2013年5月21日火曜日

財政政策は大恐慌の時でも無効だった?

WHAT ENDED THE GREAT DEPRESSION?

by Christina D. Romer

I. INTRODUCTION

1933から1937にアメリカの実質GNPは平均8%以上成長した。1938から1941には平均10%以上成長した。大恐慌からの回復期であったにせよこの成長率は壮観だ。大恐慌からの回復はこれまであまり注目を集めてこなかった。1930年代前半の不況がとても大きいものだったので経済学者はその下落と反転の原因に焦点を絞っていたからだろう。一旦その原因が説明されてしまうと関心も失われてしまう。完全雇用への回復も単に調整の遅れとかまたは第二次世界大戦の勃発まで完了しなかったとして片付けられてしまった。

政府支出の変化の形での総需要刺激策が大恐慌からの回復の要因であったか否かは1940年代と1950年代に集中的に調べられた。Smithiesは「財政政策は回復の手段として唯一有効であったことが証明された」と主張した。だが彼の主張は根拠と言うよりも信念に基づいているように思われる。Hansenは逆に財政政策は1930年代に集中的に行われなかったと主張した。Brownはその主張を支持した。彼のよく引用される結論はこうだ。「財政政策は有効に機能しなかった。効果がなかったからではなく用いられなかったからだ」。

Friedman and Schwartz [1963)は連邦準備銀行の政策は大恐慌からの回復の要因ではないと主張した。彼らは「その期間中には連邦準備制度はハイパワードマネーの量を変えようとする試みを一切行わなかった」と主張した。その一方で彼らは特にニューディールの金政策が1930年代中頃の貨幣供給の増加につながったことを明らかに認識していた。だが彼らは連邦準備の不作為に注目を集める意図を持っていたためこの期間の貨幣供給の増加はわずかな関心しか得られなかった。

II. THE STRENGTH OF THE RECOVERY

ここで大恐慌からの回復がとても速いものだったと強調することは回復はとてもゆっくりしたものだったと聞かされてきた者にとっては奇妙に思われるかもしれない。通説ではアメリカ経済は1930年代を通してずっと落ち込んだままで完全雇用に回復したのは第二次世界大戦が勃発した後だけだということになっている。これは1930年代前半の生産の落ち込みと1938の落ち込みがあまりに大きかったので驚異的な成長を持ってしても落ち込みを打ち消して元の水準に回復するためには何年も掛かったからだ。

(省略)

この研究の大部分の分析の中でBureau of Economic Analysisからのreal CNPの年間推計を用いる。このデータは1929からしか得られないので必要な場合にはKendrick—Kuznets CNPを用いて拡張する。図1は1929から1933の生産の低下とその後の回復の力強さをはっきりと示している。1929から1933に実質CUPは35%下落した。1933から1937には33%上昇した。1938には生産はまた5%下落したが1938から1942に今度はさらに壮観に49%上昇した。明らかに1938の前後の4年間の実質成長率は圧倒的だ。


だがこの急激な成長にも関わらず生産は1942まで正常には戻らなかった。1930年代のトレンド成長率を簡単に推計する方法は過去の成長率を外挿するものだ。1923-1927を選んだのは1920年代の最も普通の期間だったからだ。この期間は価格の安定した期間でもあったので生産は極端に高かったわけでも極端に低かったわけでもないと思われる。この期間の成長率は3.15%だった。図2にそれを示す。図はCUPが1935のトレンド水準を38%下回っていることを示す。1937には26%下回っている。トレンドに回復したのは1942になってからだ。

失業率の動向も実質GNPの動向と完全に整合的だ。多くの経済学者が失業率は1940まで10%近かったと強調しているが1932の23%の高さからは大幅に下落している。実際に失業率は1934と1936に4%以上下落している。1942まで失業率が元の水準に戻らなかったのは単にその時まで生産がトレンドを下回っていたからだ。

III. THE EFFECTS OF AGGREGATE DEMAND STIMULUS IN THE RECOVERY

金融緩和政策がこの回復を説明できるかどうかを調べるために簡単な計算を行う。初めに政策がどの程度の規模で行われていたかを示す。次に金融政策と財政政策のスタンスを測る方法を示す。それからこの2つの推計を組み合わせる。

A. Application of the Narrative Approach to the Interwar Era

これらの中で最も難しいのは金融政策と財政政策の乗数を推計することだ。ここでは過去の回復期に注目する。1920と1937に金融政策と財政政策の両方に収縮的な動きがあった。これらの動きの後に比較的大きな不況があった。さらにこの不況を説明する要因として他に尤もらしいと思われるような出来事もなかった。

