A Myth Revisited: “Saddam Hussein Had No Connection To Al-Qaeda”
Kyle Orton
サダム・フセインが失脚して以来12年が経つが、通説ではサダムの体制はアルカイダとは何のつながりもなく、つながりがあるとする「証拠」は(エジプト政府による拷問によってイラクとアルカイダの間につながりがあると自白したがCIAやFBIはその証言を疑問視していたと報道された)Ibn al-Shaykh al-Libiのようにブッシュ政権が開戦の理由を捏造するために苦心して工面してきたものだと云われてきた。だがイデオロギーから離れると、そしてスティーブン・ヘイズの「The Connection」で示されている証拠を見ると、異なる事実が浮かび上がる。
例えば、「Summary of Body of Intelligence Reporting on Iraq-al Qaeda Contacts (1990-2003)」または「Feith memo,」と呼ばれたもの、上院の諜報委員会に送られた機密扱いとされているペンタゴンの報告書(CIA、NSA、FBIらが抑留者からの報告、情報の連絡、傍受、開示されている情報、生の諜報活動などから得た情報を最終的に報告書の形にまとめたもの)の付録を見てみよう。
この付録は以下のような段落から始まる。「膨大な量の諜報活動が(中略)イラクがアルカイダの活動を支援していたことを示している」。サダムの圧政とアルカイダとのイデオロギーの違いを説明した後で、このメモは以下のように続く。
1990の10月1日:オサマ・ビン・ラディンは「使節団をヨルダンに送った(中略)イラクの政府高官と会談するために」。その使節団を率いていたのはスーダンのイスラム原理主義体制の事実上の指導者で公にサダムのクウェート侵攻を支持していたHassan al-Turabiだった。彼はこの時期のサダムとアルカイダとの主な仲介者だった。
1991:協力を求める姿勢は双方向のものになった。「イラクはアルカイダとの結びつきを確かなものにするためにスーダンの協力を要請した」、「ビン・ラディンはイラクとの結びつきを通して組織の力を拡大しようと目論んでいた」、サダムはアルカイダへの影響力を拡大したいと願っていた。そして国連の制裁によって禁止されていた武器の輸送を手助けした。
1992:「イラクの諜報部隊とアルカイダとの最初の会談はal-Turabiによって仲介され」IISの外部主任Faruq HijaziとAyman az-Zawahiriが出席しKhartoumで行われた。この会談はサダムのイラクとザワヒリのEgyptian Islamic Jihad (EIJ)との間に「極めて秘密裏」の関係を生み出すことになった(EIJは後にアルカイダの核となった)。Hijaziはアルカイダに空欄のイエメンのパスポートを提供した。これは「1992から1995の間にスーダンで繰り返し行われた会合の最初のものだった」。他の会合はパキスタンで行われた。そしてアルカイダのメンバーは時々バグダッドを訪問していた(1992にザワヒリが訪問したものを含む)。そして「イラクの諜報部門の責任者に秘密裏に会っていた」。すべての場合で、「サダムはアルカイダとの関係を秘密に保ち続けた」。
1993:「ビン・ラディンはアルカイダの活動がイラクの指導者に向けられることを禁ずる合意をサダムと交わした」、そして2つの組織は「不特定の活動に関して協力を行うと同意した」。前者の不可侵協定はal-Turabiの要請の下で交わされサダムの失脚後に拡大された。2003の2月にビン・ラディンは「敵と戦うのに際してイスラム教徒の利害が社会主義者(バース党)と一致するのであればそこに障害はない」と触書を出した。そしてアルカイダとバース党はサダムの失脚後に反乱軍(という名のテロリスト)を組織した。
1994:Hijaziはスーダンでビン・ラディンと初めての直接会合を行った。ビン・ラディンは中国製の対軍艦用の吸着型機雷とイラク領内にアルカイダのトレーニング・キャンプを設けることを要求した。Hijaziはサダム側のアルカイダとの「交渉担当官」で、Mamdouh Salim(ビン・ラディンの側近で、上級宗教指導官さらにアルカイダが大量破壊兵器を入手しようとするのに際して中心となって活動した人物)はそのアルカイダ側だった。
1994:アフリカ大使館爆破事件のすぐ後に姿を消したJamal Ahmed al-Fadl(ビン・ラディンが最も信頼した側近の一人)は大量破壊兵器を求めてKhartoum郊外の製造工場にSalimと共に足を運んだ。Al-Fadlは、彼がウラン獲得の試みの責任者だったとも語った。スーダンの首都、Khartoumは(現在のアフガニスタンがそうであるように)アルカイダと深い関わりがあった場所でアルカイダはこの崩壊した国家に目をつけ苦々しい内戦の時には資金と兵士を提供していた。逆にスーダン政府はアルカイダにトレーニング・キャンプの場所とパスポートなどの国家のサービスを提供していた。スーダンのイスラム原理主義体制の庇護の下で、ローグ国家(特にイランとサダムのイラク)とテロ組織(その筆頭だったアルカイダ)は資源を共有していた。
1995の初期:CIAによると、イラクの諜報部隊と「良い関係を保っていた」Salimは「不特定の活動」の内容を協議するためにイラクへと渡った、ことをFBIが突き止めている。
1998の後期:サダムはアフリカ大使館爆破事件以降にアルカイダへのサポートを本格化させ始めた、とIISの内部情報者は語っている。サダムの息子Qusayがアルカイダとの主な接触先となった。そして「パキスタンのイラク諜報活動支部がバグダッドのアルカイダとの接触先となった」。
1998の12月:少なくとも2人のIIS高官がパキスタンのイラク大使館でビン・ラディン、ザワヒリ、そしてアフガニスタンのタリバンの指導者オマーと会談している。「イラクのバース党はアルカイダとの結びつきを広げようとしていた」。
1998の12月21日:当時のトルコの大使だったHijaziはビン・ラディンに会うためにアフガニスタンへ向かった。
1999の初期:Hijaziは「何人かのイラクの他の高官を引き連れてビン・ラディンと会談するために」アフガニスタンへ向かった。「Hijaziはサダムの明確な指示がなければビン・ラディンと会うことはない」と理解されていた。
1999の7月:アメリカの対イラク諜報部門の上級職員であるKhalil Ibrahim Abdallahは「IISとアルカイダとの最後の接触」が行われたと語った。「ビン・ラディンはサダムとの会談を望んでいた」と彼は語り、だがこの独裁者は「イラクの諜報部隊にこれ以上の接触は控えるように指令を下した。(中略)サダム自身はアルカイダから距離を取りたがっていた」と語った。彼は把握していなかったが、実際には接触は続けられていた。だがもしここで接触が終了していたとしても、これもイラクの諜報部隊の高官がサダムとアルカイダの関係に関して証言したことだが、関係がなかったのだとしたら「距離を取る」必要はなかっただろう。
1999の11月:サダムはビン・ラディンとアルカイダの幹部を匿うことを検討していた、とNSAの傍受が発見した。この考えはイスラマバードのIISの長官Khalid Janabyから出されたもののようだった。彼は「ビン・ラディンと頻繁にコンタクトを取りよい関係を保っていた」。
