2013年7月30日火曜日

Defending the One Percent

by N. Gregory Mankiw

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この展開は政治が直面する問題の一つになっている。2,3の数字がこの議題の程度を示している。所得上位の所得に関して現在利用可能なものはPiketty and Saez(2003, with updates)ぐらいしかなくこの数字でさえ論争の対象になっている(税制の変化に影響を受ける、報酬の受け取り方や申告方法の変化に影響を受けるなど)。彼らの数字によると所得上位1%のキャピタルゲインを除く所得シェアは1973の7.7%から2010の17.4%になっている。さらに所得上位0.01%(年間所得5.9億円)の所得シェアは同じ期間に0.5%から3.3%になっている。

所得格差の扱いには経済学だけでなく政治哲学の領域も含まれる。経済学者は所得格差の要因に関して限られた知識しか持っていないだけでなく政策対応に関して限られた能力しか持ち合わせていないことを認めなければならない。政策対応に関して議論している経済学者は素人政治哲学者の役割を演じている(このエッセーで私も同じことをしている)。それはある意味避けられないことかもしれない。

Is Inequality Inefficient?

よく見られる主張は所得格差がパイを減少させているという意味で非効率だというものだ。所得上位1%の追加の1ドルの所得がその他の層の所得を2ドル減少させているならばそれを修正すべき社会的問題として見るだろう。所得上位1%の所得の増加がレントシーキングによるものと仮定する。政府が特定の財に独占を許可したり便宜を計ったり貿易の制限を加えるとする。そのような政策は所得格差の拡大と非効率に繋がるだろう。ほとんどの経済学者はそれを問題と見做すだろう。私もそうする。

Joseph Stiglitz (2012)の本はレントシーキングが主要な要因であると読者を説得することに多くのページを費やしている。このエッセーは書評の場ではないが私は説得されなかったと報告しておく。彼の語りは体系的な証拠ではなく特定の逸話に依存している。1970年代よりも現在の方がレントシーキングが活発であると信じる理由はない。

私はClaudia Goldin and Lawrence Katz (2008)の本の方に共感を覚えた。彼らは技術変化が技能労働の需要を継続的に高めたと議論している。この力は技能労働者とその他の労働者の賃金差を拡大させる傾向がある。この需要の変化は1950年代や1960年代がそうであったように技能労働者の供給をそれよりも増加させることにより打ち消すことが出来る。この場合では賃金差は上昇するとは限らず実際そうなったように低下することさえある。だが1970年代のように教育水準の上昇速度が低下した場合に技能労働者への需要の増加は所得格差を上昇させる要因になり得る。従って所得格差の話は政治やレントシーキングではなく供給と需要に関係してくることになる。

彼らは全体の所得に関して議論していて所得上位1%を特に扱っている訳ではない。だが同様の力が働いていると推測することは可能だ。所得上位1%の所得シェアはU字型のパターンを示している。技能労働者とその他の労働者の賃金差も同様のU字型のパターンを示している。所得格差の全体の変化が政治過程におけるレントシーキングではなく技術と教育の相互作用によって変動しているのならば両者が一致することはそれ程なさそうに思われる。むしろ技術の変化が数十年前には出来なかった方法で高額の所得を要求することを可能にしたように思われる。 Erik Brynjolfsson and Andrew McAfee (2011)はこの考えを彼らの本で押し進めている。彼らは「デジタル技術により、起業家、CEO、スター、財務管理者はその能力を世界市場へと拡大することが可能となり昔には考えられなかった報酬を受け取ることが可能になった」と述べている。

Equality of Opportunity as a Desideratum

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この議論はそう簡単には決着しない。世代間の所得の移転には機会の格差以外の多くの要因が影響を与えるからだ。親と子供は遺伝子を共有している。このことは機会が完全に平等であっても親子間の所得の相関は残ることになる。IQは遺伝に関係する部分が大きい。IQの高い親はIQの高い子供を持つ可能性が高くそれは平均で見て所得に反映される。もちろんIQは才能の一面でしかない。だが自己抑制、集中力、社交性なども同様に遺伝に関係する部分がある。

