2015年8月12日水曜日

どうして経済学者には人間のクズしかいないのか?Part2

まともだったころのBruce Bartlett。

SUPPLY-SIDE ECONOMICS:“VOODOO ECONOMICS” OR LASTING CONTRIBUTION?

Bruce Bartlett

Introduction

1970年代の中頃に新しい経済学の用語が現れるようになった。サプライサイド経済学だ。それは登場した初めから大きな論争を呼んでいた。実際、George H.W. Bushのような共和党員でさえ「ブードゥー経済学」と呼んでいたほどだ。それにも関わらずRonald Reaganによって称賛され1981の減税や彼の多くの政策の柱となった。

最近ではサプライサイド経済学に関して耳にすることは少なくなっている。多くの経済学者は1990年代の好況をそれへの反論と受け取ったようだ。サプライサイド経済学は大きな財政赤字につながる一方で1990年代の好況は1993の増税がきっかけで財政赤字の削減それどころか財政黒字につながったとしばしば言われることがある(Stevenson 2000)。

実際、サプライサイド経済学をアメリカ国民を騙すための選挙の道具と考えている人達もいるようだ。中世の錬金術士のようにサプライサイダーはそれが出来ないと知りながら減税から増収を約束したと彼らは主張している。前議員のDaniel Patrick Moynihan (D-NY)はサプライサイダーは増収が実現しないと予想していたしすべてをでっち上げたと主張している。レーガン大統領の下でOffice of Management and Budgetの議長を務めたDavid Stockmanも似たようなことを主張している。

彼らの攻撃は(他の者に比べれば)はるかにマシなものの私を含めた多くの経済学者を不誠実だと暗に仄めかしているように聞こえる。私は1977頃から始まったサプライサイド経済学の運動にJack Kemp (R-NY)議員のスタッフとして参加していた。そのグループの最も若いメンバーとしてサプライサイド経済学が形成されるその過渡期にすべての主要な参加者と直に接する機会に恵まれた。

私が運動に参加した頃にはサプライサイド経済学の基礎は既に形成されつつあった。初期の仕事の多くは経済学者のPaul Craig RobertsとNorman Tureによって為された。その他の主要な貢献者はウォールストリート・ジャーナルの編集者を務めたJude Wanniskiだった。

私は彼らやその他のサプライサイダーの発言や記事を調べることにより一般に信じられているのとは異なり彼らの仕事が強固な基礎に基づいていたことを示すことが出来ると信じている。サプライサイド経済学のレッテルを拒絶した経済学者によって為された数多くの研究がサプライサイド経済学を支持している。

サプライサイド経済学の一つの側面にしか過ぎないのではあるが多くの人の心に浮かぶのはほとんどがラッファーカーブだろう。それは税率ゼロ、税率100%のどちらも税収をあげることは出来ないという単なる事実を表現している。

ラッファーカーブはゼロ%と100%の間に税収を最大化する税率が存在することを示す。税率がそれを上回れば理論的に減税により税収を上げることが出来る。この曲線でより重要なのは同額の税収を集めることの出来る2つの税率が常に存在することだ。高い税率と小さい課税ベース、低い税率と大きい課税ベースだ。

ラッファーカーブのように教育目的のものを用いて税制の変更による税収への影響などを予想するのには明らかに問題がある。例えば1981の時のような減税が税収を上げたのかどうかなどは実証的な分析によってのみ明らかになる。

そのような分析がこれまでに行われたことはない。レーガン政権によって提出されたすべての公式文書と声明は1981の減税により税収が低下するだろうということを述べている。さらに当時のレーガン政権の推計はCBOのように政府から独立した機関によって行われた分析と似たようなものだ。

レーガン政権の下でCEAのメンバーであったBill Niskanenの言葉を借りれば、「サプライサイド経済学は減税により税収が増えると結論していないし政府の経済学者やレーガン政権の財政収支予測もそのような主張を一度も行っていない」。

注4 Niskanen (1988: 19)とAnderson (1988: 140-63), Muris (2000) and Roberts (1992)を参照。Congressional Budget Office (1981: 47)は税収の推計がレーガン政権のものとほとんど同一であったことを示している。

それにも関わらずアメリカ国民は1981の減税が財政赤字を拡大させないと騙されたのだとの攻撃が続いている。この研究の残りではサプライサイダーが税収に関して本当に考えていたこと、彼らの情報や発想の源、彼らの仕事が真剣な分析に基づいていたのかそれとも楽観的な願望に基づいていたのかへの答えを提供しようと思う。特に1981の減税法案が議会を通過するまでに至ったその前の期間にどんなことが言われていたのかそこに注意を払う。

Intellectual Roots

サプライサイド経済学の起源が14世紀のイスラム哲学者Ibn Khaldun(以下、イブン・ハルドゥーン)にまで遡ることが出来ると聞いて多くの人は驚くと思う。彼の主著The Muqaddimah(以下、「歴史序説」)で彼は帝国の興亡に関して書いている。彼は重い税が(高い税率からわずかの税収しか集めることが出来ずに)帝国の没落の要因にしばしばなったと議論している。彼が記しているように、

「王朝の初期には低い税率から多くの税収が生まれていたということは知られておかなければならない。王朝の終わりには高い税率からもわずかの税収しか得られなかった」。

注5 例えばローマの没落は重い税に帰せられることがよくある。Bartlett (1994a), Bernardi (1970), and Jones (1959)を見よ。Wilson (1939, 1969)は重い課税がオランダの経済的没落の主要な原因だったことを述べている。

この古代の哲学者が1970年代のアメリカの政策当局者に直接的な影響を与えたとはあり得ないことのように思われるかもしれない。だが書面による証拠がある。1971にJournal of Political Economyはイブン・ハルドゥーンに関する記事を掲載した。Robert Mundellは丁度この記事が掲載されるまでのJPEの編集長だった。そしてその記事を掲載する責任を負っていた。1978の9月29日にWSJは「歴史序説」からの上記の文章を掲載した。恐らくそれがロナルド・レーガンの目に止まったのだろう。彼は1981の10月1日の記者会見で、イブン・ハルドゥーンを名前入りで参照している。

注7 私的な会合でマンデルはこの記事を見る前から彼がイブン・ハルドゥーンのことをよく知っていたと私に話した。彼とイブン・ハルドゥーンは丁度600年離れて生まれたからだそうだ。

その他の意外な影響はJonathan Swift(以下、ジョナサン・スウィフト)だ。有名な風刺家でガリバー旅行記の筆者でもある。1728の記事で彼は高い関税が政府の税収に与える負の影響に関して記している。彼のキャッチフレーズである「高い関税の下では、2と2は決して1以上にはならない」はDavid Hume、Adam Smith、Alexander Hamiltonを含む多くの18世紀の哲学者、経済学者に影響を与えた。

これら18世紀の哲学者、経済学者が疑う余地もなくサプライサイド経済学の発展に影響を与えている。サプライサイダーは自分たちの考えと建国の父達の考えとを並べてみせる。

特にスミスの著作は建国の父だけでなくすべてのサプライサイダーによく知られていた。国富論から以下の部分が特に引用される。「高い税率は課税された商品の消費を減少させることによりまたは密輸を奨励することによりより低い税率から得られるであろうよりも少ない税収しか政府にもたらさないことが頻繁にあるだろう」。

建国の父たちもその考えのもとを政治哲学者、Montesquieu(以下、モンテスキュー)の仕事の中に見出している。「自由は重税を生み出す。重税の結果は隷属だ。そして隷属は貢物の減少を生み出す」。

その他の影響は19世紀の経済学者Jean-Baptiste Sayだ。1981の私の本Reaganomicsの第1章は以下の文章から始まる。「多くの点でサプライサイド経済学はセイの法則の再発見以上のものではない」。この意見にGeorge Gilder (1981: 40)は同意している。この文章で私はセイが供給を需要の上に置いたということを意味しようとした。総需要は紙幣を増刷することで簡単に刺激することが出来る。だが新たな労働と生産を強いるのははるかに難しい。従って経済政策は需要の刺激よりも財やサービスの生産の方をより懸念すべきだ。セイが述べているように、

「単なる消費の奨励は商業の利益とはならない。困難は消費をしたいという欲望を刺激することにではなく財を供給することの中にある。(中略)生産を刺激することが良い政府で消費を奨励することが悪い政府だ」。

John Stuart Millも同様のことを指摘している。私は本の中でセイとミルをともに引用し1972のThomas Sowellの著作も引用した。だが私は1974のW.H. Huttの著作やその他の本がセイの法則を再発見していることにも気が付いていた。言うまでもないことだがセイは生産へのインセンティブを懸念していたので重い課税が産出を低下させることにより収益を低下させるという考えに簡単に辿り着くことが出来た。彼が記しているように、

「課税はある限度を超えれば国家を繁栄させることなく国民を窮乏化させるという嘆かわしい影響を与える。(中略)需要の低下が生産物の供給の低下に付随しなければならない。その結果として課税の対象となった商品の供給は低下する。従って納税者の所得は低下し生産者の利益も低下し国庫への納税も低下する。(中略)これが課税がその率に比例して税収を集めることの出来ない理由だ。そしてこれが財政の算術では2と2は4にはならないという格言になった理由だ。重税は(中略)生産と消費をともに消滅させ納税者は貧困に追いやられる」。

