2016年5月23日月曜日

どうしてポール・クルーグマンの言うことは面白いように外れるのか?

How many more populist “victories” can we survive?

Scot Sumner

Salonは2月のギリシャ政府との合意をギリシャの勝利だと報じている。

「ギリシャの左翼政権が債権者との新たな合意に達した1週間後、Paul Krugmanはこの合意に対する左翼側の批判は誤りに基づいたものだと主張している。実はギリシャ側が勝利した内容だと議論している」。

そしてそのPaul Krugmanがアルゼンチンの「特筆すべき成功」と議論していたものに関する2012年のコラムがある(今回も爆笑もののコントが展開される)。

「アルゼンチンに滞在していたMatt Yglesiasは1ペソを1ドルと等価に保つ政策からの離脱以降の同国の回復から得られる教訓と題した記事を書いた」

「ここでは他のものを付け加えたいと思う。アルゼンチンに関する報道は基本的な事実を正しく理解するのに、通説と呼ばれているものがどれ程有害な効果を与えているのかを示す好例となっている。我々は頻繁にアイルランドが不況から回復したという話を聞かされる。実際には回復など存在しないというのに。彼らの論理はこうだ。アイルランドは回復しているはずだ。何故ならばアイルランドは正しいことを行っている。よってそれを報道するだけでよい」

「その逆に、アルゼンチンに関する記事はほとんど悲観一色だ。彼らの論理はこうだ。アルゼンチンは無責任だ。アルゼンチンは幾つかの産業を再び国有化している。ポピュリズムを極端なまでに扇動している。よってアルゼンチンの経済は非常に悪いに違いない」。

公平を期すと、アルゼンチンは金融緩和の後にその経済は急激な回復を見せていた(その点では彼に同意している)。対立があるのは彼が長期の問題であるサプライサイドの問題を極端なまでに軽視していることだ。すでに長期が到来しているみたいで、アルゼンチンの経済は彼が3年前にコラムを書いて以降不況(デマンドサイドとは関係がない)に陥っている。そして2015年は悲惨なことになるだろう。

同じコラムの中で、彼はアルゼンチンよりはましなもののそれでも絶望的なほどに国家統制主義的なブラジルの経済のことを褒め称えている。

「明らかなことに、ブラジル経済は非常に好調だと私は考える。そして経済政策に関するリーダーシップも適切だ。だがどうしてブラジルは印象的な「BRIC」だと評価されてアルゼンチンはいつも軽んじられるのか?実際には我々はその理由を知っている。だがそのようなことは経済のレポートの中には記述されないだろう」。

どうしてアルゼンチンが軽んじられているかだって?それは恐らく我々の中にはケインズ派のようには需要に取りつかれていない人間がいるからだろう。我々はアルゼンチンに大きな問題が迫っているのを知っている。ところで、この惨状を生み出した(頭の弱い人間だけがヘッジファンドに債務の返還を求められたせいだと思っている)アルゼンチンの大統領は2010年に死去して、彼の妻にこの惨状が引き継がれた。ブラジルも彼が褒め称えて以降、非常に危険な状態に陥っている。そして以下のリンク先の経済予測は2015年のブラジル経済の見通しを「恐怖だ」と呼んでいる。需要を刺激することによってこの状況が改善されるわけでもない。ブラジルとアルゼンチンはすでに高率のインフレに襲われている。

ここに来年度のラテンアメリカ経済の見通しがまとめられている。

「多くのラテンアメリカ諸国は今年も成長率の二分化に直面するだろう。端的に表現すると、2つの海洋で区分できるということが出来る。大西洋側でありラテンアメリカで最大の大きさを誇るアルゼンチン、ブラジル、ベネズエラは0.2%、0.9%、5.5%経済が縮小するだろう。それがLatinFocus Consensus Forecastsのパネリストたちの予想だ(アルゼンチンはインフレ率を大きくごまかしているので実際のアルゼンチンの不況はもっと凄まじい可能性がある)。その一方でチリ、コロンビア、メキシコ、ペルーは2.9%、3.4%、2.9%、3.5%経済が拡大するだろうと予想されている」。

ちょっと待ってほしい。どちらの側がより国家統制主義的な経済だったかを今思い出そうとしているところだ。ラテンアメリカの大西洋側だったか太平洋側だったか?この次の段落にはその答えが書かれている。

「この分割はこれらの国々がまだ不況ではないアジアの方を向いているか未だに不況のヨーロッパの方を向いているかということにはほとんど関係がない。この違いは資源価格の高騰と外国からの直接投資の流入によって生み出された好況だった頃に取っていた各国の政策に大きな違いがあったことが最大の理由だ(よくやり玉に挙げられるしばき上げと呼ばれるものが勝利するという当然ながらも皮肉な結果に)。この好況期に、大西洋側の国々は支出を増やす一方で貯蓄をせず逆にラテンアメリカの太平洋側の国々は投資を増やした。さらにラテンアメリカの大西洋側の国々は政府が積極的に経済に介入を行った結果企業の利益は減少し投資が妨げられることになった。これとは対照的にラテンアメリカの太平洋側の国々は投資家が歓迎するような構造改革を行っていた」。

