2016年5月23日月曜日

クルーグマンはグラフの読み方が分からないのか?

How Margaret Thatcher turned around Great Britain, in one chart

James Pethokoukis

「私の仕事はイギリスの社会主義化を止めることだ」- マーガレット・サッチャー

先日死去したイギリスの元首相はそれ以上の仕事をしたようだ。鉄の女と呼ばれた彼女は数十年にも渡って実施されイギリスをヨーロッパの病人へと変えた社会主義政策を転換させた。そしてその過程で、彼女はアメリカの自由主義革命にも影響を与えることになった。彼女は民営化、税率の引き下げ、労組の解体を行った。スコット・サムナーが記しているように、「イギリスの経済は他のヨーロッパの国々に対して数十年間も後れを取っていた。成長率はヨーロッパの大抵の国よりも低かった。サッチャーの改革は世界の中でも最も包括的なもののうちの一つだった」。

イギリスとフランスの一人あたりGDPの推移の比較をしてみよう。1979年にイギリスは市場を重視するようになったが、フランスはそうでもなかった。イギリスはフランスよりも10%貧しかったのが最終的には10%豊かになっている。


以下、寄せられたコメント。

Dolph Santorine April 8th, 2013

機能する経済政策を実行に移すには強力なリーダーシップが必要とされる。20%の相対的なGDPの改善というのはケインズ派も社会主義者も(恥を知っていれば)一度でも達成したことがあるとは言えないものだ。彼女の成功によりアメリカにおいてケインズ派を含む社会主義者たちの主張を論破することがより容易になった。欲を言えば、彼女への追悼が社会主義的政策は機能しないということを現政権に分からせてくれればいいのだが。

FactsB4Fiction April 8th, 2013

そのチャートは逆のことを示している。サッチャーが1990年に退位した時、そのギャップは少し拡大している。イギリスとフランスとの差は間違いなく埋まっていない。イギリスはブレア首相の最初の任期後と債務による公的支出の拡大だったため保守派から現在では「持続不可能だった」と凄まじい嘲笑を浴びているブラウン首相の時になって初めてフランスを上回った。現在の差は再び縮小しようとしており、そして為替レートの変動の範囲内に十分にある。

Is Paul Krugman seriously not going to give Thatcherism credit for the UK turnaround?

James Pethokoukis

Paul Krugmanによる何と奇妙なサッチャー評だろうか。

1)彼は1970年代のイギリスは「大きな経済的問題」を抱えていた国だったと認めている。

2)彼は「大転換」があったことも認めている。

3)だが彼は「イギリス経済の大きな改善は1990年代の中頃まではデータに表れていない。これほどまで実現が遅れた改善に対して彼女のおかげだと言えるのだろうか?」とサッチャーの経済政策によるものだということは一向に認めようとはしない。

イギリスの経済とフランスの経済を再び比べてみよう。1961年にはイギリスの一人あたり実質GDPはフランスの104%だった。1978年までにはこれがフランスの81%にまで低下してしまう。


(*このグラフを見てクルーグマンに賛同する自称経済学者中村亮)

何という衰退だろう。

そしてイギリスが自由市場経済を重視しようと決断した1979年の5月にサッチャーが登場した。フランスはそのままだった。

上のチャートが示すように、イギリスはほとんどその直後にフランスに対する失地を回復していった。1990年までにはイギリスの経済はフランスの87%だった。それから(サッチャー首相の政策をほとんど受け継いだ)保守派の政権による7年間が続き、イギリスの経済はフランスの94%にまで迫ることになった。だがここにKrugmanの結論がある。

「サッチャーによる政策(税率の引き下げ、労働規制などなど)が経済をよりフレキシブルにしそれによりブレア首相の下での好況が可能になったという可能性も考えられはするのだろう。だがそこには恐ろしいまでの長いラグがある」。

トニー・ブレアは1997年の5月までは首相になっていない!その頃までにはすでにイギリスはフランスに対する衰退分のほとんどを取り返していた。

最後の段落が示しているように、Krugmanは1970年代のイギリスは重税と過剰な規制と労組によって苦しめられていたということを本当は知っているのではないかと思う。サッチャー主義が完全な対策というわけではないにしても必要だったということもだ。だが現在の極めて党派主義的な世界では、そのようなことを認めてしまえば彼のリベラル派としてのブランドが地に落ちてしまうのだろう(しかもレーガノミクスが成功だったと暗に認めてしまうことになる)。彼とニューヨークタイムズのリベラル派の読者にとっては不幸なことだった。

以下、寄せられたコメント。

FactsB4Fiction April 9th, 2013

あなたが示したチャート自体がブレア/ブラウン政権時代に巨額の財政支出を行った後になって初めてイギリスがフランスを上回ったということを示している。

C H Ingoldby April 9th, 2013

そのグラフは保守派の自由主義政策の下でイギリスとフランスの間にあった大きな差がフランスが相対的に衰退しイギリスが相対的に繁栄したために縮小し始めたことを示している。

それ以前に、君は20年以上に及ぶ優れた経済的パフォーマンスはすべて無視して2つのラインが交差したただ一点のみで評価しろというのか?そのような主張は馬鹿げているように思われる。

SeattleSam April 9th, 2013

Krugmanは結論した。もしサッチャーがイギリス経済を救ったと主張する人が現れたら、何故その救済は実現するのにそれ程時間が掛かったのかとその人に尋ねるべきだと。

彼は同じ問い掛けをフランクリン・ルーズベルトに行ったことが一度でもあるのだろうか?

Ron April 9th, 2013

1)何かこのグラフには私の目には映らないように出来ているものでもあるというのか?Krugmanには1981年直後から始まり1988年まで継続した上昇が見えていないのか?

2)この比率の上昇のどれぐらいがイギリスの改善によるものでどれぐらいがフランスの衰退によるものなのか?イギリスが実際には改善しておらずフランスが衰退したことによってこの比率が上昇したという可能性もあると思う。

Shawn April 9th, 2013

Krugmanはとっくの昔にまともに取り合ってもらえる地点を通り過ぎた。彼はケインズ経済学に疑問を呈する経済学者たちには少しの敬意も示さなかった。彼の言うところでは、それらの経済学者たちは無能で、腐敗しており、精神病であるとまで云われていた。

それがまったくの逆だということは(これを見れば)どんな愚か者にでももう理解できるようになったのではないか?

Counterfactual: What would have happened to the UK economy without Thatcher?

James Pethokoukis

サッチャリズムを好もうともそうでなかろうとも、誠実さを欠片でも持っていると主張するのであれば、イギリスが1960年代や1970年代のひどい衰退から立ち直ったということを認めなければならないだろう。このチャートは無視することが出来ない。


だが左翼はこれがサッチャリズムのおかげだと認めることをひどく嫌っている。以前の記事に記したように、Paul Krugmanは「サッチャーがイギリスの経済をよりフレキシブルにし、それによりブレア政権の下での好況が可能になったという可能性もあるかもしれない」とだけしか認めていない。単に「可能性があるかもしれない」と認めただけだ。

サッチャー首相は自由市場の代わりとなるものは存在しないとよく言っていた。確かに、まともなものはないだろう。だが1979年頃には政治的に代替となるものは存在した。労働党だ(現在では旧労働党と呼ばれる)。

ではサッチャーと保守派政党が1979年の選挙で敗れていればどうなっていたか?労働党の1979年のマニフェストを見てみよう。そこにはこう記されている。「我らの道がより良き道」と。(イギリスが衰退していることは誰の目にも明らかであったにも関わらず)左翼はこれまで通りの政策しか提案していなかったことがよく示されている(というより、むしろそれが目的だから)。強力な労組、政府による産業の国有化、懲罰的な課税。北海油田から少しばかりの支援を受けた社会民主主義によって扇動されるケインズ主義。マニフェストの内容を見てみよう。

「産業に対する我々の戦略は労働組合や企業の経営部門との国家的なパートナーシップを通じて富と雇用を生み出すことにある。保守党は雇用を生み出すために、上昇し続ける価格を抑えるために、産業を近代化するためには政府が主導しなければならないということを認めないだろう。彼らは19世紀の自由市場の時代に戻るためにイギリス国民の未来を喜んで賭けに差し出すだろう。彼らは自動車時代におけるファーシング通貨のように危険なほど時代遅れだ」。

そもそもとしてイギリスを衰退させてきた労働党の取るような政策が市場重視の保守派政権の下で起こった悲劇の転換と同種のものを起こすことが出来ただろうか?あり得ない。

悲劇がさらに数年間続いた後で旧労働党からより市場重視の新労働党への転換が恐らくは発生したかもしれない。だがブレアの労働党の方針転換を可能にしたのはサッチャーの成功だった。レーガン大統領の成功がビル・クリントンと新しい民主党を生み出したのと同じように。

もしくはアメリカの1980年代の成功がイギリスを刺激し1990年頃には自由市場による改革を結局は促したかもしれない。だがその頃にはイギリスの衰退は今よりも遥かにひどいものになっただろう。1979年のイギリスの一人あたり実質GDPはアメリカの64%だった。イギリスの成長率が上昇していなければ1990年までに限定してさえもこの比率が実際の数字である68%ではなく50%になっていただろう(現在は73%)。もしそうなっていればイギリスは最早先進国ではなく(現在でもとても先進国とは呼べないというのに)第三世界に遥かに近くなっていただろう。

その意味では、他に選択肢は存在していなかった。

FactsB4Fiction April 9th, 2013

自身のグラフがイギリスとフランスがGDPで見て大体同じぐらいの水準になっているということを未だに無視している。イギリスにはサッチャーがいてフランスにはいなかったというのに。そしてイギリスは新しい労働党の下でのみ初めてフランスに追いついている。それにここでは為替変動が無視されている。

Greg April 9th, 2013

例えば、一人が1億円を持っていたとする。もう一人は1万円からスタートしたとしよう。億万長者の方は1億円をすべて貯得していた。もう一人は働いて1万円を1億円にまで増やした。だが両者は同じ水準なので、もう一人の労働の方は全く評価に値しないとでも言うのだろうか?

FactsB4Fiction April 9th, 2013

ヒトラーによって占領されたフランスが、1945年から1960年までの開放による15年間でかなりの部分回復を見せたとしてもイギリスに対して「億万長者」になったと言うのか?

Greg April 9th, 2013

私が言ったことを正しく言い直さなければならないとすれば、君が言っていることは単なる藁人形に過ぎないということが理解できるだろう。

私が言っていることは、君が展開している主張の前提(同じ水準に達したこと以外は重要ではない)の愚かしさに関してだ。私のコメントはイギリス/フランスと直接的に関わっているのではない。君のコメントは君が思っているのとは異なり核心を突いたものでも何でもないと単に述べているだけに過ぎない。

FactsB4Fiction April 9th, 2013

私の主張はそのグラフが記事の反対のことを示しているということだと言っている。フランスはサッチャーに代表されるような自由主義政策を取ってこなかった。だがイギリスとは同程度のGDPを達成している。ブレア/ブラウンが初めてイギリスをフランスよりも上位にしている。フィクションの前の事実だ。これはイギリスとフランスの話でそれがこの記事のすべてだ。フィクションの億万長者の話ではない。だというのに君は「イギリス/フランスと直接的に関わっているのではない」とコメントしている。どうして理解できないのか?

Greg April 9th, 2013

「どうして理解できないのか」だって?

それは君の論理があまりにも愚かすぎるからだ。間違った前提からは正しい結論に辿り着くことは出来ないだろう。

それに君が思っている「事実」というものは甚だしい単純化によって構成されているに過ぎない。ここに実際の事実がある。

・1960年にはフランスとイギリスのGDPは大体同じだった
・1960年から1980年の期間にイギリスのGDPはフランスに対して大きな落ち込みを見せた
・1980年から2005年の期間にイギリスの改善率はフランスを大きく上回った
・それによって2000年にフランスとイギリスのGDPは再び同じぐらいの水準になった

比較すると君が事実と認識していることは、
・1960年には両国のGDPはほとんど同じ
・2000年にも両国のGDPはほとんど同じ
これだけ

「サッチャーがいなかったフランスがどうしてイギリスと同じGDPの水準なのか?この筆者の中心的な主張に対する補強とは到底言えない」

君が無視している事実を無視しなければいいだけの話だ。

FactsB4Fiction April 9th, 2013

私の主張はこのグラフが甚だしく単純化されていて筆者の意図とは反対のことを示していると言っている。

・開始時点でフランスとイギリスは同地点にいた
・最終地点でもフランスとイギリスは同地点にいた

フランスは国家による統制が続けられたままだった。イギリスはサッチャーの下で国家による統制が廃棄された。それにも関わらずフランスの方が上位にいた。イギリスは国家による統制に回帰したブラウンの労働党の下で初めてフランスに追いついた。社会主義のフランスがイギリスの上を行っていた。サッチャーのイギリスはフランスに一度も追いつかなかった。労働党のイギリスがそれを行った。だがそれを維持することは出来ない。

イギリスもフランスもどちらも同じぐらい酷いことになると言うことは出来るだろう。だがそのチャートは将来のことは何も示してはいない。少なくともそのグラフ上では、フランスはサッチャーと逆の政策を取りながらもイギリスと同程度のGDPであり続けた。

どうしてイギリスを(自身のデータによると)自由市場を拒絶しながらも遥かに上回ったフランスと比較するのか?

どうしてポール・クルーグマンの言うことは面白いように外れるのか?

How many more populist “victories” can we survive?

Scot Sumner

Salonは2月のギリシャ政府との合意をギリシャの勝利だと報じている。

「ギリシャの左翼政権が債権者との新たな合意に達した1週間後、Paul Krugmanはこの合意に対する左翼側の批判は誤りに基づいたものだと主張している。実はギリシャ側が勝利した内容だと議論している」。

そしてそのPaul Krugmanがアルゼンチンの「特筆すべき成功」と議論していたものに関する2012年のコラムがある(今回も爆笑もののコントが展開される)。

「アルゼンチンに滞在していたMatt Yglesiasは1ペソを1ドルと等価に保つ政策からの離脱以降の同国の回復から得られる教訓と題した記事を書いた」

「ここでは他のものを付け加えたいと思う。アルゼンチンに関する報道は基本的な事実を正しく理解するのに、通説と呼ばれているものがどれ程有害な効果を与えているのかを示す好例となっている。我々は頻繁にアイルランドが不況から回復したという話を聞かされる。実際には回復など存在しないというのに。彼らの論理はこうだ。アイルランドは回復しているはずだ。何故ならばアイルランドは正しいことを行っている。よってそれを報道するだけでよい」

「その逆に、アルゼンチンに関する記事はほとんど悲観一色だ。彼らの論理はこうだ。アルゼンチンは無責任だ。アルゼンチンは幾つかの産業を再び国有化している。ポピュリズムを極端なまでに扇動している。よってアルゼンチンの経済は非常に悪いに違いない」。

公平を期すと、アルゼンチンは金融緩和の後にその経済は急激な回復を見せていた(その点では彼に同意している)。対立があるのは彼が長期の問題であるサプライサイドの問題を極端なまでに軽視していることだ。すでに長期が到来しているみたいで、アルゼンチンの経済は彼が3年前にコラムを書いて以降不況(デマンドサイドとは関係がない)に陥っている。そして2015年は悲惨なことになるだろう。

同じコラムの中で、彼はアルゼンチンよりはましなもののそれでも絶望的なほどに国家統制主義的なブラジルの経済のことを褒め称えている。

「明らかなことに、ブラジル経済は非常に好調だと私は考える。そして経済政策に関するリーダーシップも適切だ。だがどうしてブラジルは印象的な「BRIC」だと評価されてアルゼンチンはいつも軽んじられるのか?実際には我々はその理由を知っている。だがそのようなことは経済のレポートの中には記述されないだろう」。

どうしてアルゼンチンが軽んじられているかだって?それは恐らく我々の中にはケインズ派のようには需要に取りつかれていない人間がいるからだろう。我々はアルゼンチンに大きな問題が迫っているのを知っている。ところで、この惨状を生み出した(頭の弱い人間だけがヘッジファンドに債務の返還を求められたせいだと思っている)アルゼンチンの大統領は2010年に死去して、彼の妻にこの惨状が引き継がれた。ブラジルも彼が褒め称えて以降、非常に危険な状態に陥っている。そして以下のリンク先の経済予測は2015年のブラジル経済の見通しを「恐怖だ」と呼んでいる。需要を刺激することによってこの状況が改善されるわけでもない。ブラジルとアルゼンチンはすでに高率のインフレに襲われている。

ここに来年度のラテンアメリカ経済の見通しがまとめられている。

「多くのラテンアメリカ諸国は今年も成長率の二分化に直面するだろう。端的に表現すると、2つの海洋で区分できるということが出来る。大西洋側でありラテンアメリカで最大の大きさを誇るアルゼンチン、ブラジル、ベネズエラは0.2%、0.9%、5.5%経済が縮小するだろう。それがLatinFocus Consensus Forecastsのパネリストたちの予想だ(アルゼンチンはインフレ率を大きくごまかしているので実際のアルゼンチンの不況はもっと凄まじい可能性がある)。その一方でチリ、コロンビア、メキシコ、ペルーは2.9%、3.4%、2.9%、3.5%経済が拡大するだろうと予想されている」。

ちょっと待ってほしい。どちらの側がより国家統制主義的な経済だったかを今思い出そうとしているところだ。ラテンアメリカの大西洋側だったか太平洋側だったか?この次の段落にはその答えが書かれている。

「この分割はこれらの国々がまだ不況ではないアジアの方を向いているか未だに不況のヨーロッパの方を向いているかということにはほとんど関係がない。この違いは資源価格の高騰と外国からの直接投資の流入によって生み出された好況だった頃に取っていた各国の政策に大きな違いがあったことが最大の理由だ(よくやり玉に挙げられるしばき上げと呼ばれるものが勝利するという当然ながらも皮肉な結果に)。この好況期に、大西洋側の国々は支出を増やす一方で貯蓄をせず逆にラテンアメリカの太平洋側の国々は投資を増やした。さらにラテンアメリカの大西洋側の国々は政府が積極的に経済に介入を行った結果企業の利益は減少し投資が妨げられることになった。これとは対照的にラテンアメリカの太平洋側の国々は投資家が歓迎するような構造改革を行っていた」。

だがイデオロギーにとらわれていない人には強力に見える上記のような証拠も何の意味も持たない。共和党のサプライサイド側のアプローチを採用したラテンアメリカの太平洋側の国々の方が良い結果を残すことなど天地がひっくり返ってもあり得ないと散々非難されてきたのではなかったのか?もちろんKrugmanはチリの自由経済の成功と云われているものは単に「シカゴボーイズによるファンタジー」だと主張した。

「実は彼らにとって都合の悪いことがある。ピノチェトの経済政策は伝えられているよりも遥かに曖昧だ。だが現在ではシカゴボーイズが登場して、自由化を行い、チリに好況がもたらされたと語られるようになっている」

「だが、上のチャートから分かるように、実際に起こったこととはこのようなことだ。チリは1970年代に大規模な経済危機に襲われた。それは部分的にはアレンデ政権が原因だった。それから巨額の資本が流入しチリの経済は不況によって失われたGDPを大部分回復させた。1980年代にチリは再び大規模な経済危機を迎えることになった。今回はチリだけではなくラテン諸国全体が危機に襲われたのだが、チリのダメージは他の国よりも遥かに大きかった。チリが1970年代初めのGDPをはっきりと上回ったのはその頃までには自由主義政策が大きく緩和された1980年代の後半になってようやくだった」。

ミルトン・フリードマンの変動相場制に移行せよとの助言を無視したことにより、シカゴボーイズが1980年代初期にチリを混乱させたのは事実だ。だが自由主義政策の緩和と云われているものとは一体何のことだろうか?ここには1975年にシカゴ流の改革が始まって以降のFraser Instituteが作成しているチリの経済自由度のランキングがある(指数は最大で10までで括弧の中身はランキングだ)。

1975:    3.60  (71)

1980:   5.38  (48)

1990:    6.78  (27)

2000:   7.41  (33)

2010:   7.94   (7)

「ファンタジー」があるとすれば、チリが1970年代の後半以降自由主義政策から転向したという考えだろう。

恐らくブラジルは貧困が著しい北東部の沿岸地域にPaul Romerが提案しているようなチャーターシティを建設してみても良かっただろう。フリードマンが軍事独裁的なピノチェト体制にアドバイスしていたのと同じ頃にフリードマンからアドバイスを受けた他の国がフリー・トレード・ゾーンを採用したことを知っているだろう。この体制はピノチェトよりも遥かに暴力的であったにも関わらず、このアドバイスに対して奇妙なことにフリードマンは左翼からまったく批判を受けなかった。恐らくこの体制が数千万人を虐殺している時に、あまりにも多くの左翼の著名な知識人がこの体制を何十年にも渡って称賛し続けていたという事実を隠しておきたいからだろう。どこの国か分かるだろうか?ヒント、アルファベット順でチリのすぐ後にある(中国の改革開放政策はフリードマンのアドバイスに影響を受けたことが知られている)。その国の最大のフリー・トレード・ゾーンの大通りは1981年ではこのような状態だったのが現在ではこのようになっている。



以下、寄せられたコメント。

Patrick R. Sullivan

「実は彼らにとって都合の悪いことがある。ピノチェトの経済政策は伝えられているよりも遥かに曖昧だ。だが現在ではシカゴボーイズが登場して、自由化を行い、チリに好況がもたらされたと語られるようになっている」。

このような馬鹿げた主張はとっくに反証されている。James Rolph Edwardsの「Painful Birth: How Chile Became a Free and Prosperous Society」という本にはチリの内情が事細かに記されている。

これは私のレビューだが、

『チリの小説家Alberto Fuguetがインタビューで答えているように、チリの「隠しておきたい秘密」とは、ピノチェトがチリを「カストロ流のマルキスト国家に変えようと試みていた以前の統治者たちからの贈り物のようなものだったということだ。違いは、以前の統治者たちがチリを変えたというのではなく、彼が変えたというところだ」。Fuguetによると、彼はチリを「近代的で、開放的で、自由な社会に変えた」。それが彼の意図であろうとなかろうと、彼が制度化した経済政策(見えざる手)によってそうするように導かれたのだろう。

『「James Rolph Edwards」のこの短い本はそれらの経済政策が実際にはどのようなものであったかを説明している。モンタナ州立大学の経済学者である彼は非常に簡潔に、だが専門用語はほとんど用いることなくこの本を書き終えている。読者は、アレンデが敷いた価格コントロールの廃止がチリの店頭に再び物を並ばせるようになったことを知るだろう。国有化された産業の民営化が経済に正しいインセンティブ構造を回復させたことを知るだろう。政府支出の削減が中央銀行からマネタイゼーションの必要性を奪ったことを知るだろう。他にも政府による様々な経済の阻害要因があったことが記されている。これはとても誠実さに溢れた本だ」。

Patrick R. Sullivan

Paul Krugmanにはこのまま間違った主張をさせ続けておいた方がよいと思う。

「チリは1970年代に大規模な経済危機に襲われた。それは部分的にはアレンデ政権が原因だった」。

部分的に?恐らく彼は残りの部分はミルトン・フリードマンがピノチェトに対してたった一度のしかも45分の会談で与えたよりも遥かに遥かにアレンデ政権にアドバイスを与えていたフィデル・カストロのせいだと言いたいのだろう。そして彼らはどうすればチリのハイパーインフレを終わらせることが出来るのかを話し合った。

1971年に、カストロは多くのチリ人の反感を買いながらもチリで1か月を過ごした(彼に対して空っぽの入れ物を見せつけるデモが行われた)。後に彼はフランスの大使に対してこのように語っていたという(Pablo Nerudaの政治的庇護者でチリの大使Jorge Edwardsによる言葉)。「アレンデはブルジョア階級による強固な政治支配を打破することなくしては彼の政策を実行することは出来ないだろう」。

Patrick R. Sullivan

ヒラリー・クリントンが選挙戦を戦っている現在、一時的にホンジュラスの指導者となったRoberto Michelettiが振り返った2009年の危機の回顧録が思い起こされる。ヒラリーは彼に特使を送っていた(Dan Restrepo)。

http://panampost.com/elena-toledo/2015/05/04/ex-president-micheletti-honduras-hellbent-on-repeating-2009-crisis/

———-quote——–

ヒラリーはZelayaに権力を渡すように私に言ってきた。だが幸運なことにAlejandro Peña Esclusaと呼ばれるベネズエラ人が私にこのように語ってきた。「大統領、あなたはZelayaに権力を渡してはなりません。何故ならばそのアメリカ人は以前にも我々を欺いたことがあるのです。彼女は我々にチャベスに権力を再び戻すべきだと言いました。そしてどのようになるのかを見ようではないかと」。そのアメリカ人が私にそのように言ってくる時にはいつでもこのことが思い出される。

彼女のアドバイスを聞き入れれば数百万人のホンジュラス人が苦境に立たされることになるだろうと私は信じている。そのアメリカ人は(国内の)左翼にこびへつらうためにチャベスのご機嫌伺いをしている。だが我々は、この21世紀の社会主義の茶番劇を主導したベネズエラが現在どれ程悲惨なことになってしまっているのかをとっくの昔に見てしまっている。本来であればアメリカ大陸で最も豊かになっていてもおかしくない程の石油埋蔵量を誇る(サウジの埋蔵量を上回ると云われている)ベネズエラの国民が貧困層、富裕層共に食べる物にも苦慮しているのだから。

メキシコとホンジュラスを除いて、ベネズエラ、エクアドル、ボリビア、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ニカラグア、エルサルバドル、これらはすべて左翼政権であることを覚えておく必要がある(左翼がこれらの国々を称賛して皆がこれに倣うべきだと扇動していたがこれらの国々が悲惨なことになるとさっさと逃げ出して知らない振りを始めたのは言うまでもない)。チャベスの計画は50万人の中央アメリカ票を用いてメキシコの左翼指導者Manuel López Obradorを当選させることにあった。だが彼の計画がホンジュラスで失敗した今ではそれを実行することは出来ないだろう。

———endquote——-

Patrick R. Sullivan

「不人気な改革が危機の時に実行されれば改革の印象が悪くなるだろう。ピノチェトのチリはその好例だ」。

間違いだ。ピノチェトはアレンデに対する軍事クーデター時には大変に人気だった。チリの最高裁はアレンデの行動は憲法違反だという判決を下した。チリの国民投票では81対47でアレンデの退陣が支持されていた。

ピノチェトがクーデターを起こしてから5年後に彼の統治に対する投票が行われた。彼は4分の3の投票を得て勝利した。敵意をむき出しにした反ピノチェトのニューヨークタイムズのレポーターでさえも、その投票がその時のチリ人の心境を正確に反映したものだと認めざるを得なかった。

ピノチェトが彼の政策を「軍による独裁」なしで実行に移せたかどうかは議論が分かれるところだろう。だが彼は非常によく訓練され(カストロの腹心の部下Manuel Pineroによって)組織された敵と戦わなければならなかった。その敵は1986年までにはロケット攻撃でピノチェトをほぼ暗殺しかけるというところまで迫っていたのだった。

実はアメリカでは20年以上格差が拡大していなかった?

