イスラム国の出現に対して誰を非難すべきなのか?多くの人は2003年のイラク攻撃の後にイスラム国は誕生した、発生したと誤解しているように思われる。実際には、このジハーディスト集団はその遥か前からサダム・フセインの手によって誕生していた。
幾つかの戦術的な手段として、1980年代にはフセインはこの地域でのライバルだったシリアを不安定化させるためにイスラム主義者、特にムスリム同胞団と手を組んだ。とはいえその範囲は限定的なもので、その存在ももしかしたら否定されるかもしれない。だが1986年にはバース党のイデオロギーを決定する上で最大の意思決定機関であるPan-Arab Commandはイラクはイスラム主義者との同盟を目指すとの外交方針を公式に策定した。これが世俗主義からの初めての明確な逸脱だった。
世俗主義からの逸脱の一環として国内の「イスラム化」が推し進められた。体制派のメディアは「世俗主義国家」という呼称を捨て去り、イランに対する戦争を「ジハード」と表現するようになった。この変化はバース党の創設者でキリスト教徒でもあったMichel Aflaqが1989年に亡くなり、彼はイスラム教に改宗したとフセインが主張しだした後から加速していった。彼が生きていればイスラム化に対する障壁となってくれたことだろう。だが死した改宗者として彼は新しい方針のために利用された。
イスラム化のキャンペーンは1991年にイラクがクウェートで完敗した後にさらに過激になった。そしてその後のシーア派の反乱を鎮圧した1993年にフセインはバース党からすべての世俗主義的要素を捨て去ることにした。ある意味では、フセインは国民を扇動したのではなく国民に従ったということもできる。だが初めは国民からの支持を集めるための皮相的な試みとして始まったものが、フセイン政権がスンニ派部族の支持基盤に立ち戻っているうちに、手段ではなく目的となり始め、イラクをイスラム国家にそしてイラク社会に永続的な変化を与えた。
Faith Campaignは宗派統一的だったと主張されている。だが明確にスンニ派に偏っていたためイラク国家とシーア派との間に溝を生み出し宗派間の対立を最終的で決定的なものとしてしまった。スンニ派の地域では当然のごとくこのキャンペーンは効果的でフセインの指導の下、私がバース・サラフィズム(バース党的なサラフィ主義)と呼んでいる宗教運動を生み出した。このキャンペーンはフセイン政権と長年フセイン政権と敵対していた「純粋な」サラフィ主義者などのような独立した宗教運動との間の対立をも緩和することになった。そして諜報機関の責任者からこの同盟を続ければサラフィ主義者がバース党を飲み込んでしまうだろうと警告されていたにも関わらず、フセインはサラフィ主義者たちを政権の幹部として迎え入れた。
このキャンペーンのあまり知られていない側面は、モスクに軍事諜報機関の職員が送り込まれていたことだ。この政策には大きな落とし穴があった。バース主義者が1990年代の後半をモスクで過ごしているうちに、彼らの多くはサラフィ主義へと感化されてしまった。フセインが政権の座から陥落する頃にはイラクの軍事部門、諜報部門はサラフィ派の影響を強く受けるようになっていた。
どこかのアナリストが言っているような、イスラム国内部でのフセイン体制派による「バース党のクーデター」などというものは一度もなかった。彼らはとっくの昔にバース主義を捨て去っていたからだ。彼らはイラクのアルカイダにすぐさま合流した。すでにイデオロギーが同じであったためだ。そして2008年から2010年にイラクのアルカイダがほとんど壊滅状態に陥ると、彼らだけが取り残されることになった。彼らのほうが諜報活動や軍事活動に優れていたためだ。
イスラム国を率いていたのはこれらのサラフィ主義に感化された軍事諜報機関の軍人たちだった。そして彼らを率いていたのは2003年にこのグループに合流しイスラム国をシリアにまで拡大することを主張し2014年に殺害されるまではカリフの座を自称していたSamir al-Khlifawiだ。そこで、彼らはサダム・フセインスタイルの独裁体制を築き上げ2014年のジハーディストたちによるイラク侵略のための活動拠点とした。
「攻撃の頃には、イラクはまったく違う国になっていた」と「Saddam Husayn and Islam, 1968-2003」の筆者であるAmatzia Baramは語っている。「イラクは大多数が世俗的な国民で構成され現代的な世俗主義のエリートたちによって形成される比較的宗教色の弱い社会では最早なくなっていた。過激な宗教国家への道を突き進んでいた」。
イスラム国はサダム・フセイン体制を取り除いたから生まれたのではない。彼らはフセイン体制の悪夢の続きだ。
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