1992のFederal Housing Enterprises Financial Safety and Soundness Act(GSE法)とHUDの1995のNational Homeownership Strategyにより底辺への競争が開始された。HUDは全住宅ローン産業を牽引することによりその目標を広範囲に順守させた。最も重大だったものは対象とした借り手に頭金を払わなくて済むようにしたことだ。政府がそのような貸出を(特に所得が中央値の80%を下回る人々に対して)業界に次々と迫ったので業界全体がそれに対応した。FHA、ファニー・メイ、フレディ・マック、銀行、サブプライム・ローンやAlt-Aの貸し手、住宅の初めての購入者、繰り返し購入している者、再融資の受け手など結果として全員のレバレッジが高まることになった。頭金などが求められなくなったためモラルハザードが蔓延するようになった。
「モラルハザードが至る所で見られ蔓延していた。最大の発生源がGSE(ファニーとフレディ)だった。GSEこそがモラルハザードだった」。
以下が彼の挙げた5つの原因だ。GSEが果たした役割を私が横に付け加えておいた。
1.「長きに渡る安定、住宅価格の大きな下落がほとんどなかったことを含む」。記録:2001とかなり早い段階からJosh Rosner and James Grantら二名はGSEによる信用の拡大がこの見掛け上の安定の原因であったことを示している。
2.「(政策)金利があまりにも長くあまりにも低すぎた」。記録:低金利の各期間はGSEにとって彼らに与えられた特権を用いて市場シェアを拡大する好機だった。住宅ローン残高に占める両社のシェアは2000には41.1%だったが2003には46.8%へと拡大していた。
3.「伝統的な銀行に隠れて成長してきた陰の銀行システムが短期の資金を供給しさらに危機には脆弱だった」。記録:ファニーとフレディこそがシャドウバンキングシステムの中で最大でかつ最もレバレッジの高い機関だった。そしてHUDとOFHEOとによる精神分裂的な規制体系に苦しめられた。
4.「資金を借りて規制の裁定から利益を得るインセンティブが存在した」。記録:GSEが規制の裁定の最大の受益者で資金を借りるインセンティブも最大だった。
HUDが金融危機を煽動した例は数多くある。そのうちの一つが2000のルール改訂だ。HUDはGSEが持つ競争上の優位性を利用してサブプライム市場を変革することを宣言した(注9)。
GSEは他の参加者に対して資本を集める上で優位に立っていたので有利な条件の住宅ローンを提供し市場シェアを拡大することが出来た。この優位性により(プライム市場でも事情は同じだった)GSEはサブプライム・ローン市場に極めて大きな影響を与えることが出来た。GSEがサブプライム・ローンにより傾斜していくとともに今日サブプライム・ローンと見做されているものとプライム・ローンとの間にある区別は消滅していきGSEの拡大はプライム市場の拡大のように映るだろう。
これは何故GSEが保有していたNTMが最もリスクの高いものではなかったかも(だが彼らを危機に貶めるには十分だった)説明している。長きに渡って、GSEは彼らに与えられた特権を用いてリスクの低いプライム市場で猛威を振るっていた。その結果、(1990年代の期間に)彼らの競争相手はサブプライム、ARM、セカンドモーゲージローン、Alt-A、そしてGSEが限られた競争力しか持たないジャンボローンなどのリスクの高い市場へと追いやられていった。GSEがNTMにまで勢力を拡大し始めたので彼らの競争相手にはさらにリスクの高い市場に打って出るしか道が残されていなかった。GSEには他にも競争上の優位があった。GSEは彼らの持つプライム市場での価格優位性を用いてリスクの高いローンに内部で補助金を回していたことはFHFAがこれまで明確に文書化してきた。彼らの競争相手には同様のことは出来ない。GSEにこれらの優位性があったため彼らの競争相手はさらにリスクの高い市場へと追いやられるしかなかった。
HUDの回顧録は市場の静的な見方でしかない。無視されているのはGSEの過去に取った様々な行動に対する民間企業の自然な反応だ。モラルハザードとレバレッジに対するGSEが果たした中心的な役割も無視されている。彼らは金融危機が勃発するまでこの役割を果たし続けた。モラルハザードと高レバレッジが慢性的なものになっていた。
Chronology of a Crisis:
Facts:
1980年代の後半と1990年代の初期にACORN(正式名称はAssociation of Community Organizations for Reform Now、毛沢東主義の極左団体として知られる。1990年代にはオバマが代表を務めていたと云われる)とその下部組織は伝統的な査定基準をフレキシブルな査定基準に置き換えようと自分達は活動しているのにファニーとフレディがその邪魔をしていると訴えた。彼らはGSEに伝統的な査定基準を放棄させるよう議会に働きかけた。その目的はそうすれば他の市場参加者も同じことをすると分かっていながら保守的な査定基準をフレキシブルなものへとGSEに置き換えさせることだった。
1991:あるcommunity organizerはU.S. Senate Committee on Banking, Housing, and Urban Affairsで以下のように証言した。
「ファニーとフレディが住宅ローンの陰の融資担当者であったことは徐々に明らかになりつつある」。
1991:HUDのAdvisory Commission on Regulatory Barriers to Affordable Housingにはこう記されている。
1991:U.S. Senate Committee on Banking, Housing, and Urban Affairsでの証言。
「ファニーとフレディが積極的に融資を拡大しないかぎりは住宅ローンの貸し手は最も保守的な査定基準で応じていただろう。彼らは保守的な査定基準を信頼していた。他の関係者もこの点を何度も繰り返し指摘している」。
Facts:
これらの団体は議会を説得してファニーとフレディに手頃な住宅ローンを提供することを義務付けることに成功した。これにより貸出基準が14年間に渡って緩和され続けた。
1992:議会は「Federal Housing Enterprises Financial Safety and Soundness Act(GSE法)」と名付けられた法案を通過させた。ACORNとその関連団体は手頃な住宅ローンの提供を義務付けることに成功した。その結果、ファニーとフレディは査定基準を緩和することを強制されそして初めて(FHAと一緒になって)伝統的なサブプライム・ローンの貸し手の競合相手となった。
ファニーは(自らに与えられた特権を僅かでも奪おうとする政治的動きを抑えるための)政治的保護を買うためにこの義務付けを歓迎した。この目的の為に住宅ローン市場を「変革する」と誓いを立てたほどだった。ファニーが取った戦略は2008まで政治的に難攻不落のものだった。
1994:「ファニー・メイの代表取締役、「住宅ローン市場を変革することを誓う」。100兆円以上を提供すると宣言する」(注18)。
Facts:
政府は伝統的な査定基準をフレキシブルなものへと置き換えることを目的とするNational Homeownership Strategyを実行した。
Evidence:
1995:クリントン大統領とHUDは「National Homeownership Strategy」を発表した(注19、20)。
「貸し手、ビルダー、不動産の専門家、地域の非営利団体、消費者グループ、州と地方の政府、住宅金融機関、その他多くの関係者から資源とアイデアを引き出すための国家的な協力態勢を要請し住宅を持てる機会を拡大するためそして住宅を取得する上で不利な状況にある人々や地域への障害をなくすために多方面での活動を行った」。
その目的は全住宅ローン市場を書き換えることだった。
「住宅ローンをより利用可能に、手頃なものに、フレキシブルなものにする、(その目的は)」、
「持ち家率が平均より低い集団や地域での持ち家率を高めるため」、
住宅ローンの返済期間をフレキシブルなものにし低所得層や中間層に補助金を与え住宅を購入するための貯蓄をするインセンティブを生み出すことなどにより頭金の必要額と利子費用を減少させる」、そして
「全米中にこれを徹底させる」。
住宅ローン市場の崩壊とその後の金融危機は大量に文書として残されている政府の政策の結果だった。
Facts:
この政策の反対者は住宅ローン市場を書き換えようとする政府の試みが災いを招くと警告していた。
Evidence:
1998:「フレキシブルな査定基準の拡大が弱まる頃には、それが質の悪いローン以外の何者でもないということを我々は身を持って知ることになるかもしれない。それら査定基準の徹底的な調査が確実に必要とされている。(市場で形成された)伝統的な貸出基準が合理的なものであったのならばフレキシブルな査定基準によって我々は単に銀行に不安定なローンを奨励させているだけということになる。仮にこれが事実であるとすれば現在の政策は未来においてローンの支払を出来ないことにより住宅を手放す人々を大量に生み出すことになるので意図した目的を果たすことはないだろう。マイノリティの人々が悪意を持って捻じ曲げられたデータに基づいた誤った政策の非常に高い代償を払う結果になるとするならば皮肉で不幸なことだろう」。
「「マイノリティや低所得層の持ち家率を上昇させるためにファニー・メイは信用基準を緩和させた」、そして
「「ファニー・メイは頭金の必要額を減少させることにより1990年代に持ち家率を上昇させた」、とファニー・メイの代表取締役兼最高経営責任者のFranklin D. Rainesは語った。「だが所謂サブプライムと呼ばれる市場には現在でも多くの潜在的な借り手が残っている」とも語った」、
「新しい貸出の時代に向かう中でファニー・メイはより高いリスクを取っている。これは経済が堅調なときには問題とはならないかもしれない。だが経済が不況を迎えた時には政府による暗黙の保証を受けているこの会社は経営危機に陥り1980年代のS&Lの時と同じような政府による救済を受けるかもしれない」、
Facts:
フレキシブルな貸出が拡大したので所謂プライム・ローンと呼ばれるものの量とリスクが大きく拡大した。これらのローンはそれでもまだプライムと呼ばれている。例えば、ファニーが購入した頭金ゼロのローンは単にファニーが購入する意思があるというだけの理由でプライムと呼ばれる。同様の論理が信用の低いローンにも適用される。HUDは2000のルール改定時にこれを明らかにしている。
「GSEには他の市場参加者に対して資本を集める上での優位性があったので競争相手よりもより条件の良いローンを提供することが可能でそれにより市場シェアを拡大させた。この優位性(プライム市場でも同様の優位性を持っていた)によりGSEはサブプライム市場で圧倒的な存在感を誇った。GSEがサブプライム市場により傾斜していくにつれて現在サブプライムと見做されているものとプライムとの境界はなくなっていくだろう。それによりGSEの拡大がプライム市場の拡大のように映ることになるだろう。GSEが購入するものがプライムと定義されるのでプライム市場とサブプライム市場との違いは次第に不明瞭になる。この市場の混ざり合いはサブプライム市場での借り手の特徴や市場の(すなわち、GsE以外の参加者の)借り手に対するリスクの評価がほとんど変わらなかったとしても起こり得る」(注31)。
Facts:
先進国の中でアメリカだけが健全性規制よりもHUDという名の社会福祉機関を上位に置いている。2004にHUDは自らが起こした「手頃な住宅ローンの革命」を自分で大絶賛した。
Evidence:
2004:「過去10年以上に渡って、手頃な住宅ローンの革命があった。ファニー・メイとフレディ・マックはこの革命の中心だった。1990年代の中頃から後半に掛けて、両社は自社の信用基準をフレキシブルなものとし頭金の少ないローンを開発しローンの申請者の信用評価の自動化を拡大させた。HMDAのデータはGSEの主導が信用力の低い借り手への貸出を拡大させたことを示している。1993から2003の期間に、低所得層とマイノリティへのローンは中間層や非マイノリティへのローンに比べて遥かに速く増加した」(注24)。
National Homeownership Strategyにより頭金の額は大幅に減少した。
Evidence:
2007:1990には僅か0.5%だったのに比べて頭金が3%以下の住宅ローンの割合は2007には40%になっていた。
2006にはNational Association of Realtorsは住宅の初回購入者の43%と複数回購入者の19%で頭金がゼロだったと報告している。住宅購入者の30%が頭金がゼロだったことになる。
Conclusion:
アメリカの金融危機の主な原因はリスクの高いNTMが過去にないほどに積み重なったことによる住宅ローン市場の崩壊だった。これらのNTMは2006の始め頃からデフォルトするようになり世界的な住宅担保証券の崩壊を引き起こし金融機関にダメージを与えた。手頃な住宅ローンを提供するという政府の政策により住宅ローン業界全体の信用基準が引き下げられファニーとフレディによりモラルハザードが拡散された。
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