興味深いことにラッファカーブの最も明確な説明は有名なアメリカの政治家John C.Calhounによって与えられた。彼は1842に上院議員を務めながら関税の影響に関して以下のような発言をしている。

「関税が課せられるすべての商品で税収を最大化すると呼ばれる税率が存在する。すなわち最も多い税収が集められるであろう税率だ。その税率を上回れば商品の輸入は関税が増加する速度よりも急速に低下するだろう。その税率を下回ればその逆の現象が現れるだろう。すなわち関税は輸入が増加する速度よりも急速に低下するだろう。関税がその最大の量よりも多く集められたとするならば関税を最大化する税率と実際の税率との差は純粋に保護主義的なもので利益を目的としたものではまったくないだろう」。

20世紀には何人かの経済学者が課税の限界に関して書き記している。初期のものはEdwin Cannanで税率100%は税収を集めることが出来ないと指摘してラッファーカーブのようなものを前提としている。John Maynard Keynesは減税が税収を増加させることがあると議論している。彼は以下のように記している(*省略)。

第二次世界大戦中には課税の限界に関して(主に労働供給に与える影響に焦点を絞って)多くの議論があった。戦後ではColin Clark (1945)が重税はGNPの25%以上からインフレ的になると議論している。Human Action (1949)の中でLudwig von Misesは高い税率は税収を集めることに関して自滅的になると指摘している。

「課税の真の難点はより税率が高くなればそれが経済活動を低下させ税収が集められなくなるというパラドックスの中に見られる。(中略)すべての税はある税率以上になると自滅的になる」。

1960に政治科学者、C. Northcote ParkinsonはThe Law and the Profitsの中で税が国民所得の20%に達するとそれが逓減していくと示唆している。

同時期の経済学者たちも高い税率が政府の税収に与える負の影響に関して記している。例えば1973の記事でRichard B. McKenzieは以下のように記している。

「この論文の主目的は法定税率と実効税率が異なることを示すことだけでなく法定税率の引き上げにより税収が減少する(すなわち実効税率の低下)ことが理論上明白に起こり得るということを示すことにある。さらにこの負の影響が富裕層に最も強く起こること、そして労働インセンティブがまったく影響されない場合であっても起こり得ることを提起する」。

要するに最初のサプライサイダーが現れる前から土壌はすでによく形成されていて超過の税により税収が失われること、逆にある条件の下では税率の引き下げにより税収を増やすことが出来るという考えが形成されつつあった。

Historical Roots

サプラサイド経済学の考えに影響を与えたのは理論上の議論だけではない。我々は過去の実際の出来事(特に1920年代から1960年代のアメリカの)にも気が付いていた。Herb SteinのFiscal Revolution in America (1969)はこれらの歴史上の出来事に関する非常に貴重な資料となった。実際、WanniskiはSteinを通して初めてこれらの考えを耳にしたと語っている。さらに我々は州や地方のレベルでの証拠、また外国での証拠にも気が付いていた。

連邦所得税は1913に最高税率が7%として導入された。だが第一次世界大戦の戦費を調達する必要に迫られて税率は大幅に引き上げられた。戦争の終わりまでには最高税率は77%に達していた。

この税率を引き下げたのは(大部分が1920年代の共和党の大統領であるものの)その音頭を取ったのは民主党のWoodrow Wilson政権だ。1919の議会演説で彼はサプライサイドの議論を用いて税率の引き下げの必要性を要請している。彼は以下のように述べている(*省略)。

Warren G. HardingとCalvin Coolidge、Herbert Hooverの下で連続して財務長官を務めたAndrew Mellonは税率の引き下げの先頭に立っていた。1929までに彼は最高税率を24%まで低下させることに成功した。彼の本、Taxation: The People's Business (1924)の中で彼は富裕層への高い税率が政府の税収を低下させること、税率の引き下げが税収を増やすだろうことを記した。

注13 当時の財務長官のこの期間全体の年次報告書はサプライサイドの議論を強く強調している。

「課税の歴史は税率がある水準以上になれば税を支払う者がいなくなるということを示している。税率が高くなれば納税者は生産的な事業から資本を引き上げそれを課税が控除された証券に投資したりまたは他の合法的な課税課税回避の手段を探し出すだろう。その結果、課税の元となるものが干上がっていく。資産からの税負担は低下し資本は政府への財源とならないか人々の利益にならないものへと流れていく」。

そして1920年代の減税が実際に富裕層からの税収を増やしたことを証拠は強く示唆している。歴史家のBenjamin Raderは、「富裕層に対する税率が大幅に引き下げられたにも関わらず(中略)富裕層が負担した割合は1920年代の始めよりも1920年代の終りの方が高くなっていた」と結論している。最近の研究もこの結論を確認している。

「富裕層の限界税率が大幅に引き下げられたにも関わらず実質的な税の負担は低所得層から富裕層へとシフトしている。課税回避の減少と経済成長により1921から1926の大幅な減税にも関わらず税収が増加した。よって税率の引き下げはMellon財務長官がそうなるだろうと議論した通りに大部分機能した」(Smiley & Keehn 1995: 302)。

注14 Ekelund & Thornton (1986), Gwartney & Stroup (1982), and Rudney (1976)を参照。対立する見方としてはKeller (1982, 1984)がある。

サプライサイダーにより大きな関連を持っていたのはケネディ大統領の減税だ。Jack Kempは私が彼のスタッフに加わった頃からすでに彼の減税案とケネディのものとを比較していた。Norman Tureはケネディ政権時の経験を知る重要な鍵だった。何故なら彼はケネディ減税が実施された時にWilbur Millsの下で働いていたからだ。

1976の夏にケンプ議員はCongressional Research Serviceから彼らが減税によって発生するであろうと予想していた税収減の推計を受け取った。これらの推計と1960年代の実際には増加した税収とを比較することによって彼はケネディ減税が税収を増加させたと結論した。

彼の主張は完全な証拠に基づくものとは言い難い。何故ならケネディ減税が実施されなかった場合に予想される税収に関するデータがないからだ。だが興味深いことにケネディ政権の下でCEAの議長を務めたWalter Hellerがすぐに彼の主張を補強した。1977の2月7日のJoint Economic Committeeでの証言で彼はJacob Javits (R-NY)議員からCRSの推計に対するケンプの分析に関してコメントを求められた。私は当時その公聴会が開かれていた会議室の中にいて彼は以下のように回答した。

「1965の減税によって何が起こったかを特定することは難しい。だがこれまでに特定できた範囲では減税は経済に対して極めて大きな刺激を与えたように思われる。1965の中頃までに(*当時のドルで)30億ドルの黒字となった主要な要因だった。当時の減税の規模は120億ドルで現在の価値で言えば(*この証言は1977のことなので1977のドルで換算する必要がありまた当時のアメリカ経済の規模も考慮に入れる必要がある)33億ドルか34億ドルぐらいだろう。そして1年以内に税収は減税前の税収を上回ることになった」。

後に彼はサプライサイダーの手助けをしたとして辱めを受けるようになる。そして意見を変えようとした(Heller1980)。だがこの出来事の目撃者として当時の彼が自分の考えを語っていなかったとはまったく思わない。実際、ケネディ大統領、彼のアドバイザー、当時の支持者らの発言を読み直してみれば税率の引き下げにより実際に税収が増えると彼らが予想していたことがはっきりと明示されている。

「現在は税率が高すぎて税収は少なすぎる。そして長期において税収を増やす確実な方法は現在税率を引き下げることということは一見パラドキシカルに見えるが事実だ」(Kennedy 1963: 869)。

注17 リベラル派のケネディ減税の支持者の中にはMellon財務長官の議論を用いてまで共和党の反対派をからかう者までいた(*この当時からどこまでもクズな連中ということがよく分かって面白い)。

1963の9月24日の討論会でケネディ減税を主導したWilbur Millsは、「私の見た所ではこの減税法案により何年か後にGNPを500億ドル増加させることが出来るということに疑問の余地はない。この法案が通れば税率が下がったにも関わらず少なくとも120億ドルの税収が新たに生まれるだろう」と述べている。当時のCEAによる分析や、Lawrence Klein (1969)、Arthur Okun (1968)も彼の意見を支持している。

注18 ケネディ政権は(レーガン政権同様に)税収が低下すると公式の推計では発表していたことは記しておかなければならない。

1970年代にケネディ減税の影響が政治的議題になってからはさらなる分析が行われるようになった。Data Resources, Inc. (DRI)やWharton Econometric Forecasting Associatesはこの減税の影響を調べる契約を交わしている。CBOはこれらを批評した後で以下のような結論を下した。

「1964の減税の影響が論争となっている。(中略)減税の直接的な影響により税収は120億ドル低下した。我々のモデルによると減税による産出の増加と価格の上昇で2年後には30億ドルから90億ドルが回収された。その結果、税収の低下は120億ドルの25%から75%に収まった」。

従ってケネディ減税はすぐには元が取れなかったかもしれないものの(減税による経済の拡大効果が要因で)連邦政府が予想されていた額の税収を失わなかった証拠が山のようにある。レーガン大統領がケネディ減税は採算がとれたと主張した時に結果として大きく外れているわけではなかった。

