Alexander Tabarrok
グラス・スティーガル法とも呼ばれる1933の銀行法により商業銀行と投資銀行は分離された。預金保険機構が設立され要求預金への利子支払いは禁止され連邦準備制度が再編された。グラス・スティーガル法は銀行システムが長年抱える問題を修正し銀行危機の発生を抑えることを目的に設計された公益のための法律だと一般的に説明される。だがここではこの法は銀行のライバル同士が争いライバルを貶めるために争った結果出来たものだということを説明するだろう。
グラス・スティーガル法の賛同者は商業銀行と投資銀行の分離により安全性が高まり銀行と顧客との利害の対立が緩和されたと主張する。だがどちらの主張も少し調べただけで根拠が無いことが明らかになる。基本的な事柄として、多くの証券(株や債券など)は貸出に比べてリスクが少ない。証券投資は流動性も高く(多くの人が情報を知ることが出来るという意味で)透明性も高い。流動性の高さにより銀行はポートフォリオを素早く再調整して倒産を防ぐことが出来るし透明性の高さにより(多くの人が知ることが出来るので)預金者や債券保有者による銀行へのモニタリング能力の効率性が高まる。仮にすべての証券がすべてのローンよりもリスクが高いと仮定してもポートフォリオの多様化の利益が損なわれるために銀行に証券への投資を禁止することは銀行のリスクを高めることになる(Macey 1991)。
最高裁、経済学者、歴史家、その他はPecora-Glass Subcommittee Hearingの原稿やその他の公聴会の原稿を証券業務部門を持つ銀行が預金者に過度のリスクを負わせたことの証拠として無批判に引用してきた。だが関連するすべての文書を綿密に読み上げることによりBenston (1990)はその結論を支持する証拠が何一つないことを発見した。その公聴会は根拠のない主張とこじつけとしか言いようのない大胆な仮説で満ち溢れていた。そして統合された銀行のほうがリスクが高いという証拠は一度も提示されていなかった。その公聴会の後、分離された銀行のほうが統合された銀行よりもリスクが高いことを強く示唆する証拠が発見され続けた。White (1986)は証券部門を持たない銀行と証券部門を持つ銀行の1930年代の倒産率を調べた。彼は証券部門を持たない銀行の倒産率が証券部門を持つ銀行の4倍以上であることを発見した。
統合銀行に対する反対理由として他に挙げられるものには証券部門を持つ銀行は利害の対立を抱えているというものがある。グラス・スティーガル法の強力な提唱者であったBulkley議員はその内容を以下のようにまとめた。
この議論は一夜にして夜逃げするような関係性にであれば当てはまるかもしれない。だが長期の利益と評判を分析に一度含めると結論は逆になる。投資の助言者が悪い助言を行って信頼を損ねれば損ねるほど悪い助言は行われ難くなる。証券部門において悪い助言が行われれば投資家はその部門から離れてその銀行からも資金を引き出すようになる。それ故、投資家は投資銀行にのみ投資している場合よりも統合された銀行に投資している場合のほうがより強い懲罰的な行動を持って罰することが可能となる。
利害の対立の議論は投資家自身の行動によっても否定されている。統合銀行(証券子会社を持つまたは証券部門を持つ)は1920年代に債券発行市場でのシェアを急拡大させていた。例えば、すべての債券発行に占める統合銀行のシェアは1927には36.8%だったが1930には61.2%を占めるに至っていた。仮に利害の対立の議論が正しいのであれば投資家は統合銀行に殺到するのではなくむしろ離れると予想するだろう。この投資家行動にきちんとした理由を与えているのは統合銀行が投資銀行よりも(事後的に見て)質の高い証券を発行していたというKroszner and Rajan (1994)の発見だろう。
公益を優先したという説明は事実からはかけ離れている。それ故、グラス・スティーガル法を説明するには議会が恐ろしく間違えたかこの法の目的がそもそも公益のためではなかったかどちらかの説明が必要になる。
The Rockefellers and the House of Morgan[8]