2000の12月:大量破壊兵器の実験が継続的に失敗していた中で、Kandahar郊外のKhaldenキャンプを指揮していたアルカイダ幹部のIbn al-Shaykh al-Libiは「大量破壊兵器の製造方法を学ぶために2つの実行部隊をイラクへ」送った。Al-Libiとビン・ラディンのエジプトでの軍事司令官だったMohammed AtefはAbu Abdullah al-Iraqiを勧誘し他のアルカイダのメンバーにさえも関係を秘密にするように指導した後で1997に彼をバグダッドへと送った。この指導にはサダムとその体制は喜んで従った。Abu Abdullahの2回目の渡航の後に、イラクの諜報部隊は英語が話せてアルカイダのメンバーと疑われにくい非アラブ系の2人の男を勧誘するように指導した。この関係が発覚しにくくなるように図った。1人のフィリピン人と国籍不明の男が勧誘され、実際に2000の終わり頃にイラクへと送られたのもこの男たちだった。サダムは当時としては最近の出来事だったアメリカ海軍軍艦爆破事件に特に感銘を受けたようだった。このパターンはサダムが支援をしていたAbu Sayyafのようなグループによって繰り返された。
20002の10月:アメリカの諜報部は「アルカイダとイラクはイラクがアルカイダのメンバーに対して安全地帯を保証し、彼らに資金と武器を提供するとの秘密の合意を結んだ。その合意により大量のアルカイダのメンバーがイラクへ向かうことになった。(中略)パスポート偽造のネットワークに関与していたアルカイダの2人のメンバーは(中略)アルカイダの幹部用にイラクとシリアのパスポートを90個作成するようにとの指令を受けた。(中略)アメリカのアフガニスタン攻撃は保護されていたアルカイダの基地を窮地に追いやり(中略)アメリカがアルカイダの資金源をターゲットにしているので、幾つかの支部は活動を継続するのに新たな資金を必要としているかもしれない」との報告書を提出した(イラクのバース党の指導者がシリアに送った主要な資源の一つは空のパストートが入った「大量の箱」だった。このパストートはダマスカス国際空港に到着したサラフィ派の聖戦主義者に渡され、アサド政権の共謀の下に彼らはイラク国境へと移送された)。
そして1992の3月にサダムのMukhabaratによって編集された22ページの「トップ・シークレット」のリストがある。ここにはビン・ラディンが「シリアの我々の部署と良好な関係を保っている」と記されていた。DIAはこの文書が本物であることを確認した。だが参照が十分に詳細でないとしてこれを「重要ではない」と見做した。他にも「IISとオサマ・ビン・ラディンとのシリアでの契約」に関する内部文書が報告書の中には記されていた。
1994に、サダムの息子UdayとIISの長官がスーダンでのビン・ラディンとIISとの会合の日程を調整するためにスーダン政府の高官が話し合いの場を持った。ビン・ラディンには「大統領(フセインのこと)の許可が出た」後に「我々の方(イラクのこと)から近づいた」とサダム政権の文書に記されている。1995の2月19日にIISの高官がビン・ラディンと会談した。ビン・ラディンはサダムの国営放送に反サウジのプロパガンダを流すように依頼した。サダムはこれに同意した(更新:サダムは1995の3月4日に、サウジの王政を非難していた原理主義者の説教師を招くようにイラクの国営放送に命令を下した)。ビン・ラディンは、アルカイダとイラクがサウジアラビアに駐屯している「外国勢力に対して合同の軍事作戦を行う」という提案もしていた。イラク側の反応は文書の中に記されていない。ビン・ラディンはIISの爆発物製造のエキスパートだったBrigadier Salim al-Ahmedとも「1995にKhartoumにあるビン・ラディンの工場で」会っていた。ビン・ラディンが1996の5月にアフガニスタンに移動した後で、サダムはアルカイダと連絡を保つ「他の経路」を探し求め、これを見つけた。
(更新)1990年代初期のサダムとアルカイダとの関係を示す証拠はクロアチア政府によるal-Kifah (Fight) Relief Organizationの調査によっても明らかになっている。Al-Kifahはブルックリンを本拠としていて1993の世界貿易センタービルへの初めての攻撃を含むテロ計画や国際電話代をファイナンスするための資金をアルカイダから定期的に受け取っていたOmar Abdel-Rahmanによって管理されていた。Al-Kifahはボスニアに向かっているサラフィ派の聖戦主義者たちに資金と物資を送るためにザグレブにオフィスを開いていた。クウェート占領時にイラク政府によって盗まれたクウェートの通貨を用いてアルカイダから資金を受け取っていたため選ばれた。
テネットによると、サダムとアルカイダとの間には少なくとも8回の「ハイレベル」での会談があった。それにはイラクの諜報部隊の責任者がビン・ラディンと会談した少なくとも2回が含まれ、他にも1990年代から2000年代を通して低いレベルでははるかに多くの接触が行われていた。
CIAのソースによると、ザワヒリは1998の2月3日にバグダッドに到着しイラクの副大統領Taha Yassin Ramadanと会談した。「この訪問の目的はイラクとビン・ラディンとの協力の調整を行うためでal-Fallujahとan-Nasiriya、イラクのクルディスタンにトレーニング・キャンプを設置するためだった」。ザワヒリのEIJはこの時、サダムから3000万ドルを受け取っている。ザワヒリがイラクを去った時期は明らかになっていない。
1998の2月23日に、ビン・ラディンとザワヒリがアメリカ人に対して攻撃を呼び掛ける宣告(イラクを中心とした内容だった)を出したのと同じ日に、IISは「将来の関係性」を議論するためと「ビン・ラディンとの直接的な会談を達成するため」にビン・ラディンが「信頼している側近」の訪問を許可した。バグダッドはスーダンでのIISの活動拠点を「旅行の日程と促進」を行うために使用した。そして「イラク内部での旅行代、ホテル代をすべて負担した」。アルカイダの大使「Mohammed F. Mohammed」は1998の3月5日にバグダッドに到着してイラク諜報部隊のゲストとしてMansur Melia Hotelの414号室に宿泊した。そして3月21日に去った。
同じぐらいにサダムとアルカイダとの関係を示している他の文書が、1998の3月の会談の内容を記している文書だ。この文書は相当量の長さで、サダムがアルカイダとの関係を内部にさえも秘密にし続けていたことを示している。ビン・ラディンの名前が3回言及されているところはすべて黒く塗りつぶされ、付属文書にも書き方に注意書きが為されている。
この文書は2人のレポーターによって、トロント・スターのミッチ・ポッターとテレグラフ紙のインディゴ・ギルモアによって2003の4月に発見された。ヘイズの本は2004の6月に出版されたというのに、アメリカ政府の誰もこのジャーナリストに連絡を取らなかった。私はポッター氏にこのことをどう思うかと尋ねてみた。彼は「これは本物の文書だとずっと確信しています」と答えた。だがそれがコピーだったので、「コピーだというのに、その内容があまりにも重大なものだったのでバグダッドのMukhabarat HQから持ち出される前にイラク諜報部隊の誰かがビン・ラディンの名前を注意深く塗りつぶしたのだと思います」。その文書はコピーだったので最終的には「検証できないと見做された」。