Bipartisan Baloney About Top 1 Percent Income Gains

ALAN REYNOLDS

1月20日の議会教書演説でオバマ大統領は「所得上位の所得が低下したことはこれまで一度もない(中略)所得格差が今までよりもさらに拡大している」と語った。その翌日にFox NewsのアンカーBrett Baierは「Emmanuel Saezによると、景気回復期の2009年から2012年の間で、所得上位は2002年から2007年の好況期よりもシェアを拡大させた。言い換えると、所得格差はブッシュ政権の時代よりも拡大している」と語った。

Bernie Sanders議員も「最近では、経済に新たに生まれた所得の99%が所得上位1%に集中している」と語った。同様に、Ted Cruz議員は「オバマ大統領の下で、彼が常日頃から非難している所得上位1%はそのシェアを拡大させた」と語っている。

左寄りの民主党と右寄りの共和党の両者の間で政治的に都合がよく非常にもてはやされる統計があればそれがどのようなものであろうとも馬鹿げたものだと決めてかかっていい。両党派によるたわごとだ。

2013年の11月に、「申告されたキャピタルゲイン(株などの資産の値上がり益)とボーナスは(税率の引き上げを避けるために)2013年から2012年にシフトされたので、2013年の所得シェアが発表される時には所得上位1%の所得がある程度大きく低下することが予想される。恐ろしいまでに愚かなメディアは間違いなく減少を増加として報道するだろう」と私は書いた。予想通りに、ニューヨークタイムズは所得上位1%の所得が14.9%減少したことを増加したと報道して「景気回復からの所得の増加は未だに所得上位1%だけに集中している」と結論した。そこには恐ろしいまでの無知が表れている。

それから3週間後の2月17日に、ニューヨークタイムズは事実を報道しようとする姿勢を僅かだけ見せた。「所得格差は金融危機以降実際には拡大していない」という記事を書いたDavid Leonhardtは自分が付けた記事のタイトルに驚きを見せた。「このようなことが起こり得るのか?」。この驚愕の真実とされているものはイデオロギーに惑わされずにきちんとデータを確認することが出来る数少ないリベラル派の経済学者の一人Stephen Roseより伝えられた。

「驚愕すべきことに」とLeonhardtは語り「Mr. Roseの主張は新しく発見されたデータや以前には見つかっていなかったデータに基づくものではなかった。多くの記者やコメンテーターたちが所得格差が拡大したことの証拠として頻繁に用いていたのとまったく同じデータだった」と語った。冗談も休み休みに言え。1月6日にブルッキングスのGary Burtlessは「2000年以降、ほとんどのアメリカ人の所得が上昇している一方で、所得上位1%の実質所得は減少している」と書いている。かなり前から私もPiketty and Saezのデータを用いて以下のようなグラフを作成し同様の指摘をしている。


(馬鹿な人たちがデータを一切見ることなくアメリカでは格差が拡大し続けている!と言っているそのまさにすぐ横で、その主張の唯一の根拠でさえもが20年近くアメリカでは格差が拡大していないことを示している!)

メディアの人間がすべきことは、Piketty and Saezの表4-6にある所得上位1%の実質所得の数字から作成したこのグラフを見ることだけだ。私が予想したように、所得上位の所得は増税を避けるために2012年に増加し2013年に14.9%減少した。そしてSaezからの要請通りに2012年と2013年の所得を平均した。それにも関わらず2012年から2013年の所得上位1%の所得は明らかに2005年から2007年を大きく下回っていて1999年から2000年の水準にも達していない。

Leonhardtは所得上位の所得が「増加していない」どころか減少しているということまでは認めることが出来なかったようだ。2012年から2013年の所得上位1%の所得は2007年から20.6%減少している。2000年以降からも11.2%減少している。所得格差が拡大し続けていると主張している人間はまともにデータも確認出来ないのだろう。
Minnesota Mythbusting

Matt Palumbo

反米団体US Uncutの設立者Carl Gibsonは経済に関する誤情報を発信することで知られている。

このリベラル派の団体のフェイスブックのページ上で、スイスの最低賃金は年に500万円でCEOの給与に制限を加えているのでとても平等な国だと嘘をついた(実際のところはスイスには最低賃金も給与に対する制限も存在しないというのに)。さらに経済危機後のアイスランドの回復は政府が銀行の救済を拒絶したおかげだとも主張した(IMFから受け取った4600億円の救済金をカウントしないのであれば)。アメリカの政府債務を減少させるにはノルウェーの例に従うこと(石油からの利益に78%も課税しており政府債務を負ったことがない)だとも主張した(彼は一度も「ノルウェーの政府債務」とグーグルで検索したことがないのではないかと疑っている)。

彼のドンキホーテ的な事実との戦いは同類のHuffington Postでも続けられた。今回は彼は「トリクルダウン経済学」という現実には存在しない経済学を反証したと高らかに宣言した。彼の言葉によると、「トリクルダウン経済学が公式に反証された。ミネソタ州がそれを決定的に証明した」。

ミネソタ州が行ったこととはどういうことだろうか?最高所得税率を90%にまで引き上げたのだろうか?法人税を増税したのだろうか?最低賃金を時給1800円までに引き上げたのだろうか?違う。だが2011年に就任したMark Daytonの指揮の下で、ミネソタは所得1500万円以上の個人に対して州の所得税の税率を途方もなく大きい2%ポイントも引き上げた。

Gibsonの語るところでは、以前の保守派の州知事の下ではすべてが間違った方向に進んでいたのだそうだ。「Tim Pawlentyが知事だった2003年から2010年の間には、雇用は僅か6200人しか増えなかった。2011年から2015年の間には17万2000人の雇用が新たに生まれた。Pawlentyの2期分よりもDaytonの1期分の方が多い」。

世界的な不況がPawlentyの任期の最後を襲ったということに言及していないことには目を瞑るとしても、雇用の増加が彼の後継者の下での方が大きいというのは事実だ。Pawlentyの任期の最初の4年間でミネソタの雇用は9万9100人増加した。18万2000人よりは少ないだろう。だがこれは本当に進歩主義的な政策のおかげなのか?それとも単に経済の自然回復の結果なのか?

Gibsonはこれを現州知事の3つの政策のおかげだとしている。すなわち最低賃金の引き上げ、富裕層への増税、女性に対する(男性と比較しての)対等な賃金の保障だ。だがこれらの変更はいずれも極めて小さなものでどれ一つとってもミネソタの雇用の増加し始めた時期とは対応していない。これらが原因ではなかったことを示唆している。

現州知事の2018年までに最低賃金を950円までに引き上げるという計画を見てみよう。彼のプランの下では最低賃金は徐々に引き上げられる。

2014年の8月以前にはミネソタは利益が6250万円までの企業には525円にそれ以上の企業には615円に最低賃金を設定していた。新しい法律の下ではこの基準は5000万円に変更される。この基準を上回った企業に対しては最低賃金は615円から800円にまで引き上げられる予定になっている。これを下回る企業は525円から650円に引き上げられる予定だ。

連邦政府の最低賃金(ほぼすべての時間給労働者に適用される)がすでに時給725円なので、利益が5000万円を超えている企業で時給が800円を下回っている労働者(いるのかは知らないが)に対してのみミネソタの75円の最低賃金の引き上げは適用される予定だ。ラディカルな変更ではないしその影響も生の雇用データを見ていたのでは気が付きにくいだろう。さらに最低賃金の引き上げは2014年の夏に初めて実施されたもので、ミネソタの雇用の回復はそのほぼ4年前からすでに始まっていた。

同様に、州と契約を交わしている事業を行う企業の女性従業員に対してすでに存在している反差別法に従っていることを認証することによって対等な給与を保証する法律(すべての企業ではない)は2014年の5月までは実効力を持っていない。

最高税率を2%引き上げた増税の方はどうだっただろうか?これも2013年までは実行に移されておらず、州の税収を1100億円増加させたに過ぎない(もしくはミネソタ州のGDPの0.35%)。

ようするにGibsonが称賛した政策はすべてミネソタが印象的な雇用の回復を見せた遥か後に実行に移されている。そしてそもそもが少しも大規模なものではなかった。

増税の恩恵として、「ミネソタの最高所得税率は4番目の高さであるにも関わらず、その失業率は3.6%と5番目に低いものとなっている」と彼は語った。だがこれは典型的な統計による嘘だ。本当にこの変数の間に相関があると主張したいのであれば、もっと多くのデータを必要とするし第三の変数の存在も考慮しなければならない(統計による嘘と言えば、とはいってもこれは嘘ではないが、中西部の州を2013年から2014年までの雇用の増加率で並べてみるとミネソタは圧倒的最下位だ)。

それに加えて、国際的な研究は、(工業国では)最高税率の高さと失業率の高さとが関連していることを発見している(リンクは省略)。これはこの税率の高さが雇用の増加を減少させていることを示唆している。

最低賃金の引き上げと増税が良い経済的結果を生み出すという考えは実証的証拠によっては支持されていない。州の最高税率の引き下げがすべての所得階層の所得の増加率の上昇と関連していた(さらに、その逆に最高税率の引き上げはすべての所得階層の所得の増加率の低下と関連していた)ことを発見した研究のことを考えてみよう(リンクは省略)。この結果はGibsonの現実の描き方に対してほとんど正反対を突き付けている。

最低賃金に関しては、実証結果は分かれている。だがカリフォルニア大学のJeffrey Clemensによる最近の研究は深刻な悪影響を示している。彼は全米で何千人の実際の人間を追跡した。そして最低賃金を引き上げた州の低技能労働者の経過と引き上げなかった州の低技能労働者の経過とを比較した。Clemensは彼らの発見が見せ掛けの相関ではなく因果関係であることを立証するために幾つかの変数で調整を行った。結果はどうだったか?最低賃金の引き上げは「低技能労働者の雇用と所得の増加に対して有意に負の影響を与えていた」だった。

同様に、経済的自由と所得格差との関係を調べた研究は「州の最低賃金の引き下げと税負担の引き下げが所得が最も低い人々の所得の水準、増加率、所得シェアを上昇させるのに最も効果的だった」ことを発見している(リンクは省略)。

このようによく制御された研究の方が彼が挙げたような狭い範囲の彼自身の見解の反映よりも有益なのは自明だ。この期間にDaytonがマイナーな進歩主義的政策を通過させたのは事実だが、それは因果関係を立証したことをまったく意味しない。

Gibsonとその同類たちは政府による介入が経済成長には不可欠だと人々に信じさせたがっているが、セントルイス連銀の論文は(経済成長と相関していることが知られている他の変数を調整した後では)あまり介入しない州の方がそうでない州よりも雇用の増加率が高かったことを発見している(リンクは省略)。他の論文もあまり介入をしない州の方が失業率が低く労働参加率も高いことを示している(リンクは省略)。

Gibsonとは異なり、我々はこの証拠が進歩主義者のイデオロギーをすべて決定的に反証したなどと大胆に主張するつもりはない。だが自由市場が機能するという説得力のある証拠があり、それは一つの州から都合よく抜き取った少しばかりのデータによって反証することは出来ないと主張するだろう。
The Myth of Corporate Profits

MATT PALUMBO

企業利益の増加はアメリカの労働者の賃金を犠牲にしているのか?ベンチャー・キャピタリストで資産家のNick Hanauerはそのように考えているようだ。彼は「企業利益はここ50年で過去最高を記録し失業率も過去最高を記録している。富裕層が雇用を作っているというのが真実であれば、失業率はもっと低いはずだろう」と語っている。ThinkProgressというウェブサイトの記事の見出しも「Corporate Profits Hit Record High While Worker Wages Hit Record Low」というものだった。

まず始めに彼らの主張が本当かどうかを見てみよう。そもそも最近の不況が住宅バブルの破裂ではなく企業利益の増加の結果だという彼らの主張は奇妙だ。恐らくはHanauerは企業利益の多さを総需要の低下の原因と非難したいのだろう。富裕層が十分に所得を消費しないために経済が均衡から乖離しているといつも彼が主張しているように。一人あたり消費者支出が所得上位1%の所得シェアと比例的に増加していることは彼は無視する。

上の図はGDP比で見た課税後の企業利益(配当前)と失業率との関係を示している。逆の関係があるようには思われない。むしろほとんどの期間において、企業利益が減少すると失業率が上昇しているように思われる。


法人税の減税が雇用を増加させるという確かな証拠もある(リンクは省略)。アメリカの法人税率は他のどの国よりも高い(これは実効税率で見ても同じだ)。これによりアメリカの企業には事業を海外で行い利益も海外に保持しておく強いインセンティブが生まれる。アメリカのすべての企業が国内だけで事業を行うように強制されたとしても、法人税率の高さは(税がない場合と比較して)投資の量を減少させるだろう。

最近の数年を例外として、企業利益と失業率はほとんど相関を示さない。

ThinkProgressというウェブサイトの記事は以下のような図を作成して企業利益と賃金に負の関係があると主張した。上の線は企業利益(課税前なのか課税後なのかさえも説明していない)で、下の線は賃金を示していると説明されている(どちらもGDP比)。


ここで比較されているものは企業利益と企業従業員ではなくすべての労働者の賃金だということに気が付いただろうか?企業利益が超過しているというのであればそれはすべての労働者ではなく企業に勤める労働者の賃金を犠牲にしているのでなければならない(魔法でも想定しているのでない限りは)。同様に、平均的な労働者の所得の19%を占める付加給付もこのグラフには表れていない。企業利益と労働者の報酬は経済全体ではなく企業所得の割合で見なければならない。

最も重要なことに、右側のy軸と左側のy軸とでは縮尺が異なる。自分たちが欲した結果を得るために彼らが捏造を加えたことは明らかだ(尺度を色々と変えているうちに分かったことだ)。企業従業員の報酬と課税前の企業利益とを比較してy軸に操作を加えなかった時には、以下のようなグラフが得られる。


過去を見れば、企業利益は企業所得の12%、従業員報酬は63%で推移してきた。これは課税前利益なので実際にはもっと少ない。法人税の税率を引き下げると雇用が増加するのと同じように、最近のコラムで紹介した一連の研究は法人所得税が引き下げられればどれぐらい労働者の賃金が増加するのかを詳細に説明している。

所得格差を縮小させたいのであれば規制を緩和するべき?

Less Economic Freedom Equals More Income Inequality

Ronald Bailey

所得格差は政治家や評論家、メディアの注目を集めてきた。2013年にオバマ大統領は「危険で拡大している格差が我々の時代の重大な問題だ」と宣言した。先月の60ミニッツでは、上院院内総務のJohn Boehner議長が「オバマ大統領の政策は所得格差を拡大させている」として非難した。ユタ州のMike Lee上院議員は「アメリカは所得格差の危機に直面している」と語り「大きな政府はその問題への解決策ではなくむしろ原因だ」と主張した。

2013年の演説でオバマ大統領は「所得格差を低下させるのに政府が出来ることは何もないという考えを破棄するべきだ」と語った。彼は正しい、だが彼が考えているのとはまったく異なる意味においてだ。最近の幾つかの論文は所得格差を低下させるのに政府が出来る最良のことは経済への干渉を止めることだということを示している。

例えば、アメリカのすべての州を比較したイリノイ州立大学の経済学者Oguzhan Dincerとその同僚らによる2014年の論文によると、経済的自由を低下させることが実際に所得格差を拡大させていることが示されている。「平均でみて、政府の規模と介入の範囲が拡大すると、所得格差も拡大する」とDincerは語った。

彼らはグレンジャーの意味で因果性があるかどうかも調べた。簡単に言うと、これは経済への介入が経済格差を生みそして今度はそれがさらなる経済への介入を招くという因果性のフィードバック・ループがあることを彼らが示したことを意味する。政策当局者は所得格差の拡大に対して格差を拡大させる政策で対応することが頻繁にある。最低賃金の引き上げなどがそのよい例だ。

もう少し大きな全体像を見てみよう。リベラル派はアメリカの所得格差が1950年代と1960年代に低下したことを示すデータを好んで引用したがる。そのトレンドはサイモン・クズネッツが提唱した仮説に従っているように見える。経済成長が開始されると、初期には所得格差は拡大すると彼は議論した。労働者が生産性の低い部門から生産性の高い部門へと移動するためだ。生産性の高い部門の労働者の人数がある程度大きくなると、所得格差は低下し始める。それにより所得格差と経済成長との間には逆U字型の関係が生まれることになると彼は説いた。

過去にアメリカで最も所得格差が大きかった時期は大恐慌の直前の1929年だと云われている。世帯所得のジニ係数は0.450だった。所得格差は大恐慌の時期に低下し、クズネッツの説明の通りにアメリカ経済が第二次世界大戦後拡大していくにつれてさらに低下していった。そして1968年に0.386と最も低くなった。セントルイス連銀のデータによると、ジニ係数はその後上昇していった。1980年のジニ係数は0.408で、1990年は0.428、2000年は0.462、2010年は0.470、2013年は0.476とされている(ただし、このデータには大きな欠陥があることが知られている)。

カナダのシンクタンクFraser Instituteは北米の経済的自由に関するレポートを毎年発行している。税や政府の支出、労働市場の自由度などで見てアメリカとカナダの州の自由度がどれぐらいのものか分析している。Dincerの論文は1981年から2004年の期間の経済的自由度と所得格差のトレンドを州の間で比較している。そして「経済的自由は所得格差を短期においても長期においても低下させている」ことを発見した。

これを分かりやすくするために、経済的自由度が最も高い8つの州と最も低い8つの州とを比較してみよう。経済的自由度が最も高かったのは(スコアは7.8から7.1の間に分布している)テキサス、サウスダコタ、ノースダコタ、バージニア、ニューハンプシャー、ルイジアナ、ネブラスカ、デラウェアだった。最も低かったのは(5.2から5.8の間に分布している)メイン、バーモント、ミシシッピ、ニューヨーク、ロードアイスランド、ウェストバージニア、ニュージャージー、カリフォルニアだった。経済的に自由度が高かった州のジニ係数の平均は0.452だった一方で自由度が低かった州の平均は0.469だった。所得格差は経済的自由の低い州で高くなっている。

オハイオ州立大学とフロリダ州立大学の経済学者らによるJournal of Regional Analysis and Policyに掲載された2013年の研究はDincerの発見を支持している。Fraser state economic freedom index dataを用いたこの研究は経済的自由と所得格差のトレンドにクズネッツ曲線が見られることを発見した。彼らは「経済的自由の低い状態からスタートすると、自由度の高まりとともに初めには所得格差が拡大する。これは比較的所得の高い層の方が低い層よりもより恩恵を受けるためだ。だが経済的自由度が上昇し続けるとこのトレンドは反転し所得の低い層の方がより恩恵を受けるようになる」と分析している。


(*これまた見事な相関…)

Dincerと彼の同僚はその結果を彼ら自身の研究の中で「経済的自由と一人あたり所得との間に正の関係があることを発見した以前の研究を支持している」と報告している。去年の11月に、ミシシッピ州立大学の経済学者Travis WisemanはFraser Economic Freedom of North America indexの1ポイントの増加が97万円の実質市場所得の増加と関連していることを発見した(他の条件が同じとして)。

Dincerの研究で最も警鐘的なのは「高い所得格差が経済的自由度を低下させる再分配政策を州に実施させるかもしれないことを示唆している。経済的自由度が低下すると所得格差はさらに拡大する。言い換えると、再分配と所得格差の拡大という悪循環に州が入り込むことは極めて起こりうるということだ」。悲しいことにFraserの経済的自由度は2000年以降多くの州で低下している。
What about Asia?

