2017年11月11日土曜日

結局イラクに大量破壊兵器はあった?

Uncomfortable Truths: Explaining Away Iraq’s Real WMD

Kim R. Holmes

イラクの大量破壊兵器が再び取り上げられるようになった。ニューヨーク・タイムズはアメリカ軍が5000の毒ガス兵器を搭載した弾頭、爆弾などをイラク攻撃が始まって以降見つけていると伝えた。先週はワシントン・ポストが、イスラム国がイラクの警察に対して毒ガス攻撃を行ったと伝えている。

一体どうなっているのか?イラクに大量破壊兵器が存在すると「ブッシュ大統領は嘘をついた」と私たちは聞かされ続けたのではなかったのか?今度はその数は数千に及び、人々を殺傷するのに十分なほど強力だと聞かされ続けている。

ニューヨーク・タイムズの記者は新たに回収された大量破壊兵器は1991年以前に製造されたもので、ブッシュ政権が「イラク攻撃の口実とした」大量破壊兵器プログラムの証拠として数えるべきではないと主張している。

その記事は言及するのを避けているが、国連の安全保障理事会はイラクに存在するすべての大量破壊兵器の在庫を、いつ製造されたかに関わらず破壊することをターゲットとしていた。それら大量破壊兵器が存在しているという事実は、幾つもの国連決議の上に課せられた武装解除の義務をサダム・フセインが破っていたということをはっきりと証明している。

そしてサダムがまさにその停戦合意に違反しているというのがブッシュ政権の国連に対する訴えだった。

サダムはイラン-イラク戦争の時に毒ガス兵器を使用した。1988年の3月に、サダムは自国民に対しても毒ガス兵器を使用し5000人のクルド人を殺害している。国連の安全保障理事会はイラクに対して幾つもの国連決議を通過させた。1991年の4月3日には、安全保障理事会はイラクに対してすべての大量破壊兵器とそれを運搬するミサイルの破壊を求める決議687を採択した。United Nations Special Commission (UNSCOM)はイラクにこの決議を遵守させるために設立された。

ブッシュ政権の交渉により採択された決議1441ではイラクが決議687の下で求められた大量破壊兵器プログラムの「正確で、一部ではなく全体像を示した、最終的、完全なる情報公開」を未だに行っていないことが問題だった。

最大の問題はイラクの大量破壊兵器プログラムがアクティブかどうかではなかった(以前の査察からサダムの大量破壊兵器製造プログラムによって大量の在庫が生まれていたことを国連は知っていた)。最大の問題はそれがどうなったかだ。アメリカの諜報機関の情報の正確性や妥当性は安全保障理事会にとってそれほど重要ではなかった。

UNSCOMの下部組織、United Nations Monitoring, Verification and Inspection Commissionの代表であるHans Blixもそれを認めている。彼は隠し持っていることが知られている大量破壊兵器の大量の在庫の行方をイラクが説明しないことに苛立ちを露わにしていた。彼は大量破壊兵器プログラムの全貌が明らかにされないことを「恐らくは、私たちが直面している最も重要な問題」と表現していた。

一旦イラク攻撃が始まると、すべては現在も稼働中のプログラムを見つけるためだったにすり替えられた。ブッシュ政権が不注意にも育つことを許したおとぎ話だ。馬鹿馬鹿しいまでにサダムが安保理決議に従っていなかったのだとしたら、今頃は一体どんな恐ろしいことが起こっていたのだろうか?

大量破壊兵器の在庫が見つかったという事実は「ブッシュ大統領が嘘をついた」というおとぎ話と明らかに食い違う。アメリカは安全保障理事会の場でサダムは査察の義務に違反しているとずっと主張し続けていた。アクティブなプログラムがあるとアメリカが提出した証拠の幾つかは誤りだった。だが国連が問題にしていたのはそれではなく、サダムが国連によって課せられた義務を遵守していないという事実の方だった。普段は国連のすべての言葉を聖歌のように受け止めている人たちだというのに不思議なことだ。

Show This Column to Anyone Who Claims Bush Lied about WMDs in Iraq

John Hawkins

リベラル派はブッシュ大統領の在任中ずっと「ブッシュは嘘をついた」とマントラのように繰り返していた。

そもそも、外国の諜報機関もサダム・フセインがアクティブな大量破壊兵器プログラムを持っていると考えていた。「ドイツ、イスラエル、ロシア、イギリス、中国、フランスの諜報機関」すべて、サダムが大量破壊兵器を保有していると考えていた。CIA長官ジョージ・テネットもイラクに大量破壊兵器が存在したことは「間違いない」と語っていた。

「アメリカの諜報機関によって傍受されたプライベートな会話の中で、イラクの高官がサダムが大量破壊兵器を保有し続けていると語っていた、イラクの将軍も彼が保有していると思っていた、イラク軍は毒ガス兵器から身を守る防御スーツを着用する軍事演習を実施した、だがそれはアメリカが率いる連合軍が毒ガス兵器を使用すると考えていたからではない」という情報を得ていたのであれば、CIAがそのように結論するのも無理はない。

ブッシュ大統領と同じ情報を送られていた多くの民主党の議員たちも同じ結論に達し、それをはっきりと語っていた。もしブッシュ大統領が嘘をついたと思うのであれば、ビル・クリントン、ヒラリー・クリントン、アル・ゴア、ジョン・ケリー、ジョン・エドワーズ、ロバート・バード、トム・ダッシェル、ナンシー・ペロシ、バーニー・サンダースも同様に嘘をついていたということになる。

バーニー・サンダースやヒラリー・クリントンだけを責めることはできない。国連の前査察官でさえもが同じことを言っていたのだから。このことはクリントン政権の国家安全保障会議で働いていたKenneth Pollackの発言によって確認できる。

『私はイラクの大量破壊兵器に関するワシントンでの会議に出席した。その会議には国連のUnited Nations Special Commission (UNSCOM)から20人近い前査察官が出席していた。その中の1人の高官が出席者に向かってある質問を投げ掛けた。「この中に現在イラクが秘密の遠心分離プラントを稼働させていないと思っている方は一人でもいらっしゃいますか?」。誰一人、疑っていなかった』

それも、ニューヨーク・タイムズが最近になって渋々認めたように、大量のWMDが実際にイラクで見つかっている。

2004年から2011年の間に、アメリカ軍と彼らによって訓練されたイラク軍はサダムによって製造された大量破壊兵器に繰り返し出くわしている。

それに加えて、「アメリカ軍は大量破壊兵器を搭載した弾頭や爆弾などを5000以上秘密裏に回収していたことが、回収の参加者やイラクとアメリカの高官に対するインタビュー、Freedom of Information Actによって公開された機密文書などによって明らかにされた」

サダム・フセインが自分のしていたことを必死で隠そうとしていた理由の1つは、彼が実際に大量のWMDの在庫を隠し持っていたからだ。だがそれだけがすべてではない。サダムはアクティブなWMD製造プログラムを持っていないというのがIraqi Survey Groupの結論だったとしても、それはまったくといっていいほど意味を持たない。

David Kayが2003年に自身のレポートの中で記しているように、

「新しい大量破壊兵器を製造するのにどれぐらいの時間が掛かるのかとサダムは軍の幹部に尋ねている。(WMDの専門家に尋ねた後で)彼はマスタード・ガスを製造するには6ヶ月もあれば十分だと答えた」

「ウダイ・フセインに尋ねられた他の専門家はマスタード・ガスを製造するのには2ヶ月、サリンを製造するには2年ぐらい掛かると返答した」

「在庫が残っていれば、製造ラインを1週間でアンスラックスの製造に切り替えることができると保証した」

「イラクの核兵器製造プログラムに関して、イラクの専門家や政府の高官から得た証言からサダムは最後まで核兵器を欲していたことが疑問の余地なく明らかにされている」

「これらの専門家や軍でプログラムを指揮していた人間は例外なく、サダムが大量破壊兵器を欲し続けていたと証言している。彼らの多くはサダムや彼の子どもたちから毒ガス兵器の製造にはどれぐらい時間が掛かるのかと繰り返し質問を受けていたことを認めている」

Duelferレポートにも、サダムがより大量のWMDを製造するつもりであったことが記されている。

「M16は数種類もの毒ガス兵器を製造する計画であったことが複数のソースによって示されている」

これらの事実と照らし合わせると、CIA長官からバーニー・サンダース、イギリスに至るまで全員がサダムが大量破壊兵器を持っていたと考えても驚きではない。それにも関わらず、ブッシュ大統領が嘘を言ったかのように糾弾されている。

Iraq's WMD: The Shameless New York Times Moves the Goalposts

Larry Elder

メディアが伝えるところによると、『ブッシュ大統領によって送られた諜報機関の予想とは異なり、大量破壊兵器の「在庫」は見つからなかった』

イラク攻撃の開始までに15ヶ月間の猶予があったことはメディアは一切考慮しない。イラク軍の前将軍Georges Sadaは2003年に攻撃が始まるまでの間に大量のWMDが陸路と空路によってシリアへと運び込まれたと、ずっと前から主張し続けている。国家安全保障局長官のJames Clapperも大量破壊兵器があると思っていたと語っている。だが大統領によって送られた「ウェポン・ハンター」は在庫を見つけられなかった。

