリスト教民主は「政府が接収された工場や工場建設予定地に兵器を大量にばらまいて軍事行動の準備をしていることを糾弾する声明」を出した。『政府が明確に関与している「人民のための軍」の存在は憲法に定められた「民主的機関」の存在と相矛盾する」。(この頃にチリを訪ねた経験から親政府、反政府のチリ人双方が大量に武器を保有していたことに驚かされたことがある)と筆者は付け加えている(Sigmund, p. 218)。

US Intervention

アメリカのチリに対する態度は1971年の終わりごろに硬化した。キューバのフィデル・カストロがチリを訪ね1か月ほど滞在した時だった。彼はアジェンデを支持し、野党を「ファシスト」と非難する他、自由な報道、選挙、機関などの民主主義の拠り所を「デカダント的で時代遅れだと歴史によって非難されるだろう」と糾弾し、明らかにチリの政治に介入していった。同時期に、強奪されたアメリカの企業に対する補償条項も完全に無視された。だが介入自体もタイミングが悪くそれも手際の悪いもので、左翼世界で語られている重要性をまったく持っていなかった。アジェンデが大統領に就任する前にも、CIAはチリ国軍と少しの連絡も取り合っておらずアメリカ軍のチリ駐屯部隊と協議しなければならないほどだった。介入計画には現役、退役した職員両方が参加していたが、試みはすべて失敗に終わった。アジェンデが大統領に就任するのを阻止しなかったばかりか、むしろ逆効果だった。アジェンデが政権に就いている間もCIAは活動を続けたが、それはまったく影響力を持たない右翼への一般的で限定的な資金援助に留まっていた。ものすごく悪く叩かれたチリトラック協会へのCIAの援助もまったく重要ではなかった。トラック協会からの需要はほとんどないに等しくチリ国内の支援者からの援助で簡単に賄えたからだ。「CIAの資金がトラック協会のストライキの成功に決定的だったという考えは新興宗教への信仰に匹敵するものを必要とする。トラックドライバーたちからのニーズはわずかなものだったというのが事実で、ストライキはそのニーズをたやすく満たすほどの支持をチリ国内から広範に受け取っていた(Alexander, p. 229)
」。

これは3人のマルクス主義者の筆者たちも認めているところだ(別にこれまで紹介してきたところで不和があったということではない)。さらに、クレジットと新規のローンの停止というアメリカの「非公式の封鎖戦略」と云われているものに関しても、彼らは「封鎖はチリの経済に幾らかのダメージは与えた。だが「非公式の封鎖」の影響は人民連合が他から援助やクレジットを受け取るようになったこともありある程度緩和された。従って「非公式の封鎖」は経済危機の一因ではあったが(左翼の間ではこの封鎖戦略のせいでチリが経済危機に見舞われたと語り継がれているようだが、まったく関係ないのは言うまでもない)、危機の主な原因は他に求められなければならない。どちらにしても、政策を行う際には「非公式の封鎖」のようなものは予想しておかなければならない。アメリカとラテンアメリカの関係を振り返ってみれば、アメリカの資産を強奪しアメリカを攻撃した後でもアメリカから援助と貸出が施され続けると予想するようなものは何もないからだ(Roxborough, pp. 155, 156)」(マルクス主義者は認めたくないからこのような書き方しか出来ないのだろうがこれも嘘)。アジェンデはチリの債務のモラトリアムを1971年に一方的に宣言していることも付け加えておく必要がある。

ピノチェトのクーデターに関しても、アメリカが関わったという証拠は完全に何一つない。当時のチリの軍隊の置かれていた状況を熟知しているチリ軍の元将校として、私はチリ軍が外部からの命令も内部からの援助も必要としていなかったことを明確に証言できる。「CIAの活動は(それが何であったにせよ)アジェンデ政権の運命にほとんど、もしくは何らの重要性も与えなかった。CIAはアジェンデが大統領になることを阻止できなかったばかりか、最大でも反人民連合のキャンペーンにわずかばかりの貢献をしたぐらいだった。そしてピノチェトがアジェンデを下ろす決断を下したこととは少しの関わりもない(Alexander, p. 231)」。

マルクス主義者の筆者たちもとうとう譲歩せざるを得なくなった。

「アメリカは自国の利益を防衛するために行動した。だがアメリカはクーデターが起こる条件を生み出すのに役割を果たしたが、そしてアジェンデを打倒するチリのブルジョワジーに直接支援さえ行いはしたが、単独で行動したのでは決してないということは強調されなければならない。人民連合政府は自分たちの社会に真の脅威が現れたと感じ取った自国のブルジョワジーたちによって打倒された(その政治エージェントや軍部なども含む)。陰謀論がまかり通っている世界では、アジェンデがチリのブルジョワジーによって打倒された本当の理由は(人民連合の改革にも関わらず)労働者階級が社会主義革命を起こすだろうという恐れがチリのブルジョワジーの中に存在したからだということは強調されなければならない(Roxborough, p. 114)」。

Paul Sigmund

「基本的に非常に「ブルジョワ的な」社会でマルクス主義を実践すると公約していた人が大統領になったこと、そして彼が経済の崩壊だけが原因で政権の座を追われたのだろうということ、そして彼が日常的に憲法違反を繰り返していたこと、これらすべてが1973年の9月までは世界でも最も基盤が強固だったチリの政治的機関の存在を考えれば説明することが出来ない。そこでCIAやアメリカの政治が果たした役割のことを考えてみたが、それらが決定的な役割を果たしたとは私はとても信じることが出来ない。例えCIAが金銭的な援助を行っていなかったとしても政策を劇的に変更しないかぎりはアジェンデは6年間の任期を全うすることが出来なかっただろうと今では確信している(Sigmund, p. xii)」。

Robert Alexander

「アジェンデが大統領だった頃に、アメリカ政府がチリに対して「封鎖」を行ったと頻繁に主張されてきた。これがチリの経済的、金銭的状態を著しく傷つけ、国際収支の支払いの問題の最大の原因だと云われ続けてきた。事実はそのような主張を支持していない。国際的な融資機関はチリに対する融資を完全に閉ざしたわけではなかった。確かにアメリカ政府機関のExport-Import Bankはアジェンデが大統領だった頃にチリに対して貸出を行っていない。-だが実はフレイ政権の最後の2年間にしてもほとんど融資を行っていなかった。アメリカの民間銀行はチリに対する新規の融資を急激に減少させた。だがこれはビジネス上の懸念が理由で組織されたものでも意図的な「封鎖」でも何でもなかった(アジェンデがアメリカの資産を強奪していたことを思い出す必要がある)。最後に、アメリカ政府は他の国の政府からアジェンデに送られる援助を止めることはまったく出来ていなかった。事実、アジェンデ政権はチリの過去のどの政府が受け取ってきたよりも多額の援助と援助の約束を(主に共産圏から)受け取ってきた」(Alexander, p. 219)。

The Final Struggle

これがRobert Alexanderが見たアジェンデ政権の最終年の様子だ。

「振り返ってみると、この期間にチリに起こった出来事のすべては前もって定められていたもののようにも思える。アジェンデが行った行動のすべてが、彼の立場を弱め彼の運命を決定づけていったように思われる。最終的な破局を避ける道を探し求めていた者によって行われた努力のすべてが、初めから失敗するように定められていたようにさえ思えてくる。アジェンデの「友達」は実際には彼の最悪の敵だった。だが彼はこの状況から彼を救ってくれるかもしれない者を探すことも、もしくは探す気もなかった(Alexander, p. 301)」。

人民連合と野党との最後の戦場は議会だった。キリスト教民主は国有化法に対する修正案を議会に提出した。修正案は可決されアジェンデはそれに拒否権を発動した。この戦いは議会が必要とされている過半数を集めることが出来るか、もしくは大統領の拒否権を覆すことが出来る3分の2の票を集めることが出来るかどうかに移っていった。「憲法上の対立」は、多くの人によって血なまぐさい内戦に発展していったBalmaceda大統領と議会との1891年の対立にも例えられた(Sigmund, p. 168)。この対立も危機の様相を呈し、最高裁とController Generalは「この拒否権は憲法上の精神に則っていないので無効である」との命令を下した(Alexander, p. 317)。1973年の6月に、内務省長官は最高裁の命令を実行しないようにと警察に命じた。最高裁は『アジェンデに大統領の記者会見の内容に対する抗議と最高裁の命令を実行しないことは、そして法の抜け穴を悪用することは「司法制度の即時の解体」につながるとする2通の手紙を送った。だが司法を攻撃するキャンペーンはその後も続けられ、今では攻撃の対象にcontroller generalも加えられることになった(Sigmund, p. 210)』。この行き詰まりは人民連合が崩壊するまで続くように思われた。従って、「すでに危機のまっただ中にいたアジェンデ政権を袋小路に閉じ込める役割を果たした」。

アジェンデとキリスト教民主との合意が失敗した6月の終わりごろになってくると、手記は最早読むことが出来なくなっている。彼の助言者Joan GarcésはCDPの要求を拒否したアジェンデの言葉を引用している。「決して譲歩するな!それは人民連合の分裂と、革命運動の終わりを意味することになるだろう(Sigmund, footnote 10/31)」。

「アジェンデ政権は急速に孤立していった。彼と野党との最後の架け橋は壊された。他の政府機関との憲法上の権限を巡っての戦いに突入していった。軍部との関係は急速に悪化していった(Alexander, p. 316)」。

8月6日に、アジェンデは自分たちの言うことを聞く人間を昇進させる準備のためにとうとう空軍の将軍2人を止めさせた(Sigmund, p. 225)。これもキリスト教民主との明白な(政治文書で交わされた)協定違反だった。その翌日、海軍は左翼の下士官たちによる陰謀計画を発見した。43人の海兵が逮捕され、海軍は社会主義の議員だったCarlos Altamirano、MADPの責任者Oscar Garretón、MIRの指導者Miguel Enriquezを「この計画の首謀者」として糾弾した。Carlos Altamirano(彼はアジェンデのチリ社会党のSecretary Generalでもあった)はこの訴えを誇らしげに認めた。1973年の6月にはすでに、議会は民間企業を接収する権限をアジェンデが求めていたのを82対51で否決した。そして上院、下院両議院の議長は『「人民の連合軍」の事実上の創設を共同で非難する。これはチリに2つの軍を事実上創設するものであり、しかも数多くの外国の兵士が含まれている(Sigmund, p. 216)』という声明を発表した(主に共産主義者が参加していた。ベトナムにも送り込まれていたし戦争あるところないところでも世界中で工作活動を行っていた。やってることは現在のイスラム原理主義者と同じかそれよりもひどい)。「軍事力の統制への脅威は、下士官への陰謀への働きかけという下からの圧力と空軍の最高司令官を応対させるという上からの圧力によって古典的なクーデターのやり口の様相を呈している(Sigmund, p. 227)」。

キリスト教民主は態度を硬化させそして、「武装グループが存在している現在のチリでは法と憲法は破壊された。非難が日増しに強まっている現状では、クーデターが起こるのは時間の問題だろう。8月22日には、Chamber of Deputiesは内閣から武装グループは出て行けと公然と非難した。そしてチリの国民に再び民主主義をもたらすために行動を起こすべきだと要請した(Roxborough, p. 120)」。

下院議会は以下のように決議した。

「チリ共和国の大統領と大臣たち、並びに軍部のメンバーから警察隊に共和国の憲法と法の秩序が破壊されたことを告げる。そして憲法と法に忠誠を誓った者たち、その職務からして当然であるはずの大臣たち、今現在大臣になろうとしている者たちには、政府が法に則った行動を行い憲法を順守しチリの民主主義の重要な源を守るためにこの状況をすぐに終わらせる責務があることをここに告げる(Alexander, p. 318)」。

「この決議が軍事行動の法的根拠になったのかどうかが後に議論されることになった。この決議は法的拘束力はないとされた。この決議で重要なことは、この決議が「憲法と法の秩序を回復させる」ためである限りは軍事行動の倫理的根拠として解釈されたことだ。この決議は議会と軍部との関係にとって大きなターニング・ポイントとなった(Moss, pp. 197-198)」。

