2016年7月12日火曜日

白人がインディアンを虐殺したというのは嘘だった?

Exposing Politically Correct Historical Lies

Darrin Weiner

政治的には正しい?が歴史的には間違っている2つの嘘を正す。

数年前に私はロサンゼルスの公立学校で歴史として教えられていたデタラメを肯定する記事を書いていたロサンゼルス・タイムズへ反論した。この偽歴史で最も皮肉なのは、これが教えられるようになったのはヒスパニック系の活動家が原因のようだが、それが結局は白人史観の別バージョンに過ぎないということだろう。コロンブスの時代から、技術的に優れた白人が世界の大部分を征服したと教えられている。ロサンゼルス・タイムズの記事にあるヒスパニック系の偽歴史も白人が現地人を征服したという話の別バージョンにすぎない。唯一の違いは、それが悪いことだと教えられていることだ。だが白人が現地人を征服したという単純な見方は実際とは異なる。

歴史の事実を知りたければ、イギリスの歴史家Jeremy Blackの「WAR AND THE WORLD 1450-2000」が参考になる。征服と云われていたほとんどの事例は白人とそれに協力した現地人との同盟による勝利であったことが理解できる。彼らには自分たちを征服して残忍なまでに抑圧した現地の帝国を打ち倒すという、白人に協力する理由があった。

例えば、コルテスが馬と銃で武装したほんの数人の白人とともに広大なアステカ帝国を滅ぼしたという話を歴史で習ったことだと思う。事実は、コルテスとほんの数人の白人と数十万人の現地人が恐怖の象徴であったアステカの抑圧者を打ち倒した。

事実は、白人が来る前から北アメリカのインディアンたちはお互いに対して激烈な戦争を繰り返していた。この戦争と抑圧の中でも、アステカは最も残忍で最も野蛮だと恐れられていた。アステカは白人よりも遥かに恐れられていた。

もちろん最終的にはスペインが中央アメリカと南アメリカを支配した。だがスペインの支配は、ひどい時もあったが、アステカよりも明白にましなものだった。アステカは征服した現地人に対して毎年20万人もの「奴隷」を献上するように命令していたので憎まれていた。「奴隷」と強調したのは、アステカが彼らを本来の意味での奴隷にしていたのではなくアステカの神への生け贄として恐ろしい拷問によって殺害していたからだ。

対照的に、スペインの支配の残酷さはスペイン人の修道士らの介入により頻繁に抑えられていた。

インディアンに対して天然痘を故意にばらまいて虐殺を行ったという俗説がある。多くの現地人が天然痘によって亡くなったというのは事実だ。だがそれは故意によるものではない。事実、スペイン人も天然痘によって多くの人が亡くなっている。インディアンの被害がより大きかったのはスペイン人が数世紀も天然痘の流行にさらされてきたことによって身につけた耐性を持っていなかったためだ。

スペイン人は決して故意に天然痘をばらまいたりしたことなどなかった。そもそもスペイン人も天然痘を恐れていた。スペイン人は現地人を労働力として生かしておきたいと願っていた。

さらに、白人は奴隷制をアメリカ大陸に持ち込んでいなかった。

アメリカ南西部とメキシコ北部で特に、日常的に襲撃と交戦を繰り返していた現地人はコルテスが現れる数世紀も前から奴隷制を行っていた。白人が始めたのは南米と中米での黒人の奴隷制だ。皮肉なことに、これは宣教師が現地人を心配した結果であった。現地人の奴隷を開放することによって、アフリカから黒人が奴隷として連れてこられるようになるというのは宣教師たちの予想の範囲外だった。

その結果として、本当の意図的な天然痘による虐殺の唯一の事例が300年後に起こった。18世紀のイギリスの将軍Lord Amherstは天然痘の被害者が使用していた毛布のようなものをばらまいた。これにより数万人のインディアンが亡くなった。これは黒人の奴隷がすでにいたのでイギリスの植民地者が危険な存在だったインディアンを排除しない理由が弱くなったために起こったと考えられている。