注19 Canto, Joines & Webb (1983)は州と地方の政府に生じた税収増を含めることによりケネディ減税が採算がとれたことを示した。

このフィードバックの議論で真に重要なのは減税によって連邦政府がどれぐらい新規の借入を余儀なくされるのかにある。減税によって実質利子率が上昇すれば減税による経済拡大効果が打ち消される、と議論することも尤もらしく見える。だが減税によって民間貯蓄が増加するのかどうかもまた重要だ。貯蓄が増加するのであればそれをフィードバックの推計に含めることは適切だろう(*ここでの議論が本当に重要かはさておきここではリカードの等価定理の話をしているのではなく貯蓄の増加がサプライサイドに与える正の影響の話をしている)。

1981の記事でPaul Evansはケネディ減税がその減税額以上に貯蓄を増加させたと議論している(*=投資の増加)。要するに家計は減税額の100%以上を貯蓄した。それ故ケネディ減税は(連邦政府の借入による)利子率の上昇圧力を生まなかったと結論できる。サプライサイダーは連邦政府の借入や利子率への影響に関する疑問が挙げられた時にこの点を指摘する。

注20 Boskin (1978)は貯蓄の弾力性が高かったと示唆している。

連邦レベルで起こったことは州と地方のレベルでも確認された。例えばGrieson (1980)はフィラデルフィアの税率が高すぎるので税収を損なっていると結論した。

注21 Gruenstein (1980), and Inman (1992)を参照。

サプライサイダーは外国(特にドイツと日本での)での減税の事例やイギリスやスウェーデンのような税率が高い国の事例(Bartlett 1982b: 182-203; Reynolds 1985)をも熟知していたことを記しておかなければならない。複数に渡る税率の引き下げが大戦からのドイツと日本の回復に重要な役割を果たしたという証拠がある。そして税収も回復していった。高い税率がイギリスとスウェーデンの成長を妨げたという証拠がある。興味深いことにイギリスが1979のMargaret Thatcherの選挙後に税率を引き下げた時に富裕層が支払った税の割合は急上昇した。

注22 ドイツに関してはHauser (1966), Reuss (1963), and Wertheimer (1957)を参照。日本に関してはPechman & Kaizuka (1976)を参照。

注23 イギリスに関してはBacon & Eltis (1978), Beenstock (1979) and Smith (1975)を参照。スウェーデンに関してはBlomquist & Hansson-Brusewitz (1990), Hansson & Stuart (1985),Strand (1999), and Stuart (1981)を参照。

注24 Adam & Kaplan (2002)によるとイギリスの納税上位1%が納税額全体に占める割合は1978の11%から2002の23%に上昇した。納税上位10%が占める割合はその期間に35%から52%に上昇した。

Keynesian Breakdown

サプライサイド経済学の興隆は当時の経済学の情勢抜きでは理解し難いだろう。非常に重要な要因となったのはケインズ経済学の崩壊だった。第二次世界大戦後以降、経済学と経済政策はケインズ理論に支配されていた。ケインズ理論は連邦政府の財政赤字は景気刺激的で金融政策はほとんど重要でないと見做していた。ケインズモデルではインフレは大した問題では無いと考えられていた。何故なら遊休資源の存在がある限り発生しないと考えられていたからだ。

従って1974-1975の不況はケインズ経済学にとって終わりを意味した。財政赤字は巨額だったが景気を刺激しているようには見えない。インフレは上昇していた。だが失業も増えていた(すなわち遊休資源)。財政赤字を拡大して失業を減らすことは有効ではなかった。また財政赤字を削減してインフレを低下させることもだ(インフレになったら増税すればいい(笑))。ケインズ派は「岩と硬い地面の間に挟まれていた」。結果としてケインズ政策は無力となった。

1970年代の中頃までにはケインズモデルに対する不満が当たり前のように聞かれるようになった。インフレと失業の間には単純なトレードオフがあると長い間信じられてきた。政治家が考えなければならないことはどちらが政治的に不人気かを知ることだけだと考えられていた。インフレが政治的、経済的問題である時に金融政策と財政政策を引き締めること、そして失業が政治的に問題となった時に緩めることだ。この関係はフィリップスカーブと呼ばれていた。

ケインズの著作にはフィリップスカーブの記述がないもののそれは戦後のケインズ経済学の中心を占めるようになっていった。従ってフィリップスカーブの明白な失敗はケインズ経済学の死を意味した。1976までにはケインズの生まれの地であるイギリスの労働党政府でさえもケインズを否定した。イギリスの首相James Callaghanは党員に向かって以下のように語りかけた(*省略)。

理論の面ではフリードマンによって率いられたマネタリストがケインズモデルの解体を行った(*以下省略)。

公共選択学派の登場もケインズを葬り去るのに一役買った。James Buchanan and Richard Wagnerは(財政赤字の罪悪感を拭い去ることにより)戦後の政府の拡大に責任があるとしてケインズ派を非難した。財政赤字は財政錯覚を生み出し税負担なしで政府から幾らでも引き出せると投票者を誤った考えへ導く。だが彼らの本の批評の中でRoberts (1978b)は財政赤字は通常、長期では増税へとつながることがあるがそれが課税ベースを縮小させさらに大きな財政赤字を招くことを記している。

注28 彼はこの批評の611ページにてラッファーカーブの変種を提示している。そこでは政府の規制の増加が(彼はそれによって政府の大きさを示そうとしていた)GNPを低下させ税収も減少させるということが示されている。同様の図がRoberts (1971: 54)にも描かれている。私との手紙のやり取りの中で彼はラッファーカーブと同様のものを描いた。

合理的期待学派もケインズ経済学を葬り去るのに一役買った。サプライサイダーの視点から見た所では彼らの主な批判は過去に用いられていた計量モデルに対してだった。それらのモデルは政策を評価するのによく用いられていてほとんどすべてがケインズ派の考えを元にしていた。これはケインズ派がすっかり信用を失った後でさえもケインズ派よりの政策が取られるようなバイアスを生み出す元となっていた。

このことが最も影響する分野が税収の推計作業だった。これは1974のBudget Actの法制化以降に特に問題となった。何故なら予算決議の中にそれに対する規定がなければ議会は法案を審議することさえ出来なくなってしまうからだ。これは議会は減税によって発生すると見込まれる税収減の予想額を前もって知っておく必要があることを意味する。税収の推計は以前から行われていたがここまで必要とされることはそれまでにはなかった。

歴史的に議会に提出される税収の推計はJoint Committee on Taxationが行ってきた(1920年代から存在している)。とはいっても財務省のものがよく用いられていたのだが。それらの推計は大体が任期が恐らく1年か2年の会計士によって行われていた。だが1970年代の中頃までには経済学者が会計士に取って代わるようになり機械も用いられるようになっていた。さらにBudget Actは5年間の税収の推計を要請していたので経済的予測に対する需要をさらに高めることになった。CBOはJCTが推計を行うに際して参考とするマクロ経済的予測を提供するために創設された。

従ってCBOの推計が極めて重要となった。CBOの推計はDRIやWharton and Chase Econometricsのような民間の計量モデルが元になっていた。だがすでに述べたようにそれらのモデルは大部分がケインズ派の仮定に依拠していた。これは減税の方が政府支出よりも財政負担が大きいと判定される原因となっていた。また(限界税率の引き下げのような)サプライサイド的な減税よりも(消費の刺激を意図した)一時的な減税の方に法案審議の過程を歪める原因ともなっていた。

これが実際にどのように作用したのかの例は(失業を減少させることを目的とした各種の財政措置を調べた)CBOの初期の研究に見られる。ケインズ派の考えがモデルに取り入れられていたので政府支出以外の選択肢は不当に扱われていた。ケインズ派のモデルでは支出により経済が拡大し貯蓄は阻害要因となる。だから政府支出の増加は減税よりも好ましいとされていた。支出は同じ額であれば減税よりもより多くの職を生み出すとされていた。何故なら前者はすべて支出されると仮定されている一方で後者は幾らかが貯蓄されると仮定されているからだ。それ故、政治的な意味でサプライサイド的な減税は不利な立場に立たされていた。恒久的な税率の引き下げは一時的な税の払い戻しに対しても費用が大きい上に有効でないと見做されていた。

注29 1975のTax Reduction Actは(当時のお金で)一人あたり200ドルを需要の刺激のためと称して払い戻した。だが以降の研究は(短期では)そのほとんどすべてが貯蓄されていたこと従って需要をまったく刺激しなかったことを発見した。丁度Friedman (1957)が予測した通りになった。Blinder (1981), and Modigliani & Steindel (1977)を参照。

Paul Craig Roberts (1978a)はケインズ派の体系の崩壊を認識した最初のサプライサイダーの1人だった。そして新しい予算審議の創設に関わった一人でもある。敵対的な計量モデルと予算審議という制約の下である種の減税は直接的な支出ほどには財政赤字を拡大させないということを示すことが出来るということが突然に極めて重要となった。