アジェンデはRegis Debrayと休日を過ごしていた。

「彼らはアジェンデが行った軍部への介入に関して話し合っていた。Debrayはアジェンデが彼とのチェスの対戦を楽しんでいるという印象を持った。だが彼は、「これは武装をするまでの時間稼ぎでしかないということは皆が理解していた。時計の針はすぐそこまで迫っていた」。アジェンデはこのゲームを2つの原則で乗り切ろうとしていたとDebrayは記している。一方では、彼は戦力差を考慮すれば敗北必死の内戦は必ず避けるべきと考えていた。彼は「人民連合軍」を信用していなかった。左翼の人間が「大衆による軍事行動だけがクーデターを阻止することが出来る」と言い出した時には、彼は「一体何人の人間が一台の戦車を止めるのに必要なんだ?」と答えただろう。その一方では、軍事力の前に屈した軟弱な人間というイメージを残したくないと強く思っていた。だがこれら2つの矛盾した原則の間に挟まれて、これらの原則が矛盾していないと考えたもしくはそのように振る舞いたかった彼はどちらを選ぶことも拒んだ。これらの原則が矛盾しているということを認めなかったことが3週間後に政権を追われる一因となった(Sigmund, pp. 229-230)」。

Democracy and Free Market

批判者の誰も現在のチリの繁栄には興味を持っていない。チリの民主主義はアジェンデ以前からかなり揺らいでいたにも関わらず再び確固とした基盤を持つことになった。これがこの悲劇の唯一の喜ばしい結果だろう。チリはとうとう持続的な資本主義の発展への道を歩み始めた。輸出品が多様化されたことにより銅に依存する必要もなくなった。インフレ率は2%から4%にまで低下した。貧困率はわずか20%にまで低下した。他のラテンアメリカ諸国や第三世界の国々では考えられないような数字だ)。アメリカやEUとの自由貿易協定は革命を起こして社会主義を生み出すのだという残酷なファンタジーとは違って、興味を引く話題でも何でもなくなっている。チリの繁栄は退屈すぎてニュースにもならない。

左翼に対する歴史の皮肉の常として、左翼世界では憎悪されているピノチェトが民主主義の救世主となった。チリの現在の社会主義派の大統領であるRicardo Lagosが、ピノチェトの自由主義の原則を守り続けているのには単純な理由がある。20世紀中にチリで行われた他の試みはすべて失敗した一方で、それは機能したからだ。チリの初代金融大臣Alejandro Foxleyがピノチェトの経済政策に関して尋ねられた時、彼はこのように応えた。

「私は当時チリの経済を担当していた。私は1990年から1994年までチリの金融大臣だった。私たちがしなければならないことは変化と継続との間の均衡を保つことだと常々言い続けてきた。成熟した国は何もないところから常にスタートするわけではない。私たちはそのことを前の政権から学んだ。市場経済に移行している国では変化と継続との間の均衡が確立されている。そして経済発展と社会発展との間のバランスを回復させることによりその均衡を回復させることが出来るだろう。それが私たちがやったことだ。チリが市場経済に移行してから4年が経った頃、、周りの人間は「民主主義によって権力を握ったこの連中は経済を滅茶苦茶にするだろう」と全員が言っていた。4年間でチリの経済は年率で平均8.2%成長し貧困は半分にまで削減された。だからこれらの結果により私は民主主義に自信を持っている。経済の大きな変革に関しては、私たちは後に世界的な潮流となったこの流れが正しいことを確信していた。チリは規制緩和を開始し、経済の開放を推し進め、、世界市場での競争を認め、生産性を高めていった。これらすべては後に世界的なトレンドとなった。これは私たちの貢献だ。彼らは世界的トレンドを先取りすることが出来た。そしてチリはその恩恵を蒙ることになった」。

以下、アメリカ人のコメント

Robert Mayer Says: 

素晴らしい記事だった。チリ、それを超えてラテンアメリカ全体のことを知りたいのであれば必ず知っておかなければならない歴史だ。アジェンデは野党がアメリカから受けることが出来ると夢想するより遥かに多くの額の支援をソビエトとキューバから受け取っていた。キリスト教民主が、常にチリの政治で大きな影響力を持っていたというのが事実だ。彼らがアジェンデに背を向けた時、彼の命運は決まっていた。クーデターが起こる頃には、チリ社会のほぼ全員が彼に敵対していた。当時生まれていれば、確実に自分もクーデターを支持していただろう。そして私の友達、それに彼らの親たちも確実にクーデターを支持していただろう。

Reid Says: 

左翼がでっち上げたCIAの他の神話、イランのモサデグへのクーデターにも興味がある。悲しいことに、一部のCIAの職員が実際よりも自分たちの役割を大きく誇張して議論に混乱をもたらした。だがたった数人のCIAの職員が内部からの協力もほとんどなしにイラン政府を転覆させたという話を聞かされる時は、なんというファンタジーを信じているんだろうといつも衝撃を受けていた。事実、イランの軍部とビジネス階級がモサデグの独裁に反旗を翻したのだということは政府の文書として残されている。

モサデグを強力に支援していたのはイラン共産党だということは知っている。だがソビエトが裏から彼をどのように操っていたのかは情報を見つけることが出来なかった。誰かこのことについて知らないだろうか?

ElGaboGringo Says: 

これは素晴らしい記事というだけではなく、素晴らしい資料でもある。素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい。

疑問があるのだが、ピノチェトの支配は相対的に見て本当にそれほどひどいものだったのだろうか?彼が行動を起こさなければチリはあのまま内戦に突入、もしくは野蛮な共産主義者がチリを乗っ取っていたのではないのか?

ピノチェトは、外国の共産主義者から支援され暴力で政府の転覆を企て数百万人を殺害しようとしていた人たちを拷問し殺害した。カンボジア人やウクライナ人に訪ねてみるといいい?数千人の左翼が拷問または殺害されるのと、彼らが権力を握った時に数百万人が虐殺されるのとどちらを好むのかと。アフガニスタン人に訪ねてみるといい。左翼が殺害されるのと10年の内戦とどちらが良かったのかと。

ピノチェトのクーデターと支配はその「圧政」が記憶されるべきではない。むしろその平和さとして記憶されるべきだろう。KGBが支援した革命でこれほど流血が少なかったことが一度でもあっただろうか?

2016年9月6日火曜日

世界に格差と貧困をばらまいたスティグリッツの経済学?

スティグリッツ不況…スティグリッツの助言に従った国、スティグリッツが褒めた国などが高い確率で不況、もしくは低成長に陥る現象を指す(中国、ギリシャ、ベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン、サブプライム問題の原因を生み出したクリントン政権のアメリカ、オバマ、安倍政権の日本など、スティグリッツの助言に従った国は高い確率で不況もしくは低成長に陥っている…)。

Joseph Stiglitz Praised Hugo Chavez’s Economic Policies

DON BOUDREAUX

2007年にエコノミストのJoseph Stiglitzがヒューゴ・チャベスの社会主義を称賛していたことを不覚にもまったく知らなかったので皆にお知らせしておきたい。

スティグリッツが(彼の考えは上記のレポートにまとめられている)、「比較的高いインフレ率も必ずしも経済に有害ではない」と発言しているだけでも問題だ。さらに悪いのは、社会主義により発生する必然的な負の影響を完全に見逃していることだ。

ハイエクやフリードマン、もしくはアーノルド・クリングやジョン・コクランであれば、チャベスの政策は大失敗に終わると2007年にためらうことなく予想していただろう。

実際、ジョージ・メイソン大学の学生も大失敗すると予想していただろう。

まともな経済学者であれば、アメリカのように豊かで市場を重視する社会であれば強制的な再分配にも政府による無駄な規制にも少しは耐えられるということを知っている。それにも関わらず、それらの政策はほとんどの人々を豊かにするのではなく貧しくするということも知っている。

まともな経済学者であれば、市場により生み出される健全なインセンティブと強制によって生み出される不健全なインセンティブとの違いを知っている。まともな経済学者であれば法の支配が重要なだけではなく、頻繁に破られた時にはそれが意味のないものになってしまうということを知っている。まともな経済学者であれば、意図の良し悪しは必ずしも結果と直接的に結びつくわけではないということを知っている。まともな経済学者であれば、持続的な経済の発展は自発的な取引によって生み出されるということを知っている。他の手段によって強制的に豊かさを生み出そうとする試みは大衆の貧困と政府による圧政しか生み出さないということを知っているだろう。Joseph Stiglitzはこれらの真実に無知であるようだ。

以下、アメリカ人のコメント

Roger Koppl

そのような誤りを指摘することは重要だ。Isreal Kirznerがかつて言っていたように、「経済学は恐ろしいまでに重要だ。愚かな経済学者が人々の生命までを左右する」。

Nathan Jewell · Troy, Missouri

そしてこれがスティグリッツが無視すべき経済学者のリストに入っている理由でもある(悲しいことに長いリストではあるのだが)。彼の記事を読むことに貴重な時間を費やすべきではない。もちろん、それが無知により生じているものであるのか、政治的に腐敗した彼の心により生じているものであるのかは関係がない。彼の記事を読むことはまったくの時間の無駄だ。

同じことは他のことにも言える(例えば、栄養学が真っ先に頭に浮かんだ)。明確な証拠を前にしても誤りを認めることができない、もしくは誤りを認めるつもりがない態度を見せたのであれば、もしくは客観性を損なうほどにバイアスが掛かっているのが明確であれば、このリストに入る。

Krishnan K Chittur · Iit bombay

私にはかなり前から、以下のようなことが不思議で仕方なかった。一見すると論理的に見える人たちがどうして圧政者を支持するという愚かなことをしてしまうのか?彼らは単に騙されているだけなのか?それとも進歩への道は中央集権的な計画によってもたらされると本気で信じているのか?どうして彼らは数百万、数千万の普通の人々を豊かにした進歩/経済成長をそれほどまでに嫌うのか?彼らの生活水準と普通の人々の生活水準の違いが縮まっていくのが我慢ならないのか?どうして彼らは普通の人々が豊かになることを可能にしたシステムをそれほどまでに憎悪するのか?一見すると論理的な人たちがどうしてそれほどまでにアメリカ(と大部分の西側と工業国)を憎悪しているのかは今もって謎に包まれている。彼らはアメリカが作ったものをすべて喜んで享受しながら、だがそれを享受している自分自身を憎悪しているようにさえ見える。それとも彼らはあまりにも錯乱しすぎているので、自分たちが現在喜んで享受しているものは中央からの計画/圧政者がもたらしてくれたものだと夢想するまでに壊れているのか?西側/工業国であまりにも多くの人が圧政者や独裁者を熱望しているように見えることに驚きを覚える。

Daniel Kuehn · Research Associate I at Urban Institute(極左のプロパガンダ・シンクタンクとして知られる)

彼のコメントを大げさに誇張している。彼は、チャベスが貧しい人々に医療と教育を与えたことを好ましいと言っている。チャベスが設立した銀行を好ましいと言っている。彼はベネズエラの成長率は素晴らしいと言っている。だが原油に大きく依存したものでその成長を持続させる必要があると言っている。

社会主義を褒め称えたところなど少しも見当たらない。彼の記事はベネズエラに非常に強気に見えるので、大げさに取り上げられただけだろうと思う。

George Selgin · Director, Center for Monetary and Financial Alternatives at The Cato Institute

「彼は、チャベスが貧しい人々に医療と教育を与えたことを好ましいと言っている」。ここでも彼は間違っているようだが?http://www.theatlantic.com/.../does-hugo-chavez.../2916/

Isaac Pigott

それらは今でも提供されているのか?

持続可能ではないシステムを褒め称えることはエコノミストにとっては犯罪ではなくなったのか?

George Selgin · Director, Center for Monetary and Financial Alternatives at The Cato Institute

彼がベネズエラの社会主義政策を一度でも非難していたことがあるのであればぜひ教えてほしい。悪意を持って無視しているのも、このように酷いケースであれば、十分に肯定にあたる。

Donald J. Boudreaux · Professor at George Mason University

私は、彼が社会主義を褒め称えたとは一度も言っていない。私が批判しているのは(セルジンやアイザックが示唆しているように)2007年の段階でベネズエラが崩壊の危機に陥ると予測しないのはエコノミストとして失格だといっているに過ぎない。彼は、医療や教育の改善が本当のことであるかのように語っていた。だが、そうではないということを知っているべきだった。それらは、ベネズエラで最も生産的な人々から盗まれたお金によって支払われた一時のパンとサーカスでしかなかった。そしてそのような政策によってベネズエラが悲惨なことになるとはっきりと警告するべきだった。

彼はそれらの一時的な「改善」と「成長」を生み出した政策は「改善」も「成長」も持続させないことを知っているべきだった。さらに、チャベスが行った政策を放置している限り経済全体が危機に陥るということを知っていなくてはならなかった。だがその代わりに、彼は当時のベネズエラの成長は本当のことでチャベスの能力や英知の結果だという印象を与えた。

George Selgin · Director, Center for Monetary and Financial Alternatives at The Cato Institute

ここに、ベネズエラの首都カラカスで公開されたパワーポイントへのリンクがある。http://www8.gsb.columbia.edu/.../Public_Policies_and...

