2016年7月12日火曜日

アメリカはほとんど奴隷貿易を行っていなかった?

The Myths of American Slavery

Michael Kimmitt

スミソニアン博物館のNational Museum of African American History and Cultureの9月での開演が迫っている頃、博物館の館長、Lonnie BunchがCBSの「60ミニッツ」に出演した。Scott Pelleyは220年前に建設され多くの奴隷を運んだ奴隷船を求めてモザンビークを訪れた。

「奴隷の物語は私たち全員の物語です」とBunchはPelleyに説明した。「これは私たち全員が共有するべき物語なのです。このことをアメリカ人に教え、この問題に立ち向かい、語り、議論して欲しいと思っています」と彼は語った。

どうして21世紀のアメリカ市民がこの問題に立ち向かわなくてはならないというのか?他のアフリカ人に奴隷とされ殺害され、モザンビーク港からブラジル行きの奴隷船に乗るためにポルトガルへと強制的に連れてこられたアフリカ人と?実際にこの出来事に関わった人たちの子孫はまったく気にもすることなく無罪放免されているというのに?

Bunchが一つ重要な部分で間違えているということに気が付かれるだろう。奴隷制は全員の物語ではない。それはアメリカとアメリカ国民だけのものでなくてはならない。私たちだけが消せない傷を抱えるように求められる。そして奴隷制が廃止されて150年が過ぎているというのにこの罪を背負うように強要される。

それは、百年前に苦しんだ人への真の同情からではなく政治的優位を得ようとする人たちによって、たえまなく利用される。私たちは、一度も奴隷の主人になったことがない人々から一度も奴隷になったことがない人々へと賠償をすることによって安心を得ようとしている。

今週、ハリウッドでAlex Haleyの「Roots」の改作が発表された。非常に大々的なもので3つのテレビネットワークで4夜に渡って放映されたほどだった。Varietyマガジンはこの新しい連続ドラマが奴隷制の「残酷なまでの持続性」を「奴隷制の真の規模を教えられていない、もしくは奴隷制の規模やその延々と続く影響を故意に無視することを好むアメリカ人にとうとう真実を伝えたと示唆した。

だが、アメリカ人は奴隷制は1619年にヴァージニア州のジェームスタウンに20人のアフリカ人奴隷が送られた時に始まったと教えられている(実際には、彼らはメキシコのベラクルズが最初の目的地だった。ポルトガルを出発した奴隷船がイギリスの私掠船に拿捕されるまでは。彼らは契約使用人で最終的に開放されたと考えられている)。

この国で奴隷制の議論を始めるのであれば、アメリカは大西洋間の奴隷貿易において驚くほど小さな役割しか果たしていないという事実を認める所からすべての議論を始めなければならない。アフリカから連れてこられた1250万人のアフリカ人のうちで、アメリカに送られたのは38万8000人だとTrans-Atlantic Slave Trade Databasesは推計している。そしてそれらはすべてヨーロッパの旗を掲げた奴隷船だった。

では、ワシントンD.C.は奴隷制を議論するための博物館の場所として本当にふさわしい場所なのか?それとも他の場所を考慮すべきなのか?ここに、そのリストがある。

イラクのバグダッド。奴隷制は文書として保存されている歴史よりも古い。だが紀元前1760年頃のハンムラビ法典に最も最初の記述が残されている。

サウジアラビアのメッカ。7世紀頃から、ムハンマドの信奉者たちは中東一帯、北アフリカ、イベリア半島をイスラムの支配下においた。ヨーロッパ人の最初の奴隷がアフリカに到着する前に、アラブ人たちは1800万人のアフリカ人を奴隷としていた。奴隷制はアラビア半島では1962年まで非合法とされていない。

ナイジェリアのラゴス。アフリカの奴隷貿易はアラブ人やヨーロッパ人が訪れる前から行われていた。そして今日でも行われている。カメルーンの一部地域や北ナイジェリアでは人口の半数が奴隷だと云われている。1900年代の初期にナイジェリアだけで200万人以上の奴隷がイギリスによって開放されたと云われている。