連邦政府を除いて、アメリカの歴史上で最も大きく最も重要な経済的、政治的権力を握っていたのがモルガン家とロックフェラー家だった。戦前の日本の財閥のように、モルガン家とロックフェラー家はアメリカ経済のかなりの部分を支配していた。政治資金に対する制限がなかった時代には両家は政治にも大きな影響を与えた。1933にはペコラ委員会の調査によりJ.P. Morganにより市場価格よりはるかに低い価格で株を与えられた「preferred list」には少なくとも一人以上の歴代大統領、両政党からの財務省長官の補佐役、共和党全国委員会の議長、民主党全国委員会の議長、多くの政治家、閣僚などが含まれていたことが明らかになっている(Chernow 1990, p. 370)。ロックフェラー家も拠点であるオハイオから政治に深く関わっていた。伝説的な共和党員でオハイオ州の議員であったマーク・ハンナはジョン・D・ロックフェラーのスクールメイトであり生涯に渡る親友でもありビジネス上のパートナーでもあった(Lundberg 1937, p. 58)。ロックフェラーがMcKinley政権に影響を与えたのはハンナを通してであった。1896の彼の大統領選挙での当選はスタンダード・オイル社からの(当時のお金で)25万ドルの寄付によって支えられていた。この寄付は1900の選挙の時にも行われている。何百、何千という選挙資金がロックフェラーの他の会社や関連団体から流れ込んできた。
ロックフェラーはネルソン・アルドリッチを通しても政治に影響を与えていた。彼は30年間ロードアイランド州の議員を勤め、この期間に彼の純資産は5万ドルから少なくとも12億ドルへと増加していた(Lundberg 1937, p. 61)。上院金融委員会の議長としてまた共和党の院内幹事として彼は国内のお金の流れを支配した。「Enemies of the Republic(共和国の敵)」というタイトルのMcClures誌の記事でLincoln Steffensはアルドリッチを「アメリカ合衆国の支配者」と呼びCosmopolitan誌のDavid Graham Phillipsは「The Treason of the Senate(上院の大逆者)」で「Aldrich, the Head of it All」というタイトルで1章丸ごとを彼に当てた。アルドリッチのロックフェラーとの結び付きは経済的なもの、政治的なものから始まった。だが彼の娘アビー・アルドリッチがジョン・D・ロックフェラーJrと結婚するとより親密なものとなった(アビーの兄、Winthropも商業銀行と投資銀行の分離の主要人物だった)。アルドリッチを通してロックフェラーは連邦準備制度の創設に非常に大きな影響力を持った。アルドリッチは1910のNational Monetary Commissionの議長を勤め、所謂「アルドリッチ・プラン」が提唱されカーター・グラス議員や彼の助言者だったH. Parker Willisらによって僅かに修正が加えられただけで連邦準備制度の元となった(Friedman and Schwartz 1963, p. 171)。ほとんど知られていないことは彼のプランはジョージア州のJekyll Islandで開かれた1910の非公開の会合でAldrich, Morgan, Rockefeller, and Kuhn, Loeb partnersらによって長時間に渡って議論されたものだということだ(Chernow 1990, p. 127; Rothbard 1984; Kolko 1963, chap. 8)。
1912のPujo hearingsではJ.P.モルガンとその関連会社が数十社ものアメリカの大企業の筆頭株主であったことを明らかにした。合計で彼らは112の企業で72の取締役を送り込んでいた(Chernow 1990, p. 12)。DeLong (1991; 1992, p. 17)はモルガングループがアメリカのすべての産業の40%と何らかの形で関わりがあったとしている。その21年後でもPecora hearingsは同様の結論に達している。モルガンとその関連会社は89の企業に126の取締役を送り込み合計で2000億ドルの資産を持ちGNPの3分の1を占めるに至っていた(Chernow 1990, p. 366)。
政治的力はモルガン家の経済力から生じていた。1896にWilliam Jennings Bryanは民主党の全国大会で「人々を金の十字架に磔てはならない」という有名な嘆きとともにスピーチを締め括っている。彼はここでその前年に金本位制を救ったJ.P.モルガンに関して語っている。モルガンの関連会社とその提携企業は大統領から政治的エリートまでを含む重要な助言者であったし金銭的な支援者でもあった。例えば、1904の選挙時にはモルガン銀行はセオドア・ルーズベルトに15万ドルの選挙資金を与えその見返りにモルガンのパートナーであるGeorge Perkinsがルーズベルトの政治的任期を通して彼の主要な助言者となった(Chernow 1990, p. 112)。1912にルーズベルトに立候補するように圧力を掛け選挙資金に50万ドルを提供したのはPerkinsだ(Hofstadter 1974, p. 304)。