「ネオリベラリズム(要するに、自由市場)」の提唱者は市場の失敗を無視し(馬鹿馬鹿しい批判だ)、そして政府の介入が答え(グロテクスなまでに不合理な結論だ)」といういつもの薄っぺらい内容だが。

Donald J. Boudreaux · Professor at George Mason University

Mr. Kuehnへの追伸:この2007年の2月の私の記事で明らかにしているように、スティグリッツがベネズエラの経済成長を褒め称える前から生活必需品の供給不足はすでに発生していた。

http://cafehayek.com/2007/02/like_humidity_i.html

Daniel Kuehn · Research Associate I at Urban Institute

記事のタイトルに褒め称えたと書いている。あなたの記事は、彼が社会主義は成功するだろうと断言しそしてチャベスの政策が褒め称えられていると示唆している。どちらもリンク先には示されていない。

George Selgin · Director, Center for Monetary and Financial Alternatives at The Cato Institute

君の解釈が正しいとはとても思われない。彼の懸念というのは、ベネズエラの石油収入が減少するかもしれないという誰もが当時から不安材料に挙げていたものだった。彼が発言していた2007年を振り返ってみると、石油収入の減少ではベネズエラの問題はとても説明できないものだった。

それに、君には彼のスライドショウを見ることを勧める。そこには自由市場、アダム・スミス、自由主義などへの憎悪がはっきりと表れている。彼の凝り固まった偏見では、市場はすでに裕福な人間だけを豊かにする(それは間違いだという主張には「トリクルダウン」経済学だと連呼している)。そのプレゼンテーションは失笑モノだと言う以外に他ないだろう。

そしてこれが肝心なことだが、スティグリッツのアドバイスに従った貧しい国の指導者、もしくはすでに経済に強く介入している国の指導者は自分たちの国をさらなる貧困へと引きずり落としていくだろう(もしくはすでに引きずり落とされている)ということだ。チャベスは、疑いようもなく彼からの助言を必要としていなかった(最初から社会主義を志向していたことは明らかなので)。だが言うまでもなく危険性は明らかだったというのに、彼はチャベスを諌めるようなことをまったく行っていない。

Krishnan K Chittur · Iit bombay

ここでの議論は真に「社会主義」を信じている人には響かないだろう。スティグリッツのコメントの幾つかが言及されているだけではあるが、本質的に不安定で、しかも倫理的に間違っているシステムである社会主義への称賛はどのようなものであれ理解の範疇を超えている。この問題は病理学で扱うべき対象で、どうして人は圧政者に惹かれ、貧しい人の味方ですというふりをして大金を稼いだ人をいい人と勘違いしてしまうのか?という病理として扱われるべきだと思われる。スティグリッツが「社会主義」と言ったかどうかはまったく関係がない。彼は成功する可能性がまったくないシステムを褒め称えた(2007年の時点でも)。そうではないと主張している人がいるのは問題から目をそらさせようという意図がばればれの単なる工作活動だろう。だが私たちはまたもや歴史が「修正」されるのを目撃し、これ(ベネズエラの破綻)はすべて私たちのせいなんだという超大作映画をオリヴァー・ストーン監督が制作するだろう。

Jon Murphy · Blogger/Chief Economist at Force4good.me

Daniel Kuehnへ。ベネズエラが崩壊への道をひた走っているというのは原油ブームの頃からすでに明らかだった。そのような明白な証を見逃すことは(このサイトではかなり前から繰り返し指摘されていたのを憶えている)自分が話しているはずのベネズエラの経済に関して驚くほど無知であるし簡単に予想できた価格コントロールの結末に関しても無知であるといわざるをえないだろう。どちらもエコノミスト失格という事態だ(原油価格が持続可能でなかったからという理由で彼のコメントを擁護しようというのであれば君も失格だ)。

Glenn Corey · Copy Editing at Self Employed (Business)

スティグリッツが自分が詐欺師であることを自ら明らかにしたのは喜ばしいことだ。多くの人は彼が詐欺師であることなどとっくの昔に知っていただろうが。だがもちろん、社会主義へのアピールは未だに健在なままだ。間違っていたのは計画の方ではない、といつものように社会主義者たちは言うだろう。間違っていたのは計画の実行の仕方だ。クレムリンから司令を受けた自称知識人たちは今頃は「分析」を開始しているだろう(括弧をつけたのは彼らはすでに結論を先に決めていることが分かりきっているからだ。要するに、本当の意味での分析が行われることはない)。チャベスの政策はここが駄目だったと、まったく関係のないことが指摘され、よって将来の社会主義者はこの誤りを避ければ良いだけだと教えられることになる。最終的には、どのような経路を辿って得たのかはまったくの不明だがベネズエラのような国の悲惨な状況は自由市場が悪いのだと彼らは結論するだろう(先程も述べたように最初からこの結論は決まっている)。そして人々は、自由と繁栄を約束する政治家(実際にはどちらも奪い取ってしまう気なのだが)を応援することになる。

Mark Cancellieri

「ベネズエラ廃墟に包まれる、社会主義への熱狂だけは残る」

http://humanprogress.org/.../as-venezuela-craters--appeal...

Does Hugo Chavez help the poor?

MEGAN MCARDLE

チャベスに対してよく耳にする擁護としては次のようなものが挙げられる。彼は自国の経済を破壊したかもしれない、だが少なくとも彼は貧しい人を助けている。外交雑誌フォーリン・アフェアーズは、チャベスは貧しい人を助けてなどいないという、2000年から2004年にベネズエラのNational Assemblyの主任エコノミストだったFrancisco Rodriguezの記事を掲載した。

チャベスの行った政策の結果がどうであったかに関する見方は大きく異なっている(というより、大抵の場合リベラル派だけがまともな専門家とは異なる見方をしてそれが主流であるかのように見せ掛けている)が、ベネズエラは大規模な再分配を行ったということには広くコンセンサスが形成されているように思う。チャベスはベネスエラの貧困層に大きな恩恵をもたらしたというのは、チャベスの批判者の間においてさえもよく耳にする主張だ。2006年のベネズエラの大統領選挙時にブッシュ大統領に宛てた手紙でJesse Jackson、 Cornel West、 Dolores Huerta、 and Tom Haydenらは、「1999年以降、ベネズエラの国民はこれまでの政府とは異なりベネズエラの石油資源を貧困層に分け与えた政権に繰り返し投票してきた」と書いている。スティグリッツは「ベネズエラの大統領チャベスはこれまでは石油資源の恩恵をほとんど受けることがなかったカラカスの貧困地域に教育と医療をもたらした」と書いている。雑誌エコノミストまでもが「チャベスの革命は幾らかの社会的利益をもたらした」と書いている。

「ここまで断言されているのだから、これらの主張は大量の証拠によって支えられているのだと思う人もいるかもしれない。だがチャベスの政権がそれ以前のベネズエラの政権、もしくは他のラテンアメリカの国々と少しでも異なる行動を行ったという主張を支えるデータは驚くほどわずかしかない。よく宣伝される統計はベネズエラの貧困率が2003年の54%から2007年の27.5%に低下したというものだろう。この低下は印象的に見えるかもしれないが貧困率の低下は経済成長と密接に関連していることもよく知られている。そしてこの期間にベネズエラの一人あたりGDPは、ほとんどが石油価格の急上昇のおかげで50%ほど上昇していた。よって真に問いかけるべきは貧困率が低下したかどうかではなく、チャベス政権はこの期間の経済成長を本当に他の政権よりも有効に貧困の削減に結び付けられていたかどうかだろう。これは貧困の削減を一人あたりGDP1%ポイント毎に分割することによって求めることができる。言い換えると貧困率の所得弾力性だ。この計算は、この期間のベネズエラの貧困の削減は一人あたりGDPの1%ポイントの増加に対して平均で見て同じく1%ポイントであったことを示している。これは、他の多くの途上国の同数字が2%ポイントぐらいであることを他の研究が示していることを考えると明らかに見劣りする。同様に、貧困の削減に親和的な経済成長であれば所得格差の大幅な低下が伴っているはずと思うかもしれない。だがベネズエラの中央銀行によると、所得格差はチャベス政権時にジニ係数で見て2000年の0.44から2005年の0.48へと実際には上昇している」

「貧困率や所得格差の統計からは全体像を把握することはできないかもしれない。貨幣所得には表れていない側面がありそれがチャベスの支持者が、彼が最も大きな改善を行ったと主張している側面だ(医療や教育、基本的なパブリック・サービスの提供を行うことによって)。だがここでも、政府の統計は改善を示していないばかりかむしろ多くの側面で深刻な悪化を示している。例えば、栄養不足の子供の割合は1999年から2006年の間に8.4%から9.1%へと上昇した。同じ期間に、上下水道へのアクセスがない世帯の割合は7.2%から9.4%へと上昇した。地面がむき出しの家に住んでいる世帯の割合は2.5%から6.8%へと3倍以上に上昇した。ベネズエラでは貧しい人を助けよとのミッションの掛け声がありとあらゆる場所で見られる。政府が貼ったポスターからミッション参加者に配られる赤シャツ、チャベス支持者らの集会に至るまで。ミッションの掛け声が見られない唯一の場所が貧困層の福利厚生を示した統計の中だ」。

「チャベス自身のレトリックや彼の評判から考えると驚くべきことに、彼の政権時に社会支出が優先されたという事実は存在しないことを政府の統計が示している。チャベス政権時に医療、教育、貧困層の住宅に充てられた予算の割合は平均で25.12%で彼以前の8年間の平均(25.08%)とほとんど変わらない。さらに、当時ベネズエラ軍の将軍だったチャベス自身が無視された膨大な貧困層の代理だと称してクーデターで転覆させようとした「ネオリベラル」政権、Carlos Andrés Pérez大統領の任期の最終年だった1992年の割合よりも低いという強烈な皮肉のおまけつきだ」

この話は世界のどこの政府にも当てはまる教訓を含んでいるだろう。私たちは経済成長への貢献度(その反対に、経済崩壊への責任を)をあまりにも政府に与えすぎている。(こういうことを聞くと激怒する人がいるので婉曲的に言うと)チャベスは原油価格の高騰を生み出すようなことはまったく行っていないと言っても差し支えないだろう。実際、ベネズエラの石油の生産量は彼の政権時に、(ベネズエラの石油企業)PDVSAの経営を誤らせたことが原因で急激に減少している。「この規模としてはベスト」とされていた同企業の経営がたった数年で標準以下にまで下落してしまったためだ。

告白すると、私はこのことに驚かされた。PDVSAは投資資金が貧困層に回されたために苦しんでいるというのがエネルギー関係者の間では常識となっていたからだ。今ではその資金がどこに行ったのか皆目検討がつかない。

As Venezuela Craters, Appeal of Socialism Remains

Marian Tupy

今から3年ほど前のことだ。アメリカでは左翼としてよく知られているDavid Sirotaが「ヒューゴ・チャベスの経済的奇跡」と題したエッセイを左翼誌サロンに掲載するということがあった。

「チャベスはアメリカの恐れの対象となっている。彼の全力での社会主義と再分配の推進が「ネオリベラル」経済学への根本的な批判となっているからだ。それも議論の余地のない成功をもたらしている…ある国が社会主義に走り完全に失敗すると、(社会主義の批判者に対して)少しも脅威でなく忘れ去られやすい警告めいた寓話として笑いものにされる(笑われているのは自分たちだと考えたことは一度もないらしい)。対照的に、ある国が社会主義に走りベネズエラのように成功をおさめると、笑いの対象とは見做されない-対処することも無視することも難しくなってしまう」。

丁度いいタイミングでニューヨーク・タイムズのNicholas Caseyが「Dying Infants and No Medicine: Inside Venezuela’s Failing Hospitals」と題した記事を掲載している。