Scott Sumner

Thomas Pikettyの本は資産格差を主題としているが彼は他の色々な話題に関しても自身の持論を展開している。その持論のほとんどは左翼的なもので、私の見たところではほとんどが間違っている。ここにその一例がある。

「現代の再分配政策は、20世紀の豊かな国々が確立した社会的地位によって例証されるように、幾つかの基本的な社会的権利に基づいている。その例は教育、健康、老後の生活の保障などだ。(税と政府によって賄われる)統治の機能が国民所得の僅か10%から20%にまで削減されるような時代への回帰を真剣に模索するような大きな動きもなければ重要な政治的動きも存在しない」。

ここで言及されている豊かな国々というのが「ヨーロッパ」のことを意味しているのか単に文字通りの意味なのかははっきりとしない。もしヨーロッパのことを指しているのであれば、彼の言うことはその意味では正しいだろう。だがここでは彼はすべての豊かな国々を指しているのは明らかだ。彼の持論に一貫して顕著に見られる特徴として、彼は所謂「4つの虎」と呼ばれる国々のことを完全に無視しているということが挙げられる。この4か国は近年で最も成功した経済の一つだ。ここにその4か国の税と政府支出のGDP比を示したデータがある。

フランス 44.2% 56.1%

香港 14.2% 18.5%

シンガポール 13.8% 17.1%

台湾 8.8% 22.6%

韓国 25.9% 30.2%

*左の数字が税収がGDPに占める割合で右の数字が政府支出がGDPに占める割合

これら4か国のうち3か国は統治の機能を「君主制」の水準にまで削減しているように思われる(4か国とも皆保険を持っているのではあるが)。そしてこの3か国はフランスよりも顕著に豊かだ(不思議なことにこの3か国だけという点でも一致している)。

4か国のうち2か国はフランスよりも平均寿命が長い。他の2か国も僅かに下回っているだけだ。これら4か国すべてが国際的なテストでフランスよりも得点が高い(これはミスリーディングだと私は考えているが)。

これら4か国の生活の質がフランスよりも高いと主張しようとしているのではない。実際、私はその逆だと思っている。これらの国々は大きな不利を抱えている。これらは最近豊かになったばかりで人口密度が高い。これらの要素は住宅の質を低め渋滞を発生させる。これらの国々は本質的にフランスと同じ問題に苦しめられている。

そしてフランスの一人当たりGDPはもう数十年間もアメリカから急速に引き離されていっているということも指摘する必要がある。2013年ではアメリカの一人当たりGDPの67.4%の水準に過ぎない。さらに重要なことに、今後もさらに引き離されていくだろうということがほぼ確定している。Pikettyは一人あたりGDPはすべての先進国でほぼ等しいと(ほとんどすべての経済学者が否定するようなことを)繰り返し主張している。それはアフリカ系アメリカ人の所得が平均で見てすべてのアメリカ人と等しいと考える人がいるのであればその人の中では正しいのだろうと考える。

フランスがアメリカから遅れを取っていっている一方で、この4か国はアメリカよりも高い成長率を見せてもいる。これはサプライサイドの要因ではありえないのだろう。何故ならば彼はサプライサイドの政策は機能しないと(証拠もないのに)断言しているからだ。我々はサッチャー首相の改革はイギリスの成長率を高めてはいないと(洗脳かのように)何度も繰り返し聞かされてきた。1980年以前のイギリスはフランスやドイツよりも成長率が低くその後の25年間ではそれらの国々よりも成長率が高かったというのにだ。

もちろんGDPよりも大事なものはある。フランスがそれなりに豊かな暮らしをしているというのも事実だろう。この記事は実際にはフランスに関するものではない。むしろPikettyの無知を糾弾するためのものだ。彼の本を読んだ人が得る感想とは、彼が台湾、韓国、シンガポールの経済のことを考慮してそれを論理でもって否定したというものではなく、そもそも彼はそれらの国の経済のことをまったく考慮したことがなかったというものだろう。その本はリベラルが好むようにいつもの大きな政府(フランス、スウェーデン)=良い、小さな政府(アメリカ)=悪いという単純な二元論を展開しているに過ぎない。

以下、寄せられたコメント

mbka writes:

この記事を読んでフランスの政治家Raymond Barreの発言が思い出された。「フランスの社会モデルは社会的なものではない。高い失業率を生み出し社会から隔離しているからだ。そしてモデルではない。誰も真似したいと思わないからだ」。

Roger McKinney writes:

Pikettyは経済学のほとんどの分野において、特に彼が専攻したはずの経済史において無知であるように見える。彼のトリックは単純で彼の本に書かれていること以外には事実は何一つ存在しないと人々に思わせるところにある(そういうところは馬鹿を騙すことにしか興味がないかのようなスティグリッツの卑劣なやり方とよく似ている)。

経済学者は権力に取り入るためなら今まで言っていたことと180度違うことも平然と言ってしまえるのか?

Does the Obama White House really believe the American middle class has stagnated for 40 years?

James Pethokoukis

オバマ政権は過去30年間から40年間アメリカの中間層が経済的に苦しめられてきたという主張を全面的に展開してきた。言い換えると、現在の不況はオバマノミクスのせいではないと言いたいのだろう。

2011年のカンザスでの演説を見てみよう。過去40年間は所得格差の拡大と所得流動性の低下以外には何もなかったと彼は表現した。より最近ではCouncil of Economic Advisers議長のJason Furmanが最近の経済の回復を「中間層の過去40年間の所得の停滞というアメリカ経済に課せられた長年の問題を解決する機会」だと説明している。昨日のWall Street Journalでも彼は今回の景気回復は「過去40年間の中間層の所得の停滞を埋め合わせるのには十分ではない」と再び主張している。それではレーガン政権時代とクリントン政権時代の好況は本当はそれほど大きなものでもなかったのか?

データを簡単に振り返ってみよう。彼はCBOのデータを持ち出してきてアメリカの中央所得が1973年以降17%しか増加していないと主張した。その数字はCBOからの2014年のこの報告書の課税前の「市場所得」(政府からの移転を除いたもの)を指していると考えてほぼ間違いないだろう。だがその報告書には「インフレ調整後の課税後所得」は1979年から2011年に40%増加したとも書かれている。彼の挙げている数字の2倍以上だ。

どちらにしても、Furmanの最近の著作や見方は、2008年のリセッション前のものとは特に1970年代以降のアメリカ経済の発展に関する部分では完全に異なっているように思われる。ここに悲観論者Larry Mishelと楽観論者Stephen Roseとの間で行われた討論に対する過去の彼の発言の記録が残っている。

「だがその事実は完全に無関係というわけではない(中略)どちらかといえば所得格差の拡大をどうするかを話し合った方が有益だと思われる。だが(中略)Roseは正しい。アメリカ国民は30年前よりも遥かに豊かになっている。今日の労働者の所得は30年前の労働者のものを遥かに上回っている」

「政府の統計は一旦無視して常識で考えてみよう。中間層どころかアッパー・ミドルまでが長距離電話の電話代を心配していたのはいつ頃だったか?空での旅行が高価なぜいたく品だったのはいつ頃だったか?エアコン、食器洗い機、カラーテレビを持っていたのがほんの一部だったのはいつ頃だったか?DVD、iPod、デジタルカメラを誰も持っていなかったのはいつ頃だったか?そして多くのアメリカ人がすぐに故障したり、ガソリンをすぐに使い果たしたり、大気汚染物質をまき散らすような車に乗っていたのはいつ頃だったか?今では標準装備のエアコンやCDプレイヤーが装備されていなかったのはいつ頃だったか?」

「平均寿命は現在では4年延びている。大学進学率は12%上昇した。住宅の所有も今ではより一般的になっている」

「Mishelが挙げている賃金統計には多くの欠陥があることが知られている。そのすべてが同じ方向にバイアスが掛かっている。その中でも大きなものは、賃金は(給付も寛容になって技術も進歩している)医療保険のコストを差し引いた後で申告されることだ。医療は賃金統計の唯一の問題というわけではない。他の給付も同様に増加している。それに加えて賃金の比較はインフレ率に大きく影響を受ける。そのインフレ率にはほとんどすべての経済学者から上方バイアス(統計上のインフレ率が本当のインフレ率よりも高くなるバイアス。それにより実質変数は本当の値よりも見掛け上低くなる)があると考えられていることが非常によく知られている。そして1970年代にはそれほど存在しなかった移民の大量流入が無視されている」。

よって生活水準は過去よりも現在の方が遥かに高いことが確認された。そして停滞論者へのFurmanの批判は2008年の不況やその後の(過去の景気回復局面と比較して)鈍い回復の後でも成立していると考える。政治的レトリックは無視するとして、現在のアメリカ人は1970年代よりも遥かに豊かだ。オバマ政権はこの事実を認めることを恐れるべきではない。

例えば、ニューヨーク・タイムズは中間層(所得が420万円から1200万円として定義)が1960年代以降その割合を低下させ続けているものの、「そのシフトは下ではなく上の所得階層へと多くのアメリカ人が移動していることによって引き起こされている。少なくとも2000年代までは」と(何十年間も国民を、今では世界中をミスリードし続けた後で)最近になってようやく認めることが出来るようになったようだ。

さらにここにBrookingsのRob Shapiroによる新しい記事がある。その記事には1980年代から1990年代にかけて、「ほぼすべてのタイプの家計で大きく堅調な所得の増加が見られた。その家計の世帯主が男性であるか、女性であるか、黒人、白人、ヒスパニック、もしくは高卒、大卒かには関係なかった」と記されている。不幸なことに、Shapiroも付け加えているように、「これらのデータはこの広範囲な所得の増加が今世紀の初めごろに停止していることも示している。2002年から2013年の間に、9年間の景気拡大期と2年間の景気後退期があったにも関わらず多くの家計の所得は停滞した」。

リベラル派が1980年代初期から始まった(そしてクリントン政権にも引き継がれた)自由化政策が所得格差の拡大と中間層の没落以外の何物ももたらしていないと主張したがるその動機はよく理解している。現在の民主党は1950年代の高い税率と労働組合の時代が懐かしいようだ。だがありもしない過去を捏造して政治的に都合のよい教訓を引き出すのでは、皆に恩恵が行き渡った1980年代や1990年代の高成長を再現することは出来ないだろう。

クルーグマンのリフレ論はフリードマンの焼き直しだった?

What Would Milton Friedman Say about Fed Policy Under Bernanke?

David Beckworth

Milton Friedmanの死去から4年が経ったが、彼の金融政策に関する考えは30年前と変わらず現在でも重要であり続けている。FRB議長(ヘリコプター)ベン・バーナンキでさえも(彼のニックネームはフリードマンの有名な考え、ヘリコプター・マネーから取られている)大きく影響を受けたとしてフリードマンを挙げている。

だがフリードマンの考えは彼に影響を受けたと言っている人にさえもあまり理解されていないのが現実だ(これは政策決定において非常に問題を孕んでいる)。ではフリードマンであれば、現在の金融政策に関してどのようなことを言うのだろうか?

第一に、低金利は金融政策が緩和的であることを必ずしも意味するのではないと言うだろう。

フリードマンは1930年代のFRBの政策と1990年代の日銀の政策をこの点に基づいて批判していた。どちらの中央銀行も低い金利を緩和的な金融政策の証拠として、当時の金融政策は非常に緩和的だったと主張していた。それに対してフリードマンは低金利は緩和的な金融政策の反映ではなく弱い経済の反映でしかないかもしれないとして反論した。

実際に1997年には、彼は低金利を金融緩和と結びつけることを利子率の誤謬と呼んで批判した。低金利が緩和的な金融政策を意味する唯一の時はそれが(緩和的でも引き締め的でもない水準を示す仮想的な利子率)自然利子率を下回っている時だけだと説明した。

このことが現在のFRBに与える教訓としては、現在のフェデラルファンドレートは低いかもしれないが自然利子率も低くなっている可能性を考慮すれば金融政策のスタンスは緩和的ではないかもしれないということだろう。Fedは金融政策のスタンスをフェデラルファンドレートの水準で判断するべきではない。

第二に、Fedはインフレ期待を安定化させることを目標にするべきだとフリードマンは言うだろう。

1992年の彼の本の中で、フリードマンは普通の財務省証券の名目イールドと物価連動国債(TIPS)の実質イールドとのスプレッドを安定化させることをFedに求める法律が制定されることを要請した。このスプレッドは将来のインフレに対する市場の予想として知られている。

フリードマンはFedに期待インフレをターゲットとすることを要請した。フォワード・ルッキングなアプローチなので、これはバックワード・ルッキングなアプローチについて回る「長く可変的なラグ」の問題も避けることが出来るだろう。

最近になって上昇したものの、インフレ期待(TIPSと財務省証券とのスプレッドとしてのインフレ期待)はこのところずっと低下していた。このまま変化がなければ、このインフレ期待の低下は2011の春頃にはデフレ期待となって表れるかもしれない。

市場は将来に総支出がさらに低下するかもしれないと憂慮している。その結果として、インフレ圧力はさらに弱まることになるだろう。もしこのまま変化がなければ、総支出の低下はデフレを発生させるかもしれない。この可能性を憂慮したので、フリードマンはFedがインフレ期待を安定化させるべきだと考えていた。

第三に、Fedは名目所得の変動を最小化させるように行動するべきだとフリードマンは言うだろう。

その生涯を通して、フリードマンはマクロ経済の安定化の手段としての貨幣と価格の安定性の重要性を訴え続けた。名目所得の安定的な増加を大事なゴールの一つとして。フリードマンはそれを望ましいと考えていた。名目所得の突然の変動は賃金と価格が早急に調整できない時には大きなマクロ経済的問題を引き起こすと考えていたためだ。

2003年にフリードマンはFedが1990年代の「貨幣乗数バブル」を貨幣供給率の低下によって打ち消したことを称賛していた。その一方で、フリードマンは1990年代に日銀が名目所得の増加の低下を許したことを嘆いていた。

フリードマンが生きていれば、Fedが2008年の後半と2009年の前半に名目所得が大恐慌以来最も急速に低下するのを許したことにショックを受けただろう。

これらの事態を受けて、フリードマンはFedに名目所得を安定化させるようにと要請しただろう。

第四に、Fedが弾薬不足になることはないとフリードマンは言うだろう。

フリードマンは中央銀行は名目値を決定する能力を失うことはないと考えていた。唯一の制約はその意志だけだと考えていた。フリードマンは高い貨幣増加率に継続的にコミットすることによって1990年代に日銀がデフレを取り除き名目所得を安定化させることが出来ると論じていた。

フリードマンにとって、「糸を押す(日銀はすでに政策金利がゼロに達している)」類の主張は詭弁だった。高い貨幣増加率へのコミットメントだけが必要だと彼は考えていた。

同様に、フリードマンが生きていれば、Fedは弾薬が尽きているといった主張に異議を唱えるだろう。現在よりも経済的状況が遥かに悪く短期利子率がゼロに達していた1930年代に、金融政策が容易く経済を回復させたことを彼は我々に思い出させてくれるだろう。それ故、Fedは現在でも同じことが出来るはずだ。

フリードマンは現在でもより積極的な金融緩和を要請しただろう。バーナンキはその要請に従うべきだ。

パナマ文書終了のお知らせ?

David Cameron's Panama Papers Show How Little Offshore Tax Dodging Is Going On

Tim Worstall

このような見方は世間一般のものからはもちろんかけ離れている。だが間違いなく正しいことだ。キャメロン首相の名前がパナマ文書にあったことは課税逃れがいかに少ないものであったかをはっきりと示している。税収の損失の推計は今まで試算されてきたものよりも遥かに少ないものになるだろう。Tax Justice Networkという正体不明の団体による2000兆円という試算を信じるにしてもGabriel Zucmanによる870兆円という試算を信じるにしても、課税逃れによる税収の損失は今まで宣伝されてきたものよりも遥かに少なかったことが判明することになる。そのように断定できる理由はキャメロン首相がオフショアに隠していたと云われる所得は実際はすべて申告されていて正しくしかも正当な手順で課税されていたからだ。

これは目新しいことでも何でもない。これとまったく同じことを我々は最近でも経験している。課税逃れが大規模に行われているという騒ぎがあって、正式な調査が行われると、ごく少額の課税逃れは確かに行われていたがオフショアを利用する圧倒的大多数は支払うことになっていた税金を全額支払っていたことが明らかにされている。

このような事実があるというにも関わらず騒いでいる人たち(ただの馬鹿)がいることに戸惑いを覚える人もいるかもしれない。そこで幾つかの証拠を見てみることにしよう。Tax Justice Networkはオフショアに2000兆円が隠されていると考えている。

(くだらない内容なので省略)

それにより、彼らは世界全体で見て数十兆円が課税されていないと主張している。そのような資産が5%のリターンを生むと仮定されているとしよう。そこから年間に100兆円の所得が生まれることになる。富裕層の税率は40%ぐらいなのでそこから税額が40兆円と試算できる。これは彼らが実際にした計算というわけではない。ロジックにより簡単に推測できることだ。Gabriel Zucmanも数字は違えこそ同じロジックを用いている。

「ここまでのところはそれほど論争にはなっていない。この数字(Gabriel Zucmanの出した数字)は(政治)活動家が宣伝したがるものよりは少ないがオフショアに携わる専門家のものとは一致している。Boston Consulting Groupによると、2014年には1000兆円の資産が投資家の本国以外に記帳されていたという。その多くはスイス、チャネル諸島、カリブ海諸国、アイルランド、イギリス、アメリカなどだ」

「The Hidden Wealth of Nations(Gabriel Zucmanの書いた本)の中で最も大胆な部分が課税逃れの規模に関する部分だ。これを試算するのは簡単ではない。資産の80%が課税を逃れているという彼の試算はヨーロッパによる最近の取り締まりの下で行われた解釈が困難なスイス統計局の課税支払いに大きく依存している。このような欠陥があるにも関わらず、彼は年間の税収の損失額が20兆円ぐらいと試算した」。

キャメロン首相とパナマ文書に戻ろう。彼の父、Ian Cameronはオフショアに投資ファンドを設立した。そのようなファンドにとってはごく当たり前のこととして、そのファンド自体は課税の対象外である場所に設立された。このことを課税逃れと勘違いする人もいるだろう。だが実際にはこれは課税逃れではない。これが行われる理由はそれぞれの投資家が正確な税率を支払えるようになるためだ。国際的なファンドは、その定義からも分かるように、世界各国の投資家を対象にしている。ここでフランス、ドイツ、イギリスを拠点とする投資家を顧客に持つファンドのことを考えてみよう。そのファンドをドイツで設立するとすればファンドに関するドイツの課税がどのようなものであったとしてもドイツの税法が適用される。そこからフランスとイギリスの投資家は自国の所得税を支払わなければならない。だがフランスとイギリスの投資家にはドイツの投資家に与えられているような補償ルールが与えられていない。これはどこにファンドを設立しようとも同じだ。ファンドにまったく課税をしない場所に設立する以外には。これによりそれぞれの投資家は自国の税率だけを正しく支払うことが出来るようになる。これは課税逃れではまったくない。これによりそれぞれの投資家は正しい額をそれも正しい額だけを払うことが可能になる。

再びTJNとZucmanの主張を振り返ってみよう。彼らはこれらの資産はほとんど課税されていないと主張した。だがキャメロン首相の登場で明らかになったこととは何か?オフショアのファンドはイギリスの税率をきっちりと全額払っていた。これまでのところ詳細な投資家のリストの100%全員がイギリスの税率を全額支払っていた。資産は確かにオフショアにあった。だがそれは課税逃れを意味しない。イギリスの税率はきちんと支払われていた。従って、課税逃れがなかったばかりではなくわずかの税収の低下でさえもなかったことになる。

ここから、誰一人としてオフショアを課税逃れに用いていなかったと結論することは少し極論のように思われるかもしれない。だが課税逃れは恐ろしいほどに誇張されていると結論するに足るだけの十分な情報は我々はすでに持っている。ほぼ確実にそのように結論すべき理由としては実はパナマ文書のような馬鹿騒ぎは以前にもあってその結果がどうなったかを我々はすでに知っているからだ。以前にも指摘したように、

「ここで背景を説明しよう。オフショアとタックス・ヘイブンを用いて世界中で課税逃れが行われていると信じている小規模な活動家たちによる長きに渡る政治活動が行われていた。それにはTax ResearchのRichard Murphy、Tax Justice Network、Private EyeのRichard Brooks、それに特定のジャーナリストが含まれていた。その主張は誰からも批判されることなく広められ、大規模な課税逃れが行われていると多くの場所で信じられるようになった」。

これは2100兆円の主張に非常によく似ているように聞こえるのではないだろうか?

「それと並行して課税回避(こちらは合法なもの)の政治活動も行われていた。だがそれはここでのポイントではない。その主張は何度も繰り返され、多くの人は例えばスイスの銀行に誰にも知られていない、それ故課税を逃れている資産が存在すると信じるようになっていった」。

ここでは仮にそれが正しいと仮定してみよう。我々はどうするべきか?明らかなことに、その主張が本当なのかどうか調査する必要がある。それがスイスとイギリスの政府の間で行うと合意されたことだ。スイスの銀行はイギリス国籍の口座をすべて精査して課税逃れが行われているかどうかをチェックした。その答えは実際に何人かの違反者はいたというものだった。だがそういう人たちは本当に少なかった。それがあまりにも少なかったので押収された実際の税額は(押収にも費用が掛かるためにこの金額を下回ったら押収しないと予め定めて置いた)最小金額を下回るほどだった。

最終的な結果は数百億円の新たな税収が入るということではない。そのようなことは事実からはかけ離れている。最初に主張されていた金額のほんの僅かにしかならないだろう。多くの人々(ここで言う多くとは圧倒的大多数のことを意味する)はオフショアでの所得を実際にはイギリスで申告していることが判明した。

彼らの数字が完全に間違っていた理由は奇妙なイギリスの税制にも原因がある。もしあなたがイギリスの居住者だとすればその人はイギリスでの所得に掛かるイギリスの税を支払うことになるだろう。これはあなたがイギリスでどんな仕事をしているかにも関係なくまた外国で稼いでイギリスに持ち込んだどのような所得に対しても適用される。もしあなたがイギリスの永住権を持っているのであれば(方法はともかくとして)その人が全世界で稼いだ所得に対してイギリスの税を支払うことになるだろう。ここに盲点があることに気が付いただろうか?イギリスに住んではいるが永住権は持っていない人々は彼らが外国で稼いだ所得に対してイギリスの税を支払う必要がない。それらの所得を外国に置いている限りは。

スイスがイギリス国籍者の口座をすべて調べて回った時に、彼らが見たものとは大量の課税逃れではなくイギリス在住で永住権は持っていない人々とイギリス国籍ではあるがイギリスには(現在)在住していない人々の大量の口座だった。極めて合法的にスイスの口座に置かれている所得に対して、彼らの誰一人もイギリスの税を支払う必要がない。だがこれは欠陥でも抜け穴でも何でもないということは記しておかなければならない。これは税制の基本的機能だ。唯一アメリカ人だけがどこに住んでいようとも本国の税率を支払う必要がある(これが今回の騒ぎでアメリカ人の名前がほとんどない理由の一つでもある)。

そしてこれらすべてがパナマ文書が明かした最も興味深いことだ。オフショアに流れ込んでいるお金は確かにある。だがそのほとんどは活動家たちが払うべきだと言っている場所と時において正しい金額の税を支払っている。パナマ文書などが明らかにしたこととは普段信じられていることからは対極にあった。ヒステリックな主張とは異なり、それらはオフショアに置かれている所得のほとんどがきちんと税を全額支払っていたことを明らかにした。従って、課税逃れは普段云われていたよりも遥かに小さな問題だったということが出来るだろう。

キャメロン首相の父も彼も少しも課税逃れをしていなかったと今ではイギリス人の全員が完全に同意している。よって、オフショアのお金がすべて課税逃れをしていると仮定することはもう出来ない、そうだろう?そしてスイスの銀行の例とより最近のこれらの文書の例により、オフショアの所得のほとんどは支払うことになっていた税を全額支払っている。よって課税逃れは我々が信じるように仕向けられていたよりも遥かに小さな問題だということが明らかになった。そっちの方が本当に興味深いことではないだろうか?(要するに、情報弱者はいつになったら自分が操られていることに気が付くのか?)。

日本でリフレ派が総崩れしていたその頃、アメリカではケインズ派が悲惨な総崩れをしていた?パート6

Krugman’s Fatal Conceit

RAMESH PONNURU

Paul Krugmanは2013の4月頃に賭けをしていた。そしてその賭けに敗れた。掛け金はゼロだったが、彼の敗北は財政支出の正当性を弱め彼が呼ぶところの「緊縮」の正当性を強める結果となった。

この話は2012の終わり頃まで遡る。連邦準備は3回目の量的緩和を開始したところだった。ケインズ派の経済学者たちは緊縮の危険性を触れ回っていた。増税と支出の削減が2013の始め頃からすでに予定されていた。急激な財政赤字の削減は経済にダメージを与えると彼らは警告していた。350人の経済学者は連名で『自動的な「財政支出の一律削減」は2番底の不況を回避するために止めるべきだと皆が同意している』と手紙を書いた。

