Separation of Commercial and Investment Banking: The Morgans vs. The Rockefellers
Alexander Tabarrok
グラス・スティーガル法とも呼ばれる1933の銀行法により商業銀行と投資銀行は分離された。預金保険機構が設立され要求預金への利子支払いは禁止され連邦準備制度が再編された。グラス・スティーガル法は銀行システムが長年抱える問題を修正し銀行危機の発生を抑えることを目的に設計された公益のための法律だと一般的に説明される。だがここではこの法は銀行のライバル同士が争いライバルを貶めるために争った結果出来たものだということを説明するだろう。
ここで問題として取り上げるのは商業銀行と投資銀行業務の分離、グラス・スティーガル法のその他の側面、そしてチャールズ・グラスその人自身だ。公益のためという詭弁が商業銀行と投資銀行の分離の正当化に用いられた。White (1986), Benston (1990), Kroszner and Rajan (1991)、そしてその他による最近の研究によりこの詭弁が理論からも実証からも正当化出来ないことが示されている。預金部門と投資部門とを統合している銀行の方がそうでない銀行よりも安全であったことが示されそれらの銀行の方が質の高い証券を発行していたことが示された。商業銀行と投資銀行の分離はモルガン家の競争力を引き下げるためのロックフェラー家による試みだったと解釈したほうがよく理解できるだろう。モルガン家もロックフェラー家も1930年代には絶大な政治的、経済的権力を持っていた。モルガン家とロックフェラー家のライバル関係を理解するにはその背景を幾らか知る必要がある。
Public-Interest Arguments
グラス・スティーガル法の賛同者は商業銀行と投資銀行の分離により安全性が高まり銀行と顧客との利害の対立が緩和されたと主張する。だがどちらの主張も少し調べただけで根拠が無いことが明らかになる。基本的な事柄として、多くの証券(株や債券など)は貸出に比べてリスクが少ない。証券投資は流動性も高く(多くの人が情報を知ることが出来るという意味で)透明性も高い。流動性の高さにより銀行はポートフォリオを素早く再調整して倒産を防ぐことが出来るし透明性の高さにより(多くの人が知ることが出来るので)預金者や債券保有者による銀行へのモニタリング能力の効率性が高まる。仮にすべての証券がすべてのローンよりもリスクが高いと仮定してもポートフォリオの多様化の利益が損なわれるために銀行に証券への投資を禁止することは銀行のリスクを高めることになる(Macey 1991)。
最高裁、経済学者、歴史家、その他はPecora-Glass Subcommittee Hearingの原稿やその他の公聴会の原稿を証券業務部門を持つ銀行が預金者に過度のリスクを負わせたことの証拠として無批判に引用してきた。だが関連するすべての文書を綿密に読み上げることによりBenston (1990)はその結論を支持する証拠が何一つないことを発見した。その公聴会は根拠のない主張とこじつけとしか言いようのない大胆な仮説で満ち溢れていた。そして統合された銀行のほうがリスクが高いという証拠は一度も提示されていなかった。その公聴会の後、分離された銀行のほうが統合された銀行よりもリスクが高いことを強く示唆する証拠が発見され続けた。White (1986)は証券部門を持たない銀行と証券部門を持つ銀行の1930年代の倒産率を調べた。彼は証券部門を持たない銀行の倒産率が証券部門を持つ銀行の4倍以上であることを発見した。
統合銀行に対する反対理由として他に挙げられるものには証券部門を持つ銀行は利害の対立を抱えているというものがある。グラス・スティーガル法の強力な提唱者であったBulkley議員はその内容を以下のようにまとめた。
「明らかに、預金者に何も売るものを持っていない銀行家はそうでない銀行家に比べて利害を離れた助言を行うことが出来るし預金者の安全を優先することが可能になる」(一部省略)。
この議論は一夜にして夜逃げするような関係性にであれば当てはまるかもしれない。だが長期の利益と評判を分析に一度含めると結論は逆になる。投資の助言者が悪い助言を行って信頼を損ねれば損ねるほど悪い助言は行われ難くなる。証券部門において悪い助言が行われれば投資家はその部門から離れてその銀行からも資金を引き出すようになる。それ故、投資家は投資銀行にのみ投資している場合よりも統合された銀行に投資している場合のほうがより強い懲罰的な行動を持って罰することが可能となる。
利害の対立の議論は投資家自身の行動によっても否定されている。統合銀行(証券子会社を持つまたは証券部門を持つ)は1920年代に債券発行市場でのシェアを急拡大させていた。例えば、すべての債券発行に占める統合銀行のシェアは1927には36.8%だったが1930には61.2%を占めるに至っていた。仮に利害の対立の議論が正しいのであれば投資家は統合銀行に殺到するのではなくむしろ離れると予想するだろう。この投資家行動にきちんとした理由を与えているのは統合銀行が投資銀行よりも(事後的に見て)質の高い証券を発行していたというKroszner and Rajan (1994)の発見だろう。