「朝までに、3人の新生児がすでに息を引き取っていた。その日もいつもの問題とともに始まった。抗生物質の慢性的な欠如、輸液の慢性的な欠如、食料ですらの慢性的な欠如。それから恒例の停電が都市全体を襲い、産科病棟の人工呼吸器を停止させた。ベネズエラの医者たちは数時間も手で空気を乳児たちの肺に送り込み続け乳児たちを生かそうと懸命に努力し続けた。夜までには、さらに4人の新生児が息を引き取っていた。ベネズエラは危機的な状況に陥り、亡くなったベネズエラ人の人数は未だにほとんど分かっていない」。

むしろ私は非常に陰鬱な気持ちでこの記事の引用を行った。David Sirotaの不誠実で軽薄な主張とは反対に、私はベネズエラの「計画経済の危険性に関する警告めいた寓話」を「少しも脅威ではなく忘れ去られやすいもの」として笑うつもりなどまったくない。子どもたちが息を引き取っているのに笑う要素などまったく見当たらない。言うまでもなく、スターリンの時代に飢えたウクライナ人たちが自分たちの子供を食べていたことを知った時も少しも笑ったことはなかった。共産主義に走ったカンボジアのクメール・ルージュの兵士たちが子どもたちを大量に撃ち殺していたことを知った時も一度も笑ったことはなかった。そしてジンバブエのマルクス主義者の独裁者ロバート・ムガベによって子どもたちが飢えに苦しめられているのを自分の目で見た時にも間違いなく笑ってなどいなかった。事実、試みられた時には必ずもたらされる社会主義によるほとんど理解不可能なまでの苦しみに笑える要素など少しもない。

David Sirotaの圧倒的なまでの愚かさには笑いを抑えることができないが、ベネズエラを襲ったハイパーインフレーション、商品が空の店舗、手のつけられない暴力の蔓延、基本的なパブリックサービスの崩壊などを喜ぶことはできないし、これが社会主義の崩壊の最後ではないだろうと簡単に予想できることに非常に暗い気分にさせられる。将来には、より多くの国が歴史から学ぶことを拒否し社会主義に「go」のサインを出すと予想しても間違っていないだろう。そしてそれと同じぐらいもしくはそれ以上に確かだと思うことは、最後の光が消え主義を捨てざるを得なくなり弁明に走りだすまさにその時まで社会主義の歌を歌い続けるDavid Sirotaのような、レーニン風に言うならば「役に立つ愚か者」がこれからも存在し続けるということだ。このことは重要な問題を私たちに提起する。試みられる度に社会主義は失敗を繰り返してきたというのに、どうして未だに社会主義に心酔している人がいるのか?

進化心理学がそれに対する一つの答えを提供している。カリフォルニア大学のJohn Tooby and Leda Cosmidesによると、人間の心は160万年前から1万年前の期間の「Environment of Evolutionary Adaptedness」に沿って進化してきた。「現代人の精神がどのように機能しているのかを理解するための鍵は」と彼は語り、「脳は現代の日常の問題を解くようにはデザインされていないということを認識することにある。それは私たちの先祖である狩猟時代の日常の問題を解くようにデザインされている」と締めくくっている。言い換えると、現代人の頭蓋骨には石器時代の精神が未だに宿っている。ではそれら石器時代の精神の特徴とはどういったもので、私たちが経済学を理解する際にどのような作用をもたらすのか。

第一に、私たちは小さな集団から進化した。その時代ではお互いが顔見知りで恐らくは深い関係にあった。分業と貿易のない世界では、ある集団(ここでは「私たち」としよう)の利益は他の集団(ここでは「彼ら」とする)の犠牲によって成り立つことが多い。そのことが、グローバルな貿易などの複雑な経済活動からの利益を私たちに理解させることを難しくする。第二に、他の多くの動物と同じように、私たちは支配の階級を形成しながら進化してきた。そして他の動物と同じように、私たちは支配者を嫌いそれを打倒するための同盟を組んだ。階級に対する私たちの反感は、専制主義のように資源を支配者に献上するタイプのゼロサム支配だけではなく、企業のような人間の生活を豊かにするポジティブサム支配にも考慮されることなく向けられる。

第三に、「狩猟と採集の社会的本質、食べ物はすぐに腐るという事実、そしてプライバシーの完全な欠如は」とWill Wilkinsonは語り、それは「狩りや食料の採集の成功による利益は個人で独占することが難しく、共有されることが期待されることを意味する。豊かなものに対する嫉妬は(中略)支配階級の下層の人々にとって権力を蓄えることができる者からのさらなる略奪に対する防御壁となったかもしれない」。

言い換えると、人間は本質的に嫉妬深い上に怒りやすくそして洗練された経済システムを称賛することができないばかりか理解することもできない。

これらとその他の理由により、David Sirotaのような人間たちはベネズエラ(もしくは社会主義)に関するポエムを綴り続けるだろう。一方では、グローバル経済で成功した例を完全に無視しながら。チリがまさにその好例だ。1970年代に、チリは社会主義から自由市場へと切り替わった。そして栄えた。チリが最後の社会主義の時代だった1973年では、チリの一人あたり所得はベネズエラのわずか37%でしかなかった。逆に2015年にはベネズエラの一人あたり所得はチリの73%でしかなくなっている。チリの経済は231%拡大した。逆にベネズエラの経済は12%縮小した。運が良ければチャベスの後継者であるNicolas Maduroはもうすぐいなくなるだろう。そしてベネズエラの人々は自分たちの壊れた国家を修復する機会を得るかもしれない。彼らは従うべき事例としてチリを見るべきだ。

アメリカがオサマ・ビン・ラディンを支援したというのは嘘だった?

Dispelling the CIA-Bin Laden Myth

9月11日のテロ攻撃以来、ニュース番組や大学には「そもそも」どうしてCIAはオサマ・ビン・ラディンを過去に支援したのかと非難する人間で溢れかえっていた。

ワシントン・ポストのレポーターからマイケル・ムーアにいたるまでこの手の話を信じているように思われる。

私たちの政府にビン・ラディンを育てた責任があるという、多くのアメリカ人に信じられている妄想を終わらせる必要がある。CIAがビン・ラディンを支援していたというのは事実ではない。そのような妄想は私たち自身の手で9月11日のテロを招いたという誤った印象を刷り込んでしまう。完全に証明することは難しいにしても、すべての証拠はCIAはビン・ラディンに一度も資金を提供していないし、訓練もしていないし、武装させてもいないことを示している。

「ビン・ラディン自身が」アメリカからの支援を受け取ったということを繰り返し否定している。「私も私の兄弟たちもアメリカからの支援を受け取ったところを一度も見たことがない」と彼はイギリスのジャーナリストRobert Fiskに1993年に語っている(陰謀論のそもそもの最大の根拠が大崩壊…)。1996年にFiskは再び彼にインタビューを行っている。今回もこのテロリストははっきりと応えた。「私たちは過去一度たりともアメリカから支援されたことはない」。

ビル・クリントンとビン・ラディンのことをテーマにした本を執筆している際に、私は1984年から1986年にイスラマバードのCIA支部の責任者だったBill Peikneyと1986年から1989年の責任者だったMilt Beardenにインタビューした。彼らはアメリカから反ソビエトのレジスタンスへと送られた資金のすべてを管理していた。どちらもCIAからビン・ラディンに資金が渡されたということを完全に否定していた。彼らはこの話に大変怒りを感じていたので記録を送ることに同意してくれた。沈黙を貫かなくてはならない諜報機関の職員としては極めて異例のことだ。Peikneyは私に宛てたeメールの中で、「私がアフガニスタンに駐在していた頃、ビン・ラディンのことがスクリーンに入っていたかどうかさえも思い出せない」と語っていた。

彼らの話の信憑性が高いと考えられる理由は幾つもある。そもそも彼らが資金を管理していた(資金の流れを知っていた)。彼らはCIAを引退している。そしてCIAがビン・ラディンに一度でも資金を提供したということを示した説得力のある証拠は少しも存在しない。小切手も、インボイスも、政府のレポートも一つもだ。

ビン・ラディンがアメリカからの資金を受け取ったと主張している愚か者たちは、その結論を以下のような単純な論理から導いていると思われる。ソビエトがアフガニスタンに侵攻した時、アメリカはアフガニスタンのレジスタンスに資金提供を行った。ビン・ラディンはレジスタンスの中にいた。それ故、(その経路はまったく不明だというのに)アメリカはビン・ラディンに資金を提供したに違いない。

この愚かな論理は重大な事実を無視している。ソビエトに対するレジスタンスには2つの完全に異なる集団が存在した。一つはサウジや湾岸諸国によって支援されたグループでアラブ世界から集まってきたイスラム過激派で構成されていた。彼らは自分たちのことを「アラブ・アフガン」と呼んでいた(リンク)。ビン・ラディンはこの集団の一員だった。サウジがアメリカからの貢献分と同額を拠出すると族長たちに約束した時、族長たちはそれらの資金は「アラブ・アフガン」だけに渡すようにと強く主張した。一方でアメリカからの資金は他のレジスタンス、ネイティブのアフガン人で構成される、だけに提供された。先程のBeardenは、「ビン・ラディンに限らず私たちがアラブ・アフガンに1ドルたりとも資金を提供したと主張している人がいれば、その人の道化の皮を剥がしてあげるだろう」と私に語っている。

仮にCIAが「アラブ・アフガン」に資金を提供したいと思ったとしても(もちろん、CIAはこれを否定している)ビン・ラディンは適任からは程遠かった。ビン・ラディン自身がパキスタン北方の安全地帯をほとんど離れなかったし、彼が指揮していた部隊も僅かだった。ビン・ラディンは当時アラブ・アフガンの補給係で、食料や他の備品を供給していた。

CIAの職員が彼に資金を提供しようとしても、よほどの経験を積んでいないかぎり恐らく生きては帰ってこれなかっただろう。このテロリストは暴力的な反米主義で知られていた。現在はカリフォルニア州の共和党議員であるDana Rohrabacherは、1987年の旅行の時の出来事を語ってくれた。その旅の途中で、突然彼のガイドが英語をしゃべるなと告げる出来事があった。理由を尋ねると、現在ビン・ラディンのキャンプを通過中だからだとの回答が返ってきた。「もし英語を聞きつければ、彼はあなたを殺しに来るだろう」とガイドは語った。

どうしてCIAがビン・ラディンを支援したという神話はこれほど長きに渡って信じられているのか?ある人は、アメリカとサウジが完全に異なるグループを支援したということを知らないためにこの作り話に引っ掛けられているようだ。他の、反米の左翼や右翼などは(奇妙なことにヨーロッパだけでなくアメリカにもいる)この神話を信じることで奇妙な安心感を得ているように思われる。悪いのは私たちだと考えたい人たちに慰めを提供しているからだ。CIAがビン・ラディンに資金を提供した神話はよく馴染みのあるいつものパターンに戻れることを彼らに約束する。アメリカを非難せよだ(別に問題のなかった以前の日銀が狂ったように非難されていたことが思い出される)。この神話はアメリカがアルカイダを作ったという謂れのない非難を浴びせる事によりテロとの戦いの意義を貶めようとする意図のもとに発せられている。

サウジの王子がテロ攻撃の原因としてアメリカの政策を非難していたことを知った時、前NY市長のジュリアーニは王子からの10億円の寄付を送り返したことで話題になった。その時の彼の発言は、CIAがビン・ラディンを支援したという神話にもそのまま当てはまるだろう。「この攻撃を正当化できる理由は何一つない」と彼は答え、「それらの声明は間違っているだけではなく、それらは問題の一部だ」と指摘した。

Bin Laden, The Afghan Mujahadeen, And The CIA: The Myth That Needs To Die

(タリバンがアメリカが支援したグループだという勘違いが蔓延していることに関して)

マイケル・ムーアの発言を「軋轢を招き、無神経で、節度がなく乱暴な左翼のレトリック」だとSullivanが評していることにJohn Coleは明らかに同意していないだろう。そして擁護としてウィキペディアのこの記事にリンクを張っている。

「1979年の中頃に、ソビエト連邦がアフガニスタンに軍隊を派遣したのと同じ頃、アメリカはアフガンのムジャヒディンに資金援助を開始した。ネイティブのアフガン人以外で戦っていたのはアフガン・アラブと呼ばれる他の国からやってきたイスラム過激派たちだった。アフガン・アラブとして最も有名なのは裕福なサウジ人として知られていたオサマ・ビン・ラディンだった。よく無視される事実として、戦況が怪しくなりソビエトがそれらのアフガンの戦闘員たちを打ち負かし始めるとアメリカはすべての資金援助を取りやめた。これによりムジャヒディンたちは総崩れした」