Western Kentucky Universityのデビッド・ベックワースと私はその考えに異議を唱えた。Atlanticという左寄りのウェブサイト上で我々は、連邦準備は財政赤字の削減が経済に与える影響をどのようなものであっても打ち消すことが出来ると議論した。

我々は支出と税に関する連邦政府の判断が経済に影響を与えるだろうということは否定していない。増税は保守派が警告しているように労働、貯蓄、投資のインセンティブを低下させるだろう。そして長期の経済成長は阻害されるだろう。この影響を打ち消すことはどのような中央銀行であっても出来ない。インフラへの投資は理論上は生産性を引き上げることが出来るかもしれない。そのような影響を生み出すことが出来る中央銀行は存在しない。

今挙げた事例のどちらも生産性の変化が関連している。ケインズ派の説明からは完全に抜け落ちている重要な要素だ。彼らの(詐欺)話では財政赤字の増加は経済の総支出を増加させ、その赤字の額以上に経済を拡大させるという。支出は彼らが呼んでいるところの「乗数効果」を示すという。お金を受け取った人はその一部を支出しその支出を受け取った人も同じことをするからだと彼らは説明している。その(空想上の)支出の増加は部分的にはインフレの形を取り部分的には産出の増加として表れるという。財政赤字の削減はその逆の効果を持つと彼らは信仰している。それによって不況が起こると考えている。

我々はそれらの話が実現するかどうかは中央銀行の行動に掛かっていると議論した。例えば中央銀行が厳密にインフレターゲットを行えば財政赤字がどれ程巨額であったとしても経済の総支出に影響を与えることは出来ないだろう。財政赤字の増加によりインフレ率が2.1%に高まる懸念があれば、中央銀行は引き締めを行い総支出は変化しないだろう。より現実的な設定としてある一定のインフレ率の幅をターゲットとする中央銀行で大体の期間においてその範囲に収まっていると仮定する。この場合においても財政赤字の増加/減少の効果は大きく低下するだろう(*支出の増加もしくは減少に対してインフレ率が大きく反応するという現実のデータからは否定されている現象が存在するのであれば正しいが)。

そのような意図を持っていなかったとしても中央銀行は財政政策の効果を打ち消してしまえるということは誤解を避けるためにも記しておかなければならない。上記の例では、中央銀行は政府が何をしていようともインフレターゲットに従っているだけでよい。

この議論で重要なのは財政支出の正の効果と緊縮の負の効果と云われるものは大きく誇張されているということで完全に打ち消してしまうことも出来る。例えば2009に連邦政府が財政刺激策を行っていなかったら、Fedは確実にもっと大規模な量的緩和を行っていただろう。そしてFedは財政の一律削減が起こるかどうかに関わらず2013の総支出の増加率を一定に保つことが出来るだろう。

共和党と民主党は2013のNew Year’s Dayに増税を一旦棚上げにし財政の一律削減を2か月延期することで合意した。2月にKrugmanは財政の一律削減は70万人の雇用を奪うだろうという記事を書いた。

4月にはリベラル派の経済コラムニストMike Konczalが、我々が2011にNew Republicという雑誌に金融政策に関して書いた記事を再び取り上げるという出来事があった。彼は「国家的な経済の実験が行われる機会は滅多にない。だが2013はBeckworthとPonnuruが提案した実験を試す絶好の機会となりそうだ。昨年からのマクロ経済政策を見てみると、2つの大きな流れが存在したことが分かる。連邦準備は今までよりも大胆な政策を行い(中略)同時に、連邦政府は緊縮の時代に入っていた」。2013の初めの四半期の成長率が弱含みだというレポートを引用しながら、初期の結果は我々にとって不利なものだったと彼は語った。

KrugmanはKonczalの側に付いて、「我々は現在マネタリストの実験の最中にあり」そして「結果はマネタリストにとって悪いように見える」と書いた。その記事を書いた20分後に、彼が好んでいるこの話題に関するより一般的なコメントを残した。彼は自分の分析と予想が「繰り返し繰り返し」現実の出来事によって正しいと証明されたと主張した(by アメリカ版武者陵司)。

その当時でさえ、彼らの主張を疑う理由があった。2013の第一四半期の成長率を予想していたそのレポートは弱含みだということを示していなかった。Scott Sumnerが指摘しているように支出の増加率はこれまでとほとんど同じで産出の増加率は2012よりもむしろ高かった。

データの更新が行われた今では、2013の成長率は加速していたとほぼ確信を持って言うことが出来る。(実質GDPで見た)算出は2012の第一四半期には0.1%の増加だったが2013の第一四半期には2.7%の増加だった。(名目GDPで見た)支出の増加率は1.6%から4.2%へと加速していた。2011の第四四半期から2012の第四四半期までの名目GDPの増加率は3.5%で、2012の第四四半期から2013の第四四半期までの名目GDPの増加率は4.6%だった(緊縮の時期)。


これがテストだと言ったのはKrugmanの方だということを覚えておく必要がある。成長率の低下はマネタリストへの反証でケインジアンの妥当性を証明するものだと言っていた。彼が言うところの不誠実で愚かな主張が確かめられるためには、成長率が低下していないことを確認するだけで十分だ。実際には成長率は低下していないどころか上昇しているが。

このテスト以外にも重要なものがある。Beckworthが記しているように、アメリカはKrugmanが定義したところの緊縮を2010からすでに実施している。この期間のGDPの推移を示したグラフからは、緊縮の影響を見つけることは不可能ではあるが。



アメリカとヨーロッパとを比較してみると、金融政策によって財政政策の影響が打ち消されるという考えが勝利していることが再び確認できる。Beckworthが指摘しているように、ユーロ圏はアメリカとほぼ同程度の緊縮を行っていたがGDPは遥かに悪かった。この違いは金融政策の違いで説明できると考えている。

もちろん、連邦政府の支出がもっと高ければGDPはもっと速く成長していたという主張をする人は未だに存在する。だがKrugmanはそのような主張を一度もしていなかった。彼はケインズ経済学にあまりにも自信を持っていたので財政の一律削減によって成長率は低下するだろうと断言していた。だが実際のデータを見てみると、彼の自信は粉々に打ち砕かれたように見える。

日本でリフレ派が総崩れしていたその頃、アメリカではケインズ派が悲惨な総崩れをしていた?パート5

THE UNENDING “FISCAL FETISH”

Marcus Nunes

ジョン・コクランは「ケインジアンのための生体検査―2013の財政支出の一律削減によって不況になると何度も聞かされてきた。ところが失業率は予想されていたよりも速く低下した」という記事を書いたことによって多くのケインズ派を激怒させた。

「経済の流れは変化した。経済成長はとうとう回復軌道に乗ったように思われる。それとともに経済の思想も変化した。オールド・ケインジアン的な思想の一時的復興は世界の経済政策から完全に消え失せた」。

反発の例を見ていこう。

まずはCEPRだ。

「コクランはこのように記している」

「2013の財政支出の一律削減に関して、ケインズ派は支出の削減と失業保険給付期間の延長の廃止によって経済が不況に陥るだろうと警告していた。ところが失業率は予想されていたよりも速く低下した」

「私からの反論としては、私は一度も不況になるとは言っていない。成長率が弱まるだろうと言っただけだ。GDPのデータは私に賛成しているように思われる。2013の最初の2四半期の成長率は丁度2.3%だった(その年は、というよりその年もアメリカが異例の大寒波に襲われたということは伏せておきながら)。最終需要だけを見ると(在庫を除くと)2013の最初の2四半期の成長率は平均で1.8%だった。失業率は2012の12月から2013の12月の間に1.2%低下しているが、これは大部分が人々が職探しを止めたことによるものだ(もちろん、この主張を支持するような証拠はない)。雇用者が人口に住める割合はこの期間に変化していない。我々ケインジアンはケインズ派でいることを恥ずかしいと感じるべきなのだろうか?」。

成長率が弱まった?2008のリセッションからの回復局面では、実質GDPの成長率は平均で見て2.2%で彼らの主張している2013の最初の2四半期の成長率とほとんど変わらない!以下の図にそのことがはっきりと示されている。


今度はRobert Waldmanだ。

「私が以前にも記しているように、財政支出の一律削減と呼ばれるものは政府支出の額にほとんど影響を与えていない。それは予想されていたし(政府に雇われている私の父がそう言っていた)それに残りの7か月間の予算を決定する2013年度の予算の方にシフトされた。それは政府支出に大きな変化をもたらしてはいない。政府支出のデータから財政支出の一律削減がいつ行われたのかを知ることは不可能だ」

「実際、経済の回復期間に、政府支出の増加率と実質GDPの成長率とははっきりと正の相関を示している。そのようなものを反ケインズ派は証拠として挙げている。これは非常にはっきりとしたパターンを示している」。

財政支出の一律削減は政府支出の額に大きな影響を与えていないのかもしれない。政府支出の削減はとっくの昔に行われていてそのチャートの中にはっきりと確認することが出来る。実質GDPの成長率は政府支出が増加した時期に低下していて、政府支出が減少した時期に回復してその後は2.2%で推移している。この全期間を通してみると、実質GDP成長率と政府支出増加率との相関は明らかに負だ。



2016年5月21日土曜日

日本でリフレ派が総崩れしていたその頃、アメリカではケインズ派が悲惨な総崩れをしていた?パート4

FAILED FISCALIST FORECASTS

Mark Sadowski

金融政策がゼロ金利の下でも緊縮の影響を打ち消すことが出来るかどうかのテストという議論が最近再び議題に上がるようになってきた。Russ Robertsは論争の口火を切った(リンクは省略)。

Simon Wren-Lewisはそれに反論しようとした(同じく)。

それに対してScott Sumnerは再反論した(同じく)。

私は以前に同じ内容の話を数か所の場所で行った。だが今度はより完全により明確に議論してみようと思う。

まず手始めに、財政支出の一律削減は2013に行われた緊縮のわずかな部分でしかないということを理解する必要がある。「財政支出の一律削減」はBudget Control Act (BCA)の一環として定められた特定のカテゴリーの支出の自動的削減を指す。始めには2013の1月1日より開始されることになっていたが2012のAmerican Taxpayer Relief Actによって3月1日までの2か月間延期されることになった。この法律にはEGTRRA and JGTRRA(すなわちブッシュ減税)の一部期限切れ、2年に渡る給与税の減税、失業保険給付期間の延長などの期限切れなどにも効力が及んでいる。高額所得者への増税、給与税の増税、失業保険給付期間の延長の継続が2013の1月1日に実施されることになった。

要するに「財政支出の一律削減」は2013の3月1日まで実施されておらず、2013の1月1日に実施された2つの増税のことには関与していない。2012の11月のCBOによる「財政の崖」の分析によると(これには支出の一律削減が2か月間延期されたことが考慮されている)、「財政の崖」が予算に与える影響の70%ぐらいはこの増税によると説明されている。他の人たちがしている分析がまったくもって正確でないのはこれが理由だ。

さらに、CBOによるものであれ信頼できる他の民間のものであれ緊縮の影響を予想しているもののどれ一つも2013のRGDPの年間の成長率のことには言及していない。それらはすべて2013の四半期のRGDPの成長率もしくは2013のQ4からの対前年比のことしか言及していない。これはある年度の初めもしくはその近くに始まった予算の変化がその後の成長にどのような影響を与えるかを知りたい時には妥当な方法だからだ。Q4/Q4は予算の変更以降の4回の四半期の平均を表している。Year/Yearは前年と今年度の四半期成長率の加重平均を表しているのに等しい。今回の事例で言えば、Year/Yearという方法で2013の1月1日から実施された緊縮がまだ一つも行われる前の四半期からのものに8分の3のウェイトを掛けたものが好ましい。これよりもQ4/Q4の方がどうして好ましいのかはこの例を考えてみれば分かるだろう。

CBOが2012の完全な経済予測を最後にした時は(QE3がアナウンスされる丁度3週間前だった)予定されているすべての緊縮が実行されるとすると2013のQ4のRGDP(これはGDPの水準がであって成長率がではない)は0.5%低下すると予想されていた。

すでに紹介した2012の11月のCBOの予測には、緊縮が少しも実行されなかった場合のシナリオも予想されていてその場合には2013のQ4の対前年比RGDPは2.9%ポイント高くなると予想されていた(図1)。これはCBOが2013のQ4の対前年比RGDP成長率が緊縮がなければ2.4%だっただろうと予想していたことを意味している。

2012の11月からのCBOの見通しを注意深く読むと緊縮(給与税の増税、高額所得者への増税、財政支出の一律削減など)が2013のQ4までの対前年比RGDP成長率を1.4%ポイント低下させるはずだと示唆されていることが分かる。

図1は給与税減税の延長(給与税の増税とはそもそも給与税が一時的に減税されていたものを元に戻すこと)一時的な失業保険給付期間の延長の継続があった場合、2013のQ4の対前年比RGDP成長率は0.7%ポイント増加するとCBOが予想していたことを示す(5番目の線)。11ページの脚注15にはこの影響の80%ぐらいが給与税の増税によるものだと記されている。給与税の減税と失業保険給付期間の延長の乗数が同じぐらいだと仮定すると、給与税を増税しないことの経済的影響はRGDPの0.56%ぐらい(0.7%ポイントの80%)と予想されていたことになる。

さらに図1は高額所得者への減税の期限切れを延長しないこと(この減税も10年で期限が切れることになっていた)の経済的影響(3番目の線と4番目の線との差)はRGDPの0.1%と予想されていたことを示している。ATRAによって増税されることになった高額所得者への税率の引き上げはCBOが想定していたものよりも幾らか低かったが、ここでの分析にはそれほど大きな影響は与えないだろうと思われる。

そして最後に、図1は財政支出の一律削減がなければ2014のQ4の対前年比RGDP成長率は0.8%ポイント増加(1番目の線と2番目の線との合計)するだろうと予想されていたことを示している。だが支出の一律削減の実施は2か月間延期された。簡単に求めるのであればここから6分の1(12か月から2か月を差し引く)を引くもしくはRGDPの0.67%という数字が得られる。

これら3つの部分を合計するとRGDPの1.4%になる。これと緊縮が行われなかった場合の2.4%の成長率というCBOの予想と合わせると2013のQ4の前年比RGDPの増加は1.0%と予想されていたことになる。

同じことが他の民間の経済予測にも当てはまる。緊縮の影響(CBOとほぼ同じ内容のものが想定されている)はバンクオブアメリカ、IHSグローバル、ムーディーズ、ゴールドマンサックス、モルガンスタンレー、マクロエコノミックアドバイザー、クレディスイスらでGDPの1.0%から2.0%の間で想定されていた。平均は1.6%だった。基調となる予想RGDP成長率(緊縮がなかったと想定した場合の予想)は7社は2.0%から3.5%の間と予想していた。これも平均は2.7%だった。従って、緊縮の影響を調整した2013のQ4の対前年比RGDP成長率の予想の平均は1.1%ぐらいだった。これはCBOの予想とほとんど一致している。

今では2013のQ4の対前年比RGDP成長率が3.1%だったことを我々は知っている。これはCBOの予想や民間の予想よりもはるかに高いばかりか緊縮がない場合と予想されていたものをも上回っている。

日本でリフレ派が総崩れしていたその頃、アメリカではケインズ派が悲惨な総崩れをしていた?パート3

Monetary offset: Reply to my critics

Scott Sumner

驚くことではないが、ケインズ派の2013のテストは失敗したという主張に数多くの怒りの声が寄せられた。そのうちの幾つかの主張を取り上げてみよう。

1.2013の1月1日に緊縮が始まったのでその前後の4四半期の成長率を比較したらデータを都合よく取り上げていると非難された。成長率は2012の1.60%から2013の3.13%へと加速した(Q4からQ4)。だが批判者は2012が特に成長率の低い年だったと主張している点は正しい。従って、より長い期間を比較した方が好ましいように思われる。

2013以前の2年間の成長率は1.65%だった。

同じく3年間の成長率は2.04%だった。

同じく4年間の成長率は1.47%だった。

同じく5年間の成長率は0.59%だった。

同じく6年間の成長率は0.81%だった。

同じく7年間の成長率は1.05%だった。

同じく8年間の成長率は1.33%だった。

同じく10年間の成長率は1.91%だった。

同じく15年間の成長率は2.51%だった。

どれも2013よりも低い。

従って、データを都合よく取り上げているという非難は不当だと思われる。今度は4四半期先以上、例えば2年にしてみるとどうなるか?2014の冬は大寒波のために成長率が低かった。だが2014の春と夏はどちらも例年よりも暖かかった。第4四半期の数字が発表されると2014も高い(もしくはそれほど悪くない)成長率を示すように思われる。

他の非難は2013の成長率の加速は有意ではないというものだ。ここには2つの争点が含まれている。測定誤差と他の条件が同じかという問題だ。測定誤差に関しては、政府は2013の成長率を過大に見積もっているのではといつもその可能性を考えていた。だが他の指標(データ)も加速を示しているところを見ると、恐慌になると言っていたケインズ派の予想は完全に外れている。

もっとましな非難は、この成長率の加速は年度から年度に見られる通常の変動の範囲内にあるというものだろう。この主張の問題点を見るためには、以前に戻ってケインズ派が何を示そうとしていたかを考える必要がある。そのためには実質GDPのデータがケインズ派が予想していた通りの動きを見せた2010の保守派の勝利以後のイギリスを見るのが有益だろう。

イギリスの保守派は緊縮を実施して経済の回復の遅さを批判されていた。実際にはイギリスはキャメロン政権の時には世界でも最大級の財政赤字を記録していたためそのような批判は奇妙なものだった。だがここでは敢えて景気循環調整済みの財政赤字のケインズ派の試算方法を受け入れるとしよう。ここで目に付くことは、イギリスは奇妙なスランプを経験しているということだ。

1.イギリスは他のどの先進国よりもより多くの雇用を生み出している。

2.イギリスのインフレ率は相対的に高いばかりか上昇している。

ここで、イギリスには総需要の問題がないと言いたいのではない。だが雇用の増加率を見てみると、イギリスの実質GDP成長率の低下はほとんどが総需要とは関係のない生産性の低下だった。北海油田の枯渇を原因に挙げる人もいれば銀行業の利益の低下を原因に挙げる人もいる。恐らく前政権の「大きな政府」寄りの政策がトレンド成長率を低下させたのだろうと思われる。原因がはっきりしていると主張しているわけではない。だがイギリスは成長率の低下に関して緊縮が原因だったのか、それとも他の要因が原因だったのかという問題の教科書的な例だと思われる。

(北海油田の枯渇、銀行業の衰退などの目に付く緊縮以外の要因があるにも関わらず)Paul KrugmanやSimon Wren-Lewisなどの書いたものから受ける印象は単純だ。緊縮→RGDPの低下、ピリオド。

2013の成長率が1.60%から3.13%へと加速したのではなく、アメリカの成長率が同程度に低下したと仮定してみよう(ようするにほぼ0%に)。少しの間だけまともになってどうか誠実に答えて欲しい。ケインズ派の誰か一人でも「この回復の中断は緊縮が原因ではあり得ない。このRGDPの低下は統計的に有意ではないからだ」と言うと思っている人が一人でもいるだろうか?もしイエスという人がいれば、その人は不誠実だと皆から糾弾されるだろう。

(省略)

日本でリフレ派が総崩れしていたその頃、アメリカではケインズ派が悲惨な総崩れをしていた?パート2

The Keynesian shell game

Scott Sumner

2013にケインズ経済学が大破綻して以来、これまでにケインズモデルを必死に擁護しようとする人たちを数多く見てきた。この記事では、それらの擁護の中で私が遭遇したものをまとめて何故それらが誤りであるのかを見ていく。

2013の実質GDP成長率は2012のほぼ2倍だった。そして名目GDP成長率も加速した。今ではケインズ派たちは2013の財政緊縮を小さなものであったかのように見せかけようとしている。そして重要なことは何一つ起こらなかったかのようなフリをしている。ケインズ派が2012に何を言っていたかとともに、実際のデータを振り返ってみよう。

ウォールストリートジャーナルに寄稿された財政赤字を削減するための政府支出の削減を訴えた80人のCEOの手紙に激怒して、350人の経済学者たちが財政刺激策を求める手紙を公開した(これらの経済学者は80人のCEOたちを馬鹿だの経済のことを何も知らないなどの罵倒していた)。

その手紙には以下のような警告が含まれていた。

『この年度の終わりには、我々は「財政の崖」に直面する。それには2番底の不況を回避するために皆がやめるべきだと賛成している自動的な支出の削減が伴われる』。

その6週間後に、議会は給与税の税率を2%ポイント引き上げた。所得税も同時に引き上げられた。その数か月後には、今度は支出が削減された。2013の4月には、Mike KonczalやPaul Krugmanのようなケインズ派はこの緊縮のことをマネタリストの「テスト」(金融政策によって緊縮の影響は打ち消すことが出来る)だと呼んでいた。

だが不況は少しも起こらなかった。それどころか2013に成長率は加速した。これほど多くの経済学者が間違ったのは1981にイギリスのサッチャー首相を罵倒する手紙を書いたこれまた364人の経済学者の恥ずかしい事件以来見たことがない。では彼らの言い訳とはどのようなものだろうか?ここに私がよく遭遇したものをまとめてある。

1.2012と比較して2013の成長率は加速していない:ここでのトリックは彼らが暦年の成長率を用いていることだ。これは2013の成長率が(緊縮が始まる前の)2012の後半の非常に低かった成長率から大きな影響を受けることを意味している。経済学者は暦年(カレンダー年度)の最初の時期に経済にショックが発生した場合にはその年度全体の成長率(例えばQ4からQ4)を見るべきだと教えられている。2013の平均のGDPと2012の平均のGDPとの比較ではなく。正しい方法を用いると、実質成長率は2012の1.60%から2013の3.13%へと大きく加速している。これには少し誇張があるかもしれない。だが成長率は間違いなく低下していない。

3.第二のトリックは緊縮の規模を小さく見せようとすることだ:トリックの一つは州と地方の政府支出を含む総政府支出を用いることだ。そして緊縮が早く始まったと主張する。だが州と地方の支出には財政政策に関する連邦政府の判断は企業の投資に対する影響と同程度にしかほとんど影響を与えない。連邦政府の政策当局者の視点から見ると、州と地方の支出、それと民間の投資は等しく内生的なものだ。「G」という記号に騙されないようにしていただきたい。ここで重要なのは連邦政府の支出だ。州と地方の支出は成長率に影響を与えるかもしれないし与えないかもしれない。だがそれは(景気刺激を目的とした)財政政策ではない。

4.他のトリックは税と移転を無視して政府産出を見ることだ:これはGDPの計算式の「G」という記号が支出ではなく産出であることによって正当化されようとする。リカードの等価性をモデルに組み込むニュー・ケインズ派であれば政府産出を用いることは許されるかもしれない。だがケインズ派の99%はリカードの等価性を信じていない。そして彼らは給付の削減と給与税の増税は総需要を低下させると頻繁に不満を述べている。従って、今頃になって税と移転は重要ではないと突然言い始めるのは恥ずかしい行いだ。

5.ケインズ経済学とは財政赤字に関するものだと教科書を持ち出してきて主張する:政府の公開している数字を見ると、財政赤字が2012の108兆7000億円から2013の68兆円へと膨大な規模で減少していることが見て取れるだろう。だがケインズ派にとってはさらに都合が悪いことがある。財政年度は10月1日から9月30日までを1年と数える。だが2013の財政緊縮は2013の1月1日に大きな増税が行われるまでは行われてはいなかった。2013の財政年度から3か月は過ぎている。この観点から暦年の2013の財政赤字を計算して、2012の106兆1000億円から2013の56兆1000億円という数字が得られた。1年で50兆円というすさまじい規模の削減だ。これは間違いなく緊縮だ。重要なのは景気循環調整済みの数字だと主張する人もいるかもしれない。だが我々が景気循環のどの辺りに位置しているかを正確に知っている人は誰もいないし、そもそも成長率も50兆円もの財政赤字を削減できるほどにはトレンド成長率と比較して高くはない。2013が財政緊縮の年だったというのは疑いようがない。

ケインズ派の言い訳に騙されないようにしてほしい。彼らが2013の緊縮によって大不況が起こると警告していた。彼らがこれはマネタリストへのテストだと言っていた。彼らに自分たちが言っていたことを修正させてはならない。

日本でリフレ派が総崩れしていたその頃、アメリカではケインズ派が悲惨な総崩れをしていた?パート1

・記事を訳したからといってこの筆者ら(market monetaristと呼ばれる人々)の主張を自分が全面的に支持しているという訳ではない。2013年のアメリカの緊縮をまとまった形で記事にまとめている人が他にはあまりいなかった、彼らの主張である緊縮の負の影響を金融政策が打ち消したという部分以外は正しいと思われるからというのが取り上げた理由。金融政策による打ち消しがあったという主張が間違っている理由は簡単で単年度で50兆円という巨額の財政赤字の削減に対してQE3(量的緩和)がその影響を打ち消したというのはまずあり得ないから。

・それに乗数がケインズ派のいうように流動性の罠では2にも3にもなるというのであれば(ケインズ派がいつも行っているように議論をすごく単純化させると)短期的な負の影響は100兆円から150兆円にもなるはずでそれを量的緩和で打ち消したのであればどうしてそのような巨大な効果に誰も気が付かないのか、どうして今さらに量的緩和をやらないのかという答えるのに苦慮すると思われる疑問が出てくるから。

・素直に考えて、(ここでは増税も財政支出の削減も緊縮とひとくくりにしているが、経済に悪いのは増税であって財政支出の削減ではないと両者をはっきりと区別するべき)不況期であろうと流動性の罠の時であろうと平常時であろうと緊縮には経済に対する負の影響など初めからなかったと考えるべきだと思われるが、そのことはどちらの陣営からも指摘されることはないのであった…

・少し込み入った内容を見ていくと、2013年にはファニーメイ、フレディマックからの10兆円の一時的な払い戻し、富裕層に対する増税はケインズ派的には増税とは見做せないと主張するかもしれないがそれらの影響がほぼ消えている2014年、2015年、2016年現在でも財政赤字は大きく削減されたまま一度も増加しておらず、だというのに恐慌にも不況にもなっていないのだった。

・本文中の名目GDPというところは実質GDPに置き換えても内容はほとんど変わらない。

Is Monetary Policy Capable of Offsetting Fiscal Austerity?