9月11日のテロ攻撃の調査委員会は、これはそれほど独立した出来事ではないと思われる説明を与えた。「1998の3月には、(中略)アルカイダのメンバー2人がイラクへ旅立ち諜報部隊の幹部と会談していたと報告されている」と委員会は報じた。回収された文書にはメンバーの名前が1人しか記載されていなかったため、アルカイダは1998の3月に2人の使節をバグダッドへ送っていたことは十分考えられる。
The African Embassy Bombings and Al-Shifa
サダムとアルカイダのこの活動の嵐は、クリントン大統領が1998の2月17日にペンタゴンで敵対的な演説を行うなど見掛け上は湾岸戦争の終結の準備をしていたと見做されていた時期だった。アナン事務総長はサダムが窮地から脱するように働きかけていた。だがサダムとアルカイダとの関係は1998を通じて深まっていた。
ビン・ラディンは1997の春に「メンバーを何人か送り込んでイラクの体制と接触させていた」と9/11調査委員会は報告している。だが大きな反応は得られなかった。1998の初期にはその状況は変化し、バグダッドはビン・ラディンに求愛を求めるようになった。
1998の7月に、「イラクの使節団はアフガニスタンを訪れ、最初はタリバンと会談するという名目でそしてビン・ラディンと会談した」。委員会は3月と7月の会談の少なくとも一方、「おそらくは両方」が「ビン・ラディンのエジプト支部責任者のザワヒリ(彼は自分自身のイラクとのコネを持っていた)を通して実現した」と語っている。不可解な理由で、9/11委員会はこれらのザワヒリとサダムとのつながりを一度も追求しようとはしなかった。
1998の夏には、アメリカは問題がやってこようとしているのを把握していた。7月29日に、CIAのCounterterrorism Center (CTC)は「ビン・ラディンによる潜在的な大量破壊兵器による攻撃の可能性」を警告していた。8月7日には、アメリカのアフリカ大使館が爆破された。8月20日にその対応として、クリントン大統領はアフガニスタンのアルカイダキャンプ地とスーダンの薬品製造工場へトマホークミサイルを発射した。
クリントン大統領は、サダムのイラクがスーダン政府の大量破壊兵器製造プログラムに技術と物資を提供したこと、そのプログラムにはその製造工程へのアクセスを与えられていたアルカイダが資金を提供したことの証拠は非常に示唆的だと議論した。
サダムとビン・ラディンがスーダンの大量破壊兵器製造プログラムに関してどのぐらい共謀していたかに関してよく議論が為される。サダムはアルカイダが「スーダンの政府と一緒になって製造していた」ということを知らなかったとする前CIAの反テロリズム分析官Stanley Bedlingtonの議論は説得的ではない。これは「共有知識」だった。ビン・ラディンが大量破壊兵器をずっと以前から欲していたこと、彼がサダム・フセインから助力を得るつもりだったことのはっきりとした証拠のことを考えると、ビン・ラディンが後援者がバグダッドにいたことを知っていたかどうか(スーダンの大量破壊兵器製造プログラムに技術と物資を提供していたのがフセインだったことを知っていたかどうか)はほとんどどうでもいいことのように思われる。だがサダムとビン・ラディンはお互いの存在さえ知らなかったというメディアによって流布された最も極端な議論が最も大衆に広まっている通説であることを思えば、仕方のないことだろう。だがアルカイダがスーダンの大量破壊兵器製造に関わっていたことをサダムが知っていたかどうか、またはサダムがスーダンの大量破壊兵器製造に関わっていたことをビン・ラディンが知っていたかどうかという議論は以下の点からは逃れることが出来ない。
「イラクがビン・ラディンに技術とノウハウを提供していたという事実(間接的であったとしても、無意識にであったとしても)はサダムを政権の座から退けないことの危険性を示している」
他の主要な議論はAl-Shifaがスーダンでのサダムとアルカイダの共謀の一環であったかどうかだ。
イラクがAl-Shifaに関与していたことはKhartoumによって実際に認められている。この工場が薬品工場であったと証明するために、スーダン政府は国連のoil-for-food programの一環としてイラクへ送られた10万箱の獣医薬をサダムから19万9000ドルで購入した契約のことを指摘している。Intelligence Communityはそうであればその契約は医療の備蓄品のための正規の取引ではなくマネー・ロンダリングであったり違法な物質の取引である可能性が圧倒的に高いと判断を下している。この判断は何もないところから導き出されたものではない。
(更新)Al-Shifaが1996に稼働した時に、祝賀式に出席したのはイラクの大量破壊兵器製造プログラムの父であるAl-Shifaだった。彼は「スーダン政府高官とその工場で非常に緊密な関係を保っていた」とアメリカの諜報部門の高官は語っている。さらに、「イラクの技術者が頻繁に訪れていてShifaの薬品工場よりも厳重に警備されていた」2番目の大量破壊兵器製造工場とみられる場所が存在した。だがその場所は住宅地に近く市民への被害が甚大すぎるとして見送られた。
1997に、サダムは現在の南スーダンにあるWauで大量破壊兵器を製造していると報告された。サダムは制裁の回避手段を得た。スーダンは内戦で使用するための大量破壊兵器を得た。サダムが大量破壊兵器をイラクの外、スーダンやリビア、イランにまでも輸出しているという訴えは1990から1991にまで遡る。イラクとスーダンとの協力体制は1995の後半には合意に達していたと見られ、そして初期には内戦時にはハルツーム側をイラクの「武器とパイロット」によって助ける条項が含まれていた。そしてこの「協力体制は後に大量破壊兵器の製造が含まれるまでに強化された」。スーダンの反乱軍は、イラクの戦闘機が自分たちに向かってマスタードガスを使用し、そしてハルツーム政府自身も彼らに向かって毒ガスを使用してきたと主張している。これらのほとんどは戦争時のプロパガンダとして無視された。だが1998の10月に、スーダンの反乱軍は地下の軍事施設を制圧し大量のガスマスクを発見した。
アルカイダとAl-Shifaの関わりを示すより論争を呼ぶ議論がある。Al-Shifaは攻撃の5か月前にSalah Idrisによって購入されていた。彼は攻撃の際に資産を凍結され訴えた。資金源や取得の手段の話になると彼は訴えを取り下げた。彼はサウジの「The Golden Chain」Shaykh Khalid bin Mahfouzと深く関わっていたことが後に明らかとなっている。この工場の管理・運営者もまたアルカイダが資金を提供して購入された住宅に住んでいた。だがこの工場へのアルカイダの関与の正確な実態は今も謎のままとなっている。
クリントン政権のテロ対策責任者だったRichard Clarkeは「ビン・ラディンとこの工場の現在と過去の活動、イラクの毒ガス製造の専門家、スーダンのNational Islamic Frontを結ぶ諜報活動による情報が存在する」と語っている。彼はこの工場を破壊しなければクリントン大統領は「自身の責務を放棄したことになっただろう」と付け加えている。
興味深いことに、クリントン大統領がAl-Shifaを攻撃していた時にスーダン政府の外相Osman Ismailはバグダッドにいた。そして8月27日に、ウダイが支配しているバベルというイラクの新聞紙はビン・ラディンを「アラブの英雄」だとする論説を出版した。4日後に、イラクの副大統領は表向きは陳腐な名目でスーダンに向かった。だがビン・ラディンのために動いていたハルツーム政府はイラクが彼に難民申請を与えるかどうかを尋ねていた。