「戦争の終わりごろになると、ビン・ラディンは他の場所で、主にアメリカ-ソビエトに対するムジャヒディンに資金援助を行った国-ジハードを行うためにアルカイダを組織した」。

この記事のどこが、私たちがビン・ラディンを武装化させ、資金援助をし、訓練を施したというマイケル・ムーアの主張のサポートになっているのかまったく理解できない。特に、ウィキペディアの同じページに記されている他の情報、例えば1997年にテレビで初めてビン・ラディンにインタビューを行ったCNNのPeter Bergenの発言などと組み合わせて見た時には。

「CIAがビン・ラディンに資金援助を行ったもしくは訓練を施したといったような話は、単なる都市伝説だ。このことを示した証拠は一つもない。ビン・ラディン、ザワヒリとアメリカ政府が同意できることが一つある。全員が、1980年代に自分たちの間に関係はなかったということに同意するだろう。そもそも関係をもつ必要さえなかった。ビン・ラディンは十分な資金を持っていた。彼は反米主義者で、秘密裏に独立に行動していた」

事実、ビン・ラディンのような「アフガン・アラブ」はアメリカとはまったく係わりを持っていなかったことをはっきりと証拠は示している。その逆に、CIAが資金を提供したとの主張は憶測か誇張に基づいているに過ぎない。CIAが1980年代にビン・ラディンを訓練したとの考えはビン・ラディン本人とともに消え去る必要のある神話だ。マイケル・ムーアは間違いで、サリバンが彼を酷評していることは完全に正しいように私には思われる。これは極左も極右も振りまいている神話で、彼らはもう嘘を付くのを止めなければならない。

更新:これまでのところは「嘘」と呼ぶのを控えてきた。彼らは単に自分たちが聞かされてきたことを繰り返しているだけかもしれないからだ。この混乱は、単なる普通名詞である「ムジャヒディン」という単語をある特定のグループを指しているかのように西側が解釈してしまっていることから生じている。アフガニスタンとパキスタンに数多く存在する集団であるタリバンをまとめて一つのタリバンだと思っているように。もしくは現在私たちがタリバンと呼んでいるグループは数多くあるタリバンのうちの一つにすぎないのに。

だが、それは完全に間違いだ。3月11日の記事、「タリバンの歴史からの教訓:80年代から私たちの味方ではない」を見て欲しい。その記事ではPat Langを引用している。

「私たちが支援したグループは、ソビエト撤退後の内戦の間にタリバンによって倒された。タリバンとオサマ・ビン・ラディンはサウジアラビアとパキスタンによって支援されていた「Sayyaf」と呼ばれるまったく別のムジャヒディンによって支援されていた」。

この混乱は、仮にも知識人と呼ばれている人であれば知らないのは恥ずかしいという位までに晴らされてきたはずだ(マイケル・ムーアを知識人だと言っているのでは決してない)。

CIAがイランで民主主義政権を転覆させたという話は嘘だった?

最初の記事は経済学者David Hendersonによる間違いだらけの歴史の説明で、いかに誤った歴史が信じられているのかを示す好例として紹介している。

All the Shah's Men

David Henderson

私は夏休みの間に普段よりも多くの本を読むことにした(ブログを見るのは少し減らした)。最初に読んだ本はStephen Kinzerの「All the Shah's Men: An American Coup and the Roots of Middle East Terror」だった。素晴らしかった。

私はFuture of Freedom Foundationでのイベントで以前にも彼が話しているのを見たことがある。私も、Glenn Greenwald, Bob Higgs, Sheldon Richman, Jonathan Turleyやその他大勢の人とともにそこで講演を行った。彼のスピーチは素晴らしかった。彼はニューヨーク・タイムズのレポーターだった。

彼は、Kermit Roosevelt(セオドア・ルーズベルトの孫)とCIAがMohammad Mossadegh(1950年代初期のイランの首相)の失脚を工作した時の話を語った。興味深く憂慮させられる話だった。ルーズベルトは私が考えていたよりもさらに悪いということに気付かされたのだった。

イランの過激派が1979年の11月にテヘランのアメリカ大使館を占拠した時に、彼らがCIAの紋章を掲げ繰り返し叫んでいたのを憶えている。その出来事の直後に、私はそのイベントと1953年の出来事との関連をすぐに学んだのだった。だが私は、彼らは1953年の出来事にCIAが果たした役割のことに怒っているのだと思っていた。Kinzer(陰謀論者)はより直接的な結びつきを仄めかしている。

「立てこもり犯は1953年にイランの国王が亡命した時に、アメリカ大使館で働いていたCIAのエージェントが再び彼を玉座に戻そうとしていたと語った。イラン人は歴史が繰り返されることを恐れた」

「(モサデグがCIAによって失脚させられた時のように)国王が再び返り咲くという新たなクーデターへのカウントダウンが始まった、と立てこもり犯の1人は後に説明した。それが私たちの運命だと考えられていた。それは覆すことが出来ないだろうとも。私たちはそれを覆さなければならなかった」

全体的に見れば悲劇だった。イランは未成熟な民主国家でイギリス政府の強い要請を受けたアメリカ政府によって民主化への道を遮られていた。イラン人たちがとうとう国王を追放した時、誕生したのは民主国家ではなく残虐で暴力的な宗教国家だった。

クーデターの動機はモサデグが国有化した石油会社の奪還だった。国有化は擁護できない。だが国有化を阻止するために政府を転覆させるのはやり過ぎだ(どうしてイギリスの石油会社が国有化されたことに対してわざわざCIAがクーデターを画策しなければならないのか?)。アメリカ政府がイランの企業を国有化したことに対する反発として、イラン政府がアメリカ政府に対するクーデターを画策したとすればアメリカ人も同様に怒るだろうと私は思う。さらに、イギリスの外務長官で労働党に所属しているErnest Bevinが当時語っていたように、「国有化への反対をどのように正当化出来るというのか?私たちも石炭、電力、鉄道、港湾、鉄鋼を国有化しているというのに)」

その他に気になった点、2つは経済に関わるもので1つはそうでもない。

インセンティブに関わる話:「Reza Shah Pahlaviは鉄道を建設するためにヨーロッパの技術者を雇った際に、彼らが建設した橋を列車が初めて通過する時、彼らと彼らの家族がその下に立っていることという条件を付けた」。

貿易に関する誤解(Kinzerの問題と、恐らくはイギリス側、特にチャーチルの問題):

「石油がカスピ海周辺、東オランダ諸島、アメリカで発見された。だがイギリスとその植民地では発見されなかった。その痕跡すら見つからなかった。もしイギリスが(イランで)石油を見つけることが出来なかったとしたら、イギリスは最早世界を支配することが出来なくなっていただろう」。

間違いだ。イギリスは石油を購入することが出来た。

普段は、アメリカの大統領でワースト3のうちの1人だと私が思っているWoodrow Wilsonに関する話:

「アメリカは1919年のAnglo-Persian Agreementを痛烈に批判した。この条約を通してイギリスがイランの宗主国となったものだ。ウィルソン大統領は、第一次世界大戦時の占領下での損害に対してイギリスとロシアに対してイランが金銭的賠償を求めた訴えを支持した唯一の世界の指導者だった」。

Susan says:

私はこの考えには反対せざるを得ない。「中東で唯一の民主国家で信頼に値する同盟国家であるイスラエルに対する支援を私たちが取りやめれば、中東がまともになるなど夢物語にすぎないということも理解できない人がこれほどいることが驚きだ」。

選挙によって選ばれた首相であるモサデグが(イギリスの石油会社BPのためではなく)イランの人たちのために石油の収入を用いたことが気に入らないとの理由でアメリカが失脚させるまでは、イランは真の民主国家だった。私たち(アメリカ政府とCIA)がクーデターを用いて正当に選ばれた指導者を失脚させ、私たちのために(ここではアメリカの多国籍企業のことを言っているらしい)働く操り人形を代わりに送り込んだ。イラン国王の国民に対する抑圧が臨界点を超えた25年後に裏目に出ることになった。そしてコメイニを権力の座につけ中東にイスラム原理主義と反米感情をもたらしたイラン革命を引き起こすことになった。ただしイラクは例外だ。サダムは当時は私たちの操り人形だったためだ。イスラエルも例外だ。核兵器を保有する同盟国を私たちが必要としていたためだ(イスラエルが核兵器を持っているのかどうか誰も確認していないのにこの手の愚かな人たちがいつも断言していることが不思議で仕方ないのだが)。

民主主義を破壊するのではなく支援したほうが世界と私たちのためにとって良いと思うのだが。

J Kadvekar writes:

責任はイラン人自身にあるのではないのか?経済学では、私たちはいつも個人の行動を分析の対象にするように教えられる。

社会主義のイランの首相がイラン人自身の手によって失脚させられた。そしてその政府がイラン人によって置き換えられた。

始まりから終わりまで、ただ1人のアメリカ人もクーデターには関わっていない。もし、あるアメリカ人(CIA)が最終的に権力を手中に収めたそれらイラン人たちに影響を及ぼしたというのであれば、あるロシア人もそうだっただろうし、あるアラブ人も、イランに存在する異なる勢力の多くの人たちも影響を及ぼしたはずだろう。

だが実際にクーデターを起こしたのは、そしてイランを統治したのはイラン人自身だ。

もしイラン政府の人たちがそうも安々とアメリカ人に影響されるというのであれば、イランにテロをやめさせることもイスラムの影響を低下させることも思いのままのはずだろう。

CIAやアメリカを非難するというマントラは実に愚かしい。イランにしてもチリにしてもクーデターの責任の99%は彼ら自身にある。

Unlearning writes:

君のコメントは自己矛盾している。君は、個人を国家からごく簡単に切り離せるかのように考えているように思われる。例えば「責任の99%は彼ら自身にある」と言っている所では、責任を少数の人たちから(それもかなり昔の出来事に対して)その国に住む人たちに移している。だが、どうしてたまたま同じ国に住んでいるだけの人たちがそれら少数の人たちが行った行いに対して責任を取らなければいけないのか?

J Kadvekar writes:

違う。私のコメントは非常にはっきりしている。私が「people」と言っている時、私はそのクーデターを実行したイラン人たちという意味で言っている。イラン国民すべてという意味では言っていない。

Hendersonはルーズベルト大統領を悪人だと言っているが、アメリカ人には言っていない。私が言っているのは、そのクーデターに関わったすべてのイラン人(軍人、官僚、大臣などなど)をまず第一の責任者としよう。それからそのリストのずっと下の方にルーズベルトがようやく現れると言っているに過ぎない。

反米ウィルスに侵された人たちは愚かにもこれとまったく反対のことを行っている(イランに対してであれチリに対してであれ、というかどの国に対しても)。愚かな人たちはアメリカ人をそのリストの先頭に持ってくる。クーデターを実行したイラン人やチリ人たち(それに左翼が知られたくないと言うだけの理由で陰に隠れているロシア人やアラブ人たち)は言及されることさえほとんどない。

J Kadvekar writes:

実際、Hendersonの記事にはクーデターに参加した人もそれに同調した人も誰一人もイラン人は登場していない。ただの誰一人もだ。

クーデターの議論にイラン人もチリ人も登場してこないことは新しいことでもなければ驚きでもない。彼らの話で繰り返されるのは、イランは未成熟ながらも素晴らしい民主国家で、あるアメリカ人たちの陰謀によって破壊されたというお伽話だ。真実は、イラン人やチリ人によって彼らの国は破壊された、だ。

Unlearning writes:

だがそれでは論理的ニヒリズムの世界に君を迷い込ませてしまうのではないのか?君が言っていることは、ある個人がクーデターに参加した、だ。彼らの国籍は無関係だ。何故なら君が強固な個人主義にコミットしているためだ。

そのような考え方は将来のための教訓を何一つ引き出しはしないだろう。そしてそのような考えから理解が深まるとは私には思えない。

J Kadvekar writes:

違う。私は彼らの国籍は重要だと言っている。私が個人の観点から話しているのは、そうすることによって初めて誰がクーデターを実行したのか?ということを皆に分からせることが出来るためだ。クーデターを実行したのはイラン人だ。アメリカ人ではない。

「論理的ニヒリズム」-君がどうしてそのようなことを言うのか理解できない。私は誰がクーデターを実行/計画したのかに興味があると言っているのに。私はクーデターの責任が誰にあるのかという事実を(他の人よりも)正確に述べているに過ぎない。それはイラン人たちで、アメリカ人ではない。イラン人たちは多くの要因に影響を受けた。アメリカ人はそのうちの一部に過ぎない。

このように物事を正確に把握することで誰が実際にはクーデターを実行したのか、誰が民主的に選ばれた政府を転覆させた責任があるのかに関する私の理解は深まった。それはイランに関してだけではなく、チリに関しても当てはまる。

これはクーデターの話に限定されるのではない。他の多くのことにも当てはまる。Hendersonは銃規制に(正しくも)猛烈に反対している。例えばこれが銃乱射事件であったとすれば、彼は銃の販売者を非難するだろうか?犯人を非難するだろうか?

