2016年1月18日月曜日

(金融)規制は大きく緩和されたと故意に偽り続けていた馬鹿な経済学者に大量の人が騙された?Part9

NY Times Columnist: Glass-Steagall Wouldn't Have Prevented the JPMorgan Loss or the Financial Crisis

Matt Welch

ニューヨーク・タイムズ紙の「Dealbook」のコラムニストAndrew Ross Sorkinがリベラル派にとっては神聖にして犯してはならない思想に大穴を開けた。

「グラス・スティーガル法に纏わるミーム(文化的遺伝因子)が作られあまりにも繰り返し唱えられたので以下の内容がほとんど通説かのように信じられるようになってしまった。グラス・スティーガル法を廃止したせいで2008年の金融危機が発生したというものだ。その思想は過激化しほとんど宗教のようになってしまったのでグラス・スティーガル法が再び復活すれば次回の金融危機は避けることが出来ると信者たちは信じるまでに至っている」

「そんな都合のいい話があるはずもない。グラス・スティーガル法の廃止は金融危機の必須条件のように語られるようになったが、それは単なる歴史の捏造にすぎない」

「グラス・スティーガル法は前回の金融危機を防がなかっただろう。恐らく最近のJPモルガンの2000億円の取引による損失も防がなかったに違いない。その損失は投資銀行の部門でではなく商業銀行の部門で起こった」

「金融危機での最初の引き金はベア・スターンズ証券だった。商業銀行とは何の関わりもない投資銀行だ。グラス・スティーガル法は無関係だった。その次はリーマン・ブラザーズ証券だった。これもまた商業銀行とは何の関わりもない投資銀行でそれ故どちらにしてもグラス・スティーガル法の対象外だった。これらの次はメリルリンチ証券だった。これまたグラス・スティーガル法とは関係のない投資銀行だった」

「その次は保険会社のAIGでこれまたグラス・スティーガル法とは関係がなかった。ファニー・メイとフレディ・マックも加えるべきだろう。これらも同様にグラス・スティーガル法とは関係がない」。

元記事へのリンクはこちらだ。このコラムで私が気に入った部分はSorkinが当時民主党の上院議員になろうとしていたエリザベス・ウォーレンにグラス・スティーガル法の再制定は彼女が批判するものを何一つ妨げることはないということを渋々認めさせている所だ。彼女はそれ以降もその真逆の主張を繰り返しているにも関わらず。

「私との私的な会話で、彼女は金融危機を防がないにも関わらずグラス・スティーガル法の再制定を強行するのは何故なのか、その理由を語ったことがある。その理由とはそれが大衆にとって理解しやすいから、だそうで「矢面に立つことなく大衆の注目を集めることが出来るから」と語った」

「彼女はグラス・スティーガル法は単なるシンボルに過ぎないと付け加えた」。

我々が必要としていないものが、まさにそのシンボリックな政治だ。

(ほとんどの)規制は大企業の利益を守るためにあるのに大企業が嫌いな人ほど規制が好きなのは何故なのか?Part1

Separation of Commercial and Investment Banking: The Morgans vs. The Rockefellers

Alexander Tabarrok

グラス・スティーガル法とも呼ばれる1933の銀行法により商業銀行と投資銀行は分離された。預金保険機構が設立され要求預金への利子支払いは禁止され連邦準備制度が再編された。グラス・スティーガル法は銀行システムが長年抱える問題を修正し銀行危機の発生を抑えることを目的に設計された公益のための法律だと一般的に説明される。だがここではこの法は銀行のライバル同士が争いライバルを貶めるために争った結果出来たものだということを説明するだろう。

ここで問題として取り上げるのは商業銀行と投資銀行業務の分離、グラス・スティーガル法のその他の側面、そしてチャールズ・グラスその人自身だ。公益のためという詭弁が商業銀行と投資銀行の分離の正当化に用いられた。White (1986), Benston (1990), Kroszner and Rajan (1991)、そしてその他による最近の研究によりこの詭弁が理論からも実証からも正当化出来ないことが示されている。預金部門と投資部門とを統合している銀行の方がそうでない銀行よりも安全であったことが示されそれらの銀行の方が質の高い証券を発行していたことが示された。商業銀行と投資銀行の分離はモルガン家の競争力を引き下げるためのロックフェラー家による試みだったと解釈したほうがよく理解できるだろう。モルガン家もロックフェラー家も1930年代には絶大な政治的、経済的権力を持っていた。モルガン家とロックフェラー家のライバル関係を理解するにはその背景を幾らか知る必要がある。

Public-Interest Arguments

グラス・スティーガル法の賛同者は商業銀行と投資銀行の分離により安全性が高まり銀行と顧客との利害の対立が緩和されたと主張する。だがどちらの主張も少し調べただけで根拠が無いことが明らかになる。基本的な事柄として、多くの証券(株や債券など)は貸出に比べてリスクが少ない。証券投資は流動性も高く(多くの人が情報を知ることが出来るという意味で)透明性も高い。流動性の高さにより銀行はポートフォリオを素早く再調整して倒産を防ぐことが出来るし透明性の高さにより(多くの人が知ることが出来るので)預金者や債券保有者による銀行へのモニタリング能力の効率性が高まる。仮にすべての証券がすべてのローンよりもリスクが高いと仮定してもポートフォリオの多様化の利益が損なわれるために銀行に証券への投資を禁止することは銀行のリスクを高めることになる(Macey 1991)。

最高裁、経済学者、歴史家、その他はPecora-Glass Subcommittee Hearingの原稿やその他の公聴会の原稿を証券業務部門を持つ銀行が預金者に過度のリスクを負わせたことの証拠として無批判に引用してきた。だが関連するすべての文書を綿密に読み上げることによりBenston (1990)はその結論を支持する証拠が何一つないことを発見した。その公聴会は根拠のない主張とこじつけとしか言いようのない大胆な仮説で満ち溢れていた。そして統合された銀行のほうがリスクが高いという証拠は一度も提示されていなかった。その公聴会の後、分離された銀行のほうが統合された銀行よりもリスクが高いことを強く示唆する証拠が発見され続けた。White (1986)は証券部門を持たない銀行と証券部門を持つ銀行の1930年代の倒産率を調べた。彼は証券部門を持たない銀行の倒産率が証券部門を持つ銀行の4倍以上であることを発見した。

統合銀行に対する反対理由として他に挙げられるものには証券部門を持つ銀行は利害の対立を抱えているというものがある。グラス・スティーガル法の強力な提唱者であったBulkley議員はその内容を以下のようにまとめた。

「明らかに、預金者に何も売るものを持っていない銀行家はそうでない銀行家に比べて利害を離れた助言を行うことが出来るし預金者の安全を優先することが可能になる」(一部省略)。

この議論は一夜にして夜逃げするような関係性にであれば当てはまるかもしれない。だが長期の利益と評判を分析に一度含めると結論は逆になる。投資の助言者が悪い助言を行って信頼を損ねれば損ねるほど悪い助言は行われ難くなる。証券部門において悪い助言が行われれば投資家はその部門から離れてその銀行からも資金を引き出すようになる。それ故、投資家は投資銀行にのみ投資している場合よりも統合された銀行に投資している場合のほうがより強い懲罰的な行動を持って罰することが可能となる。

利害の対立の議論は投資家自身の行動によっても否定されている。統合銀行(証券子会社を持つまたは証券部門を持つ)は1920年代に債券発行市場でのシェアを急拡大させていた。例えば、すべての債券発行に占める統合銀行のシェアは1927には36.8%だったが1930には61.2%を占めるに至っていた。仮に利害の対立の議論が正しいのであれば投資家は統合銀行に殺到するのではなくむしろ離れると予想するだろう。この投資家行動にきちんとした理由を与えているのは統合銀行が投資銀行よりも(事後的に見て)質の高い証券を発行していたというKroszner and Rajan (1994)の発見だろう。

公益を優先したという説明は事実からはかけ離れている。それ故、グラス・スティーガル法を説明するには議会が恐ろしく間違えたかこの法の目的がそもそも公益のためではなかったかどちらかの説明が必要になる。

The Rockefellers and the House of Morgan[8]

連邦政府を除いて、アメリカの歴史上で最も大きく最も重要な経済的、政治的権力を握っていたのがモルガン家とロックフェラー家だった。戦前の日本の財閥のように、モルガン家とロックフェラー家はアメリカ経済のかなりの部分を支配していた。政治資金に対する制限がなかった時代には両家は政治にも大きな影響を与えた。1933にはペコラ委員会の調査によりJ.P. Morganにより市場価格よりはるかに低い価格で株を与えられた「preferred list」には少なくとも一人以上の歴代大統領、両政党からの財務省長官の補佐役、共和党全国委員会の議長、民主党全国委員会の議長、多くの政治家、閣僚などが含まれていたことが明らかになっている(Chernow 1990, p. 370)。ロックフェラー家も拠点であるオハイオから政治に深く関わっていた。伝説的な共和党員でオハイオ州の議員であったマーク・ハンナはジョン・D・ロックフェラーのスクールメイトであり生涯に渡る親友でもありビジネス上のパートナーでもあった(Lundberg 1937, p. 58)。ロックフェラーがMcKinley政権に影響を与えたのはハンナを通してであった。1896の彼の大統領選挙での当選はスタンダード・オイル社からの(当時のお金で)25万ドルの寄付によって支えられていた。この寄付は1900の選挙の時にも行われている。何百、何千という選挙資金がロックフェラーの他の会社や関連団体から流れ込んできた。

ロックフェラーはネルソン・アルドリッチを通しても政治に影響を与えていた。彼は30年間ロードアイランド州の議員を勤め、この期間に彼の純資産は5万ドルから少なくとも12億ドルへと増加していた(Lundberg 1937, p. 61)。上院金融委員会の議長としてまた共和党の院内幹事として彼は国内のお金の流れを支配した。「Enemies of the Republic(共和国の敵)」というタイトルのMcClures誌の記事でLincoln Steffensはアルドリッチを「アメリカ合衆国の支配者」と呼びCosmopolitan誌のDavid Graham Phillipsは「The Treason of the Senate(上院の大逆者)」で「Aldrich, the Head of it All」というタイトルで1章丸ごとを彼に当てた。アルドリッチのロックフェラーとの結び付きは経済的なもの、政治的なものから始まった。だが彼の娘アビー・アルドリッチがジョン・D・ロックフェラーJrと結婚するとより親密なものとなった(アビーの兄、Winthropも商業銀行と投資銀行の分離の主要人物だった)。アルドリッチを通してロックフェラーは連邦準備制度の創設に非常に大きな影響力を持った。アルドリッチは1910のNational Monetary Commissionの議長を勤め、所謂「アルドリッチ・プラン」が提唱されカーター・グラス議員や彼の助言者だったH. Parker Willisらによって僅かに修正が加えられただけで連邦準備制度の元となった(Friedman and Schwartz 1963, p. 171)。ほとんど知られていないことは彼のプランはジョージア州のJekyll Islandで開かれた1910の非公開の会合でAldrich, Morgan, Rockefeller, and Kuhn, Loeb partnersらによって長時間に渡って議論されたものだということだ(Chernow 1990, p. 127; Rothbard 1984; Kolko 1963, chap. 8)。

ロックフェラーの富と権力はスタンダード・オイル社から流れ込んでいた。だが後にはそれが銀行や他の産業へも拡大していく。モルガン家の力はJ.P.モルガンの富から生じているのではなくモルガン家の戦略によって生じていた。20世紀の始め頃にアメリカの産業は大転換期を迎えていた。J.P.モルガンとその銀行はこの大転換期のまさに中心にいた。1901にモルガンは過去最大規模の合併を取り仕切りGNPが2000億ドルと云われている時代に時価総額が140億ドルのU.Sスチールを誕生させた。同規模の合併は現在では時価総額3兆5000億ドルに匹敵するだろう。モルガンへの手数料だけでも1993のドルで1500億ドルだったと云われている。モルガンの影響力はその当時のすべての産業に及び特に鉄道、電力、鉄鋼で顕著だった。

1912のPujo hearingsではJ.P.モルガンとその関連会社が数十社ものアメリカの大企業の筆頭株主であったことを明らかにした。合計で彼らは112の企業で72の取締役を送り込んでいた(Chernow 1990, p. 12)。DeLong (1991; 1992, p. 17)はモルガングループがアメリカのすべての産業の40%と何らかの形で関わりがあったとしている。その21年後でもPecora hearingsは同様の結論に達している。モルガンとその関連会社は89の企業に126の取締役を送り込み合計で2000億ドルの資産を持ちGNPの3分の1を占めるに至っていた(Chernow 1990, p. 366)。

政治的力はモルガン家の経済力から生じていた。1896にWilliam Jennings Bryanは民主党の全国大会で「人々を金の十字架に磔てはならない」という有名な嘆きとともにスピーチを締め括っている。彼はここでその前年に金本位制を救ったJ.P.モルガンに関して語っている。モルガンの関連会社とその提携企業は大統領から政治的エリートまでを含む重要な助言者であったし金銭的な支援者でもあった。例えば、1904の選挙時にはモルガン銀行はセオドア・ルーズベルトに15万ドルの選挙資金を与えその見返りにモルガンのパートナーであるGeorge Perkinsがルーズベルトの政治的任期を通して彼の主要な助言者となった(Chernow 1990, p. 112)。1912にルーズベルトに立候補するように圧力を掛け選挙資金に50万ドルを提供したのはPerkinsだ(Hofstadter 1974, p. 304)。

1912の民主党全国大会でBryanはモルガン家の代理人が民主党の大統領指名を受けるべきではないとモルガン家を再び攻撃した。だがモルガンの力が絶大だった1924には彼はモルガン家の顧問弁護士だったJohn W. Davisの指名を受け入れざるを得なかった。

モルガンとロックフェラーの権力に誰も対抗しようとしなかったという訳ではない。先程も述べたようにWilliam Jennings Bryanはモルガン家とロックフェラー家を執拗に攻撃した。そしてウッドロウ・ウィルソン大統領の下で国務長官として連邦準備制度に対する支配と戦った。彼の仲間はLouis Brandeis, Felix Frankfurter, and Lincoln Steffensだった。特にBrandeisは弁護士としてウィルソン大統領の顧問として最高裁判所の陪席判事として生涯を通してJ.P.モルガンとその関連会社を攻撃した。Huey Long, Robert LaFolletteやその他の政治家は超巨大なトラストを恐れる大衆から根強い支持を得ていた。恐らくより重要だったのは政治家同士が両家の陣営に別れてお互いを攻撃しあっていたことだ。モルガン家を支持する者達はロックフェラー家を攻撃していた。ロックフェラー家を支持する者達はモルガン家を攻撃していた。実際、大衆の怒りとロックフェラー家による政治操作が商業銀行と投資銀行の分離の原動力だった。

モルガン家とロックフェラー家はよく衝突していた。モルガン家の主な競争相手はRockefellers (oil, banking)、Harrimans (railroads)、Kuhn, Loeb and Lehman Brothersなどの銀行家らの恐るべき連合だった。20世紀に入ると、John D. Rockefeller, Jr., W. Averell Harriman, son of E.H. HarrimanそしてKuhn, Loeb, and Lehman Brothersなどの銀行家の第2世代がモルガン家に対する攻撃を主に煽動していた。1933の商業銀行と投資銀行の分離はこの闘争の最も重要な局面だった。この攻撃はChase National BankのWinthrop Aldrichによって導かれ組織された。

Genesis of the Banking Act

ジョン・D・ロックフェラーが銀行業に参入するようになったのはスタンダード・オイル社の現金をNational City Bankに投資してからだ。James StillmanはNational Cityの社長で彼の息子の2人はウィリアム・ロックフェラー(ジョン・D・ロックフェラーの兄弟)の娘達と結婚した。これにより親戚関係が結ばれることになった(Lundberg 1937, p. 10)。スタンダード・オイル社の現金預金はすさまじい額だったのでこれだけでNational Cityはニューヨークで最大の銀行の一つとなったほどだった。ロックフェラー家、特にJohn D. Rockefeller, Jrは石油業界のように銀行業界を支配したいと欲していた。そして1911にはRockefeller, Sr.はEquitable Trustに莫大な投資を行った。Equitableを拠点として、再三に渡る合併を繰り返しロックフェラー家は銀行業界で勢力を急速に拡大していった(see Johnson 1968, pp. 80–110)。1920には小さな銀行にしか過ぎなかったEquitableは全米で8番目に巨大な金融機関へと変貌を遂げ1920年代に渡ってさらに合併を繰り返し勢力を拡大させていった。