The Saddam-Qaeda Relationship Deepens
1998の春に書かれて11月6日に一般公開されたアメリカのビン・ラディンに対する起訴状にはこのようにある。
「アルカイダはイラク政府の害となる活動を行わないとの合意をイラク政府との間に交わした。そして特定の活動に対して(特に兵器の製造に対して)アルカイダはイラク政府と協力を行う
ことでも合意した」。
これは根拠をなくして書くことの出来る類の文書ではない。アメリカ政府は誓約の下で証言をする誰かを探し出さなければならない。Al-Shifaは上記の協力の合意が実行に移された例だとみられていた。
上でも述べているように、IISとビン・ラディンとの一連の会談は1998の後半にアフガニスタンとパキスタンで行われた。1999の2月に、Richard Clarkeは信頼できるソースがサダムが「ビン・ラディンに難民資格を提示したかもしれない」と語ったと報告した。もしビン・ラディンがイラクに亡命すれば、アルカイダはサダムのmukhabarat(諜報部隊、秘密警察、特殊部隊その他諸々のイメージ)に組み込まれるだろうしビン・ラディンを見つけることは「事実上、不可能」になるだろうとClarkeは記している。ClarkeはU2戦闘機を派遣することに反対した。それにはパキスタンの許可が必要で、ビン・ラディンと「ほとんど完全な協力体制にある」ISIは彼を逃がすだろうからだ。アメリカが彼を攻撃しようとしていることをもしビン・ラディンに知られてしまえば、「オサマはバグダッドに逃げ込んでしまうだろう」とClarkeは記している。
このような記録がはっきりと残っているにも関わらず、Al-Shifaに関するClarkeの発言の記録もしっかりと残っているにも関わらず、彼が「サダムとアルカイダとの間には何の関係もなかった」と2004に発言したことは(発言できたことさえ)我が目を完全に疑うような出来事だった。彼の以前の発言との整合性が問題視されなかったこともだ。
さらに驚愕することには、1998から1999に起こったこれらすべての出来事は完全に一般の目に公開されていたということだ。サダムとアルカイダとのつながりはメディアによって広く報道されていた。1998の12月のFaruq Hijaziによるアフガニスタンへの訪問は特にだ。アルカイダのメンバーが1998の4月28日のサダムの61歳の誕生日に出席している様子は「サダムプラスビン・ラディン?」などのような見出しでニューヨーク・タイムズでもニューズウェークでも報道されている。
クリントン政権の後期には、サダムは脅威でその中でも彼が大量破壊兵器をテロリストに渡すことが最も恐ろしいことだ、というのは通説となっていた。1998の10月には、上院は反対票もなくIraq Liberation Actを通過させた。これによりサダムを政権から取り除くことがアメリカの公式の政策となった。1998の12月には、クリントン大統領はOperation DESERT FOX(砂漠のキツネ作戦)を命じた。サダムが武器の査察官を再びイラクから追い出した後に。
2002から2003にサダムとアルカイダとのつながりが問題にされた時に、一部の上院議員とほとんどのメディアがアムネシアに陥ったのは、党派性が原因であるとの疑惑を退けることは非常に難しい。
Saddam’s Connections with Non-al-Qaeda Terrorism
サダムはアルカイダとは何の関係もなかったと激怒しながら主張する人たちの意見があれほどまでに説得力がない理由の一つには、サダムが幅広い層のテロリストグループとつながりを持っていたことが挙げられるだろう。「昔ながら」のパレスチナのテロ集団や左翼のテロリスト集団、1980年代の初期からサダムの外交政策の影の道具となっていたイスラム原理主義のテロリスト集団までだ。
サダムはイスラム原理主義のテロリスト集団と1983以降継続的に「Popular Islamic Conferences」を開催していた。彼らの多くは自国の国家安全保安局などから追われていた。これらの会談の目的は危機の時に使用するために連帯感を高めておくことだけではなくコネクションを確立するためでもあった。ロサンゼルス・タイムズのMark Finemanは1993の1月にそのような会議を傍聴した時の様子を記事にしている。その中にははるか遠くのアフガニスタンから出席しているイスラム原理主義者やその年の後半に公式に活動を開始し始めたFaith Campaignの指導者Izzat Ibrahim ad-Douriらが「イスラムの聖戦士サダム・フセイン」を称えながら攻撃的なスピーチをしている光景が描き出されていた。だがFinemanの目を最も捉えたものは「サミットはそれらの原理主義者たちを西側との戦いのために勧誘しているイラクの諜報部隊員で一杯に溢れかえっていた」ことだった。
イランとの長い戦争の間に、サダムはイランに対して頻繁にテロ攻撃を行っていた。最も有名なものは、イランのアラブ武装組織(スンニ派)Democratic Revolutionary Front for the Liberation of Arabistanを用いて1980の4月から5月の間にロンドンのイラン大使館を包囲した事件だろう。サダムはイランの同盟相手であり自身の最大のライバルでもあるシリアのバース党に対してもスパイ戦争を行っていたが、その間にダマスカスからパリまで爆破された。
1976から1982の期間に、シリアのムスリム同胞団(SMB)はHafez al-Assadに対して反乱を起こした。アサド(父)がハマにて一切の慈悲なくこの反乱を叩き潰すと(まさにデジャヴ)、SMBの穏健派だった人々はヨルダン、サウジアラビア、ヨーロッパへと向かったが急進派たちはバグダッドへ向かい、al-Rashdiyaのキャンプで歓迎を受けた。だがその場所はそもそも彼らが初めに訓練を受けた場所でもあった。サダムは自身の政権がイスラム教義的に見て正当であることの証拠としてSMBの年長者を定期的に駆り出していた。これは少なくとも2000の2月後半までは続けられた。
SMBのより原理的な集団「Fighting Vanguard」は当時のアルカイダのようなものだった。実際、そのメンバーの多くはアルカイダの前身だった組織に加わっていて最終的にはアルカイダそのものになった。
SMBの超原理主義者の一人、Imad Eddin Barakat Yarkasは1986にイラクを離れ9/11で死亡したパイロットMohamed Attaのルームメイトになった。彼は2001の11月にスペインで逮捕され9/11の虐殺の計画の手伝い、資金集めに協力した罪で有罪判決を受けた。Jabhat an-Nusra(シリアのアルカイダ)のイデオロギーの中心だったAbu Musab as-Suri (Mustafa Setmariam Nasar)はハマの後、イラクのためにシリアを離れ実質的にアルカイダのスペイン支部の一部になった。