公益を優先したという説明は事実からはかけ離れている。それ故、グラス・スティーガル法を説明するには議会が恐ろしく間違えたかこの法の目的がそもそも公益のためではなかったかどちらかの説明が必要になる。
The Rockefellers and the House of Morgan[8]
連邦政府を除いて、アメリカの歴史上で最も大きく最も重要な経済的、政治的権力を握っていたのがモルガン家とロックフェラー家だった。戦前の日本の財閥のように、モルガン家とロックフェラー家はアメリカ経済のかなりの部分を支配していた。政治資金に対する制限がなかった時代には両家は政治にも大きな影響を与えた。1933にはペコラ委員会の調査によりJ.P. Morganにより市場価格よりはるかに低い価格で株を与えられた「preferred list」には少なくとも一人以上の歴代大統領、両政党からの財務省長官の補佐役、共和党全国委員会の議長、民主党全国委員会の議長、多くの政治家、閣僚などが含まれていたことが明らかになっている(Chernow 1990, p. 370)。ロックフェラー家も拠点であるオハイオから政治に深く関わっていた。伝説的な共和党員でオハイオ州の議員であったマーク・ハンナはジョン・D・ロックフェラーのスクールメイトであり生涯に渡る親友でもありビジネス上のパートナーでもあった(Lundberg 1937, p. 58)。ロックフェラーがMcKinley政権に影響を与えたのはハンナを通してであった。1896の彼の大統領選挙での当選はスタンダード・オイル社からの(当時のお金で)25万ドルの寄付によって支えられていた。この寄付は1900の選挙の時にも行われている。何百、何千という選挙資金がロックフェラーの他の会社や関連団体から流れ込んできた。
ロックフェラーはネルソン・アルドリッチを通しても政治に影響を与えていた。彼は30年間ロードアイランド州の議員を勤め、この期間に彼の純資産は5万ドルから少なくとも12億ドルへと増加していた(Lundberg 1937, p. 61)。上院金融委員会の議長としてまた共和党の院内幹事として彼は国内のお金の流れを支配した。「Enemies of the Republic(共和国の敵)」というタイトルのMcClures誌の記事でLincoln Steffensはアルドリッチを「アメリカ合衆国の支配者」と呼びCosmopolitan誌のDavid Graham Phillipsは「The Treason of the Senate(上院の大逆者)」で「Aldrich, the Head of it All」というタイトルで1章丸ごとを彼に当てた。アルドリッチのロックフェラーとの結び付きは経済的なもの、政治的なものから始まった。だが彼の娘アビー・アルドリッチがジョン・D・ロックフェラーJrと結婚するとより親密なものとなった(アビーの兄、Winthropも商業銀行と投資銀行の分離の主要人物だった)。アルドリッチを通してロックフェラーは連邦準備制度の創設に非常に大きな影響力を持った。アルドリッチは1910のNational Monetary Commissionの議長を勤め、所謂「アルドリッチ・プラン」が提唱されカーター・グラス議員や彼の助言者だったH. Parker Willisらによって僅かに修正が加えられただけで連邦準備制度の元となった(Friedman and Schwartz 1963, p. 171)。ほとんど知られていないことは彼のプランはジョージア州のJekyll Islandで開かれた1910の非公開の会合でAldrich, Morgan, Rockefeller, and Kuhn, Loeb partnersらによって長時間に渡って議論されたものだということだ(Chernow 1990, p. 127; Rothbard 1984; Kolko 1963, chap. 8)。
ロックフェラーの富と権力はスタンダード・オイル社から流れ込んでいた。だが後にはそれが銀行や他の産業へも拡大していく。モルガン家の力はJ.P.モルガンの富から生じているのではなくモルガン家の戦略によって生じていた。20世紀の始め頃にアメリカの産業は大転換期を迎えていた。J.P.モルガンとその銀行はこの大転換期のまさに中心にいた。1901にモルガンは過去最大規模の合併を取り仕切りGNPが2000億ドルと云われている時代に時価総額が140億ドルのU.Sスチールを誕生させた。同規模の合併は現在では時価総額3兆5000億ドルに匹敵するだろう。モルガンへの手数料だけでも1993のドルで1500億ドルだったと云われている。モルガンの影響力はその当時のすべての産業に及び特に鉄道、電力、鉄鋼で顕著だった。
1912のPujo hearingsではJ.P.モルガンとその関連会社が数十社ものアメリカの大企業の筆頭株主であったことを明らかにした。合計で彼らは112の企業で72の取締役を送り込んでいた(Chernow 1990, p. 12)。DeLong (1991; 1992, p. 17)はモルガングループがアメリカのすべての産業の40%と何らかの形で関わりがあったとしている。その21年後でもPecora hearingsは同様の結論に達している。モルガンとその関連会社は89の企業に126の取締役を送り込み合計で2000億ドルの資産を持ちGNPの3分の1を占めるに至っていた(Chernow 1990, p. 366)。