だがイデオロギーにとらわれていない人には強力に見える上記のような証拠も何の意味も持たない。共和党のサプライサイド側のアプローチを採用したラテンアメリカの太平洋側の国々の方が良い結果を残すことなど天地がひっくり返ってもあり得ないと散々非難されてきたのではなかったのか?もちろんKrugmanはチリの自由経済の成功と云われているものは単に「シカゴボーイズによるファンタジー」だと主張した。

「実は彼らにとって都合の悪いことがある。ピノチェトの経済政策は伝えられているよりも遥かに曖昧だ。だが現在ではシカゴボーイズが登場して、自由化を行い、チリに好況がもたらされたと語られるようになっている」

「だが、上のチャートから分かるように、実際に起こったこととはこのようなことだ。チリは1970年代に大規模な経済危機に襲われた。それは部分的にはアレンデ政権が原因だった。それから巨額の資本が流入しチリの経済は不況によって失われたGDPを大部分回復させた。1980年代にチリは再び大規模な経済危機を迎えることになった。今回はチリだけではなくラテン諸国全体が危機に襲われたのだが、チリのダメージは他の国よりも遥かに大きかった。チリが1970年代初めのGDPをはっきりと上回ったのはその頃までには自由主義政策が大きく緩和された1980年代の後半になってようやくだった」。

ミルトン・フリードマンの変動相場制に移行せよとの助言を無視したことにより、シカゴボーイズが1980年代初期にチリを混乱させたのは事実だ。だが自由主義政策の緩和と云われているものとは一体何のことだろうか?ここには1975年にシカゴ流の改革が始まって以降のFraser Instituteが作成しているチリの経済自由度のランキングがある(指数は最大で10までで括弧の中身はランキングだ)。

1975:    3.60  (71)

1980:   5.38  (48)

1990:    6.78  (27)

2000:   7.41  (33)

2010:   7.94   (7)

「ファンタジー」があるとすれば、チリが1970年代の後半以降自由主義政策から転向したという考えだろう。

恐らくブラジルは貧困が著しい北東部の沿岸地域にPaul Romerが提案しているようなチャーターシティを建設してみても良かっただろう。フリードマンが軍事独裁的なピノチェト体制にアドバイスしていたのと同じ頃にフリードマンからアドバイスを受けた他の国がフリー・トレード・ゾーンを採用したことを知っているだろう。この体制はピノチェトよりも遥かに暴力的であったにも関わらず、このアドバイスに対して奇妙なことにフリードマンは左翼からまったく批判を受けなかった。恐らくこの体制が数千万人を虐殺している時に、あまりにも多くの左翼の著名な知識人がこの体制を何十年にも渡って称賛し続けていたという事実を隠しておきたいからだろう。どこの国か分かるだろうか?ヒント、アルファベット順でチリのすぐ後にある(中国の改革開放政策はフリードマンのアドバイスに影響を受けたことが知られている)。その国の最大のフリー・トレード・ゾーンの大通りは1981年ではこのような状態だったのが現在ではこのようになっている。



以下、寄せられたコメント。

Patrick R. Sullivan

「実は彼らにとって都合の悪いことがある。ピノチェトの経済政策は伝えられているよりも遥かに曖昧だ。だが現在ではシカゴボーイズが登場して、自由化を行い、チリに好況がもたらされたと語られるようになっている」。

このような馬鹿げた主張はとっくに反証されている。James Rolph Edwardsの「Painful Birth: How Chile Became a Free and Prosperous Society」という本にはチリの内情が事細かに記されている。

これは私のレビューだが、

『チリの小説家Alberto Fuguetがインタビューで答えているように、チリの「隠しておきたい秘密」とは、ピノチェトがチリを「カストロ流のマルキスト国家に変えようと試みていた以前の統治者たちからの贈り物のようなものだったということだ。違いは、以前の統治者たちがチリを変えたというのではなく、彼が変えたというところだ」。Fuguetによると、彼はチリを「近代的で、開放的で、自由な社会に変えた」。それが彼の意図であろうとなかろうと、彼が制度化した経済政策(見えざる手)によってそうするように導かれたのだろう。