David Beckworth

Mike Konczalはアメリカ経済に大きな自然実験の機会が訪れたと主張する記事を書いた。それはRamesh Ponnuruと私が2011辺りに提案していたものによく似ていた。巨大でしかも国家的な経済実験の機会というのはそうは訪れない。だが2013はそれを試す良い機会のように思われる。去年途中からのマクロ経済政策を観察していれば2つの大きな流れがあることが見て取れる。連邦準備制度理事会(以下FRB)はエバンス・ルールとQE3を採用した。同時に、アメリカでは緊縮が行われた。FRBの政策は経済活動の縮小を打ち消すのに十分だったか?それを議論するには今はまだ時期が早すぎるかもしれない。経済学者は恐らくこの出来事を1世代に渡って議論するだろう。だが昨日の低調だったGDPレポートを見る限りではまるで財政政策が優勢であったかのように見えなくもない。

従って、Mike Konczalは金融政策は緊縮の影響を打ち消すことが出来ないと評価を下したようだ。Paul Krugmanは流動性の罠での金融政策の有効性に疑問符を付ける他の人同様にそれに賛成した。私は興味深い実験が行われているということには同意する。だが彼ら(以下K&K)はその意味を過大に売り込み金融政策の最近の他の側面を無視している。

手始めとして、この実験はQE3が緊縮の影響を打ち消すのに十分かどうかを見ているに過ぎないということを指摘したい。これは私たちが2011に提案していた実際の主張、名目GDPターゲッティング(NGDPLT)は緊縮の影響を打ち消すことが出来るかどうかを試したものではない。QE3はFRBの政策上の大きな変化だ。だがNGDPLTからは大きく異なっている。その違いを見る手っ取り早い方法は、QE3は経済がFedの目標とするインフレ率、失業率にどれぐらい早くもしくは遅く近づいていようとも月額で8兆5000億円の資産(国債)を購入することに限定されているということだろう。結果として、もし悪い経済ショックが発生したとすれば(ユーロ危機、政府のシャットダウン、中国の経済危機などなど)貨幣需要は突然増加し、8兆5000億円の資産購入は十分ではなくなるかもしれない。このケースでは総需要は低下しFedのターゲットへの収束は遅れを見せることになるかもしれない。

その意味でQE3は山道を登っているのか、下っているのかもしくは平坦な道なのかに関係なくペダルを踏んでいる自動車旅行に似ている。その走行距離は道の勾配(ショック)に依存するだろう。そして例え目的地(ターゲット)を知っていたとしても走行距離を前もって知ることは難しいだろう。QE3は目的地すらも分からないQE2よりは優れてはいる。だがその旅行時間がどれぐらい掛かるかにはそれでも不確実性が残る。今度は勾配に関係なく速度が自動的に70マイルに保たれるところを想像してみよう。確実性ははるかに向上し期待の管理ははるかに容易になるだろう。これはNGDPLTにはるかに近いもので金融政策が緊縮の影響を打ち消せるかどうかの真のテストとなる。これはQE3の資産の購入額を毎月変更することぐらいでしか似せることは出来ないだろう。それ故、QE3は理想的とは到底言えない。そしてMatt O'Brienが主張しているように、FedがQE3に乗り気であるかどうかでさえも定かではない。

これらの欠陥を踏まえた上でも、アメリカの財政緊縮を見ることによって金融政策の効果を推測することは可能だ。以前に指摘しているように、アメリカでは2010の中頃以降財政緊縮が行われている。それにも関わらず、FedはNGDPの成長率を一定に保っている。これはアメリカ経済を襲った様々なショック(ユーロ危機、中国経済の危機、石油価格の高騰、新興国の成長率の大幅な低下などなど)のことを考えればさらに印象深い。K&Kはこれを無視している。

Evan Soltasはアメリカ経済とユーロ圏の経済とを比較することによって金融政策の影響を知ることが出来ると記している。下の図ではその比較をしてある。最初の図は両地域のドル建て、ユーロ建てで見た政府支出額を比較している。このグラフは両地域ともに2010の中頃辺りから政府支出がほとんど増加していないことを示している(総連邦支出はアメリカでは実際に減少している。ユーロ圏では対応する数字は見つからなかった)。


今度はこれをNGDPの割合で見てみる。政府支出のシェアは両地域で低下していることが見て取れる。アメリカの政府支出のシェアの低下の方が急激だ。


従って、2つの経済圏で財政緊縮が行われていることが見て取れた。両地域ともに財政緊縮の実験を受けていることになる。ではNGDPに与えた影響はどうなっているのか?下のグラフは両地域のNGDPの成長率を示している。


アメリカの方はNGDP成長率が4%ぐらいで安定している。だがユーロ圏のNGDP成長率は2010辺りから低下していっている。両地域ともに緊縮が行われた。だがアメリカだけが安定的な成長を保っている。これを最も手っ取り早く説明する方法は金融政策の違いだ。FedはECBよりもはるかにアグレッシブだった。これは決定的な証拠というには程遠い。だが示唆的ではある。

2016年5月5日木曜日

サダム・フセインはやっぱりアルカイダを支援していた?

A Myth Revisited: “Saddam Hussein Had No Connection To Al-Qaeda”

Kyle Orton

サダム・フセインが失脚して以来12年が経つが、通説ではサダムの体制はアルカイダとは何のつながりもなく、つながりがあるとする「証拠」は(エジプト政府による拷問によってイラクとアルカイダの間につながりがあると自白したがCIAやFBIはその証言を疑問視していたと報道された)Ibn al-Shaykh al-Libiのようにブッシュ政権が開戦の理由を捏造するために苦心して工面してきたものだと云われてきた。だがイデオロギーから離れると、そしてスティーブン・ヘイズの「The Connection」で示されている証拠を見ると、異なる事実が浮かび上がる。

例えば、「Summary of Body of Intelligence Reporting on Iraq-al Qaeda Contacts (1990-2003)」または「Feith memo,」と呼ばれたもの、上院の諜報委員会に送られた機密扱いとされているペンタゴンの報告書(CIA、NSA、FBIらが抑留者からの報告、情報の連絡、傍受、開示されている情報、生の諜報活動などから得た情報を最終的に報告書の形にまとめたもの)の付録を見てみよう。

この付録は以下のような段落から始まる。「膨大な量の諜報活動が(中略)イラクがアルカイダの活動を支援していたことを示している」。サダムの圧政とアルカイダとのイデオロギーの違いを説明した後で、このメモは以下のように続く。

1990の10月1日:オサマ・ビン・ラディンは「使節団をヨルダンに送った(中略)イラクの政府高官と会談するために」。その使節団を率いていたのはスーダンのイスラム原理主義体制の事実上の指導者で公にサダムのクウェート侵攻を支持していたHassan al-Turabiだった。彼はこの時期のサダムとアルカイダとの主な仲介者だった。

1991:協力を求める姿勢は双方向のものになった。「イラクはアルカイダとの結びつきを確かなものにするためにスーダンの協力を要請した」、「ビン・ラディンはイラクとの結びつきを通して組織の力を拡大しようと目論んでいた」、サダムはアルカイダへの影響力を拡大したいと願っていた。そして国連の制裁によって禁止されていた武器の輸送を手助けした。

1992:「イラクの諜報部隊とアルカイダとの最初の会談はal-Turabiによって仲介され」IISの外部主任Faruq HijaziとAyman az-Zawahiriが出席しKhartoumで行われた。この会談はサダムのイラクとザワヒリのEgyptian Islamic Jihad (EIJ)との間に「極めて秘密裏」の関係を生み出すことになった(EIJは後にアルカイダの核となった)。Hijaziはアルカイダに空欄のイエメンのパスポートを提供した。これは「1992から1995の間にスーダンで繰り返し行われた会合の最初のものだった」。他の会合はパキスタンで行われた。そしてアルカイダのメンバーは時々バグダッドを訪問していた(1992にザワヒリが訪問したものを含む)。そして「イラクの諜報部門の責任者に秘密裏に会っていた」。すべての場合で、「サダムはアルカイダとの関係を秘密に保ち続けた」。

1993:「ビン・ラディンはアルカイダの活動がイラクの指導者に向けられることを禁ずる合意をサダムと交わした」、そして2つの組織は「不特定の活動に関して協力を行うと同意した」。前者の不可侵協定はal-Turabiの要請の下で交わされサダムの失脚後に拡大された。2003の2月にビン・ラディンは「敵と戦うのに際してイスラム教徒の利害が社会主義者(バース党)と一致するのであればそこに障害はない」と触書を出した。そしてアルカイダとバース党はサダムの失脚後に反乱軍(という名のテロリスト)を組織した。

1994:Hijaziはスーダンでビン・ラディンと初めての直接会合を行った。ビン・ラディンは中国製の対軍艦用の吸着型機雷とイラク領内にアルカイダのトレーニング・キャンプを設けることを要求した。Hijaziはサダム側のアルカイダとの「交渉担当官」で、Mamdouh Salim(ビン・ラディンの側近で、上級宗教指導官さらにアルカイダが大量破壊兵器を入手しようとするのに際して中心となって活動した人物)はそのアルカイダ側だった。

1994:アフリカ大使館爆破事件のすぐ後に姿を消したJamal Ahmed al-Fadl(ビン・ラディンが最も信頼した側近の一人)は大量破壊兵器を求めてKhartoum郊外の製造工場にSalimと共に足を運んだ。Al-Fadlは、彼がウラン獲得の試みの責任者だったとも語った。スーダンの首都、Khartoumは(現在のアフガニスタンがそうであるように)アルカイダと深い関わりがあった場所でアルカイダはこの崩壊した国家に目をつけ苦々しい内戦の時には資金と兵士を提供していた。逆にスーダン政府はアルカイダにトレーニング・キャンプの場所とパスポートなどの国家のサービスを提供していた。スーダンのイスラム原理主義体制の庇護の下で、ローグ国家(特にイランとサダムのイラク)とテロ組織(その筆頭だったアルカイダ)は資源を共有していた。

1995の初期:CIAによると、イラクの諜報部隊と「良い関係を保っていた」Salimは「不特定の活動」の内容を協議するためにイラクへと渡った、ことをFBIが突き止めている。

1998の後期:サダムはアフリカ大使館爆破事件以降にアルカイダへのサポートを本格化させ始めた、とIISの内部情報者は語っている。サダムの息子Qusayがアルカイダとの主な接触先となった。そして「パキスタンのイラク諜報活動支部がバグダッドのアルカイダとの接触先となった」。

1998の12月:少なくとも2人のIIS高官がパキスタンのイラク大使館でビン・ラディン、ザワヒリ、そしてアフガニスタンのタリバンの指導者オマーと会談している。「イラクのバース党はアルカイダとの結びつきを広げようとしていた」。

1998の12月21日:当時のトルコの大使だったHijaziはビン・ラディンに会うためにアフガニスタンへ向かった。

1999の初期:Hijaziは「何人かのイラクの他の高官を引き連れてビン・ラディンと会談するために」アフガニスタンへ向かった。「Hijaziはサダムの明確な指示がなければビン・ラディンと会うことはない」と理解されていた。

1999の7月:アメリカの対イラク諜報部門の上級職員であるKhalil Ibrahim Abdallahは「IISとアルカイダとの最後の接触」が行われたと語った。「ビン・ラディンはサダムとの会談を望んでいた」と彼は語り、だがこの独裁者は「イラクの諜報部隊にこれ以上の接触は控えるように指令を下した。(中略)サダム自身はアルカイダから距離を取りたがっていた」と語った。彼は把握していなかったが、実際には接触は続けられていた。だがもしここで接触が終了していたとしても、これもイラクの諜報部隊の高官がサダムとアルカイダの関係に関して証言したことだが、関係がなかったのだとしたら「距離を取る」必要はなかっただろう。

1999の11月:サダムはビン・ラディンとアルカイダの幹部を匿うことを検討していた、とNSAの傍受が発見した。この考えはイスラマバードのIISの長官Khalid Janabyから出されたもののようだった。彼は「ビン・ラディンと頻繁にコンタクトを取りよい関係を保っていた」。

2000の12月:大量破壊兵器の実験が継続的に失敗していた中で、Kandahar郊外のKhaldenキャンプを指揮していたアルカイダ幹部のIbn al-Shaykh al-Libiは「大量破壊兵器の製造方法を学ぶために2つの実行部隊をイラクへ」送った。Al-Libiとビン・ラディンのエジプトでの軍事司令官だったMohammed AtefはAbu Abdullah al-Iraqiを勧誘し他のアルカイダのメンバーにさえも関係を秘密にするように指導した後で1997に彼をバグダッドへと送った。この指導にはサダムとその体制は喜んで従った。Abu Abdullahの2回目の渡航の後に、イラクの諜報部隊は英語が話せてアルカイダのメンバーと疑われにくい非アラブ系の2人の男を勧誘するように指導した。この関係が発覚しにくくなるように図った。1人のフィリピン人と国籍不明の男が勧誘され、実際に2000の終わり頃にイラクへと送られたのもこの男たちだった。サダムは当時としては最近の出来事だったアメリカ海軍軍艦爆破事件に特に感銘を受けたようだった。このパターンはサダムが支援をしていたAbu Sayyafのようなグループによって繰り返された。

20002の10月:アメリカの諜報部は「アルカイダとイラクはイラクがアルカイダのメンバーに対して安全地帯を保証し、彼らに資金と武器を提供するとの秘密の合意を結んだ。その合意により大量のアルカイダのメンバーがイラクへ向かうことになった。(中略)パスポート偽造のネットワークに関与していたアルカイダの2人のメンバーは(中略)アルカイダの幹部用にイラクとシリアのパスポートを90個作成するようにとの指令を受けた。(中略)アメリカのアフガニスタン攻撃は保護されていたアルカイダの基地を窮地に追いやり(中略)アメリカがアルカイダの資金源をターゲットにしているので、幾つかの支部は活動を継続するのに新たな資金を必要としているかもしれない」との報告書を提出した(イラクのバース党の指導者がシリアに送った主要な資源の一つは空のパストートが入った「大量の箱」だった。このパストートはダマスカス国際空港に到着したサラフィ派の聖戦主義者に渡され、アサド政権の共謀の下に彼らはイラク国境へと移送された)。

そして1992の3月にサダムのMukhabaratによって編集された22ページの「トップ・シークレット」のリストがある。ここにはビン・ラディンが「シリアの我々の部署と良好な関係を保っている」と記されていた。DIAはこの文書が本物であることを確認した。だが参照が十分に詳細でないとしてこれを「重要ではない」と見做した。他にも「IISとオサマ・ビン・ラディンとのシリアでの契約」に関する内部文書が報告書の中には記されていた。

1994に、サダムの息子UdayとIISの長官がスーダンでのビン・ラディンとIISとの会合の日程を調整するためにスーダン政府の高官が話し合いの場を持った。ビン・ラディンには「大統領(フセインのこと)の許可が出た」後に「我々の方(イラクのこと)から近づいた」とサダム政権の文書に記されている。1995の2月19日にIISの高官がビン・ラディンと会談した。ビン・ラディンはサダムの国営放送に反サウジのプロパガンダを流すように依頼した。サダムはこれに同意した(更新:サダムは1995の3月4日に、サウジの王政を非難していた原理主義者の説教師を招くようにイラクの国営放送に命令を下した)。ビン・ラディンは、アルカイダとイラクがサウジアラビアに駐屯している「外国勢力に対して合同の軍事作戦を行う」という提案もしていた。イラク側の反応は文書の中に記されていない。ビン・ラディンはIISの爆発物製造のエキスパートだったBrigadier Salim al-Ahmedとも「1995にKhartoumにあるビン・ラディンの工場で」会っていた。ビン・ラディンが1996の5月にアフガニスタンに移動した後で、サダムはアルカイダと連絡を保つ「他の経路」を探し求め、これを見つけた。

(更新)1990年代初期のサダムとアルカイダとの関係を示す証拠はクロアチア政府によるal-Kifah (Fight) Relief Organizationの調査によっても明らかになっている。Al-Kifahはブルックリンを本拠としていて1993の世界貿易センタービルへの初めての攻撃を含むテロ計画や国際電話代をファイナンスするための資金をアルカイダから定期的に受け取っていたOmar Abdel-Rahmanによって管理されていた。Al-Kifahはボスニアに向かっているサラフィ派の聖戦主義者たちに資金と物資を送るためにザグレブにオフィスを開いていた。クウェート占領時にイラク政府によって盗まれたクウェートの通貨を用いてアルカイダから資金を受け取っていたため選ばれた。

テネットによると、サダムとアルカイダとの間には少なくとも8回の「ハイレベル」での会談があった。それにはイラクの諜報部隊の責任者がビン・ラディンと会談した少なくとも2回が含まれ、他にも1990年代から2000年代を通して低いレベルでははるかに多くの接触が行われていた。

CIAのソースによると、ザワヒリは1998の2月3日にバグダッドに到着しイラクの副大統領Taha Yassin Ramadanと会談した。「この訪問の目的はイラクとビン・ラディンとの協力の調整を行うためでal-Fallujahとan-Nasiriya、イラクのクルディスタンにトレーニング・キャンプを設置するためだった」。ザワヒリのEIJはこの時、サダムから3000万ドルを受け取っている。ザワヒリがイラクを去った時期は明らかになっていない。

1998の2月23日に、ビン・ラディンとザワヒリがアメリカ人に対して攻撃を呼び掛ける宣告(イラクを中心とした内容だった)を出したのと同じ日に、IISは「将来の関係性」を議論するためと「ビン・ラディンとの直接的な会談を達成するため」にビン・ラディンが「信頼している側近」の訪問を許可した。バグダッドはスーダンでのIISの活動拠点を「旅行の日程と促進」を行うために使用した。そして「イラク内部での旅行代、ホテル代をすべて負担した」。アルカイダの大使「Mohammed F. Mohammed」は1998の3月5日にバグダッドに到着してイラク諜報部隊のゲストとしてMansur Melia Hotelの414号室に宿泊した。そして3月21日に去った。

同じぐらいにサダムとアルカイダとの関係を示している他の文書が、1998の3月の会談の内容を記している文書だ。この文書は相当量の長さで、サダムがアルカイダとの関係を内部にさえも秘密にし続けていたことを示している。ビン・ラディンの名前が3回言及されているところはすべて黒く塗りつぶされ、付属文書にも書き方に注意書きが為されている。

この文書は2人のレポーターによって、トロント・スターのミッチ・ポッターとテレグラフ紙のインディゴ・ギルモアによって2003の4月に発見された。ヘイズの本は2004の6月に出版されたというのに、アメリカ政府の誰もこのジャーナリストに連絡を取らなかった。私はポッター氏にこのことをどう思うかと尋ねてみた。彼は「これは本物の文書だとずっと確信しています」と答えた。だがそれがコピーだったので、「コピーだというのに、その内容があまりにも重大なものだったのでバグダッドのMukhabarat HQから持ち出される前にイラク諜報部隊の誰かがビン・ラディンの名前を注意深く塗りつぶしたのだと思います」。その文書はコピーだったので最終的には「検証できないと見做された」。

9月11日のテロ攻撃の調査委員会は、これはそれほど独立した出来事ではないと思われる説明を与えた。「1998の3月には、(中略)アルカイダのメンバー2人がイラクへ旅立ち諜報部隊の幹部と会談していたと報告されている」と委員会は報じた。回収された文書にはメンバーの名前が1人しか記載されていなかったため、アルカイダは1998の3月に2人の使節をバグダッドへ送っていたことは十分考えられる。

The African Embassy Bombings and Al-Shifa

サダムとアルカイダのこの活動の嵐は、クリントン大統領が1998の2月17日にペンタゴンで敵対的な演説を行うなど見掛け上は湾岸戦争の終結の準備をしていたと見做されていた時期だった。アナン事務総長はサダムが窮地から脱するように働きかけていた。だがサダムとアルカイダとの関係は1998を通じて深まっていた。

ビン・ラディンは1997の春に「メンバーを何人か送り込んでイラクの体制と接触させていた」と9/11調査委員会は報告している。だが大きな反応は得られなかった。1998の初期にはその状況は変化し、バグダッドはビン・ラディンに求愛を求めるようになった。

1998の7月に、「イラクの使節団はアフガニスタンを訪れ、最初はタリバンと会談するという名目でそしてビン・ラディンと会談した」。委員会は3月と7月の会談の少なくとも一方、「おそらくは両方」が「ビン・ラディンのエジプト支部責任者のザワヒリ(彼は自分自身のイラクとのコネを持っていた)を通して実現した」と語っている。不可解な理由で、9/11委員会はこれらのザワヒリとサダムとのつながりを一度も追求しようとはしなかった。

1998の夏には、アメリカは問題がやってこようとしているのを把握していた。7月29日に、CIAのCounterterrorism Center (CTC)は「ビン・ラディンによる潜在的な大量破壊兵器による攻撃の可能性」を警告していた。8月7日には、アメリカのアフリカ大使館が爆破された。8月20日にその対応として、クリントン大統領はアフガニスタンのアルカイダキャンプ地とスーダンの薬品製造工場へトマホークミサイルを発射した。

クリントン大統領は、サダムのイラクがスーダン政府の大量破壊兵器製造プログラムに技術と物資を提供したこと、そのプログラムにはその製造工程へのアクセスを与えられていたアルカイダが資金を提供したことの証拠は非常に示唆的だと議論した。

