2017年2月15日水曜日

左翼にとって、14万人を殺害したキューバのカストロは英雄で1000人の共産主義者を殺害したと云われているチリのピノチェトは大悪魔?Part1

MYTHS OF THE ENEMY: CASTRO, CUBA AND HERBERT L. MATTHEWS OF THE NEW YORK TIMES

Anthony DePalma

フィデル・カストロは1956年のキューバ侵攻に大敗した数ヶ月後にはもう亡くなっていて、彼の革命は失敗したものと思われていた。当時のニューヨーク・タイムズの編集長かつ記者だったHerbert L. Matthewsは、カストロが生きているばかりではなくバチスタ政権を倒せるだけの大人数かつ強力なゲリラ軍に彼が支えられていると、20世紀最大のスクープの一つを記事にした。明らかにカストロに魅せられていて、判断力を失っていた彼は事実を歪めて記事にした。マシューズは、カストロをキューバ憲法の守護者、民主主義を愛している人間、アメリカ人の友達と呼んだ。

マシューズによって生み出されたイメージは衝撃的で、カストロに力を与え彼の国際的な知名度を一気に高めた。キューバでの紛争に対するアメリカの態度は変化しバチスタに対して厳しい姿勢で臨むようになった。だが革命が終了してみると、騙されたことに気がついたアメリカはカストロを一切信用しなくなりマシューズはカストロが権力を握る手助けをしたことに対して非難されるようになった。ワシントンがマシューズと国務省のカストロの信奉者たちにいいように操られたという印象が生まれたことによって現在でもアメリカとキューバとの関係に影を落としている。

POLICY AND THE PRESS

マシューズがキューバの革命が始まった地であるOriente Provinceに向かったのはいくつかの偶然が重なってのことだった。彼が留まったのはほんの数時間だったが、20世紀最大のスクープと一般的に云われている記事が埋まるのにはそれで十分だった。

マシューズのカストロに対するインタビューはアメリカにとって色々なことが重なった重要な時期に行われた。彼らは追跡している兵士たちの目から逃れられる場所を会談の場に選んだ。彼らは、自由、独裁、正義など多くのことについて語り合った。それでも中心を占めたのは革命についての話だった。マシューズが聞いた話は彼の心を大きく揺さぶった。彼はスペイン内戦を取材していたことがあり、彼が熱心に応援していたスペイン共和党の敗北から数十年が経過していたというのに彼の心は未だに傷ついたままだった。これは彼にとってその時の傷を癒やし、今回こそは革命の成功を見届ける機会だった。そのためにはマシューズはカストロを蘇らせる必要があった。彼の記事が出版される前にはカストロはその3ヶ月前の自らのキューバ侵攻によって殺害されたと思われていた。マシューズはカストロが生きていることを明らかにし、カストロは強力な軍隊に支えられていてその勝利はほぼ確実だと信じさせることに成功した。

「カストロのカリスマ性は圧倒的だった」とマシューズは初めの記事に書いた。「彼の部下は彼に心から心酔し、どうしてキューバの若者は彼を支持しているのかを理解することは簡単なことだった」。マシューズは、カストロのことを「体制に反抗する燃え盛るようなシンボル」と呼んだ。そして「数千人のキューバ国民がカストロと彼が約束する新しい未来に熱狂していた」とためらいもせずに語った。彼はカストロが「独裁を終わらせてキューバに民主主義をもたらすために戦っていて」、「アメリカやアメリカの人々に対する敵意はまったくないと保証できる」と大胆にも断言した。カストロのことを悪く言うことはほとんどなく、そのわずかもカストロの馬鹿げた経済的考えに向けられていた。

彼が描いたカストロの英雄的イメージは、その後も革命の記憶としてアメリカ人の心に残り続けた。カストロがキューバの憲法を復活させ自由選挙を行うと約束したことを積極的に記事にしたことで、ワシントンにはバチスタ政権への支援をやめさせるよう圧力が掛かった。キューバ軍がSierra Maestraで市民を空爆したことが決定打となって、1958年3月に支援が停止された。それはバチスタ政権がアメリカからの支援を失い失脚することが決定的となったことを意味した。国務省の高官は、カストロが共産主義者ではなく共産主義革命を起こすつもりもないというマシューズの主張を非難した。