上院財政委員会の議長だったRussell Long (D-LA)議員のような伝統的な租税策定者は自分たちが現在は不利な立場に立たされていることに気が付いた。CBOは支出プログラムをケインズ派の乗数に基づいて評価する。だが減税の方はというとまるで何のマクロ経済的効果もないかのように静学に基いてJCTが計算してくる。彼はサプライサイダーではなかったが税の策定に長い間関わっていて多くの税制の変更を経験しその影響を間近で見てきた。彼の経験がサプライサイドの議論を悟らせることになった。1977の公聴会で彼は以下のように述べた。

「税収の推計は過去に大きく大きく外れ続けてきた。(中略)投資税額控除を設けた時には我々は税収を(*ここでも1977のドルでということと当時のアメリカ経済の規模とを考慮する必要がある)50億ドル失うだろうと予想していた。(中略)ところが税収を失うどころか法人所得からの税収は増加した。その時は我々は経済が加熱している最中にあるからだと考えた。だから控除を廃止した。我々は政府の税収が増えるものだとばかり思っていた。だが50億ドルを得るどころか50億ドルを失った。それからしばらくして我々は間違いを犯したのだと考えた。だからもう一度控除を設けることにした。税収を失うどころかまたまた税収は増加した。それからまたしばらくして我々は控除をもう一度廃止した。そしてまたも予想していたのとは丁度真逆のことが前回と同じぐらいの額で起こった。(すべての要因を考慮に入れ)投資税額控除だけを取り出しそれだけを見た所では控除によって税収は少しも失われることはなかったという結論を示しているように私には思われる。この経験から私が得た印象は経済を拡大させることそして投資をもたらすことは税収を失わさせるのではなく税収を増やすのだというものだった」。

注30 Long (1977: 242)を参照。Judd (1987)は後にこれが正しかったことを確認している。

彼は計量モデルに長年の経験のあったMichael K. Evansに上院財政委員会のためにサプライサイドの要因を取り入れたモデルを構築することを依頼した。だが彼がその仕事を終える頃までには委員会の実権は共和党に移っていてその時にはBob Dole (R-KS)議員が議長だった。彼のスタッフ長だったBob Lighthizerは私との私的な会話で彼がその計画に何の興味も持っていなかったこと(民主党がイニシアティブを取っていたので)を明かしている。Evans自身にモデルがどうなったのか尋ねてみると彼は一枚のコピーを作成してそれを財政委員会に送った以外には他のコピーを持っていないとのことだった。

1978にAmerican Council for Capital Formationが出資したサプライサイドの要因を取り入れたモデルを構築する試みも雇われた経済学者たちの間の論争の犠牲となって失敗に終わった。Norman Tureのモデルは1981に彼が財務省に入った時にCoopers & Lybrandという会計会社に売り込まれた。不幸なことに財務省がその会社とそのモデルを改訂と更新をするための契約を交わした後に彼は倫理規定に抵触したかどうかという問題に振り回される羽目になった。改訂が終了する頃には彼は財務省を去っていてそのモデルは結局用いられなかったようだ。

Capital Gains and the Tax Revolt

こういう状況の中である重要な政治的戦いが幕を開けようとしていた。その中にはキャピタル・ゲインの税率に関する論争も含まれていた。ほぼ同時期にカリフォルニア州で(財産への課税を大幅に軽減する)住民投票条例13を巡って熾烈な政治的戦いが勃発していた。この条例が1978の6月6日に成功裏に施行されたことが所謂納税者の反乱と呼ばれるものが持つ潜在的な力を圧倒的に見せつけることになりワシントンの政治力学を大きく変えることになった。

キャピタル・ゲインに関する論争の元は(その税率が25%から35%にまで引き上げられた)1969にまで遡る。1978の4月13日にWilliam Steiger (R-WI)議員は税率を25%に戻す法案を提議した。その時の議論はサプライサイド経済学の展開にとって2つの理由で重要だった。第一に、Martin Feldsteinを含む幾人かの経済学者が税収減は投資の解放と増加によりすぐに回収できると強く主張した。

第二に、キャピタル・ゲイン減税が持つ潜在的な経済拡張効果は税率の引き下げは(ケインズ的な可処分所得に対する影響ではなく)インセンティブを増加させることによって経済を刺激することが出来るというサプライサイド経済学の議論の例証となる。従って1978のキャピタル・ゲイン論争は主流派の経済学者によるサプライサイド理論の発展と受容にとって重要となった。

もちろんキャピタル・ゲイン減税によって税収が失われないという考えは新しいものではない。Hinrichs (1963: 228)は「投資家のキャピタル・ゲイン税率に対する弾力性は1を超えている、だから税率の引き下げは税収を損なわないかもしれない」と結論している。さらにキャピタル・ゲイン税は納税者が時期または利益を実現するかどうかの自由を持っているので特殊な形態の所得だと認識されてきた。税率が高い時には投資家が資産を保有し続けるので税収を低下させるロックイン効果を奨励する。それ故、税率の引き下げは税収を急速に増加させるアンロック効果を起こす結果となる。

FeldsteinはSteiger法案はほとんどすぐに税収を増加させるだろうという自身の確信を率直に語りそして議会の前でその効果に関して証言した。彼の証言の元となったものは1978の6月のNBERのワーキング・ペーパーとしてCapitol Hillで読まれていた論文だった。

Merrill Lynch EconomicsのGary CimineroやChase EconometricsのMichael Evansなども税収が増えると予想していた。JCTはその法案により税収が損なわれると主張し続けていたが1978に決議されて以降はJCTは法案が税収を増やしたということを認めた。後の分析はこの判断が正しかったということを確認している。

注32 Lindsey (1987a), and U.S. Treasury Department (1985)を参照。実際に、財務省はキャピタル・ゲイン減税により税収を増やすことが出来るというふうに推計方法を変えている(Gideon 1990)。

この論争の最中に同じぐらい重要な政治的論争がカリフォルニアで行われていた。そしてこれもサプライサイド経済学にとって重要な意義を持っていた。この論争は減税が持つ真の政治的力を示した。そして単にワシントンDCでの政治的論争に留まるのではなかった。カリフォルニア州の住民投票条例13はサプライサイダーと財政政策に関してより伝統的な側面を持つ共和党とを結びつける手助けともなった。

1950年代と1960年代では税に関する主要政党の立場は入れ替わっていた。1920年代から1940年代まで減税を掲げていた共和党はDwight Eisenhowerの下で「財政の安定に責任を持つ」党になった。均衡財政が共和党の財政政策の必須条件となった。同時に増税の党だった民主党は、John F. Kennedyの下で減税の指揮を執るようになった。

議会共和党はほとんど全員がケネディ減税に反対していた。共和党の大統領Richard Nixonは予算を均衡させるためと称して1969に増税を行った。共和党の大統領Gerald Fordは彼の任期中にすべての減税の試みに財政赤字を拡大させるという理由で反対した。Ronald Reaganでさえもカリフォルニア州の州知事であった時に予算を均衡させるためと称して増税を行っている。共和党が再び減税に前向きになったのは1976にフォード大統領が1974と1976に共和党議員が大量に落選したためだ。

それでも、まだ共和党の政治家と保守派の経済学者の間には(同時に支出を削減することなしには)減税に対する抵抗があった。「真の」負担は支出であって税ではないとよく言われていた。従って支出の削減を伴わない減税は政府という負担を削減していることにはならないし従って経済を刺激する効果は期待できないと保守派の間では考えられていた。サプライサイダーも支出を負担だと考えていた。だが保守派の間で課税の負担が大きく過小評価されていると彼らは考えていた。

注33 リバタリアンも税率の引き下げに反対していた。だがそれは減税が実際に税収を増やしてしまうことを彼らが恐れていたからだった。そしてそれが減税によるものからであろうと彼らは連邦政府が集める税が増えることに反対していた。Bartlett (1982a)を参照。

注34 この考え方はFederal Reserve Bank of Minneapolis (1980)に見られる。Christ & Walters (1981)も参照。

Geoffrey Brennan and James Buchanan (1977, 1979, 1980)はこの支出の問題を処理した。彼らは民主政治の下では減税なしでの支出の削減は不可能とまでは言わないものの極めて極めて難しいと論じた。増税は単に新たな支出を増やすだけの一方で、減税は支出を削減する圧力を政策当局者に与える。それ故、政府の規模を制限するための最良の方法は支出の元となる税を断ってしまうことだ。

注35 Marlow & Orzechowski (1988)も参照。

カリフォルニア州の住民投票条例13は投票者が減税は政府の無駄を削減するのに効果的だと本能的に感じ取っていたことを劇的に示した。以降の分析は彼らがほとんど正しかったことを示している。カリフォルニア州の住民投票条例13は反対者が予想していたのとは逆に政府のサービスで重要と思われるものの削減にはつながることなく支出の伸びを抑えた。実際、カリフォルニア州の住民投票条例13はカリフォルニア州の政府の規模を小さくしていなかった。

注36 Franchetti (1983), Lipson (1980), and Rabushka & Ryan (1982)を参照。

この出来事の後、減税に批判的だった共和党の間で顕著な変化があった。彼らは伝統的な保守的財政という枠組みの中で減税を合理化しようとした。例えばHerb Steinは減税による経済拡大効果に否定的だったが税率が高過ぎるのと増大する一方の税と支出に対する国民の不満に政治家が答えられていないとの理由で減税を支持した。保守派のコラムニストGeorge Will (1978)もAlan Greenspanを引用して同様の主張をした。Irving Kristolは保守派の間の態度の変化をこのように説明している。