サダムとビン・ラディンがスーダンの大量破壊兵器製造プログラムに関してどのぐらい共謀していたかに関してよく議論が為される。サダムはアルカイダが「スーダンの政府と一緒になって製造していた」ということを知らなかったとする前CIAの反テロリズム分析官Stanley Bedlingtonの議論は説得的ではない。これは「共有知識」だった。ビン・ラディンが大量破壊兵器をずっと以前から欲していたこと、彼がサダム・フセインから助力を得るつもりだったことのはっきりとした証拠のことを考えると、ビン・ラディンが後援者がバグダッドにいたことを知っていたかどうか(スーダンの大量破壊兵器製造プログラムに技術と物資を提供していたのがフセインだったことを知っていたかどうか)はほとんどどうでもいいことのように思われる。だがサダムとビン・ラディンはお互いの存在さえ知らなかったというメディアによって流布された最も極端な議論が最も大衆に広まっている通説であることを思えば、仕方のないことだろう。だがアルカイダがスーダンの大量破壊兵器製造に関わっていたことをサダムが知っていたかどうか、またはサダムがスーダンの大量破壊兵器製造に関わっていたことをビン・ラディンが知っていたかどうかという議論は以下の点からは逃れることが出来ない。

「イラクがビン・ラディンに技術とノウハウを提供していたという事実(間接的であったとしても、無意識にであったとしても)はサダムを政権の座から退けないことの危険性を示している」

他の主要な議論はAl-Shifaがスーダンでのサダムとアルカイダの共謀の一環であったかどうかだ。

イラクがAl-Shifaに関与していたことはKhartoumによって実際に認められている。この工場が薬品工場であったと証明するために、スーダン政府は国連のoil-for-food programの一環としてイラクへ送られた10万箱の獣医薬をサダムから19万9000ドルで購入した契約のことを指摘している。Intelligence Communityはそうであればその契約は医療の備蓄品のための正規の取引ではなくマネー・ロンダリングであったり違法な物質の取引である可能性が圧倒的に高いと判断を下している。この判断は何もないところから導き出されたものではない。

(更新)Al-Shifaが1996に稼働した時に、祝賀式に出席したのはイラクの大量破壊兵器製造プログラムの父であるAl-Shifaだった。彼は「スーダン政府高官とその工場で非常に緊密な関係を保っていた」とアメリカの諜報部門の高官は語っている。さらに、「イラクの技術者が頻繁に訪れていてShifaの薬品工場よりも厳重に警備されていた」2番目の大量破壊兵器製造工場とみられる場所が存在した。だがその場所は住宅地に近く市民への被害が甚大すぎるとして見送られた。

1997に、サダムは現在の南スーダンにあるWauで大量破壊兵器を製造していると報告された。サダムは制裁の回避手段を得た。スーダンは内戦で使用するための大量破壊兵器を得た。サダムが大量破壊兵器をイラクの外、スーダンやリビア、イランにまでも輸出しているという訴えは1990から1991にまで遡る。イラクとスーダンとの協力体制は1995の後半には合意に達していたと見られ、そして初期には内戦時にはハルツーム側をイラクの「武器とパイロット」によって助ける条項が含まれていた。そしてこの「協力体制は後に大量破壊兵器の製造が含まれるまでに強化された」。スーダンの反乱軍は、イラクの戦闘機が自分たちに向かってマスタードガスを使用し、そしてハルツーム政府自身も彼らに向かって毒ガスを使用してきたと主張している。これらのほとんどは戦争時のプロパガンダとして無視された。だが1998の10月に、スーダンの反乱軍は地下の軍事施設を制圧し大量のガスマスクを発見した。

アルカイダとAl-Shifaの関わりを示すより論争を呼ぶ議論がある。Al-Shifaは攻撃の5か月前にSalah Idrisによって購入されていた。彼は攻撃の際に資産を凍結され訴えた。資金源や取得の手段の話になると彼は訴えを取り下げた。彼はサウジの「The Golden Chain」Shaykh Khalid bin Mahfouzと深く関わっていたことが後に明らかとなっている。この工場の管理・運営者もまたアルカイダが資金を提供して購入された住宅に住んでいた。だがこの工場へのアルカイダの関与の正確な実態は今も謎のままとなっている。

クリントン政権のテロ対策責任者だったRichard Clarkeは「ビン・ラディンとこの工場の現在と過去の活動、イラクの毒ガス製造の専門家、スーダンのNational Islamic Frontを結ぶ諜報活動による情報が存在する」と語っている。彼はこの工場を破壊しなければクリントン大統領は「自身の責務を放棄したことになっただろう」と付け加えている。

興味深いことに、クリントン大統領がAl-Shifaを攻撃していた時にスーダン政府の外相Osman Ismailはバグダッドにいた。そして8月27日に、ウダイが支配しているバベルというイラクの新聞紙はビン・ラディンを「アラブの英雄」だとする論説を出版した。4日後に、イラクの副大統領は表向きは陳腐な名目でスーダンに向かった。だがビン・ラディンのために動いていたハルツーム政府はイラクが彼に難民申請を与えるかどうかを尋ねていた。

The Saddam-Qaeda Relationship Deepens

1998の春に書かれて11月6日に一般公開されたアメリカのビン・ラディンに対する起訴状にはこのようにある。

「アルカイダはイラク政府の害となる活動を行わないとの合意をイラク政府との間に交わした。そして特定の活動に対して(特に兵器の製造に対して)アルカイダはイラク政府と協力を行う
ことでも合意した」。

これは根拠をなくして書くことの出来る類の文書ではない。アメリカ政府は誓約の下で証言をする誰かを探し出さなければならない。Al-Shifaは上記の協力の合意が実行に移された例だとみられていた。

上でも述べているように、IISとビン・ラディンとの一連の会談は1998の後半にアフガニスタンとパキスタンで行われた。1999の2月に、Richard Clarkeは信頼できるソースがサダムが「ビン・ラディンに難民資格を提示したかもしれない」と語ったと報告した。もしビン・ラディンがイラクに亡命すれば、アルカイダはサダムのmukhabarat(諜報部隊、秘密警察、特殊部隊その他諸々のイメージ)に組み込まれるだろうしビン・ラディンを見つけることは「事実上、不可能」になるだろうとClarkeは記している。ClarkeはU2戦闘機を派遣することに反対した。それにはパキスタンの許可が必要で、ビン・ラディンと「ほとんど完全な協力体制にある」ISIは彼を逃がすだろうからだ。アメリカが彼を攻撃しようとしていることをもしビン・ラディンに知られてしまえば、「オサマはバグダッドに逃げ込んでしまうだろう」とClarkeは記している。

このような記録がはっきりと残っているにも関わらず、Al-Shifaに関するClarkeの発言の記録もしっかりと残っているにも関わらず、彼が「サダムとアルカイダとの間には何の関係もなかった」と2004に発言したことは(発言できたことさえ)我が目を完全に疑うような出来事だった。彼の以前の発言との整合性が問題視されなかったこともだ。

さらに驚愕することには、1998から1999に起こったこれらすべての出来事は完全に一般の目に公開されていたということだ。サダムとアルカイダとのつながりはメディアによって広く報道されていた。1998の12月のFaruq Hijaziによるアフガニスタンへの訪問は特にだ。アルカイダのメンバーが1998の4月28日のサダムの61歳の誕生日に出席している様子は「サダムプラスビン・ラディン?」などのような見出しでニューヨーク・タイムズでもニューズウェークでも報道されている。

クリントン政権の後期には、サダムは脅威でその中でも彼が大量破壊兵器をテロリストに渡すことが最も恐ろしいことだ、というのは通説となっていた。1998の10月には、上院は反対票もなくIraq Liberation Actを通過させた。これによりサダムを政権から取り除くことがアメリカの公式の政策となった。1998の12月には、クリントン大統領はOperation DESERT FOX(砂漠のキツネ作戦)を命じた。サダムが武器の査察官を再びイラクから追い出した後に。

2002から2003にサダムとアルカイダとのつながりが問題にされた時に、一部の上院議員とほとんどのメディアがアムネシアに陥ったのは、党派性が原因であるとの疑惑を退けることは非常に難しい。

Saddam’s Connections with Non-al-Qaeda Terrorism

サダムはアルカイダとは何の関係もなかったと激怒しながら主張する人たちの意見があれほどまでに説得力がない理由の一つには、サダムが幅広い層のテロリストグループとつながりを持っていたことが挙げられるだろう。「昔ながら」のパレスチナのテロ集団や左翼のテロリスト集団、1980年代の初期からサダムの外交政策の影の道具となっていたイスラム原理主義のテロリスト集団までだ。

サダムはイスラム原理主義のテロリスト集団と1983以降継続的に「Popular Islamic Conferences」を開催していた。彼らの多くは自国の国家安全保安局などから追われていた。これらの会談の目的は危機の時に使用するために連帯感を高めておくことだけではなくコネクションを確立するためでもあった。ロサンゼルス・タイムズのMark Finemanは1993の1月にそのような会議を傍聴した時の様子を記事にしている。その中にははるか遠くのアフガニスタンから出席しているイスラム原理主義者やその年の後半に公式に活動を開始し始めたFaith Campaignの指導者Izzat Ibrahim ad-Douriらが「イスラムの聖戦士サダム・フセイン」を称えながら攻撃的なスピーチをしている光景が描き出されていた。だがFinemanの目を最も捉えたものは「サミットはそれらの原理主義者たちを西側との戦いのために勧誘しているイラクの諜報部隊員で一杯に溢れかえっていた」ことだった。

イランとの長い戦争の間に、サダムはイランに対して頻繁にテロ攻撃を行っていた。最も有名なものは、イランのアラブ武装組織(スンニ派)Democratic Revolutionary Front for the Liberation of Arabistanを用いて1980の4月から5月の間にロンドンのイラン大使館を包囲した事件だろう。サダムはイランの同盟相手であり自身の最大のライバルでもあるシリアのバース党に対してもスパイ戦争を行っていたが、その間にダマスカスからパリまで爆破された。

1976から1982の期間に、シリアのムスリム同胞団(SMB)はHafez al-Assadに対して反乱を起こした。アサド(父)がハマにて一切の慈悲なくこの反乱を叩き潰すと(まさにデジャヴ)、SMBの穏健派だった人々はヨルダン、サウジアラビア、ヨーロッパへと向かったが急進派たちはバグダッドへ向かい、al-Rashdiyaのキャンプで歓迎を受けた。だがその場所はそもそも彼らが初めに訓練を受けた場所でもあった。サダムは自身の政権がイスラム教義的に見て正当であることの証拠としてSMBの年長者を定期的に駆り出していた。これは少なくとも2000の2月後半までは続けられた。

SMBのより原理的な集団「Fighting Vanguard」は当時のアルカイダのようなものだった。実際、そのメンバーの多くはアルカイダの前身だった組織に加わっていて最終的にはアルカイダそのものになった。

SMBの超原理主義者の一人、Imad Eddin Barakat Yarkasは1986にイラクを離れ9/11で死亡したパイロットMohamed Attaのルームメイトになった。彼は2001の11月にスペインで逮捕され9/11の虐殺の計画の手伝い、資金集めに協力した罪で有罪判決を受けた。Jabhat an-Nusra(シリアのアルカイダ)のイデオロギーの中心だったAbu Musab as-Suri (Mustafa Setmariam Nasar)はハマの後、イラクのためにシリアを離れ実質的にアルカイダのスペイン支部の一部になった。

Sabri al-Banna (Abu Nidal)はオサマ・ビン・ラディン以前には最も危険な国際的テロリストと見られていた。彼はイラクのバース党が生んだ産物だった。アルバンナは1974にパレスチナのPLOから分離独立しバグダッドに逃れイスラエルと和解するつもりだった穏健派のパレスチナ人を殺害し当時のイラクの天敵だったシリアを攻撃した。アルバンナはアサド政権を転覆させるためにサダムの代理としてSyrian Ikhwansを訓練した。ここでも非宗教/宗教との対立の構図とはほとんどが西側の空想の産物であることを再び浮き彫りにしている。アルバンナは1983以降はシリアとリビアで過ごしていたと見られる。だが彼はイラクに拠点を持っていた。彼が犯した最も重大な事件である、イスラエルのレバノン侵攻の引き金となったイスラエルのイギリス大使の暗殺のために。Hindawi affairとLockerbieの後で、アサドとカダフィがテロリストから距離を取りたがっていた時に、アルバンナを追放することは政治的に利益が大きいと見られていた。そしてアルバンナが1999に引退した場所がまさにバグダッドだった。サダムのmukhabaratはアルバンナを2002の8月16日に殺害した。サダムがアルバンナの国際犯罪に深く関わっていたことが発覚する恐れを未然に防ごうとしてのことだと云われている。

Muhammad Zaidan (Abu Abbas)は、彼が1985の10月にAchille LauroをハイジャックしてLeon Klinghofferを殺害した後にもイタリア政府による拘留を逃れることが出来た。彼がイラク大使のパスポートを持っていたためだ。彼はすぐにバグダッドに逃亡した。

クリントン大統領は就任時にサダムにこれまでの犯罪をすべて水に流すと提案した。バプティストとして、「私は死の床での改宗を信じている」と1993の1月14日に彼は語った。1993の4月に、サダムは車爆弾を使ってクウェートでブッシュ(父)大統領を暗殺しようとした。そのためクリントン大統領は6月26日にイラクの諜報部隊の本部へ空爆を命じた。サダムはWali al-Ghazaliを駒として用いた。1991の3月の反乱に参加していたシーア派でサダムの関与を否定しようとするためには都合がよかった。

パレスチナの過激派へのサダムの援助は最後まで続いた。クウェート占領時のアラファトによるサダムへのサポートはサダムとPLOをわずかに和解させたが、アラファトがすぐにオスロ合意に参加したことでサダムはより暴力的なテロリストを支援するという従来からの政策に回帰した。Arab Liberation Front (ALF)を通して(パレスチナでサダムの命を受けて動いていたあからさまな偽装団体だった)、サダムは第二次インティファーダにおけるイスラエルへの暴力的な攻撃を金銭的に支援し自爆テロ実行犯の家族へ2万5000ドルまでを支払うことによりPLOにより力を失わさせた。自爆テロ実行犯の大部分はHAMASとIslamic Jihadのメンバーだった。

Saddam’s support for international terrorism also took place within Iraq’s borders.

(更新)2003の4月に、「イラクが存在しないと主張していた」テロリストのトレーニング・キャンプがバグダッドの近郊で見つかった。そのキャンプは「我々がアフガニスタンで見つけたものよりもより洗練されたものだった」とRobertsonは説明している。「そのキャンプにはアメリカ海軍がCamp Pendletonに持つ施設に匹敵するものもあった」。そのキャンプは1977以降Zaidanが指導者を務めていたPalestine Liberation Front (PLF)の拠点だった。そのキャンプの目的はイラクの内部文書にさえも明らかにされていない。2001の11月に、イスラエルはヨルダン川西岸のPLFの支部を制圧しテロリストたちがサダムから資金援助され訓練されていたことを発見した。これにより検問所やバスの爆破、18歳のYuri Gushchinの殺害などを含む数え切れないほどの犯罪を実行可能としていた。(数千人のユダヤ人が殺害された)第二次インティファーダ時の訓練されたテロリストのほとんどはサダムのイラクで訓練された者たちだった。

Salman Pakにはサダムの特別部門によって運営されるアラブ中から集まったテロリストのトレーニング・キャンプがあった。訓練の内容には暗殺、誘拐、空港機、バス、列車などのハイジャック、自爆テロなどが含まれていた。キャンプは目につかない場所に隠されバース党の幹部に対してさえも秘密にされていた。似たようなキャンプがLake Thartharにも存在していた。これらのキャンプだけでも少なくとも8000人のテロリストが訓練を受けたと云われている。アルカイダのメンバーがここで訓練を受けたかどうかは判っていない。驚くべきことではないが、Salman Pakを管理・運営していた諜報部隊の職員がサダムが失脚した後の反乱軍と呼ばれるもののコアとなっているFedayeen Saddamを訓練した者たちだった。そして今はISISの軍事的強さの源泉となっている。アメリカがバグダッド陥落の数日前にSalman Pakを制圧した時、サラフィ派の外国のテロリストがそこにいたのが目撃された。そして彼らが今も戦っているほとんど最後の勢力となっている。

サダムは2003にバグダッドを防衛するために4000の外国のmujahideenを招集した。アメリカ政府は2000ぐらいだったと信じている。どちらにしてもサダムが聖戦主義者たちと同盟を結んでいたことに疑いの余地はない。アラブの志願兵たちのほとんどが本国に帰ったのとは異なり、軍事的訓練を受けた者たちの大部分は戻らなかった。そしてサダム体制があっさりと崩壊したことにもあまり影響を受けなかった。ヘイズの本が出版された後に、サダムの外相Naji Sabriによって書かれた手紙の内容が明らかとなった。それによりサダムが「同盟の車両検問所を市民の車による自爆テロで攻撃せよ。アメリカにイラク市民との接触は戦場と同じぐらいに危険だと思わせるために」と指令を出していたことが明らかとなっている。端的にまとめると、サダムは自爆テロリストを自分のために用意していた。そして占領を不安定化させるために彼らを使ってアメリカとイラク市民の間を分断させようと考えていた。

Ansar al-Islam

サダムとアルカイダとのつながりで最も重要だったものの一つはイラクのクルディスタンを拠点に持つサラフィ派のテロリストグループAnsar al-Islamだった。彼らはサダムとアルカイダの両方を支援し、ポストサダム後の反乱軍と呼ばれるものの重要な部分となった。

ISISの開祖でイラク市民の首をはね虐殺したビデオで悪名をはせたAbu Musab az-Zarqawi (Ahmed al-Khalaylah)はソビエトによる侵攻が終了する間際だったアフガニスタンにいた。そして本国であるヨルダンでジハードを起こそうとして1994の3月以降逮捕されていた。1999の3月に特赦の下に釈放されると、8月にはパキスタンに向かい12月にはアフガニスタンにたどり着いた。ビン・ラディンはZarqawiの教義を一度も受け入れたことはなかった。だがエジプトのアルカイダの軍事的指導者だったSayf al-Adelはレバントでのそしてヨーロッパにまで広がる彼のコネクションは有用だとしてビン・ラディンを「実用主義の下に」説得した。これらのコネクションはザルカウィがラディソン・ホテルを爆破しようとした「ミレニアム計画」のヨルダン側の計画に関わっていた1999の12月にはすでに利用されていた。

2000の初期に、ザルカウィとその信者たちにはHeratでキャンプを設置するための資金がアルカイダから与えられていた。ザルカウィのグループは大部分がヨルダン人とパレスチナ人で構成されていた。2001の10月には、ザルカウィの一派がアフガニスタンから追放された頃には、このキャンプには妻や子供を含む3000人が暮らしていた。

戦闘のためにアフガニスタンに旅立ちアルカイダと一緒に訓練を受けたのはイラクのクルド人の別部族だった。イラクのクルド政府によると「1998に、最初のイスラムテロリストが(中略)イランからの助けを借りてイランの国境を越えてクルディスタンに侵入してきた」。クルド人のイスラム原理主義者はすぐにこの地域の支配権を握ろうと画策してきた。1999までには彼らはトレーニング・キャンプを設置していたと見られている。だが彼らはすぐに出て行った。

ザルカウィがHeratにキャンプを設置したそのすぐ後に、彼は自分が最も信頼していたヨルダン人の信者のAbu Abdel Rahman al-Shami (Raed Khuraysat)をサラフィ派のジハーディストを組織するためにイラクのクルディスタンへと派遣した。これはザルカウィに30万ドルから60万ドルを資金援助したビン・ラディンとの協力の下に行われた。これにより彼の組織は2001の9月1日にJund al-Islamという組織に統合され、2001の12月にはさらなる統合を果たしてAnsar al-Islamという名称に改名された。

表向きにはMullah Krekar (Faraj Ahmad Najmuddin)によって率いられていたこの組織はイラクのクルディスタンで20万人の人々に対してタリバン形式の虐殺を開始した。これにより彼がアフガニスタンから撤退する時の避難場所が生まれることになった。これはまったくの偶然とは思われない。これはザルカウィと、そしてビン・ラディンの悪魔の計画の一部であったように思われる(アフガニスタンから撤退することになった時のためにあらかじめクルド人を虐殺して避難場所を確保しておいた)。そしてこれは実を結ぶことになった。ザルカウィがアフガニスタンを追放されることになった時、彼は自分に忠実だった男に導かれて撤退することが出来た。

この組織を通じたサダムとアルカイダとのつながりは恐ろしいものだった。この組織の表向きのNo.3で実際は「実質的な意思決定者」だったSaadan Mahmoud Abdul Latif al-Aani (Abu Wael)はイラクのIISの元大佐でサダムの代理としてイスラムテロリストたちとの交渉役を務めてきた人物だった。al-Aaniがサダムのために勧誘してきたサラフィ派のテロリストにはイラクのビザが与えられた。アメリカがタリバンを攻撃した後には彼との連絡が途絶えたため、再び彼との連絡を取るためにQassem Hussein Mohamedが送り込まれることになった。だがMohamedはクルド政府によって逮捕された。

2002の5月に、イラクのIISが「Ansarに10万ドルの資金を提供し、さらに援助を続行することに同意した」とNSAは報告している。サダムもこの組織に武器を提供している。mukhabaratのエージェントAbdul Rahman al-Shamariはこの組織に武器を運ぼうとしていたために2002の3月にクルド人によって捉えられた。Al-Shamariはサダムがこの組織に現金を「毎月」送金していること、ウダイ・フセインがこの組織のオペレーションに深く関わっていることを自供した。

(更新)Erbilは、数多くの囚人がこのつながりを証言しているためサダムがこの組織を支援していたと最初から主張し続けている。「この組織とアルカイダなどのテロリストグループはムハーバラートのSchool 999の卒業生によって訓練された」とムハーバラートのメンバーは語っている。「イラク政府はアルカイダに武器と爆発物を提供するなどして直接的にアルカイダを支援していた。Ansarはアルカイダの一部で、イラクからトレーニングと資金の面などで支援を受けていた」。サダムはクルド人の安全地帯を破壊することに夢中になっていたとムハーバラートの幹部は付け加えた。そして「支援することを決して止めなかっただろう」とも語った。バース党とAnsarとのつながりが否定しようのないものになった後に、PUKの幹部Mohammad Tawfiqはこう付け加えた。「バース党は彼らにロジスティック面でのサポート、資金、武器、移動、安全な居住地などを提供した。Ansar al-Islamのような組織は自爆する用意のある人々を提供した」。

これらのほとんどはリアルタイムで知られていたことだった。ショッキングだったのはクルド人がAnsarのテロリストを逮捕したことを2002の3月25日にJeffrey Goldbergが報じたというのにCIAの尋問が遅れたことだ。CIAの責任者John McLaughlinが国防総省長官Paul Wolfowitzにこの問題を尋ねられた時に、Douglas FeithによるとCIAは回答を拒否したという。CIAは衛星写真とSIGINTと呼ばれる諜報手段を好んでいた。そして有給の情報提供者を好むという極めて強いバイアスが掛かっていた(オープンソースの諜報活動(OSINT)を信頼していなかった)。これは非常に大きな問題だった。CIAは2003以前のイラクに人間の諜報活動員を誰一人送り込んでいなかったからだ(HUMINT)。OSINTの一般的な軽視傾向は悪い慣行だった。前NSAの幹部John Schindlerが指摘しているように「重要な情報源へのアクセスを得るという諜報活動の基本と思われたことに対して私が最もショックを受けたことは、諜報活動によって得た情報の90%以上は(中略)新聞で報道されていた内容よりも特に詳しいというわけではなかったということだ」と語っている。CIAの対応の遅れは単なる方法論上の論争ではないと考える理由が他にもある。CIAは「非宗教的な(世俗的な)」バース党がアルカイダと協力するはずがないと断固主張していた。だからCIAはその反対を示す証拠がどれだけ出てこようとも調べることを拒んだ。Feith drylyが述べているように「それが彼らの立場を守る手段」だった。2002の7月に、CIAはクルディスタンにようやく人を送った。そして「イラクとAnsarとの協力体制を示す報告書が大量に送られCIAの分析官によって信頼できるかつ重要であると評価された」とFeithは記している。