Emily Morgan, the “Yellow” Rose of Texas

今では多くの無知なメキシコの活動家にとっては英雄と見做されているようだが、Antonio Lopez de Santa Annaは完全な裏切り者だった。それも、薬に溺れて国民を繰り返し虐殺した臆病な独裁者だった。その上、エゴイストだった彼は自分のことを皮肉にも「西のナポレオン」と呼び、重要な戦いという戦いに次々と敗れていった(他にも「The Victor of Tampico」とか「The Savior of the Motherland」と自分のことを呼んでいた)。

彼はスペイン側の兵士としてメキシコの独立を阻止するための戦いに初めの10年間参戦していた。だがメキシコ独立運動の擁護者のフリをしていた方が利益が得られると気が付いた時にその立場を変えた。

最終的には、彼はメキシコの大統領に選ばれた(1833年)。彼は国家の運営になど興味を持っていなかった。だから改革派の副大統領Valentin Gomez Fariasにすべてを任せた。Gomez Farasは汚職を徹底的に排除しようとした。そのため軍部、地主、カトリック教会の多くの権力者を怒らせた。彼らが不満の声を挙げるとサンタ・アナはGomez Fariasを解任し、自由主義の憲法を無力化し、議会を解散させ、中央集権主義を強めた。メキシコ人には民主主義は「早すぎる」というのが彼の説明だった。昔から暴君がよく使うレトリックだった。

偏狭な考えに毒されていることから、南アメリカの人たちは彼のテキサスの喪失をアメリカの拡大主義のせいだと見做した。実際のところはテキサスでの軍事行動が、彼が憲法を破壊したことに反発して独立をしようとしていたメキシコの州に対する最後の軍事行動となった。他の州に対しては、反対者の組織的な抹殺と反発する国民への虐殺により彼は独立運動の鎮圧に成功した。これは、アラモ砦を制圧してゴリアドで虐殺を行ったことからも分かるように、彼がテキサスでも採っていた戦略だった(分かりやすく言うと、自由憲法を破棄したことに激怒したメキシコの州が一斉に独立運動を開始、それを虐殺によって次々に鎮圧、テキサスだけがそれにもめげずに独立に成功、マルクス主義者だらけだった南アメリカでは偽の歴史が教えられ反米プロパガンダに用いられていた)。

ゴリアドの戦いの後、彼は900人の遊撃隊に略奪や様々な破壊行為を行いながらサム・ヒューストンを追い詰めるようにと命じた。

Emily Morganは高い知性を持った魅力的なムラートで、彼女は主人に自分の土地の管理を任されていたほどだった。(メキシコ人によって誘拐されメキシコ軍に従軍しサンタ・アナと行動を共にするようになった彼女は)彼が寝込んでいる隙に、少年を送りメキシコ軍の情報をサム・ヒューストンに伝えた。彼はすぐさま兵士を集め、数は多いが戦闘の準備は出来ていなかったメキシコ軍に奇襲を仕掛けた(サンタ・アナの部下は危険な場所にキャンプを張っていると彼に警告していた。だがEmilyに夢中だった彼はそれを無視した)。

奇襲を受けた時、彼は下着姿一枚で捕らえられた。彼はEmilyのドレスの中に隠れていたがすぐに捕らえられた。自分の身を守るために、彼は虐殺の責任を他人になすりつけた。サム・ヒューストンは恐らく真実を知っていただろうが、メキシコの大統領として、テキサスの独立を宣言する条約にサインすることと引き換えに彼を保護した。彼はそれに喜んでサインした(メキシコ政府は彼を大統領とは最早認めず、条約は無効だと主張した。だがその時にはすでに遅かった)。

ここでいう「アメリカ大陸の人々」もしくはテキサス人にはメキシコ人が多く含まれていた。無数のメキシコ人がアラモとゴリアドで虐殺された。他の無数の人々はアメリカ人の捕虜のフリをすることによって生き延びることが出来た。

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