ブッシュ大統領はまるで騙されたかのように見えた。

彼が嫌いな批評家たちは「ブッシュは嘘つきだ」とマントラのように繰り返し続けた。攻撃が始まる前の諜報活動について質問を受けたテッド・ケネディ議員は「私たちは何週間も何週間も何週間も嘘、嘘、嘘を聞かされ続けていた」と答えた。批評家たちは兵士の犠牲とお金が無駄になったと批判した。

そして現在、「イラクの毒ガス兵器による隠された負傷について」と題する10000単語、8部に渡るニューヨーク・タイムズの記事が突然に現れた。「アメリカ軍は大量破壊兵器を搭載した弾頭や爆弾などを5000以上秘密裏に回収していたことが、回収の参加者やイラクとアメリカの高官に対するインタビュー、Freedom of Information Actによって公開された機密文書などによって明らかにされた」と記事には書かれていた。

それも、兵士たちは大量破壊兵器のことを秘密にしておくように云われていた。

『兵士たちや政府関係者たちは彼らが見たものについて黙っているか、偽りを言うように云われていた。「重大なものはなかった」と言うように命令されていました、と最近退役したJarrod Lampierは語った。彼は、地中に埋められていた神経ガスを詰め込んだ2400発以上のロケットを見つけている』

『マスタード・ガスを詰め込んだ砲弾を処理した(その時に2人が負傷している)Jarrod L. Taylorは、「存在していないはずの兵器から怪我を負った」と冗談を語っている。国民は、10年以上も欺かれ続けていると彼は語った。イラクに毒ガス兵器は存在していなかったんだ、と人々が言っているのを聞くのが好きです、と彼は語った。『実際には大量にあった』と語った」

これは、ニューヨーク・タイムズ以外から情報を入手している人間にとっては驚きでも何でもない。2010年のウィキリークスのリークの後に、「ウィキリークスによって新たに公開された文書によると、アメリカ軍は何年も前から毒ガス兵器製造の実験場、毒ガス部隊、隠された大量破壊兵器に繰り返し遭遇していたという。特に毒ガス兵器は、イラクの戦場から消えてはいなかった。毒ガス兵器の在庫は存在し続けたままだった。ジハーディストたち、反乱軍、外国のエージェント(恐らくはイラン人)はこれらの在庫を必死に求めた。恐らくは悪事を企んでいるに違いない」とWiredは書いている。

それにも関わらず、ニューヨーク・タイムズは「新たに見つかった大量破壊兵器はブッシュ政権の攻撃の理由を正当化するものではない」と未だに主張している。意味が分からない?ニューヨーク・タイムズによると、見つかったWMDは「古く」、「劣化していて」、「アクティブな」兵器製造プログラムによるものではないからだという。「アクティブ?」

だがニューヨーク・タイムズの爆撃記事が現れる数日前に、MSNBCのRachel Maddowはどうして彼女はブッシュ大統領が「嘘をついた」と思うのかを再び言い直している。その中で彼女は「アクティブな兵器プログラム」は言うに及ばず、一度でも「アクティブ」という単語を発しただろうか?

「未だに…右寄りの人たちにですが…現実にサダム・フセインが本当に大量破壊兵器を保有していたと信じている一向に学習をしない変人じみた人たちがいます。彼は持っていたに違いありません。ジョージ・ブッシュが間違うはずがありません。変人だと言ったのは…なんとそのジョージ・W・ブッシュ自身が自分は間違っていたと認めているからなのです。イラクは大量破壊兵器を保有していませんでした…」

「選挙が4週間後に迫っています。今日は私たちの政府が、イラクの大量破壊兵器に関する話はすべて嘘だったと公式に認めてから丁度10年目です。嘘だったというような糾弾ではないのです。嘘なんです。私たちは嘘だったと認めたんです」

それから彼女は、すぐさま壇上に飛び乗った同僚のLawrence O'Donnellにバトンタッチした。だが彼も、彼女と同様に、「アクティブ」などという言葉を発しなかった。「レイチェル、これは本当のことだとは思いたくないんですがね…あなたのために予言をしてあげましょう。(笑いが起こり始める)イラクに大量破壊兵器があったと信じている共和党員に関してはあなたが最後に言ったことは当てはまっていませんよ」(会場が笑いに包まれる)。

イラクに大量破壊兵器があったということを私たちは今では知っている。

ニューヨーク・タイムズ、民主党員、MSNBCは、正しいことを行ったというのに批判者からは叩かれるだけだったブッシュ大統領に謝罪すべきだ。

NYT: Iraqi WMD Existed And The CIA Bought Them

By streiff

ブッシュ政権はリベラルからの言い掛かりにどうして反論しないのかというのが謎の1つだった。このことが最も深刻な影響を与えたのはイラクのWMDに関する問題だった。イラク攻撃の際に語られた理由の1つはサダムが毒ガス兵器を保有しているということだった(核兵器開発の可能性も)。

ブッシュ政権は攻撃の間、WMDを見つけることができなかった。メディアは「ブッシュは嘘をついた」と繰り返し唱え続けた。イラクに大量破壊兵器は存在しなかったというのは政治の世界では既成事実と成り、その結果共和党は議席を失った。ブッシュ政権は最後の2年間を危険なほどに愚かな民主党員が過半数を占める議会の相手をしなくてはならなかった。そして、ホワイトハウスは頭が空っぽでご都合主義の反米主義者の手に渡されることになった。

だが、そのダムが崩壊を始めている。

ワシントン・ポストは、アメリカ軍の兵士がイラクでWMDによって負傷していると伝えた。存在しないものによって怪我を負うのはとても難しいことだ。今度はニューヨーク・タイムズが、WMDが見つかっているだけではなくそれを買い取るプログラムまで存在していると伝え始めた。

「アメリカ軍と共に行動していたCIAは、イラク人から神経ガスが詰め込まれたロケットを繰り返し購入していたことを明らかにした。アメリカ政府高官の話によると、イラクに存在している毒ガス兵器がテロリストたちや軍隊の手に渡らないようにするために秘密にされていたプログラムの一環だという」

Operation Avariceと呼ばれる、この前例のないほどの兵器買い取りプログラムは2005年に始まり2006年にも続けられている。そして軍はこれにより大量破壊兵器の拡散は阻止されたと見做している。そのプログラムのお陰でサダム・フセインのバース党が1980年代に製造していたが、国連の査察の対象からは外されていた国際的に最も非難された毒ガス兵器の1つ、ボラックロケットを少なくとも400発回収し破壊することができた。

それらの兵器は錆びたスクラップなどでは決してなかった。神経ガスが詰め込まれた弾頭は壊滅的なだけでなく10年間の保管の後に予想されていたよりも高い殺傷能力を有していた。このことは予想よりもより洗練されていた兵器プログラムが存在していたか、湾岸戦争以降も兵器の製造が続けられていたことを示唆する。

ブッシュ政権で「大量破壊兵器が存在しない」というおとぎ話に反論しないことを決めたのが誰であれ、National Press Clubの前で自殺のフリでもしてみるべきだ。彼らにバラク・オバマ当選の責任があるのだから。

ビン・ラディン文書はバラク・オバマによって故意に隠された?

The Big Reveal: The Story of How 470,000 Documents from Osama Bin Laden's Compound Finally Got Into the Open

By Steven Hayes

バラク・オバマがホワイトハウスを去って24時間も経たないと言うのに、国家情報長官のJames Clapperは彼の所属していた組織が以前から非難の対象に晒されていた問題に関して声明を発表した。Office of the Director of National Intelligence (ODNI)は「ビン・ラディンが残していた文書の残りすべて公開する」と堂々と宣言した。だがODNIは、「パキスタンのアボタバードに潜伏していたビン・ラディンの邸宅を占拠した時に回収した数百ページに及ぶ文書を、公開するための2年と半年に渡る努力が今日で終わりを告げた」と、とっくの昔に語っていたはずだった。その時に公開された文書は結局は49ページで、これまでに公開された文書はそれを加えても571ページだった。

アボタバード文書(資料)にまつわる論争に少しでも関心を持っていた人にとっては(不思議なことにほとんどのジャーナリストはこの対象から外れるのではあるが)、ODNIの宣言は笑いを引き起こすものでしかなかっただろう。ビン・ラディンに関する論争を終わらせる?最後のアボタバード文書?

2011年の5月2日にアボタバードのビン・ラディン邸を占拠したそのすぐ後に、国家安全保障アドバイザーのTom Donilonはパキスタンから持ち帰った文書のことを「小さな大学であれば図書館が一杯になるほど」だと形容していた。2011年の5月7日に記者に対してブリーフィングを行った国家情報局の高官は「これまでで最大規模のテロリストに関する情報を持ち帰った」と語っていた。

ODNIはどうしてそのようなあからさまな嘘が通ると思ったのか?アボタバード文書はテロリストに関するこれまでで最大規模の文書だという繰り返された発言とたった571ページしか公開されていないという矛盾を誰一人として問い詰めないと彼らは本気で考えていたのか?