政治的力はモルガン家の経済力から生じていた。1896にWilliam Jennings Bryanは民主党の全国大会で「人々を金の十字架に磔てはならない」という有名な嘆きとともにスピーチを締め括っている。彼はここでその前年に金本位制を救ったJ.P.モルガンに関して語っている。モルガンの関連会社とその提携企業は大統領から政治的エリートまでを含む重要な助言者であったし金銭的な支援者でもあった。例えば、1904の選挙時にはモルガン銀行はセオドア・ルーズベルトに15万ドルの選挙資金を与えその見返りにモルガンのパートナーであるGeorge Perkinsがルーズベルトの政治的任期を通して彼の主要な助言者となった(Chernow 1990, p. 112)。1912にルーズベルトに立候補するように圧力を掛け選挙資金に50万ドルを提供したのはPerkinsだ(Hofstadter 1974, p. 304)。
1912の民主党全国大会でBryanはモルガン家の代理人が民主党の大統領指名を受けるべきではないとモルガン家を再び攻撃した。だがモルガンの力が絶大だった1924には彼はモルガン家の顧問弁護士だったJohn W. Davisの指名を受け入れざるを得なかった。
モルガンとロックフェラーの権力に誰も対抗しようとしなかったという訳ではない。先程も述べたようにWilliam Jennings Bryanはモルガン家とロックフェラー家を執拗に攻撃した。そしてウッドロウ・ウィルソン大統領の下で国務長官として連邦準備制度に対する支配と戦った。彼の仲間はLouis Brandeis, Felix Frankfurter, and Lincoln Steffensだった。特にBrandeisは弁護士としてウィルソン大統領の顧問として最高裁判所の陪席判事として生涯を通してJ.P.モルガンとその関連会社を攻撃した。Huey Long, Robert LaFolletteやその他の政治家は超巨大なトラストを恐れる大衆から根強い支持を得ていた。恐らくより重要だったのは政治家同士が両家の陣営に別れてお互いを攻撃しあっていたことだ。モルガン家を支持する者達はロックフェラー家を攻撃していた。ロックフェラー家を支持する者達はモルガン家を攻撃していた。実際、大衆の怒りとロックフェラー家による政治操作が商業銀行と投資銀行の分離の原動力だった。
モルガン家とロックフェラー家はよく衝突していた。モルガン家の主な競争相手はRockefellers (oil, banking)、Harrimans (railroads)、Kuhn, Loeb and Lehman Brothersなどの銀行家らの恐るべき連合だった。20世紀に入ると、John D. Rockefeller, Jr., W. Averell Harriman, son of E.H. HarrimanそしてKuhn, Loeb, and Lehman Brothersなどの銀行家の第2世代がモルガン家に対する攻撃を主に煽動していた。1933の商業銀行と投資銀行の分離はこの闘争の最も重要な局面だった。この攻撃はChase National BankのWinthrop Aldrichによって導かれ組織された。
Genesis of the Banking Act
ジョン・D・ロックフェラーが銀行業に参入するようになったのはスタンダード・オイル社の現金をNational City Bankに投資してからだ。James StillmanはNational Cityの社長で彼の息子の2人はウィリアム・ロックフェラー(ジョン・D・ロックフェラーの兄弟)の娘達と結婚した。これにより親戚関係が結ばれることになった(Lundberg 1937, p. 10)。スタンダード・オイル社の現金預金はすさまじい額だったのでこれだけでNational Cityはニューヨークで最大の銀行の一つとなったほどだった。ロックフェラー家、特にJohn D. Rockefeller, Jrは石油業界のように銀行業界を支配したいと欲していた。そして1911にはRockefeller, Sr.はEquitable Trustに莫大な投資を行った。Equitableを拠点として、再三に渡る合併を繰り返しロックフェラー家は銀行業界で勢力を急速に拡大していった(see Johnson 1968, pp. 80–110)。1920には小さな銀行にしか過ぎなかったEquitableは全米で8番目に巨大な金融機関へと変貌を遂げ1920年代に渡ってさらに合併を繰り返し勢力を拡大させていった。
