CIAは、1964年にブラジルで起こったクーデターに対するアメリカ政府の関与について「サニタイズドされた(秘密にするべき部分が削除されたという意味)」文書を公開した。これはブラジル人にとって悪いニュースだった。アメリカが民主的に選ばれたブラジルの政府を転覆させたというよく聞かされる主張とは異なり、自分たちの民主主義を破壊した責任のほとんどはブラジル人にあることをこの文書は示しているからだ。ブラジルの軍部が非常に手際よくクーデターを実行したためにアメリカはすることがほとんどなかった。この文書(オースティンにあるリンドン・ジョンソン大統領図書館で見られる)には、クーデター時のブラジル軍の動きと軍隊の内部政治のことが主に記されている。この文書よりずっと前に国防総省より公開されていた文書は1964年4月の「Operation Brother Sam」の詳細だけを記していて、ブラジルの大統領Joao Goulartを転覆させようとするアメリカ政府の陰謀と左翼世界では語られた。もちろん、当然の懸念に対応するためにアメリカ政府は行動を行った。ブラジルの子供が学校で習うように、ワシントンは「想定外の危機が発生した時にタスクを指導、実行することによりこの地域でのアメリカのプレゼンスを確保するために」この海域に空母を送った。当時のペンタゴンは秘密の電報でミッションのことを婉曲的に語っている。暴徒の鎮圧のために250丁のショットガンがブラジルの警察に送られた。そのことをブラジルの学生は知らないかもしれない。燃料タンクもまたブラジル国境沿いのウルグアイの海岸に送られた。そして催涙ガスを含む110トンの備品が緊急空輸のために準備されていた。このどれ一つをとってみても緊急時には普通に行われていることだ。だがそのようなことはブラジルの学校では教えられないだろう。
また、必要になった時にはサンパウロにアメリカの海軍を上陸させるというバックアッププランもワシントンでは議論されていなかった。ワシントンで議論されていた予想もつかない緊急事態への対応策とは、「補給ラインを防衛するためにアメリカ軍が送られるかもしれない、駐留アメリカ軍、物流サポート基地を保護するために部隊が派遣される可能性がある」というものだった。
左翼の大統領が支配したリオデジャネイロを空爆するというプランももちろんなかった。だが(もし必要で、それもジョンソン大統領の許可があればという前提で)超緊急時に空爆を行うという計画が話し合われることもあった。その主な目標はサンパウロだった。当時の諜報活動によると、サンパウロはブラジル軍の支援のための物流基地をアメリカ軍に提供するだろうと云われていた。
新しいCIAの文書はその同じ日に行われたPresident GoulartとGeneral Amaury Kruel(これまでのところ一度も反乱軍に対する支持を変えなかった唯一の勢力であるSecond Brazilian Armyの司令官)との会談の様子をほぼリアルタイムで詳しく伝えている。大統領は、「彼からの支援をこれからも保持したいと語った」とCIAの文書は記している。だがKruelは大統領が今も続けている政治同盟についての譲歩を求めた。「大統領は、政治同盟に少しでも変更を加える前にまずはGeneral Worker’s Commandの指導者たちに相談しなければならないと答えた。この時点でKruelは会談を切り上げ、そして個人的友情や司令官としての立場以上に大統領を支援しようという気持ちはなくなったと語ってこの場を去っている」。そしてこれがクーデターの始まりもしくは終わりとなった。彼は軍隊を引き連れて反乱軍のキャンプに向かった。大統領は国外逃亡し二度と戻らなかった。国務長官のDean Ruskはリオデジャネイロにいるアメリカ大使に電報を打った。「ブラジル軍を補助するための限定的な任務に向かっていた海軍特殊部隊は任務を中断し戻っていった。私たちは元の目的はずっと秘密にしておくつもりだ」。もちろん、そのようなことは行われなかった。
「中道派」の歴史学者はこのクーデターを、現在のブラジルの経済的成長の礎になったと議論するだろう。だが逃亡先のアルゼンチンで亡くなったGoulartは彼のやり方の方がブラジルをより速く発展させたと主張しただろう。だがこの新しいCIAの文書で最も興味深いのはCIAの情報源は誰だったのかということかもしれない。
まとめると、アメリカから予備の備品が送られていたとはいえ、このクーデターはほとんどが「メイド・イン・ブラジル」だった。
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