これは我々が遺伝子が決定する世界に住んでいることを意味しているのではないし実際違う。だが経済的な結果に遺伝がまったく関係していないと考えるのは誤っているだろう。Benjamin et al. (2012)によると「双子の研究は測定誤差の影響を修正すると経済的な結果と選好には健康状態や個人的性格と同程度に遺伝が関係しているように思われる」と報告している。同様に養子について研究したSacerdote (2007)は「教育水準と所得は経済学に於いて集中的に研究されているがこれらは家庭環境の違いに最も影響を受けない変数だ」と書いている(彼は家庭環境が強い影響を示すのは飲酒などの社会変数だと報告している)。これは親子間の所得の相関を機会の格差と解釈するのは尤もらしくないことを示唆している。Sacerdoteは世帯所得の分散の33%は遺伝によって説明できると推定していて11%が家庭環境によって説明できると推定している。残りの56%は家庭に関係のない環境要因を含んでいる。この11%が近似的に正しいのであれば我々は機会の均等の定義からそれ程離れているのではないことを示唆する。つまり正しい家庭に育てられることは人生の手助けになるがだが家庭環境は遺伝や家庭以外の環境要因に比べて経済的結果の変動の僅かの部分を占めるに留まる。

社会が機会の均等から離れるのであれば注意を所得分布の右側ではなく左側に移した方がいい。貧困には様々な要因が絡んでおりその家庭の子供は適切な人的資本に対する投資を受けられない。対照的に所得上位1%の家庭の子供に与えられる教育の機会は私が見たところでは普通の家庭の子どもと大きく変わらない。私の考えは個人的な経験によって形成されたものだ。私はごく普通の家庭で育った。私の両親はどちらも大学に通っていない。私自身の子供はより所得が高くより教育水準の高い家庭で育っている。けれども私の子供が私が同い年で受けたよりもよりよい教育を受けているようには思われない。

所得格差に関する懸念は非効率性や機会の格差に関する懸念に根ざしたものではないと結論したいと思う。所得格差が政策の対象になるとしたらそれ自体が問題と見做されるからに違いない。

The Big Tradeoff

1975の本の中でArthur Okunは公平性と効率性の大きなトレードオフに関して書いている。我々は課税や高所得者から低所得者への所得の移転を用いることが出来るがそのシステムは「穴の開いたバケツ」だという。お金の何割かは失われる。この穴は我々の再分配の意思を完全に妨げるものではないが我々は効率性も懸念しているためこの流出は経済資源を完全に平等化するのを妨げるだろう。

この議題を扱う正式な形式はMirrlees (1971)によって提示された。標準的なマーリーズモデルでは家計は消費Cから効用を労働Lから不効用を受け取る。家計の違いはそれぞれの生産性Wだけだ。

各個人の消費はWLになるだろう。生産性の高い個人は高い消費と効用、低い限界効用を持つだろう。

社会の効用を最大化する社会計画者として政府が導入される。社会計画者は生産性が高く限界効用が低い個人から生産性が低く限界効用の高い個人へと経済資源を移動させようとする。だがこれは達成するのが難しい。政府は生産性Wを観察することが出来ないと仮定しているからだ。その代わりに所得WL(生産性と努力の積)だけを観察することが出来る。所得を再分配しすぎれば生産性の高い個人はまるで自分たちの生産性が低いかのように振舞い始めるだろう。よって政策当局者はファーストベストの均等分布の結果ではなくセカンドベストの誘引両立解へと追い込まれることになるだろう。

この形式が採用されるならば議論は鍵となるパラメータに関してのものに変化する。最適な所得移転額は労働意欲がインセンティブに反応するその程度に関わってくる。完全に非弾力的であればバケツからは流出が起こらず社会計画者は均等分布を達成できる。弾力性が低くても近い結果になる。だが労働意欲がインセンティブに大きく反応すればバケツはザルと化し社会計画者は少量またはゼロの移転を図るべきになる。よって経済学者の議論は労働供給の弾力性に集中することになる。