「彼らは減税は支出の削減の必要条件というカリフォルニア州の住民投票条例13が示したレッスンを学んだ。予算審議の過程が示すことは支出プログラムに対するどんなにわずかな削減であっても少数派からの猛烈な反対を招くのに多数派はまったくの無関心だということだ。そのような状況では政治家が高い政治的代償を払ってまで支出を削減するだろうと期待することは不合理だ。彼らは他に方法がないと追い込まれるようになって初めて支出を削減できる」。

ミルトン・フリードマンはコラムでこの点を簡潔に述べている。「政府の支出を制限する唯一の有効な手段は税収を制限することだと私は結論する。丁度、所得の制限が家計の支出を制限する唯一の有効な手段であるのと同じように」と記している。

ポイントはサプライサイダーは単に税収の還流にのみ頼っていたのではないということだ。彼らは減税が支出の削減につながる政治的圧力を生み出すことをも十分理解していた。彼らは支出の削減案を特に前面に打ち出さなかった。それは彼らの反対者が他のことは投げ捨ててそこに注力してくることを理解していたからだ。実際、彼らはカリフォルニア州の住民投票条例13型のモデルを取り入れていた。

要するにMoynihan/Stockmanの考えとは真逆にサプライサイダーは支出の削減が予算の均衡のために必要ではないと考えていたというのは事実ではない。彼らは単に予算を均衡させることを特に重要な目標と考えていなかっただけだ。政府の規模を制限することは重要な目標だったが。だが支出は先に税が削減されて初めて削減されるだろう。Ronald Reaganはこの点をテレビ演説ではっきりと述べている。

注37 Bartlett (1979), Ture (1980, 1982)を参照。ミルトン・フリードマンはこの点を何度も強調している。Friedman (1978a, 1978b, 1981, 2003)を参照。

「支出が削減されるまでは税は削減されないと言う人が何時の時代でもいる。だが知っての通り我々は声が枯れるまで叱り続けてようやく子どもたちの浪費を戒めることが出来る。または子どもたちの浪費は単にお小遣いを減らすことによって治すことが出来る」。

経済学の研究は彼の方法が正しいものだということを確認している。Alesina and Perotti (1995: 228)は財政再建の成功事例では直接税は減税されていることがあると報告している。Becker, Lazear and Murphy (2003)は減税が支出の削減を強いる範囲でその経済拡大効果は増幅されると論じている。さらに増税が財政収支を改善させることはほとんどない。これは増税が財政赤字の削減ではなく支出の増加につながることを示した研究の結果と整合的だ。

注38 Ahiakpor & Amirkhalkhali (1989), Blackley (1986), Joulfaian & Mookerjee (1990), and Manage & Marlow (1986)を参照。

Mundell, Laffer and the JEC

サプライサイド経済学で最も有名な経済学者はRobert MundellとArthur Lafferだ。サプライサイド経済学の重要な発展段階でJoint Economic Committeeは強力な支持者となった。

ラッファーもマンデルもサプライサイド経済学に辿り着いたのは国際金融政策への関心を通してのことだった。1970年代のすべての経済学者がそうであったように彼らも「スタグフレーション」の問題を非常に懸念していた。だが彼らは問題の根を1971の金本位制からの最終離脱に求めていた。ドルと金との結びつきが離れてしまった以降は政府のインフレ嗜好を抑えるブレーキはなくなってしまったというのが彼らの見立てだった。

そしてインフレは税制と相互作用して限界税率を急激に上昇させていた。(名目)給与が増加した労働者は高い税率区分へと追いやられていた。購買力は増加していないかもしれないにも関わらずだ。税は架空の棚卸資産利益に基いて評価される一方で過去の費用に基づく減価償却費は十分ではないという状況に企業は追いやられた。投資家はキャピタル・ゲインの大部分が単にインフレによるものでそれなのに実質として課税されるという状況に追いやられた。

注39 インフレと所得税に関してはAaron (1976); Advisory Commission on Intergovernmental Relations (1980); Congressional Budget Office(1980); Fellner, Clarkson & Moore (1975); and Furstenberg (1975)を参照。キャピタル・ゲインに関してはEisner (1980) and Feldstein & Slemrod (1978)を参照。企業に関してはFabricant (1978), Gonedes (1980), and Shoven & Bulow (1975, 1976)を参照。

それ故、スタグフレーションを終わらせるには2つの戦略が必要だとラッファーとマンデルは述べた。第一に、貨幣の増加を大幅に絞る必要があった。第二に、税率を引き下げる必要があった。マンデルはこの戦略を1971の論文に記している。

「貨幣の増加は(名目の)貨幣需要を高めるが(価格の)粘着性や貨幣錯覚がなければ実質で見た拡大にはつながらない。だが実質で見た産出の増加は実質貨幣需要を高めるので実質貨幣残高の増加はインフレを起こすことなく経済に吸収される。減税は雇用と成長率を高める。そしてこれが貨幣に対する需要を高めるので金融緩和の状態に伴う利子率の低下を起こすことなくFRBは新たな貨幣を供給することが可能になる。貨幣の加速度的増加はインフレ的だ。だが失業が存在する時には減税は拡大的だ」。

この時にはマンデルはシカゴ大学にいてラッファーはシカゴ大学のビジネススクールで教えていた。貨幣に対する共通の関心が彼らを結びつけそしてラッファーはマンデルの考えを吸収することとなった。1974にラッファーは世界的なインフレの問題に関する会合を開催した。これが多くの政治家が後にサプライサイド経済学と呼ばれるようになったものを耳にした初めての機会だった。

この会合の話題はほとんどが貨幣に関するものだったがマンデルはインフレとの戦いにおいて減税が果たす重要な役割に関しての指摘を繰り返した。財政赤字がインフレを起こすというケインズ的な見方が当時は広まっていたためこれは重要だった。事実、今では誰からも覚えられていないがレーガン大統領らが1970年代後半に減税を主張し始めた頃にはその主たる反対理由というのは減税が猛烈なインフレを招くというものだった。

注41 例えばAlan Blinder, John Brittain, Edward Denison, Otto Eckstein, Martin Feldstein, John Kenneth Galbraith, Edward Gramlich, and Joseph A. Pechman in Committee on Ways & Means (1978)を参照。Beck (1979)は減税がインフレを低下させることが出来るということを説明している。

この会合に出席した者の中にJude Wanniskiがいた。彼はその議論に魅力を感じてすぐにラッファーとマンデルの考えを説明した記事をWSJに掲載した。彼は後にその分析を他の記事の中で拡大している。興味深いことに彼の関心はラッファーとマンデルの論文の脚注にしか載っていなかった部分に向かっていった。これがラッファーが有名なラッファーカーブを初めて説明した部分だった。Wanniskiは以下のように記している(*省略)。

彼は後にサプライサイド経済学に関する初めての本The Way the World Works (1978)を書いた。彼はサプライサイド理論の様々な側面を読者に解説した多くの無記名の論説をWSJへ寄せた。そして彼はArthur LafferやPaul Craig Robertsら多くのサプライサイダーの記事が掲載されるように手助けをした。実際、彼が1978に民間のコンサルタント会社を設立するためにWSJを去った時に彼の後を埋めるためにRobertsが雇われた。

この時代にサプライサイド経済学の発展に組織として貢献したのはLloyd Bentsen (D-TX)議員のリーダーシップの下にあったJECだった。JECはCEAの議会側の対応物として1946のEmployment Actによって設立された(*以下省略)。

1960年代にはJECはケインズ経済学の温床として知られていた。だからケインズ派の崩壊はJECを直撃した。従ってメンバーもスタッフも拠り所を探し求めなければならなかった。1970年代の後半までにはJECはいつ解体してもおかしくない状態にあった。数回に及ぶ聞き取りとスタッフによる研究の中でJECは供給の役割を強調するようになっていった。

1980までにJECは民主党が多数派を占めていたにも関わらず全面的にサプライサイド経済学を提唱するようになっていた。「Plugging in the Supply Side.」と題した年次報告書の中でBentsen議長は委員会の新しい考えを以下のようにまとめている(*省略)。

JECは計量モデルに関する議論にも参加していった。1980の3月21日の公聴会は既存のモデルはケインズ派の仮定に依存しすぎているので現実をまったく説明することが出来ないという考えを強く支持した。JECの勧告を受けてDRIはサプライサイドの要因をより取り入れるようにモデルを変更した。

JECのサプライサイド経済学への転向はサプライサイド経済学に対して尊敬と超党派性を加えたという意味で極めて重要だった。例えばNYTのコラムニストLeonard Silkは新しい考えに対して好意的に書いている(*省略)。

レーガンが大統領になりBentsenよりもリベラルなHenry Reuss (D-WI)議員が議長に代わった後でもJECはケインズ派に懐疑的であり続けた。1981にReussは「我々は過去の過ちから学んだ。我々は盲目的なケインズ派への追従を捨てた」と語った。そしてサプライサイド経済学は経済の需要側から「受けるに値しない優位性」を奪ったという意味で重要だった、と彼は加えた。