よってこの2つの不況の生産の変化を金融政策の変化と財政政策の変化に分解することが出来る。

(1) Output changer — pm(Motary Change) + flf(Fiscal Change)_1.

flは金融政策と財政政策の乗数だ。tは1921か1938のどちらかを示す。実際の生産の変化と金融政策と財政政策のスタンスを代入して金融政策と財政政策の乗数を得ることが出来る。

1921と1938が根拠として相応しいものであるためには政策の変化が生産の動きに対応するものでないことが重要だ。政策の変化が生産の低下に対応するためのものであったら政策の効果を過大推計してしまう。さらにこの不況を説明する要因が政策以外にないことも重要だ。他の要因が重要であればここでも政策の効果を過大推計してしまう。

政策変化の独立性。戦間期からの政策変化として1920の財政政策の変化は実体経済の変化によって引き起こされたものでないことは明らかだ。政府支出の大幅な低下をもたらしたものは第一次世界大戦の終了だった。この変化の大きさは財政収支/GNPが1919の-8.3%から1920に0.5%になったことから伺える。

この時の金融政策の変化もまた大きくそして独立だ。Friedman and Schwartzによると1919の連邦準備は第一次世界大戦と戦後の好況からによるインフレーションを懸念していた。その対応として連邦準備は1919の12月に3/4%金利を引き上げた。当時の理事の日記や手記によると連邦準備は金融政策のラグについてよく分かっていなかったらしい。結果として経済が金利の引き上げに対応出来なかった期間に連邦準備は1920の1月にさらに金利を1 1/4引き上げ1920の6月に1%ポイント金利を引き上げた。これらの大幅な金利の引き上げは連邦準備の経験不足によるものなので生産の動きに対応するものではない。

1937の財政政策の引き締めはそこまで急激なものではなかったがそれでも大きなものだ。1936に第一次世界大戦の退役軍人に巨額のボーナスが支払われこれが政府支出の急増として記録された。1937にこの支払が無くなっただけでなくこの時に初めて社会保障税が集められた。この歳入の増加は明らかに経済の動きとは関係していない。年金の支払いをファイナンスするために税金が引き上げられたのを反映しただけだ。この2つの変化により財政収支は1936の-4.4%から1937に-2.2%になった。

1937の金融政策の変化は1920のものほど判りやすいものではないが大部分独立だ。Friedman and Schwartzは貨幣への撹乱を1936の7月から1937の3月に掛けて3段階で行われた要求準備の倍増の結果だとしている。連邦準備は要求準備を引き上げた。高い水準となっていた超過準備を懸念していて超過準備を要求準備へと転換することを望んでいたからだ。この動きはマネーサプライを大きく減少させた。銀行は超過準備を保有しておくことを望んでいたからだ。銀行は準備の水準を高く保つために貸出を減少させた。

結果としてのマネーサプライの変化は独立だ。なぜなら連邦準備は経済と関係なく動いているからだ。彼らはマネーサプライを縮小させた。なぜなら銀行の動機を誤解していたからだ。マネーサプライの縮小が彼らの意図的な判断によるものではないさらなる根拠として1937の会合の記録がある。何回かの会合の中で当時の議長Mariner Ecciesは要求準備の倍増は金融緩和政策の終了を意味するものではないと主張した。明らかに連邦準備は将来の生産の減少を予期して意図的にマネーサプライを減少させたのではない。

この変化に加えて1936に財務省は金の流入を不胎化し始めた。その結果減少ではないにしてもハイパワードマネーの増加率の大幅な減少となった。不胎化への転換は要求準備の増加と併せて同種の政策ミスのように思われる。Chandlerによると財務省は金の流入が超過準備問題を悪化させることを恐れた連邦準備の要請を受けて不胎化を行った。財務省がマネーサプライに影響を与える意図を持っていなかった根拠は1937の金利の上昇を大変懸念していたことから得られる。

その他の要因。上記に加えて金融政策と財政政策の変化以外に生産の低下の原因となったと思われる要因に関する直接的な根拠はない。1921と1938の不況を研究した経済学者のほとんどは政策変化が重要だったと見ている。例えばFriedman and Schwartzは低下の原因をほとんどすべて金融政策に求めている。彼らは「両年の貨幣残高の減少は連邦準備の政策の結果だ。貨幣残高の減少は生産の低下と関連している」と主張している。この主張にLewis [1949, pp. 19—20)とRoose [1954, p. 239]も賛同している。

その他の者は財政政策により重要な役割を与えている。Hansen (1938]、Smithies [1946)、Cordon [1974]はすべて1938の不況を政府支出の減少の結果だと主張している。Ayresは政府支出の減少が「1937の秋に起こった生産の急低下の主要な要因として最も適切だと思われる」と主張している。Gordonも第1次世界大戦後の政府支出の減少が1921の生産の低下の重要な要因だったと主張している。彼は「1920の始めまでに強いデフレ要因を経済に与えた」と主張している。