インタビューの前までは、カストロは確かにバチスタに反旗を翻した人間と見られていた。だが唯一の反乱者でもそもそも脅威ですらもなかった。6月26日に起こしたカストロの残虐な行動は多くのキューバ人を恐怖に陥れていた。カストロの反乱軍は宣伝がうまかった。それどころか最大のグループでも最強のグループでもなかった。1953年のMoncada barracksでの攻撃によりカストロはキューバで知られるようになったが1955年に刑務所から釈放されてメキシコに追放されると、Revolutionary Directorateを含む他のグループが勢力を拡大し反乱軍のリーダーとしての立場を確立していた。

マシューズのカストロへのインタビューを元にした3つの記事がその関係性を無茶苦茶にした。アメリカでのカストロの知名度は一気に上昇した。アルゼンチン、コロンビアなどでの独裁者は失脚していた。バチスタは友好的だったとはいえ、強硬な彼に対してワシントンの支持は低かった。その記事に対するキューバでの反響はまったく別のものだった。カストロはキューバではよく知られていたからだ。

激怒したバチスタ(彼はマシューズを非難しその記事と写真は捏造だと主張した)はカストロの反乱軍を制圧することに注力するようになった。バチスタはカストロを脅威に感じているというメッセージを送ってしまった。カストロはマシューズの記事を自らの勢力が拡大していることの証拠として用い、資金集めにも新兵の徴兵にも非常に有利に働くことになった。インタビューが行われた時にはすでにカストロと合流していたアーネスト・チェ・ゲバラは、戦場での勝利よりマシューズの記事の方が遥かに重要だったと語っている。その記事によりカストロが注目を集めたことは他の人々にも影響を与えた。Revolutionary Directorateはかねてから大統領官邸を襲いバチスタを殺害するつもりだった。

その記事が掲載されてから丁度2週間後に彼らは失敗に終わることになるその攻撃を開始した。反乱軍はバチスタに辿り着く前に制圧され指導者のアントニオ・エチャベリアは殺害された。マシューズはバチスタへの攻撃を幾度も繰り返していた。一時期は彼の記事がニューヨーク・タイムズのラテンアメリカ関連の紙面を埋め尽くしたほどだった。マシューズの記事はアメリカとキューバとの関係に決定的影響を与えた。

「これほどの影響力を1人の記者が社会広範に与えたことはほとんど例を見ない」と政治学者のWilliam E. Ratliffは本の中で記している。イギリスの歴史家Hugh Thomasは「マシューズの記事によってカストロは国際的なスターとなった」と断言している。1960年には、El TiempoのBogotáはカストロの勝利のことを「ハーバート・マシューズの革命」とまで呼んでいる。ラテンアメリカ全体にそのような考えが共有されていた。

マシューズは記者生命をキューバに掛けなければならないほどニューヨーク・タイムズで追い込まれていた若手の記者という訳ではなかった。例えカストロと会談しなかったにしても、20世紀で最も影響力があり最も論争を呼んだ記者の1人としてすでに知られていた。マシューズがカストロのところに出向いていく必要などまったくなかった。カストロが彼の所に使いを出すことも出来たし、外国の特派員に自分がまだ生きているということを世界に伝えさせるだけでも良かった。実際、ニューヨーク・タイムズのハバナ特派員Ruby Phillipsに最初にインタビューの申し出が送られていた。ところが彼女はキューバ政府とのパイプを失う、もしくはキューバから完全に追い出されるかもしれないリスクに見合わないと考え、その申し出を断った。カストロが自分は強力な軍隊を持っているとマシューズを故意にミスリードしようとしたのは事実だ。だが実際には、事実はそこまで単純ではない。アメリカの大使もまたカストロがバチスタに対して脅威となるほどの軍隊を保有していると欺かれていたことを文書は示している。マシューズはゲリラが潜む山に向かう前に、打ち合わせのために大使館に向かわなければならなかった。