答え:自称「歴史上これまでで最も透明性の高い政権」は5年以上もアメリカ国民を欺き続けその代償をほとんどと言っていい程払っていない。共和党員はオバマのより滑稽な主張の方、ベンガジでのテロ攻撃は(アメリカ人映画監督が撮影したという映画に対する)抗議活動が間違った方向に向かってしまっただけだ、アルカイダは逃走している、ISISはテロリストの2軍だというのにメディアや特にブッシュ前大統領などがその脅威を誇張している、などに怒り心頭なあまりオバマの嘘を支えていた諜報機関の方にほとんど関心を払っていなかった。

このような状況の下では、ODNIの賭けもそれほど分が悪いものではなかった。テロリズムの専門家や諜報を専門としている少数の人間を除いては誰もビン・ラディン文書の行方にほとんど関心を払っていなかった。大統領が入れ替わるというただでさえ忙しい時にODNIの発言が注目を集めるという確率は低かっただろう。ODNIは、彼らの馬鹿げた主張に寄せられた質問を興味なさそうに切って捨てた。公開されなかった文書は興味深いものでも重要なものでもなかった、誰も興味を持たないようなテロリストたちの戯言が綴られているだけだった、アルカイダや他のジハーディストたちに関する理解を深めてくれるものではなかった、などなど。

諜報活動の政治利用とはまさにこれのことだろう。

共和党の予備選挙が終わろうとしていた2012年の初め頃のことだ。オバマの国家安全保障局(NSC)はWest PointにあるCombating Terrorism Center(テロリズム対策センター)へと(分析の為に)送られる17の文書を選び出していた。NSCはそれらの文書のうち2つを手元に残しておいた。そのうちの1つ(アフガニスタンのタリバンとアルカイダとの密接な関係を暴露した)はオバマ政権が立ち上げたタリバンとの交渉開始を難しくさせただろうと、NSCのDoug LuteがWest Pointに宛てた説明には記されている。ウェスト・ポイント文書はバラク・オバマと友だち関係にあるジャーナリストたちには広く公開された。彼らの結論は最初から決められていた。ビン・ラディンは苛立ちを募らせており孤立していた、崩壊しつつある組織の無力な指導者だった、などだ。バラク・オバマは自身の再任の理由として安全保障ではこれをテーマに選挙を戦うつもりでいた。アルカイダは「逃走しつつある」、「弱体化された」、「敗走の道をひた走っている」など。

「兵士たちのおかげでイラクでの戦いは終わりました。アフガニスタンでの戦いは終わろうとしています。アルカイダは弱体化しました。オサマ・ビン・ラディンは死亡しました」とオバマは再任の5日前にウィスコンシン州のグリーンベイで語っている。

その2ヶ月前にアルカイダと密接な関係にあったジハーディストたちによってベンガジが攻撃されたにも関わらず、彼は自分の主張を考え直そうとはしなかった。その攻撃から選挙までの間に彼は12回以上アルカイダの崩壊を主張し続けた。

ビン・ラディンが死亡してから数週間の間は、アボタバード文書は貴重な情報源として必要性の高い政府機関の下へと即座に送り届けられていた。その当時の機関同士の素早い連携は、アルカイダ主要幹部たちの逮捕や殺害へとつながる貴重な情報を生み出すことになった。だというのにその文書は数ヶ月の間突然、誰の目にも触れることはなくなってしまった。オバマ政権のアボタバード文書に対する関心は自身の再選のため以外にはほとんど存在していなかったということが今であればはっきりと理解できる。ようするに、文書の完全公開はオバマ政権の主張を完全に揺るがしていただろうということだ。

結果として、アボタバード文書の多くは一度も翻訳されなかった。それぞれの情報機関は文書に対するアクセス権を巡って長い戦いを続けていた。国防情報局はその文書に対する「管轄権」を保有していたCIA、それも2012年の4月にアルカイダは10年も経たないうちに崩壊しているだろうと予想した(オバマ信者の)John Brennanによるサボタージュが行われていた、に文書に対する完全なアクセスを繰り返し拒否されていた。

情報機関は自身が保有するアルカイダに関して集めた情報を、アボタバード文書を使って検証することが一度もできなかった。「(その文書を下に)検証する機会は一度もありませんでした」とその文書に関わったことのある情報機関のある高官は語っている。その文書を目にすれば、アルカイダやその指導者に関して情報機関が知っていたと思っていたことと現実の間にずれがあったのかなどを確認することができるはずだった。誰が良い情報提供者だったのか?間違った情報を与えていた者はいたのか?私たちが考えていたよりも上層部のことをよく把握していた情報提供者はいたのか?逆に、私たちが重要だと思っていたのに実際にはそれほどでもなかった情報提供者はいたのか?ビン・ラディン文書はこれらの問いに答えを与えてくれるはずだった。

オバマ政権は、Devin Nunes議員に率いられた共和党の議員団からの情報開示要求を再選後も繰り返し拒絶し続けた。2014年に(共和党が提出した)Intelligence Authorization Actが(共和党が過半数を占める)議会を通過したためにそれらの要求は法律によって保証されることになった。わずか571の文書でさえもが公開された唯一の理由はそれだけだ。そしてその状況はトランプ政権が誕生して以降の数ヶ月間の状況でもある。

ところがこの状況は劇的に変化した。11月1日の水曜日にCIA長官のMike Pompeoはアボタバード文書から「新たに47万近い文書」を公開すると宣言した。571から470000!自称「歴史上最も透明性の高い政権」は3桁の規模で話を捏造していた。

1月の退任会見の時に、私はODNIの広報担当官だったTimothy Barrettにこのように尋ねたことがある。ほとんどの文書が公開されていないというのに、ビン・ラディンに関する情報はこれですべてとはどういうことかと。彼は、「数百よりも遥かに多くの文書」が眠っているということはメールで認めた。だがそれは重複や数え過ぎで説明できると主張した。それは1つのページを1つのファイルとして数えるようなものだと彼は説明した。

「重要と思われるファイルのほとんどは公開した」と彼は語った。571の文書はODNIによって自主的に公開されたのだと。これもまた嘘だった。

ODNIの不誠実な2枚舌はこれに留まらなかった。アボタバード文書のさらなる情報公開を求める情報機関の代表とNSCの高官との間で6月28日に会談が行われた(この会談に詳しい2つの情報筋が明かしている)。ODNIの高官は、自分たちは文書を公開することができない、なぜならばこれほど大変な仕事を行うだけのリソースを自分たちは持っていないと彼らに説明したという。

ようするにODNIは一般向けには「この仕事は終わった、前に進もう」と言っておきながら、裏では「こんな大変な仕事を終わらせるのは自分たちの手には余ります」と言っていた。

この会談のこととこの矛盾を説明するようにBarrettに求めると「この件に関してあなたと話すことはこれ以上ありません」という内容のメールが送られただけだった。

だが政権は入れ替わりこれまでの命令は一掃されることになった。CIAが隠していた文書のすべてを把握するには時間が掛かる。それらの何割かは疑いようもなく重要なものではないだろう。だが新たに閲覧できるようになった文書の中には重要なものが数千とあり、すでにこれだけのことが明らかになっている。それらは重複していたのでもなく意味が通らないものでもなければ孤立し無力だったテロリストの戯言でもなかった。Thomas Joscelynが他の場所で説明しているように、その文書の一部だけからでもアルカイダとアフガニスタンのタリバンとの関係性を示した部分を見つけることができる。現在これらのテロのネットワークと支部を率いているアルカイダ幹部の大量のビデオや写真、パキスタン内部に張り巡らされたアルカイダのネットワークに関する新たな情報が記されている大量の手紙、アルカイダの幹部を狙った攻撃に対する防御法を説明した文書、ビン・ラディン自身が手書きで記した228ページに渡るジハードの記録、などなど。

ODNIは文書の規模だけでなくその内容に関しても国民を欺き続けていたことは最早明らかだ。ODNIは当時の1月に新たに公開された49の文書は「以前に公開した内容をなぞった」だけのものだと主張していた。主なものはビン・ラディンの「イランに対する憎悪と疑い」だった。それが以前にODNIが公開したものだというのは事実だ。だが回収した文書の中に綴られていたのはイランに対する敵意だけだったというのは極めてミスリーディングだ。

ビン・ラディンは、アボタバードで回収され以前に公開されていた手紙の中でイランのことを「大動脈」だと形容していた。イランのアルカイダに対する支援の詳細は(そのうちの幾つかは今まで隠されていたのだが)財務省によるテロ国家指定や、シーア派の過激派であるイランはスンニ派のアルカイダを支援しないだろうという諜報機関の分析官の何人かが抱いていた考えを改めさせるまでに至った。財務省の高官で後にCIAの副長官を務めたDavid S. Cohenは2011年のインタビューでイランからのアルカイダに対する金融的支援のネットワークの詳細を記した情報のことをこのように語っている。「イラン政府とアルカイダとの間でこのテロ組織の活動を認めるという合意があった」と彼は語り、「このことに関して諜報コミュニティの間で論争はない」と語っている。イランはアルカイダのメンバーに対して隠れ家を提供しただけではなく移動の手伝いや金銭、武器の提供など「必要不可欠なコアとなるパイプライン」を提供していた(ちなみにイランとアルカイダが協力関係にあったことはこのブログでも何度も紹介したKyle W. Ortonがとっくの昔に遥かに詳しく説明している)。

アルカイダはこの支援を用心深く受け取った。それは事実だ。イランとの関係はイデオロギーや教義の一致によるものではなくお互いの利益に基づいてのものだった。だがこの秘密の合意を完全に無視することは(長年に渡る協力関係やビン・ラディン自身の「大動脈」という表現などを置いておいたとしても)、騙しの典型例のような手口だ。

イランとアルカイダとの関係性に関して国民を欺いたことをどう思うか尋ねると、Barrettは「ビン・ラディンはイランとは注意深い関係にあった。彼はシーア派のムスリムに対して強烈で、個人的な敵意を抱いていた。だが彼がイランを公に批判することはなかった。彼の家族がそこに匿われていたからだ」。

その後のメールで、彼の家族が匿われていたという事実はイランとアルカイダが深い敵対関係にあったというODNIの主張と矛盾するのではないかという当然とも思える疑問をぶつけてみた。その上に、ビン・ラディン自身が組織の維持と強化に果たしたイランの役割を認めているというのにどうしてODNIはその文書をビン・ラディンのイランに対する敵意の証拠として提出したのか?相互利益のために協力していたこと、むしろ友好的と言っていい関係が存在したことを示す証拠ではないのか?