以下は、歴史の事実をうまくまとめてある記事。

The Myth of an American Coup

What Really Happened in Iran in 1953

今年はCIAがイランの首相Muhammad Mossadeqを失脚させたと云われているOperation Ajaxの60周年に当たる。1953年の出来事は、国民から人気のあったナショナリストの政治家を失脚させたアメリカの非道な陰謀だと繰り返し語られてきた。特にイランによって熱心に宣伝されてきたこのお伽話は、検証もせずにアメリカの知識人たちによってあまりにも容易に受け入れられてきたので、歴代の大統領や国務長官たちはイランに関して議論する時、過去の前任者たちの非道な行いを謝罪することがまず初めに求められる。現在では、この説明はアメリカのポピュラーカルチャーにまで影響が及んでいて、最近ではベン・アフレックの出演した映画「アルゴ」などにその影響が見られる。この神話化された話の唯一の問題点は、モサデグの失脚にCIAが果たした役割はほとんど皆無に等しいということだろう。1953年のクーデターはほとんどがイランの国内事情によるものだ。

モサデグは、政府の高官の地位は自分たちの世襲財産だと考えていたイランのエリート階級に属する貴族階級出身の政治家だった。この集団は20世紀のほとんどの期間で、内閣、議会、官僚の大部分を形成していてそのままイランを支配していた。モサデグと彼の所属した政党、National Frontの影響力はイギリスから石油を奪い返した国有化法を議会で通過させた1950年に頂点に達した。

イランのナショナリズムにアメリカ人は好意を抱いていなかったにも関わらず、トルーマン大統領とアイゼンハワー大統領はポスト植民地の時代におけるイギリスの政策の問題を認識し、イギリスにイランの正当な要求を受け入れるように圧力を掛けた(ヘンダーソンの記事とはまるで逆のことが書かれていることに笑うしかない)。アメリカの外交官、Dean AchesonやAverell Harrimanなどが和解と妥協に向けてイギリスとイランの双方に圧力を掛けた。3年間の間に、アメリカはイギリスとイランのナショナリストの双方を納得させられるような数え切れないほどの提案を行った。現在のイランの核開発をめぐる協議と同様に、これらの非常に工夫された巧妙な提案もすべて合意には至らなかった。

鍵となった問題の一つは、モサデグ自身が自らの成功の犠牲者となったことだった。モサデグの絶対君主的なレトリックとイギリスの影響力を排除するとの宣言は例えそれが思慮深いものであったとしても一切の和解を難しいものとさせていた。彼が大衆を扇動すればするほど、彼が和解案に合意することは難しくなっていった。外交による交渉が行き詰まりを見せる中で、イギリスが石油の出荷を禁止したためにイランは必要不可欠な収入を失い困窮していった。

1953年までには、イランの経済は大不況に陥っていた。巨額の財政赤字と石油収入の喪失という事態に直面しイランの支払いは次第に滞るようになっていった。イランはイギリスの制裁を回避する手段を持っていなかった。それに政府は石油収入に大きく依存していたためイランの経済は石油なしでは維持することが出来なかった。モサデグはこの危機を権力を自らの手により集中させることによって乗り切ろうとした。信念を持ち、法の支配を尊重していた政治家だったはずの彼が、今では不自然な国民投票を策謀し、選挙で不正を行い、軍隊を一手に掌握しようとし、イランの王家の特権までを求めるようになっていた。かつては憲法を熱烈に擁護していた彼が、そのすべてに背を向けることになった。

イランの経済危機が深刻になっていくと、似た考えの持ち主の集まりに過ぎなかったNational Frontの基盤は大きく揺らいでいった。このような危機時にも冷静でいられる、献身的でよく訓練されたコアとなる党員を育てたことが一度もなかったという事実がモサデグを失脚させた要因の一つだった。自分たちの資産が減少していくことを懸念した党員の大多数は彼を見捨て始めた。知識階級はモサデグが絶対君主のような振る舞いを見せ始めたことに強い警戒感を抱いていた。そして代わりを探すようになっていた。モサデグによって定期的に司令官が粛清されていたにも関わらず沈黙を保っていた軍部は次第に発言を強め政治的な謀議に参加するようになっていた。世俗的な政治家と彼らの改革思考がそもそも気に入らなかった宗教指導者たちはその忠誠を密かに王家へと移していった。そしてここに重大な事実がある。狂信的なカルト国家にまで堕した現在のイランはこの出来事をCIAによるクーデターと呼んでいるが、このクーデターで中心的な役割を果たしたのはその宗教指導者たちだという事実だ。

モサデグを失脚させる計画は、彼の独裁ぶりを間近で見て法的に彼を退かせる手段は存在しないことをよく理解していたイランの政治家たちによって進められていた。かつてはモサデグ内閣のメンバーだったFazollah Zahediは彼を裏切り、この問題の解決策をアメリカ大使館に売り込みに来ていたほどだった。宗教指導者たちとも強い結びつきを持つ軍部の一員として、強力な反モサデグのネットワークがすでに存在しアメリカからの支援をほとんど必要とすることもなくモサデグを政権の座から引きずり下ろすことが出来るとアメリカ大使に請け負っていた。

1953年の5月に、CIAとMI6は共同で、コードネーム「Ajax」と呼ばれる行動計画を提案した。この計画の鍵は、首相であるモサデグを解任することが出来る権利を持つ国王の協力を得ることだった。Zahediはこの計画の要として浮上してきた。CIAの説明によると、彼は「支援に値するだけの十分な気力と勇気を持つ」唯一の人物と見られていたからだ。アイゼンハワーは6月22日に、国家安全保障のアドバイザーたちと会合を開いてその計画を承認した。

その頃までには、モサデグの支持率の急落は誰の目にも明らかだった。軍部の指導者たちがクーデターを呼びかけている一方で、国民戦線のメンバーの大多数は彼を見捨てていた。テヘランから伝えられてくる情報はすべて、イラン国王は未だに国民に人気で彼がこの事態に介入すればモサデグは辞任せざるをえないだろうというものだった。実際の出来事の経過は、他の多くのよく練られた計画と同じように、計画者たちの予想を上回るものだった。

この計画の第一段階はモサデグの汚職や権力への執着ぶり、ユダヤ人を先祖に持つこと(これだけは捏造だった)を暴露して、国民の間に広まっていたモサデグへの反感をさらに高めることだった。他のニュースペーパーは、国民戦線がイランの共産党Tudehと秘密裏に結託して宗教を人々の生活から根絶させる「人民の民主主義」を推し進めようとしていることを示唆する偽造文書の存在を報道した。

国王の協力を取り付けることは当初の予想よりも難航した。国王家はモサデグが失脚することを望んでいた。だがその直接の責任を取ることには躊躇しているようだった。国王の基盤を強化するためにCIAは、国王の双子の妹Princess Ashrafや1940年代にIranian police forceを訓練したGeneral Norman Schwarzkopf Srを含む幾人かの下へと特使を送り宮殿へ向かうよう要請した。秘密裏に動いた他の人間がKermit Rooseveltだった。国王はアメリカがどの程度支援してくれるのかその程度を知りたがっていた。そしてアイゼンハワーからイランを支援するという確約を取り付けると、国王は2つの命令を発行した。一つはモサデグを解任するもので、一つはZahediを代理に立てるというものだった。

8月16日の夜に、イラン防衛軍の指揮官だったColonel Nematollah Nassiriはその命令を首相の住まいへと伝えに行こうとした。だが彼は失敗した。軍部にも深く入り込んでいたイラン共産党のメンバーからモサデグへと情報が漏らされているようだった。Nassiriと彼の軍隊はモサデグに忠誠を誓っていた軍によって包囲され即座に逮捕された。自身の身の安全を恐れたZahediは身を隠した。国王は、最初はイラクへと次にイタリアへと亡命した。

イランでのクーデターに関して今まで語られてきたことで無視され続けている重要な点は、法を破ったのはモサデグだということを指摘しておかなければならない。国王は首相を解任する憲法上の権利を持っていた。国王の命令に違反して解任を拒否することは不法な行いだった。

この明白な失敗の後、ワシントンではモサデグの辞任のムードは急速に退いていった。CIAは「この作戦は完全に失敗した」と認めた。アイゼンハワーの側近で友人だったGeneral Walter Bedell Smithは「私たちはイランの状況をまったく新しく考えなおさなければならない。それにイランを助けようと思うのであれば恐らくはモサデグとも付き合っていかなければならないだろう」と大統領にアドバイスした。アメリカ側からは出来ることがなくなったので、主導権はイランの側へと移った。

テヘランでは、政治権力は迷走をし始めた。国民戦線の党員は国王を非難し流血を求める独裁者だと風刺した。勢力を拡大し国王を廃する絶好の機会だと見ていたイラン共産党もそれに共同した。党の幹部たちはパーレビ国王の銅像を倒し(王政を廃止した政治体制である)人民共和国の建設を呼び掛けた。アメリカのイラン大使だったLoy Hendersonは、大衆は「共産党員たちが赤旗を振り回して共産主義の歌を合唱しながら暴徒のように振舞っているのに激怒している」とワシントンに電報を打った。彼の評価は後にイラン共産党の幹部だった人間によっても裏付けられた。彼は自分たちの振る舞いが逆風をもたらし、「店員や一般の人々、宗教指導者たちから、協力していたはずのモサデグ政権とまでも対立を」生み出すことになったと認めている。

Zahediとその協力者たちは、RooseveltやCIAとはまったく無関係に、その活動を再開させた。彼は2つの活動を行った。彼は、国王がモサデグを解任して自分を首相に任命したという事実を広く宣伝することにした。それ故、モサデグが政権にいるのは違憲だと国民に強く訴えた。次に、彼は未だに国王に忠誠を誓っていた首都やイランの主要地域の軍部の指揮官と接触を試みた。そして彼らに軍をいつでも動かせるように準備しておくようにと伝えた。

夏の終わりごろには、軍はイラン共産党の活動家たちと衝突するようになっていた。その一方で、通りは国王支持者たちの抗議で溢れかえっていた。CIAが僅かの人数にお金を払って抗議を依頼していたというのは事実だが、CIAが雇った人数は自発的に集まった抗議の声を上げる人々と比較するまでもなかった。Hendersonがテヘランから伝えてきたように、抗議者たちは「テヘランのデモでは毎度のこととなっている暴力団風の人たちによるものではなかった。彼らは労働者、司祭、店主、生徒などを含むすべての階級から集まってきているように思われる」。要するに、CIAが用意していたデモは自発的な国王支持者たちの抗議によって完全に飲み込まれた。

ある意味では、モサデグがこのクーデターを完成させたとも言える。秩序を回復させるために、彼は軍に騒動を鎮圧するよう命令した。だがその忠誠は疑わしいものだった。軍はモサデグに反旗を翻し主要施設を占拠した。そのため彼は逃亡するしか道がなかった。CIAはワシントンに、「予想もしなかった軍による大規模なクーデターにより、国王と彼が任命した首相であるZahediに忠誠を誓っている軍がテヘランを実質的に占拠することになった」と報告している。

モサデグは逃亡には長けていなかった。彼はZahediの司令部へ投降したが、そこでは礼儀正しく丁重に扱われた。イランが狂信的なカルト国家へと堕落する前には、イランの政治には未だに市民への尊重と礼節が残されていた。

あまりにも論争の種となってきたこのクーデターはアメリカの陰謀ではなかった。モサデグが頼りにしていた一般の人々は彼に背を向けた。このクーデターを記述している人の多くは、当時国王が国民に人気で王家は信頼されていたという事実を認めることを頭から拒絶している。当時のイランでは、すべての階級の人々が同様に王家を信頼していて王家の不在は悪夢の共産主義への道へと繋がると恐れられていた。

その後数十年間に渡って、Kermit Rooseveltと一部のCIAの職員はモサデグ失脚に自分たちが果たした役割を粉飾し続けた。だがアメリカ政府による事後評価は遥かに穏当だ。CIA自身も、モサデグを失脚させたのは国王の亡命だったと記している。「国王の亡命は、モサデグはやりすぎたとの印象を国民に与え人々を熱狂的な親国王派へと駆り立てることになった」とCIAは電報を送っている。アメリカ大使も同様に、「モサデグ政権のメンバーだけではなく親国王派のメンバーまでもがこれほど迅速で素早い勝利が自発的なクーデターによってもたらされたことに驚きを隠せないようだった」と報告している。第二次世界大戦時に連合国の最高司令官だったアイゼンハワーは秘密工作が難しいことをよく理解していた。彼はRooseveltが話を粉飾していることを「歴史的事実というより三流のスパイ小説のようだ」と酷評している。

1953年のクーデターが1979年のイラン革命を不可避なものにしたとよく主張される。これもまた事実とはかけ離れた空想のお伽話だ。亡命先から帰還した国王は国民やイランの権力者たちから支持され強大な権力を与えられた。彼には、融和的な政府を打ち立ててそれにより1970年代の革命にも揺るがないような強固な国家を建設する機会があった。そうではなく、彼は前任と同じく独裁と腐敗の道を選んだ。国王のその後の振る舞いを予見できなかったことに対してトルーマン大統領もアイゼンハワー大統領も責められるべきではない。そればかりではなく現代のアメリカの政治家も、アメリカがイランの指導者を転覆させたという幻想を下にして行動するべきではない。モサデグが失脚したのはほとんどがイラン人の手によってだ。

The Great Satan Myth

Everything you know about U.S. involvement in Iran is wrong.