Kemp-Roth

Kemp議員とWilliam Roth (R-DE)議員が法案を提出したのはこのような状況の下であった。ケンプ議員にはケネディ減税の特徴を複製したいという思いがあった。

法制化の試みは1977に始まった。ケネディ減税を「複製する」というのが具体的に何を意味するのかを示すことが私の仕事だった。1964以降、税率が大幅に変化していたからだ。Bruce ThompsonとJCTのPete Davisと共同で作業して所得税の最高税率を70%から50%、最低税率を14%から10%に引き下げることを決定した。我々はこれが大体ケネディ減税と同じ(最高税率を91%から70%、最低税率を20%から14%)だと感じていた。

Kemp-Roth法案が注目を集め始めたのは1年前ぐらいからだった。興味深いことに税収減の何割かが(どれぐらいかは条件による)回収されるという考え自体は特に論争とはならなかった。実際にカーター政権でOMB議長を務めたBert Lanceは法案の影響に関して議会の前でこのように証言している。

「恒久的な税率の引き下げの過去の経緯を私が見た所では政府の税収は実際に増加したという事実を説明するのに非常に優れた議論が存在する。私はその理論が過去の事例において常に証明され続けていると考える。だから過去の事例に従うことに私には何の障害もない」。

CBOが法案を試算した時にはフィードバック効果により1年目に税収減の14%から19%が回収されるだろうと推計した。4年目になるとこれが26%から38%へと上昇する。

これはサプライサイダー自身の予想と整合的だ。一般に流布している俗説とは真逆に彼らの誰一人さえも税収減がまったくないと言わなかった。短期では税収減が発生するだろう。だが彼らは税収の純減が静学的な推計が予想するよりはるかに小さいと考えていた。

サプライサイダーは投資の増加、労働供給の増加による経済成長の加速があると考えていたけれどもこれが税収が回収される唯一の経路だとはまったく考えていなかった。彼らは課税所得を増加させる多くの行動の変化を予想していた。

その中でも重要と考えられていたのがいわゆる地下経済の縮小による課税ベースの拡大だ。私は(地下経済がGNPの10%に相当すると推計した)Gutmannの1977の記事を鮮明に覚えている。課税回避がすべてではないかもしれないが課税が疑いなくその拡大に大きく寄与していた。従って税率の引き下げにより地下経済の活動が表に移動するだろう。

注44 彼の仕事はCapitol Hillではよく知られていて3度の議会公聴会の対象となった。Committee on Government Operations (1979), Committeeon Ways & Means (1980), and Joint Economic Committee (1980c)を参照。

注45 Gutmannの仕事は後に続く研究を多く生み出した。Schneider & Enste (2000)によくまとまっている。税率の引き下げが課税回避を大きく減少させることが出来ることを示した論文の中には、Alm (1988); Clotfelter (1983a); Neck, Schneider & Hofreither (1989); and Waud (1986)がある。

サプライサイダーは労働者が賃金の中で課税部分が増えるように報酬体系を変更するだろうとも予想していた。特に非課税の付加的給付は現金給与に比べて幾らか魅力を失うだろうと予想されていた。1970年代の(インフレによる)税率の上昇が医療保険などの付加的給付の増加の背景にあったことを示すかなりの量の証拠がある。

注46 Farber (1978), Hirsch & Rufolo (1986), Long & Scott (1982, 1984), Sloan & Adamache (1986), Vroman & Anderson (1984), and Woodbury &Hammermesh (1992)を参照。

投資家も(課税所得を増やすように)ポートフォリオを変更すると予想されていた。例えば低い税率の下では欠損金や(IRAなどに対するような)その他の控除の価値が貴重ではなくなる。(税制上、多くの点で有利な)持ち家は賃貸に対して魅力を失う。配当や利子は税率の低いキャピタル・ゲインや非課税の地方債と比較して魅力を増す。これらすべての要因は(例え税率の引き下げによる経済拡大効果を除外したとしても)課税所得を大幅に増加させる強力な効果を持つと予想されていた。

注47 Canto & Miles (1981), Clotfelter (1983b), Gwartney & Long (1984, 1986), and Long (1982a, 1982b, 1984, 1990)を参照。この時の最高税率の引き下げは自動的にキャピタル・ゲイン税率も引き下げられることになった。キャピタル・ゲインの60%はこの課税から除外されていて差額として普通所得の税率で課税されていたからだ。

最後にサプライサイダーは(拡張的な)減税が施行されれば(政府)支出はある程度自動的に削減されるだろうと考えていた。彼らは失業手当などの支出は低成長が終わって雇用が増加すれば削減されるだろうと見ていた。よって財政赤字への影響は税収減の回収と支出の自動的な削減を考慮に入れなければならない。ラッファーが税収だけではなく法案が支出に与える影響も考慮に入れなければならないと強調した理由だ。この法案に対する初めての言及で彼は以下のように述べている。

注48 Johnson (1981), and Office of Income Security Policy (1975)を参照。

「この法案は現行の税率が持つ非生産性を部分的に修正することにより産出の大幅な増加へとつながるだろう。そして数年のうちに統合政府の財政赤字を削減するかもしれない」。

彼は州と地方を含むすべてのレベルの政府を想定して税収の還流の影響に関していつも語っていた。これは州と地方の政府は財政黒字を計上していたので重要な指摘だ。だからその部門での税収増は国の貯蓄に加わるだろう。1978に彼はこの点を押さえながら証言を行った。

注49 Baye & Parker (1981)もまたこの点を強調している。

「私が見た所ではこの法案により3年間で税率は一律で30%引き下げられる。(中略)連邦(*国全体の)のレベルでは(1年か2年の短い期間に)減税が労働、産出、雇用を増やすだけでなく(課税ベースを拡大させることにより)所得、利益、そして税収を実際に増加させるだろう。この税率の引き下げが州と地方の税収を大幅に増加させるだろうということは私には非常に明確だ。そこには不明瞭なものは何もない。所得、生産性、生産の増加が州と地方の税収を大幅に増加させるだろう。政府を全体で見れば税収は増加すると思われる」。

ラッファーはこれらの点(税率の引き下げから予想される影響として連邦政府の相対的な税収増、州と地方政府の相対的な税収増、政府支出の低下、民間貯蓄の増加)を1979の論文で一つにまとめた。彼は以下のように記している。

「重要な問題は税収が実際に増加するかそうではないかではなくて税収が「自動的に回収」されるかどうかにある。それ故、税率が変更された特定の収支だけを見るのではなく(支出や貯蓄など)その他の収支も見なければならない。その他の収支は税率が引き下げられたならば改善するだろう。経済活動の拡大は課税ベースを拡大して税率を変更していない税からの税収も増加させるだろう。統合政府の支出は失業の低下、貧困の削減、それによる福祉の削減により減少するだろう。同様に政府に雇われている者が必要とする実質の賃金は減少するだろう。税率が低下するので賃金が同じであれば税引き後の賃金は増加するからだ。以降もこのリストは続く。最後に、税率の引き下げにより(赤字を埋め合わせるために)貯蓄が増加する。大きく解釈すればこれらは減税が持つ自己回収機能と見做すべきだ」。

彼はこの法案や1981のレーガン減税の推計を行うことは一度もなかった。彼がレーガン減税は自己回収するに最も近い発言をしたのは1981の論文でのことで以下のように記している。

「提案されている各10%の税率の引き下げが(政府全体で見て)2年で自己回収されるだろうと結論することは妥当と思われる。それ以降の各減税も税の全体の収支に正の貢献となるだろう。3年目までにはこの案で最初に施行された減税から発生するであろう税収の純増が最後に実施される10%の税率の引き下げにより発生するであろう税収の純減を完全に打ち消すだろうと思われる。これら税収増のかなりの部分が州と地方の政府で発生するということは記しておかなければならない。これらの政府が抱えている赤字のすべてではなくても多くを埋め合わせるだろう」。

注51 Laffer (1981a: 21)を参照。Feldstein (1994a: 25)はこの文章をレーガン政権は税収増を一度も予想していないというAnderson (1988)による発言の否定として引用している。助言をしていたとはいってももちろんラッファーは政権にいたわけではない。すでに述べたようにレーガン政権の推計はフィードバック効果をまったく考慮しておらずその意味でCBOのものと同じだ。

これらのはっきりとしない発言はNorman Ture and Michael Evansが行った推計とは対照的だ。TureはKemp-Roth法案が(10年経った後でも)純減だと推計している。Evansの推計も似たようなものだ。

興味深いことにKemp-Roth法案の議会での最も強力な支持者は当時のDavid Stockman (R-MI)議員だった。彼はOMBの議長に任命された後、後にサプライサイダーと別れ財政赤字に取り憑かれるようになる。だが彼は1970年代には減税を支持し財政赤字を削減することを目的とした増税に反対するとよく発言していたものだった。例えば1978の3月1日に彼は以下のように語っている。

「財政赤字を削減することを目的とした増税はさらに適切ではない。増税は丁度景気刺激策が投資を「クラウドアウト」してしまうように産出を「クラウドアウト」してしまうだろう。これらのことを考慮すれば何十年も前から提唱されてきた新しい財政政策の考えを導入する時が来たということは明白になる。その考えとは限界税率の一律の引き下げだ」。