1929にはWinthrop Aldrichはこの銀行の頭取になっていた。Winthrop AldrichはJohn D. Rockefeller, Jr.の義理の兄弟で有名なネルソン・アルドリッチ(連邦準備制度の主要な創設者)の息子だった。弁護士修行中だった彼は銀行業界に入ることを嫌がっていた。だがキャリアの初めから彼を導いたJohn D. Rockefeller, Jr.の要請を受けて彼は銀行業界に入った(see Johnson 1968, p. 93; and Collier and Horowitz 1976, p. 159)。彼の下でEquitableはモルガンが支配していたChase National Bankと合併した。その当時のチェースの取締役はAlbert H. Wigginだった。彼はFirst National BankのGeorge F. Baker and Henry P. Davisonの子飼いで両者はモルガングループで重責を担っていた(Johnson 1968, p. 101)。Aldrichは新しく組織されたチェース銀行の頭取となりWigginは理事会の議長となった。

チェース銀行の頭取の立場は当初は強いものではなかった。1920から1929の期間に5人がチェース銀行の頭取を務めたがWigginだけが2年以上務めた。このことは権力を持っていたのはWigginであることを示している。だがAldrichは自分に忠実な人間を昇進させ銀行取締役の人数を削減することにより自身の権力を急速に確立していった。AldrichがWiggin, Thomas Lamontそしてモルガン家と協力関係にある他の取締役たちによる反対にあうという不都合な社内での闘争が後に続いて起こった。1931頃にはAldrichは支配的な権力を確立しWigginは不自然な額の年金を受け取って退職に追いやられた。

ルーズベルトが大統領に就任した1933は大恐慌のまさに真っ只中だった。失業者は1500万人を超え実質GNPは1929の水準から30%近く減少し投資はほとんど皆無という状態だった。大衆は1920年代の金融的好況をよく覚えておりこれをそもそもの原罪だと見做した。1920年代には恐れられ敬われていた銀行家や投資家は1930年代には逆の立場に追い込まれることになった。政治家は大衆の敵意を煽った。ルーズベルト大統領はかつてない権力を要求する際に、「大衆の利益のために自己を犠牲にするよく訓練された忠実な軍隊に育て上げる」と称して「金貸し」を「無慈悲な」、「恥知らずな」、「利己的だ」と攻撃した。議会ではPecora公聴会とNye公聴会で同様の非難が巻き起こった。1936のNye公聴会ではモルガン家を「死の商人」と呼びアメリカの第一次大戦への参戦の責を負わせた。Pecora公聴会は銀行の歴史を「利益、強欲、拡大、権力、支配」だと示そうとした。

大恐慌とPecora公聴会によって煽動された敵意がなければ商業銀行と投資銀行の分離は恐らく起こらなかっただろう。Pecora公聴会ではジャック・モルガンが1930以降所得税を支払っていないことが明らかにされた。20人のモルガンの協力者たちは1931または1932以降誰も所得税を支払っていないことも明らかにされた(Chernow 1990, p. 366)。モルガングループのその他のメンバー、特に狙い打たれたAlbert Wigginも節税対策を行っていると非難された。実は「節税対策」と呼ばれたものはすべて合法でほとんどが株価の下落による大損失によるものであったのだが大衆は激怒した。Seligman (1982, p. 29)は銀行家が「ほとんどヒステリーとしか言い様のない怒りの矛先」になったと報告している。大衆は何らかの行動を求めたがその方向を決定するのはWinthrop Aldrichなどの内部者に任せられた。

Aldrichとロックフェラーグループは当初Pecora公聴会による攻撃に晒されていた。Wigginは未だにChase Nationalの代表だと思われていた。そして彼に対する不人気がこの銀行に反映されることになった。他のロックフェラーの銀行、National Cityも取り調べられその会長Charles Mitchellと最高責任者Hugh Bakerは1933の2月に辞任に追い込まれることになった。Aldrichはロックフェラー家の銀行を守る方法を探さなければならなかった。

3月7日に、National City Bankの新会長James Perkinは銀行の証券部門を切り離すと突然宣言した。3月8日に、AldrichはPerkinの突然の宣言に続き銀行業界の多くから「裏切り」と呼ばれる改革案を大々的に打ち出した。Aldrichは投資銀行と商業銀行との結び付きを「ほぼ不可避的に破滅へと導く」として断罪した。彼は商業銀行と投資銀行業務とを分離させるためにグラス法案を支持した。だが彼はその法案が不十分だと主張した。彼は(1)プライベートバンクは商業銀行と同程度に規制されなければならない(2)プライベートバンクは商業銀行部門と投資銀行部門とを分離させられなければならない(3)銀行と証券会社の役員間の相互交流を認めるべきではないと主張した。

彼の戦略の目的は同時代の人々には明白だった。NYTは3月9日に「Aldrich Hits at Private Bankers in Sweeping Plan for Reforms」と記事にしている。NYTは「ジョン・D・ロックフェラーの代理人である」Aldrichが「ウォールストリートの最も強大な一族」を攻撃していると記した。他の何よりも、「J.P.モルガンとその関連会社への直接攻撃」と題したプログラムがそれを物語っている。「W.W. Aldrich、モルガン家への初めての挑戦者」という紹介がWorld Telegramに数日後に掲載された。ウォールストリート・ジャーナルはより婉曲的だったが、それでもロックフェラー家によるモルガン家への陰謀を仄めかさざるを得なかった。

モルガン家にとって最も重要だったのはAldrichの挙げた3番目のポイント、役員間の相互交流の禁止だった。グラス・スティーガル法のどの側面よりも商業銀行と投資銀行業務を分離するものはこの点だった。モルガンの20人のパートナーの中で10人が少なくとも一つの商業銀行の取締役だった(New York Times, March 9, 1933)。その上に、First National BankのGeorge F. Bakerのようにモルガンが支配している銀行の支配者たちが他の銀行の取締役であることも頻繁にあった。モルガングループの銀行間の横の結び付きがどれぐらい強かったかはJ.P.モルガンとその関連会社が60人にも及ぶ他の銀行の支配者や取締役へ「貸出」を行っていたことを明らかにしたペコラ委員会の発見に最も表れているだろう。ジャック・モルガンが述べているように「彼らは我々の友達であり、彼らが良き友人で信頼でき忠実であることを我々はよく知っていた」。

モルガングループの横の結び付き(銀行だけでなく多くの企業にもそれが及んだ)は逆選択やモラルハザードの問題の克服に加えて取引費用や情報費用を節約できたことを意味する。モルガン家の銀行は大きくなかった。だが商業銀行との結び付きによりJ.P.モルガンとその関連会社は非常に少ない自己資本額で大量の証券を発行することが出来た。例えば、U.S.スチールが新規の証券を発行しようと思ったらFirst Nationalのような巨大関連商業銀行からの融資を受けたJ.P.モルガンとその関連会社によって購入されるだろう。U.S.スチールはすべての過程が瞬時に完了する必要はないしあるモルガンの銀行から他のモルガンの銀行へと預金を移し替えるだけで済むだろう(そして資金が実際に支出される時にはゼネラル・エレクトリックのようなこれまたモルガンと関係のある企業に向かうだろう)。それからJ.P.モルガンとその関連会社は証券を売りさばきそれを預金する。他の投資銀行は大量の証券発行をファイナンスすることが出来なかった。何故ならその過程で必要とされる巨額の資金を調達できたのは巨大商業銀行だけで他の投資銀行はそれとの強い結び付きを欠いていたからだ。情報が無料であればどのような規模の投資銀行であっても良い投資に対しては資金を調達することが出来ただろう。だが取引費用とモラルハザードが存在する世界では商業銀行と強い結び付きのない投資銀行への信用は制限された。グラス・スティーガル法の本質は預金銀行が証券を発行することの禁止ではなく役員間の相互交流の禁止だった。Aldrichだけが議会を通してこれを推し進めた。

商業銀行と投資銀行業務の分離はChase Nationalや他のロックフェラー家の銀行にとっても負担だった。実際、WigginとChaseの議長Charles McCainが分離の最も声の大きい批判者たちだった。それ故、Aldrichの行動は政府による参入の制限を通した利益追求の試みと単に理解することは出来ない。彼の行動はライバルの費用を押し上げる試みと理解すべきだ。「ライバルの費用を引き上げる」理論は自身の費用よりライバル会社の費用が増加する場合において産業の費用を引き上げることにより企業の利益を拡大することが出来ることを示している(さらに需要が弾力的すぎない場合)。産業全体の費用を押し上げる規制を考えてみよう。だが企業間の異質性によりB社の費用がA社の費用よりも増加したとする。2つの影響がある。費用と価格が上昇するので産業全体は縮小するだろう。そしてA社は顧客の幾分かを失う。だがA社はB社から離れた顧客の幾分かを得るだろう。A社の価格はB社ほどは上昇していないからだ。すなわち、第2の効果が第1の効果を上回ればA社はその規制から利益を得ることが出来る。この種の行動の古典的な例は資本集約的企業が労働集約的ライバル企業に対して労働組合の組織化を支持することだ(Williamson 1968)。

この理論はモルガン家とロックフェラー家の闘争に一致する。モルガン家の強みは役員間の相互交流と統合された銀行の上に成り立っておりその傾向はロックフェラー家の銀行よりも遥かに強い。チェース銀行の証券子会社は大恐慌の間に利益を生み出していなかった。さらにペコラ委員会による調査を受けていた。このことは何故Aldrichが商業銀行と投資銀行部門の分離を議会に働きかけたのかを説明している。ロックフェラー家が分離によって受けるダメージはモルガン家よりも小さかった。さらに政権を支持することから得られる利益も計算できた。それが顕著に表れているように、Aldrichが分離を提案してからはチェース銀行への調査は即座に打ち切られた。

名目上の法案の作成者である、カーター・グラス議員は一度たりともプライベートバンクを規制したいと考えたことはなかった。Aldrichのロビー活動の前では、グラス法案の原稿には連邦政府の認可を受けた商業銀行である国法銀行だけが分離されると記されていた。グラス議員が民間銀行を規制することを躊躇ったのは憲法上の論争を巻き起こすことが理由の一部にあっただろう。だがグラス議員もまたモルガン家と結び付きがあった。グラス議員はモルガンのパートナーRussell Leffingwellの親友だった。(モルガンから出向した)彼はグラス議員がウィルソン大統領の下で財務省の長官だった頃の主席補佐の一人だった。彼らはこの頃に極めて親しい仲となりLeffingwellがモルガン家に戻ってからも頻繁に連絡を取り合った。彼はグラス議員の選挙資金への寄付を募りグラス議員は彼の銀行政策に関するコメントをメモに記した。ルーズベルト大統領がグラスに財務省長官のポストを打診した時に彼はLeffingwellと他のモルガン家の人間であるParker Gilbertを部下にしたいと示唆した。ルーズベルト大統領はモルガン家との如何なる関わり合いも拒否しグラスの選択に拒否権を発動した。このことがグラス議員が財務省長官のポストを最終的に拒否された理由の一つになった。Aldrichの提案がグラス・スティーガル法案の原稿に記された時にグラス議員はモルガン家を攻撃するその提案に彼が反対していることをLeffingwellへの手紙に記している。だがルーズベルト大統領が彼の反対を押し切って無理やり法案にねじ込んだ。

Aldrichは突然の発表を行った後も積極的にロビー活動を行った。3月の間中、彼はニューヨークとワシントンD.C.を飛び回りルーズベルト大統領、グラス議員、商務省長官Daniel Roper、そしてルーズベルト政権のその他の高官と頻繁に会合を開いた(Johnson 1968, p. 156; Ferguson 1984, p. 82)。Roperは特に協力的だった。彼はグラス議員と銀行委員会に政権がAldrichの立場を支持するという内容の手紙を送った。グラス議員は彼の委員会が排他的な権限を持つと当然考えていたのでRoperの横やりは彼をいらいらさせるものだった。それにも関わらず、政権はその考えを暗に伝えることが出来た。Aldrichは所謂ハウス大佐からも支持されていた。ウッドロウ・ウィルソン大統領やフランクリン・ルーズベルト大統領の助言者として有名な人物だ。ハウス大佐の娘はGordon Auchinclossと結婚していた。彼はAldrichの最も親しい親友でチェース銀行の取締役の一人でもありAldrichはこのコネクションを用いてハウス大佐にロビー活動を仕掛けた(Ferguson 1984, p. 82)。ハウス大佐はまずRoperに、それからルーズベルト大統領と連絡を取り彼らにAldrichと会うよう要請した。ルーズベルト大統領の従兄弟で親友でもあるVincent Astorもまたチェース銀行の取締役の一人だった。彼もまた2つの集団を一つにするのに貢献した(Ferguson 1989, p. 15; Burch 1980, p. 21)。Aldrichのロビー活動はグラス議員が(嫌々ながら)彼の提案を原稿に加える事を承諾した時に実を結んだ。それらは預金預かり銀行に証券の発行または引受を禁止する第21項と役員間の相互交流を禁止する第32項に記されている。

Aldrichはさらにペコラ委員会の注意をチェース銀行から逸らさせモルガン家の方へと向けさせた。ニューヨーク・タイムズは1933の3月9日の記事で彼の改革案に隠された動機を以下のように結論づけている。

「上院の調査委員会のは計画は公式には公開されていないもののChase National Bankの証券子会社とその他の重要な銀行の提携先はNational City Companyの調査の時と比較して軽い調査しか行われないことが伝えられている」。

Aldrichの工作の結果は数週間後には明らかになった。ビジネスウィークは「証券子会社を傘下に持つ商業銀行は一息つき、上院の株式市場調査委員会の調査の目を自分達から(中略)J.P.モルガンとその関連会社などのプライベートバンクへと逸らすことに成功した」と述べている。

「ロックフェラー家に属し世界最大のChase National Bankの頭取であり工作を行ったと断定されているWinthrop Williams Aldrichは非常に狡猾だったので、モルガンとその仲間たちは今では彼と政府からの攻撃で板挟みになっている」。

W. Averell Harrimanの銀行、Brown BrothersとHarrimanもペコラ委員会からの調査を免れた(Schlesinger 1958, p. 441)。ハリマンはフランクリンとエレノア・ルーズベルトの長きに渡る友人だった。彼はその結び付きを用いてルーズベルト政権の中で影響力を行使した(Burch 1989, p. 55)。4代の政権に仕える間に彼は様々なポストに就任した。その中にはDepartment of Commerce’s Business Advisory Councilの議長、National Recovery Administrationの責任者、商務省長官などが含まれる(Kouwenhoven 1968, p. 202)。

Business Advisory Council (BAC)は基本的には大企業の為のロビー団体だったが正式に商務省の下部組織となってからはより強力になった。BACは1933の6月に確立され新政権と国の経済最高実力者との間の会合の場を提供した(Burch 1980, p. 18)。初期には中小企業にも開かれていたが(そしてモルガンとロックフェラー双方が参加していたが)ロックフェラーが急速に支配するようになる。ハリマン(ロックフェラーとビジネス上の結び付きがった)は初めはBACの副議長を務めそれから議長となる。AldrichもまたBACのメンバーで1934の11月にBACの銀行法制委員会の議長になった(Johnson 1968, p. 198)。ロックフェラーに関係する他のメンバーにはゼネラル・エレクトリックの最高経営責任者兼National City Bankの取締役Gerald Swopeやスタンダード・オイルの最高経営責任者Walter C. Teagleなどが含まれていた(Burch 1980, p. 19)。

(*全体的に元の文章に誤植が多すぎて意味が通らない部分があるかも)ハリマンの銀行であるブラウン・ブラザーズと1931に設立されたハリマン(最近合併してハリマン・ブラザーズとなった)は深い関係にあった。ブラウン・ブラザーズは当初は預金銀行業務と投資銀行業務を取り扱っていた。だが1929の株式市場の大暴落で巨額の損失を計上すると(ハリマンの指導の下)彼らは商業銀行業務に専念するようになった。1933頃には商業銀行での彼らの存在感は非常に大きなものとなっていた。それ故、ブラウン・ブラザーズとハリマンはモルガン家を攻撃することから利益を得る立場となる。ハリマンとロックフェラーの利害は一致していたしハリマン自身もルーズベルト大統領と深い関係にあったので彼と彼のパートナーは明らかに銀行法制に影響を及ぼす上で最高の立場にあった。

銀行法の第8項は公開市場操作の実行権をニューヨーク連銀から剥奪し連邦準備制度理事会へと移している。モルガン家は伝説的なニューヨーク連銀の総裁ベンジャミン・ストロングを通して1920年代の金融政策を支配した。第8項はストロング体制から利益を得ることが出来なかった人々からの反撃だった。