この功利主義の前提を受け入れたとしてもそこから発生する特定の定量的結果を疑うべき理由がある。研究者がマーリーズモデルを実装する際にすべての個人は同一の選好を持つと通常仮定している。人々は生産性のみが異なる。理論を示すためだけならばその仮定でも構わない。しかし実際には間違いだろう。所得は人々が消費、余暇、職業属性に関して異なる選好を持つために異なる。選好の違いを考慮すれば所得の再分配の根拠は弱まる(Lockwood and Weinzierl 2012)。例えば多くの経済学の教授は民間のエコノミスト、ソフトウェアエンジニア、企業弁護士など高所得のキャリアを選択できたはずだ。現金ではなく個人的、知的自由を報酬として選択したのは人生設計の結果であって生得の生産性の反映ではないはずだ。逆の選択をした人物は所得からより多くの効用を受け取るからその選択をしたのだろう。功利主義の社会計画者はインセンティブを無視してそのような個人により多くの所得を配分しようとするだろう。

マーリーズモデルの他の問題点は税の取り扱いが単純すぎることだ。経済学をきちんと学習している生徒であれば財やサービスが課税されれば買い手と売り手が負担を分け合うと知っている。マーリーズモデルでは個人の労働所得が課税されればサービスの売り手のみが不利益を被る。本質的に労働サービスに対する需要は無限に弾力的であると仮定されている。より現実的な仮定では課税の負担はそれらサービスの買い手により広範に拡散するだろう(そして恐らく補完的な投入要素の売り手にも)。この現実的な設定では課税政策は再分配の道具としての機能を低下させるだろう。

困難でより深い疑問は政府の政策が功利主義の社会計画者という性質に基いていると見られるかどうかだろう。つまりオークンとマーリーズは経済学者にこの議題を考えるにあたって正しい出発点を与えたのか?このモデルを出発点から疑う適切な理由があると思う。

The Uneasy Case for Utilitarianism

経済学者にとっては功利主義の方法論はとても自然なものだろう。功利主義者と経済学者は流れを共有している。ジョン・スチュワート・ミルのような初期の功利主義者は経済学者であった。さらに功利主義者は個人の意思決定に関する経済学者のモデルを社会の水準にまで拡張したように思われる。功利主義者の政治哲学を受け入れれば社会を運営することは制約付きの最適化問題になるだろう。その自然なアピールにも関わらず(少なくとも経済学者にとっては)功利主義の方法論には問題がある。

古典的な問題の一つは効用の個人間の比較可能性だ。個人の効用関数を個人が行った選択から推量することは出来る。だがこの顕示選好の観点からは効用は本質的に可測なものではなく効用を個人間で比較することは不可能だ。神経科学の発展によりいつかは幸福の量を測れるようになるかもしれない。現在ではある個人の追加の消費が他の個人よりもより多くの効用をもたらすかを判断する科学的方法はない。

より深刻な問題は分析の地形的範囲だ。分析は国のレベルで行われる。だが功利主義にはそのような制限を示唆するものは本質的にない。最も大きな所得格差は国と国の間で見られる。税と移転がフロリダのパームビーチからミシガンのデトロイトへと向かうのであればアメリカとヨーロッパからサハラ地域のアフリカへと資源を移す同様の国際的システムがあってもいいのではないか?多くの経済学者は国際援助の増額に賛成するだろう。だが私の知る限りでは豊かな国に対して個人に対して課せられるような高率の税率を課そうという提案を見たことがない。国際レベルへ功利主義を適用するのを躊躇するのであれば国内レベルに於いても適用を停止させるべきだ。