イランは常に脆弱な国家だった。その脆弱さ故に、事実とは異なる歴史を必要とし続けた。もちろんこの偽の歴史には、「大悪魔」とも形容される強大な敵が登場する。コーランに書かれているように、この敵対国は超常的な力を持つとイランは考えた。ワシントンから遠く離れて、その大悪魔は通りにいる人々の心を操ってデモを起こさせたりイラン社会の病理のすべてを生み出す恐るべき能力を持っているとされた。

このおとぎ話の持つ力は歴史にまで及んだ。1953年に民主的に選ばれたイランの指導者を失脚させたのはCIAだとこのおとぎ話では語られている。そして26年間も国民を苦しみ続けた国王を支えてきたのもCIAだとされている。

去年の夏の選挙が実演してみせたように、体制側はこのおとぎ話を最大限に利用してきた。体制側の敵対者は過去数十年間に渡ってイランを苦しめてきた敵たちの操り人形だと非難された。Ayatollah Khameneiはこの偽の歴史を11月3日の演説でも繰り返し、アメリカが「長年イランを操り続けてきた」と訴えた。

これは不都合なことを聞きたくない人たちにとってはとても魅力的なおとぎ話だ。だがこの話で本当に奇妙なところは、この話に魅了されたのがワシントン自身だというところにある。不思議な事に多くのアメリカ人はこのおとぎ話を信じている(特に現政権の幹部たちは)。緑の運動に連帯を示す声や体制の悪逆ぶりに抗議の声を挙げることはずっと控えられてきた。この偽の歴史の繰り返しになってしまうことを恐れたためだ。オバマはイランでの抗議活動に消極的な支持の姿勢しか示さなかった。

民主主義を求める運動の行く末にアメリカが沈黙を保つ戦略的な理由というものももちろん考えられる。だが歴史はその理由ではない。イラン側が語る歴史は自分たちだけに都合の良いものでその上まったく根拠を欠いている。最近公開された文書は彼らの語るものとは異なる歴史を示している。国王は冷戦時にアメリカの同盟相手であったかもしれない。だがその関係は複雑さを伴うものだった。アメリカは背後からイランの民主化を積極的にサポートしてきた。むしろアメリカがイランの民主化に背を向けた一時の間に悲劇は訪れた。イスラム過激派が捏造する歴史を否定するためだけではなくアメリカにとって重要な教訓が含まれることからもこの歴史をもう一度見直す必要がある。

アメリカがイラン(イスラム世界)を操ってきたという印象を生み出す事件になったのが、選挙によって当選したイランの首相Mohammed Mossadeghを権力の座から引きずり下ろすことになった1953年のクーデターだろう。オルブライトもオバマもアメリカがこのクーデターを起こしたと演説で述べている(あまりにも摩訶不思議な構図…)。

このクーデターに関するアメリカ人の理解はセオドア・ルーズベルトの孫であるKermit Roosevelt Jr.の出版物によってほとんど形成されていると言っても過言ではない。かつてCIAに所属していた彼は実際に各国を飛び回りモサデグに対して幾らかのプロパガンダを行った。だがその出版物は彼の果たした役割もクーデターに与えたアメリカの影響も完全に誇張している。彼は話の全体を(イギリスの諜報員で、その後ペンネームでスパイ小説を書くようになった)John le Carré調に書き上げている。最近公開されたCIAの文書は彼の物語の幾つかの細かい点を確認してはいるが、彼の説明はあまりにも自分にとって都合の良いものに作り変えられていることを証明した。。イランに関する知識がほとんどなくペルシャ語も話せなかったにも関わらず、彼は即座に効果的なプロパガンダを実行することが出来たと説明している。アイゼンハワー大統領は、そのレポートを「三流のスパイ小説」のようなものだと見做していた。

だが彼の本は、今でも大きな負の遺産を残している。彼はそのクーデターをアメリカとイギリスの策謀であるかのように描き、モサデグの多くの失政には不注意にも免除を与えている。だが彼の失脚は遥かに複雑な要因が絡んでいる。モサデグは最初、アメリカを同盟相手だと見做していた。そしてアメリカもその友好的な態度に応えた。最初にイランに注意を向けたのはフランクリン・ルーズベルトだった。第二次世界大戦中に、アメリカ軍の兵士はイラン国内を横断する鉄道網を警備するために駐留していた。そしてルーズベルトが1943年のテヘラン会議でスターリンやチャーチルと別れていた丁度その頃に、彼は空港でGeneral Patrick Hurleyと会談を行い新しい対イラン政策を策定した。その主要な目標にはイランに民主主義をもたらすこと、イランを植民地にしていた勢力を排除することが含まれていた。今であれば、このような目標はネオコンサバティブだとして非難されていたかもしれない。だがこの政策はイランを民主主義のモデルケースとして、そして植民地支配が終わった後の中東の要とすることを明白に狙いとしていた。

モサデグもポスト植民地後のイランに対する約束を歓迎しているように思われた。パクス・アメリカーナの熱烈な支持者として、モサデグはタイムズ紙の「Man of the Year」として表紙を飾ったほどだった。だが植民地後のイランの民主化を支持するという考えは必然的に、同盟相手であったイギリスとの対立を生み出すことになった。ウィンストン・チャーチルはイランの石油採掘場と精製所を国有化したことに対してモサデグを厳しく攻撃した。イギリスはそれらを彼らの正当な財産だと考えていた。イギリス人たちはそれらの資産を軍事力で取り返そうという計画を立てていた。トルーマン政権、特に外交官だったAverell Harrimanはこの危機の解決策を探ろうと2年間の間懸命に働きかけていた。それらの努力が失敗に終わったとはいえ、彼らはイギリスの攻撃を防ぐことには成功した。イギリス側の文書によると、アメリカが妥協案を提案してくることに対してイギリスは非常に不快に思っていたらしく、イギリス人たちはアメリカがモサデグと陰で取引していると信じるようになるほどだった。

もちろん、このような都合の悪いことはイラン側の歴史の記述では少しも言及されることはない。皮肉なことにアメリカの政治家たちが謝罪する毎に本当のことであったかのように信じられていくが、イランの宗教指導者たちが語る歴史の記述でも当然言及されることはない。モサデグを失脚させたのは、イランの宗教指導者たちの彼に対する強い憎しみだったというのにだ。イランの宗教指導者たちの多くは、コメイニの教師であるAyatollah Abolgasem Kashaniのようなイスラム主義者も含めて、最初はモサデグを支持していた。だがモサデグが彼らの要求を拒否し始めた1952年の終わりごろには、宗教指導者たちは彼に敵意を抱くようになっていた。Ayatollah Kashaniはモサデグに要職の大臣を任命する権限を自分に与えるようにと圧力を掛けたが失敗に終わった。他の宗教指導者のトップは(シーア派の司祭にとって脅威だった)バハーイー教の行政活動を完全に禁止するよう要求した。宗教指導者たちのモサデグに対する忠誠は、彼がイランの共産党Tudeh Partyにより権限を与えることを許したことからさらに低下した。モサデグ自身は共産主義を嫌悪していたが。モサデグに対する宗教指導者たちの忠誠が大幅に低下すると、彼の不可避の運命は次第に明らかとなっていった(この頃にはモサデグは大衆をも迫害していた)。

このような状況下で、CIAの活動はモサデグの失脚に少しの影響も与えなかった。実際、イランの歴史にアメリカが介入した最大の出来事であるこのクーデターの際には、今では大悪魔に不満を述べている宗教指導者たちの側に立っていた。

アメリカのイランとの関わりは多くの人がしているような単純な話で語れるものではない。一方ではアメリカは国王を支援し体制を樹立する手助けをしたことがあった。その一方ではアメリカは静かにそれも継続的に国王に民主的な体制を築くようにと呼びかけ続けた(このことは中東のほぼすべての国に当てはまる)。アメリカは、国王が1957年に秘密警察を組織するのを手助けした。だがその翌年には、国王が独裁者への道を歩もうとしていたのを引きずり戻そうとした。それらの目標はアメリカにとって矛盾したものではなかった。国王よりましな政治家が明らかに存在していないことを危惧していたCIAや国務省でさえも、継続的な民主化への道が閉ざされればイランが革命の渦に飲み込まれるだろうことを公式の文書で警告していた。

だがこの分析は、国王とアメリカとの間に常に緊張状態を生み出すことになった。国王の権力が最も弱まった1950年代後半から1960年代の前半に掛けて、国王はアメリカ人たちが民主主義を称賛するのに頷いていた。例えば1958年には、アメリカの大使は国王に反汚職キャンペーンなどを行いイランの人々と話しあうなどの予防的措置をとるべきだと説得を試みた。それから程なくして、新しい反汚職法が成立し国王は初めて国民の前で記者会見を行った。だが国王がそれらのジェスチャーを本気で行ったことは一度もなかった。社会の変化は、彼が信じているところでは、鉄の拳によってのみもたらすことが出来る。アメリカ人たちが民主化を国王に求めた時に、彼はあらゆるトリックを使って話題を逸らしたのだった。国王は、民主化への圧力は共産主義者を利するだけだと強く主張した。その上、反汚職法はすぐに記憶から忘れ去られ遺恨によって生じた言い争いを解決するためだけに用いられた。

アメリカは国王の絶対君主的な振る舞いに不満をつのらせていった。1958年に国王に対するクーデターが勃発した時に、アメリカは静観を決め込んだ。General Valiollah Qaraniの国王に対するクーデター計画が発覚した時にもアメリカは何もしなかった。むしろ、CIAのテヘラン支部はイランの報道局が反体制のプロパガンダを出版していたのを手助けしていた。CIAは国王への忠誠心が揺らいでいるとのメッセージを国王に伝えるために。CIAのAllen Dullesが1958年の国家安全保障委員会で証言しているように、「民主化へ向けての思い切った改革が行われないかぎり国王の将来は危険だと私たちは今でも考えている」。

アメリカと国王との対立は、最高裁判事William Douglasの考えをイラン政策の下としていたケネディ政権の時に頂点に達した。イランを幾度も訪れた経緯から、国王は手に負えない程の専制君主で民主化への動きを強力に支援すべきだと提案した(ケネディ大統領も同じ考えだった)。政権のタスクフォースは、国王は大変不安定な状態にありその国王と関係をもつことを疑問視した。この時代はAlliance for Progress and the Peace Corpsの時代だった。ケネディ政権は非民主的な同盟には(これまでの政権と比較して)それほど寛大ではなかった。だがこのタスクフォースはイランを見捨てることの戦略的コストはあまりにも大きすぎると結論した。ケネディ大統領はアイゼンハワーの方針をさらに強化することに注力した。

ケネディにとって幸運だったことに、当時イランには改革派の首相Ali Aminiがいた。アメリカと彼が一緒になって、国王に改革を実行するように説得することが出来た。この改革は女性の参政権、小作農改革、軍事予算の削減などが含まれるある程度大胆なものだった。この改革により官僚制も近代的なものに刷新された(国王は他の首相たちよりも自分が、これらの改革をうまく実行できるとアメリカを説得したのだった)。