ストロングは生涯を通してモルガン家と深い関係を保った。Chernow (1990, p. 182)が記しているように、「ストロングの履歴はモルガンとの関係で埋め尽くされていた」。これは文字通りに正しい。1904に後にモルガンのパートナーとなるHarry DavisonはBankers Trust Companyの理事長として彼を雇う(モルガンの別のパートナー、Thomas Lamontの後継として)。バンカーズトラストはモルガンの銀行が合法的には取り扱うことの出来ないトラスト事業への架け橋としてモルガンによって設立された。1907の混乱期に、彼はモルガンの信頼できる代理人かつ監査役の一人となった。1914には彼はバンカーズトラストの最高経営責任者となっていて、そしてその年に新たに創設されたニューヨーク連銀の総裁になるかを打診された。

彼は当初はこの申し入れを断ろうと思っていた。だが長い休暇を過ごしている間に、Harry DavisonとPaul Warburgが彼の説得に成功する。ストロングはモルガンのパートナーHarry Davisonと特に親しい関係にあった。彼は幾つもの悲劇に遭遇する。彼の最初の妻が1905に自殺を図った。そして娘がその数年後に死亡する。悲劇に直面した彼は残された3人の子供を正しく育てることが自分に出来るのかと自問するようになる。そういう訳で彼の友人、Davisonは彼らを自分の家に招き入れたのだった。

ストロングがモルガン家と深い結び付きを持っていたからといって彼がモルガン家によって支配されていたことの証拠と見做すべきではない。それは安直な解釈であるし彼の伝説的な意志の強さを思えばあり得ないことだ。だがストロングはモルガン家に極めて近い環境にいた。同じ近所に住んでいたし同じカントリークラブに所属していた。これまで見てきたように彼の経歴はモルガンのパートナーによって導かれている。そして彼の最も親しい友人はモルガンのパートナーだった。ストロングの伝記者、Lester Chandler (1958, p. 25)は「彼の考えと将来に大きな影響を与えた3人の人間はHenry P. Davison、Thomas W. Lamont、Dwight W. Morrowだった」と記している。彼ら全員がJ.P.モルガンの為に働きモルガン家の実質的なパートナーだった。

ベンジャミン・ストロングと同様にモルガン家は強固な国際主義者だった。モルガン家のニューヨーク支部J.P.モルガンとその関連会社に対応するのはロンドンのMorgan Grenfell and CompanyとパリのMorgan et Compagnieだった。Edward GrenfellはMorgan Grenfell and Companyの上級パートナーでありイングランド銀行の取締役でモルガンのイギリス政界との主要な架け橋だった。第一次世界大戦の開戦期に、Davisonはイギリスへ行きGrenfellの助けを借りてJ.P.モルガンとその関連会社がアメリカでのイギリスの購入代理人として指名される契約を取り付けることに成功した。フランスもモルガンを資本の出資人かつ購入代理人として指名した。手数料を1%として(さらにU.S.スチールのようにモルガン関連会社からの直接購入も併せて)モルガンはイギリスだけでも30億ドルの物資の供給を独占的に行った。これはイギリスの総購入額の半分に相当する。

購入に際してイギリスとフランスは巨額の借入を必要とした。そして戦争期間を通してモルガンは15億ドルを調達した。この借入をファイナンスするのにモルガンはストロングに協力を依頼した。連邦準備制度を実質上完全な支配下に置いていた彼は巨額の資金を商業銀行に貸し付け貿易をファイナンスするための市場を創設し金の流入を倍にし同盟国へローンが流れるように公開市場操作を行い金融を緩和した。戦争が終わるとストロングとモルガン家は国際貿易を維持するために協同して働き、特にイギリスが金本位制に復帰することに尽力した。彼の役割としてストロングはアメリカの金利がイギリスの金利より低くなるように公開市場操作を行った。イギリスから金が流出しないためにだ。ストロングはアメリカのクレジット市場の状態も緩和したままにした。ヨーロッパへの復興債がアメリカで活発に購入されるようにするためだ(e.g., Chandler 1958, pp. 271–71 and note 42)。モルガン家は投機的な攻撃から守るためにイギリス財務省に対して1億ドルの信用を確保することによって協力した。

ストロングの行動は少なくとも3つの集団から怒りを買った。シカゴの銀行家たち、カリフォルニア人のA.P. Giannini、カーター・グラス議員だ。孤立主義者と中西(北)部の親ドイツ派(*恐らくドイツからの移民が大量にいたため)がモルガン家のイギリスへの財政支援を戦争挑発的だとして非難した。シカゴでは親ドイツ派の預金者がイギリスへの貸付に協力した銀行へのボイコットを煽動した(Chernow 1990, p. 200)。さらに、1920年代後半にはシカゴの銀行は短期の政府証券に大量に投資していた。従ってストロングの低金利政策は彼らの利益を直撃することになった(see Epstein and Ferguson 1984, and Chandler 1958, pp. 439–53, on the ire of the Chicago bankers)。1928頃にはシカゴの銀行はストロングの支配に対して真っ向から反対の立場を表明し、シカゴの新聞各紙はストロングの辞任を要求していた(Time, July 30, 1928)。

カリフォルニア州の銀行家、A.P. Gianniniもまたニューヨークの銀行から締め出されていると感じていた。彼はニューディールの銀行改革を強く支持していた。その結果としてカリフォルニア州の大企業を代表する非公式のワシントンへの大使となった。彼はグラス・スティーガル法の幾つかの小さな条項の草案者となった。特に、国法銀行の少数株主に持ち株に応じて連邦準備制度理事会の代表者を選出する権利を与えた第5114項は彼の手によるものだ。彼はこの少し前にNational City Bankの10分の1の株式を取得したが権力からは締め出されたことがあった。彼はこれをモルガンの反対のせいだと信じていた。彼はモルガンが支配するニューヨーク連銀よりもワシントンが支配する連邦準備制度のほうが利益を得られるだろうと考えルーズベルトと政権内部の人間、特にMarriner Ecclesと議論を交わし制度理事会の権力構造をシフトさせるためのロビー活動を行った。

カーター・グラス議員もストロングの公開市場操作の支配に反対していた。他の多くの人と同様にグラス議員もストロングが単独で強力な権力を手にしすぎていると考え彼の金融拡張的政策が1920年代の過剰な投機と株式市場の熱狂の最大の原因だと考えていた(see Chandler 1958, pp. 163–64, 449–50)。連邦準備制度の人選にいつでも反対していたわけではなかったが彼はニューヨーク連銀の無制限の権力に対しては反対する人選を行っていた(Chandler 1958, p. 449)。

これら3つの敵対勢力に加えてカリスマ的なベンジャミン・ストロングの1928の死去が重なってモルガン家が連邦準備制度の支配を保持することは難しくなった。第8項はその論理的結末だった。

Conclusion

商業銀行と投資銀行業務の分離が公益に基づくためのものだったとする議論は根拠がなく銀行法の議会の通過を説明することが出来ないように思われる。この分離は民間の利益に基づくためのものだったという説明のほうが出来事をよく説明できる。Shughart (1988), Macey (1984), and Benston (1982)は投資銀行家のような民間利益団体がこの銀行法から利益を得たと議論した。彼らはこれらの利益団体がこの法案を支持したと推測したが直接的な証拠は示していなかった。

この記事での歴史記録的方法ではどのような人物がこの分離を推進したのかをそれぞれ個人として特定している。他の誰よりもロックフェラーの代理人であったWinthrop Aldrichがこの分離の推進者だった。W. Averell Harrimanのような反モルガン銀行派の助けを借りてAldrichはこれを議会に通過させた。この分離はロックフェラー銀行グループの費用も引き上げたがそれ以上にモルガン家に大きな損害を与えた。そしてモルガン家に対してロックフェラー家に決定的な優位性を与えた。

世界中に大不況と貧困をもたらした金融危機の真の原因はスティグリッツが絶対安全だと太鼓判を押して強力にプッシュした政府系住宅金融機関だった?Part4

Senator Warren Gets Taken In by a False Analysis

Peter j. Wallison Edward J. Pinto

先週、エリザベス・ウォーレン議員は政府の住宅政策とサブプライム・ローンとの関連性がセントルイス連銀に掲載された学術論文によって否定されたと発言した。我々はその論文を以前から知っていた。そして住宅市場がどのように機能しているのか理解していないと筆者たちに助言もしている。だが、その論文はまったく修正されずウォーレン議員がそれに今頃飛びついたという経緯がある。

その論文のタイトルは「Did Affordable Housing Legislation Contribute to the Subprime Securities Boom?」で筆者はAndra C. Ghent, Ruben Hernandez-Murillo, and Michael T. Owyangだ。以下で示すように政府の住宅目標がサブプライム・ローンの需要を大幅に増加させた。この理由により、ファニーとフレディがこれらのローンを担保とした証券の最大の購入者となった。以下の図で示すようにGSEは2004に発行されたこれらすべての証券の40%以上を購入している。そのわずか3年前から劇的に上昇している。シェアが劇的に上昇したのはGSEが2002、2003、2004とこれら証券の半分以上を購入し続けたためだ。

カントリーワイドや他のアグリゲーターが知っていたように彼らはGSEを迂回してPMBS(住宅ローン担保証券)を直接市場に売却することが出来た。そしてGSEのPMBS市場拡大への表面上の貢献は低下した。それにも関わらず、2007にこの市場が崩壊するまでGSEがPMBSの最大の購入者であり続けた。従って、セントルイス連銀の論文のタイトルに対する答えは疑う余地なくイエスとなるだろう。GSEの購入によってその市場は拡大し崩壊するまでそれが続いた。

The flaws in the St. Louis Fed paper

上で述べたように、我々はこの論文を読んだ後にAndra Ghentに論文の誤りについて助言を送った。だがそれが修正されることはなかった。今はこの論文がある議員によって聴衆の前で引用されているので誤っている部分をもう一度指摘しようと思う。

その論文の理論となっているのは、政府の住宅目標がサブプライム・ローンの需要を換気したのであれば(i)政府からの住宅補助を受けられる国勢統計区を起源とする住宅ローンの数と(ii)そうではない国勢統計区の住宅ローンの数とには統計的に見て有意な差があるはずだというものだ。その論文の理論の中では政府の住宅目標となっている国勢統計区でより多くの住宅ローンが貸し出されていなければならないということになっている。「原資産の数の増加は」と述べ、「貸し手が特定の集団へ意識的に貸出を行っていることを示唆するだろうしそれによりサブプライム・ローンの拡大へと繋がるだろう」と論文は述べている。筆者たちは有意差を見つけることが出来なかったので彼らは政府の住宅目標がサブプライム・ローンの拡大に対して影響を与えていなかったと結論した。

論文の筆者たちの貸し手への言及が彼らの理論の欠陥を露わにしている。貸し手またはオリジネーター(原資産の所有者)は政府の住宅目標が掲げる込み入った所得の基準や地域の基準を住宅ローンが満たしているかどうかの判断に関してまったく何の役割も果たしていない。貸し手が知っていたことといえばサブプライム・ローンに対して新規の大きな需要があったということだ。すなわち伝統的な査定基準が緩和され今ではGSEに直接売却することが可能になり以前は限られた需要しかなかった住宅ローンに対する需要が大幅に拡大したということだ。

借り手の家が特定の統計区の中にあるとかまたは借り手の所得がその地域の所得の中央値の何%であるとか、単にサブプライム・ローンの借り手を見つけることだけを憂慮している原資産の貸し手にとっては関係がない。アグリゲーターの役割は地域のレベルで貸し出された住宅ローンを大量に買い付けることだ。アグリゲーターはそれから大部分またはほとんどすべてがサブプライム・ローンで構成される住宅ローンのプールを作り上げそれを元にPMBSを発行する。このプールがファニーやフレディによって購入されるためにアグリゲーター(主にカントリーワイドのようなサブプライム・ローンの巨大貸し手、だが大手の商業銀行または投資銀行のこともある)はGSE自体から援助される。この過程で政府の住宅目標を満たすために必要なローンの詳細な情報を手に入れることになる。GSEの指導に従うことによりアグリゲーターは100%が政府の住宅目標をクリアしたサブプライム・ローンのプールを形成することが出来た。(ファニー・メイの要請に答えて)2005の9月30日にファニー・メイに宛てた手紙の中でHUDはGSEが完全に市場を押さえていないPMBSのプールの中でどのようにすれば政府の住宅目標を満たすことが出来るかを詳細に記述していた。

PMBSをGSEに売却する過程でアグリゲーターはGSEにプール上のすべての住宅ローンのローンレベルでのデータを提供した。このデータを用いてGSEは各プールの住宅ローンがどれぐらい政府の住宅目標を満たしているのか完全に把握することが出来た。これらが政府の住宅目標を満たした他の住宅ローンとともにHUDに報告された。

最近の会合で、GhentはGSEは自身が購入したサブプライム・ローンのローンレベルでのデータを持っていなかったと主張した。従って政府の住宅目標を満たすようにPMBSを購入することは出来なかったと主張した。これもまた間違っている。上でリンクを張った手紙がGSEがこのデータを持っていたことの何よりの証だ(*翻訳元の文章にリンクが埋め込まれている場合、翻訳の都合上ほとんどがリンクを無視しているのでその点を留意)。そうでなければHUDに規定を要請する意味がない。

さらに、サブプライム、Alt-Aに大きく関与しPMBSが政府の住宅目標を満たすためのものであったことを示すファニー・メイ自身によって準備された分析がある。この表はFCIC(金融危機調査委員会)の要請に答えてファニー・メイが提供したものだがFCICの報告書の中では用いられなかったまたは引用されなかったものだ。この表の中にあるPLSという単語はPrivate Label Securitiesを指す。我々がPMBSと呼んでいるものそしてGhentらがPLMBSと呼んでいるものだ。表の中で数字が強調されている部分はサブプライム・ローン、Alt-A、サブプライムPMBSの購入によって一つまたは複数の政府の住宅目標が満たされた地域を示す。その分析は様々なアグリゲーターから購入したPMBSのローンレベルのデータをGSEが持っていたことを示している。

さらに、その論文自身の中で筆者たちはGSEにReal Estate Mortgage Investment Conduit (REMIC)の購入を(政府の住宅目標の)適格要件とすることを認めたPart 81.16 of Title 24 of the Code of Federal Regulationsを引用している。

「GSEによるREMICの完全または部分的な購入または保証は政府の住宅目標の達成に向けての購入と見做されるべきだ。(中略)GSEは政府の住宅目標の達成に必要な、REMICによってファイナンスされた住宅の戸数を集計するのに必要な情報を持っている」。

この規制は仮にGSEが「REMICによってファイナンスされた住宅の戸数を集計するのに必要な情報」を持っていないのであれば必要ないだろう。

従って、GSEは政府の住宅目標を満たすように積極的にサブプライム・ローンの購入を行っていた。オリジネーターのレベルでの貸し手は政府の住宅目標に関して何一つ知る必要がなかった。彼らが知っていたことは借り手が伝統的な査定基準を満たしておらずそれ故幾分高い金利を課せられている住宅ローンの市場があるということだった。政府の住宅目標を満たす技術的な適格要件は貸し手には知らされておらずまた不要だったので貸し手は借り手が見つかればすぐにローンを提供していた。このような背景があるので異なる国勢統計区を起源とする住宅ローンの数の間には統計的に見て有意差が見られることがない。

このような理由により、ウォーレン議員は欺かれそして聴衆を欺いてもいる。

世界中に大不況と貧困をもたらした金融危機の真の原因はスティグリッツが絶対安全だと太鼓判を押して強力にプッシュした政府系住宅金融機関だった?Part3

住宅ローンの崩壊と金融危機は脆弱でリスクを抱える(非伝統的住宅ローン)Non-Traditional Mortgages (NTM)の前例のない蓄積の結果だ。2008の中頃までにすべての住宅ローンの半分ぐらいがNTMだった。NTMは1990年代には一般的だった伝統的な住宅ローンに比べて頭金が少ないまたはまったくない、債務比率が高い、借り手の信用能力が低い、毎月の返済額が少ない、引受基準が異なるなどの特徴がある。1990年代初め頃が適切なベンチマークになるだろう。何故なら政府によって「柔軟な引受基準」が大規模に強制されたのはその直後だからだ。