恐らく最も重要なのは政策要因以外の生産の低下の説明が根拠として弱いことだ。政策要因は逆に経済変数の動きと完全に整合的だ。例えば政策要因以外の説明として労働組合の組織率の増加による賃金の上昇がある。つまり1937に負の供給ショックがあった。この説明の問題点は負の供給ショックによる価格の上昇が見られなかったことだ。1937から1938には小売価格は9.4%下落した。政策要因仮説はこの価格の動きと整合的だ。貨幣要因による説明はさらに金利が急激に上昇したこと建設支出などの金利に敏感な支出が減少したことと整合的だ。

1921の不況に関するその他の説明は第一次世界大戦の特需が終了したというものだ。1920までにこの需要は満たされ企業は売上の急減に直面したと続く。この説明の問題点は消費は実際には1920と1921に増加しているということだ。実質消費支出は1919から1920に4.8%、1920から1921に6.2%増加した。消費に関する説明はいずれも金利が大幅に上昇したという問題に直面する。

B. Policy Multipliers

政策変化の独立性とその他の要因の欠如によりこの2つの時期を金融政策と財政政策の乗数の推計に用いることが出来る。それを求めるにはデータを式(1)に代入すればいいだけだ。

生産と政策手段。成長率のトレンドからの乖離を示す。さらに政策スタンスに関してまず通常時の政策スタンスを定義しそこからの乖離部分のみが総需要に影響を与えるとする。

金融政策変数としてM1成長率の通常時(1923から1927)からの乖離を用いる。この期間の成長率は2.88%だった。

財政政策変数として実質財政余剰/実質CNPの変化率を用いる。実質財政余剰に変化がなかった場合を通常時とする。つまり財政赤字か財政黒字が一定であった場合は総需要に変化がないとする。

政策変数は1年のラグを伴って生産に影響を与えるとする。これは粗い仮定ではあるもののこの2つの期間に対しては合理的だ。政策変数の変化は生産が大幅に低下する前年に起こっている。実際に(生産が低下した)同年の政策変数はわずかに拡張的だ。よって意味のある乗数の推計を得るにはラグを1年とおくしかない。

結果。金融政策の乗数の推計値は0.823、財政政策の乗数の推計値は-0.233となった。符号が-なのは財政政策変数が財政黒字を基準としているからだ。

金融政策変数の乗数の大きさは妥当なものだ。M1成長率のトレンドからの1%ポイントの低下は生産の成長率のトレンドからの0.82%ポイントの低下になる。

財政政策変数の乗数の大きさは極めて小さい。財政余剰/GNPの1%ポイントの増加は生産の成長率のトレンドからの0.23%ポイントの低下となる。これは1921の生産のトレンドからの乖離が1938に比べて小さく逆に財政政策変数の変化が1920が1937の4倍近いからだ。よって生産の低下を財政政策の要因に割り当てるのは困難になる。だが極めて大きい財政政策変数の乗数であったとしても以下の結論にはほとんど影響を与えない。

C. Simulations

これらの乗数から1930年代の政策効果を計算することが可能だ。乗数×政策変数により生産の成長率のトレンドからの乖離に与える影響を示すことが出来る。仮に実際の生産の成長率からこの非常時の政策の効果を差し引けば政策が通常時であった場合に生産の成長率がどうなっていただろうかを示すことが出来る。

財政政策。図3に財政政策の効果を示す。点線は財政政策が通常時の水準であったと仮定した場合の生産の推移を対数で示す。実線は実際の生産の推移を対数で示す。2つの線が非常に似通っているのは財政政策が大恐慌からの回復にほとんどまったくといっていいほど貢献していないからだ。1942だけは識別可能な違いが見られるがそれですら差はわずかだ。


財政政策の効果が小さいのは前述の1921と1938の効果が小さいことから部分的に説明できる。だが根本的には1930年代を通して財政政策の通常時からの乖離が大きくないことが原因だ。図4に財政収支/CNPの変化を示す。1930年代の財政収支/GNPの変化は1%ポイント以下で幾年かはプラスだ。戦争による支出が増加した最初の年である1941でさえわずか6%ポイント増加したにすぎない。


金融政策。図5に金融政策の効果を示す。点線は貨幣成長率が大恐慌前のトレンドに保たれていたと仮定した場合の生産の推移を対数で示す。実線は実際の生産の推移を対数で示す。2つの線は今回は大きく異なる。2つの線の差は貨幣成長率が通常時のトレンドに保たれていたならば1937の実質GNPは25%低かっただろうことを示す。1942までにはこの差は50%にまで拡大している。この計算は金融政策が大恐慌からの回復に重要だったことを示している。