これらの改革(白の革命と呼ばれる)を実行したことにより、国王はAyatollah Khomeiniやその信者たちと対立することになった。彼らは、女性に参政権を与えることは売春への第一歩で土地改革は私有財産権の不可侵性を訴えるイスラムの教義に反すると見做していた。彼らはこれらの変化を、「腐敗、堕落、その他の不幸をもたらす不誠実なスローガン以外の何物でもない」と非難した。

だが、ほとんどの部分において、白の革命は成功だった。イランの経済はそれまでの封建制度状態を克服して急成長を始めた。女性は政治や労働に参加するようになり、イランの秘密警察までもが拷問を中止し開放されたほどだった。

イスラム主義者が怒りの対象としていた、女性の参政権や近代化ではあったが、その怒りはイラン国民全体に共有されたものでも何でもなかった。コメイニやその信者たちは左翼の概念を持ってもしくは左翼の概念をイスラム風に装飾したものでもって、陰から非難することぐらいしか出来なくなっていた。イスラム主義者たちは古いマルクス主義の概念を自分たちの説話の中に翻訳した。「プロレタリアート」は「Mostaz’af(弱者の意味)」と置き換えられた。「ブルジョア」は「Tagut(神に対する反乱)」と置き換えられた。「帝国主義」は「Estekbar(傲慢)」と置き換えられた。

国王を説得している間に、アメリカもまた国王の敵対者の機嫌を損ねることをした。1964年に、国防総省はイランに滞在しているアメリカ人に訴訟を免除する条約を国王と交わした。1世紀にわたって、イランは大国同士(主にロシアとイギリス)の争いの場だった。この条約はその頃の記憶を思いださせるものだった。国王がこの条約にサインしたことはイスラム主義者たちを怒らせた。

ニクソン大統領が改革に止めを刺した。彼は国王に民主化を促すことをやめてしまった。この圧力は限定的な効果しか与えていなかったというのは恐らくそうだろう。イランにヨーロッパ風の王家をもたらしたのではないのは確かだ。だがこの圧力はイランを良い方向に向かわせていた。さらに重要なことに、国王が絶対君主として振る舞うのに制限を掛けていた。だがニクソンとキッシンジャーはそのような効果に重きを置いていなかった。そして、彼らは今では国王がイランを完全に掌握していると結論してしまった。それ故、イランで革命が起こる心配は不要と結論した。故に、アメリカのイランに対する諜報活動は第二次世界大戦時の水準にまで引き下げられることになった。そしてアメリカ人は反対されながらも国王に対する接触をやめてしまった。恐らくこれが1979年のクーデターをCIAがまったく察知できなかった理由だろう。

アメリカからの圧力がなくなったことにより、国王は傍若無人に振る舞うようになった。1970年代に原油価格が高騰してお金が洪水のように流れてきたことにより、国王はCIAが呼ところの「大盤振る舞い政策」を開始した。国王は求められればほとんど誰にでもお金を与えた。それには西側の国も含まれた。国王は以前から民主主義は「白人に」適したシステムだと評していた。今では、彼はその考えに従って行動するようになっていた。1975年に、イランは一党独裁制に移行すると国王は宣言した。事実上のファシズム宣言だった。国王に対する都市部近郊でのゲリラ活動が活発になり、それに対応して秘密警察による検閲と拷問が吹き荒れるようになった。

もちろん、この専制政治は大反発を招いた。イランが革命に突入しようとしていた丁度その頃、1978年の冬に、イランへの渡航経験が豊富だった国務省のGeorge Ballにイランの状況を独立に評価するようにとの命令を発した。ニクソン・ドクトリンが、と彼は答え、壊滅的な状況をつくりだしたと結論した。民主化への急速な歩みのみがこの危機を回避できる、とも彼は結論した。だがその変革を実行できる人間はほとんどいない、とも彼は付け加えた。アメリカはイランの軍部に対して多大な影響力を持っていることを活かして革命の首謀者を説得しようと試みた。だがそれらの努力はほとんど変化を生み出さなかった。

要するに、アメリカとイランの実際の関係は宗教指導者たちやほとんどのアメリカ人が聞かされているより複雑なものだ。ほとんどの期間において、アメリカはイランの民主化をサポートしてきた。そして国王に民主化を促さなくなった時、イランに悲劇が起こった。

アメリカはイランで現在起こっている民主化を求める運動を支持するべきか?ワシントンで最もよく聞かれる不安は、それが逆効果になるのではというものだ。イランのナショナリズムを刺激し宗教指導者たちを利することになるという考えだ。だがそのような考えはこの体制のことを誤解している。アメリカが何をしようとも(完全に沈黙していようとも)この体制は自分たちの敵対相手のことをアメリカの手先だと攻撃するだろう。この攻撃は最早宗教指導者たちにとっては政治的に必要不可欠なもので彼らの世界観に深く組み込まれたものだ。その上、宗教指導者たちがどれだけ大悪魔を非難しようとも、イラン国民自体はアメリカを支持し続けるだろう。

(以下、省略)

2016年7月12日火曜日

黒人は賃金面で見て差別されていない?

The Journey to Becoming a School Reformer

Timothy Taylor

Roland Fryerは経済学者から学校教育者へと転身した自らの体験に関する興味深いエッセイを「21st Century Inequality: The Declining Significance of Discrimination」というタイトルで執筆している。

彼は「2003年当時40歳だった人々の記録に着目しながらNational Longitudinal Survey of Youthのデータ」を詳しく分析したと語っていた。彼は黒人と白人の間の生のデータの結果の違いを幾つかの点から調べていた。それから彼は当時40歳だった黒人が8学年生(大体、中学2年生ぐらい)だった頃に受けていたテストの点数でそのデータを調整した。これは、8学年生当時にテストの点数が同じだった黒人と白人とを比較していることを本質的に意味している。非常に驚くことに、40歳時点での黒人と白人との間の賃金格差はテストの点数を調整するときれいさっぱり消えてしまった。平均的に見ると、黒人の大学入学率は白人よりも低い。だが8学年生時でのテストの点数で調整すると黒人の大学入学率は白人よりも大幅に高いことが判明した。黒人と白人の間の大きな違いの幾つかはテストの点数を調整した後でも残る。だがその違いの大きさは大きく縮小する。

それを彼はグラフにしている。

彼はその時に考えたことを以下のように説明している。

「子供の時に存在していた学習到達度の違いは大人になってからの社会的格差の多くの点と相関していると私は報告した。当時は、これでとりあえずの疑問は解消したと思っていた。だが8学年生時の学習到達度の違いはどのように説明すれば良いのだろうという疑問が気になるようになってきた。私は、過去10年間この疑問に取り組んできた。私は、差別がアメリカから消滅したと言っているわけではない(他に超差別国家がたくさん存在する)。だがこれらのデータは、差別ではなく学習到達度の違いが黒人と白人の違いの多くを説明する決定的な要因だと考えるようになった」。

次の疑問は、黒人の生徒が学習到達度において白人に遅れを取り出すのは何時頃か?ということだった。

「黒人の生徒が学習到達度において遅れを見せ始めるのはいつごろか?発達心理学者は9ヶ月の幼児の認知能力をBayley Scale of Infant Developmentという尺度で測ることに成功している。私たちは集められた1万1000人の幼児のデータを調べ、人種間に有意なスコアの違いが存在しないということを発見した。だが幼児たちが2歳になるとギャップが開き始めることが確認でき、幼児が大きくなるとともにそのギャップも拡大する。5歳時までには、認知能力において黒人の子供は白人の子供に8ヶ月の遅れを見せ始める。そして8学年生になると、そのギャップは12ヶ月にまで拡大する」。

8学年生時に見られる認知能力のギャップがすでに5歳時において見られるということは私にとって驚きだった。以前にもコメントしているように、このことに対する考えうる一つの対策の可能性としては生まれてから数年以内のリスク児童に対する家庭訪問プログラムをもっと真剣に考えることだろう。考えうる他の対応としては3歳から5歳時までの学校前プログラムをさらに拡充することだ。だがこれらのプログラムが永続する効果を与えるのかどうかを調べた証拠はむしろ否定的だ(リスク児童に限ってみれば効果は少し強まるが)。

Fryerの方法論は学習到達度をどのように改善させるかに集中していた。そして経済学者として、彼は本を読みテストにパスした生徒に金銭を支払うという極めて単純な試みをスタートさせた。ここにその時の様子を彼がスケッチしたものがある。

「傲慢な経済学者の常として、これは簡単だろうと初めは考えていた。要するに、単にインセンティブを変えればいいだけと考えていた。良いパフォーマンスを示した学校に報酬を与えるというのが私の提案だった」。

「このような試みを始める前に誰かが私に警告していてくれたらと今では思う。このような試みが、これほどの信じられない程の不評を買うなど誰も教えてくれなかった。大勢が私の家を取り囲んで、生徒の学習意欲を壊そうとしているとか黒人にとって最悪のことをしているなど集中砲火を浴びせたのだった」。

「私たちはこの試みを実行に移すことを決断し10億円の資金を集めた。私たちはダラス、ヒューストン、ワシントンDC、ニューヨーク、シカゴでインセンティブを提供した。私たちは(単に遊び心から)教師にもインセンティブを与えてみた。これで関わった人すべてにインセンティブが与えられたことになる」。

「数多くの批判的な報道、怒れる市民たち、そして10億円の資金から学んだことは、子どもたちはインセンティブに反応するということだった。だが教師へのインセンティブは有意な影響を与えていなかった。インセンティブは期待(予想)通りの働きを見せてくれた。ところが、インセンティブはそれ以上の働きは見せてはくれなかった。私は、インセンティブは(例えそれが与えられなかった、与えられなくなったとしても)教師や子どもたちに学校は素晴らしいものだと伝え、子どもたちは課題により真剣に取り組むようになるだろうと考えていた。違っていた(要するに、一時的なインセンティブには永続的な効果はなかった)。一冊の本を読むのに2ドルのインセンティブを与える。子どもたちはもっと本を読むようになった。それは予想通りの結果だった。このことは私に、子どもたちにインセンティブが与える力、その限界を教えてくれた」。

そこでFryerとその仲間たちは、成功したチャーター・スクールとそこまでは成功していないチャーター・スクールを調べることにした。彼らは数年間に渡ってインタビューとビデオ撮影を行い5つのルールを見いだした。

More time in school.

(省略)

Human Capital Management

(省略)

Small Group Tutoring

「3番めの方法は一般的には私がチュータリングと呼んでいるものだが、関係者たちはスモール・ラーニング・コミュニティと呼んでいる。基本的に、彼らが行っていることは1つのクラスの子どもたちを6人以下にして学習させることだ」。

Data-Driven Instruction and Student Performance Management.

「成績の良くない学校もデータが重要だということを知っている。私が中等部の学校を訪れた時、彼らは喜んでデータルームを見せてくれた。私がよく見掛けたものは緑、黄色、赤のスティッカーが貼られたチャートだった。それは成績の良い生徒、普通の生徒、良くない生徒を表していた。成績の良くない生徒にどのようなことをするようになったのかと尋ねると彼らは、まだその段階にまでは行っていない、だが少なくとも成績の悪い生徒を把握していると答えた。同じ質問を成績の良い学校のデータルームで尋ねると、彼らは3つのブロックに分けて教育を行っていると答えた。彼らは成績の良くない生徒を把握しているだけではなく、生徒が学習につまる部分やパターンを識別しそれに対する処方を2日か3日で提供すると答えた。彼らは将来の授業のためにそれらをもっと改善する必要があるとも答えた」。

Culture and Expectations

(省略)

この5つのルールはあまりに普通すぎると思ったのではないか?彼らは自分たちのアプローチを実践するため20のヒューストンの公立学校でテストを行った。それには4つの高校も含まれ参加した生徒の人数は1万6000人だった。

「このテストを開始する前は、小学校での黒人と白人の学習到達度の違いは5ヶ月ほどだった。数カ月後には、学習到達度の違いは算数ではほぼ消滅し国語でもある程度の改善が見られた。中学校では、数学の点数は恐らく4年から5年でギャップが埋まるだろうというペースで上昇していた。だが読解では改善が見られなかった。他の結果としては高校の卒業生の100%が2年制から4年制の大学に進学するだけの学力があると認められていた」。

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