モルガンとロックフェラーの権力に誰も対抗しようとしなかったという訳ではない。先程も述べたようにWilliam Jennings Bryanはモルガン家とロックフェラー家を執拗に攻撃した。そしてウッドロウ・ウィルソン大統領の下で国務長官として連邦準備制度に対する支配と戦った。彼の仲間はLouis Brandeis, Felix Frankfurter, and Lincoln Steffensだった。特にBrandeisは弁護士としてウィルソン大統領の顧問として最高裁判所の陪席判事として生涯を通してJ.P.モルガンとその関連会社を攻撃した。Huey Long, Robert LaFolletteやその他の政治家は超巨大なトラストを恐れる大衆から根強い支持を得ていた。恐らくより重要だったのは政治家同士が両家の陣営に別れてお互いを攻撃しあっていたことだ。モルガン家を支持する者達はロックフェラー家を攻撃していた。ロックフェラー家を支持する者達はモルガン家を攻撃していた。実際、大衆の怒りとロックフェラー家による政治操作が商業銀行と投資銀行の分離の原動力だった。
ジョン・D・ロックフェラーが銀行業に参入するようになったのはスタンダード・オイル社の現金をNational City Bankに投資してからだ。James StillmanはNational Cityの社長で彼の息子の2人はウィリアム・ロックフェラー(ジョン・D・ロックフェラーの兄弟)の娘達と結婚した。これにより親戚関係が結ばれることになった(Lundberg 1937, p. 10)。スタンダード・オイル社の現金預金はすさまじい額だったのでこれだけでNational Cityはニューヨークで最大の銀行の一つとなったほどだった。ロックフェラー家、特にJohn D. Rockefeller, Jrは石油業界のように銀行業界を支配したいと欲していた。そして1911にはRockefeller, Sr.はEquitable Trustに莫大な投資を行った。Equitableを拠点として、再三に渡る合併を繰り返しロックフェラー家は銀行業界で勢力を急速に拡大していった(see Johnson 1968, pp. 80–110)。1920には小さな銀行にしか過ぎなかったEquitableは全米で8番目に巨大な金融機関へと変貌を遂げ1920年代に渡ってさらに合併を繰り返し勢力を拡大させていった。
1929にはWinthrop Aldrichはこの銀行の頭取になっていた。Winthrop AldrichはJohn D. Rockefeller, Jr.の義理の兄弟で有名なネルソン・アルドリッチ(連邦準備制度の主要な創設者)の息子だった。弁護士修行中だった彼は銀行業界に入ることを嫌がっていた。だがキャリアの初めから彼を導いたJohn D. Rockefeller, Jr.の要請を受けて彼は銀行業界に入った(see Johnson 1968, p. 93; and Collier and Horowitz 1976, p. 159)。彼の下でEquitableはモルガンが支配していたChase National Bankと合併した。その当時のチェースの取締役はAlbert H. Wigginだった。彼はFirst National BankのGeorge F. Baker and Henry P. Davisonの子飼いで両者はモルガングループで重責を担っていた(Johnson 1968, p. 101)。Aldrichは新しく組織されたチェース銀行の頭取となりWigginは理事会の議長となった。
大恐慌とPecora公聴会によって煽動された敵意がなければ商業銀行と投資銀行の分離は恐らく起こらなかっただろう。Pecora公聴会ではジャック・モルガンが1930以降所得税を支払っていないことが明らかにされた。20人のモルガンの協力者たちは1931または1932以降誰も所得税を支払っていないことも明らかにされた(Chernow 1990, p. 366)。モルガングループのその他のメンバー、特に狙い打たれたAlbert Wigginも節税対策を行っていると非難された。実は「節税対策」と呼ばれたものはすべて合法でほとんどが株価の下落による大損失によるものであったのだが大衆は激怒した。Seligman (1982, p. 29)は銀行家が「ほとんどヒステリーとしか言い様のない怒りの矛先」になったと報告している。大衆は何らかの行動を求めたがその方向を決定するのはWinthrop Aldrichなどの内部者に任せられた。
彼の戦略の目的は同時代の人々には明白だった。NYTは3月9日に「Aldrich Hits at Private Bankers in Sweeping Plan for Reforms」と記事にしている。NYTは「ジョン・D・ロックフェラーの代理人である」Aldrichが「ウォールストリートの最も強大な一族」を攻撃していると記した。他の何よりも、「J.P.モルガンとその関連会社への直接攻撃」と題したプログラムがそれを物語っている。「W.W. Aldrich、モルガン家への初めての挑戦者」という紹介がWorld Telegramに数日後に掲載された。ウォールストリート・ジャーナルはより婉曲的だったが、それでもロックフェラー家によるモルガン家への陰謀を仄めかさざるを得なかった。