マシューズはジャーナリズム全体が置かれていた重大な岐路に立たされていたのだった。ジャーナリストは出来事の単なる記録係かそれとも歴史の解釈者か。ラジオとテレビの普及によってニュースの需要は大幅に拡大した。それがニュース報道自体にも大きな影響を与えていた。戦場からニュースを伝えるのに数日を必要とするということは最早なくなっていた。映像にインパクトを与えるためにレポーターはすぐに現場に駆けつけなくてはならなくなった。そのためには、それまでに知られている情報だけを頼りとするのでは不足だった。これは、情報に対して判断を下す人間を必要としたことを意味する。その危険性は言うまでもなく、レポーターが必ずしも正確ではない情報を漏らす動機のある人間を頼りとしてしまうことにある。マシューズとフィリップスとの衝突はこのような事情が背景にあると見ることも出来る。その結果、2人のベテランジャーナリストがキューバに関して互いに矛盾する情報を伝えてくるという奇妙な状況が生まれることになった。彼女は自分が見たものだけを主観を交えずに淡々と報道する昔ながらのジャーナリストだった。キューバ政府とのパイプを維持するという思惑がキューバ革命に関する彼女の初期の報道姿勢に影響を与えたのかもしれない。彼女は反乱軍を支援するような報道は手控えていた。だがカストロが実際に権力を握ると、彼女はカストロの残虐な振る舞いと暴君性を伝えそのせいでキューバを追放されることになった。それとは対象的にマシューズは、カストロとの初めてのインタビューのその時から、歴史の解釈者、解説者、そして最終的には自らの考えを全面に押し出すライターとしての側面をジャーナリズムの世界に持ち込もうとしていた。

マシューズは、彼がキューバで見たというものを自らの視点から解釈し直して報道した。そのせいで、彼が書いたものは当時の状況を正確に言い表したとはとてもいえないものになってしまっただろう。その逆にフィリップスの報道はその当時の状況を遥かに正確に伝えていたように思われる。フィリップスはバチスタを、マシューズはカストロを情報源とした。どちらもその代償を払った。フィリップスはカストロから検閲を受け最終的にはキューバから追放されることになった。マシューズはあまりにもカストロに近づきすぎてしまったために客観性をすべて捨て去る羽目になってしまった。

カストロにインタビューを行ったマシューズに、彼のジャーナリズムに対して異様なまでの歓声が送られた。マシューズは新聞記者として初めてのスーパースターとなった。そしてテレビがニュースのプラットフォームとして取って代わる前の時代の最後の新聞記者となった。彼はThe Tonight Showに出演するなどしてセレブの仲間入りを果たした。シエラ・マエストラでのインタビューは歌や詩などの題材にされたほどだった。Florence Ripley Mastinによって書かれ、ニューヨーク・タイムズに送られてきた詩が今も保存されている。

(省略)

ニューヨーク・タイムズはその詩の掲載を正しくも断った。だがマシューズはそのコピーを生涯手元に置き続けた。マシューズはニューヨーク・タイムズの編集部に対して勝利したと考えるようになった。彼がカストロ(当時30歳)と会談したのは57歳の時で、このスクープにより彼は自分より若い記者にも負けない記事を書くことが出来るということを証明した。

マシューズの知名度はアメリカで大きく高まった。だがキューバではヒステリーのような状態だった。「私は自分がクラーク・ゲーブルやフランク・シナトラのような大衆のアイドルになるとは思っていなかった」と1957年の6月にキューバに初めて戻った後に編集長に向かってメモを送っている。「この旅行で、大衆のアイドルでいることよりも恥かしいものも疲れるものもないということを学んだ。そしてそれが非常に苦痛であるということも」とメモに記している。

マシューズを追いかけてシエラ・マエストラに向かった他の記者や、革命を主観的に分析しようとキューバに渡った記者たちは革命に対して同情的な記事ばかりを書いた。そのうちの幾つかはマシューズよりもさらにひどい脚色ぶりだった。Norman Mailerはシエラ・マエストラに出掛けてはいないが、彼はカストロについて語る時、「コルテスの亡霊がザパタの白い馬に跨って私たちの時代に現れた」と例えた。彼の誇張ぶりは恐らくマシューズのそれを上回っていただろう。

だが記者の幾人かはカストロの人間性に疑問の兆しを感じ取っていた。1957年の6月に、キューバ国民の圧倒的大多数がカストロを心から支持しているとマシューズが請け負った丁度3ヶ月後に、確かにキューバ国民の一部はカストロを解放者だと考えているが「他の人々はカストロを残酷で何をするのか予想が出来ない独裁者だと見做している」とCarleton BealsはThe Nationに記していた。