1929にはWinthrop Aldrichはこの銀行の頭取になっていた。Winthrop AldrichはJohn D. Rockefeller, Jr.の義理の兄弟で有名なネルソン・アルドリッチ(連邦準備制度の主要な創設者)の息子だった。弁護士修行中だった彼は銀行業界に入ることを嫌がっていた。だがキャリアの初めから彼を導いたJohn D. Rockefeller, Jr.の要請を受けて彼は銀行業界に入った(see Johnson 1968, p. 93; and Collier and Horowitz 1976, p. 159)。彼の下でEquitableはモルガンが支配していたChase National Bankと合併した。その当時のチェースの取締役はAlbert H. Wigginだった。彼はFirst National BankのGeorge F. Baker and Henry P. Davisonの子飼いで両者はモルガングループで重責を担っていた(Johnson 1968, p. 101)。Aldrichは新しく組織されたチェース銀行の頭取となりWigginは理事会の議長となった。
チェース銀行の頭取の立場は当初は強いものではなかった。1920から1929の期間に5人がチェース銀行の頭取を務めたがWigginだけが2年以上務めた。このことは権力を持っていたのはWigginであることを示している。だがAldrichは自分に忠実な人間を昇進させ銀行取締役の人数を削減することにより自身の権力を急速に確立していった。AldrichがWiggin, Thomas Lamontそしてモルガン家と協力関係にある他の取締役たちによる反対にあうという不都合な社内での闘争が後に続いて起こった。1931頃にはAldrichは支配的な権力を確立しWigginは不自然な額の年金を受け取って退職に追いやられた。
ルーズベルトが大統領に就任した1933は大恐慌のまさに真っ只中だった。失業者は1500万人を超え実質GNPは1929の水準から30%近く減少し投資はほとんど皆無という状態だった。大衆は1920年代の金融的好況をよく覚えておりこれをそもそもの原罪だと見做した。1920年代には恐れられ敬われていた銀行家や投資家は1930年代には逆の立場に追い込まれることになった。政治家は大衆の敵意を煽った。ルーズベルト大統領はかつてない権力を要求する際に、「大衆の利益のために自己を犠牲にするよく訓練された忠実な軍隊に育て上げる」と称して「金貸し」を「無慈悲な」、「恥知らずな」、「利己的だ」と攻撃した。議会ではPecora公聴会とNye公聴会で同様の非難が巻き起こった。1936のNye公聴会ではモルガン家を「死の商人」と呼びアメリカの第一次大戦への参戦の責を負わせた。Pecora公聴会は銀行の歴史を「利益、強欲、拡大、権力、支配」だと示そうとした。
大恐慌とPecora公聴会によって煽動された敵意がなければ商業銀行と投資銀行の分離は恐らく起こらなかっただろう。Pecora公聴会ではジャック・モルガンが1930以降所得税を支払っていないことが明らかにされた。20人のモルガンの協力者たちは1931または1932以降誰も所得税を支払っていないことも明らかにされた(Chernow 1990, p. 366)。モルガングループのその他のメンバー、特に狙い打たれたAlbert Wigginも節税対策を行っていると非難された。実は「節税対策」と呼ばれたものはすべて合法でほとんどが株価の下落による大損失によるものであったのだが大衆は激怒した。Seligman (1982, p. 29)は銀行家が「ほとんどヒステリーとしか言い様のない怒りの矛先」になったと報告している。大衆は何らかの行動を求めたがその方向を決定するのはWinthrop Aldrichなどの内部者に任せられた。
Aldrichとロックフェラーグループは当初Pecora公聴会による攻撃に晒されていた。Wigginは未だにChase Nationalの代表だと思われていた。そして彼に対する不人気がこの銀行に反映されることになった。他のロックフェラーの銀行、National Cityも取り調べられその会長Charles Mitchellと最高責任者Hugh Bakerは1933の2月に辞任に追い込まれることになった。Aldrichはロックフェラー家の銀行を守る方法を探さなければならなかった。
3月7日に、National City Bankの新会長James Perkinは銀行の証券部門を切り離すと突然宣言した。3月8日に、AldrichはPerkinの突然の宣言に続き銀行業界の多くから「裏切り」と呼ばれる改革案を大々的に打ち出した。Aldrichは投資銀行と商業銀行との結び付きを「ほぼ不可避的に破滅へと導く」として断罪した。彼は商業銀行と投資銀行業務とを分離させるためにグラス法案を支持した。だが彼はその法案が不十分だと主張した。彼は(1)プライベートバンクは商業銀行と同程度に規制されなければならない(2)プライベートバンクは商業銀行部門と投資銀行部門とを分離させられなければならない(3)銀行と証券会社の役員間の相互交流を認めるべきではないと主張した。
彼の戦略の目的は同時代の人々には明白だった。NYTは3月9日に「Aldrich Hits at Private Bankers in Sweeping Plan for Reforms」と記事にしている。NYTは「ジョン・D・ロックフェラーの代理人である」Aldrichが「ウォールストリートの最も強大な一族」を攻撃していると記した。他の何よりも、「J.P.モルガンとその関連会社への直接攻撃」と題したプログラムがそれを物語っている。「W.W. Aldrich、モルガン家への初めての挑戦者」という紹介がWorld Telegramに数日後に掲載された。ウォールストリート・ジャーナルはより婉曲的だったが、それでもロックフェラー家によるモルガン家への陰謀を仄めかさざるを得なかった。