モルガン家にとって最も重要だったのはAldrichの挙げた3番目のポイント、役員間の相互交流の禁止だった。グラス・スティーガル法のどの側面よりも商業銀行と投資銀行業務を分離するものはこの点だった。モルガンの20人のパートナーの中で10人が少なくとも一つの商業銀行の取締役だった(New York Times, March 9, 1933)。その上に、First National BankのGeorge F. Bakerのようにモルガンが支配している銀行の支配者たちが他の銀行の取締役であることも頻繁にあった。モルガングループの銀行間の横の結び付きがどれぐらい強かったかはJ.P.モルガンとその関連会社が60人にも及ぶ他の銀行の支配者や取締役へ「貸出」を行っていたことを明らかにしたペコラ委員会の発見に最も表れているだろう。ジャック・モルガンが述べているように「彼らは我々の友達であり、彼らが良き友人で信頼でき忠実であることを我々はよく知っていた」。
モルガングループの横の結び付き(銀行だけでなく多くの企業にもそれが及んだ)は逆選択やモラルハザードの問題の克服に加えて取引費用や情報費用を節約できたことを意味する。モルガン家の銀行は大きくなかった。だが商業銀行との結び付きによりJ.P.モルガンとその関連会社は非常に少ない自己資本額で大量の証券を発行することが出来た。例えば、U.S.スチールが新規の証券を発行しようと思ったらFirst Nationalのような巨大関連商業銀行からの融資を受けたJ.P.モルガンとその関連会社によって購入されるだろう。U.S.スチールはすべての過程が瞬時に完了する必要はないしあるモルガンの銀行から他のモルガンの銀行へと預金を移し替えるだけで済むだろう(そして資金が実際に支出される時にはゼネラル・エレクトリックのようなこれまたモルガンと関係のある企業に向かうだろう)。それからJ.P.モルガンとその関連会社は証券を売りさばきそれを預金する。他の投資銀行は大量の証券発行をファイナンスすることが出来なかった。何故ならその過程で必要とされる巨額の資金を調達できたのは巨大商業銀行だけで他の投資銀行はそれとの強い結び付きを欠いていたからだ。情報が無料であればどのような規模の投資銀行であっても良い投資に対しては資金を調達することが出来ただろう。だが取引費用とモラルハザードが存在する世界では商業銀行と強い結び付きのない投資銀行への信用は制限された。グラス・スティーガル法の本質は預金銀行が証券を発行することの禁止ではなく役員間の相互交流の禁止だった。Aldrichだけが議会を通してこれを推し進めた。
商業銀行と投資銀行業務の分離はChase Nationalや他のロックフェラー家の銀行にとっても負担だった。実際、WigginとChaseの議長Charles McCainが分離の最も声の大きい批判者たちだった。それ故、Aldrichの行動は政府による参入の制限を通した利益追求の試みと単に理解することは出来ない。彼の行動はライバルの費用を押し上げる試みと理解すべきだ。「ライバルの費用を引き上げる」理論は自身の費用よりライバル会社の費用が増加する場合において産業の費用を引き上げることにより企業の利益を拡大することが出来ることを示している(さらに需要が弾力的すぎない場合)。産業全体の費用を押し上げる規制を考えてみよう。だが企業間の異質性によりB社の費用がA社の費用よりも増加したとする。2つの影響がある。費用と価格が上昇するので産業全体は縮小するだろう。そしてA社は顧客の幾分かを失う。だがA社はB社から離れた顧客の幾分かを得るだろう。A社の価格はB社ほどは上昇していないからだ。すなわち、第2の効果が第1の効果を上回ればA社はその規制から利益を得ることが出来る。この種の行動の古典的な例は資本集約的企業が労働集約的ライバル企業に対して労働組合の組織化を支持することだ(Williamson 1968)。
この理論はモルガン家とロックフェラー家の闘争に一致する。モルガン家の強みは役員間の相互交流と統合された銀行の上に成り立っておりその傾向はロックフェラー家の銀行よりも遥かに強い。チェース銀行の証券子会社は大恐慌の間に利益を生み出していなかった。さらにペコラ委員会による調査を受けていた。このことは何故Aldrichが商業銀行と投資銀行部門の分離を議会に働きかけたのかを説明している。ロックフェラー家が分離によって受けるダメージはモルガン家よりも小さかった。さらに政権を支持することから得られる利益も計算できた。それが顕著に表れているように、Aldrichが分離を提案してからはチェース銀行への調査は即座に打ち切られた。