ケーブルテレビも24時間放送のニュースもない時代では、マシューズの言うことの方がより影響力を持っていた。カストロがニューヨーク・タイムズで大々的に扱われたことの重大性を過大に評価することは難しい。その記事が印刷されると、カストロの暗い過去は明るいものへとすぐに塗り替えられた。マシューズはカストロを好感のもてる反乱軍の指導者に仕立て上げた。

シエラでのインタビューの後、カストロもマシューズもアメリカとキューバで英雄となった。後に、両者は国際的な悪人に転落した。カストロはアメリカの敵となった。つかの間の勝利の後でマシューズは自分の利益のために意図的に嘘の情報を流した裏切り者と呼ばれた。カストロと革命に取り憑かれていた彼は、批判を無視しあの時では自分が唯一真実を探し出すことが出来た人間だと主張し、彼があの場で見たと信じたものを書き続けた。

COLD WAR PARANOIA

マシューズはメディア業界にあまり友達を持っていなかった。外交官と政府の高官が彼を攻撃した時、同僚の誰も彼を庇おうとはしなかった。それどころかその攻撃に加わる人間もいた。ニューヨーク・タイムズは特に彼に批判的になった。彼を以下のように非難している。

「革命という大義に最初から目を眩まされていた彼は、未熟な記者が陥る罠へと転落していった。彼は感情によるバイアスを優先させ自らの判断を停止させた」。

マシューズはその後も自分が書いたものは正しいと訴え続けた。他の信者が、カストロがバチスタ政権の支持者たちを処刑したことやアメリカ人の財産を強奪したことを受けて革命を批判するようになった後も、マシューズはカストロを擁護し続け彼とその革命が共産主義であることを否定し続けた。彼は自分が見るように物事を見ようとしない他のジャーナリスト、編集者、外交官、国務省の高官を非難した。彼はキューバ革命に関するアメリカの報道は「ジャーナリズムの歴史で最大の失敗」だと繰り返し主張した。そしてマシューズは編集長の1人に「キューバ人の視点」から見なければ私たちにはキューバで起こっていることを理解することが出来ないと訴えた。マシューズとニューヨーク・タイムズはカストロの報道について厳しく批判されることになった。

William F. Buckley Jrはカストロは「ニューヨーク・タイムズのおかげで職に就けた」とあざ笑っていると痛烈に皮肉った。カストロとパイプがあるということはマシューズにとってむしろ重荷となった。カストロへのインタビューはむしろ彼の人生を飲み込むブラックホールとなった。彼の評判だけでなく生命力までも奪っていった。人々はマシューズと聞くだけでも嫌がった。ニューヨーク・タイムズも同罪と見做されるようになった。カストロは共産主義者ではないという彼の評価に同意していたはずの国務省でさえも、カストロは最も危険な共産主義のグローバルな陰謀の一環だと態度を急変させた。カストロが権力を握ることを助けたことからマシューズがあまりにも分かりやすいスケープゴートとされた。

マシューズの私的な文書(彼はそれをコロンビア大学に寄贈している)には、愚か者と見られたことさらに悪いことに敵を生み出した裏切り者と見られたことに彼が激怒していたことが示されている。冷戦の真っ只中であった1960年代の共産主義の脅威に関しての一連の議会公聴会ではすべての会で必ずマシューズの名前が恨みを持って言及されていた。自らの記事が強い憎しみを生んでしまったことに気が付いたマシューズは安全が脅かされると考えるようにまでなった。情報公開法によって開示された文書によると、実際マシューズは脅迫状を受け取っていた。当時のFBI長官だったJ. Edgar Hooverは彼にボディガードを付けることを約束した。その他の文書によると、FBIはマシューズを数年に渡って調査していたことが示されている。そして彼の電話の内容をすべてではないが幾度か盗聴していた。フーバーが彼のことを「キューバ政府の代理ではないか」と疑っていたためだ。