この効果の要因を探し出すことはそれほど難しいことではない。前述のように金融政策の乗数は戦後のマクロ経済モデルで計算されたものとほぼ同じ大きさだ。よってこの大きな効果は有り得ない程大きな乗数によってもたらされたものではない。むしろこの効果は貨幣成長率の高さが要因となっている。図6に金融政策変数を示す。図に見られるように通常時の貨幣成長率からの乖離は大きい。この期間のほとんどで乖離は10%以上に及ぶ。よってこの通常時からの乖離がゼロに保たれていたならば大恐慌からの回復が劇的に遅かったことを示しても驚きではない。


D. Robustness

この結果は非常にロバストだ。乗数を大きく変えても結果は変わらない。

例えば金融政策の乗数を半分に財政政策の乗数を倍にしてみる。金融政策の乗数の変化は極めて大きいもののはずだ。にも関わらず1942の実質GNPは貨幣成長率が通常時のトレンドを保っていたと仮定した場合に実際のGNPから25%低いに過ぎない。財政政策の場合は1942の実質GNPは財政収支/GNPの変化がゼロに保たれていたと仮定した場合と比較して3%低い。財政政策の効果は高まるが劇的というわけではない。

戦後のマクロ経済モデル(MPSモデル)から得られた乗数を用いて計算しても結論は変わらなかった。金融政策が通常時の状態に保たれていたならば1942の実質GNPは実際よりも70%低かっただろう。乗数を十倍にした財政政策でも役割は高まるものの劇的というわけではない。この計算によると仮に財政政策が通常時の水準に保たれていたとするならば1942の実質GNPは実際よりも14%低かっただろう。しかもこの効果のほとんどはこの計算の最後の年から得られている。先程と同様の仮定で1941の実質GNPはわずか1%低いだけだっただろう。この巨大な乗数でさえも財政政策は1941までの回復にまったく貢献していない。よって違う方法から得られた乗数を用いても回復に重要だったのは金融政策で財政政策はほとんど重要でなかったという結論は変わらない。

IV. THE SOURCE OF THE MONETARY EXPANSION AND THE TRANSMISSION MECHANISM

貨幣成長率が通常時のトレンドに保たれていたならば経済の展開が大きく異なっていただろうことは上記の計算で示した。だがそれを金融政策の展開が回復をもたらしたと言うことは出来ない。ここまで示してきた根拠からでは貨幣成長率が生産の回復に対する内生的な反応であった可能性を否定出来ない。よって金融緩和が回復をもたらしたと言うためには高い貨幣成長率が政策によるものかまたは歴史の偶然によるものであり生産の回復によるものではないことを確認しなければならない。

ハイパワードマネーの増加。この期間に貨幣乗数が低下したのでM1の増加はハイパワードマネーの増加が原因であることは明らかだ。実際ハイパワードマネーの残高の増加はM1の残高の増加を大幅に上回っている。金融政策当局者が生産の回復からくる取引需要を緩和するためマネーサプライを増加させた内政的な反応だと考えることも可能だ。だが実際には連邦準備の金融政策は緩和的からは程遠かった。本質的にこの期間のハイパワードマネーの増加は連邦準備の政策とは関わりがない。連邦準備はインフレ警戒的(または投機を警戒)政策を維持し続けたし連銀信用の増加を停止させさえした。よってハイパワードマネーが生産の回復に反応して増加したと考える根拠はない。

アメリカのマネーサプライの急増の源は1933に始まった膨大な金の流入だった。Friedman and Schwartzは「貨幣残高は1933から1936の3年間に急速に増加した。この増加は金価格の変化とアメリカへの資本の逃避の結果だ。同時期のビジネスの拡大の結果ではない」と述べている。

BloomfieldもFriedman and Schwartzも1930年代後半までの金の継続的な増加をヨーロッパの政治の展開に求めていた。Bloomfieldは金の流入はアメリカへの外国資本の巨額の流入によって引き起こされていると指摘している。アメリカは継続的に巨額の経常収支黒字を記録していた。それから彼は「この流入の恐らく最も重要な要因は国際的政治状況の急激な悪化だ。ヨーロッパでの戦争の恐れが敵国による富の収奪や破壊、為替の制限、戦時課税の恐れを生み出した」と述べている。Friedman and Schwartzは「ヨーロッパでの戦争の勃発が当時のアメリカの貨幣残高の主要な決定要因だ」と述べている。

V. CONCLUSION

(省略)

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