名目上の法案の作成者である、カーター・グラス議員は一度たりともプライベートバンクを規制したいと考えたことはなかった。Aldrichのロビー活動の前では、グラス法案の原稿には連邦政府の認可を受けた商業銀行である国法銀行だけが分離されると記されていた。グラス議員が民間銀行を規制することを躊躇ったのは憲法上の論争を巻き起こすことが理由の一部にあっただろう。だがグラス議員もまたモルガン家と結び付きがあった。グラス議員はモルガンのパートナーRussell Leffingwellの親友だった。(モルガンから出向した)彼はグラス議員がウィルソン大統領の下で財務省の長官だった頃の主席補佐の一人だった。彼らはこの頃に極めて親しい仲となりLeffingwellがモルガン家に戻ってからも頻繁に連絡を取り合った。彼はグラス議員の選挙資金への寄付を募りグラス議員は彼の銀行政策に関するコメントをメモに記した。ルーズベルト大統領がグラスに財務省長官のポストを打診した時に彼はLeffingwellと他のモルガン家の人間であるParker Gilbertを部下にしたいと示唆した。ルーズベルト大統領はモルガン家との如何なる関わり合いも拒否しグラスの選択に拒否権を発動した。このことがグラス議員が財務省長官のポストを最終的に拒否された理由の一つになった。Aldrichの提案がグラス・スティーガル法案の原稿に記された時にグラス議員はモルガン家を攻撃するその提案に彼が反対していることをLeffingwellへの手紙に記している。だがルーズベルト大統領が彼の反対を押し切って無理やり法案にねじ込んだ。
Aldrichはさらにペコラ委員会の注意をチェース銀行から逸らさせモルガン家の方へと向けさせた。ニューヨーク・タイムズは1933の3月9日の記事で彼の改革案に隠された動機を以下のように結論づけている。
Aldrichの工作の結果は数週間後には明らかになった。ビジネスウィークは「証券子会社を傘下に持つ商業銀行は一息つき、上院の株式市場調査委員会の調査の目を自分達から(中略)J.P.モルガンとその関連会社などのプライベートバンクへと逸らすことに成功した」と述べている。
W. Averell Harrimanの銀行、Brown BrothersとHarrimanもペコラ委員会からの調査を免れた(Schlesinger 1958, p. 441)。ハリマンはフランクリンとエレノア・ルーズベルトの長きに渡る友人だった。彼はその結び付きを用いてルーズベルト政権の中で影響力を行使した(Burch 1989, p. 55)。4代の政権に仕える間に彼は様々なポストに就任した。その中にはDepartment of Commerce’s Business Advisory Councilの議長、National Recovery Administrationの責任者、商務省長官などが含まれる(Kouwenhoven 1968, p. 202)。
Business Advisory Council (BAC)は基本的には大企業の為のロビー団体だったが正式に商務省の下部組織となってからはより強力になった。BACは1933の6月に確立され新政権と国の経済最高実力者との間の会合の場を提供した(Burch 1980, p. 18)。初期には中小企業にも開かれていたが(そしてモルガンとロックフェラー双方が参加していたが)ロックフェラーが急速に支配するようになる。ハリマン(ロックフェラーとビジネス上の結び付きがった)は初めはBACの副議長を務めそれから議長となる。AldrichもまたBACのメンバーで1934の11月にBACの銀行法制委員会の議長になった(Johnson 1968, p. 198)。ロックフェラーに関係する他のメンバーにはゼネラル・エレクトリックの最高経営責任者兼National City Bankの取締役Gerald Swopeやスタンダード・オイルの最高経営責任者Walter C. Teagleなどが含まれていた(Burch 1980, p. 19)。
(*全体的に元の文章に誤植が多すぎて意味が通らない部分があるかも)ハリマンの銀行であるブラウン・ブラザーズと1931に設立されたハリマン(最近合併してハリマン・ブラザーズとなった)は深い関係にあった。ブラウン・ブラザーズは当初は預金銀行業務と投資銀行業務を取り扱っていた。だが1929の株式市場の大暴落で巨額の損失を計上すると(ハリマンの指導の下)彼らは商業銀行業務に専念するようになった。1933頃には商業銀行での彼らの存在感は非常に大きなものとなっていた。それ故、ブラウン・ブラザーズとハリマンはモルガン家を攻撃することから利益を得る立場となる。ハリマンとロックフェラーの利害は一致していたしハリマン自身もルーズベルト大統領と深い関係にあったので彼と彼のパートナーは明らかに銀行法制に影響を及ぼす上で最高の立場にあった。