1992のFederal Housing Enterprises Financial Safety and Soundness Act(GSE法)とHUDの1995のNational Homeownership Strategyにより底辺への競争が開始された。HUDは全住宅ローン産業を牽引することによりその目標を広範囲に順守させた。最も重大だったものは対象とした借り手に頭金を払わなくて済むようにしたことだ。政府がそのような貸出を(特に所得が中央値の80%を下回る人々に対して)業界に次々と迫ったので業界全体がそれに対応した。FHA、ファニー・メイ、フレディ・マック、銀行、サブプライム・ローンやAlt-Aの貸し手、住宅の初めての購入者、繰り返し購入している者、再融資の受け手など結果として全員のレバレッジが高まることになった。頭金などが求められなくなったためモラルハザードが蔓延するようになった。

求められる資本が次々に減額されたため他のリスク要因も高まった。住宅、金融危機の原因を探った私の調査によると昔のサブプライム・ローンでも伝統的に自己資金が20%以上を占めていた。1989では最低でも20%の自己資金が「A-」のサブプライム・ローンで一般的だったしかなりの投資家が25%を最低ラインとして要求していた。「B」や「C」では25%と30%が要求されていた。1991ではファニー・メイとFHAのLTV比率の中央値は73%と95%だった。GSE関連法はファニー・メイとフレディ・マックに手頃な住宅を提供するというそれまでとは完全に異なる新たなミッションを義務付けた。そのミッションとは両社にFHAや伝統的なサブプライム・ローンの貸し手と競争することを迫るものだった。レバレッジを高めるのに政府が果たした中心的な役割はこの記事の後半に書かれている。

ファニーとフレディは底辺への競争第2幕を開始させた。ミッションを果たすため両社はレバレッジを高めるとともにモラルハザードを蔓延させた。財務長官Tim Geithnerは金融危機はすべて高いレバレッジによって引き起こされているとコメントしている。2009の後半に彼は(モラルハザードやGSEが果たしたユニークな役割などを含む)6つの原因を列挙している。

「モラルハザードが至る所で見られ蔓延していた。最大の発生源がGSE(ファニーとフレディ)だった。GSEこそがモラルハザードだった」。

以下が彼の挙げた5つの原因だ。GSEが果たした役割を私が横に付け加えておいた。

1.「長きに渡る安定、住宅価格の大きな下落がほとんどなかったことを含む」。記録:2001とかなり早い段階からJosh Rosner and James Grantら二名はGSEによる信用の拡大がこの見掛け上の安定の原因であったことを示している。

2.「(政策)金利があまりにも長くあまりにも低すぎた」。記録:低金利の各期間はGSEにとって彼らに与えられた特権を用いて市場シェアを拡大する好機だった。住宅ローン残高に占める両社のシェアは2000には41.1%だったが2003には46.8%へと拡大していた。

3.「伝統的な銀行に隠れて成長してきた陰の銀行システムが短期の資金を供給しさらに危機には脆弱だった」。記録:ファニーとフレディこそがシャドウバンキングシステムの中で最大でかつ最もレバレッジの高い機関だった。そしてHUDとOFHEOとによる精神分裂的な規制体系に苦しめられた。

4.「資金を借りて規制の裁定から利益を得るインセンティブが存在した」。記録:GSEが規制の裁定の最大の受益者で資金を借りるインセンティブも最大だった。

5.「不適切な規制と積極的な執行の欠如」。記録:彼は「人々は完全予見を持っていない」とか「このような事態に前もって準備できない」など述べてこの要因を希薄化する。積極的な規制の執行の欠如どころかHUDの規制当局としてのGSEに対する積極的な役割こそが金融危機の原因だったと今では広く認識されている。

Government's Role in the Crisis

HUDが金融危機を煽動した例は数多くある。そのうちの一つが2000のルール改訂だ。HUDはGSEが持つ競争上の優位性を利用してサブプライム市場を変革することを宣言した(注9)。

GSEは他の参加者に対して資本を集める上で優位に立っていたので有利な条件の住宅ローンを提供し市場シェアを拡大することが出来た。この優位性により(プライム市場でも事情は同じだった)GSEはサブプライム・ローン市場に極めて大きな影響を与えることが出来た。GSEがサブプライム・ローンにより傾斜していくとともに今日サブプライム・ローンと見做されているものとプライム・ローンとの間にある区別は消滅していきGSEの拡大はプライム市場の拡大のように映るだろう。

これは何故GSEが保有していたNTMが最もリスクの高いものではなかったかも(だが彼らを危機に貶めるには十分だった)説明している。長きに渡って、GSEは彼らに与えられた特権を用いてリスクの低いプライム市場で猛威を振るっていた。その結果、(1990年代の期間に)彼らの競争相手はサブプライム、ARM、セカンドモーゲージローン、Alt-A、そしてGSEが限られた競争力しか持たないジャンボローンなどのリスクの高い市場へと追いやられていった。GSEがNTMにまで勢力を拡大し始めたので彼らの競争相手にはさらにリスクの高い市場に打って出るしか道が残されていなかった。GSEには他にも競争上の優位があった。GSEは彼らの持つプライム市場での価格優位性を用いてリスクの高いローンに内部で補助金を回していたことはFHFAがこれまで明確に文書化してきた。彼らの競争相手には同様のことは出来ない。GSEにこれらの優位性があったため彼らの競争相手はさらにリスクの高い市場へと追いやられるしかなかった。

HUDの回顧録は市場の静的な見方でしかない。無視されているのはGSEの過去に取った様々な行動に対する民間企業の自然な反応だ。モラルハザードとレバレッジに対するGSEが果たした中心的な役割も無視されている。彼らは金融危機が勃発するまでこの役割を果たし続けた。モラルハザードと高レバレッジが慢性的なものになっていた。

Chronology of a Crisis:

Facts:

1980年代の後半と1990年代の初期にACORN(正式名称はAssociation of Community Organizations for Reform Now、毛沢東主義の極左団体として知られる。1990年代にはオバマが代表を務めていたと云われる)とその下部組織は伝統的な査定基準をフレキシブルな査定基準に置き換えようと自分達は活動しているのにファニーとフレディがその邪魔をしていると訴えた。彼らはGSEに伝統的な査定基準を放棄させるよう議会に働きかけた。その目的はそうすれば他の市場参加者も同じことをすると分かっていながら保守的な査定基準をフレキシブルなものへとGSEに置き換えさせることだった。

Evidence:

1991:あるcommunity organizerはU.S. Senate Committee on Banking, Housing, and Urban Affairsで以下のように証言した。

「ファニーとフレディが住宅ローンの陰の融資担当者であったことは徐々に明らかになりつつある」。

1991:HUDのAdvisory Commission on Regulatory Barriers to Affordable Housingにはこう記されている。

「ファニーとフレディが市場に与える影響は両社が購入または証券化したローンの数よりも遥かに大きい。プライム市場では両社の査定基準が広く受け入れられすべての住宅ローン市場のかなりの部分で国の査定基準とまで見做されている」。

「ファニーとフレディの査定基準が標準的なものとなりつつある」。

1991:U.S. Senate Committee on Banking, Housing, and Urban Affairsでの証言。

「ファニーとフレディが積極的に融資を拡大しないかぎりは住宅ローンの貸し手は最も保守的な査定基準で応じていただろう。彼らは保守的な査定基準を信頼していた。他の関係者もこの点を何度も繰り返し指摘している」。

Facts:

これらの団体は議会を説得してファニーとフレディに手頃な住宅ローンを提供することを義務付けることに成功した。これにより貸出基準が14年間に渡って緩和され続けた。

Evidence:

1992:議会は「Federal Housing Enterprises Financial Safety and Soundness Act(GSE法)」と名付けられた法案を通過させた。ACORNとその関連団体は手頃な住宅ローンの提供を義務付けることに成功した。その結果、ファニーとフレディは査定基準を緩和することを強制されそして初めて(FHAと一緒になって)伝統的なサブプライム・ローンの貸し手の競合相手となった。

Facts:

ファニーは(自らに与えられた特権を僅かでも奪おうとする政治的動きを抑えるための)政治的保護を買うためにこの義務付けを歓迎した。この目的の為に住宅ローン市場を「変革する」と誓いを立てたほどだった。ファニーが取った戦略は2008まで政治的に難攻不落のものだった。

Evidence:

1994:「ファニー・メイの代表取締役、「住宅ローン市場を変革することを誓う」。100兆円以上を提供すると宣言する」(注18)。

Facts:

政府は伝統的な査定基準をフレキシブルなものへと置き換えることを目的とするNational Homeownership Strategyを実行した。

Evidence:

1995:クリントン大統領とHUDは「National Homeownership Strategy」を発表した(注19、20)。

「貸し手、ビルダー、不動産の専門家、地域の非営利団体、消費者グループ、州と地方の政府、住宅金融機関、その他多くの関係者から資源とアイデアを引き出すための国家的な協力態勢を要請し住宅を持てる機会を拡大するためそして住宅を取得する上で不利な状況にある人々や地域への障害をなくすために多方面での活動を行った」。

その目的は全住宅ローン市場を書き換えることだった。

「住宅ローンをより利用可能に、手頃なものに、フレキシブルなものにする、(その目的は)」、

「持ち家率が平均より低い集団や地域での持ち家率を高めるため」、

住宅ローンの返済期間をフレキシブルなものにし低所得層や中間層に補助金を与え住宅を購入するための貯蓄をするインセンティブを生み出すことなどにより頭金の必要額と利子費用を減少させる」、そして

「全米中にこれを徹底させる」。

住宅ローン市場の崩壊とその後の金融危機は大量に文書として残されている政府の政策の結果だった。

Facts:

この政策の反対者は住宅ローン市場を書き換えようとする政府の試みが災いを招くと警告していた。

Evidence:

1998:「フレキシブルな査定基準の拡大が弱まる頃には、それが質の悪いローン以外の何者でもないということを我々は身を持って知ることになるかもしれない。それら査定基準の徹底的な調査が確実に必要とされている。(市場で形成された)伝統的な貸出基準が合理的なものであったのならばフレキシブルな査定基準によって我々は単に銀行に不安定なローンを奨励させているだけということになる。仮にこれが事実であるとすれば現在の政策は未来においてローンの支払を出来ないことにより住宅を手放す人々を大量に生み出すことになるので意図した目的を果たすことはないだろう。マイノリティの人々が悪意を持って捻じ曲げられたデータに基づいた誤った政策の非常に高い代償を払う結果になるとするならば皮肉で不幸なことだろう」。

1999:「ファニー・メイ、住宅ローンの貸出を拡大するために信用基準を緩和する」(注22)。

「「マイノリティや低所得層の持ち家率を上昇させるためにファニー・メイは信用基準を緩和させた」、そして

「「ファニー・メイは頭金の必要額を減少させることにより1990年代に持ち家率を上昇させた」、とファニー・メイの代表取締役兼最高経営責任者のFranklin D. Rainesは語った。「だが所謂サブプライムと呼ばれる市場には現在でも多くの潜在的な借り手が残っている」とも語った」、

「新しい貸出の時代に向かう中でファニー・メイはより高いリスクを取っている。これは経済が堅調なときには問題とはならないかもしれない。だが経済が不況を迎えた時には政府による暗黙の保証を受けているこの会社は経営危機に陥り1980年代のS&Lの時と同じような政府による救済を受けるかもしれない」、

「「私を含む多くの人の観点から見れば、これはS&Lの再来に他ならない」とAEIのPeter Wallisonは答えた。「彼らが倒産すればS&Lの時と同じように政府は救済に乗り出さざるを得なくなるだろう」と加えた」。

Facts:

フレキシブルな貸出が拡大したので所謂プライム・ローンと呼ばれるものの量とリスクが大きく拡大した。これらのローンはそれでもまだプライムと呼ばれている。例えば、ファニーが購入した頭金ゼロのローンは単にファニーが購入する意思があるというだけの理由でプライムと呼ばれる。同様の論理が信用の低いローンにも適用される。HUDは2000のルール改定時にこれを明らかにしている。

Evidence:

「GSEには他の市場参加者に対して資本を集める上での優位性があったので競争相手よりもより条件の良いローンを提供することが可能でそれにより市場シェアを拡大させた。この優位性(プライム市場でも同様の優位性を持っていた)によりGSEはサブプライム市場で圧倒的な存在感を誇った。GSEがサブプライム市場により傾斜していくにつれて現在サブプライムと見做されているものとプライムとの境界はなくなっていくだろう。それによりGSEの拡大がプライム市場の拡大のように映ることになるだろう。GSEが購入するものがプライムと定義されるのでプライム市場とサブプライム市場との違いは次第に不明瞭になる。この市場の混ざり合いはサブプライム市場での借り手の特徴や市場の(すなわち、GsE以外の参加者の)借り手に対するリスクの評価がほとんど変わらなかったとしても起こり得る」(注31)。

Facts:

先進国の中でアメリカだけが健全性規制よりもHUDという名の社会福祉機関を上位に置いている。2004にHUDは自らが起こした「手頃な住宅ローンの革命」を自分で大絶賛した。

Evidence:

2004:「過去10年以上に渡って、手頃な住宅ローンの革命があった。ファニー・メイとフレディ・マックはこの革命の中心だった。1990年代の中頃から後半に掛けて、両社は自社の信用基準をフレキシブルなものとし頭金の少ないローンを開発しローンの申請者の信用評価の自動化を拡大させた。HMDAのデータはGSEの主導が信用力の低い借り手への貸出を拡大させたことを示している。1993から2003の期間に、低所得層とマイノリティへのローンは中間層や非マイノリティへのローンに比べて遥かに速く増加した」(注24)。

Facts:

National Homeownership Strategyにより頭金の額は大幅に減少した。

Evidence:

2007:1990には僅か0.5%だったのに比べて頭金が3%以下の住宅ローンの割合は2007には40%になっていた。

2006にはNational Association of Realtorsは住宅の初回購入者の43%と複数回購入者の19%で頭金がゼロだったと報告している。住宅購入者の30%が頭金がゼロだったことになる。

Conclusion:

アメリカの金融危機の主な原因はリスクの高いNTMが過去にないほどに積み重なったことによる住宅ローン市場の崩壊だった。これらのNTMは2006の始め頃からデフォルトするようになり世界的な住宅担保証券の崩壊を引き起こし金融機関にダメージを与えた。手頃な住宅ローンを提供するという政府の政策により住宅ローン業界全体の信用基準が引き下げられファニーとフレディによりモラルハザードが拡散された。

(金融)規制は大きく緩和されたと故意に偽り続けていた馬鹿な経済学者に大量の人が騙された?Part8

SAYEGH: Three years of Dodd-Frank’s broken promises

Tony Sayegh

上院でドット・フランク法案が通過してから3年が経った。両名とも議会を去ったがこの法案の影響は議会が約束したものとはかけ離れている。

この法案の長さは2300ページにも及び11の連邦機関による400もの個別の法改正を必要とする。ヘリテージ財団はドット・フランク法案のことを「新たに規制担当職員を2849人増加させるだろう」と報告している。さらにSECの平均給与は(1ドル=100円として)1475万円であると付け加えている。

彼らに権力とお金を与えることで我々が代わりに得られるものは何か?ほとんど何もない。

悪名高いドット・フランク法案のダービン修正項を見てみよう。これは大手小売業者の要請で公聴会や議論もほとんどなく上院の議場に挙げられた。この項目は銀行とデビット・カード会社が電子取引に課すことが出来る手数料を制限することを連邦準備銀行に命じている。我々は今ではこの項目がリチャード・ダービン議員(民主党)が約束していたのとは異なり消費者のお金を節約するのに失敗しただけではなく消費者を害しているということを知っている。どのようにか?この手数料に依存していた銀行は(無料の口座のような)他の顧客サービスを縮小し少額の口座を保有している顧客に対して手数料を課すように追い込まれている。無料講座を提供している大手の銀行の割合は2009の96%から20011には35%へと激減した。ポリティコ(政治系ニュースサイト)は「(電子取引を通して)小売業者から消費者に渡ると云われていたお金は現在もほとんどが机上の空論となっている」と報告している。この法案の煽動者であるマサチューセッツ州のフランク議員(民主党)でさえもがダービン修正項は失敗で廃止すべきだと認めている。

この修正項の約束であった大手の銀行にのみ適用し中小の銀行はその対象外というのはどうなったか?またもや、それらの約束は完全に反故にされた。信用組合と地方銀行は苦しんでいる。彼らは金融危機と関係がないばかりでなく救済も受けていない。ダービン修正項はデビット・カードの手数料にも引き下げ圧力を加えている。彼らは大手銀行とも競争しなければならないからだ。政府が市場で特定の要素の価格を固定すれば消費者はその引き下げられた価格の方へと引き寄せられる。(民主党の)政治家がどれほど中小の銀行は「対象外」だと主張しても関係なくだ。200以上の中小銀行がドット・フランクの成立直後だけでも倒産した。ワシントンの政治家が中小の銀行は法律家が作成した市場の歪みからは「対象外だ」と世迷い事を言っているのが彼らにはどのように映っているだろうか?