Barrettは、「「匿っていた」と言ったのは間違いだった。多くのアルカイダ幹部と少なくとも1人のビン・ラディンの家族がイランで自宅軟禁されていると言うべきだった。あなたが言っているような通行路だったというのはイラン政府と共謀があったというのと同じではない。テロ組織がイランを自由に移動できたというだけの話だ。だがそれはイラン政府との如何なる協力の下に行われたものでもなかった」と回答した。

これは驚くべき主張だ。そして新たに公開された文書が明らかにしたように、イラン政府は積極的にこのテロ組織の移動の手伝いをしていた。それだけではない。実際に、ODNIが否定したような「関係性」がイランとアルカイダとの間に存在していた。その上、財務省はイランとアルカイダとの「秘密の合意」を理由にイランにテロ国家指定を行っている。

その後も幾つか非建設的なやり取りを交わした後で、我々(The Weekly Standart)は財務省がイランをテロ支援国家に指定しているその理由が書かれた箇所、国務省のテロ支援国家のイランについて言及されている箇所を彼に送った。その中でも、Ezedin Abdel Aziz Khalilについて言及されている部分には、彼は「アルカイダとイラン政府との合意の下に現在イランに住み活動を行っているアルカイダの幹部、イラン政府は彼との関係を保ち続け2005年以降イラン国内で活動を行うことを許可している」と記されている。さらに、ビン・ラディン自らが送ったイランへの使者Atyiah Abd al-Rahmanが「イラン政府から自由に移動することを許可されていた」と自らの言葉で記している。財務省のテロ支援国家指定の理由には「資金調達とイラン国内での活動を許可した秘密の合意を白日の下に晒すことにより、他に例を見ないイランのテロに対する支援のまた新たな側面に光を当てることができる」と記されている。イランのMinistry of Intelligence and Security (MOIS)には「イランに潜伏しているアルカイダ幹部に必要な文書、識別カード、パスポートを与えることにより彼らの移動の手助けを行っている」と記されている。

他の事例を幾つも挙げることができる。Barrettは、「私はイランの専門家ではない。専門家に相談して月曜日までにはあなたに回答すると約束する」と答えた。(イランに関する)彼からの回答はまだ送られていない。

Barrettと私は11月2日にもう一度だけメールのやり取りを行った。新たな文書が公開されたためだ。彼の1月の発言が完全にミスリーディングだったと認める機会を彼に与えたつもりだった。彼は、「ODNIは新しいCIA長官の決断を支持する。新たに公開された文書はこれまでに知られていなかった情報をもたらしてくれたが、諜報機関同士の文書の利用を促進するためのタスクフォースの評価を覆すものではなかった」と返答した。

オバマの一期目の外交政策のメッセージはテロとの戦いはブッシュ大統領のせいでうまくいかなかった、だが今では自分が適切に対処している、それ故成功に終わるはずだ、だった。彼の二期目の外交政策の最優先事項はイラン政府と取引をすることだった。奇妙なことに、バラク・オバマはアルカイダがすでに持っていたもの、すなわちイランとのパートナーシップを欲した。オサマ・ビン・ラディンがイラン政府と協力しあっていたと国民に事実を伝えることは、その外交政策の目標を大きく揺るがすことになっていただろう。だから彼は、諜報機関の協力者たちの助けを借りて、ビン・ラディン文書を封印し時間稼ぎを謀った(ちなみにリベラルがこのような大犯罪に手を染めたのは次の大統領がヒラリー・クリントンだとリベラルが頭から決めてかかっていたからだというのはアメリカの保守派の間では常識のように語られている)。

CIAが新たに公開した47万の文書にはアルカイダとイランとの関係を記した19ページのレポートが含まれていた。そこにはアルカイダとイランとの間に幾ばくかの軋轢があったことを記しているものの、そのわだかまりは協力を阻害するものではなかったということをはっきりと記している。そこには、イラン政府がアルカイダに「彼らが欲するものはすべて」与えていたことが記されていた。それにはイラン内部で彼らを匿うこと、移動の手伝いをすること、「武器や資金」、「サウジアラビアと湾岸諸国を攻撃することと条件にレバノンのヒズボラキャンプでのトレーニングを認める」などが含まれていた。

新しく公開された文書にはビン・ラディンの子供でアルカイダの現在の広報役でもあるHamza bin Ladenの結婚式の時のビデオが含まれていた。そのビデオには彼と複数のアルカイダの幹部が(所在不明の)モスクで結婚式を祝っている様子が映されていた。子どもたちの叫び声がモスクに反響する中で、ローブとクーフィーヤに身を包んだビン・ラディンの息子が誓いの言葉を静かに真剣な口調で述べている様子がビデオには収められていた。このビデオはイランで撮影されたものだ。

南アフリカはリベラルの言うことを聞いたせいで崩壊したのか?

The End of South Africa

by JOSH GELERNTER

南アフリカの状況は非常に悪くなっている。国際社会からの非難を浴び続けたアパルトヘイトが1994年に終了した時には南アフリカの未来は明るいように思われていた。その8年後の2002年ではすでに、南アフリカ人の60%はアパルトヘイトの下での方が生活は良かったと答えている。とても信じられない回答だ。だがそれが2002年時点での状況が以下に悪くなっていたかを知らせるもので、現在ではさらに悪くなっている。

アパルトヘイトが終了した時の南アフリカの平均寿命はトルコやロシアと等しい64歳だった。今では56歳にまで低下している。これはソマリアと同じぐらいだ。10万人あたり132.4件の性的暴行事件が発生している。他の国を突き放して最も多い。2番目に多いボツワナは10万あたり93件で、3番目に多いスウェーデンは10万人あたり64件だ。32件を超えている国は他にない。

南アフリカの活動家Ilana Mercerはアパルトヘイトが終了する前に家族とともにイスラエルへと引っ越した。彼女の父親はアパルトヘイトを痛烈に批判していたことで当局から迫害を受けていたこともある。World Net Dailyに寄稿した記事で(アパルトヘイトに対する批判を加えながらも)その彼女が、「アパルトヘイトが敷かれた約40年の間に拘留によって亡くなった囚人の人数すべてを合わせたよりも現在の政権によって1週間のうちに殺害される人数の方が多くなっている」と語っている。南アフリカの政府は10万人あたりの殺人件数が31件だと主張している。1日あたりに換算すると50件だ。それだけでもルワンダやメキシコ、スーダンを上回り殺人事件の多さで南アフリカは世界で10番目に位置している。これは南アフリカ政府が主張している数字を用いての話だ。他の団体はその2倍以上だと主張している。南アフリカ政府の言うことを信用しないというのは分のいい賭けだ。アパルトヘイトが終了して以降南アフリカを統治しているAfrican National Congressは恐ろしいまでの腐敗で知られている。

事実上の一党独裁体制の下では民族間の融和は促進されないだろう。失業率は25%を超えている。そのような状況だというのにズマ大統領は24億円の公金を堂々と着服したばかりか自宅にプールと映画シアターを建設してさえいる。その話が発覚した直後だというのに2期目の大統領として彼が選ばれている(任期は5年間)。アパルトヘイト撤廃の柱だったLeon Louwはその事件のことを「国家の崩壊の象徴的な事例だ。政府はすべてにおいて失敗している。すべての政府の機能が麻痺している」と語っている。

彼は「多くの人はそもそも犯罪を報告しなくなっている」と付け加えている。

南アフリカは戦場以外では最も危険な場所のように思われる。もっと心配なことは実際に戦場になる恐れがあるということだ。Genocide Watchは「南アフリカは8段階あるプレ・ジェノサイド状態の6段階目に位置している」と表現している。

無政府状態へと向かっていく中で、人々は誰にこの事態の責任があるのかを知りたがっている。2010年にJulius MalemaというANCの党員が反アパルトヘイト時代に歌われていた歌を人々に思い起こさせた。その歌詞は、前述のGenocide Watchによるとジェノサイドを呼び掛けている。「Shoot the Boer, shoot, shoot.」、「Boer」とはアフリカーンス語で「農民」を指す。ようするに「南アフリカの白人」を指す。MalemaはANCから追放されヘイト・スピーチの有罪判決を受けた。それ以降彼はEconomic Freedom Fightersという対立政党を組織し、現在では内閣で3番目に大きいほど勢力を拡大している。彼が有罪判決を受けた7ヶ月後に、ズマ自身がジェノサイドの歌を公衆の面前で歌っている。彼は大衆の前でこのように歌い呼び掛けた。「(南アフリカの)白人をマシンガンで撃ち殺せ。白人はこの国から逃げていくだろう。白人を撃ち殺せ。彼らはこの国から逃げていくだろう」。YouTubeにその時のビデオが流れている。南アフリカの大統領は、巨大なスタジアムに押し寄せた数万という民衆の前で10%に相当する自国民に対して虐殺を呼び掛けた。聴衆の中には、軍服を纏った軍人までもがダンスを踊っていた。