リビアのトリポリ。North African Barbary Coastのイスラム教徒の海賊たちはアフリカ人を奴隷にしたに留まらなかった。地中海沿岸の都市もそのターゲットにしていた。125万人のヨーロッパ人とアメリカ人がそれらの海賊によって奴隷にされたと推測されている。それらの海賊行為に対してThomas Jeffersonはアメリカ海軍を送る羽目に迫られたほどだった。その時の出来事は「トリポリの出来事」として今も海軍で語り継がれている。

ポルトガルのリスボン。ポルトガルは、スペインとともにアフリカ人を新大陸(ここでは、特に中央アメリカ、南アメリカを意味する)に送り込んだ国として他を圧倒的に引き離している。そして奴隷の扱いの酷さでも有名だった。

ローマ。ローマの人口の35%から40%は奴隷だったと云われている。奴隷たちはローマ軍に従軍していた奴隷商人によってヨーロッパ全土から集められ取引された。

ロンドン。イギリスは19世紀初頭の大西洋間の奴隷貿易を減少させるのに鍵となる役割を果たしたが、それ以前にアイルランド人とアフリカ人の奴隷貿易に関与していた。1625年には、3万人以上のアイルランド人がジェームズ二世によって西インド諸島に奴隷として送られた。100年ぐらいの間に、50万人以上のアイルランド人が殺害されそれに加えて30万人が奴隷として売られた。それによりアイルランドの人口は60%以上減少した。数十万人というアイルランドの農民がジャマイカやバルバドス、イギリスの植民地などに送られた。250年ぐらいの間に、1万回以上のイギリスの船の航海によって500万人以上のアフリカ人が奴隷として新大陸(先述したようにアメリカではなく、南アメリカと中央アメリカ)に送られている。

メキシコシティ。スペイン人が訪れる遥か前からアステカとマヤ文明の国々では奴隷が用いられていた。これらの地域では、生け贄とカニバリズムが当たり前だった。数十万人もの奴隷が毎年殺害されていた。アフリカからの奴隷がメキシコに到着したのはアメリカよりもほぼ百年前だった。残虐な扱いに対する奴隷たちの反乱が早くも1537年に起こっている。最初のアフリカ人がアメリカに到着する82年前だった。

ブラジルのリオデジャネイロ。1532年に最初のポルトガル人の移住が始まる遥か前から、現地の部族たちはお互いを奴隷にしあっていた。だがすぐに、ブラジルは新大陸で最大の奴隷輸入国となる。480万人以上のアフリカ人が奴隷としてブラジルのプランテーションや金鉱で最も劣悪な労働環境で酷使された。ブラジルは西側で奴隷制を最も遅く廃止した国でもある(1888年)。

人間が存在したところ、奴隷が存在したというのは普遍的なルールだと結論できる。奴隷は中央アメリカと南アメリカで比較にならないほど遥かに残酷に行われていた。それらの地域では死亡率があまりにも高すぎて、アフリカからの継続的な輸入がなければ奴隷人口が消滅するほどだった。アメリカでは、男性と女性のバランスは均衡していた。よって、奴隷貿易が1809年に廃止された後でも奴隷人口は増加し続けていった(38万人から4170万人へ)。

ハーバード大学のHenry Louis Gatesはアメリカに来た奴隷の人数が少なかったこと、奴隷貿易においてアフリカ人の奴隷商人の果たした役割が大きかったことを指摘して同僚たちから猛反発を買った。

「あの人たちは私を殺害したがっているようだった」と彼は語った。「黒人は私に対してとても怒っているようだった。だが白人は悪く黒人は善良だといったような世界観から抜け出す必要がある。実際の現実はそのような単純なものではない」と語った。

これは、人種間の対立を扇動することに既得権を持つ人たちにはとても響くとは思われないメッセージでもある。

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