加えて、地方の銀行はドット・フランク法案によって資産をある一定の閾値以下に留めるように迫られているため(資産が閾値を超えると規制の対象となるから)彼らは貸出も利益も減らしている。これがさらに中小の銀行を苦しめ雇用の増加を抑えている。地方の銀行は雇用を創造している中小の企業が頼りとしているものだからだ。

我々は中小の銀行が苦しむだろうことを知っていたのか?中小の銀行が未だに苦しんでいて失業が未だに多いことに何か不思議はあるのか?

これらの失敗を目の当たりにして中立な観察者は尋ねるだろう。「これらの問題は予想可能だったのか?」。もちろん予想可能だったし実際予想されてもいた。FRB議長バーナンキ自身がダービン修正項による価格コントロールによって中小の銀行が苦しむだろうと予想している。彼は「電子商取引のネットワークは規模の異なる事業体だからといって手数料を区別したがらないのでその市場ではその控除が有効ではない可能性がある」と語っている(「行動する勇気」(笑))。

自由市場を望むものもこの結果を予想していた。連邦準備がこの法案に従った後にAmericans For Prosperityは以下の声明を発表した。「連邦準備は一取引あたりの手数料を12セントに強制すると声明を出した。これは現在の手数料からの90%もの削減に相当する。価格のコントロールは財の供給の不足を招くか手数料が他へシフトする結果にしかならない。消費者はデビット・カードの使い勝手が悪くなるまたはその他の口座の手数料が上昇することにすぐにも気が付くだろう」。

では何故この法案は議会を通過してしまったのか?悲しいことだが、判り難くMarketplace Fairness Actと名付けられたインターネット売上税の最近の議会の通過と同様に小売業界のロビイストが議会とオバマ大統領に自分達のライバルを規制して課税するように強力に働きかけたからだ。

FreedomWorksによると、「取引手数料規制はある集団が政府を使って他のある集団に対して優位に立とうとする古典的な例だ。この修正項は一部の小売業者が政府に働きかけて成功した結果だ」。Competitive Enterprise InstituteのJohn Berlauはこのように表現する。「これは小売業者が他人の犠牲の下にフリーライドを試みた結果だ」。

この法案が議会を通過して3年が経ち我々は再び学ぶことになった。ワシントンの政治家が規制は消費者としてのあなたに利益をもたらすという時はいつでもあなたの財布は狙われているのだ。

(金融)規制は大きく緩和されたと故意に偽り続けていた馬鹿な経済学者に大量の人が騙された?Part7

No Matter What Tarullo Says, More Regulation Will Not Make Us Safer

Norbert Michel

FRB連銀総裁Daniel Tarulloは規模の大きな銀行に対して新しい自己資本額を求める提案を発表した。

ニューヨーク・タイムズはそれらの新しい「特別な」自己資本額が現在提案されている国際的な規制よりも厳しいだろうと報じている。以前にアナウンスされていた内容を考えると全く予想ができなかったという訳ではない。

だが彼はこの発言を議会の銀行委員会でもしている。「我々はこれらの金融機関の頑健性を高めることを意図している。この提案は金融機関にリスクを低減させるインセンティブも与えるだろう」。

この声明は金融危機に関して今も流されている2つの神話をよく表している。規制の緩和が金融危機を引き起こしたというものと、新しい規制によりそれを防ぐことが出来るというものだ。

第一に、FRBは銀行が何に投資すべきかまたはどのようなローンがまたはどれぐらいのローンが作られるべきかなどまったく理解していない。

第二に、金融機関は規制の緩和などされていない。事実、FRBの規制の権限は(その他すべての連邦規制機関も同様に)この100年間ほぼ拡大の一途を辿って来た。

これらの規制の正確な姿は時間とともに変化してきた。だが規制当局はレーガン大統領の頃から休みを取っていたというのではない。

1980年代には、預金に対する利子の上限が撤廃された。そして商業ローンを組んだり新しい金融サービスを提供するために「貯蓄」が許可された。だがこれらの変更は規制の緩和ではない。

1990年代には、銀行は州間で営業をすることが許可された。そして銀行持株会社は投資銀行業務に従事している会社と提携することが許可された。だがこれらの活動は今でも規制されている。

2000年代には、SECは資本ルールを修正し議会はCommodity Futures Modernization Act (CFMA)を通過させた。だがSECは今でもルールに従うことを求めているしそしてCFMAはどちらの規制機関が(SECかCFTCか)先物取引契約を規制するのかを明確にするために通されたものだ。

言い換えると、金融機関は規制緩和されていない。

この規制が緩和されたはずだという思い込みはFRBに関して特に馬鹿馬鹿しいものだ。FRBは自身が創設されて以来ずっと銀行を規制してきた。FRBは2008の金融危機の原因にもなった自己資本規制の策定に関わってさえいる。これが金融危機の原因になったのは規制当局が住宅担保証券が非常に安全だと考えていたためだ。

ドット・フランク法案がやったことはFRBの規制権限の範囲を拡大させたことだ。だから次の金融危機は違う結果になると期待する理由はないだろう。

(金融)規制は大きく緩和されたと故意に偽り続けていた馬鹿な経済学者に大量の人が騙された?Part6

Meltdowns and Myths: Did Deregulation Cause the Financial Crisis?

James L. Gattuso

「問題は、人々の知識が乏しいことではなくあまりに多くの真実でないことを知っていることだ」 Mark Twain

簡単な答えが正しいものであることはあまりない。その原則は金融危機の原因に関する議論にも当てはまるように思われる。簡単で政治的に都合のいい犯人を探すため多くの政治家はブッシュ政権による規制緩和を非難した。

例えば、Nancy Pelosiは「ブッシュ政権の8年にも及ぶ失敗した規制緩和政策により銀行を救済する結果となり納税者に潜在的に多大の負担を強いることとなった」と述べている。同様にオバマ大統領も「最大の問題は規制の緩和だ」と主張した。

だがこの答えにはある大きな問題がある。金融業界はブッシュ政権の時代に規制緩和されていないということだ。仮に金融業界に今まで「規制緩和の時代」というものがあったとすればそれは遥か昔の話だ。それ以降の変化はほとんどが現在では論争にすらなっていない。

Basic Regulatory Structures Never in Doubt

文字通りの意味で金融業界は決して「規制緩和」されていない。規制緩和の試みすらなかった。規制の廃止を提案した者も誰もいない。簡単に言うと規制当局の仕事は一度も脅かされることはなかった。

そもそも規制緩和という単語は特定のルールの緩和や廃止の簡略化された呼び方として用いられてきた。規制緩和の時代があったとすればそれは1970年代と1980年代だろう。この時代は経済学者(と消費者)が長く続いてきた金融業界への多くの制限に疑問を提示し始めた時代だった。

その中で最も重要だったものは銀行に一つの州以上での活動を禁止していた規制だ。そのような規制は州と連邦政府の働きかけにより1994までに大部分が廃止された。この規制を復活して欲しいと思う者は現在では誰もいないだろう。地域または全米で活動できるようになった銀行はリスクをバランスさせることが遥かに容易になったので「規制緩和」はシステムを安定させるのに役立った。

Gramm-Leach-Bliley and Beyond

その次の大きな「規制緩和」は銀行が証券業を営むことを禁じた大恐慌時代に作られた制限の廃止だろう。その禁止は1999のグラハム・リーチ・ベイリー法によって終了した。

論争がない訳ではないもののこの法案は金融危機を拡大したのではなく緩和したと言えるだろう。

事実、クリントン大統領は最近のインタビューで以下のようにこの法案を擁護している。「あの法案が今回の金融危機と何の関係があるのか分かりません。実際、現在のようにまで状況を安定化させるのに役だったものの一つはバンク・オブ・アメリカによるメリルリンチの買収でしょう。あの法案に私が署名していなければ買収は遥かに困難だったはずです」。

2000に議会は特定の種類の金融商品をCommodity Futures Trading Commission(CFTC)の管轄外とする法案を通した。その中には「クレジット・デフォルト・スワップ」が含まれる。この法案が「規制緩和」なのかは明らかではない。この法案が通る前と後とで扱いに変化がないからだ。CFTCがこれを規制していたとしても金融危機が防がれたかは定かではない。事実、クリントン政権で財務長官だったロバート・ルービンを含む多くの政策当局者が規制にはメリットよりもデメリットの方が大きかっただろうと議論している。

その法案が議会を通過してからの9年間(ブッシュ政権の8年間を含む)、議会は金融業界の負担を緩和するような法案を一つも通過させていない。

Regulatory Agency Trends

では規制当局はどうだったのか?彼らはブッシュ政権の下で規制緩和に熱心だったのか?ここでも、答えはいいえだ。

規制の制定に関して(規制当局によるある特定のルールの公布)、SECが金融部門において最も強力な組織だろう。GAOのデータによるとSECはブッシュ大統領の就任以降(経済に10億円以上の影響を与えるとして定義された)重大で規制の負担を変更させる23の行政手続を完了させた。その中で、わずか8つ(3分の1ぐらい)が負担を軽減させたものだ。恐らく多くの人は驚くだろうがおの方面でのブッシュ大統領の記録は2期目だけで20のうち9つで負担を軽減させたクリントン政権よりも緩和的でない。

その他の規制機関はSECほど規制の変更を行っていない。FRBは1996以降5つの主要な規制の変更を報告している(その内の4つが規制の緩和)。FDICによって報告されているものは1997の新しい自己資本基準の導入だけだった。

もちろん、規制当局の仕事の多くは規制の制定というよりはむしろ日常の活動の中で行われている。それを知るためには規制当局の予算を調べることが有益だろう。

ここでもブッシュ政権の期間に規制当局の活動が弱められたという証拠はない。金融と銀行規制(SECを除く)の総予算は2000の(1ドル=100円として)2000億円から2008の2300億円へと増加した。SECの予算はというと同期間に357億円から629億円へと大幅に増加している。同期間にこれらの期間の職員の数は16000人でほぼ一定だった。

A False Narrative

金融危機時には、「規制緩和」を非難する誘惑に惑わされる人が多くいるだろう。危機が間違った助言に基づいて必要なルールを廃止したことによって引き起こされたのであれば答えは簡単かもしれない。それらのルールを回復させることだ。

だがその物語は単に真実ではない。ブッシュ政権時に金融規制の緩和がほとんどなかったというだけではなく、ブッシュ政権以前の規制改革のほとんどが危機の原因になったのではなくむしろ危機を緩和した。

もちろん、これは規制の変更を一切考慮すべきではないということを意味しない。金融危機の勃発時には規制の範囲と方法に関する議論は避けられないかもしれない。だがそれは過去に一度も存在しなかった規制の理想郷へと戻るといったようなお伽話ではあり得ない。新しい規制の体系はすべての不確実性と意図せざる結果を考慮しなければならない。政策当局者はそれ以外の態度を取るべきではない。

(金融)規制は大きく緩和されたと故意に偽り続けていた馬鹿な経済学者に大量の人が騙された?Part5

The Myth of Deregulation and the Financial Crisis

Patrick Mclaughlin

American Bankerの意見欄でJeb Hensarling議員は以下のように書いている。

「だが金融危機で最も悲劇だったのはワシントンの規制当局がそれを防げなかったことではない。ワシントンの規制当局がそれを先導したことだ」。

そこで、同僚のRobert Greeneと私は「規制緩和が金融危機を引き起こしたのか?」という問いに答えるため規制のデータを収集し調査した。結論は、規制の緩和はなかった、だ。

規制のデータはRegDataのものを用いた。これは毎年の法律文書上に書かれてある制約の量を数字化したものだ。以下の図は銀行と銀行業務を扱う連邦規制基準第12章と商品先物と証券取引を扱う連邦規制基準第17章に書かれてある制約数を示したものだ。規制の緩和があれば下向きのトレンドとして表れる。だが実際に目にするのは規制の増加だ。ほんの一時期だけ規制が一時的に減少したことがあるがこれは1997から1999に重複した規制の統合が行われたためだ(詳細は我々の記事を参照)。


その時に書いたように、

「我々は1997から2008の期間に連邦規制基準の金融規制の制約の数が40286から47494へと17.9%増加していることを発見した。(銀行を規制している)連邦規制基準第12章上の制約数は18.2%、(商品先物と証券取引を規制している)第17章上の制約数は17.4%増加していた」。

(これに対する左翼の反応は絶望的で、これは規制が緩和されたことを示すグラフだ!と錯乱しだす始末。最早左翼が正気を失っていることがよく分かるエピソードとなった)

企業への貸出が増加しないのは規制のせい?

Why Aren’t Banks Lending to Small Business? Ask Bernanke.

Scott Shane

3月29日のジョージワシントン大学での講演でFRB議長Ben Bernankeはまるで他人事のように「中小企業は(中略)融資を受けるのに現在苦労している」と発言した。そこにいた生徒が一人も理由を彼に尋ねなかったのが残念で仕方ない。FRBに責任があるからだ。

銀行家、中小企業家、政治家全員が金融危機以降中小企業への貸出が大幅に減少していると認めている。1億円以下の企業ローンは2007の6月から2011の6月の間に13%低下した。さらに貸し出された額は実質で見て19%減少したことをFDICのデータが明らかにしている。

だが、そもそも銀行は貸出によって利益を得る。貸出を拒否することによってではない。それでは何故銀行は中小企業への貸出を減らしているのだろうか?この減少はFRBが銀行に貸出基準を引き上げさせたことへの反応だ。

銀行の貸出基準が引き上げられれば融資を受けることの出来る企業は減少し中小企業への貸出は削減される。2006に融資を受けることの出来た中小企業は2011には融資を受けることが出来ない。Kansas Cityの銀行家Katherine Hunterが説明しているように「5年前は融資を受けることが出来たのに現在では融資を受けることの出来ない企業が存在する」。

銀行が貸出基準を引き上げたのはFRBがリスクの高い住宅ローンを組むのを止めるように銀行に圧力を掛けたからだ(そもそもが政府の住宅政策のせいだというのに)。不幸なことに、中小企業への貸出はその巻き添えを食らっている。

FRBによる締め付けは中小企業への貸出にダメージを与えた。中小企業の事業主の多くが運転資金を調達するのにホームエクィティを利用しているからだ。以前に説明したように中小企業の28%が住宅ブームのピーク時に住宅を担保に資金を借り入れていた。中小の事業を経営していた世帯の方がその他の世帯に比べてホームエクィティを積極的に利用していたことがFRBの研究によって明らかにされている。多くの中小企業が住宅を担保に資金を調達しているためFRBが銀行の貸出基準を引き上げたことにより中小企業の借入は減少した。

その上、(銀行が貸出基準を引き上げる時には)そのような引き上げは機械的に一律に行われる。それ故、住宅ローンへの貸出だけではなく銀行は中小企業全体への貸出も引き締めたことをFRBの上級融資責任者が明らかにした。

FRBは例え中小企業への貸出がかつてよりも減少したとしても貸出基準を引き上げた方が好ましいと判断したのかもしれない。だがそれならば現状何が起こっているのか正直に話すべきだ。摩訶不思議な外部の力のせいで「中小企業は(中略)融資を受けるのに現在苦労している」などと誤魔化すのではなく議長はFRBがそうさせたのだとはっきり言うべきだ。そのように正直に語る方が透明性を高めるというFRBの現在掲げている新戦略にもよく適合するだろう。

ドット・フランク法案は銀行貸出を120兆円削減した?