Sabri al-Banna (Abu Nidal)はオサマ・ビン・ラディン以前には最も危険な国際的テロリストと見られていた。彼はイラクのバース党が生んだ産物だった。アルバンナは1974にパレスチナのPLOから分離独立しバグダッドに逃れイスラエルと和解するつもりだった穏健派のパレスチナ人を殺害し当時のイラクの天敵だったシリアを攻撃した。アルバンナはアサド政権を転覆させるためにサダムの代理としてSyrian Ikhwansを訓練した。ここでも非宗教/宗教との対立の構図とはほとんどが西側の空想の産物であることを再び浮き彫りにしている。アルバンナは1983以降はシリアとリビアで過ごしていたと見られる。だが彼はイラクに拠点を持っていた。彼が犯した最も重大な事件である、イスラエルのレバノン侵攻の引き金となったイスラエルのイギリス大使の暗殺のために。Hindawi affairとLockerbieの後で、アサドとカダフィがテロリストから距離を取りたがっていた時に、アルバンナを追放することは政治的に利益が大きいと見られていた。そしてアルバンナが1999に引退した場所がまさにバグダッドだった。サダムのmukhabaratはアルバンナを2002の8月16日に殺害した。サダムがアルバンナの国際犯罪に深く関わっていたことが発覚する恐れを未然に防ごうとしてのことだと云われている。
Muhammad Zaidan (Abu Abbas)は、彼が1985の10月にAchille LauroをハイジャックしてLeon Klinghofferを殺害した後にもイタリア政府による拘留を逃れることが出来た。彼がイラク大使のパスポートを持っていたためだ。彼はすぐにバグダッドに逃亡した。
クリントン大統領は就任時にサダムにこれまでの犯罪をすべて水に流すと提案した。バプティストとして、「私は死の床での改宗を信じている」と1993の1月14日に彼は語った。1993の4月に、サダムは車爆弾を使ってクウェートでブッシュ(父)大統領を暗殺しようとした。そのためクリントン大統領は6月26日にイラクの諜報部隊の本部へ空爆を命じた。サダムはWali al-Ghazaliを駒として用いた。1991の3月の反乱に参加していたシーア派でサダムの関与を否定しようとするためには都合がよかった。
パレスチナの過激派へのサダムの援助は最後まで続いた。クウェート占領時のアラファトによるサダムへのサポートはサダムとPLOをわずかに和解させたが、アラファトがすぐにオスロ合意に参加したことでサダムはより暴力的なテロリストを支援するという従来からの政策に回帰した。Arab Liberation Front (ALF)を通して(パレスチナでサダムの命を受けて動いていたあからさまな偽装団体だった)、サダムは第二次インティファーダにおけるイスラエルへの暴力的な攻撃を金銭的に支援し自爆テロ実行犯の家族へ2万5000ドルまでを支払うことによりPLOにより力を失わさせた。自爆テロ実行犯の大部分はHAMASとIslamic Jihadのメンバーだった。
Saddam’s support for international terrorism also took place within Iraq’s borders.
(更新)2003の4月に、「イラクが存在しないと主張していた」テロリストのトレーニング・キャンプがバグダッドの近郊で見つかった。そのキャンプは「我々がアフガニスタンで見つけたものよりもより洗練されたものだった」とRobertsonは説明している。「そのキャンプにはアメリカ海軍がCamp Pendletonに持つ施設に匹敵するものもあった」。そのキャンプは1977以降Zaidanが指導者を務めていたPalestine Liberation Front (PLF)の拠点だった。そのキャンプの目的はイラクの内部文書にさえも明らかにされていない。2001の11月に、イスラエルはヨルダン川西岸のPLFの支部を制圧しテロリストたちがサダムから資金援助され訓練されていたことを発見した。これにより検問所やバスの爆破、18歳のYuri Gushchinの殺害などを含む数え切れないほどの犯罪を実行可能としていた。(数千人のユダヤ人が殺害された)第二次インティファーダ時の訓練されたテロリストのほとんどはサダムのイラクで訓練された者たちだった。
Salman Pakにはサダムの特別部門によって運営されるアラブ中から集まったテロリストのトレーニング・キャンプがあった。訓練の内容には暗殺、誘拐、空港機、バス、列車などのハイジャック、自爆テロなどが含まれていた。キャンプは目につかない場所に隠されバース党の幹部に対してさえも秘密にされていた。似たようなキャンプがLake Thartharにも存在していた。これらのキャンプだけでも少なくとも8000人のテロリストが訓練を受けたと云われている。アルカイダのメンバーがここで訓練を受けたかどうかは判っていない。驚くべきことではないが、Salman Pakを管理・運営していた諜報部隊の職員がサダムが失脚した後の反乱軍と呼ばれるもののコアとなっているFedayeen Saddamを訓練した者たちだった。そして今はISISの軍事的強さの源泉となっている。アメリカがバグダッド陥落の数日前にSalman Pakを制圧した時、サラフィ派の外国のテロリストがそこにいたのが目撃された。そして彼らが今も戦っているほとんど最後の勢力となっている。
サダムは2003にバグダッドを防衛するために4000の外国のmujahideenを招集した。アメリカ政府は2000ぐらいだったと信じている。どちらにしてもサダムが聖戦主義者たちと同盟を結んでいたことに疑いの余地はない。アラブの志願兵たちのほとんどが本国に帰ったのとは異なり、軍事的訓練を受けた者たちの大部分は戻らなかった。そしてサダム体制があっさりと崩壊したことにもあまり影響を受けなかった。ヘイズの本が出版された後に、サダムの外相Naji Sabriによって書かれた手紙の内容が明らかとなった。それによりサダムが「同盟の車両検問所を市民の車による自爆テロで攻撃せよ。アメリカにイラク市民との接触は戦場と同じぐらいに危険だと思わせるために」と指令を出していたことが明らかとなっている。端的にまとめると、サダムは自爆テロリストを自分のために用意していた。そして占領を不安定化させるために彼らを使ってアメリカとイラク市民の間を分断させようと考えていた。
Ansar al-Islam
サダムとアルカイダとのつながりで最も重要だったものの一つはイラクのクルディスタンを拠点に持つサラフィ派のテロリストグループAnsar al-Islamだった。彼らはサダムとアルカイダの両方を支援し、ポストサダム後の反乱軍と呼ばれるものの重要な部分となった。
ISISの開祖でイラク市民の首をはね虐殺したビデオで悪名をはせたAbu Musab az-Zarqawi (Ahmed al-Khalaylah)はソビエトによる侵攻が終了する間際だったアフガニスタンにいた。そして本国であるヨルダンでジハードを起こそうとして1994の3月以降逮捕されていた。1999の3月に特赦の下に釈放されると、8月にはパキスタンに向かい12月にはアフガニスタンにたどり着いた。ビン・ラディンはZarqawiの教義を一度も受け入れたことはなかった。だがエジプトのアルカイダの軍事的指導者だったSayf al-Adelはレバントでのそしてヨーロッパにまで広がる彼のコネクションは有用だとしてビン・ラディンを「実用主義の下に」説得した。これらのコネクションはザルカウィがラディソン・ホテルを爆破しようとした「ミレニアム計画」のヨルダン側の計画に関わっていた1999の12月にはすでに利用されていた。
2000の初期に、ザルカウィとその信者たちにはHeratでキャンプを設置するための資金がアルカイダから与えられていた。ザルカウィのグループは大部分がヨルダン人とパレスチナ人で構成されていた。2001の10月には、ザルカウィの一派がアフガニスタンから追放された頃には、このキャンプには妻や子供を含む3000人が暮らしていた。