Genocide Watchによると、(南アフリカの)白人に対する殺人率は(すでに高い)南アフリカ平均よりも4倍以上高い。さらに、その殺人率はズマがジェノサイドを呼び掛けて以降毎月上昇している。そしてその数字も今では知ることができなくなってしまった。人種毎の殺人率を発表することを止めるように警察が命令したためだ。警察は白人の自衛団から武器を奪い解体させた。相互の安全を保証していた組織を。その結果として、「彼らの家族は殺害、性的暴行、身体の切断、拷問などにさらされ続けている」と前述の団体は語っている。その一方で、『ANCの政府高官たちは白人のことを「移住者」と呼び続けている』。

南アフリカの白人はその地に350年以上も前から住み続けている。時間の長さは関係ないというのであれば、現在南アフリカに住み着いているバントゥー部族も先に住んでいたコイサン部族を追い出してそこに住んでいる。バントゥー部族が最初に南アフリカに現れたのは、考古学上の記録によると白人が南アフリカに到着する400年前のように思われる。長い時間かもしれない、だが悠久の時というわけでもない。

2017年11月7日火曜日

イスラム教によって殺害された被害者は6億7000万人を超える?

Over 670 million non-Muslims massacred since the birth of Islam

これらの数字は、歴史から忘れられた虐殺が加えられる毎に増加していく。

バルカン半島、ハンガリー、ウクライナ、ロシアでムスリムの手によって8000万人が500年間の間に殺害された。

ムスリムの手によって虐殺されたユダヤ人の人数は正確には分かっていない。

それからインドだ。ムスリムの手によって殺害されたヒンドゥーの人数は8000万人ということになっている。だがイスラムの歴史家であるフィリシュタ(b. 1570)はムスリムが4億人のヒンドゥーを殺害したと記している。

これらを加えるとイスラムが誕生して以降、ムスリムによって殺害された非イスラムの人数は6億6900万人を上回るかもしれない。

Islam: The Religion of Genocide

これを幾つかの事例と比較してみよう。

イスラムのテロリストはKKKが過去50年間に殺害したよりも多くの人を毎日殺害している。

イスラムのテロリストはタイで9.11以降、KKKが1865年から1965年の100年間に殺害したよりも多くの人を殺害している。

IRAが36年間の間に殺害したよりもより多くの市民が9.11の2時間の間にイスラムのテロリストによって殺されている。

It’s actually much worse than that: MORE PERSPECTIVE: Tears of Jihad

以下の数字はジハードによって殺害された非イスラムの大まかな人数だ。

Africa

Thomas Sowellは1100万人の奴隷が大西洋(南米や中南米)へと、1400万人がアフリカのイスラム国家や中東へと送られたと試算している。

奴隷が1人捕まえられる毎に多くの人が殺害された。

宣教師だったデビッド・リビングストンはプランテーションへと無事たどり着けた1人の奴隷に対して5人が殺害されている(捕虜にされた際の最初の攻撃の時や病気、強制的に行軍させられたことなどのせいで)と試算している。

残された人々は子供や働けない人、病人や老人たちばかりだった。働き手が殺害されたか奴隷にされたせいで彼らもすぐに亡くなった。

奴隷として送られた人が2500万人なので、1億2000万人が殺害されたということになる。イスラムはアフリカの奴隷貿易のすべてを取り仕切っていた。

Christians

改宗を拒んだことによりイスラムによって殉教させられたキリスト教徒は900万人だと云われている[David B. Barrett, Todd M. Johnson, World Christian Trends AD 30-AD 2200, William Carey Library, 2001, p. 230, table 4-10]。

アナトリアではジハードによってキリスト教徒が5000万人殺害されたとRaphael MooreのHistory of Asia Minorには記されている。

そして20世紀には100万人のアフリカのキリスト教徒が殺害された。

ようするに、アナトリア(現在のトルコ辺りの地域)では5900万人のキリスト教徒が殺害された。

バルカン半島、ハンガリー、ウクライナ、ロシアでは8000万人のキリスト教徒が殺害された。

(ここには中世にアラブがヨーロッパに持ち込んだ伝染病などは含まれていない。奴隷にされペストに大量に感染していたユダヤ人が、それまではほとんど住んでいなかったヨーロッパへと送られるようになっていた。アラブの奴隷貿易や、ジズヤを払うことにより何とか生き延びていた黒人、キリスト教徒、ユダヤ人などから病気が運ばれていった。これらの感染者たちはムスリムがイタリア半島、ギリシャ、スペインなどを征服しようとしている間にヨーロッパに広がっていった。ペストはヨーロッパの人口を半減させたと云われている)。

Hindus

Koenard Elstはジハードによって8000万人のヒンドゥーが殺害されたと試算している。

ジハードのせいで現在のインドは古代インドの半分の大きさでしかない。インド周辺の山岳地帯は「ヒンドゥーの墓場」と呼ばれていた。

8000万人+3億2000万人=4億人のヒンドゥーが殺害された。

(インドの宗教指導者、Swami Vivekanandaは歴史家のフィリシュタを参考に、800年間に4億人が殺害されたと1899年に報告している。もしムスリムがヒンドゥーを4億人殺害していれば、イスラムの被害者は8億9000万人を上回ることになる)。

Buddhists

仏教徒はイスラムの攻撃に防戦一方だった。ジハードでは、キリスト教徒とユダヤ人だけ(啓典の民だけ)がズィンミー(下僕)として生きることが許されていた。他は改宗か殺されるかを選ばなければならなかった。

ジハードによりトルコ、アフガニスタン、シルクロード沿い、インドで仏教徒が殺害された。

合計で1億人が殺害されたと云われている[David B. Barrett, Todd M. Johnson, World Christian Trends AD 30-AD 2200, William Carey Library, 2001, p. 230, table 4-1.]

Missing Data

イスラムはゾロアスター教を信仰していたペルシアを侵略して征服した。

中東のキリスト教徒も殺害した。

モンゴル帝国時代に中国人も殺害した。

それに加えてムスリムは1948年以降だけでも、1100万人のムスリムを虐殺している。それ以前にどれだけのムスリムを彼ら自身が殺害していたのかは分かっていない。

6億7000万人がイスラムによって殺害された。これはスターリン、ヒットラー、毛沢東、ポル・ポト、イディ・アミン(スンニ派のムスリム)、そして20世紀の社会主義者たちが引き起こしたジェノサイドを上回る。ムスリムによる殺害は現在も続いている。

左翼はKKKや死刑制度をこの上なく非難している。

どうして彼らはイスラムを非難しないのか?

イスラム以上に虐殺を奨励しているイデオロギーは存在しない。

これほどまでに血に飢えたイデオロギーは存在しない。

自由や民主主義、女性に対してこれほどまでに敵対的なイデオロギーは存在しない。

これはアルメニアで150万人から2000万人のキリスト教徒がムスリムによって殺害された時の様子だ(凄絶な写真なので掲載は控える)。この虐殺は大ムフティ、フセイニによってヒットラーとナチスに紹介され売り込まれた。そしてユダヤ人に対してその手法が採用され、ホロコーストが生まれた。彼に関わるまでヒットラーはユダヤ人の逮捕や抑圧にコミットしてはいなかった。ジェノサイドはヒットラーがイスラムと関わってから、そしてジハーディストたちがナチに協力しだしてから始められるようになった。

ROYE GABRIALY says:

1)ヒットラーはパレスチナの大ムフティからユダヤ人を絶滅させるという考えを聞かされた。直接的にはユダヤ人を殺害していないのかもしれない。だが彼との会話がなければホロコーストが実行されるまでにもっと長い時間が掛かったのは間違いないだろうし、殺害された人数は遥かに少なくなったはずだ。

2)イスラム世界では数千人というユダヤ人が殺害されたりコミュニティ全体が消滅させられた虐殺が数多くあった。それに加えてイスラエルはムスリムから戦争を仕掛けられたりテロ攻撃を受けている。

https://en.wikipedia.org/wiki/Category:Anti-Jewish_pogroms_by_Muslims

虐殺の期間中に多くの人が負傷し、家や農作物は破壊され女性は暴行された。そのような虐殺はほとんどの場合において記録されていない。

3)ムスリムは非イスラムの家族から女性を誘拐していた。女性たちは二度と家に帰ることはできず奴隷とされた。その女性たちのこともほとんどが記録に残されていない。それは彼女たちにとっては悲劇でしかなかった。そのせいで、少女たちは9歳までには男の子と「婚約」を済ませるようになっていた。誘拐されるのを防ぐためだ。婚約を破棄するか続けるかは後になって判断することになっていた。

イスラム教徒は4億人のインド人を殺害した?