2010の論文でMatthew Weinzierlと私は功利主義に対して慎重になるその他の理由を強調した。そこではタグの使用を推奨した。Akerlof (1978)が指摘したように社会計画者が生産性と相関する個人の特性を観察することが出来れば最適な税制は個人の税負担を決定するに際して所得に加えてその情報を活用するものになるはずだ。税制が所得ではなく固定的な個人の特性に基づくようになればなるほどインセンティブの阻害は小さくなりうる。我々はそのようなタグの一つとして身長を示した。身長と賃金の相関は十分に強く身長に対する最適課税は大きくなる。同様に功利主義に基づけば個人の税負担は人種、性別、その他多くの外生的特性の関数になるはずだ。もちろん多くの人は身長に対する税に賛成しないだろうし我々も真剣に提案しているのではない。人種に対する税に至ってはより多くの人が反対するだろう。だがこれらの意味は簡単に無視することは出来ない。理論のうちで気に入った部分の結論だけを取り出し残りを無視するのであれば理論を間違って使っていることになる。多くの人が反対する政策を功利主義が取るのであればそれは恐らくきちんとした基礎の上に成り立っていないからだろう。

最後に功利主義のモデルが本当に我々のモラルに適合しているのかを考えてみる必要がある。それに際して功利主義の社会計画者がファーストベストと見做す結果から考えてみよう。マーリーズモデルとは異なり社会計画者は直接生産性を観察できると仮定する。計画者はインセンティブを気に掛けることなく生産性に基いて税と移転を設定できるだろう。最適な政策は個人間の消費の限界効用を均等化させる。効用関数が消費と余暇に関して加法分離的ならばこれはすべての個人が同量を消費することを意味する。だが生産性が他よりも高い個人がいるので余暇を均等化させることは最適ではない。代わりに社会計画者は生産性の高い個人により働くことを要請するだろう。功利主義のファーストベストの配分ではより生産性の高い個人はより働き他人と同量を消費することになる。社会の全効用を最大化する配分の下では生産性の低い個人が生産性の高い個人よりもより多くの効用を得ることになる。

これは本当に望ましい結果なのか?真の功利主義者ならばそうだと言うだろう。この結果は私は望ましいものだと思わないし多くの人も望ましいと言わないと思う。子供でさえも能力は報われるべきだと直感的に感じている(Kanngiesser and Warneken 2012)。そして子供達はそうでない場合のインセンティブの阻害だけを問題にしているのではないと思う。

私が正しいのであれば伝統的な功利主義から大きく離れた最適課税と移転のモデルを必要としている。

Listening to the Left

(省略)

第一は税制が逆進的だという主張だ。有名なものでは2008の大統領選挙戦でヒラリー・クリントンの資金提供者であったウォーレン・バフェットの主張だ。自分自身を例に挙げて自分の前年の税率が17.7%で彼の秘書の税率は30%であったと言う。オバマ大統領はバフェット・ルールを提案した。

だがバフェットの計算に疑念を抱く正当な理由がある。彼の秘書が本当に中間所得者で税率が30%であるのならば給与税を所得税に加えている。だがバフェットの税率は彼の所得の大部分が配当とキャピタルゲインでさらに彼の計算は資本所得が法人の段階で既に課税されているということを忘れている。全体像を明らかにするには労働所得に対する税だけでなく資本所得に対する税も考慮する必要がある。

Congressional Budget Office (2012)は連邦税の税負担の分布を計算しバフェットの話とは全く異なる結果を示している。20009には人口の第五分位は所得の1.0%しか連邦税を払っていなかった。第三分位は11.1%で第一分位は23.2%だった。所得上位1%は28.9%を連邦政府に支払っていた。幾人かの納税者は積極的に税を最小化しようとしているかもしれない。だがCBOが示したようにそのようなケースは例外だ。一般的なルールとして現在の税制は極めて累進的だ。

第二は高い所得が社会への貢献に見合っていないという主張だ。競争的な労働市場では個人の賃金は限界生産性に等しくなる。だが現実はここから乖離する可能性がある。例えば個人の高い所得はレントシーキングの結果である場合もあるだろう。結果は非効率になる。スティーブ・ジョブスがアイポッドやピクサーを生んで所得を得ても人々の反感を買うことはない。銀行のベイルアウトは反感を買うだろう。