戦闘のためにアフガニスタンに旅立ちアルカイダと一緒に訓練を受けたのはイラクのクルド人の別部族だった。イラクのクルド政府によると「1998に、最初のイスラムテロリストが(中略)イランからの助けを借りてイランの国境を越えてクルディスタンに侵入してきた」。クルド人のイスラム原理主義者はすぐにこの地域の支配権を握ろうと画策してきた。1999までには彼らはトレーニング・キャンプを設置していたと見られている。だが彼らはすぐに出て行った。
ザルカウィがHeratにキャンプを設置したそのすぐ後に、彼は自分が最も信頼していたヨルダン人の信者のAbu Abdel Rahman al-Shami (Raed Khuraysat)をサラフィ派のジハーディストを組織するためにイラクのクルディスタンへと派遣した。これはザルカウィに30万ドルから60万ドルを資金援助したビン・ラディンとの協力の下に行われた。これにより彼の組織は2001の9月1日にJund al-Islamという組織に統合され、2001の12月にはさらなる統合を果たしてAnsar al-Islamという名称に改名された。
表向きにはMullah Krekar (Faraj Ahmad Najmuddin)によって率いられていたこの組織はイラクのクルディスタンで20万人の人々に対してタリバン形式の虐殺を開始した。これにより彼がアフガニスタンから撤退する時の避難場所が生まれることになった。これはまったくの偶然とは思われない。これはザルカウィと、そしてビン・ラディンの悪魔の計画の一部であったように思われる(アフガニスタンから撤退することになった時のためにあらかじめクルド人を虐殺して避難場所を確保しておいた)。そしてこれは実を結ぶことになった。ザルカウィがアフガニスタンを追放されることになった時、彼は自分に忠実だった男に導かれて撤退することが出来た。
この組織を通じたサダムとアルカイダとのつながりは恐ろしいものだった。この組織の表向きのNo.3で実際は「実質的な意思決定者」だったSaadan Mahmoud Abdul Latif al-Aani (Abu Wael)はイラクのIISの元大佐でサダムの代理としてイスラムテロリストたちとの交渉役を務めてきた人物だった。al-Aaniがサダムのために勧誘してきたサラフィ派のテロリストにはイラクのビザが与えられた。アメリカがタリバンを攻撃した後には彼との連絡が途絶えたため、再び彼との連絡を取るためにQassem Hussein Mohamedが送り込まれることになった。だがMohamedはクルド政府によって逮捕された。
2002の5月に、イラクのIISが「Ansarに10万ドルの資金を提供し、さらに援助を続行することに同意した」とNSAは報告している。サダムもこの組織に武器を提供している。mukhabaratのエージェントAbdul Rahman al-Shamariはこの組織に武器を運ぼうとしていたために2002の3月にクルド人によって捉えられた。Al-Shamariはサダムがこの組織に現金を「毎月」送金していること、ウダイ・フセインがこの組織のオペレーションに深く関わっていることを自供した。
(更新)Erbilは、数多くの囚人がこのつながりを証言しているためサダムがこの組織を支援していたと最初から主張し続けている。「この組織とアルカイダなどのテロリストグループはムハーバラートのSchool 999の卒業生によって訓練された」とムハーバラートのメンバーは語っている。「イラク政府はアルカイダに武器と爆発物を提供するなどして直接的にアルカイダを支援していた。Ansarはアルカイダの一部で、イラクからトレーニングと資金の面などで支援を受けていた」。サダムはクルド人の安全地帯を破壊することに夢中になっていたとムハーバラートの幹部は付け加えた。そして「支援することを決して止めなかっただろう」とも語った。バース党とAnsarとのつながりが否定しようのないものになった後に、PUKの幹部Mohammad Tawfiqはこう付け加えた。「バース党は彼らにロジスティック面でのサポート、資金、武器、移動、安全な居住地などを提供した。Ansar al-Islamのような組織は自爆する用意のある人々を提供した」。
これらのほとんどはリアルタイムで知られていたことだった。ショッキングだったのはクルド人がAnsarのテロリストを逮捕したことを2002の3月25日にJeffrey Goldbergが報じたというのにCIAの尋問が遅れたことだ。CIAの責任者John McLaughlinが国防総省長官Paul Wolfowitzにこの問題を尋ねられた時に、Douglas FeithによるとCIAは回答を拒否したという。CIAは衛星写真とSIGINTと呼ばれる諜報手段を好んでいた。そして有給の情報提供者を好むという極めて強いバイアスが掛かっていた(オープンソースの諜報活動(OSINT)を信頼していなかった)。これは非常に大きな問題だった。CIAは2003以前のイラクに人間の諜報活動員を誰一人送り込んでいなかったからだ(HUMINT)。OSINTの一般的な軽視傾向は悪い慣行だった。前NSAの幹部John Schindlerが指摘しているように「重要な情報源へのアクセスを得るという諜報活動の基本と思われたことに対して私が最もショックを受けたことは、諜報活動によって得た情報の90%以上は(中略)新聞で報道されていた内容よりも特に詳しいというわけではなかったということだ」と語っている。CIAの対応の遅れは単なる方法論上の論争ではないと考える理由が他にもある。CIAは「非宗教的な(世俗的な)」バース党がアルカイダと協力するはずがないと断固主張していた。だからCIAはその反対を示す証拠がどれだけ出てこようとも調べることを拒んだ。Feith drylyが述べているように「それが彼らの立場を守る手段」だった。2002の7月に、CIAはクルディスタンにようやく人を送った。そして「イラクとAnsarとの協力体制を示す報告書が大量に送られCIAの分析官によって信頼できるかつ重要であると評価された」とFeithは記している。
自分たちの理論に合うように分析を捻じ曲げたことで大批判を浴びたことによって、分析を再調査することになり2002の10月にテネットは一般向けのパブリック・レターを公開することになった。そこには「イラクとアルカイダとの間には少なくとも10年前から遡る高官レベルでの結びつきがあった」、そして2つの組織は「安全地帯と不可侵条約に関して話し合った」と記されている。アフガニスタンにいたアルカイダのメンバーがバグダッドを含むイラクに現れたことに関しては、「イラクは毒ガスの製造、爆弾の製造などの分野でアルカイダのメンバーに製造法を教えた」と記している。従ってテネットがそれと彼のファンがイラクとアルカイダとの間には何の関係もなかったとCIAは結論していると今でも主張している人がいるとすれば、それは文字を読むことが出来ない人たち(メディア、不思議なことに知識人と呼ばれる人たち)の作り話を未だに真に受けているからということになる。