ストロングがモルガン家と深い結び付きを持っていたからといって彼がモルガン家によって支配されていたことの証拠と見做すべきではない。それは安直な解釈であるし彼の伝説的な意志の強さを思えばあり得ないことだ。だがストロングはモルガン家に極めて近い環境にいた。同じ近所に住んでいたし同じカントリークラブに所属していた。これまで見てきたように彼の経歴はモルガンのパートナーによって導かれている。そして彼の最も親しい友人はモルガンのパートナーだった。ストロングの伝記者、Lester Chandler (1958, p. 25)は「彼の考えと将来に大きな影響を与えた3人の人間はHenry P. Davison、Thomas W. Lamont、Dwight W. Morrowだった」と記している。彼ら全員がJ.P.モルガンの為に働きモルガン家の実質的なパートナーだった。
ベンジャミン・ストロングと同様にモルガン家は強固な国際主義者だった。モルガン家のニューヨーク支部J.P.モルガンとその関連会社に対応するのはロンドンのMorgan Grenfell and CompanyとパリのMorgan et Compagnieだった。Edward GrenfellはMorgan Grenfell and Companyの上級パートナーでありイングランド銀行の取締役でモルガンのイギリス政界との主要な架け橋だった。第一次世界大戦の開戦期に、Davisonはイギリスへ行きGrenfellの助けを借りてJ.P.モルガンとその関連会社がアメリカでのイギリスの購入代理人として指名される契約を取り付けることに成功した。フランスもモルガンを資本の出資人かつ購入代理人として指名した。手数料を1%として(さらにU.S.スチールのようにモルガン関連会社からの直接購入も併せて)モルガンはイギリスだけでも30億ドルの物資の供給を独占的に行った。これはイギリスの総購入額の半分に相当する。
ストロングの行動は少なくとも3つの集団から怒りを買った。シカゴの銀行家たち、カリフォルニア人のA.P. Giannini、カーター・グラス議員だ。孤立主義者と中西(北)部の親ドイツ派(*恐らくドイツからの移民が大量にいたため)がモルガン家のイギリスへの財政支援を戦争挑発的だとして非難した。シカゴでは親ドイツ派の預金者がイギリスへの貸付に協力した銀行へのボイコットを煽動した(Chernow 1990, p. 200)。さらに、1920年代後半にはシカゴの銀行は短期の政府証券に大量に投資していた。従ってストロングの低金利政策は彼らの利益を直撃することになった(see Epstein and Ferguson 1984, and Chandler 1958, pp. 439–53, on the ire of the Chicago bankers)。1928頃にはシカゴの銀行はストロングの支配に対して真っ向から反対の立場を表明し、シカゴの新聞各紙はストロングの辞任を要求していた(Time, July 30, 1928)。
カリフォルニア州の銀行家、A.P. Gianniniもまたニューヨークの銀行から締め出されていると感じていた。彼はニューディールの銀行改革を強く支持していた。その結果としてカリフォルニア州の大企業を代表する非公式のワシントンへの大使となった。彼はグラス・スティーガル法の幾つかの小さな条項の草案者となった。特に、国法銀行の少数株主に持ち株に応じて連邦準備制度理事会の代表者を選出する権利を与えた第5114項は彼の手によるものだ。彼はこの少し前にNational City Bankの10分の1の株式を取得したが権力からは締め出されたことがあった。彼はこれをモルガンの反対のせいだと信じていた。彼はモルガンが支配するニューヨーク連銀よりもワシントンが支配する連邦準備制度のほうが利益を得られるだろうと考えルーズベルトと政権内部の人間、特にMarriner Ecclesと議論を交わし制度理事会の権力構造をシフトさせるためのロビー活動を行った。
商業銀行と投資銀行業務の分離が公益に基づくためのものだったとする議論は根拠がなく銀行法の議会の通過を説明することが出来ないように思われる。この分離は民間の利益に基づくためのものだったという説明のほうが出来事をよく説明できる。Shughart (1988), Macey (1984), and Benston (1982)は投資銀行家のような民間利益団体がこの銀行法から利益を得たと議論した。彼らはこれらの利益団体がこの法案を支持したと推測したが直接的な証拠は示していなかった。
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