Islamic Invasion Of India: The Greatest Genocide In History

イスラムの歴史家フィリシュタ(1560年に生まれて1620年に死亡したと見られる)はイスラムの支配下にあったインドで行われた大虐殺のことを初めて記している。彼は4億人のインド人がイスラムの支配下で殺害されたと記している。生き残った人々も奴隷にされ迫害された。イスラムに侵略される前のインドの人口は6億人ほどだったと云われている。1500年代の中頃にはインドの人口は2億人ほどにまで減少していた。

イスラムによって数百年間支配された後では、ヒンドゥー(インド人)は本来の姿を失っていた。彼らはムスリムのように振る舞っていた。(イギリス人にとっては)ショッキングなヒンドゥーの恐ろしい振る舞いがイギリスの文書には数多く記されている。それ故イギリス人たちは彼らのことをしばしば「野蛮」と呼んでいたようだ。イスラムの文化に汚染されれば彼らが野蛮になったとしても不思議はないだろう。それが、イスラムに汚染されるということが非常に破壊的であり危険な理由でもある。

イスラムに魂を破壊された他の国と同じように、インドはかつての真のヒンドゥーの国ではない。インドは以前にはそのような野蛮性とは無縁だった所にすべての人類の悪徳が文化へと組み込まれていったイスラムの影だ。そしてイスラムという病気が流入するに連れてそれらイスラムの慣習がインド文化の「普遍的な」側面として取り入れられ受け入れられていった。

ウマイヤ朝の時代(AD711年)からムガル帝国最後の皇帝バハードゥル・シャー2世の時代(1858)に至るまで都市という都市が破壊され侵略される毎に数十万という人々が虐殺されそれと同じぐらいの人々が奴隷として連れ去られていった。すべての侵略者がヒンドゥーの頭蓋骨で(文字通り)丘を築いた。イスラムによるアフガニスタンの征服によってその地で暮らしていたヒンドゥーは死に絶えることになった。この地域は今でもHindu Kush、すなわち「ヒンドゥーの墓場」と呼ばれている。

800年間に及ぶヒンドゥー教徒とシク教徒に対するアラブ人による虐殺はほとんどと言っていい程世界に認知されていない。

これに匹敵するものはナチスによるユダヤ人に対する虐殺だけだ。

ヒンドゥー教徒に対する虐殺はさらに規模が大きなもので、唯一の違いはそれが800年間続いたということだろう。

世界最大のホロコーストの証拠は当時の目撃者の説明を加えることでより精巧になる。侵略者たちそしてその後のインドの支配者たち(アラブの歴史家、書記官たち)はヒンドゥーの身に降り掛かった悲劇の記録を詳細に残している。

これらの資料には彼らがヒンドゥーに対して犯した犯罪、数千万人に及ぶヒンドゥーの虐殺、女性に対する暴行、古代ヒンドゥー教/仏教遺跡と図書館の数千という破壊などが詳細に記されている。

歴史家Koenraad Elstは「Was There an Islamic Genocide of Hindus?」という記事の中でこのように語っている。

「イスラムによって殺害されたヒンドゥーの総数ははっきりとは分かっていない。イスラムの歴史家たちによる重要な証言をざっと見たところでは、イスラムの聖戦士たちはホロコーストの被害者を優に超えるヒンドゥーを容易に殺害し得たということが分かっている」

「フェリシュタは中央インドのスルタンたち(1347-1528)が10万人のヒンドゥーを殺害した事件を表にして並べている。10万人という数字はヒンドゥーを罰する必要があると彼らが思った時に与えられる刑罰の最小限度の単位だ。しかもそれは3番目に規模の大きな地方王朝だけでの出来事というに過ぎない…」

「最大の虐殺はガズナ朝のマフムードによる侵略の期間中とデリー・スルタン朝の時代(1206-1526)に起こった」

彼は「Negation in India」という本も記している。

「イスラムによる征服はヒンドゥーにとっては苦しみでしかなかった。都市という都市が破壊され侵略される毎に数十万という人々が虐殺されそれと同じぐらいの人々が奴隷として連れ去られていった。すべての侵略者がヒンドゥーの頭蓋骨で(文字通り)丘を築いた。イスラムによるアフガニスタンの征服によってその地で暮らしていたヒンドゥーは死に絶えることになった。この地域は今でもHindu Kush、すなわち「ヒンドゥーの墓場」と呼ばれている」

Will Durantは1935年に「The Story of Civilisation: Our Oriental Heritage」という本の中でこのように主張している。

「イスラムによるインドの征服は恐らく世界の歴史で最も大量の血が流された出来事だろう。イスラムの歴史家や学者たちは虐殺を詳細に記録しそれを誇っていた。虐殺だけではなくヒンドゥーの強制的な改宗、女性への暴行、子供を奴隷として持ち帰ったこと、寺院の破壊などが誇らしく称えられていた。数百万人というヒンドゥーが剣によって強制的にイスラムへと改宗させられていた」

Francois Gautierは「Rewriting Indian History」にこのように記している(1996)。

「イスラムによるヒンドゥーに対する虐殺は他に例がなくナチスによるユダヤ人に対する虐殺やトルコによるアルメニア人に対する虐殺よりも遥かに規模が大きい。南アメリカの原住民に対するスペイン人やポルトガル人による虐殺よりも規模が大きかっただろう」

Fernand Braudelは「A History of Civilisations」の中でイスラム支配下のインドのことをこのように記している。

「この植民地支配」は「極めて暴力的だった」、そして「イスラムは制度化された暴力なくしてはインドを支配することは出来なかった。残虐行為(放火、一切の裁判なしの処刑、磔刑、串刺し刑、ありとあらゆる種類の拷問など)は日常のことだった。ヒンドゥー教の寺院はモスクを建設するために破壊された。暴力による改宗が日常的に行われた。反乱が起ころうものならば、それは即座に暴力的に鎮圧された。家は焼かれ反乱を起こした地域は跡形もなく破壊され男は虐殺され女は奴隷として連れ去られた」

Alain Danielouは「Histoire de l」にてこのように記している。

「イスラムがインドを侵略し始めた632年頃から、インドの歴史は長く苦しみに満ちたものとなった。「ジハード」という名目の下に、野蛮人たちは文明を破壊し種族全体を排除していった」

Irfan Husainは「Demons from the Past」にてこのように記している。

「歴史上の出来事はその当時の文脈に照らして判断されなければならないが、その当時の基準からしてみてもアラブ人のヒンドゥーに対する仕打ちは悲劇的なものだった。私たちの歴史書の中に描かれているイスラムの英雄たちは恐ろしい犯罪に幾つも手を染めていた。ガズナ朝のマフムード、クトゥブッディーン・アイバク、ギャースッディーン・バルバン、ムハンマド・ビン・カシム、ムハンマド・ビン・トゥグルクたちは全員が数千年経っても洗い落とされないような犯罪を犯している。ヒンドゥーにとっては彼らの故郷に対するイスラムの侵略は悲劇以外の何物でもなかった」

「彼らの寺院はモスクに改修された。偶像は破壊された。女性たちは暴行された。男たちは殺害されるか奴隷として連れ去られた。ガズナ朝のマフムードが毎年のように行っていた行軍の1つでは、彼はサムナスに住んでいた5万人の住人すべてを虐殺した。アイバクは数十万人を殺害し奴隷とした。この恐怖の歴史は長く苦しみに満ちたものだ。これらの征服は異教徒を改宗させるのは宗教的な義務であるとの主張によって正当化された。自分たちは信念のために戦っていると彼らは主張していたが、実際には彼らは虐殺や略奪を楽しんでいただけだった」

当時の目撃者たちの証言を幾つか紹介しよう。

アフガニスタンの支配者ガズナ朝のマフムードは1001年から1026年という短い期間の間に少なくとも17回以上インドを侵略している。彼の書記官が書いた「Tarikh-i-Yamini」には彼の血なまぐさい行軍の様子が記されている。

「異教徒たちの血があまりにも大量に流れ出したので(テインザーというインドの都市で)澄んでいた川の水は真っ赤に染まり人々は水を飲むことが出来なくなった。異教徒たちは砦を捨てて血で泡立った川を渡ろうとしたがその多くは斬り殺されるか捕まるか水に沈められるかのいずれかだった。5万人ほどが殺害された」

Hassn Nizam-i-Naishapuriが書いた「Taj-ul-Ma’asir」という当時の記録によると、クトゥブッディーン・アイバク(アフガニスタン出身で1194年から1210年のデリーの最初のスルタン)がメーラートを征服した時、彼はヒンドゥーの寺院をすべて破壊しその土地にモスクを建設したという。アリーガルでは、彼は住民たちを剣によってイスラムへと改宗させ従わなかった人々の首をすべて刎ねさせたという。

ペルシアの歴史家であるWassafは「Tazjiyat-ul-Amsar wa Tajriyat ul Asar」という本の中でこのように記している。アラー・ウッディーン・ハルジー(トルコ出身のアフガニスタン人でAD1295-1316頃のハルジー朝の2番目の支配者)がカンバヤットを占領した時、彼はイスラムの栄光を称えるためと称して男の住民を殺害し川を血で赤く染め、(持っていた財産をすべて奪った後で)その妻たちを自分の家に持ち帰ったという。そして2万人ほどの未婚の女は彼の奴隷とされた。