Dodd-Frank threatens to reduce credit availability by $1.2 trillion

Peter J. Wallison

アメリカの銀行が銀行間の信用を制限する新しい規制(ドット・フランク)に反対を表明しているとFT誌は報じた。記事によるとこれにより利用できる信用の規模が(1ドル=100円として)120兆円削減されるという。

同様の制限がすべての非銀行系金融機関に適用されることになるだろう(保険会社、金融会社、証券会社、ヘッジファンド、その他など、ドット・フランク法案の下で組織されたFSOCによってシステム的に重要と見做された金融機関(SIFI))。仮にそのような事態になればこれらの金融機関は連邦政府の規制当局の管理下に置かれることになり信用がさらに制限されるだろう。

政府の提案している規制(ドット・フランク自体も)は一つの会社の倒産が他の会社の倒産を招くという金融機関同士の「横のつながり」があるという観念に基づいている。

だがリーマン・ブラザーズの破綻後の出来事によりこの考えは反証された。たった一つのMMFを除いて(恐らくリーマンがベア・スターンズのように救済されると信じていたのだと思われる)リーマンの破綻に巻き込まれたまたは債務不履行に陥った金融機関は存在しない。危機に陥った金融機関はそのすべてがサブプライム・ローンやその他の質の低い住宅ローンを保有していたからでリーマンへの貸出によるものではない。

他の金融機関も脆弱で不安定だった時にさえリーマンの破綻が他の金融機関を破綻させなかったのであればドット・フランク法案や政府が扇動している「横のつながり」理論の根拠が薄弱なのは明白だ。

このこともFSOCに与えられたシムテム的に重要な金融機関を認定する権限が(これ以上アメリカ経済の回復を損ねる前に)廃止されるべき重要な理由だ。

(金融)規制は大きく緩和されたと故意に偽り続けていた馬鹿な経済学者に大量の人が騙された?Part4

Financial reform and the hubris of Timothy Geithner

James Pethokoukis

アメリカの第75代財務長官Timothy Geithnerはドット・フランク金融改革法案に関して自信たっぷりにこう述べた。(大幅に省略)

「これらの改革が10年前に実行されていれば被害は遥かに小さかっただろう。オバマやドット議員、フランク議員は大きな称賛に値する」。

「私の妻は金融業界の人々やロビイストがこの改革に不満の声を挙げているというのを新聞でよく目にするという。またTARPがそもそもまったく必要なかった声を挙げているのも目にするという」。

「この改革は戦うに値するものだ」。

1. そもそもドット・フランク法案はToo Big To Failを解決していない。(1ドル=100円として)資産額10兆円以上の巨大銀行は今でも規模の小さな金融機関よりもより低い金利で借りることが出来る。何故か?貸し手は巨大銀行が仮に困難に陥れば政府がまた救出に乗り出すということが分かっているからだ。事実、巨大銀行は金融危機の前よりも現在ではさらに大きくなっている。ドット・フランク法案がTBTFを終わらせていないのであればそれは完全に失敗だ。歴史に残る大失敗だ。

2. ガイトナーは金融危機の教訓を分かっていない。MITのAndrew Loは金融危機の21冊の本を読んだという。彼が見つけたことは以下だ。

「21冊の本を読んでいくうちに分かったことが幾つかある。はっきりしていることの一つは未だに金融危機の原因に関して意見の一致が見られないことだ。その対処法となるとなおさらだ。だがほとんどの経済学者にとって何に一番困惑されられるかと言えばそもそも一体何が事実だったのかということにさえ意見の一致が見られないことだろう」。

「CEOはリスクを取り過ぎていたのか?それとも彼らはそのように行動するように動機づけられていたのか?」。

「レバレッジ比率は高すぎたのか?」。

「規制当局は仕事をしていたのか?それともリスクを見逃していたのか?」。

「FRBの低金利政策が住宅バブルの原因だったのか?それとも他の要因が住宅価格を押し上げたのか?」。

「レポ市場では流動性が問題だったのか?それともソルベンシーの問題だったのか?」。

にも関わらずガイトナーとオバマは無茶苦茶な法案に飛びついた。オバマは就任してからたったの18ヶ月後にドット・フランク法案に署名した。グラス・スティーガル法でさえ1929の株式市場の暴落から4年経つまでは議会を通過しなかった。

Loは金融危機に関して事実と云われていたが事実ではなかったもののうち取り敢えず3つを挙げている。

事実と云われていたもの#1:「効率的市場仮説への傾倒が投資家を惑わせ証券化された債権の価格が適切でない可能性を見落とすように働きかけ不動産バブルを崩壊させた」。

リアリティチェック:金融危機の前から住宅ローンを担保にしたCDOは同様の格付けの普通の社債よりも高い利回りを提供していた(*格付けが同じにも関わらず利回りが高いということは投資家はCDOのリスクを把握していた可能性が高いということ)。彼が強調するように「効率的市場仮説が投資家を惑わせたとは考えにくい。何故なら彼らは安値で放置されていた証券を見つけたと考えていたからだ」。

事実と云われていたもの#2:「金融機関の報酬体系は長期のインセンティブではなく短期のトレーディングから得られる利益にあまりにも偏っていた。さらに銀行のCEOは自分達のお金ではなく他人のお金で取引していたため過度のリスクテイキングが行われていた」。

リアリティチェック:最近の研究はCEOが保有していた株式やオプションの残高は彼らの年間の報酬の8倍以上の価値であると結論した。金融危機の前にリスクに晒されていた彼らの資産のことを考えると「CEOが前もって市場が暴落することを知っていたということや知っていながらリスクの高い取引を行っていたということは考えにくい」と彼は強調している(*インセンティブ報酬のため長期のリスクを無視したという批判に対してそもそも報酬の8倍以上の株式やオプションを持っているのだったら長期のリスクを無視することによって8倍以上のダメージを被るから非現実的だと指摘しているということ)。

事実と云われていたもの#3:「投資銀行はSECのルールが変更されたことによってレバレッジ比率を大幅に引き上げた」。

リアリティチェック:ゴールドマン・サックス、メリルリンチ、リーマン・ブラザーズら投資銀行のレバレッジは2006よりも1998の方が遥かに高かった(以下の図を参照)。さらに、SECのルール変更はレバレッジの制限に何の影響も与えていないと彼は述べた。

ガイトナーはワシントンが将来の金融危機を防ぐのに大きな役割を果たしたと自信を持っているようだ。そう思っているのは彼だけかもしれない。

世界中に大不況と貧困をもたらした金融危機の真の原因はスティグリッツが絶対安全だと太鼓判を押して強力にプッシュした政府系住宅金融機関だった?Part2

Actually, the affordable housing push did cause the subprime crisis

Edward J. Pinto

金融危機へ政府が果たした中心的な役割を否定する試みがブログ界の中で続けられている。今度のものはワシントン・ポストの記者Suzy Khimmだ。タイトルは「No, the affordable housing push didn’t cause the subprime crisis」。

彼やその仲間が無視しているものは住宅ローンが本質的に抱えるリスクと(大量に文書化されている)貸出基準を弱めるのに果たした政府の役割だ。

以下の3つの段落で何が起こったか説明できるだろう。

1. 民間部門は不動産分野で拡大と縮小を繰り返してきた。政府の積極的な奨励がなかったとしても失敗をする恐れがある。

2. 民間部門はデフォルトが急増するまでの3年間は間違った投資を続けることが出来るが(頭金ゼロのような)名目値で見て13年間、実質値で見て9年間以上の住宅ブームを巻き起こしたのは政府の政策だ。

3. これが我々の歴史の中で最大のバブルとその崩壊を生み出した。

ここに「‘Irresponsible’ Mortgages Have Opened Doors to Many of the Excluded」と銘打たれたGoolsbeeによる2007のニューヨーク・タイムズの記事がある。彼はPresident’s Economic Recovery Advisory Boardのchief economistとして招待された。彼はCouncil of Economic Advisersの議長でもありCabinetのメンバーでもあった。これは低所得層に住宅を提供しようとする政府の住宅政策が非常に肯定的に見られている時に書かれている。

「1970から2000の30年間は新しいタイプの住宅ローンが信じ難いほど繁栄をした期間として記憶されるだろう。これらのイノベーションは人々が住宅を購入することを可能にし資本へのアクセスを極めて容易にした」。

「さらに、歴史的証拠はこれらの新しい住宅ローンを取り締まればまさに標的としている以外の人を直撃することを示している(共和党がGSEへの取り締まりを強化しようと何度も提案してきたことへの牽制)。経済学者Rosenが説明しているように「過去30年間にこれらのイノベーションが果たしてきたことはこれまで住宅ローンを申請することが出来なかった人々に道を切り開いたことだ。若者や銀行口座に頭金を支払うだけのお金がない人々への差別などを取り除いたことだ」としている。これらのイノベーションはかつては貸し手から貸出を拒否されていた人々でも今では住宅ローンを得ることを可能にした」。

「Center for Responsible Lendingは2005にアフリカ系アメリカ人への住宅ローンの大多数とヒスパニック系アメリカ人への住宅ローンの40%がサブプライム・ローンであったと推計している。サブプライム・ローンのシェアや拡散速度がこの集団の持ち家率の劇的な上昇を説明している。例えば、1995以降アフリカ系アメリカ人の世帯数は20%以上増加した。だがアフリカ系アメリカ人の持家数はその大体2倍、35%以上増加している。ヒスパニックに関しては世帯数は45%以上の増加で持家数にいたっては70%以上の増加だった」。

「さらに、忘れてはならないのはそのサブプライム・ローンの借り手ですら圧倒的大多数が返済を行っているということだ。事実、この最もリスクが高い借り手のわずか15%以下しか債務の延滞を行っていない。債務の不履行となるとさらに少ない。この13%の借り手に対して取り締まりを強化しようとする時には規制当局はその他の87%が住宅ローンを得られなくならないように警戒しなければならない」。

経済学者Goolsbeeとは異なりHUD(アメリカの住宅政策を担当する政府機関)はこの革命が何によって起こされたのかその歴史を正しく振り返ることが出来ないようだ。

2004のHUDは、

「過去10年間に渡って、持家を保有する機会をそれまで与えられていなかった世帯へと拡大した「手頃な住宅ローン革命」があった。ファニー・メイとフレディ・マックはこの「手頃な住宅ローン革命」のまさに中心だった。1990年代の中頃から後半に2社はガイドラインを緩和し頭金を減少させローンの申請者の信用履歴を評価する際に査定の自動化を拡大させた。HMDAのデータはGSEの主導がこれまで住宅ローンを借りることが出来なかった借り手に対する資金の流れを拡大させたことを示している。1993から2003に低所得層やマイノリティへの貸出はその他の集団に比べて遥かに高い率で増加した」。

ところが2010のHUDは、

「(中略)住宅ローンの延滞や債務不履行の急増は基本的にデフォルトリスクの高い住宅ローンの急速な拡大の結果だ。住宅ローン産業の参加者はそれらのローンを組成して投資家に販売することによって得られる利益を求めてこれらリスクの極めて高いローンを借り手に奨励することに邁進していた(すごい手のひら返し)。これらのローンを取得した借り手の動機に関する体系的な情報は利用可能でないものの現在ある証拠は借り手のうちの幾人かはこれらローンの真の費用やリスクを理解しておらずその一方でその他のものはこれらのリスクを利用してホームエクィティに利用したりより大きな家を獲得するのに利用したことを示唆している」。

HUDやその他の金融危機における政府が果たした役割を否定する者は上記の2つの意見を同時に持つことは出来ない。

HUDやその他の政府機関がこの「手頃な住宅ローン革命」をどのように指揮したのかのより詳細な説明は、Government Housing Policy: The Sine Qua Non of the Financial Crisisにある。

世界中に大不況と貧困をもたらした金融危機の真の原因はスティグリッツが絶対安全だと太鼓判を押して強力にプッシュした政府系住宅金融機関だった?Part1

Why the Left Is Losing the Argument over the Financial Crisis

Peter J. Wallison, Edward J. Pinto

クリスマスの前日だというのにJoe Noceraが我々を攻撃するという失態をまた晒した。

左翼の置かれている現在の状況を知るという目的のためには読む価値がある。彼によると、我々は「ほとんど単独で」、「ファニー・メイとフレディ・マックが金融危機を引き起こしたという神話」を作り上げたのだという。彼によると、この神話を信じている者には議会共和党やウォールストリート・ジャーナルなどが含まれるという。

金融危機が政府の住宅政策によって引き起こされたと主張するワシントンのシンクタンクに所属する2人が、金融危機が強欲と規制の欠如によって引き起こされたとするリベラル派の主張を打ち砕くものとして広く受け入れられた代替的な見方を作り上げたというのは些か説得力に欠けると思われる。結局、通俗的な説明は政府によって作られたもので、ニューヨーク・タイムズによって伝播され、外国、国内問わずその他すべての主要な新聞や電子メディアに疑われることなく受け入れられていった。だがノシエラの世界では通俗的な説明に対する脅威は徹底的に鎮圧されないと気がすまないようだ。

我々は彼が恐れるほど成功したかは疑わしいと思っている。だが彼とその仲間たちが金融危機の原因に関する議論に敗北していっているということには自信を持っている。我々の考えがニューヨーク・タイムズの脅威となっているかどうかは彼の攻撃的な記事を読めば分かるだろう。記事は左翼のやり方の完全な代表例となっている。事実を無視、自分達の意見に反対する者は嘘つきさらには(人種差別主義者)と呼ぶ、数え上げればきりがないのでこのぐらいにしておく。この誹謗中傷は左翼の反響室を通して律儀に繰り返されていく。

金融危機の原因に関する通俗的な説明を我々が打ち崩したとすれば、それは憎悪のこもった醜い誹謗中傷ではなく事実によって説得される公正な心を持った人々のお陰だろう。金融危機はファニー、フレディ、HUDによって実行された政府の住宅政策がなければ起こらなかったと我々は議論してきた。そのような政策には幾つかの種類があるが最も重要なのは1992にファニーとフレディに初めて課せられ2007までHUDによって拡大された、安価な住宅を低所得層に提供するよう義務付けがされたことだ。

以下にまとめてあるものは我々が頼りとしていた過去のオリジナルの数字(ファニーとフレディが当局に提出していたデータ、そして当時の銀行規制当局が信じていたデータ)を、ファニーとフレディの複数の役員に対するSECの最近の告発によって明らかにされた新たなデータによって補完したものだ。特に注目に値するのがファニーとフレディがSECと交わした訴追免除合意だ(映画でよく見るあれ)。真実を話す代わりに訴追が免除される。その真実はサブプライムとAlt-AへのGSEの関与に関する我々のオリジナルの研究を確認…どころか多くのケースでそれを遥かに上回るものだった。これらは事実だ。そうではないと妄想しているノシエラやその仲間たちはこれらの事実を受け入れなければならない。

例えば訴追免除合意に同意した上で、2008の6月30日にフレディはサブプライム・ローンの残高が以前に開示していた(1ドル=100円として)6000億円ではなく24兆4000億円で信用保証ポートフォリオの14%を占めることを明らかにした。フレディはさらにreduced documentation loans(ローンを申請する際の情報の開示が免除されるローンのこと。例えば住宅ローンを申請する際に普通は所得の開示が求められるがそれでは低所得者が住宅ローンを得ることが出来ないということで情報の開示を求めないようにリベラル派の政治家が圧力を掛けた)だけでも54兆1000億円であることを明らかにした。フレディがreduced documentationのローンを含むとかつて言っていた以前に開示していた19兆円のAlt-Aローンを遥かに上回る(ブッシュ大統領は嘘をついた!という嘘には激怒するのにこれらの金融機関の嘘は一切報道せず嘘をついていない他の金融機関への憎悪だけは煽るのがネオマルキストたち)。

SECの文書により以前に公開されていなかったサブプライム・ローンとAlt-Aが103兆円であることが明らかにされた。81兆2000億円または80%は最近の我々の調べの中に既に含まれている。

SECの調べにより21兆9000億円と143万の住宅ローン数が我々のデータに加えられることになった。それによりサブプライム・ローンとAlt-Aの合計は204兆円と1337万の住宅ローン数になった。

SECの新しいデータを我々の元の推計に加えると金融危機前の2008の6月30日時点ではサブプライム・ローンとAlt-Aは2800万存在していたことになる。その金額は480兆円だ。これはアメリカのすべての住宅ローンの半分に相当する。これらのローンの中で74%以上が連邦政府機関と政府の住宅政策の制約下にある企業のものであった。これはこれらの低品質の住宅ローンの需要がどこから発生したものであるかを示している。ファニーとフレディ自体が1300万以上のサブプライムやAlt-Aに関わっていた。割合で言うと政府全体の65%に相当する。

我々の元の推計をSECのデータによって補完したものを以下の表にまとめた(以下省略)。

(金融)規制は大きく緩和されたと故意に偽り続けていた馬鹿な経済学者に大量の人が騙された?Part3

Correcting a Leverage Myth about ‘Capitalist Fools’

Peter J. Wallison

ニューヨーク・タイムズの2008の10月3日の記事でSteve Labaton記者はSECが5つの大手投資銀行(Bear Stearns, Lehman Brothers, Morgan Stanley, Merrill Lynch, and Goldman Sachs)がレバレッジを33倍に引き上げることを可能にする規制を採用したと主張した。その記事では2004の4月に採用されたSECの「新資本」規制の改訂をSECが自由化の方向に向かっていたことの証拠と主張されていた。「その規制が緩和されて以降」、「各銀行は緩和された規制から利益を得ることが出来るようになった」と彼は主張した。その記事(専門的な知識がまったくなくニューヨーク・タイムズの記事の正確性に頼るほかない多くの人に影響を与えた)は極めてミスリーディングなものとなっている。その犠牲者の一人がスティグリッツで2009の1月のVanity Fairに書いた記事でLabaton記者の誤りをそっくりそのまま繰り返している。これは事実を確認することが出来ない人々の間で繰り返し伝えられるうちに間違った話がどのようにして真実とされていくかの格好の例だろう。