モルガン家にとって最も重要だったのはAldrichの挙げた3番目のポイント、役員間の相互交流の禁止だった。グラス・スティーガル法のどの側面よりも商業銀行と投資銀行業務を分離するものはこの点だった。モルガンの20人のパートナーの中で10人が少なくとも一つの商業銀行の取締役だった(New York Times, March 9, 1933)。その上に、First National BankのGeorge F. Bakerのようにモルガンが支配している銀行の支配者たちが他の銀行の取締役であることも頻繁にあった。モルガングループの銀行間の横の結び付きがどれぐらい強かったかはJ.P.モルガンとその関連会社が60人にも及ぶ他の銀行の支配者や取締役へ「貸出」を行っていたことを明らかにしたペコラ委員会の発見に最も表れているだろう。ジャック・モルガンが述べているように「彼らは我々の友達であり、彼らが良き友人で信頼でき忠実であることを我々はよく知っていた」。
モルガングループの横の結び付き(銀行だけでなく多くの企業にもそれが及んだ)は逆選択やモラルハザードの問題の克服に加えて取引費用や情報費用を節約できたことを意味する。モルガン家の銀行は大きくなかった。だが商業銀行との結び付きによりJ.P.モルガンとその関連会社は非常に少ない自己資本額で大量の証券を発行することが出来た。例えば、U.S.スチールが新規の証券を発行しようと思ったらFirst Nationalのような巨大関連商業銀行からの融資を受けたJ.P.モルガンとその関連会社によって購入されるだろう。U.S.スチールはすべての過程が瞬時に完了する必要はないしあるモルガンの銀行から他のモルガンの銀行へと預金を移し替えるだけで済むだろう(そして資金が実際に支出される時にはゼネラル・エレクトリックのようなこれまたモルガンと関係のある企業に向かうだろう)。それからJ.P.モルガンとその関連会社は証券を売りさばきそれを預金する。他の投資銀行は大量の証券発行をファイナンスすることが出来なかった。何故ならその過程で必要とされる巨額の資金を調達できたのは巨大商業銀行だけで他の投資銀行はそれとの強い結び付きを欠いていたからだ。情報が無料であればどのような規模の投資銀行であっても良い投資に対しては資金を調達することが出来ただろう。だが取引費用とモラルハザードが存在する世界では商業銀行と強い結び付きのない投資銀行への信用は制限された。グラス・スティーガル法の本質は預金銀行が証券を発行することの禁止ではなく役員間の相互交流の禁止だった。Aldrichだけが議会を通してこれを推し進めた。
商業銀行と投資銀行業務の分離はChase Nationalや他のロックフェラー家の銀行にとっても負担だった。実際、WigginとChaseの議長Charles McCainが分離の最も声の大きい批判者たちだった。それ故、Aldrichの行動は政府による参入の制限を通した利益追求の試みと単に理解することは出来ない。彼の行動はライバルの費用を押し上げる試みと理解すべきだ。「ライバルの費用を引き上げる」理論は自身の費用よりライバル会社の費用が増加する場合において産業の費用を引き上げることにより企業の利益を拡大することが出来ることを示している(さらに需要が弾力的すぎない場合)。産業全体の費用を押し上げる規制を考えてみよう。だが企業間の異質性によりB社の費用がA社の費用よりも増加したとする。2つの影響がある。費用と価格が上昇するので産業全体は縮小するだろう。そしてA社は顧客の幾分かを失う。だがA社はB社から離れた顧客の幾分かを得るだろう。A社の価格はB社ほどは上昇していないからだ。すなわち、第2の効果が第1の効果を上回ればA社はその規制から利益を得ることが出来る。この種の行動の古典的な例は資本集約的企業が労働集約的ライバル企業に対して労働組合の組織化を支持することだ(Williamson 1968)。
この理論はモルガン家とロックフェラー家の闘争に一致する。モルガン家の強みは役員間の相互交流と統合された銀行の上に成り立っておりその傾向はロックフェラー家の銀行よりも遥かに強い。チェース銀行の証券子会社は大恐慌の間に利益を生み出していなかった。さらにペコラ委員会による調査を受けていた。このことは何故Aldrichが商業銀行と投資銀行部門の分離を議会に働きかけたのかを説明している。ロックフェラー家が分離によって受けるダメージはモルガン家よりも小さかった。さらに政権を支持することから得られる利益も計算できた。それが顕著に表れているように、Aldrichが分離を提案してからはチェース銀行への調査は即座に打ち切られた。