『「James Rolph Edwards」のこの短い本はそれらの経済政策が実際にはどのようなものであったかを説明している。モンタナ州立大学の経済学者である彼は非常に簡潔に、だが専門用語はほとんど用いることなくこの本を書き終えている。読者は、アレンデが敷いた価格コントロールの廃止がチリの店頭に再び物を並ばせるようになったことを知るだろう。国有化された産業の民営化が経済に正しいインセンティブ構造を回復させたことを知るだろう。政府支出の削減が中央銀行からマネタイゼーションの必要性を奪ったことを知るだろう。他にも政府による様々な経済の阻害要因があったことが記されている。これはとても誠実さに溢れた本だ」。

Patrick R. Sullivan

Paul Krugmanにはこのまま間違った主張をさせ続けておいた方がよいと思う。

「チリは1970年代に大規模な経済危機に襲われた。それは部分的にはアレンデ政権が原因だった」。

部分的に?恐らく彼は残りの部分はミルトン・フリードマンがピノチェトに対してたった一度のしかも45分の会談で与えたよりも遥かに遥かにアレンデ政権にアドバイスを与えていたフィデル・カストロのせいだと言いたいのだろう。そして彼らはどうすればチリのハイパーインフレを終わらせることが出来るのかを話し合った。

1971年に、カストロは多くのチリ人の反感を買いながらもチリで1か月を過ごした(彼に対して空っぽの入れ物を見せつけるデモが行われた)。後に彼はフランスの大使に対してこのように語っていたという(Pablo Nerudaの政治的庇護者でチリの大使Jorge Edwardsによる言葉)。「アレンデはブルジョア階級による強固な政治支配を打破することなくしては彼の政策を実行することは出来ないだろう」。

Patrick R. Sullivan

ヒラリー・クリントンが選挙戦を戦っている現在、一時的にホンジュラスの指導者となったRoberto Michelettiが振り返った2009年の危機の回顧録が思い起こされる。ヒラリーは彼に特使を送っていた(Dan Restrepo)。

http://panampost.com/elena-toledo/2015/05/04/ex-president-micheletti-honduras-hellbent-on-repeating-2009-crisis/

———-quote——–

ヒラリーはZelayaに権力を渡すように私に言ってきた。だが幸運なことにAlejandro Peña Esclusaと呼ばれるベネズエラ人が私にこのように語ってきた。「大統領、あなたはZelayaに権力を渡してはなりません。何故ならばそのアメリカ人は以前にも我々を欺いたことがあるのです。彼女は我々にチャベスに権力を再び戻すべきだと言いました。そしてどのようになるのかを見ようではないかと」。そのアメリカ人が私にそのように言ってくる時にはいつでもこのことが思い出される。

彼女のアドバイスを聞き入れれば数百万人のホンジュラス人が苦境に立たされることになるだろうと私は信じている。そのアメリカ人は(国内の)左翼にこびへつらうためにチャベスのご機嫌伺いをしている。だが我々は、この21世紀の社会主義の茶番劇を主導したベネズエラが現在どれ程悲惨なことになってしまっているのかをとっくの昔に見てしまっている。本来であればアメリカ大陸で最も豊かになっていてもおかしくない程の石油埋蔵量を誇る(サウジの埋蔵量を上回ると云われている)ベネズエラの国民が貧困層、富裕層共に食べる物にも苦慮しているのだから。

メキシコとホンジュラスを除いて、ベネズエラ、エクアドル、ボリビア、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ニカラグア、エルサルバドル、これらはすべて左翼政権であることを覚えておく必要がある(左翼がこれらの国々を称賛して皆がこれに倣うべきだと扇動していたがこれらの国々が悲惨なことになるとさっさと逃げ出して知らない振りを始めたのは言うまでもない)。チャベスの計画は50万人の中央アメリカ票を用いてメキシコの左翼指導者Manuel López Obradorを当選させることにあった。だが彼の計画がホンジュラスで失敗した今ではそれを実行することは出来ないだろう。

———endquote——-

Patrick R. Sullivan

「不人気な改革が危機の時に実行されれば改革の印象が悪くなるだろう。ピノチェトのチリはその好例だ」。

間違いだ。ピノチェトはアレンデに対する軍事クーデター時には大変に人気だった。チリの最高裁はアレンデの行動は憲法違反だという判決を下した。チリの国民投票では81対47でアレンデの退陣が支持されていた。

ピノチェトがクーデターを起こしてから5年後に彼の統治に対する投票が行われた。彼は4分の3の投票を得て勝利した。敵意をむき出しにした反ピノチェトのニューヨークタイムズのレポーターでさえも、その投票がその時のチリ人の心境を正確に反映したものだと認めざるを得なかった。

ピノチェトが彼の政策を「軍による独裁」なしで実行に移せたかどうかは議論が分かれるところだろう。だが彼は非常によく訓練され(カストロの腹心の部下Manuel Pineroによって)組織された敵と戦わなければならなかった。その敵は1986年までにはロケット攻撃でピノチェトをほぼ暗殺しかけるというところまで迫っていたのだった。

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