SECの市場取引部門の責任者であるErik Sirriによる最近の演説を聞けばLabatonがSECによる2つの異なる改訂を乱雑に一括りにしていることがはっきりと分かる。2004の4月の規制の変更は5つの大手投資銀行の証券子会社にのみ影響するものでそしてそれら証券子会社に求められる「純資本」の最低基準額の計算方法に関係するものだ(この資本基準は証券会社に適用されるものでその親会社にではない)。Sirriが明確にしているように最低必要資本額も証券会社の純資本それ自体も規制の変更後も実質的な変化はなかった。

それらの親会社のレバレッジはそれとは完全に異なる話だ。2004にEUからの要請に従うために5つの大手投資銀行は自主的にSECの監督を受け入れた。5社のEUでの活動には母国の規制当局による統一された監督の下であることが求められたためだ。

その監督の一環としてSECは5社にバーゼル規制に適合しているか各社の自己資本比率を報告することを求めた。5社にレバレッジ比率を引き上げることを許可した等という改訂など存在しない。それ以前に、レバレッジ比率に関する懸念はもっと広い視点から見るべきだ。レバレッジ比率は債務と資本の比率それ以上でも以下でもない。レバレッジ比率33倍は、資産価値が大幅に低下する懸念がある場合にはリスキーで資産価値が低下する恐れがない場合にはリスキーではない。資産がアメリカ国債であればレバレッジ比率が35倍だとしても特にリスクがあるという訳ではない。アメリカ国債の価値が大きく低下する可能性は小さいだろうし資本の「クッション」がわずか3%だったとしてもリスクを大きく取っているという訳ではない。従って投資銀行のレバレッジが(Labatonによると)33倍だったとしても各社の資産が何であったかを知るまでは何も分からない。

だが投資銀行がリスクを取っていたと仮定してもSECがその役割を完全に放棄していたというLabatonの主張はデータから否定される。Federal Reserve Bank of BostonのEric Rosengrenは5つの大手投資銀行のレバレッジ比率が2003の22倍(SECが監督する前)から2007の31倍へと平均で見て上昇していると報告した。だが資産の質に関する知識なしには特に際立ったリスクテイキングの増加とは言えない。投資銀行は商業銀行ではないということを認識することも重要だ。彼らは政府によって保護されているわけではないばかりか(保護された)預金を受け付けているわけでもない。(親会社の)顧客の口座を保護するためその証券子会社には自己資本比率の規制が求められているが親会社自体にはリスクテイカーであることが期待されている。その理由により、SECはレバレッジ比率よりも流動性の方(契約が満了した時に債務を支払うことが出来る能力)により関心を持っていた。

(金融)規制は大きく緩和されたと故意に偽り続けていた馬鹿な経済学者に大量の人が騙された?Part2

規制政策の多くは金融危機の直接的な原因となった。過去の政策(特に住宅規制と資本規制)を調べることなしには歴史から学ぶことは出来ないだろう。

金融危機に対して規制政策が果たした役割は歪められた形で伝えられている。このエッセイでは以下の神話と誤解を正そうと思う。

神話1: 規制当局は新しい金融商品に関して何も知らなかった

神話2: 規制緩和によって市場は危険な取引を行うことが可能になった

神話3: 政策当局は金融市場を規制するのに市場の規律に頼りすぎていた

神話4: 金融危機は主に短期の現象だ

神話5: 金融危機を防ぐ唯一の方法はより規制を強化することだ

Myth 1: Banking regulators were in the dark as new financial instruments reshaped the financial industry.

何十年も前から金融業界では多くの金融商品が開発されてきた。それらにはCDO(債務担保証券)、クレジット・デフォルト・スワップ、SPV(特別目的事業体)、プライベートラベルの住宅ローン証券が含まれる。これらの新商品の特徴について説明されることはないままにこれらはまとめて現在では「シャドウバンキングシステム」と呼ばれるものを作り上げたとされる。これにより銀行は住宅ローン証券を短期債でファイナンスすることが可能になった。これはそれらの資産のリスクに対する市場の認識が変化した時に金融機関に流動的な準備が不足することを意味する。さらに損失をカバーするための十分な資本が欠けることも意味する。

金融業界に起こった劇的な構造変化は一般大衆にはほとんど気が付かれなかっただろう。メディアもほとんど無知だった。だが規制当局がこれらの発展に気が付いていなかったというのは神話だ。

現実はというと規制当局がこれらの新商品を監督し承認してきた。例えば、2006のスピーチでFRBのBen Bernankeは、

「リスクの売買を可能にした新商品の発展により多くの銀行は伝統的な貸出慣行から(現在の信用状況、市場の状態、収益機会の下で)最適な資産の組み合わせを模索することが可能になった。現在の銀行は債務者、ポートフォリオ濃度、満期、ローンの大きさなどを管理、制御することが可能となり問題資産が損失を生み出す前に対処する、または問題資産を処分することさえ可能になった。多くの銀行はリスクマネジメントの一環として自身のポートフォリオにストレステストも行っている」。

「銀行はローンシンジケーション、ローンの売買取引、クレジット・デリバティブ、証券化などにより信用リスクやその他のポートフォリオリスクを積極的に管理できるようになった。例えばクレジット・デリバティブの取引残高は過去10年で拡大し2005には(1ドル=100円として名目値で)1800兆円に達した。よく名前の知られた企業のクレジット・デフォルト・スワップの取引残高は各企業が発行した債務の取引残高を現在では上回っている」。

バーナンキはこれらの新商品を銀行監督当局と規制される側の金融機関との協調の賜物だと説明している。同様にまた同じ時期にIMFもこれらの新商品は「銀行業界と金融システム全体をより頑健なものにした」と報告している。

新しい金融商品がもたらすであろうシステム全体への影響に規制当局が気が付かなかったというのはまったくの神話だ。現実はというと規制当局はシステミックリスクの監視に非常に熱心だった。だが金融業界と同様に規制当局も新商品がシステミックリスクを低下させると考えていた。規制当局にシステミックリスクを監視させることを義務化させなかったのが問題ではない。規制当局に欠けていたのは判断と考察力だ。

Myth 2: Deregulation allowed the market to adopt risky practices, such as using agency ratings of mortgage securities.

ある論文が指摘しているように、「市場の規律は投資家が格付け機関に過度に依存したために崩壊した」というのは神話だ。市場ではなく、格付け機関の使用を強制したのは規制当局だというのが事実だ。銀行規制当局、特に2002の1月1日に施行されたルール以降はダブルA、トリプルAに格付けされた資産を保有する銀行の自己資本比率規制に猶予を与えた。

市場は規制当局ほど格付けに取り憑かれていたのでも何でもない。格付けされた証券の多くは市場で取引されてさえいない。銀行は市場で取引するためではなく単に自己資本比率規制を満たすただそれだけの目的の為に高格付けの資産を購入している。それらの資産は危険資産と見做されないためだ。

このような格付け機関の使用のされ方は当時から批判されていた。ファニー・メイとフレディ・マックはこのことに関して警鐘を鳴らしていた。Shadow Financial Regulatory Committeeを召集した経済学者の集団は市場で取引されていない証券の格付けがインフレされていると警告した。これらの警告にも関わらず政策当局は格付けに依存した資本規制を金融機関に強要した。

規制による自己資本裁定が金融危機時に危機の原因となったとされる多くの金融新商品の主な開発または購入動機だった。例えば銀行はSPVやSIVを用いて住宅ローン証券をファイナンスすることにより自己資本比率規制を完全に逃れることが出来た。クレジット・デフォルト・スワップも規制を逃れるためのリスクの移し替えの手段として用いられた。

Myth 3: Policy makers relied too much on market discipline to regulate financial risk taking.

専門家?(Alan Greenspanを含む)はリスクの管理に関して予想よりも市場が非合理的だったと不満を表明した。彼らの主張によると市場は不安定で規制の強化が答えだとされた。

幾人かの経営者が深刻な計算違いをしたというのは確かだろう。彼らは住宅価格の低下のリスクを過小評価していたしリスクの隔離を過大評価していただろう。

だが大きな欠陥は規制の構造、特に商業銀行、投資銀行、フレディ・マック、ファニー・メイなどに対する資本規制にある。これらの会社に市場の規律が欠けていたのは彼らが取ったリスクの大部分を負担するのが株主や経営陣ではなく納税者だったからだ。

Shadow Financial Regulatory Committeeは1988にバーゼル合意がまだ協議中だった最初期から資本の「リスク・バスケット」アプローチを批判していた。その代替案として経済学者は銀行に自身が保有する資産のリスクと預金の間のレイヤーとして機能する無担保債務の発行を求めることを提案していた。最近になって他の経済学者の集団がそのようなアプローチへの支持を繰り返している。

Myth 4: The financial crisis was primarily a short-term panic.

今回の金融危機は4つの側面を持つ。

悪い債務、これはデベロッパーが住宅を多く作りすぎたこと、消費者が住宅を購入しすぎたこと、貸し手が非合理的な貸付を行ったこと、金融機関が住宅の信用リスクを過度に負ったことを意味する。

過度なレバレッジ、これはフレディ・マック、ファニー・メイ、ベアー・スターンズなどの主要な会社の債務資本比率が高すぎて資産価値の低下によってそれらの会社の経営が危機に陥る可能性があったことを意味する。

ドミノ効果、これはある会社での問題が他の会社にも波及する可能性があることを意味する。

21世紀型の銀行破綻、これは住宅ローン証券を他の会社からの短期の借入の担保として用いていた金融機関がカウンターパーティーから融資の延長を受けにくい状態に追い込まれることを意味する。

初めの2つは少なくとも10年ぐらいを掛けて展開してきた根本的な問題だ。後の2つは2008に急浮上してきた金融パニックの反映だ。

あまりにも多くの政策当局者が金融パニックだけに目を奪われている。例えばBernankeが2009の秋のジャクソンホールでの会合で金融危機の回顧録を提示した時に「パニック」という単語は何十回も用いられたが「住宅価格」という単語が用いられたのはわずか2回だけで「住宅ローンのデフォルト」という単語が用いられたのはたったの1回だけだった。

そのような考え方では政策当局者にもっと深い根本的な政策の欠陥を修正させるのではなく規制組織や規制の権限の方に目を向けさせてしまう。我々は政府の証券化に対する支援のコストベネフィット分析、住宅政策の目的、金銭的リスクに対する政府の保護とリスクテイキングの抑制とをどのように和解させるかなどのより根本的な問題を議論する必要がある。

Myth 5: The only way to prevent this crisis would have been to have more vigorous regulation.

金融機関は大人による監視がなければひどい放火を始めてしまう10代の子供のようだという神話がある。実際は、マッチを付けガソリンを撒き新聞に火を点けたのは議会と規制当局だ。

住宅政策は住宅の購入を増加させることに取り憑かれていた。この政策により(頭金が必要とされなくなったことと加えて)恐らく「住宅の自己所有」という単語が無意味なものとなる程の地点にまで押し上げられた。政策の目的は住宅の保有を増やすことだったのだろうが実際の結果は投機と債務だ。

金融危機を防止する最も簡単な方法は住宅購入に掛かる頭金を低下させ続けている政府の介入を止めてむしろ頭金を増加させることだ。妥当な水準の頭金を維持することにより過去に住宅価格を高騰させた投機を防ぐことが出来るだろう。それによりデフォルトを減少させることが出来る。

金融危機を防ぐ他の方法は銀行資本を規制するのにリスクバスケットや格付け機関以外を用いることだ。より良い方法はストレステストを行うことだろう。前にも述べたがその他の方法は金融機関に無担保債務を発行することを要請することだ。無担保債務は資産価格の変動から預金保護基金を隔離するのに役立つだろう。その上、もしそのような債務が市場で取引されればその価格は市場が示したリスクの指標として用いることが可能で規制当局に問題の早期の警報を与えるだろう。

(金融)規制は大きく緩和されたと故意に偽り続けていた馬鹿な経済学者に大量の人が騙された?Part1

金融危機時にグラス・スティーガル法が果たしたとされる役割に関して恐ろしいほどの事実誤認がある。それを修正しなければならないようだ。

シティ・グループの前経営者Sandy Weillがグラス・スティーガル法を廃止したのは間違いだったと思うと発言すると彼の周りは無知なコメントで溢れかえった。以下の5つの神話では彼らの勘違いのすべてを扱っているわけではないが主たるものを扱っている。

Myth 1: Glass-Steagall was repealed in 1999 by the Gramm-Leach-Bliley Act.

間違いだ。グラス・スティーガル法は一度も廃止されていない。現在でも銀行に適用されているし銀行が証券を引受することや取引することを禁止している。1999年に廃止されたのは(商業)銀行が投資銀行と提携することを禁止した部分だ。

Myth 2: The repeal of Glass-Steagall allowed banks to use taxpayer-insured funds for risky trading.

間違いだ。1999年以降もグラス・スティーガル法の残りの条項によって銀行は証券の引受や取引を禁じられている。だが1999年の前でも後でも銀行は自身の勘定で債権やその他の確定利付証券を取引(すなわち、買いと売り)することは認められてきた。これは論理的なことだ。何故ならばそれらは単に証券の形を取ったローンだからだ。当然だがローンは銀行の商売道具だ。エクソン・モービルが原油の取引を許可されているのと同様に銀行にも彼らのビジネスに必要不可欠な資産を取引することを許可しなければならない。これにより必然的に預金保険によって保護された資金が銀行の取引に含まれることになる。これも1999年の前でも後でも許可されている。この取引を「リスキーだ」というのは卑劣な行為だ。だが銀行が昔から取引を許可されてきたという事実を変えることは出来ない。

Myth 3: In the financial crisis, banks got into trouble by trading “risky” mortgage-backed securities (MBS).

間違いだ。銀行が困難に陥ったのはサブプライム・ローンやその他の安全性が低いと言われている住宅ローンを購入してそのまま保持していたからでそれらを売買していたからではない。2007年にこれらの債権の価値が低下すると銀行はかなりの損害を被った。これは銀行が悪い貸出を行って損失を発生させたのと変わりがない。だがグラス・スティーガル法やその架空の廃止とは何の関係もない。加えてそれらのMBSは購入された時には「リスキー」だとは見做されていなかった。銀行が購入して保持したMBSの格付けはトリプルAでMBSの中では最もリスクが低いものだった。そこから得られたリターンも最も低いものだった。本当に銀行が危険な「ギャンブル」をしたいと思っていたのであれば銀行は格付けがトリプルA以下のMBSを購入していただろう。リスクはより大きくそれに対応してリターンも大きいからだ。銀行がトリプルAのMBSを購入して保持していたという事実からは何らかの洞察が得られるかもしれない。だがそのことは銀行の売買行動や銀行のリスクテイキングに関して何も語っていない。

Myth 4: The repeal of Glass-Steagall allowed bank holding companies and bank-affiliated investment banks to use insured funds for risky trading.

ほとんどあり得ない。1999年の法改正により商業銀行は投資銀行と提携することが可能になった。もちろん投資銀行は銀行預金に接触することは出来ない。その上、銀行規制により商業銀行が資金を貸す、保証する、またはその提携先のリスクテイキングを引き受ける、または支援することは極めて困難となっている。Federal Reserve Actの下では提携先への銀行貸出はどの貸出先であっても対等でなくてはならない(非提携先と同じ条件でなくてはならない)。そして政府証券を担保としなければならない。さらに資本の20%までとしなければならない。仮に貸出が行われたとしても(まったくないとはいわないがほとんど行われない)担保が存在するためほとんどリスクがない。銀行の提携先にとっては資本市場から資本を集めるほうが遥かに簡単だろう。事実、それが実際に行われていることだ。

Myth 5: By allowing insured banks to affiliate with risk-taking investment banks, the 1999 change in Glass-Steagall caused losses to the banks that contributed to the financial crisis.

