2016年12月25日日曜日

イスラム国はサダム・フセインによって生み出されていた?

How Saddam Hussein Gave Us ISIS

イスラム国の出現に対して誰を非難すべきなのか?多くの人は2003年のイラク攻撃の後にイスラム国は誕生した、発生したと誤解しているように思われる。実際には、このジハーディスト集団はその遥か前からサダム・フセインの手によって誕生していた。

フセインが主導的な役割を果たした1968年のクーデターによって権力の座に就いたナショナリスト政党のバース党は世俗的な側面を持っていた(世俗的とは否定的な意味ではなく、中東においては世俗的とは宗教的ではない、イスラム的ではないという意味でむしろ肯定的な意味で用いられる)。これはイラク国民にイスラム色が強まった1970年代にあっても保たれていた。だがフセインがイランを侵略した1980年のそのすぐ後からは事態が変わり始めた。

幾つかの戦術的な手段として、1980年代にはフセインはこの地域でのライバルだったシリアを不安定化させるためにイスラム主義者、特にムスリム同胞団と手を組んだ。とはいえその範囲は限定的なもので、その存在ももしかしたら否定されるかもしれない。だが1986年にはバース党のイデオロギーを決定する上で最大の意思決定機関であるPan-Arab Commandはイラクはイスラム主義者との同盟を目指すとの外交方針を公式に策定した。これが世俗主義からの初めての明確な逸脱だった。

世俗主義からの逸脱の一環として国内の「イスラム化」が推し進められた。体制派のメディアは「世俗主義国家」という呼称を捨て去り、イランに対する戦争を「ジハード」と表現するようになった。この変化はバース党の創設者でキリスト教徒でもあったMichel Aflaqが1989年に亡くなり、彼はイスラム教に改宗したとフセインが主張しだした後から加速していった。彼が生きていればイスラム化に対する障壁となってくれたことだろう。だが死した改宗者として彼は新しい方針のために利用された。

イスラム化のキャンペーンは1991年にイラクがクウェートで完敗した後にさらに過激になった。そしてその後のシーア派の反乱を鎮圧した1993年にフセインはバース党からすべての世俗主義的要素を捨て去ることにした。ある意味では、フセインは国民を扇動したのではなく国民に従ったということもできる。だが初めは国民からの支持を集めるための皮相的な試みとして始まったものが、フセイン政権がスンニ派部族の支持基盤に立ち戻っているうちに、手段ではなく目的となり始め、イラクをイスラム国家にそしてイラク社会に永続的な変化を与えた。

イラク政府はシャリア法のようなものを法律として定めるようになった。窃盗犯は腕を切断された、同性愛者は高い屋上から投げ落とされた、そして売春者は公衆広場で首をはねられた。数え切れないほどのモスクが建設された、コーランを研究することが国家的な優先事項となった、そして地方の宗教指導者たちには地域の指導者としての役割が与えられた。

Faith Campaignは宗派統一的だったと主張されている。だが明確にスンニ派に偏っていたためイラク国家とシーア派との間に溝を生み出し宗派間の対立を最終的で決定的なものとしてしまった。スンニ派の地域では当然のごとくこのキャンペーンは効果的でフセインの指導の下、私がバース・サラフィズム(バース党的なサラフィ主義)と呼んでいる宗教運動を生み出した。このキャンペーンはフセイン政権と長年フセイン政権と敵対していた「純粋な」サラフィ主義者などのような独立した宗教運動との間の対立をも緩和することになった。そして諜報機関の責任者からこの同盟を続ければサラフィ主義者がバース党を飲み込んでしまうだろうと警告されていたにも関わらず、フセインはサラフィ主義者たちを政権の幹部として迎え入れた。

このキャンペーンと並行して、フセインは経済制裁を逃れるための密売ネットワークを構築した。これはフセインを後方から支援するためのシステムとしても機能した。資金の大部分はモスクを通して、1991年のシーア派の反乱などの繰り返しに対する保険としてサダムに忠実なFedayeen Saddamやスンニ派の部族などの民兵を養うために送金された。地方の住民に深く定着している(特にイラク西側の部族などに)これらのネットワークは今ではイスラム国によって運営されていて「カリフ」を根絶やしにするのを難しくさせている。

このキャンペーンのあまり知られていない側面は、モスクに軍事諜報機関の職員が送り込まれていたことだ。この政策には大きな落とし穴があった。バース主義者が1990年代の後半をモスクで過ごしているうちに、彼らの多くはサラフィ主義へと感化されてしまった。フセインが政権の座から陥落する頃にはイラクの軍事部門、諜報部門はサラフィ派の影響を強く受けるようになっていた。

2003年の後のイラク軍の解体によって兵士の一部がスンニ派のゲリラに合流したというのは事実だ。イラクのアルカイダがCamp Buccaのような警備の弱かった刑務所を使って前フセイン政権の幹部などを勧誘していたことも事実だ。だがそれらはフセイン体制の下で体制全体が過激化、イスラム化されていたことと比較すれば些細な要因でしかない。

どこかのアナリストが言っているような、イスラム国内部でのフセイン体制派による「バース党のクーデター」などというものは一度もなかった。彼らはとっくの昔にバース主義を捨て去っていたからだ。彼らはイラクのアルカイダにすぐさま合流した。すでにイデオロギーが同じであったためだ。そして2008年から2010年にイラクのアルカイダがほとんど壊滅状態に陥ると、彼らだけが取り残されることになった。彼らのほうが諜報活動や軍事活動に優れていたためだ。

イスラム国を率いていたのはこれらのサラフィ主義に感化された軍事諜報機関の軍人たちだった。そして彼らを率いていたのは2003年にこのグループに合流しイスラム国をシリアにまで拡大することを主張し2014年に殺害されるまではカリフの座を自称していたSamir al-Khlifawiだ。そこで、彼らはサダム・フセインスタイルの独裁体制を築き上げ2014年のジハーディストたちによるイラク侵略のための活動拠点とした。

「攻撃の頃には、イラクはまったく違う国になっていた」と「Saddam Husayn and Islam, 1968-2003」の筆者であるAmatzia Baramは語っている。「イラクは大多数が世俗的な国民で構成され現代的な世俗主義のエリートたちによって形成される比較的宗教色の弱い社会では最早なくなっていた。過激な宗教国家への道を突き進んでいた」。

フセインは宗教色の強い軍隊や宗派間の対立を抑えようとなどしていなかった。むしろそれらを生み出した張本人で、武装したサラフィ主義運動を完全に奨励していた。フセインが自身への支持を確保するためもしくは新たな反乱を封じ込めるためイラク全土に張り巡らせた部族、犯罪者のネットワーク、民兵組織、各種の貯蔵庫などは武装組織たちの絶対的な活動物資となった。

イスラム国はサダム・フセイン体制を取り除いたから生まれたのではない。彼らはフセイン体制の悪夢の続きだ。

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