自分たちの理論に合うように分析を捻じ曲げたことで大批判を浴びたことによって、分析を再調査することになり2002の10月にテネットは一般向けのパブリック・レターを公開することになった。そこには「イラクとアルカイダとの間には少なくとも10年前から遡る高官レベルでの結びつきがあった」、そして2つの組織は「安全地帯と不可侵条約に関して話し合った」と記されている。アフガニスタンにいたアルカイダのメンバーがバグダッドを含むイラクに現れたことに関しては、「イラクは毒ガスの製造、爆弾の製造などの分野でアルカイダのメンバーに製造法を教えた」と記している。従ってテネットがそれと彼のファンがイラクとアルカイダとの間には何の関係もなかったとCIAは結論していると今でも主張している人がいるとすれば、それは文字を読むことが出来ない人たち(メディア、不思議なことに知識人と呼ばれる人たち)の作り話を未だに真に受けているからということになる。

2002の4月に、ザルカウィがイランからイラクへと移動した月のこと、ザルカウィはAnsarにクルド自治政府の首相Barham Salih(前回の記事を参照)を殺害するように命じたと云われている。サダムがこれに関わっていたと疑う理由が山のようにある。Salihは西側とのインタビューでサダムはテロリストとつながっていると答えているし、サダムがこれまで予防的に敵を1人残らず殺害してきたことを思えば、しかも1990年代を通して非常に人気の高かったシーア派の宣教師である彼となると、西側の攻撃が迫っている時に西側との連帯をはっきりと表明しているこのクルド人の指導者を取り除いておかない理由はサダムにとっては最早何一つ考えられなかっただろう。

この事件の真相がどうであれ、2002の5月に、ザルカウィは彼の後継者Abu Ayyub al-Masri (Abu Hamza al-Muhajir)を含む24人の最高幹部を引き連れてバグダッドに帰還してきた。ヨルダンを通じてサダムと極秘に2回の接触を行ったアメリカはザルカウィを捕まえてほしいと頼んだ。サダムは、ザルカウィはバグダッドにはいないと返答した。実際には、ザルカウィには「イラク領内を相当程度自由に移動する権利が与えられていて」、「2002の5月から11月の間のいずれかの時点でバグダッドに滞在していた」とButler Reviewには記されている。

2002の夏までには、クルド自治政府はAnsar al-Islamとすでに交戦状態にありそしてサダムがこの組織を支援していることは明らかだった。最近阻止された自爆テロ計画でAnsarが使用していたTNTは「バグダッドの軍事産業部門で製造されたものでイラクの軍事諜報部門の最高責任者の命令でしか使用されるはずのないものだった」、そして「兵器を満載したトラックは旧イラク政府が支配していた地域からやってきている」。9/11調査委員会自身も、9/11の後で「イラク政府がAnsarを容認した、もしくは支援さえもした」ことを「示唆する」証拠があると語っている。

CIAの最高幹部のメモには「2002の10月に」、「ザルカウィがイラク政府と同盟を結んでいた」と記されている。ザルカウィは「IISから武器と爆発物の供給を受けていた」、そして「アメリカがバグダッドを制圧する前に秘密の支部を開設していた」。まとめると、ISISにも混ざり込んでいるバース党とアルカイダとの同盟関係はイラク攻撃のはるか前から始まっていた。

2002の11月に、諜報部門の報告書はAnsarがイラク北部で毒ガス兵器をテストした(使用した)と報告している(これは、サダムがテロリストに大量破壊兵器を渡そうとしていたことを示すものとして決定的に重要)。

ザルカウィの2002の軍事作戦はイラクに限定されていたわけではない。彼はイラク内外を自由に移動することが許可されていた。2002の後半に、彼はイラクからサラフィ派の軍事拠点としてよく知られているパレスチナの難民キャンプAin al-Hilwehに出掛けていった。それから彼が持っていた昔のコネクションを再びつなげるためにシリアに向かった。ISISの現在のスポークスマンAbu Muhammad al-Adnani (Taha Subhi Falaha)などもこの中には含まれダマスカスのサラフィ派の外国のテロリストがイラク領内に連れ込まれ組織されることになった。

この早期からザルカウィはアサド政権と共謀関係にあった。彼はシリアに住んでいるパレスチナ人のサラフィ派のテロリストShaker al-Absiと一緒になって行動していた。この2人が起こした事件には2002の10月のUSAIDの職員Laurence Foleyのアンマンでの殺害がある。Al-Absiはこの攻撃を「アサドの関与、容認、許可、支援の下に行った」。Al-Absiは後にアサドとザルカウィが共同で設立したことがよく知られているFatah al-Islamの指導者となった。

2002の終わり頃までには、ザルカウィはクルディスタン内部のAnsarが支配する地域へと移動していた。2003の3月29日に、(国際同盟による攻撃とテロリストの支配領域へのクルド人の反撃による圧力に押される形で)Ansarはその基地を放棄しザルカウィたちはイランへと逃げ込んだ。このテロリストたちが破棄していったパスポートにはサダム体制がビザを発行したことを示すスタンプが押されていた。ザルカウィたちはGulbuddin Hekmatyarの助けを借りてテヘランへと移動する前にZahedanに一週間ほど滞在していた。

ザルカウィがイランに滞在したことはイランとISISとの関係が複雑であることを物語っている。いつもはテヘランにシンパシーを寄せていたRyan Crockerは、彼はジュネーブに駆けつけてイランに自国の領土がアルカイダの代理組織によってサウジ攻撃のために利用させていることを止めるべきだと伝えに行くと記している。その甲斐もなく、2003の5月12日のリアドでの複数個所へのテロ攻撃により40人近い人々が殺害された。アメリカは、ザルカウィの昔からのパトロンで当時はイランを拠点にしていたSayf al-Adelがこの攻撃を仕向けたと信じている。Derek Harveyがシンプルにまとめている。「阻止する機会があった時にまたはアルカイダやISISに打撃を与える機会があった時にイランは単に傍観していた」。

2003の5月の後半に、クルド政府のスポークスマンはAnsar al-Islamが「イラクとイランの国境付近の山岳地帯で再集結」しようとしていると語った。2003の6月13日に、AnsarはAsharq al-Awsatに自分たちはアメリカの戦車を破壊したという(誤った)声明を送った。そしてAnsarはイラクでの戦いに外国の志願兵を受け入れるだろうと発表した。Ansarとザルカウィがイラクに正確に戻った日時は明らかになっていない。だが7月の終わり頃までには、アメリカはAnsarの活動がイラクで再び「活発に」なってきていると語っていて、そして2003の8月の中頃には、クルド政府ははるか遠くの地域やチュニジアやヨーロッパからAnsarのジハードに加わりに来た50人のサラフィ派のテロリストを逮捕していると報告している。これらのテロリストはイランからイラクへと国境を越えようとしたために逮捕された。妨害をされることなく国境を渡った人の人数は明らかになっていない。

「イランはAnsarのテロリストを国境周辺に配置している」とSulaymaniyaのPeshmergaの軍事司令官は語った。「彼らが一度イラク国内に侵入すると、バース党の残党がテロリストを偽装させてKirkuk地域に送り(中略)そこからイラク中央部へと向かう。それからアメリカ軍に対する戦闘に加わる」。

この組織は2003の夏に起こった3つの大きなテロ攻撃に関与していると云われている。ヨルダン大使館爆破事件(8月7日)、国連爆破事件(8月19日)、Ayatollah Mohammed Baqir al-Hakimの殺害事件(8月29日)。これらは現在イラクで反乱軍と呼ばれているものが行っていることによく似ている。

2003の10月に、Ansarの捕獲されたメンバー2人がIzzat ad-Douri(前イラク軍の司令官)が「Ansarの攻撃を手助けしている」と証言した。前体制の残党(FREs)がアルカイダと協力している最初の明確な証拠だった。同じ月のNewsweekは「Ansarのテロリストがバース党の残党に加わっていることを示す証拠がどんどん増加している」と記している。明らかに前体制から供給されたとしか思えない重兵器をRamadiのAnsarのメンバーが持っていたことからも明らかだ。

IISに寄生するアルカイダというのは目新しい要素ではない。「非国家的」という表向きは目立つ目くらまし的な特徴があったとしても、アルカイダが「自給自足的であったことは一度もなかった」。アルカイダはスーダン、サダムのイラク、サウジアラビア、パキスタン、イランに寄生して生き延びてきた。ヒズボラは1991の2月以降、テロリストの訓練とテロ行為の実施を停止してはいるが、アルカイダとの関係は一度も壊れたようには思われない。

ビン・ラディンはサダムと「正式な同盟」を結ばなかったというAbu Zubaydahのコメントは、その諜報活動報告書にそれが書かれているそのすぐ隣の段落に「それが意味するところは、ビン・ラディンはアメリカと敵対する勢力はどんなものであれ味方で同盟相手だと見做していた」と書かれているというのに、彼がイラクとアルカイダとの間には何の関係もなかったと言ったと誤って(悪意を持って?)解釈されている。彼はビン・ラディンがアメリカとその同盟相手に敵対する「勢力で彼を助けることが出来るのであれば誰とでも手を結んだだろう」と付け加えている。Ansar al-Islamはまさにこれにぴったりと当てはまる組織だった。

Al-Qaeda Affiliates

サダムのアルカイダ「中枢部」との結びつき以外にも、押収された文書にはサダムがフィリピン、アルジェリア、ウガンダのアルカイダ支部と関係を持っていたことが記されている。少なくともこのうちの一つがアメリカに対するテロにつながった。

サダムがクウェートを占領していた頃、バース党はサラフィ派の聖戦主義者(テロリスト)とも時々手を組んでアメリカを標的とした一連のテロ攻撃を実行していた。これらのテロ攻撃はその数があまりにも多かったので、1992の選挙での論争点にもなったほどだった。アルバート・ゴアはランドの研究を引用して「1400人ぐらいのテロリストがイラク国外で自由に活動していると見られている」と述べて、ブッシュ(父)大統領がバグダッドに対して必要な対策を行っていないことの証拠とした。

特に象徴的だった事件が1991の1月19日にフィリピンで起こった。そしてOperation DOGMEATとして記録されている。DESERT STORMが空爆のフェーズに突入しようとしていた2日前に、2人のイラク人学生Ahmed J. Ahmed and Abdul Kadham SaadはマニラのThomas Jefferson Cultural Centerを爆破しようとしていた。(彼らにとっては)不幸なことに、爆弾が予定より早く爆発しAhmedは死亡した。Saadは病院で連絡先を尋ねられた時にうっかりとイラク大使館の電話番号を記憶から答えてしまった。フィリピン大使館のMuwafak al-Ani、本当の役割はサダムの東アジアでの諜報部隊のトップの一人だった、はこの攻撃の以前に爆弾犯と5回会っていた。それだけではなく爆弾犯をターゲットの数ブロック先まで送り届けたのは彼の車だった。彼とその兄弟たちHusam and Hisham Abdul Sattarはこの事件への関与のため国外に逃亡するように命令を受けていた。

2003の2月に、マニラはイラクの「大使」を再び国外追放処分にした。今回はフィリピンに展開されていたアメリカの対テロ対策特別チームのSgt. Mark Wayne Jacksonの殺害が理由だった。Abu Sayyaf Group (ASG)はジャクソンを殺害したZamboanga Cityでの爆破事件は自分たちの犯行だと声明を出した。以前にも説明したように、アルカイダはASGの形成と拡大に深く関わっていた。その手段としてIslamic International Relief Organization (IIRO)、ビン・ラディンの義理の兄弟Mohammed Jammal Khalifaが運営していた「寄付」が用いられていた。電話の通話記録を辿っていくことによって、この爆破事件を命令したのがイラク大使館の第二秘書で彼の外交官としての立場にふさわしくない行いをしたとして2003の2月14日に国外追放処分を受けていたHisham Husseinにまで遡った。彼はサラフィ派のテロリストたちが「よく使っている拠点」に向かっている途中でフィリピン人によって発見された。そしてZamboangaでの爆破事件の前後で、ASGの指導者Abu Madja and Hamsiraji Marusi Saliと頻繁に会っていたことが知られている。その後に、さらに多くのイラク大使館の職員がフィリピンから国外追放処分になった。

これは極めて重要だ。何故かというと、9/11調査委員会はサダムとアルカイダの関係の構成要件に奇妙なまでに非常に高いハードルを設定しているからだ。接触があったことをすべて認めながら、この(馬鹿)委員会はこれらの接触がアメリカに対する共同的な攻撃のみならず「協力的な軍事的関係」に発展したという「証拠が見られない」と断言している。Zamboangaの事例ですらその要件でさえも軽々と満たしてしまうというのに。

アルジェリアの残酷な内戦時に、最も野蛮で残忍だった集団はGroup Islamique Armé (GIA)と呼ばれる組織でアルカイダにさえ手に余る今で言えばISISにも似たアルカイダの支部だった。CIAはサダムが「ビン・ラディンを通じてこの組織へ資金を提供している」ことを示す「決定的(説得的)な証拠」を持っているとCIAのテロ対策上級分析官(1986から1994)でこの仕事を担当していた一人だったStanley Bedlingtonは語っている。サダムが「ビン・ラディンがスーダンにいた頃に彼と極めて強力な結びつきを持っていた」ことは「疑いがない」と彼は語った。そしてサダムがビン・ラディンに資金を提供してそれがGIAに渡されるというのはその一連のスキームの一端でしかなかった。

バグダッドが陥落した後、サダムが他のアルカイダの支部とも結びつきを持っていたことが明らかにされた。今回はウガンダだった。イラクのケニア担当Fallah Hassan al-Rubdieは2001に現在ではソマリアのアルカイダ支部と提携しているアルカイダと関連のあるAllied Democratic Forces (ADF)の「外交責任者」Bekkah Abdul Nassirの下に一連の手紙を送っている。2001の4月の手紙の中で、NassirはADFがバグダッドのトレーニング・キャンプに「若者をジハードに備えて鍛えるために送る」と語っている。このキャンプがどこなのか、またはサダムがADFに資金を送ったのかはこの手紙だけでは不明瞭だ。だが他の手紙には「適切な予算を送る」ことで合意があったことが記されている。ADFが資金を与えられたか、その約束を取り付けたことが示唆される。Nassirは彼の組織がすでに「バグダッドで活動している」と語っている。

Remaining Questions

残りの一つ目の大きな疑問は、1993の世界貿易センタービル爆破事件(アルカイダがアメリカ本土を初めて攻撃した事件)に「イラクの関与を示す断片的な証拠」が存在することだろう。まずはテロが起こった日時に幾らかの疑いが持たれた。サダムは湾岸戦争に敗れた復讐を狙っていて2月26日はDESERT STORM作戦の地上部隊の投入が始まった丁度2年後にあたる。Laurie Mylroieは実行犯のRamzi YousefはIISのエージェントだったと議論している。クウェートで生まれたにも関わらず、彼の友達は彼のことを「Rashid the Iraqi」と呼んだとMylroieは記している。この議論はかなりの論争を呼んだ。確かにYousefはアメリカにイラクのパスポートで入国していてパキスタンで1995に逮捕される前にはイラクへ逃亡している。他の実行犯の一人、Mohammed Salamehもこのテロの首謀者がアメリカにやってくる2か月前に46回イラクへ電話していた。その電話相手には彼の叔父でPLOの「西側部門」のテロ部隊の幹部Kadri Abu Bakrが含まれていた。これらの電話の内容は確実にイラクの諜報部隊によってモニターされていただろう。

1993のテロ攻撃に関してサダムの関与を最も示しているものはその後の動きだ。1992の6月にヨルダンでAbdul Yasinはアメリカのパスポートを入手し1992の9月にバグダッドからニュージャージーへと移動した。それには彼の兄弟Musab Yasinが帯同していた。AbdulはWTCビルの爆破の後、FBIに追われて爆弾を製造したことを認めた。当惑させられることに、協力的な目撃者として彼は釈放された。1993の3月5日に、彼はヨルダン行きの航空機に乗り込んだ後、イラク大使館へと直行しそれからバグダッドへと向かった。サダムは彼が何らかの理由で逮捕されていると主張していたが、ABCやニューズウィークからイラクへ訪れたジャーナリストはそうではなかったことを発見している。サダムの失脚後に押収されたIISの文書には彼が一度も牢に入れられていないこと、バース党が彼の家の購入費を支払っていたこと、月給を与えられていたことが記されていた。サダムはアメリカが繰り返し引き渡しを要求していたにも関わらず、様々な言い訳を駆使して彼の引き渡しを拒んだ。

9/11のテロ攻撃の実行犯Mohamed Attaが2001の4月に、IISの幹部Ahmed Khalil Ibrahim Samir al-Aniに会いにプラハへ向かったかどうかは多くの人が聞かされていることとは異なりまだ判っていない。9/11調査委員会は「アタが2001の4月にチェコ共和国にいたという証拠はない」と語りal-Ani, KSM, and Ramzi Binalshibhを引用した。さらにこの会談が行われる「理由がない」と付け加えた。会談があれば計画を危険にさらすだろうとも言った。だがチェコ政府は少なくともブッシュ政権が自己防衛を止めるまでは(要するに嘘つきメディアに対する反論を止めるまでは)この会談が行われたと断言している。9/11調査委員会自身も「これらはアタが2001の4月9日にプラハにいたという可能性を完全に排除するものではない。彼はプラハに向かうために自身の代理を立てることが出来た」と加えている。それは「彼のこれまでの行動からは例外的」かもしれないが、大規模な自爆テロの計画が関わっているということであれば例外的とはいえないだろう。

アタは1994の12月には確実にプラハにいたことが知られている。そしてアタは2000の6月という微妙な時期にプラハへ向かったと信じられていた。だがそれに対してはそれに反する証拠がある。1999の10月に、アタがプラハを訪れたという主張もまだ論争中だ。要するに、我々はアタがIISと接触していたかどうかを単に知らない、そしてこれからもしばらくは判りそうにないということだ。

残された問題はAhmed Hikmat Shakirだ。

Shakirは長い間、サダムとアルカイダとの関係を取り持ってきた。彼は1993のWTCビル爆破事件の時に少なくとも1回の電話をこの事件の首謀者たちから受け取っている。そしてZahid Sheik Muhammad (KSM’s brother), Musab Yasin, and Mamdouh Salim(サダムのイラクと交渉するビン・ラディン側の代表者)らと連絡を取り合っていた。だが重要な問題は、Shakirがマレーシアのイラク大使館での契約を通じて1999の8月にKuala Lumpur Airportで職を得ていることにある。

サダムの「外交官」の半分ぐらいがスパイだったと判明していることを考えると、Shakirの地位はバグダッドではある程度高かったことを示唆している。9/11の死亡したパイロットの一人で2000の1月5日にマレーシアへと向かったKhalid al-MihdharはU.S.S. Cole attackと当時は「Planes Operation」と呼ばれたものを計画した時の話を周囲に話した。Shakirはal-Mihdharを出迎えた(9/11調査委員会は後に彼を同じくShakirと呼ばれていたFedayeen Saddam Colonelと勘違いをするという大失態を犯した)。Shakirはal-Mihdharが書いた書類を取り寄せ、それから彼と一緒に車に乗車しアルカイダのサミットが3日間開かれる場所へと彼を連れて行った。Shakirがその会合に出席していたかどうかは定かではない。彼が最後に空港での仕事に向かったのは2000の1月10日だった。

彼は2001の9月17日に、カタールでMinistry of Religious Developmentの中間幹部として働いていた時に逮捕された。だが彼は10月21日に、釈放されるとヨルダンを経由してまっすぐにバグダッドへと向かった。ヨルダンは彼を拘留した。だがサダムは彼を自分たちに引き渡すように要求した。

Shakirがイラク大使館と連絡を取り合っていたことに加えて、尋問に対する彼の対応の様子を見たヨルダン人とアメリカ人の担当官は彼が国家の諜報部隊によって訓練されていると確信したという。アンマンは彼がIISのエージェントだと確信した。恐らくは知りようもない理由によって、当時のヨルダンは大胆な提案をした。彼をバグダッドに送る代わりにヨルダンまたはアメリカへレポートを送らせるようにした(彼は同性愛であることを告白して後にメディアの注目を集めることになった。好都合だと思った人が大勢いただろう)。CIAは同意した。それ以降、彼の消息は分かっていない。従って、サダムが9/11の計画の最後の会合にエージェントを送り込んでいたかどうかは未だに真相を知ることが出来ないでいる。これは最もひどい失敗の一つだった。

最後の疑問は圧倒的大多数の人がサダムとアルカイダには何の関係もなかったと騙されるようになったのはどうしてか?ということだ。私は多くの人が(証拠を目の前に突き付けられた時にさえも)真実を認めようとしないことに気が付いた。例えば、「分かった、ではそれが事実だとしてそのように主張する人が(ブッシュ政権も含めて)それほどまでに少ないのはどうしてですか?」。その答えは、ブッシュ政権自体の戦略的コミュニケーションに関する判断にあるかもしれない。

Douglas Feithはイラクで大量破壊兵器を見つけることが出来ていないので、「ブッシュ大統領はサダムの脅威から焦点を民主主義の拡大に移した」と語っている。これによりブッシュ大統領はダメージを小さくしようとした。その中にはサダムとアルカイダとの結びつきも含まれていたので巻き添えに会う形となった。ブッシュ政権はイラク攻撃前の状況に関して語ることを止めてイラクの将来を語ることに完全にシフトしたのでイラク攻撃前の状況に関して馬鹿だけが、自分が気に入ったことであれば何でも言えるようになった。

イラクの将来へと焦点がシフトしたことは成功の基準もまたシフトしたことを意味した。アメリカに対する脅威を取り除いたこと(大量破壊兵器を使用し、アルカイダと同盟を結び、近隣諸国を攻撃し、自国民を虐殺した体制)という非常に重要なことを強調する代わりに、イラクの「成功」はイラクがチグリス地域のスイスになることが出来るかどうかに掛かっているとのメッセージを発している。

Conclusion

ヘイズの本で唯一誤りと認められたものはザルカウィがバグダッドの病院で足の切断手術を受けていないというところだ。これはヘイズの本に何一つ変更を迫るものではない。むしろその逆だ。ザルカウィは2002の5月にバグダッドにいてサダムの接待により足の治療以上のことをしてもらったというだけのことだ。

(省略)

ヘイズの本はイラクに関する議論を行う際の証拠がまとめられている。ヘイズはサダムがアルカイダと何の関係もなかったと主張している人たちは単にこの議題に関して何も知らないのだと見分けるのを容易にしてくれた(馬鹿を一目瞭然で分かるようにしてくれた)。大量破壊兵器に関する最近の証拠と合わせて、今では我々はサダムが大量破壊兵器を持っていたことを知っている。イラク攻撃に反対する議論は、これらの大量破壊兵器とテロリストとの結びつき(この地域の安定への脅威とイラク国民自体の安全が危機に陥っていることは言うまでもなく)はサダムを取り除く理由としては不十分だというものでなければならない。その議論の説得力は、ヘイズの本がISISなどのようなテロリスト集団が2003のイラク攻撃のはるか前からイラクに入り込んでいたことの証拠をすでに明確に提示していることから、ほとんど皆無だ。

(更新1)6月22日の朝刊のニューヨーク・タイムズはサダムの文書の一部が一般に公開されたと報じた。そこにはその他の内容と加えて、サダムとHassan al-Turabiとの間のより詳細な関係が明らかにされていた。「イラクの文書はサダムの最も重要であまり知られていない外国の同盟者の一人を明らかにした」とMichael Brillは語った。サダム時代の文書が公開される毎にサダムのイスラム原理主義との結びつきが以前に考えられていたものよりも深かったと明らかにされるのが最早決まりきったパターンのようになっている。カタールには押収された文書が大量に保管されていることが知られている。あるクルド人によると2600万文書にも相当するという。これらを調べてサダムが何をしてきたかの議論に決着をつける良い機会だ。

(更新2)Ansarの陰の指導者と見做されていてサダムのエージェントだったAbu Waelは2015の7月にSaadoun al-Qadiと名前を変えて戻ってきた(この部分の訳は正確ではないかもしれない)。彼はJaysh Ansar al-Sunna (JAS)の指導者となるために組織を離れていた。JASは2003の9月に彼らがイランからイラクへと帰ってきた時にAnsar al-Islamの指導者たちによって下部組織として結成された。JASはばらばらになったAnsar al-Islamをまとめるために組織されたもので2007の12月には実際に名前をAnsar al-Islamに戻している。「反乱活動」と呼ばれるものが勃発していた時期のいずれかの時点で彼はダマスカスにて引退した。

彼の名前はSaleh al-Hamawi(2015の7月に追放されたNusraの開祖で、2010にAbu Bakr al-BaghdadiはシリアでAbu Waelを暗殺しようとしたと語った)のコメントの中に再び現れるようになる。Fedayeen Saddamの前メンバーだったAli Musa al-Jabouri (Abu Mariya al-Qahtani)はかつてはNo.2だったNusraで「反乱勢力」と今では見られている。al-Jabouriは今はシリアでアルカイダと対立関係にある。2010には、彼はモスルでISISの指揮官をやっていた。怪我をした後、手術のために彼はシリアへと送られることになった(これ自体が示唆的な出来事だ)。彼がAbu Waelの暗殺を試みようとしていた時期に指導をしたのはal-Baghdadiだった。Al-Jabouriは断固としてその命令を拒んだと云われている。

経済制裁でイラクの子供たちが50万人以上死亡しているというのは嘘だった?