間違いだ。先程も述べたように銀行は悪い貸付を行って損失を被った。投資銀行は商業銀行よりも高いリスクを取りレバレッジも高かったかもしれないが金融危機時に困難に陥った投資銀行は(リーマン・ブラザーズ、ベア・スターンズ、メリルリンチ)大きな損失を被った商業銀行とは提携していない。従ってそれらの損失とは関係がない。加えて、それらの投資銀行が困難に陥ったのは商業銀行よりも大きなリスクを取ったからではなく商業銀行と同じくトリブルAに格付けされたMBSやその他の住宅ローンを購入して保持していたからだ。最後に、商業銀行と提携していた規模の小さな投資銀行が商業銀行の損失と少しでも関わっていたとする証拠は一つもない。言い換えるとグラス・スティーガル法に何らの変更も加えられていなかったとしても2008年の金融危機は(起こるのであれば)まったく同じように起こっただろう。グラス・スティーガル法が廃止されたせいで金融危機が起こったと叫んでいる人は考え直したほうがいい。

トリクルダウンは嘘だったは嘘だった?パート2

Faulty evidence that ‘inequality’ harms growth

Alan Reynolds

OECDとIMFによる最近の2つの報告書は大きな所得格差は経済成長を低下させるということを発見したと主張していてオバマ政権(2013年に所得税の最高税率を引き上げた)とIMFにいる彼らのお仲間(ギリシャ、アイルランド、ポルトガルに所得税の最高税率を引き上げるよう甘い言葉で言い包めた)の主張の正当化に用いられている。

レポーターたちは「所得格差」という用語が所得上位1%の所得と同義であるかのように勘違いしているが、所得上位1%の所得の高さまたはその増加が経済成長に有害であることを少しでも示した経済学者は誰もいない。

不幸なことに、不注意なレポータのせいでOECDとIMFが彼らの考えを公式に支持したとの間違った印象を与えてしまった。

昨年12月のウォールストリート・ジャーナルの「所得格差の拡大は経済成長を阻害する、とOECDが述べた」とのセンセーショナルな見出しの後にはOECDの研究が「高額所得者に対する税率の引き上げ」を正当化するというレポーターのコメントが載せられている。

だがそのFederico CinganoによるOECDの研究には「富裕層の所得が経済成長に有害であることを示した証拠は一つもない」とはっきりと書かれている。

彼は限界税率の引き上げが経済成長に有害でないという証拠も一つも示していない。OECDのワーキング・ペーパーにはこれらは「OECDの公式見解とレポートしてはならない」とはっきりと警告されている。だがこの論文はOECDの公式見解として広く報道されてしまった。

2014年の2月のIMFの職員によるものも同様にIMFの公式見解として間違って報道されてしまった。Jonathan D. Ostry, Andrew Berg, and Charalambos G. Tsangaridesによる「Redistribution, Inequality and Growth」のことだ。

その論文ではUniversity of Iowaの政治経済学者Frederick Soltが編集した153の国のジニ係数を用いている。

この論文は壮大なファンファーレとともに公表された。「IMFは所得格差が経済成長を阻害すると警鐘を鳴らした」とウォールストリート・ジャーナルは叫び声を上げた。その記事ではDavid Liptonを「ファンドのNo.2、そしてホワイトハウスの前特別顧問」として紹介し、彼が「再分配は所得格差を低下させるので経済成長を促進させることが出来る」と自身満面に断言しているのを引用している。

2011年の後半にホワイトハウスからIMFに送り込まれた彼はオバマの政治的議題を一緒に持ち込んだ。だが彼の強い宣言はとても弱い根拠に基づいている。IMFの経済学者は「再分配に関するデータはひどく不足していてとても信頼できるものではない。所得格差に関するデータとなるとさらにそうだ」とはっきりと警告している。

そのような信頼出来ないデータによる彼らの「証拠」とはネットのジニ指数をその後の10年間の一人あたり実質成長率と比較して散布図にしてあるものだ。不幸なことに、その結果はまるで的外れなもののように思われる。

それにも関わらずためらいがちにではあるが「大きな所得格差は経済成長を低下させているように見える」そして「再分配はそれがジニ指数の13ポイントを超えた辺りから直接の負の影響を持ち始めるように見える」と結論している。

散布図がわずかにランダムではないように見えたとしてもさらに外れ値による影響が小さそうに見えたとしても所得と実質GDPに関する統計が多くの途上国でとても信頼できるものではない。Diane Coyleの「GDP: A Brief But Affectionate History」には「国際比較をするために経済学者によって頻繁に用いられるデータの中で45の国のうち25の国で物価調査がまったく行われていない」と(恐ろしいことが)記されている。そして他の国は「1968年以降更新されていない」固定ウェイトの価格指数を用いている。

所得格差と実質GDP成長の間の関係を探すとなると(たった45の国でさえこの有様であるのに)153の国からの推計などではとても信頼できるものではないしアメリカに当てはめるのは間違いなく不適切だ。

その一方で分析をG20に限定すると所得格差、再分配、経済成長の間の関係はOstry, Berg, and Tsangaridesが主張したのとは真逆になる。少なくとも1990年以降で最も高い経済成長を示したのは最も所得格差が大きく再分配の最も少ない国々、インド、中国、インドネシア、トルコなどだ。

以下の表にはG20の最新のネットジニと再分配がジニに与えた影響を示してある。ネットジニに再分配の影響を加えれば課税前移転前の市場ジニになる。

表の最後の列には世界銀行からロシアを除いた1990年から2013年までの実質GDPの年間成長のデータを記載している。ロシアのデータはフラット税が開始された2000年からのものを用いた。アルゼンチンの政府発表の成長率(4.1%)からはARKEMSによって報告されているように2008年以降のインフレの過少申告を調整するために20%を差し引いた。

G20の中で最も格差が大きく最も再分配が少ないのはインド、中国、インドネシア、トルコだった。これらはすべて1990年以降4.2%から9.9%の間の高い経済成長を見せている。

再分配を多く行っているにも関わらず格差が大きい国には南アフリカ、ブラジル、メキシコ、ロシアが含まれる。最初の3つの国は1990年以降2.5%から2.9%の成長を示している。2000年以降のロシアはさらに速く成長している。ロシア、ブラジル、アルゼンチンはもちろん最近になって大惨事となっているがそのことは過去の成長率とは関係ない。

Ostry, Berg, and Tsangaridesは再分配によるジニ指数の低下が13ポイントを超えると経済成長が低下しているように見えると報告している。G20のリストの下半分で韓国を除いて再分配は遥かに大きい。そしてフランス、日本、ドイツの成長は最も低い。カナダとイタリアも同様に低い。南アフリカは格差が大きく平均的な成長を示している。一方で韓国は格差が小さく成長も速いがどちらの国も大きな再分配は行っていない。

この表の欠点の一つは所得格差の指標がもっとも最近の単年度のものであることだ。所得格差が大きく変化した稀な事例の場合にはミスリーディングかもしれない。だが所得格差の水準ではなく変化に着目したとしても結果は変化しない。

北欧で所得格差が大きく拡大したという理由だけでOECDのエコノミストFederico Cinganoは「スウェーデン、フィンランド、ノルウェーの成長率はもし所得格差が拡大していなければ5分の1以上高かっただろう」と(誤った)主張をしている。皮肉なことにブラジル、アイルランド、ウクライナの所得格差は低下している。だが経済成長もだ。

IMFの論文の解釈者たちのほとんどは、それが(1)所得格差の大きな国は経済成長が低かった(2)再分配は無害であることを示したと頑なに信じている。ウォールストリート・ジャーナルのコラムニストWilliam A. Galstonは「IMF(再分配の擁護者として有名ではない)による2014年の研究は所得格差の拡大は経済成長を低下させ再分配は経済成長を促進させることを発見した」と書いている。

だがその研究で用いられているのと同じ指標をG20に当てはめるだけでそのどちらの結論も簡単にひっくり返ってしまう。事実としては、どちらの結論も現実の真逆だ。

リストを拡大しても彼らの理論を救出することは出来ない。例えば、アジアの虎と呼ばれる国々はいずれもジニ指数が高い。シンガポールは42.2、香港は43.9、マレーシアは46.6、タイは51.9だ。

その逆にジニ指数が30以下の国でGDPが継続的に2%以上の成長を示した国はわずか3つしかない。それらはモーリシャス(23.6)、台湾(30.1)、ポーランド(29.3)だ。だがそれらの国の最高税率はモーリシャスが15%、台湾が17%、ポーランドが32%と低い。

稀な例外を除いて、1990年以降高い成長を示した国の所得格差の水準は非常に大きい(アメリカよりも遥かに大きい)。再分配の多い国で高い成長を示したものはない。

(遥かに所得格差が大きい国が他に幾らでも存在するということが明らかになったというのに)明らかにアメリカが再分配イデオロギーのターゲットとされている。そのスローガンはもちろんアメリカの所得格差が拡大し続けているという誰もまともに調べたこともない主張だ。

このグラフはCBOの推計した所得上位1%の所得を含めたアメリカのネットのジニ指数を示している。1986の税制改革以降この指標にははっきりとしたトレンドは見られない(1997年と2003年にキャピタル・ゲイン税率が引き下げられた時にキャピタル・ゲインの実現が急増加したのが原因で急上下しているだけだ。

最新のCBOの推計は2011年で止まっている。だがそれ以降の所得上位1%のデータは入手可能だ。

Piketty and Saezは「所得上位1%の2012年から2013年の実質所得は14.9%低下している。(中略)この低下は2013年の最高税率の引き上げが原因だ」と報告している。高い税率を逃れるための所得のシフトを調整するために2012年と2013年の所得を平均させたとしてもこの期間の所得上位1%の実質平均所得は2007年を20.6%下回り2000年を11.2%下回る。所得上位1%の所得がずっと上昇していると主張している者は明らかにまともにデータを見ていない。

アメリカ経済が所得格差の拡大によって成長を阻害されていて所得の再分配によって成長を高めることが出来るという主張の証拠としてOECDやIMFの論文を引用する者は自らがでっち上げた問題への対処法として致命的な欠陥を抱えた推計を用いている。

トリクルダウンは嘘だったは嘘だった?パート1

Another Defective IMF study on Inequality and Redistribution

Alan Reynolds

「IMFが所得格差の危険に対して警鐘を鳴らした」とウォールストリート・ジャーナルのIan Talleyはセンセーショナルな見出しで世間の注目を集めようとした。(彼が「世界最高の経済学の研究機関」と呼ぶ)IMFが「所得格差の拡大が経済成長の足枷となり政治的不安定性に油を注いでいると警鐘を鳴らした」と言われている。

ホワイトハウスとIMFによるこの馬鹿馬鹿しい合唱はオバマの特別顧問だったDavid LiptonがIMFの事務次長に就任した2011年の後半以来繰り返されているものだ。2012年の12月の「所得格差が経済成長を阻害するかもしれない」というニューヨーク・タイムズの記事や1月14日の「IMFが所得格差の危険性に警鐘を鳴らした」というフィナンシャル・タイムズの記事など同じ内容が何度も繰り返されている。だからこれはニュースでも何でもない。

彼は「IMF(中略)は先進国と発展途上国は税、特に社会保障費、医療費、その他の給付の負担を高額所得者にシフトさせる累進的な税によって税収を引き上げる必要があると述べた」と書いている。これもニュースではない。IMFには各国に増税をアドバイスして悲惨な結果を引き起こしてきた歴史がある。今回の騒ぎもIMFが過去の失敗を繰り返すための口実でしかない。

記事の中で唯一ニュースと呼べる部分があるとすれば「67ページに及ぶペーパーの中には所得格差の拡大を押させるために188のIMF加盟国に対して税制と公共支出をどのように用いればよいかの詳細が書かれてある」という部分だ。そのペーパーは数多くの「staff discussion notes」の一つに過ぎず当然「その意見は筆者達のものであってIMFのものと見做すべきではない」と書かれてある。その論文の筆者たち(Jonathan Ostry, Andrew Berg, and Charalambos Tsangarides)からの主な「警鐘」は「再分配に関するデータはひどく不足しておりとても信頼できるものとは言えない。格差に関するデータになるとさらにそうだ」というものだ。信頼できるデータではないと認めているにも関わらずIMFの経済学者は「所得格差の拡大は経済成長を低下させているように見える。再分配は対照的に僅かな統計学的に有意ではない(僅かに負の)影響しか与えていないように見える」と何故か主張している。

このIMFのディスカッションドラフトは「(グロスの)市場所得とネットの所得の所得格差を区別し移転の影響を計算することを可能にした最近になって編集されたデータセット(Solt 2009)」に依存している。Southern Illinois UniversityのFrederick Soltは課税前移転前のジニ係数を再構築して「ネットの」ジニ係数を推計している(直接税と現金による移転は調整してあるが売上税や現物による移転は調整していない)。

ソルトのジニ指数はゼロから100までで表される。例えばアメリカの2011年の課税前移転前のジニ指数は46.5だが現金移転を加えて税を引いた後では遥かに低い37.2となる。アメリカが他の国とはまったく異なり払い戻し可能な税額控除と現物移転に大きく依存している(これにより現金による移転を行っている他の国と比べてアメリカの所得格差を見掛け上大きく見せている)ということをデータが反映していればネットのジニ指数は遥かに低くなるだろう。

彼の記事によると「アメリカを含む幾つかの先進国の所得格差は大恐慌以前の水準に達している、とIMFは述べた」とある。まったくのナンセンスだ。IMFの研究に用いられたデータは1960年までのものしかない。この記事の記者は自分のブログ上で現代と1928年との無意味な所得格差の比較を行っていたがそれはThomas Piketty and Emmanuel Saezが批判を省みることなく繰り返し行っている完全な誤謬だ。彼らは戦前の所得のデータを比較可能ではない遥かに狭く定義された戦後の所得のデータと誤って比較している。

ソルトの153の国のリストに戻るが彼のリストではネットのジニ指数が30以下が最も低い集団で45以上が最も高い集団ということになっている。だが彼の記事では所得格差に苦しんでいるとされている国々のジニ指数はリストでは低い。

「IMFにとっては」と彼は述べて「アテナ、リスボン、カラカストリポリなどでの抗議は(中略)所得格差の現実の現れだ」と締めている。そのようなお伽話はレバノンには当てはまるかもしれない。だが他の場所ではそうではない。最新のネットのジニ指数はギリシャが33.1、ポルトガルが33.2、ベネズエラが35.6だ。彼の記事では所得格差がエジプトとウクライナで「政治的不安定が拡大するのを助長した」とも主張されている。だが最新のジニ指数はエジプトで30.9、ウクライナにいたっては25.6だ(ソビエト連邦の1992年の数字よりも遥かに低い)。彼はこれらの平等国家が再分配をやり過ぎたせいで破滅に陥ったと暗に言いたいのかもしれないがだがそれはIMFのもう一つの主張、再分配は有害でないという主張と矛盾する。

ギリシャやウクライナなどの数字とBRICsと呼ばれる国々の数字は対照的だ。最新のネットのジニ指数はブラジルが46.4、ロシアが49.9、インドが49.7、中国が47.4となっている。これらの成長率が高い(高かった)国々のジニ指数は税と移転の前後でほとんど変化していない。これは再分配がほとんど行われていないことを示唆する。再分配によって中国のジニ指数は47.9から47.4、インドのジニ指数は50.6から49.7へとわずかに低下しているに過ぎない。

不幸なことにIMFへローンを要請した国は最高税率をさらに引き上げそこから得られた税収を政治的利益団体へと再分配せよというIMFのアドバイスを飲まなくてはならない。そのようなローンは役に立たない政府を存続させる手助けにはなるかもしれないが民間経済を確実に疲弊させるだろう。

ケインズ派終了のお知らせ?

IMF Paper:Government Jobs Crowd Out Private Sector Employment

Peter Suderman

政府部門の雇用が増えた時に民間部門の雇用に何が起こるのか?IMFの最新のワーキング・ペーパーは政府部門の雇用が増えると民間部門の雇用が減ることを示している。この論文の執筆者は1988から2011の期間の194の国のデータを調べ、「政府部門の雇用が民間部門の雇用をクラウドアウトしている頑健な証拠」を発見した。

この論文は統計学的にほぼ完全な1対1の関係があることを発見している。「政府部門の雇用は民間部門の雇用を犠牲にしていてそれ故経済全体の失業を減少させていない」。この論文の執筆者達はOECD加盟国だけを対象に調べ同様の「完全クラウドアウト」を発見している過去の研究に関しても言及している。

このことは景気刺激策と呼ばれるものに関して重大な意義を持つ。景気刺激策と呼ばれるものは民間部門を刺激することを目的としているといわれるがアメリカの過去の事例を調べた研究は失業者数の減少ほぼすべてが民間部門の雇用の増加ではなく政府雇用の増加によるものであったことを発見している。今回の論文の結論は2009の景気刺激プログラムは何十万もの政府部門の雇用をそれ以上の数の民間部門の雇用を犠牲に生み出したまたは節約したことを発見した研究とも整合的だ。