彼の上司はマシューズを擁護しようと苦闘していた。だが非難の声がそれを上回ったので彼にもニューヨーク・タイムズにも手のうちようがなかった。彼の上司は最終的に、マシューズがジャーナリストとして自殺行為を行いニューヨーク・タイムズを救うためには彼を見捨てたほうが良いと決定を下した。「彼は多くの人から不当な扱いを受けている。だがその事態は、彼が論理を捨てて主観的で感情的なジャーナリズムに走ったことによって招いたものだ」と語った。ニューヨーク・タイムズの外国部の編集長だったEmanuel R. Freedmanは「彼はキューバのレポーターとしての自らの有用性を自らの手で破壊した」と記している。

ニューヨーク・タイムズのアーカイブスにはマシューズのキューバでの報道のやり方を巡って、彼の主観的なジャーナリズムを非難する編集長とそれを擁護する編集長との間で激烈な論争が起こったことが記されている。どちらにしてもマシューズはキューバについての記事を書くことをニューヨーク・タイムズから禁止された。これはニューヨーク・タイムズに人生を捧げてきた彼にとっては痛手だった。

マシューズとカストロは個人的信条に従ってあの日の歴史的なインタビューを行った。彼らの関係は、始まりと同じように運命によって結び付けられた他人同士のように、終了した。カストロは「自分が私の父親であると思っているあの老人にうんざりしている」と側近に語っていた。「彼はいつも私にアドバイスを送ってくる」とも。

カストロはプロパガンダによってキューバ国民にアメリカを恐れさせた。反米を利用してキューバ国民を団結させるカストロの能力の高さはアメリカ政府の高官を怯えさせた。マシューズがカストロは民主主義を望んでいると記事を書いたことがキューバはその革命を裏切ってアメリカを欺いたのではないかという政府高官の疑心をさらに煽った。

他のジャーナリストたちも革命に過度の肩入れを示したことで歴史から拒絶されることになった。Walter Durantyは1930年代のソビエトに関する彼の取材の誠実さ、信憑性に大きな大きな疑問符をつけられた1人だった。彼は、彼の記事が撤回されるまでは今日でも怒りが収まらないというウクライナ人たちのターゲットになった。ニューヨーク・タイムズ自身も数百万人、数千万人が犠牲になったウクライナの飢饉の原因を彼が隠蔽したことを認めている。ピューリッツァー委員会はソビエト連邦についての彼の取材は当時の基準を遥かに下回っていると認めた。だが70年前の委員会が下した決断なので自分たちには責任がないと主張した。

他にも誤った情報を伝えたジャーナリストたちは存在する。Edgar Snowは中国共産党を善良であるかのように伝えた。Richard Harding DavisはSpanish-American Warを偏って報道した。John Reedのボルシェビキ革命の報道も間違いだらけだった。歴史的には重要だったがジャーナリズムとしては疑わしい(真実からはかけ離れている)ジャーナリストたちの海外報道のリストは長大に及び現在でも議論されている。マシューズもそのリストに含まれてしまったのは避けられないことだった。だが彼の場合には同情の余地が存在する。

マシューズはNew RepublicのStephen Glassのような捏造者やニューヨーク・タイムズを辱めた最近のレポーターJayson Blair(その嘘は精巧で故意によるものだった)のような人間と一緒にされるべきではなかった。マシューズは利益のために動いたのではなかった。カストロと別れてからも彼にはキューバへの自由な渡航が認められていた。マシューズは編集長からは革命に関する記事を描くことを禁止されていたが、外国の指導者によってではない。マシューズがカストロを擁護し続けたのはキューバから締め出されることを恐れたためではない。彼にとってジャーナリズムとは弱者の声に耳を傾けるものだったからだ。彼はニューヨークの労働者階級のユダヤ人として育った。散髪屋の子供でありまた帝国ロシアに占領された19世紀ポーランドからのユダヤ人移民の孫でもあった。マシューズがコロンビア大学の学位から恩恵をこうむっていたのは事実だが、彼が学位を取得したのはフランスでアメリカ軍に従軍した後のことだった。1930年代から40年代に彼は社会主義にのめり込んでいった。そして時には自分を犠牲にしてでも労働者や貧しい人のために尽くした。戦時下のローマでは食料が不足しアメリカの特派員へ支給されるPX配給カードは黄金よりも価値があった。マシューズは彼に割り当てられた食料をすべて蓄えて飢えていたイタリアの労働者に与えた。

(省略)

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