1978の6月14日の上院財政委員会での証言で彼はKemp-Roth法案が財政赤字とインフレを招くという考えをはっきりと否定した。

「そのような考えはこの法案に対する完全な誤解に基いている。我々は単なる減税を提案しているのではない。そうではなく我々はこれを経済のサプライサイド側に基づくまったく新しい財政政策への一歩と考えている。(中略)この法案が正しく理解されればそれらの恐怖を煽るような話はまったくもって正当化出来るものではないと私は委員会に提言したいと思う。需要側の政策である景気刺激策を供給側の政策である減税とインセンティブの重視で置き換えていると理解すればこの法案は4年以内に税収増を実現することが可能だ」。

彼が減税を擁護した機会は他にも数多くある。当時、彼と間近で一緒に仕事をしていたが彼がサプライサイド経済学にわずかでも不満を示したことなど私は一度も聞いたことがない。そしてこれはRonald Reaganが選挙で当選する見通しもほとんどなくまた彼がOMBの議長に任命されるはるか前のことだ。事実、彼は予備選でJohn Connallyを支持していてReaganを推しだしたのはConnallyが大統領選から退いた後のことだ。それ故、彼が指名を受けようと期待して減税を支持していたのではないと結論できる。

Reagan and After

1980にレーガン大統領はKemp-Roth法案を経済政策の柱として実質的に採用した。彼が最初に行ったことの一つは減税法案を議会に提議することだった。その時は初年度に539億ドル、1986年までに2217億ドルの税収減と推計されていた。フィードバック効果は仮定されていなかった。

興味深いことに昔ながらのケインズ派の経済学者の方がホワイトハウスよりも税収に関して楽観的だった。例えばRichard Musgraveはこの減税は需要の増加から税収減の18%をさらに供給の増加から税収減の30%から35%を回収するだろうと1981にJECで証言している。Lyndon Johnsonの下でCEAの議長を務めたGardner Ackleyはレーガン減税を好意的にケネディ減税と比較した(*省略)。

ラッファーはレーガン減税が自己調達するまでには10年掛かるだろうとそしてKemp-Roth法案に対して彼が述べたこととも整合的だと証言した。興味深いことにBrookings InstitutionのJoseph A. Pechmanはラッファーの評価に大部分賛成した。ラッファーが証言したのと同じ議会公聴会で彼は以下のように述べている。

「私はラッファー氏が誇張しなかったのを聞いて嬉しく思う。彼が語ったことは税率を引き下げればまたは貯蓄や労働の報酬を増加させれば労働や貯蓄のインセンティブは増加するということだ。私はすべての経済学者がこれに同意すると思う」。

ここでもDavid Stockmanは財政赤字を削減するための減税の必要性を強く訴えている。税率区分の上昇と未だ高いインフレ率が原因で将来の税収見通しは数年後には黒字になると常に示す傾向があった。だが政府支出は常にそれよりも大きく増加していた。従って減税は政府支出の伸びを抑制するために必要だった。レーガン政権の狙いはそれであって予算の均衡ではない。Stockmanが上院財政金融委員会で以下のように証言している。

「これは私の非常に強い信念だがもし我々が減税法案を通すのに失敗すれば3年から4年以内に予算を均衡させることも現在直面しているこの巨額の財政赤字を削減することも無理だろうと思われる。もちろん機械で計算した机上の見通しを示す者はいてこのままインフレ率を高く保ち企業と個人に対する税率が上昇し続けるのを許容すれば1983か1984までには自動的に予算は均衡すると我々にひたすら説教をし続けるだろう。だがそれは単なる錯覚だ。それは機械で計算した見通しに過ぎない。それは現実世界では決して実現しない机上の空論に過ぎない。そのような予想が毎年され続けて少なくとも4年から5年が過ぎた。だがその財政が均衡すると云われた年度になったのに均衡予算は朝靄のように消えていってしまっているようにしか思われない。それには理由がある。主な理由は今日では税負担が大きすぎて経済が成長するのを妨げているということだ。経済の成長がなければ予算を均衡させることは出来ない」。

彼が財政赤字の問題を巡ってレーガン政権と別れてから相当の期間が過ぎた後でさえ減税は財政赤字の原因ではなかったと彼は認めている。何故なら減税がやったことといえばインフレによる自動的な増税を打ち消したに過ぎないからだ。1986の自身の本で彼は以下のように記している。

「カーター政権の税収の見通しはアメリカの歴史上最も長期間の税率区分の上昇に依存していた。だがインフレと税率区分の上昇で膨れ上がった税収の水準からスタートしてそれを4年か5年延長すれば人々を騙すのは容易い」。

「インフレ率が高かったのでレーガン減税は単に税率を現状維持に留めたに過ぎない。Kemp-Roth法案は単に税率区分の上昇を打ち消しただけだ」。

事実、幾つかの分析がレーガン減税は税率区分の上昇を完全に打ち消すのに十分な程規模が大きくなかったと指摘している(McKenzie1982a, 1982b; Meyer & Rossana 1981)。NYTはこの点(減税の規模が十分大きくなかった)を批判してさえいる。以降の分析もこのことを確認している。

注52 Andrianacos & Akarca (1998), Clotfelter (1984), Meyer (1983), and Tatom (1984)を参照。

大きな財政赤字の出現とともにサプライサイド効果の議論の答えは多くの人にとってはすでに出たように思われた。単純な因果の関係は明らかなように思われた。減税が施行されて財政赤字が出現した。だから減税が財政赤字を発生させた、だろう?

Lawrence Lindseyはレーガン減税の影響を予測と仮定に基づく見通しではなく経済の実際のパフォーマンスを考慮に入れて初めて計算を行った。その結果は税収減の25%が行動の変化により回収されたというものだった。CBOのエコノミストによる推計も同様のものだった。彼の最後の計算は需要側と供給側の効果を含めて税収減の3分の1が回収されただった。彼の言葉によると、

「では一体誰が正しかったのか?ケインズ派か?サプライサイダーか?答えは少なくとも部分的には両方だ。ケインズ派は税率の引き下げが需要を刺激すると主張した点では正しかった。その点をサプライサイダーは一度も否定していないが。需要側と供給側の影響は大まかにいって半々だろう。その一方で税収の結果はサプライサイダーの最も重要な主張を裏付けた。すなわち税率の引き下げは極めて大きな納税者の行動の変化を引き起こすというものだ。結果によって強く支持されたその主張はケインズ派の理論ともほとんどのケインズ派の予想とも直接的に対立する。併せた効果によりERTAが予想していた税収減の3分の1が回収された。極めて強力な反応だ」(*需要側の影響というのは間違いだろうが)。

Feldstein (1986: 29)も似たような結論を主張している。「税率の引き下げが労働のインセンティブと実質GNPに好ましい効果を与えたと証拠は示唆している。その結果、税収減は伝統的な推計が出したものよりも大幅に少なくなった」。

では減税が税率区分の上昇を完全に打ち消すには小さすぎてそしてフィードバック効果が税収減の多くを回収したのならば巨額の財政赤字は一体どこからやってきたのか?部分的には防衛支出とその他の支出からだろう。だがRoberts (1987, 2000)はそのほとんどは皮肉にも誰もが可能と思っていなかったインフレの抑制に大成功したことにあると論じている。

その当時の常識では仮に減税の形での新たな需要刺激がなかったとしてもインフレを1980の二桁の水準から一桁の低い水準まで抑えこむのに何年も掛かると言われていたことを思い出す必要がある。事実、単純なOkun's Lawの計算によるとインフレを許容可能な水準にまで抑えこむためには大恐慌に匹敵する何か(不況)を必要とした。

注53 Okun (1978)は基調となるインフレ率を1%低下させるのにはGNPの10%を犠牲にする必要があると述べている。

税は実質の所得ではなく名目の所得で評価されるので1980の12.5%から1982の4%へのインフレの下落は直接に課税ベースを縮小させた。レーガン政権はインフレが極めてゆっくり低下すると思っていたので(それでもあまりにも極端なまでに楽観的すぎると経済学者などから頻繁に攻撃されていた程だった)税率が引き下げられてもインフレによる税率区分の上昇により税収は増加するはずだった。インフレが政権の内外の誰もが可能と思っていなかった速度で低下した時には税収は必然的に予想をはるかに下回った。

注54 White House (1981: 25)は1981から1986のGNPデフレータの上昇を(合計で)36%だと予想していた。実際は21%だった。

この効果を念頭に置きながらカーター政権の最後の予算がインフレを1981に12.6%、1982に9.6%と予想していたのを見てみよう。インフレが予想を1%ポイント下回る毎に税収は110億ドル減少するとも予想していた。実際のインフレは1981に8.9%、1982に3.8%だったので予想を下回ったインフレだけで1981に410億ドル、1982に640億ドルが財政赤字に加わったことになる。これはその年度の財政赤字の半分に相当する。

財政赤字が1981の減税の刺激効果をすべて打ち消したと議論されてきた。だがこの極端な考えはほとんどの経済学者に共有されていない。レーガン大統領の批判者の多くですら以前では出来ると思われていなかった非常に少ない費用でインフレを急速に低下させたことは特筆に値すると渋々認めている。さらに1970年代の停滞の後の1980年代の成長と生産性の急回復は少なくとも部分的には減税の効果だろう。