2002の4月に、ザルカウィがイランからイラクへと移動した月のこと、ザルカウィはAnsarにクルド自治政府の首相Barham Salih(前回の記事を参照)を殺害するように命じたと云われている。サダムがこれに関わっていたと疑う理由が山のようにある。Salihは西側とのインタビューでサダムはテロリストとつながっていると答えているし、サダムがこれまで予防的に敵を1人残らず殺害してきたことを思えば、しかも1990年代を通して非常に人気の高かったシーア派の宣教師である彼となると、西側の攻撃が迫っている時に西側との連帯をはっきりと表明しているこのクルド人の指導者を取り除いておかない理由はサダムにとっては最早何一つ考えられなかっただろう。
この事件の真相がどうであれ、2002の5月に、ザルカウィは彼の後継者Abu Ayyub al-Masri (Abu Hamza al-Muhajir)を含む24人の最高幹部を引き連れてバグダッドに帰還してきた。ヨルダンを通じてサダムと極秘に2回の接触を行ったアメリカはザルカウィを捕まえてほしいと頼んだ。サダムは、ザルカウィはバグダッドにはいないと返答した。実際には、ザルカウィには「イラク領内を相当程度自由に移動する権利が与えられていて」、「2002の5月から11月の間のいずれかの時点でバグダッドに滞在していた」とButler Reviewには記されている。
2002の夏までには、クルド自治政府はAnsar al-Islamとすでに交戦状態にありそしてサダムがこの組織を支援していることは明らかだった。最近阻止された自爆テロ計画でAnsarが使用していたTNTは「バグダッドの軍事産業部門で製造されたものでイラクの軍事諜報部門の最高責任者の命令でしか使用されるはずのないものだった」、そして「兵器を満載したトラックは旧イラク政府が支配していた地域からやってきている」。9/11調査委員会自身も、9/11の後で「イラク政府がAnsarを容認した、もしくは支援さえもした」ことを「示唆する」証拠があると語っている。
CIAの最高幹部のメモには「2002の10月に」、「ザルカウィがイラク政府と同盟を結んでいた」と記されている。ザルカウィは「IISから武器と爆発物の供給を受けていた」、そして「アメリカがバグダッドを制圧する前に秘密の支部を開設していた」。まとめると、ISISにも混ざり込んでいるバース党とアルカイダとの同盟関係はイラク攻撃のはるか前から始まっていた。
2002の11月に、諜報部門の報告書はAnsarがイラク北部で毒ガス兵器をテストした(使用した)と報告している(これは、サダムがテロリストに大量破壊兵器を渡そうとしていたことを示すものとして決定的に重要)。
ザルカウィの2002の軍事作戦はイラクに限定されていたわけではない。彼はイラク内外を自由に移動することが許可されていた。2002の後半に、彼はイラクからサラフィ派の軍事拠点としてよく知られているパレスチナの難民キャンプAin al-Hilwehに出掛けていった。それから彼が持っていた昔のコネクションを再びつなげるためにシリアに向かった。ISISの現在のスポークスマンAbu Muhammad al-Adnani (Taha Subhi Falaha)などもこの中には含まれダマスカスのサラフィ派の外国のテロリストがイラク領内に連れ込まれ組織されることになった。
この早期からザルカウィはアサド政権と共謀関係にあった。彼はシリアに住んでいるパレスチナ人のサラフィ派のテロリストShaker al-Absiと一緒になって行動していた。この2人が起こした事件には2002の10月のUSAIDの職員Laurence Foleyのアンマンでの殺害がある。Al-Absiはこの攻撃を「アサドの関与、容認、許可、支援の下に行った」。Al-Absiは後にアサドとザルカウィが共同で設立したことがよく知られているFatah al-Islamの指導者となった。
2002の終わり頃までには、ザルカウィはクルディスタン内部のAnsarが支配する地域へと移動していた。2003の3月29日に、(国際同盟による攻撃とテロリストの支配領域へのクルド人の反撃による圧力に押される形で)Ansarはその基地を放棄しザルカウィたちはイランへと逃げ込んだ。このテロリストたちが破棄していったパスポートにはサダム体制がビザを発行したことを示すスタンプが押されていた。ザルカウィたちはGulbuddin Hekmatyarの助けを借りてテヘランへと移動する前にZahedanに一週間ほど滞在していた。
ザルカウィがイランに滞在したことはイランとISISとの関係が複雑であることを物語っている。いつもはテヘランにシンパシーを寄せていたRyan Crockerは、彼はジュネーブに駆けつけてイランに自国の領土がアルカイダの代理組織によってサウジ攻撃のために利用させていることを止めるべきだと伝えに行くと記している。その甲斐もなく、2003の5月12日のリアドでの複数個所へのテロ攻撃により40人近い人々が殺害された。アメリカは、ザルカウィの昔からのパトロンで当時はイランを拠点にしていたSayf al-Adelがこの攻撃を仕向けたと信じている。Derek Harveyがシンプルにまとめている。「阻止する機会があった時にまたはアルカイダやISISに打撃を与える機会があった時にイランは単に傍観していた」。
2003の5月の後半に、クルド政府のスポークスマンはAnsar al-Islamが「イラクとイランの国境付近の山岳地帯で再集結」しようとしていると語った。2003の6月13日に、AnsarはAsharq al-Awsatに自分たちはアメリカの戦車を破壊したという(誤った)声明を送った。そしてAnsarはイラクでの戦いに外国の志願兵を受け入れるだろうと発表した。Ansarとザルカウィがイラクに正確に戻った日時は明らかになっていない。だが7月の終わり頃までには、アメリカはAnsarの活動がイラクで再び「活発に」なってきていると語っていて、そして2003の8月の中頃には、クルド政府ははるか遠くの地域やチュニジアやヨーロッパからAnsarのジハードに加わりに来た50人のサラフィ派のテロリストを逮捕していると報告している。これらのテロリストはイランからイラクへと国境を越えようとしたために逮捕された。妨害をされることなく国境を渡った人の人数は明らかになっていない。
「イランはAnsarのテロリストを国境周辺に配置している」とSulaymaniyaのPeshmergaの軍事司令官は語った。「彼らが一度イラク国内に侵入すると、バース党の残党がテロリストを偽装させてKirkuk地域に送り(中略)そこからイラク中央部へと向かう。それからアメリカ軍に対する戦闘に加わる」。
この組織は2003の夏に起こった3つの大きなテロ攻撃に関与していると云われている。ヨルダン大使館爆破事件(8月7日)、国連爆破事件(8月19日)、Ayatollah Mohammed Baqir al-Hakimの殺害事件(8月29日)。これらは現在イラクで反乱軍と呼ばれているものが行っていることによく似ている。
2003の10月に、Ansarの捕獲されたメンバー2人がIzzat ad-Douri(前イラク軍の司令官)が「Ansarの攻撃を手助けしている」と証言した。前体制の残党(FREs)がアルカイダと協力している最初の明確な証拠だった。同じ月のNewsweekは「Ansarのテロリストがバース党の残党に加わっていることを示す証拠がどんどん増加している」と記している。明らかに前体制から供給されたとしか思えない重兵器をRamadiのAnsarのメンバーが持っていたことからも明らかだ。
IISに寄生するアルカイダというのは目新しい要素ではない。「非国家的」という表向きは目立つ目くらまし的な特徴があったとしても、アルカイダが「自給自足的であったことは一度もなかった」。アルカイダはスーダン、サダムのイラク、サウジアラビア、パキスタン、イランに寄生して生き延びてきた。ヒズボラは1991の2月以降、テロリストの訓練とテロ行為の実施を停止してはいるが、アルカイダとの関係は一度も壊れたようには思われない。