インドは深く長い文化的な歴史がある。ヒンドゥー主義は紀元前1500年頃にはすでに存在し仏教は紀元前6世紀頃には誕生していた。ヒンドゥー主義は知的、宗教的、芸術的産物を数多く生み出した。イスラムに侵略される前のインドでは、数学(ゼロの概念、代数、幾何学、10進数、所謂「アラビア」数字と呼ばれているものなど、だが実際にはヒンドゥーのものだ!)、物理学、薬学、哲学などが発展し他の国へと伝えられていった(バグダッドなどを含む)。

すでに設立されていたインドの大学に他の国から人々が訪れていた。インドの子どもたちは比較的広く行き渡っていた教育システムの中で数学、物理学、薬学、哲学など幅広い学問を学んでいた。インドの芸術と建築は素晴らしかった。そこには繁栄した人々が存在していた。それからイスラムが現れた。虐殺が始まった。人々は奴隷にされ、レイプされ、暴力を振るわれ、略奪が行われた。寺院、芸術、建築物などは破壊された。貧困、搾取、辱め、飢饉、強制的な改宗、学問の衰退、社会の崩壊と社会的病が蔓延した。イスラムにとって、イスラム的でないものはすべて無知の時代の産物であると見做され、それ故破壊されなければならなかった(もしくは強奪されイスラムのものと呼ばれた!)。この時の虐殺がきっかけでロマ族(ジプシー)が生まれ、アフガニスタンに住んでいたヒンドゥーは消滅し、パキスタンとバングラデシュが生まれることになった。

イスラムの侵略によって生じたコストは膨大なものだ。1000年から1525年の間に6000万人から8000万人が殺害されたと云われている。信じられないだろうか?1971年のバングラデシュの独立時に、パキスタン軍は9ヶ月間の間に150万人から300万人を殺害している。当時の世界はそれを逆さまにして伝えた。イスラムが暴力に走るのは私たちが彼らを虐げ続けていたせいだと!(フィリシュタ [1560-1620]によると、イスラムによって殺害されたヒンドゥーの人数は6000万人から8000万人ではなく4億人だ)。

Rizwan Salim (1997)はイスラムの侵略者が行ったことはどういうものであったのかを本に記している。

「アラビアから西アジアまでを侵略したイスラムは攻撃の矛先をインドに向け始めた。侵略者たちは数え切れないほどの寺院や彫像と仏像を破壊し、ヒンドゥーの王族の王宮や神殿から財宝を奪い取っていった。多くの男が殺害され女性は連れ去られていった。だがインド人の多くはイスラムの侵略者たちが地球上で最も進んだ文明を破壊していったのだということに気が付いていないように思われる」

もちろんインド人たちは抵抗した。だがインドには戦奴隷、戦術としての都市などの破壊もしくは虐殺、寺院の破壊、作物の破棄や農民の殺害などといった慣行は存在していなかった。戦いは軍人同士の間で通常は行われていた。敵から「戦利品」を奪うという概念は存在していなかった。インド人たちはイスラムの虐殺に対してなす術がなかった。インド人たちはジャングルや山に逃げ込むことを余儀なくされた。もしくは搾取、重税、虐殺、奴隷としての扱いに耐えるしかなかった。侵略者たちはヒンドゥーを継続的に攻撃し続け、そして将軍たち、将校たち、王族などがひっきりなしに反乱を起こしていたので自分たち同士でも戦い続けた(Khan p 205)。

かつての「インド」にはパキスタン、バングラデシュ、ベンガル地方、カシミール地方が含まれていた。アフガニスタンでは7世紀頃までヒンドゥー教と仏教が信仰されていた。16世紀には、アフガニスタンはムスリムが支配するインドのムガール帝国とペルシアのサファウィー朝とによって分割されていた。

ウマイヤ朝は初期にはヒンドゥーにズィンミーの地位を与えていた。恐らくはヒンドゥーの人数が多かったこと、イスラムへの抵抗、税収を失うことへの恐れが原因だろう。これは偶像崇拝者や多神教信仰者に対して殺害か改宗を迫るイスラムのテキストや法に違反していた。スルタンのイルトゥトゥミシュはどうしてヒンドゥーには死か(イスラムへの)改宗の選択が与えられていないのかと尋ねられた時に(1236年)、このように答えている。

「現在のインドでは、ムスリムの人数はあまりにも少ない(中略)だが我々の勢力が拡大し続ければヒンドゥーに死か改宗かの選択を与えられるようになるだろう(Lal [c] p 538)」

ズィンミーの地位が与えられていたはずにも関わらず、大量虐殺や大規模な強制的改宗、大人数が奴隷にされたことによってヒンドゥーの多くにはイスラムに改宗する以外の選択肢は残されてはいなかった。20世紀になっても偶像崇拝者/多神教信仰者の多くは改宗か死を迫られた。ヒンドゥーの戦士と男たちは殺害され女性と子どもたちは奴隷にされた。男の子たちは去勢された後に奴隷にされた。

実際の人数が記されていることはあまりない。「数え切れないほど」とか「すべての女性と子供たち」が連れ去られたというコメントが残されているだけだ。だが記されている場合にはその数は恐ろしいものだ。人を連れ去ったことに加えてムスリムは持ち去ることが出来るものであればすべてを奪っていった(コイン、宝石、布、衣服、家財道具、偶像、家畜、穀物などすべてだ。そして持ち去ることが出来なかった場合にはそれらを破壊した)。

イスラムの支配者たちは外国人だった。13世紀まで奴隷の多くはインドの国外へと連れ去られていた。デリー・スルタン朝が誕生すると(1206年)奴隷たちは労働力として用いられるようになった。他の国からも奴隷が流入するようになった。ムスリム軍は(イスラムに改宗させられた)外国人の奴隷の集団と同じく(イスラムに改宗させられた)インド人たち、そしてヒンドゥーの奴隷たちで構成されていた。

奴隷はアラーから約束されていた戦利品で、奴隷を得ることがジハードの最大の動機の1つだった。

「あまりにも大量にいたので奴隷たちの価格は非常に安くなっていった。男たちの地位はさらに下げられていった。だがこれはイスラムを称え異教を断罪したアラーの思し召しである」

(イスラムに最初に攻撃された)シンド地方のイスラムのコミュニティを形成していたのはイスラムに改宗させられた奴隷たちと少数のアラブの支配者たちだった(Khan p 299)。奴隷たちは初期にはシンド地方を征服したカシムの手によってワリード1世が支配するウマイヤ朝へと送られていた。712年から715年の3年間の間に30万人が送られていった(Khan p 299, Trifkovic p 109)。イスラムの聖戦士たちは「聖戦」に参加しようとあらゆる場所からシンド地方を目指した。カシムは唐突に解任されそして処刑された(恐らくは八つ裂きの刑によって)。カリフのハーレムに送られることになっていたシンド王国の2人のプリンセスを暴行したとの容疑が掛けられたためだ!(Lal [c] p 439)

パンジャブ王国を滅ぼしたガズナ朝のマフムードについて

17回の侵略の間に(997年から1030年)、マフムードは数十万人の奴隷をガズニー(現在のアフガニスタンにある都市)に送った。虐殺や奴隷、インド国外へと売られたことによってインドから200万人が消失した(Khan p 315)。イスラムの歴史家たちは一部ではあるが記録を残している。それによるとイスラム軍は20万人の奴隷をガズニーへと送った。1019年には5万3000人が連れ去られた。カリフは奴隷全体の5分の1を所有していてそれは15万人だと云われている。そこから75万人が奴隷にされたと推測することが出来る。マフムードの書記官によると一度のキャンペーンで50万人が連行された。

「剣が稲妻のように駆け抜け血しぶきが流星のごとく流れ出した。神の僕は異教徒を打ち倒した。聖戦士は神の敵を1万5000人殺害した。彼らは動物や鳥の餌となった。さらに神は僕に50万人の奴隷を含む数え切れないほどの戦利品をお与えになった(Khan p 191)」

マフムードの支配は1186年まで続いた。1079年の攻撃では10万人が虐殺され奴隷にされた(Tarik ?i-Alfi in Khan p 276-7,  Lal [d] p 553)

シハーブッディーン・ムハンマドの統治の後にデリー・スルタン朝が建国された。大量の首切り、奴隷、強制的な改宗、略奪や寺院の破壊が続けられた。奴隷は驚くほどの人数だった。1195年に、アイバクはラージャ・ビーマから2万人をカーリンジャル (1202)からは5万人を奴隷として連れ去った(Lal [c] p 536)。

「貧しい(ムスリムの)世帯でさえ奴隷を数多く所有するようになった(Khan 103, Lal [c] p 537)」

13世紀から14世紀に掛けてイスラムが広がっていくとともに奴隷の人数も増加していった。毎日のように数千人という奴隷が安い価格で売られていった(Khan p 280)。アラー・ウッディーン・ハルジーが所有していた奴隷の人数は膨大だった。彼は奴隷たちに足かせをはめ鎖でつなぎ辱めた(Lal [c] p 540)。

「彼は2万人以上の奴隷を所有していた。モハメドの軍はその地を完全な廃虚とし住民を殺害し都市を破壊し彼らの財宝を奪った(Bostom p 641, Lal [c] p 540)」