1989にPaul Samuelsonは「1980年代の後半は経済の成功物語だったと歴史家は記すだろう」と認めている。クリントン大統領のCouncil of Economic Advisersでさえ1981の減税が成長を促した主要な要因だったと渋々認めている。「1980年代初期の減税が強力に経済成長を促進させたのは否定のしようのない事実だ」と1994の報告書に明記されている。

Conclusion

サプライサイド経済学に関して耳にすることが少なくなった理由はサプライサイダーがやろうとしていたことの多くがすでに達成されたからだ。すなわち1970年代に初めて登場した時には多くの論争を呼んだサプライサイド経済学の命題は今では経済の専門家の間では当然のこととして受け入れられているからだ。

注55 この見方はHenderson (1989)によっても共有されている。ハイエクがかつて述べたように経済の学派は「存在が空気のようになった時に最も成功を収めている。何故ならその概念が一般的になっている」からだ。

・膨大な量の研究が今では税と政府の規模が経済成長の重要な決定要因であることを説得的に示している。弾力性の値にはややばらつきがあるもののほとんどすべての研究が高い税と大きな政府が経済成長を低下させることを示している。

注56 Barro (1991), Carlstrom & Gokhale (1991), Engen & Skinner (1996), Grier & Tullock (1989), Heitger (1993), Karras (1993), King & Rebelo (1990), Koester &Kormendi (1989), Landau (1983, 1985), Marlow (1986), Martin & Fardmanesh (1990), Peden (1991), Peden & Bradley (1989), and Scully (1992)を参照。

・アメリカの税制の厚生費用は今ではものすごく大きいと考えられている。1970年代には経済学者はこのことにほとんど注意を払っていなかった。

注57 Ballard, Shoven & Whalley (1985a, 1985b), Browning (1987), Jorgenson & Yun (1991), and Stuart (1984)を参照。

・累進課税の経済費用は今では以前に考えられていたよりもはるかに大きいと考えられている。それによりフラットな税率を支持する声が高まった。

注58 Auerbach, Kotlikoff & Skinner (1983); Cassou & Lansing (2000); Caucutt, Imrohoroglu & Kumar (2000); Feldstein (1999); Gruber & Saez (2002); Hakkio &Rush (1989); Hunter & Scott (1987); Li & Sarte (2001); Marchon (1979); Padovano & Galli (2001); and Widmalm (2001)を参照。

・ラッファーカーブは経済学の査読誌で頻繁に取り扱われる議題だ。過去には批判的な記事もあったもののラッファーカーブが真剣に取り扱われるようになったのは過去25年で経済学者の考えに大きな変化があったことを示している。

注59 Becsi (2000); Bender (1984); Buchanan & Lee (1982); Fullerton (1982); Goolsbee (1999); Hemming & Kay (1980); Malcomson (1986); McGuire & Van Cott(2002); Peacock (1989); Sanyal, Gang & Goswami (2000); Shaller (1983); and Yunker (1986)を参照。

・労働供給は税率の変化にあまり反応しないとかつては言われていたものだ。今日では労働供給は以前に考えられていたよりもはるかに反応が大きいと認められている。

注60 1950年代初期にHarvard Business Schoolによって行われた一連の研究がかつては頻繁に引用されていた。これらは戦時の極めて高い税率が企業の経営陣にほとんど影響を与えていないとしたものだ。Sanders (1951)を見よ。1970年代の要約としてGodfrey (1975)を見よ。

注61 Aaronson & French (2002); Bianchi, Gudmundsson & Zoega (2001); Congressional Budget Office (1996); Gwartney & Stroup (1983); Hausman (1981,1985); Lindbeck (1982); Prescott (2002, 2003); Showalter & Thurston (1997); Triest (1990); and Ziliak, Kniesner & Holtz-Eakin (2003)を参照。

・世界銀行やIMFなどの国際機関は今では途上国の関税が有害な範囲にあることを認めている。すなわち関税の引き下げは税収を増加させると推計されている。同様の見方が税に関しても同様に言及されている。

注62 IMFは、「かなりの数の国が関税を税収最大化水準以上に据え置いている。これらの国は少なくとも初期には税収を大きく損なうことなく自由化出来る」と結論している(International Monetary Fund 1999)。最近の世界銀行の研究は同様の結論に達している。「関税がある水準を上回ると関税をさらに引き上げても税収は増加しない(むしろ減少するという証拠がある)」(Pritchett & Sethi 1993)。

注63 「シュミレーションの結果は(中略)課税ベースの拡大と失業保険の受給者の減少の結果として長期には税率の引き下げによって財政赤字が縮小するような「自己回収」が存在することを示している」(Rijckeghem 1997)。Dabla-Norris & Feltenstein (2003),Gandhi (1987), and Marsden (1983)も参照。

・サプライサイド経済学の批判者でさえ減税による税収減のかなりの割合が回収され減税の純費用は軽減されると渋々認めている。そして増税はその向きが反対であり増税の純費用は加重されるとも渋々認めている。あるリベラル派は今では自分達自身の政策を「サプライサイド」と分類している。

注64 「説得力の高い証拠が減税からのフィードバックによって例えば1ドルの減税に対して35セントが回収されることを圧倒的に示している」(Chimerine 1996)。Auerbach (1996, 2002),Auten & Carroll (1999), Bartlett (1994b, 1996, 1997), Congressional Budget Office (1982), Feldstein (1994b), Goolsbee (2000), Krugman (1995), Lindsey (1986), Lyon (1996), and Sammartino & Weiner (1997)も参照。

注65 1996にJoseph Stiglitzはクリントン政権はサプライサイド経済学を実行していると主張している。「私の政策はサプライサイド経済学だ」と彼は語っている(Uchitelle 1996)。

1995のルーカスの論文もサプライサイド経済学を支持するものとして挙げることが出来るだろう。1990のあまり知られていない論文で彼は自分が生まれ変わったサプライサイダーだと宣言している。

「私はこの論文を「サプライサイド経済学」の分析的な批評と呼ぼうと思う。この用語はアメリカでは税の変化が資本の蓄積に与える影響に関する突飛な主張と受け取られている。ここで私が批評した分析はだがサプライサイド経済学の主張を支持している。私にとっては保守的と思える仮定の下でもキャピタル・ゲイン課税の廃止によって資本ストックが35%増加すると私は推計した。(中略)サプライサイドの経済学者は私がここで取り上げた経済学者に対する正しい名称かはともかくとして私がこの世界に入ってきた25年の中で最大で本物のフリーランチをもたらした。そして我々が彼らのアドバイスに従うのであればより良い社会を形成できると私は信じている」。

注67 Lucas (1990: 314)を参照。Lucas (2003)も参照。

私にとっては1989のAmerican Economic AssociationでのJoseph A. Pechmanの演説がいつも心に残っている。サプライサイド経済学がこれほどまでに深く主流派の仲間入りを果たしたのだということが。Pechmanは長きに渡って課税の経済学の主流派を為していた。多くの本と論文で彼は極めて累進的な税制を強く支持していた。だから以下のような告白をしなければならなかったのは彼にとって苦痛だったに違いない。

「連邦所得税は10年以上に渡って経済の専門家から攻撃を受けてきた。攻撃は2つの方向からやって来ていた。累進課税は経済のインセンティブを損なうと考えるサプライサイダーと所得税を支出税と置き換えることを好む経済学者の一派からだ。(中略)今日では多くの経済学者が支出税またはフラットな所得税を好むといっても過言ではないと思う。この集団は累進課税の反対者に加わることになった」。

もちろんサプライサイド経済学には未だに(勘違いした)批判者もいる。ロンドンのFinancial Timesの経済評論家のGerard Bakerはサプライサイド経済学を「いかさまの理論だ」と呼んだ。だがNYTのFloyd Norrisはより賛同的だ。

「20年前にサプライサイド経済学は価値のある仕事を行った。彼らは財政的に保守的として選挙に当選した新しい大統領に税率を引き下げるように説得し、減税しても財政赤字は発生しないと主張した(この程度がリベラル派の代表的なコラムニストと呼ばれる人間のレベル)。低い税率は奇跡のような力で高い税収をもたらすだろうと彼らは言った。その主張は間違いだった。だがそれにも関わらずそれは良い考えだった。当時のアメリカは経済的に苦境の時で減税は当時苦しんでいた人達の真の助けとなった。減税は深刻な不況を終わらせる手助けとなった」。

最後にRichard Gephardt (D-MO)議員の発言を引用しようと思う。彼は共和党の経済政策の支持者という訳ではない。その彼でさえ今では減税によって実際に税収が増加すると考えているということは印象深いだろう。2002の1月27日のMeet the Pressのインタビューで彼は減税に対して以下のように述べている。

「減税の目的は特定の時期(不況期の意味)に減税を行うことだけではない。減税は経済を成長させるためのものだ。経済をより成長させることが出来れば政府に入って来る税収も増加する。それが予算も経済も拡大させる相乗的な過程だ」。

政治の世界ではそれは賛同と呼ばれる。

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