名目上の法案の作成者である、カーター・グラス議員は一度たりともプライベートバンクを規制したいと考えたことはなかった。Aldrichのロビー活動の前では、グラス法案の原稿には連邦政府の認可を受けた商業銀行である国法銀行だけが分離されると記されていた。グラス議員が民間銀行を規制することを躊躇ったのは憲法上の論争を巻き起こすことが理由の一部にあっただろう。だがグラス議員もまたモルガン家と結び付きがあった。グラス議員はモルガンのパートナーRussell Leffingwellの親友だった。(モルガンから出向した)彼はグラス議員がウィルソン大統領の下で財務省の長官だった頃の主席補佐の一人だった。彼らはこの頃に極めて親しい仲となりLeffingwellがモルガン家に戻ってからも頻繁に連絡を取り合った。彼はグラス議員の選挙資金への寄付を募りグラス議員は彼の銀行政策に関するコメントをメモに記した。ルーズベルト大統領がグラスに財務省長官のポストを打診した時に彼はLeffingwellと他のモルガン家の人間であるParker Gilbertを部下にしたいと示唆した。ルーズベルト大統領はモルガン家との如何なる関わり合いも拒否しグラスの選択に拒否権を発動した。このことがグラス議員が財務省長官のポストを最終的に拒否された理由の一つになった。Aldrichの提案がグラス・スティーガル法案の原稿に記された時にグラス議員はモルガン家を攻撃するその提案に彼が反対していることをLeffingwellへの手紙に記している。だがルーズベルト大統領が彼の反対を押し切って無理やり法案にねじ込んだ。
Aldrichは突然の発表を行った後も積極的にロビー活動を行った。3月の間中、彼はニューヨークとワシントンD.C.を飛び回りルーズベルト大統領、グラス議員、商務省長官Daniel Roper、そしてルーズベルト政権のその他の高官と頻繁に会合を開いた(Johnson 1968, p. 156; Ferguson 1984, p. 82)。Roperは特に協力的だった。彼はグラス議員と銀行委員会に政権がAldrichの立場を支持するという内容の手紙を送った。グラス議員は彼の委員会が排他的な権限を持つと当然考えていたのでRoperの横やりは彼をいらいらさせるものだった。それにも関わらず、政権はその考えを暗に伝えることが出来た。Aldrichは所謂ハウス大佐からも支持されていた。ウッドロウ・ウィルソン大統領やフランクリン・ルーズベルト大統領の助言者として有名な人物だ。ハウス大佐の娘はGordon Auchinclossと結婚していた。彼はAldrichの最も親しい親友でチェース銀行の取締役の一人でもありAldrichはこのコネクションを用いてハウス大佐にロビー活動を仕掛けた(Ferguson 1984, p. 82)。ハウス大佐はまずRoperに、それからルーズベルト大統領と連絡を取り彼らにAldrichと会うよう要請した。ルーズベルト大統領の従兄弟で親友でもあるVincent Astorもまたチェース銀行の取締役の一人だった。彼もまた2つの集団を一つにするのに貢献した(Ferguson 1989, p. 15; Burch 1980, p. 21)。Aldrichのロビー活動はグラス議員が(嫌々ながら)彼の提案を原稿に加える事を承諾した時に実を結んだ。それらは預金預かり銀行に証券の発行または引受を禁止する第21項と役員間の相互交流を禁止する第32項に記されている。
Aldrichはさらにペコラ委員会の注意をチェース銀行から逸らさせモルガン家の方へと向けさせた。ニューヨーク・タイムズは1933の3月9日の記事で彼の改革案に隠された動機を以下のように結論づけている。
「上院の調査委員会のは計画は公式には公開されていないもののChase National Bankの証券子会社とその他の重要な銀行の提携先はNational City Companyの調査の時と比較して軽い調査しか行われないことが伝えられている」。
Aldrichの工作の結果は数週間後には明らかになった。ビジネスウィークは「証券子会社を傘下に持つ商業銀行は一息つき、上院の株式市場調査委員会の調査の目を自分達から(中略)J.P.モルガンとその関連会社などのプライベートバンクへと逸らすことに成功した」と述べている。
「ロックフェラー家に属し世界最大のChase National Bankの頭取であり工作を行ったと断定されているWinthrop Williams Aldrichは非常に狡猾だったので、モルガンとその仲間たちは今では彼と政府からの攻撃で板挟みになっている」。
W. Averell Harrimanの銀行、Brown BrothersとHarrimanもペコラ委員会からの調査を免れた(Schlesinger 1958, p. 441)。ハリマンはフランクリンとエレノア・ルーズベルトの長きに渡る友人だった。彼はその結び付きを用いてルーズベルト政権の中で影響力を行使した(Burch 1989, p. 55)。4代の政権に仕える間に彼は様々なポストに就任した。その中にはDepartment of Commerce’s Business Advisory Councilの議長、National Recovery Administrationの責任者、商務省長官などが含まれる(Kouwenhoven 1968, p. 202)。