数千人が虐殺された。アラー・ウッディーン・ハルジー(1296-1316)は5万人の少年奴隷に身の回りの世話をさせていたが彼の住居では7万人の奴隷が働かされていたと云われている(Lal [c] p 541)。

女性は辱めを避けるため自らの手で命を絶った。

Sufi Amir Khusrauは「トルコ人はヒンドゥーを欲するままに捕まえ売り買いすることが出来た」と記している(Lal [c] p 541)。

Enslaved and Castrated

イスラム世界では被征服者は去勢された。これは支配者たちに現世での耽溺を与えるハーレムを、男たちに警備させるためだ。家族を持つ望みを奪うことにより支配者たちに忠誠を誓わせる狙いもあった。奴隷たちの人数を制限して必要な食料の量を減少させるためでもあった。去勢はイスラムに支配された地域では当たり前のように行われていたので500年間に渡るインドの人口の減少にも一役買っていただろうと思われる。

1205年にベンガル地方がBakhtiyar Khiljiによって征服されるとその地は去勢された奴隷たちの最大の供給源となった。その状態はムガール帝国の時代(1526-1857)になっても続いている。

アクバル(1556-1605)は去勢された奴隷を所有していた。チャガタイ・ハンは1200人の去勢された奴隷を所有していた!ゴールコンダ (ハイダラバード)では1659年に2万2000人の子供が去勢されイスラムの支配者に送られるか売られるかしたという(Khan 313)。

アラー・ウッディーン・ハルジー(1296-1316)は5万人の少年奴隷を所有していた。ムハンマド・ビン・トゥグルク(1325-51)は2万人をフィールーズ・シャー・トゥグルク(1351-1388)は4万人(彼は少年を集めることを趣味にしていた。そして合計で18万人の奴隷を所有していたと云われている)を所有していた。イスラムの歴史家はガズナ朝のマフムード, クトゥブッディーン・アイバク, シカンダル・ローディたちが少年に夢中になっていたと記している。ガズナ朝のマフムードはヒンドゥーの司令官ティラクに熱を上げていたと記している(Khan p 314)。

Conclusion:ムスリムの非人道的なふるまいはそのムスリムがSufis, Arabs, Afghanis, Turks, or Mogulであろうと変わらなかった。その全員がイスラムの法、テキスト、ムハンマドの例に(忠実に)従った。暴力と奴隷制は彼らがインドをほぼ完全に支配した後も続けられた。彼らの目的は単にインドを征服することではなく全員をイスラムに改宗させることだったからだ。ムスリムはインドの社会に溶け込むために現れたのではない。ヒンドゥーを排除しイスラムで塗り替えるために現れたのだ。それは彼らがすべてを所有していることの証でもある。何故ならばそれはアラーによって約束された戦利品だからだ。無神論者/偶像崇拝者そして多神教信仰者は改宗するか死ななければならない。その時になって初めてイスラムによる平和が訪れる!奴隷はアラーによって約束されたイスラムの聖戦士に与えられる戦利品の1つにすぎない。

PANKAJ says:

すべてのヒンドゥーがこれらの事実を知っている。殉死や子供との結婚、去勢などインド社会にはびこるこれらの悪習はイスラムの圧政によってもたらされたものだ。これらの醜い事実を暴くために膨大な調査が必要とされた。人々には知る権利がある。イスラムの侵略時に一体何が起こったのか?愚か者(左翼)たちに隠させてはならない。

JOE says:

馬鹿馬鹿しい記事だ。チンギス・ハーンは1200年代に数百万人のヒンドゥーを殺害しているが彼はムスリムではない。これを書いた臆病者はヘイトのプロパガンダを撒き散らしたいのだろう。

JAMES VILLA says:

君は記事を呼んだのか?どこにチンギス・ハーンのことなど書いてあった?

GINO says:

Sanjay Leela Bhansaliはイスラムの虐殺の歴史を知る歴史家を雇うべきだ。ムスリムの入国を禁止したトランプ大統領は正しい。我々インド人もそれに従うべきだ。それでも大量のムスリムが残ったままだろうが。

JOE says:

インドの歴史で最も暗い時代だって?チンギス・ハーンの時代やイギリスの植民地だった時代のようにか?

SANTOSH says:

チンギス・ハーンは中国とkhwarazemiaを攻撃した。インドじゃない。

SULTAN MAHMOOD says:

「イスラムが世界宗教に発展した唯一の理由は剣によって改宗させたからだ」という非難がイスラムに対して寄せられる。それは、イスラムが西側世界に脅威を与えていると恐怖を扇動しているイスラモフォビアたちによるお決まりの発言だ。

強制的に改宗させられたというのであればどうして中東に未だにキリスト教徒が残っているというのか?イスラムに征服された初めの頃には、この地域の大部分はキリスト教徒であり続けた。現在でもキリスト教徒がエジプト(9%)、シリア(10%)、レバノン(39%)、イラク(3%)といったように高い割合で残っている。彼らの存在がイスラムは剣で改宗させたのではないという証だ。

The Indian Subcontinent

世界最大のイスラム人口を抱える2つの国、パキスタンとインドがインド大陸を支配している。イスラムはこの地域に暮らす住民の生活すべての面において計り知れないほどの影響を与えている。だがイスラムによる支配が長く続いているにも関わらずヒンドゥー教や他の宗教はこの地域で未だに息づいている。

この地域へのイスラムの侵攻は当時の軍事的状況により正当化出来る。当時スリランカとの交易を行っていたムスリム商人の娘たちを乗せた船がシンド地方(現在のパキスタン)の海賊に攻撃された。海賊たちを討伐するためにカシムによって率いられた軍が710年に派遣された。

カシムの(この隔絶された地域への)遠征はインド社会に極めて大きな成功をもたらした。カースト制度によってインドでは身分が厳密に定められていた。それに加えて仏教徒はヒンドゥーの王族によってインドの至る所で抑圧されていた。多くの仏教徒や身分の低い人々は平等な社会を約束したムスリムの軍隊を歓迎した。

シンド地方を征服したカシムは仏教徒とヒンドゥーに宗教的自由を与えた。例えば仏教徒たちはムスリム軍が彼らにイスラムを強制するのではないかとの恐れをカシムに伝えた。カシムは彼らに宗教の自由を約束し今まで通りの生活を続けて欲しいと彼らに要請した(パキスタンの仏教徒はどこへ?)

PHI says:

嘘を言い続ける(もしくはコピペし続ける)ことは可能だろう。だがイスラム教徒が現在でも神のためと称してテロによって世界を不安定化させていることに関してヒンドゥーを糾弾することは出来ない。今現在でもそんなことをしているのはイスラムだけだ。ヒンドゥーではない。

嘘を付くこと、それもアメリカの学校で子どもたちに嘘を教えることも君たちの云うところのジハードの一環なのだろう。

SULTAN MAHMOOD says:

この地域へのイスラムの侵攻は当時の軍事的状況により正当化出来る。当時スリランカとの交易を行っていたムスリム商人の娘たちを乗せた船がシンド地方(現在のパキスタン)の海賊に攻撃された。海賊たちを討伐するためにカシムによって率いられた軍が710年に派遣された。

カシムのこの隔絶された地域への遠征はインド社会に極めて大きな成功をもたらした。カースト制度によってインドでは身分が厳密に定められていた。それに加えて仏教徒はヒンドゥーの王族によってインドの至る所で抑圧されていた。多くの仏教徒や身分の低い人々は平等な社会を約束したムスリムの軍隊を歓迎した。

シンド地方を征服したカシムは仏教徒とヒンドゥーに宗教的自由を与えた。例えば仏教徒たちはムスリム軍が彼らにイスラムを強制するのではないかとの恐れをカシムに伝えた。カシムは彼らに宗教の自由を約束し今まで通りの生活を続けて欲しいと彼らに要請した(このパターン何処かで見たような…)

YOUSEF says:

これほど愚かしい記事は見たことがない。ここに書かれていることは嘘で、そのような虐殺があったという証拠を持っていないじゃないか。殺害されたというインド人たちの墓地を見せるんだ。

PALLAV ARORA says:

Zaharnama, Baburnama, Futuh Al buldanを読むといい。すべてムスリムの手によって書かれている。ヒンドゥーの虐殺のことが詳しく書かれているのを目にすることだろう。

INFIDEL says:

アフガニスタンやバングラデシュのムスリムも最初はヒンドゥーだった。アショカ王の時代には中東でさえもがヒンドゥーの領土だった。このフォーラムで不快なコメントをしているムスリムもヒンドゥーの子孫たちだ。彼らの祖先は剣によって改宗させられた。アフガニスタン、パキスタン、インド、バングラデシュのムスリムはすべてヒンドゥーから改宗させられた人たちだ。

INDER JIT CHOPRA says:

イスラムの支配下でヒンドゥーは虐殺されていた。財産は略奪され女性は暴行され奴隷にされた。それを疑っている人は誰もいない。現在でさえも破壊された寺院の跡がそこかしこで見ることが出来る。どれだけが殺害されどれだけが暴行されたかははっきりとは分からないだろう。この悲劇はイギリスがインドに現れだした頃に初めて止まった。イギリスも1857年にインドが蜂起を起こした時に力によって抑えようとした。だが彼らはイスラムの支配者たちほど野蛮でもなければ残酷でもなかった…ヒンドゥーは歴史から何も学んでいない。ヒンドゥーは団結しなければならない。