2016年7月12日火曜日

Krugman on Reich: Then and Now

E. Harding

現在:

『1991年頃に、ロバート・ライシュは「The Work of Nations」と題した影響力のある本を出版した。彼はこの本を評価されたこともあってかクリントン政権で労働長官のポストに就任した。この本は当時としては良い本だった。だが時代は変化する。そして相対的に見れば明るい内容だったその本と彼の最新の著作「Saving Capitalism」とのギャップ自体が時代がどのように移り変わったのかを表している』

『「The Work of Nations」は素晴らしい本だった。その本は正面から所得格差の問題を取り扱っていたからだ。この話題は数人のエコノミストは取り扱っていたものの、政治的討論の中心にはなっていなかった。彼の本は所得格差を基本的に技術的な問題だと見做していた。それが当時の彼の評価だ。現在では、彼の見方はもっと暗いものに変化している。そして実質的に階級闘争を呼びかけるものとなっている』

1991年当時:

『傲慢さ、と呼ぶ人もいるだろう。多分そうなのかもしれない。だが私の傲慢さなど新しく優れた経済学を白紙から編み出したなどと信じて疑わないあの男たちと比べればかわいいものだ。あの連中は学部の教科書を1つも読んだことがないのに「The Way the World Works」とか「The Work of Nations」などといったタイトルの本を出すつもりでいるらしい(彼らは教科書の内容など熟知しすぎているから読み必要などないのだなどと言わないで欲しい。彼らが経済学を理解していないことは明らかだ。基本的な事柄に関する誤り、統計に関する無理解、誰もが知っている基本的概念や古来からある誤謬などを革命的なイノベーションであるかのように言及するなど、枚挙に暇がない』

「私が彼らに対して言っていることは正しいのかもしれないが、それを指摘することは間違いだと異を唱える人もいるだろう。そのような論争は脇においておいて力を合わせようではないかと。それに対してはこれは倫理的な問題なのだと答えるだろう。私の批判者の幾人かはリベラル派の経済学者を数年にも渡って中傷し彼らの仲間たちを優位に立たせた。彼らたちに傷が入り始めると、そのような言い争いは無意味なものだと突然宣言するのだった。だがそれとは関係なく重要なのは、ここでの反論が仮定しているのは何をするべきかに関して我々が同意しているということだろう。そのような考えは、リベラルであるとはどういうことを意味するのかという疑問を私に思い浮かばせる」

当時:

『だがコメンテーターが疑問に思うのも当たり前だ。クリントン政権の他のメンバー、特に労働省長官のロバート・ライシュは非常に異なる見方を強調してきた。彼の世界によると、給料の高い労働者であっても今では「不安な階級」の仲間入りを果たしたという。彼らは自分たちがいつの日か中間層から脱落するかもしれないと恐れているという。そして解雇されるかもしれないという恐れが生産性と利益が上昇しているにも関わらず横ばいもしくは賃金の低下を彼らに受け入れさせているという』

「彼の他の著作と同じように、このような物語は分かりやすく人の心に訴えかけるようなものがありうまく構成されてもいるのだが、ほとんどが間違っている。対照的に、Stiglitzは感情を満たすようなフィクションではなく複雑な事実を語っている(どこが?)」

当時:


『グールドが持っていてメイナード・スミスが持っていないものとはなんだろうか?グールドは大衆にも人気のあるライターだ。だが進化論は経済学よりも遥かに広大でしかもDawkins (1989)やRidley (1993)のような人気のある伝導者に恵まれている(グールドやライシュのようなライターは正しい意味で伝導者ではない。伝導者はコンセンサスとなっていることを紹介する。その一方、これらのライターは自分たち自身の、異端と見做されている考えを議論している)。グールドを知識人たちの間でこれほどまでに人気にしているものは単に彼の著作の質に依っているのではなく(ドーキンズやリドレーとは異なり)近代進化論の本質的に数学的な側面を説明しようとしていないという事実にある。彼の本には方程式やシミュレーションが存在しないばかりか、ドーキンズのようなライターの著作を紹介するのに数学モデルに基づいて考えようともしていない。それが彼の著作をそれほどまでに人気にしている理由だ。もちろん問題は、進化論、本物のものは数学モデルに基づいているというところにある。それもコンピューター・シミュレーションにどんどんと依存するようになっている。グールドを人気にしている数学への忌避は、彼の本、彼の読者には深い考えが示されているように見えるのかもしれないが、は進化論を知っている人には中身のないものを飾り付けしただけに見えるだろうしその内容のほとんどは単に間違いであるように思われるだろう。特にグールドの著作を読むことで進化論を知ったという読者は自然選択の理論の力や範囲にまったく触れることが出来ないだろう。むしろその理論は不十分だということが近代の考えでは示されていると考えるようになるだろう』

『経済学は進化論ほどライターに恵まれているわけではない。だがその貿易に関する考えが知識人の間で人気があるなどといった際立った特徴は同じだ。人気のある本は明示的に数学モデルが登場してこないものというだけではなく、暗黙的にも数学的考えに基づいていないものだということだ。ロバート・ライシュの「The Work of Nations (Reich 1991)」のような本は法的式やダイアグラムを示さないばかりか、比較優位という考えを暗黙的にも示すことすらしていない。実際、「比較優位」という単語を一度でさえ用いていない。ライシュやソローのようなライターの本は数学が分からない人を不快にさせたりはしないだろう。だがそれはまた経済モデル一般の重要性や威力を何一つ教えてくれはしないだろう。むしろそのような本から得るメッセージは、新しい経済では19世紀の経済的概念は最早適用することが出来ないというものだろう』

当時:

「他の多くのアメリカの知識人と同じように、私も初めは進化論をグールドの著作から学んだ。だが現役の進化論学者は彼を、経済学者がRobert Reichを見るような目で見ていることに次第に気が付いていった。面白いライターではあるけれど何一つ理解してはいない。ジョン・メイナード・スミスやウィリアム・ハミルトンなどのような本物の進化論学者は、本物の経済学者のように数学モデルにもとづいて考える」

当時:

『彼らのうちの数人はワシントンでも非常に有名だ。国の競争力の提唱者としてよく引用されるロバート・ライシュは「不快な人間で巧みな表現を用いるのかもしれないが、深い考えは持ちあわせてはいない』

現在:

『ロバート・ライシュはその狙いを隠そうとしたこともない。「The Work of Nations」というタイトルはアダム・スミスを意図的に連想させるようになっている。彼は読者が彼の本を単なる有用なガイドとしてだけではなく、基礎となるテキストと見做すようになることを明らかに願っている。短いページながら、Saving Capitalismはより野心的だ。彼は市場経済の根本的な見直しとして格差に関する新しい議論を提唱した。市場の機能を制限したり緩和したりする政策を提唱しているのではない、と彼は主張している。むしろ日常的に用いられている自由市場の定義は政治的な判断によるもので、市場をまったく異なる方法で機能させることも出来ると彼は言う。「政府は自由市場の邪魔をしていない。政府は市場を作っている」』

「率直に言って、私はこの売り文句を複雑な気持ちで見ている。譲歩しすぎているように思われるし、一方では政策の大きな変化を要求しながら自由市場は素晴らしいという伝統的な見方を受け入れている。そしてすべてのものを一つの大きな知的な枠組みの中で捉えようとする試みはライシュが支持する単調だが重要な政策から注意を逸らさせることになるのではないかとも懸念している」

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