所得上位1%の所得が生産性の反映であるかが鍵となる。残念ながらこの質問には簡単には答えることが出来ない。私のこれまで読んだ所では高額所得者の大部分は経済に対する貢献を反映したものでシステムを悪用したり市場の失敗や政治過程から利益を得たのではない。CEOの例を見てみよう。CEOは高額の報酬を得ていてその給与は時間とともに増加している(*実際には減少している)。この現象に対してコメントするものは取締役がその仕事をしていないためだと示唆している。株主の利益を代弁するのではなく取締役はCEOに対して友好的で会社に対する貢献以上に給与を支払っているという。この議論は非公開企業の行動を説明するのに失敗している。このような場合にはプリンシパル・エージェント問題に直面することはないはずだ。だが非公開企業のCEOも高額の報酬を得ている。Kaplan (2012)は過去30年間で非公開企業の経営者の給与は公開企業のそれを上回っていたことを示している。Conqvist and Fahlenbrach (2012)は公開企業が非公開になる場合にCEOの給与は減少するのではなく増加していたことを示している。これらの研究を元にするとCEOの給与の最も自然な説明は良いCEOの価値は高いということだろう(この結論はGabaix and Landier, 2008の提示したモデルと整合的だ)。

第三に高額所得者は物的、法的、社会的インフラストラクチャから利益を得ているのでそれを支えるべきだという主張だ。オバマ大統領は「あなたが成功したのであれば手助けをしてくれた人がいたはずだ。あなたは人生のどこかで素晴らしい教師に出会ったはずだ。誰かがあなたが成功することを可能にした素晴らしいアメリカのシステムを構築する手助けをしたはずだ。誰かが道路や橋に投資したはずだ。あなたが事業を経営しているのであれば(自分で始めたのでなければ)誰かがそれを可能にしたはずだ。インターネットは勝手に生まれ出てきたのではない。政府の研究がすべての企業が利用できるように作ったのだ。我々が成功したのであれば個人の努力だけではなく協力し合ったからだ」と演説している(*政府の研究×→軍事研究○、さらに他の国の政府×→アメリカ政府だけ○、政府の支出は研究開発とインフラ投資×→その他の比重が圧倒的)。

伝統的なパブリック・ファイナンスの用語で言えばオバマ大統領は支払い能力原則から離れて受益原則に焦点を移していると思われる。すなわち、高額所得者への高率の税率は彼らの消費の限界効用が低いので正当化されるのではない。むしろ高率の税率は政府が提供した財やサービスによって彼らは財産を築くことが出来たのでそれらの財やサービスの代価を支払う責任があるというものだ(マフィアよりも厚かましい)。

これには政府のインフラの価値の大きさを知ることが問題になってくる。平均の価値は大きいだろう。だがその他の投入と同様に政府のインフラも限界の価値で判断する必要がある。既に指摘したように所得上位1%は所得の1/4以上を連邦税として1/3を州税と地方税を含めて払っている。

さらに問題になってくるのは政府支出でシェアを拡大しているのは財やサービスの購入ではなく移転支払いということだ。政府の支出がGDPに占める割合として増加しているのはより多くまたはより良い道路や法制度や教育を提供しているからではない。そうではなく政府はその力をピーターから課税してポールに支払うために用いている。政府サービスの便益の議論はこのことをあやふやにすべきではない。

まとめると、左翼の議論は原則としては有効となり得るものの実践としては疑わしい。現在の税制が逆進的であったり、所得上位1%の所得が経済への貢献に見合っていなかったり、高額所得者が政府サービスを彼らの納める税金より超過に消費しているのであれば最高税率の引き上げの妥当性も高まってくるかもしれない。だがそれらの前提条件が成立していると信じる説得的な理由はない。