Jeffrey Goldberg, "The Great Terror" (New Yorker)

Jeff Weintraub

これは極めて重要な記事で、全体を非常に注意深く読むことを強く推奨する。

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The Great Terror

クルディスタンへの旅行の間に、私はサダムの虐殺の被害者数百人以上と話をした。サダムは権力を握って以降クルド人を殺害し続けてきた。夫がサダムの護衛部隊によって殺害された何人もの老婆は彼に対する動物的な憎悪を剥き出しにしていた。だがNasreenのように多くの人々は恐ろしいまでに残酷な話を冷静に正確に語ろうと努めていた。信頼性はクルド人にとって重要だ。これほどの事態になった今でも、彼らは未だに国際社会は自分たちの話を信じないだろうと感じているからだ。

ハラブジャの話はイラク空軍の飛行機が基地に帰ったその夜には終わらなかった。そのイラン人は破壊の記録を残すために外国の報道記者を招待した。被害者の写真は世界を恐怖させた。サダムの自国民の虐殺は女性と子供が毒ガスによって殺害されたホロコーストを彷彿とさせる。クルド人に対するこの攻撃を主導したサダムの従兄弟Ali Hassan al-Majidの声は反乱軍によって記録され後にヒューマン・ライツ・ウォッチが入手しバース党の幹部がクルド人殺害をどのように考えていたのかの資料となっている。「毒ガスで奴らを皆殺しにしてやる!」と彼は語った。「誰が文句を言う?国際社会?そんなものは叩き潰してやる!国際社会とその言うことを聞く者は」。

1988年の、イラクに制裁を課そうとの議会の試みはレーガン政権とブッシュ政権によって無効にされた。サダムから生き残った被害者の供述は完全に消滅していたかもしれない。Randalのような人やGwynne Robertsという名前のイギリスのドキュメンタリー映画監督が記録に残していなければ。ハラブジャだけでなくクルディスタンの他の場所でも先天性出生異常とがんの発症率が急増したという話を聞いた彼は心を揺さぶられるような映画を記録に残した(健康的な被害が認められていない劣化ウラン弾の架空の被害だけは大騒ぎしてこれらの犯罪は目にしていても完全に無視して情報操作を図った人間の屑たちが大量に存在する)。だが西側の政府も国連も原因の究明には乗り出さなかった。

1998年に、RobertsはChristine Gosdenという名前のイギリス人の女性をクルディスタンに連れてくることになった。彼女はリバプール大学の医療学部の教授だった。彼女はクルディスタンの病院で3週間を過ごしクルド人を助けるために離れる決心をした。私が知っている限りでは、彼女はイラク北部で行われたことを体系的に調べようとした西側で唯一の研究者だ。彼女の父親はRoyal Air Forceの高官で子供の頃にドイツに住んでいたのだと語った。「強制収容所の近くに住むことは幼少期に非常に大きな影響を与えます」と彼女は語った。クルディスタンでは、彼女はドイツがユダヤ人に対して行ったことの再現を見た。「イラク政府はクルド人の人口を減少させるために大量破壊兵器を使用しました」とも語った。「ホロコーストは今でも影響を与えています。ユダヤ人の人口は現在でも1939年の水準を下回ったままです。これは自然なことではありません。クルディスタンから20万人の男性と少年が消滅したのであれば(毒ガスや他の手段によって殺害されたクルド人の人数、ほとんどが男性と少年だった)人口構造に大きな影響を与えることでしょう。子供を持たない未亡人が大勢います」と語った。国連のイラクの武器査察団の主任を務めたオーストラリアの外交官Richard Butlerは彼女のことを「古き良き時代のイギリス人的な女性」だと形容する。彼は4年前に彼女が調査を開始した時から彼女の論文を読んでいて説得力の高いものだということを確認している。「彼女は取りつかれていると人々から陰口を叩かれてきた。だが取りつかれているというのは悪いことではない」と彼は加えた。

サダムの科学者にとって、クルド人は実験台だった」と彼女は話した。「彼らは実験動物だった。それは最も有効な殺害方法と拡散方法を探しているだけのものだった」

この主張は他の人によっても裏付けられた。サダムの核兵器製造プログラムの前責任者だったKhidhir Hamzaは、ハラブジャに対する軍事攻撃が行われる前に医者たちは都市の見取り図を作成し死者の分布を調べるために防護服を着て町に入っていったと証言した。「これらはフィールド実験だった。町の実験だった」と彼は語った。彼はその日のハラブジャでの軍事作戦の全体像を把握していたと言う。「医者たちにはマス目が描かれたシートが与えられ、死者がどのぐらいの距離まで確認できたかなどのような質問に答えなければならなかった」と当時の状況を思い出しながら語った。Gosdenはどうして西側はクルド人に対して行われた攻撃を調べようという気を見せないのか理解できないと語った。「毒ガスが市民の健康に与える長期的な影響を調べることは西側の責務であるように思われます」と彼女は語った。「私はヨーロッパでも最悪のがんを見てきました。ですが信じてください。クルディスタンで見たようなものは私は今まで見たことがありません」。

クルド人の外科医とGosdenによって組織されたチーム、それとWashington Kurdish Instituteと呼ばれる小さな支援団体が行っている現在でも継続中の調査によると、17か月の間に200以上の町と村が毒ガスによって攻撃されていたことが判明した。以前に考えられていたよりも遥かに大規模だった。被害者の人数は分かっていない。だがクルディスタンで会った医者によるとイラク北部の全人口の10%(400万人近く)が攻撃にさらされたと考えているようだった。「サダム・フセインはイラク北部を汚染させた」とハラブジャを離れた時に彼女は語った。「問題は、これから何をするかです。そしてこれから何が起こるかです」。

イラク北部のクルド人の安全地帯はアメリカの政策の失敗により生まれた。1991年に、アメリカがイラクをクウェートから追い出すのに成功した後、ブッシュ(父)大統領は反乱軍を無視しクルド人とイラクのシーア派が何千人と殺害された。多くの人が国外に逃れた。クルド人たちはトルコに向かうしかなかった。そして即座に災害が生まれることになった。この悲劇をテレビで目撃したブッシュ大統領はイラク北部を飛行禁止区域だと宣言した。これにより難民は家に帰ることができるようになった。そしてアメリカとイギリス空軍の防御壁の下でクルド人たちの自治政府の実験が始まることになった。それは架空の国家ではあったが、民主主義、進歩的なイスラムの思想、親米感情を育む家となった。

200以上の町や村への攻撃でさえも全体の一部でしかなかった。クルド人たちは20万人以上が殺害されたと訴えている。クルド人への攻撃はサダムによってal-Anfalと呼ばれた。イスラムの軍に征服した敵から戦利品を奪うことを認めるコーランの一節から取られている。

アンファルの軍事作戦はそれ自体が最終目的ではなく(ホロコーストのように)最終的な目的のための手段だった。ハーバードでCarr Center for Human Rightsを運営しているSamantha Powerはこれを「instrumental genocide」と呼んでいる。彼女は「地獄からの問題」という研究を出版したばかりだった。これはジェノサイドに対するアメリカが取るべき反応を研究したものだ。「特定の人種を根絶やしにしようとする体制が存在する」と語った。「サダムは最後のクルド人までを根絶やしにすることなく目的を達成した」。彼がやらなければならなかったこととは、彼女や他の人が言うところでは、クルドの精神を破壊し独立への望みは愚かしいものだと刷り込ませることだった。アンファルで殺害されたクルド人の多くは毒ガスによって殺されたのではなかった。ジェノサイドは大部分が伝統的な方法で行われた。アンファルの被害者の遺体のほとんど(大部分が男性と少年だった)は未だに見つかっていない。

イランとの戦争が終了した9月に、サダムはクルド人に対して恩赦を発令した。サダムによってテヘランの側についたという容疑を掛けられた人々だった。Nugra Salmanの女性、子供、老人が釈放された。だが彼らのほとんどは家に帰ることができなかった。イラク軍が4000もの村をブルドーザーで破壊したためだ。Babanはそのうちの一人だった。彼女はChamchamalに移り住むことになった。

解放された後に、彼女は夫と3人の子供の行方を探そうと試みた。だがアンファルで行方を絶った男性は誰一人として見つかることはなかった。彼らは殺害されクウェート国境付近の砂漠地帯の集団墓地に埋められたといわれている。だが分かっていることは少ししかない。膨大な数のアンファルの未亡人は未だに息子と夫がサダムの牢獄に捕らえられていると信じている。

Richard Butlerとの会話の中で、サダムのジェノサイドに世界が無関心な理由と思われるものを彼に話してみた。それは、彼が虐殺したのは自国民で他の国の国民ではないからというものだった(大量破壊兵器の使用を禁止する条約の主なものは自国民に対する使用を禁止していない。恐らくその当時はそんなことをする国はどこにもないと思われていたからだろう)。だが彼は、イラクはイランに対して大量破壊兵器を使用していると思い出させてくれた。彼はもっと単純な説明をしてくれた。「問題があまりにも酷すぎてどうしようもないと思われているのだろう」と彼は語った。「歴史はそのような事例であふれている。ホロコーストの例を思い出してみればいい。手の打ちようがないように聞こえたのだろう」。

クルド人は世界の関心のなさにもう慣れてしまったようだ。「世界が関心を持たないことに少しも驚かなくなりました」とBarham Salihは語った。彼はPatriotic Unionによって管理されるクルディスタン地域の首相を務めていて、彼がそのように話すのは私もまた驚いた様子を見せるのを止めた方が良いと仄めかすためだった。「悲劇の大きさを思えば、国際社会が支援してくれないことに驚くべきなのかもしれません」と彼は続けた。「助けがないことは政治的に品のない行為です。ですがクルド人として私はこの地で民とともに暮らしていかなければなりません」。彼の家は首相が住んでいるようなところには思われない。だが西側の家具や調度品がいくつかあった。彼の家には衛星テレビと衛星電話があった。家の内部は恐ろしく寒かったが。石油が豊富に存在するにも関わらず、フセインによって頻繁に電力を落とされているクルド人たちは自家用発電機と灯油で生き延びている。ある晩の晩餐での出来事だ。彼はクルド人は同情の目で見られるべきではないと語った。「クルド人を助ける理由を探し求めるために、アメリカの外交政策におけるウィルソン主義の系譜に入り込まなければならないとは思わない」と彼は語った。「クルド人を助けることは大量破壊兵器によって生じた問題を探索する機会であるということを意味する」。

イラク北部でパラドックスがあるとすれば、多くの子供たちが毒ガスの被害に苦しんでいる一方で、クルド地域の乳幼児死亡率は過去10年間で改善していることだろう。これは首相である彼のおかげだ。イラクが大量破壊兵器の解体を拒絶したため、湾岸戦争後に国連によってイラクに経済制裁が課せられるようになった。彼は1997に始まったoil-for-foodとして知られるプログラムのことを特に称賛していた。彼はこのプログラムのことを「非常に優れたコンセプト」と呼び、「イラクの歴史の中で初めて、イラク市民(すべての市民)が石油によって初めて保護されるようになった。イラク北部はこのプログラムの成功の証だ。石油が売却されて食料が購入された」。

制裁は何千人もの子供を殺害していると西側で広く報道されている批判のことを彼に尋ねた。「制裁はイラクの子供たちを殺害していません」と彼は語った。「バース党が殺害しています」。この返答には困惑した。これが事実であればどうして毒ガスの被害者は未だに治療を受けられずに苦しんでいるのか?クルディスタン中の訪問したすべての病院で、聞こえてきた不満は同じだった。CTがない、MRIがない、小児に対する手術が出来ない、診断装置がない、手術用の手袋さえない。国連によってクルド人に分配されているはずの資金がどうして治療に用いられていないのかを彼に尋ねてみた。oil-for-food programには非常に大きな一つの欠陥があると彼は答えた。このプログラムが導入された時、クルド人には石油収入の13%が分配される約束になっていた。だがバグダッドと国連の間で交わされた取り決めにより、クルド人を虐殺した張本人であるイラク政府が食料、医薬品、医療設備などの流れを支配することになった。食料は届けられる、としぶしぶ彼は認める。基本的な医薬品も同様だ。だがそれはサダムのペースでだ。

国連とその代理組織の仕事に関するこの問題に関して、ライバルであるクルドの他の政党も彼の意見に同意する。「私たちはSulaimaniyaに400のベッドを持つ病院を建設して欲しいと3年間も頼み続けてきました」とKurdish Democratic Partyが管理する地域の首相であるNerchivan Barzaniは語った。Sulaimaniyaは実際はSalihの管理地域だ。だがこの問題にはそれは重要なことではない。「それは私たちの資金です」と彼は語った。「ですがイラク人の承認を待たなければいけません。彼らに決定権があります。WHOはイラク人から指令を受けています。これは狂気です」。

BarzaniとSalihはサダムと蜜月の関係にある会社の利益になる契約だけを利しているとして、特にWHOを非難している。「国連と交渉する時はいつも」と彼は語り「Jesse Helmsは正しいと思い知らされます。国連が私たちを助けることができないのであれば誰が助けてくれるのでしょうか?」。多くのクルド人はイラクの友好国家、特にアラブ諸国がクルドの問題が解決されるのを妨げ続けていると信じている。クルド人は国連で不利な立場に置かれている。パレスチナとは異なり、公式の傍聴人の立場も与えられていない。Salihは痛烈な皮肉を口にした。「私たちを世界の他の運動と比べてみてください。私たちはとても成熟しています。私たちはテロを行っていません。過激なナショナリズムを容認したりしません。私たちの負担にしかならないことが分かり切っているからです。クルディスタンの自治政府が行ってきたこととパレスチナの政府とを比べてみてください。私たちはこの10年の間に非宗教的で、民主的な市民社会を建築してきました。アラファトが建築してきたものは何ですか?」(これはすさまじい皮肉。イスラエル-パレスチナ問題と呼ばれるものが単にパレスチナ問題でしかないということがよく分かる)。先週、ニューヨークで私はoil-for-food programを管理する国連のBenon Sevanと会う機会があった。彼は、クルド人の要望に耳を貸さないつもりだと私の話を遮るかのように切り出した。「クルド人がテーマソングを持っていたとすれば、ギブ・ミー、ギブ・ミー、ギブ・ミーだろう」と彼は答えた。「私は彼らの不満にうんざりしている。私がこのように言っていたと彼らに伝えてください」。oil-for-food programの下では北部の3つの統治団体(国連はクルディスタンという用語を避ける)には財とサービスを購入するのに十分な資金が分配されていると彼は語った。「彼らが今までこれだけの多額のお金を手にしたことがあるのか私は知りませんが」と彼は答えた。

私は、クルド人が医療設備の購入を拒絶され続けていることに不満を漏らしていたことを彼に告げてみた。彼の答えは「要望を出すことは誰も邪魔していませんよ。彼らはWHO(WHOはイラクが関与している問題のことをSevanに報告していた)に文句を言いに行くべきなのです」だった。クルド人は何度もWHOに文句を言いに行っていると彼に尋ねると、彼は「WHOの判断に関するコメントは差し引かせていただきます」と答えた。インタビューの終わり頃に、私はクルディスタンへの食料や医薬品の流れの管理をイラク政府に任せていることの倫理性に関して彼に尋ねてみた。「無実の人など誰もいません」と彼は答えた。「どうか私に倫理の話をしないでください」と締めくくった。

1988年のクルド人の虐殺をレポートするために1月にクルディスタンに出かけた時には、国連の制裁に関する議論の方にまで話が発展するとは思っていなかった。そしてサダムが現在行っているクルド人に対する犯罪、特に「民族修正」という問題のことを調べることになるとは間違いなく思っていなかった(というより知らなかった)。サダムの護衛部隊が民族浄化を実行するために用いている法のことだ。Kirkukのクルド人に対する大規模な組織的犯罪、そしてサダムの支配下にあるイラクのクルディスタン地方での組織的犯罪は西側のメディアではほとんど報道されていない。ニュースでほとんど解説もされていなければ、安保理による非難決議も出されていない。サダムの護衛部隊はクルド人に彼らの出生記録が間違いである(彼らが実際はアラブ人だったという)という書類にサインさせることにより民族の出自を「修正」するように脅迫している。書類にサインしなかった場合には財産が没収される。アラブ人に住む場所を提供させるために、多くの人が(大部分がクルド人の支配する地域に)強制退去させられた。Kurdistan Democratic PartyとPatriotic Union of Kurdistanによると、10万人以上のクルド人が過去2年間にKirkukという都市から強制退去させられたという。

民族修正はバグダッドの体制が「アラブ化」のキャンペーンの一環として用いているテクニックの一つだ。その目的はクルド人の都市の住民を(特に、石油が豊富なKirkukを)アラブ人と(繰り返し報告されているレポートによると、パレスチナ人とまでも)入れ替えることにある。National Defense Universityの教授で上院の外交委員会の前アドバイザーであったPeter Galbraithによると、アラブ化は新しい現象ではないという。彼は湾岸戦争の前からサダムの反クルド人活動を監視していた。「それが行われるようになってから20年以上になります」と彼は語った。「その速度は早まっているかもしれません。ですが間違いなく新しいものではありません。私が見るところでは、これは何年も前から計画されていたより大きな過程の一部で、クルド人が住んでいる地域を減少させること、地方のクルディスタンを破壊することを目的に行われています」。

「これは文化的ジェノサイドの極致です」とSalahaddin UniversityのSaedi Barzinjiは語った。彼は人権派の弁護士(この単語にあまり良いイメージがないのは何故か?)でMassoud Barzani(前の方で出てきた)の法律アドバイザーだ。そして他のクルド人の指導者たちは、クルド人が独立に勝利した時の為だけにイラクのアラブ人とクルディスタンの間にサダムが緩衝地帯を設けようとしていると信じている。この主張を裏付けるかのように、サダムはKirkukの歴史を書き換えて「アラブ」の過去を与えようとしているとBarzinjiは語った。クルド人が「民族の出自を変えようとしなければ、彼らには食料の配給が与えられません、政府の役職に就けません、新生児に名前を登録する権利が与えられません。この3週間から4週間の間に、クルド人の名前は一つも登録しないようにと病院は命令を受けました」と続いた。新しく親になった人には「アラブの名前を選ぶことが強制されます」。このキャンペーンは死者にまで拡大されているとBarzinjiは語った。「サダムは墓石をも徹底的に破壊し、過去を消し去り、新しい墓石にアラブの名前を書き込んでいます」と彼は語った。「サダムはKirkukが昔からアラブの土地だったというように示したがっています」。

Wisconsin Project on Nuclear Arms Controlの代表者Gary Milhollinによると、査察官はイラクが保有しているとみられる兵器のかなりの部分の行方を把握できていないという。それには4トンの神経ガスVX、VXを製造するための600トンの物質、3000トンの他の種類の毒ガス、マスタードガスが充填された少なくとも550の砲弾が含まれる。査察官はアフラトキシンの保管庫も見つけることができていない。サダムの動機もはっきりとしない。過去において、これらの兵器の開発は彼にとってトラブル以外の何物でもなかった。彼の国際的孤立は彼の過去の犯罪から生じているのではなく彼が大量破壊兵器を解体することを拒否していることから生じている。私がKanan Makiyaに、どうしてサダムはこれらのプログラムにそれほどまでに執着しているのかと尋ねると、彼は「この体制は力に執着する特殊なイデオロギーに囚われているのではないかと思います。その力を増大させるに際して、これらのプログラムは非常に大きな心理的、政治的役割を果たしています」と答えた。彼は「それらのプログラムはこの体制の安全と維持に対して不可欠なものと見られています」と付け加えた。

疑いようもなく、ハラブジャの悲劇の再来の脅威はイラクの市民を心から怯えさせている。University of Haifaのイラク専門家Amatzia Baramは1999年にイラクの軍隊が白い防護服を身にまとってシーア派の聖地Karbalaを突然取り囲んだ時のことを話してくれた。サダムに対して頻繁に反乱が行われた場所だ(シーア派はイラクの全人口の60%ぐらいを占める。そしてバース党は他の反乱の恐れに気を取られていた)。白い防護服に身を包んだ兵士たちは何も行っていない。彼らは単に立っていただけだ。「ですがメッセージは明白です」と彼は語った。「ハラブジャのクルド人に対して我々が行ったことは、あなたたちに対してもできる。これは非常に効果的な心理的な兵器でした。私が見た情報によると、人々は本当にパニックに襲われたようでした。彼らは家に駆け込み窓を閉め切りました。それは極めて有効に機能したのです」。サダムの大量破壊兵器は国内の使用に限定されているのでは明らかにない。何年か前に、当時UNSCOMの議長だったRichard Butlerはサダムの側近中の側近でイラクの首相代理Tariq Azizと会談する機会があった。ButlerはAzizにイラクが大量破壊兵器を製造する理由を尋ねてみた。彼はAzizの回答が印象に残っていると語った。「彼は、我々はペルシア人(イラン人)とユダヤ人を処理するために大量破壊兵器を製造している」と。

ユダヤ人がサダムの現在のメイン・ターゲットだとしてもクルド人にとっては少しも安心材料ではない。私が話したクルド人たちは、サダムが残りのスカッド・ミサイルをイスラエルに向けているということに同意している人であっても、彼が「特別な兵器(イラク体制内でよく用いられる隠語)」をハラブジャに戻ってきた時のために残していると信じている。クルド人とイラク軍のイスラエル攻撃部隊が対峙するKalak Bridgeを訪問した時に、地方の政府役員Muhammad Najarにどうして攻撃部隊はその目標である西を向いていないのかと尋ねたことがある。「エルサレムへの道は」と彼は答え、「クルディスタンを通過する」。

武装解除の専門家の間では、サダムが核兵器を手にする正確な時期に関してある程度の意見の違いがある。だがイラクが、もし放置されれば、すぐにでも核兵器を手にするだろうということそして核兵器で武装したイラクは中東のパワー・バランスを永久に変えてしまうだろうということには意見の不一致は見られない。

サダムが大量破壊兵器を手にした時に何をするかにはほとんど疑う余地はない。サダムの過去に関してChristine Gosdenと話した時に、「どうか理解してください、クルド人は練習台だったのです」と彼女は答えた。