Business Advisory Council (BAC)は基本的には大企業の為のロビー団体だったが正式に商務省の下部組織となってからはより強力になった。BACは1933の6月に確立され新政権と国の経済最高実力者との間の会合の場を提供した(Burch 1980, p. 18)。初期には中小企業にも開かれていたが(そしてモルガンとロックフェラー双方が参加していたが)ロックフェラーが急速に支配するようになる。ハリマン(ロックフェラーとビジネス上の結び付きがった)は初めはBACの副議長を務めそれから議長となる。AldrichもまたBACのメンバーで1934の11月にBACの銀行法制委員会の議長になった(Johnson 1968, p. 198)。ロックフェラーに関係する他のメンバーにはゼネラル・エレクトリックの最高経営責任者兼National City Bankの取締役Gerald Swopeやスタンダード・オイルの最高経営責任者Walter C. Teagleなどが含まれていた(Burch 1980, p. 19)。
(*全体的に元の文章に誤植が多すぎて意味が通らない部分があるかも)ハリマンの銀行であるブラウン・ブラザーズと1931に設立されたハリマン(最近合併してハリマン・ブラザーズとなった)は深い関係にあった。ブラウン・ブラザーズは当初は預金銀行業務と投資銀行業務を取り扱っていた。だが1929の株式市場の大暴落で巨額の損失を計上すると(ハリマンの指導の下)彼らは商業銀行業務に専念するようになった。1933頃には商業銀行での彼らの存在感は非常に大きなものとなっていた。それ故、ブラウン・ブラザーズとハリマンはモルガン家を攻撃することから利益を得る立場となる。ハリマンとロックフェラーの利害は一致していたしハリマン自身もルーズベルト大統領と深い関係にあったので彼と彼のパートナーは明らかに銀行法制に影響を及ぼす上で最高の立場にあった。
銀行法の第8項は公開市場操作の実行権をニューヨーク連銀から剥奪し連邦準備制度理事会へと移している。モルガン家は伝説的なニューヨーク連銀の総裁ベンジャミン・ストロングを通して1920年代の金融政策を支配した。第8項はストロング体制から利益を得ることが出来なかった人々からの反撃だった。
ストロングは生涯を通してモルガン家と深い関係を保った。Chernow (1990, p. 182)が記しているように、「ストロングの履歴はモルガンとの関係で埋め尽くされていた」。これは文字通りに正しい。1904に後にモルガンのパートナーとなるHarry DavisonはBankers Trust Companyの理事長として彼を雇う(モルガンの別のパートナー、Thomas Lamontの後継として)。バンカーズトラストはモルガンの銀行が合法的には取り扱うことの出来ないトラスト事業への架け橋としてモルガンによって設立された。1907の混乱期に、彼はモルガンの信頼できる代理人かつ監査役の一人となった。1914には彼はバンカーズトラストの最高経営責任者となっていて、そしてその年に新たに創設されたニューヨーク連銀の総裁になるかを打診された。
彼は当初はこの申し入れを断ろうと思っていた。だが長い休暇を過ごしている間に、Harry DavisonとPaul Warburgが彼の説得に成功する。ストロングはモルガンのパートナーHarry Davisonと特に親しい関係にあった。彼は幾つもの悲劇に遭遇する。彼の最初の妻が1905に自殺を図った。そして娘がその数年後に死亡する。悲劇に直面した彼は残された3人の子供を正しく育てることが自分に出来るのかと自問するようになる。そういう訳で彼の友人、Davisonは彼らを自分の家に招き入れたのだった。
ストロングがモルガン家と深い結び付きを持っていたからといって彼がモルガン家によって支配されていたことの証拠と見做すべきではない。それは安直な解釈であるし彼の伝説的な意志の強さを思えばあり得ないことだ。だがストロングはモルガン家に極めて近い環境にいた。同じ近所に住んでいたし同じカントリークラブに所属していた。これまで見てきたように彼の経歴はモルガンのパートナーによって導かれている。そして彼の最も親しい友人はモルガンのパートナーだった。ストロングの伝記者、Lester Chandler (1958, p. 25)は「彼の考えと将来に大きな影響を与えた3人の人間はHenry P. Davison、Thomas W. Lamont、Dwight W. Morrowだった」と記している。彼ら全員がJ.P.モルガンの為に働きモルガン家の実質的なパートナーだった。
ベンジャミン・ストロングと同様にモルガン家は強固な国際主義者だった。モルガン家のニューヨーク支部J.P.モルガンとその関連会社に対応するのはロンドンのMorgan Grenfell and CompanyとパリのMorgan et Compagnieだった。Edward GrenfellはMorgan Grenfell and Companyの上級パートナーでありイングランド銀行の取締役でモルガンのイギリス政界との主要な架け橋だった。第一次世界大戦の開戦期に、Davisonはイギリスへ行きGrenfellの助けを借りてJ.P.モルガンとその関連会社がアメリカでのイギリスの購入代理人として指名される契約を取り付けることに成功した。フランスもモルガンを資本の出資人かつ購入代理人として指名した。手数料を1%として(さらにU.S.スチールのようにモルガン関連会社からの直接購入も併せて)モルガンはイギリスだけでも30億ドルの物資の供給を独占的に行った。これはイギリスの総購入額の半分に相当する。