The Need for an Alternative Philosophical Framework

思考実験として無知のベールがある(Rawls, 1971)。個人は自身が幸運であるかそうでないか才能があるかそうでないか豊かであるかそうでないかといった知識を持たずに個人が生まれる前の仮想的な時間の中で社会的地位が決定される。リスク回避的な個人は幸福でない環境に生まれる可能性に対して保険を購入したいと思うだろう。政府の所得移転は人々が自発的に契約する社会保険の施行となるだろう。

この論理をさらに推し進めることが出来る。この状況では人々は豊かであるかそうでないかよりもより懸念することがある。人々は健康状態も懸念するだろう。例として腎臓を考える。多くの人は2つの健康な腎臓を持っている。そのうちの一つはなくても支障がない。低い確率ではあるものの2つの腎臓が機能しなくなってしまう病気に掛かる人がいる。原初の状態にいる個人は少なくとも一つの腎臓が機能することを保証する保険を契約するだろう。すなわち、彼が幸福であればドナーとなるリスクが有り彼が幸福でないならば移植を受けることが出来る保証を得られる。よって所得の移転を正当化しようとする同様の論理が政府が強制する腎臓の提供にも当てはまることになる。

疑いもなくそのような政策が真剣に検討されれば多くの人は反対するだろう。人間は自分の臓器を所有する権利を持っていると人々は議論するだろう。そして無知のベールによる思考実験はその権利を侵害するものではないと議論するだろう。そうであるならばそしてそうなると私は考えているがこの思考実験の意義はより一般的な意味で損なわれるだろう。原初の状態に結ばれた仮想的な社会保険が自身の臓器を持つ権利に取って代わらないのであればなぜ自身の労働の成果には取って代わるというのだろうか?

代替的な視点としてMankiw (2010)で“just deserts”と名付けたものがある。この観点によると人々は自身の貢献に正確に一致する報酬を受け取る。外部性や公共財がなければ競争均衡で人々は自身の限界生産物に等しい価値を受け取り政府はこの結果を変える必要はない。政府の役割はこの基準から乖離した場合に発生してくる。ピグ-課税と補助金は外部性を修正するのに必要とされ得るし累進所得課税は公共財の受給原則から正当化され得る。低所得者への所得移転も公共財と見做され得るので同様に役割がある。

この観点はオークンやマーリーズを含めて長く経済学者に影響を与えてきた功利主義の観点から劇的に離れることになる。だがまったく新しいというわけではない。Knut Wicksell (1896, translated 1958)やErik Lindahl (1919, translated 1958)によって示唆された“just taxation”の100年ぐらいの伝統がある。より重要なことにこの観点は我々の直感とも整合的だと信じている。実際、今まで見てきた左翼の議論は功利主義よりもこの観点との方が融和させやすい。私が左翼の議論に反対するのは彼らの議論の性質にあるのではなく彼らの結論の元となった根拠の方にある。

その人が持っている政治哲学は最適政策に関わる経済についての疑問に影響を与える。功利主義の観点からは以下のような疑問が発生してくる。消費の限界効用はどの程度の速さで減少するのか?生産性の分布はどうなっているか?課税は労働意欲にどのぐらいの影響を与えるか?“just deserts”の観点は代わりに他の疑問に焦点を当てる。所得上位1%の所得は生産性を反映したものなのか?公共財の便益はどのように分布しているのか?これらの疑問に対して私自身推量したしこのエッセーを通してそれを示唆してきた。だがそれが試験的なものであったことは認める。これらは将来の研究が答えてくれるかもしれない。

両者の違いを強調するために最高税率の問題を考えてみる。フランスのオランド大統領が提案したような75%になぜ我々は上げないのか?または1950年代のアメリカの91%に我々は上げることはないのか?功利主義であれば負のインセンティブ効果が大きすぎるからだと答えるだろう。“just deserts”の観点からはそのような懲罰的な税率はインセンティブ効果を無視したとしても間違っていると答える。この観点からは誰かの所得の大部分を政府の力を用いて奪うことは仮に大衆に支持されていたとしても不公正になる。

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