購入に際してイギリスとフランスは巨額の借入を必要とした。そして戦争期間を通してモルガンは15億ドルを調達した。この借入をファイナンスするのにモルガンはストロングに協力を依頼した。連邦準備制度を実質上完全な支配下に置いていた彼は巨額の資金を商業銀行に貸し付け貿易をファイナンスするための市場を創設し金の流入を倍にし同盟国へローンが流れるように公開市場操作を行い金融を緩和した。戦争が終わるとストロングとモルガン家は国際貿易を維持するために協同して働き、特にイギリスが金本位制に復帰することに尽力した。彼の役割としてストロングはアメリカの金利がイギリスの金利より低くなるように公開市場操作を行った。イギリスから金が流出しないためにだ。ストロングはアメリカのクレジット市場の状態も緩和したままにした。ヨーロッパへの復興債がアメリカで活発に購入されるようにするためだ(e.g., Chandler 1958, pp. 271–71 and note 42)。モルガン家は投機的な攻撃から守るためにイギリス財務省に対して1億ドルの信用を確保することによって協力した。
ストロングの行動は少なくとも3つの集団から怒りを買った。シカゴの銀行家たち、カリフォルニア人のA.P. Giannini、カーター・グラス議員だ。孤立主義者と中西(北)部の親ドイツ派(*恐らくドイツからの移民が大量にいたため)がモルガン家のイギリスへの財政支援を戦争挑発的だとして非難した。シカゴでは親ドイツ派の預金者がイギリスへの貸付に協力した銀行へのボイコットを煽動した(Chernow 1990, p. 200)。さらに、1920年代後半にはシカゴの銀行は短期の政府証券に大量に投資していた。従ってストロングの低金利政策は彼らの利益を直撃することになった(see Epstein and Ferguson 1984, and Chandler 1958, pp. 439–53, on the ire of the Chicago bankers)。1928頃にはシカゴの銀行はストロングの支配に対して真っ向から反対の立場を表明し、シカゴの新聞各紙はストロングの辞任を要求していた(Time, July 30, 1928)。
カリフォルニア州の銀行家、A.P. Gianniniもまたニューヨークの銀行から締め出されていると感じていた。彼はニューディールの銀行改革を強く支持していた。その結果としてカリフォルニア州の大企業を代表する非公式のワシントンへの大使となった。彼はグラス・スティーガル法の幾つかの小さな条項の草案者となった。特に、国法銀行の少数株主に持ち株に応じて連邦準備制度理事会の代表者を選出する権利を与えた第5114項は彼の手によるものだ。彼はこの少し前にNational City Bankの10分の1の株式を取得したが権力からは締め出されたことがあった。彼はこれをモルガンの反対のせいだと信じていた。彼はモルガンが支配するニューヨーク連銀よりもワシントンが支配する連邦準備制度のほうが利益を得られるだろうと考えルーズベルトと政権内部の人間、特にMarriner Ecclesと議論を交わし制度理事会の権力構造をシフトさせるためのロビー活動を行った。
カーター・グラス議員もストロングの公開市場操作の支配に反対していた。他の多くの人と同様にグラス議員もストロングが単独で強力な権力を手にしすぎていると考え彼の金融拡張的政策が1920年代の過剰な投機と株式市場の熱狂の最大の原因だと考えていた(see Chandler 1958, pp. 163–64, 449–50)。連邦準備制度の人選にいつでも反対していたわけではなかったが彼はニューヨーク連銀の無制限の権力に対しては反対する人選を行っていた(Chandler 1958, p. 449)。
これら3つの敵対勢力に加えてカリスマ的なベンジャミン・ストロングの1928の死去が重なってモルガン家が連邦準備制度の支配を保持することは難しくなった。第8項はその論理的結末だった。
Conclusion
商業銀行と投資銀行業務の分離が公益に基づくためのものだったとする議論は根拠がなく銀行法の議会の通過を説明することが出来ないように思われる。この分離は民間の利益に基づくためのものだったという説明のほうが出来事をよく説明できる。Shughart (1988), Macey (1984), and Benston (1982)は投資銀行家のような民間利益団体がこの銀行法から利益を得たと議論した。彼らはこれらの利益団体がこの法案を支持したと推測したが直接的な証拠は示していなかった。
この記事での歴史記録的方法ではどのような人物がこの分離を推進したのかをそれぞれ個人として特定している。他の誰よりもロックフェラーの代理人であったWinthrop Aldrichがこの分離の推進者だった。W. Averell Harrimanのような反モルガン銀行派の助けを借りてAldrichはこれを議会に通過させた。この分離はロックフェラー銀行グループの費用も引き上げたがそれ以上にモルガン家に大きな損害を与えた。そしてモルガン家に対してロックフェラー家に決定的な優位性を与えた。