ビン・ラディンはサダムと「正式な同盟」を結ばなかったというAbu Zubaydahのコメントは、その諜報活動報告書にそれが書かれているそのすぐ隣の段落に「それが意味するところは、ビン・ラディンはアメリカと敵対する勢力はどんなものであれ味方で同盟相手だと見做していた」と書かれているというのに、彼がイラクとアルカイダとの間には何の関係もなかったと言ったと誤って(悪意を持って?)解釈されている。彼はビン・ラディンがアメリカとその同盟相手に敵対する「勢力で彼を助けることが出来るのであれば誰とでも手を結んだだろう」と付け加えている。Ansar al-Islamはまさにこれにぴったりと当てはまる組織だった。
Al-Qaeda Affiliates
サダムのアルカイダ「中枢部」との結びつき以外にも、押収された文書にはサダムがフィリピン、アルジェリア、ウガンダのアルカイダ支部と関係を持っていたことが記されている。少なくともこのうちの一つがアメリカに対するテロにつながった。
サダムがクウェートを占領していた頃、バース党はサラフィ派の聖戦主義者(テロリスト)とも時々手を組んでアメリカを標的とした一連のテロ攻撃を実行していた。これらのテロ攻撃はその数があまりにも多かったので、1992の選挙での論争点にもなったほどだった。アルバート・ゴアはランドの研究を引用して「1400人ぐらいのテロリストがイラク国外で自由に活動していると見られている」と述べて、ブッシュ(父)大統領がバグダッドに対して必要な対策を行っていないことの証拠とした。
特に象徴的だった事件が1991の1月19日にフィリピンで起こった。そしてOperation DOGMEATとして記録されている。DESERT STORMが空爆のフェーズに突入しようとしていた2日前に、2人のイラク人学生Ahmed J. Ahmed and Abdul Kadham SaadはマニラのThomas Jefferson Cultural Centerを爆破しようとしていた。(彼らにとっては)不幸なことに、爆弾が予定より早く爆発しAhmedは死亡した。Saadは病院で連絡先を尋ねられた時にうっかりとイラク大使館の電話番号を記憶から答えてしまった。フィリピン大使館のMuwafak al-Ani、本当の役割はサダムの東アジアでの諜報部隊のトップの一人だった、はこの攻撃の以前に爆弾犯と5回会っていた。それだけではなく爆弾犯をターゲットの数ブロック先まで送り届けたのは彼の車だった。彼とその兄弟たちHusam and Hisham Abdul Sattarはこの事件への関与のため国外に逃亡するように命令を受けていた。
2003の2月に、マニラはイラクの「大使」を再び国外追放処分にした。今回はフィリピンに展開されていたアメリカの対テロ対策特別チームのSgt. Mark Wayne Jacksonの殺害が理由だった。Abu Sayyaf Group (ASG)はジャクソンを殺害したZamboanga Cityでの爆破事件は自分たちの犯行だと声明を出した。以前にも説明したように、アルカイダはASGの形成と拡大に深く関わっていた。その手段としてIslamic International Relief Organization (IIRO)、ビン・ラディンの義理の兄弟Mohammed Jammal Khalifaが運営していた「寄付」が用いられていた。電話の通話記録を辿っていくことによって、この爆破事件を命令したのがイラク大使館の第二秘書で彼の外交官としての立場にふさわしくない行いをしたとして2003の2月14日に国外追放処分を受けていたHisham Husseinにまで遡った。彼はサラフィ派のテロリストたちが「よく使っている拠点」に向かっている途中でフィリピン人によって発見された。そしてZamboangaでの爆破事件の前後で、ASGの指導者Abu Madja and Hamsiraji Marusi Saliと頻繁に会っていたことが知られている。その後に、さらに多くのイラク大使館の職員がフィリピンから国外追放処分になった。
これは極めて重要だ。何故かというと、9/11調査委員会はサダムとアルカイダの関係の構成要件に奇妙なまでに非常に高いハードルを設定しているからだ。接触があったことをすべて認めながら、この(馬鹿)委員会はこれらの接触がアメリカに対する共同的な攻撃のみならず「協力的な軍事的関係」に発展したという「証拠が見られない」と断言している。Zamboangaの事例ですらその要件でさえも軽々と満たしてしまうというのに。
アルジェリアの残酷な内戦時に、最も野蛮で残忍だった集団はGroup Islamique Armé (GIA)と呼ばれる組織でアルカイダにさえ手に余る今で言えばISISにも似たアルカイダの支部だった。CIAはサダムが「ビン・ラディンを通じてこの組織へ資金を提供している」ことを示す「決定的(説得的)な証拠」を持っているとCIAのテロ対策上級分析官(1986から1994)でこの仕事を担当していた一人だったStanley Bedlingtonは語っている。サダムが「ビン・ラディンがスーダンにいた頃に彼と極めて強力な結びつきを持っていた」ことは「疑いがない」と彼は語った。そしてサダムがビン・ラディンに資金を提供してそれがGIAに渡されるというのはその一連のスキームの一端でしかなかった。
バグダッドが陥落した後、サダムが他のアルカイダの支部とも結びつきを持っていたことが明らかにされた。今回はウガンダだった。イラクのケニア担当Fallah Hassan al-Rubdieは2001に現在ではソマリアのアルカイダ支部と提携しているアルカイダと関連のあるAllied Democratic Forces (ADF)の「外交責任者」Bekkah Abdul Nassirの下に一連の手紙を送っている。2001の4月の手紙の中で、NassirはADFがバグダッドのトレーニング・キャンプに「若者をジハードに備えて鍛えるために送る」と語っている。このキャンプがどこなのか、またはサダムがADFに資金を送ったのかはこの手紙だけでは不明瞭だ。だが他の手紙には「適切な予算を送る」ことで合意があったことが記されている。ADFが資金を与えられたか、その約束を取り付けたことが示唆される。Nassirは彼の組織がすでに「バグダッドで活動している」と語っている。
Remaining Questions
残りの一つ目の大きな疑問は、1993の世界貿易センタービル爆破事件(アルカイダがアメリカ本土を初めて攻撃した事件)に「イラクの関与を示す断片的な証拠」が存在することだろう。まずはテロが起こった日時に幾らかの疑いが持たれた。サダムは湾岸戦争に敗れた復讐を狙っていて2月26日はDESERT STORM作戦の地上部隊の投入が始まった丁度2年後にあたる。Laurie Mylroieは実行犯のRamzi YousefはIISのエージェントだったと議論している。クウェートで生まれたにも関わらず、彼の友達は彼のことを「Rashid the Iraqi」と呼んだとMylroieは記している。この議論はかなりの論争を呼んだ。確かにYousefはアメリカにイラクのパスポートで入国していてパキスタンで1995に逮捕される前にはイラクへ逃亡している。他の実行犯の一人、Mohammed Salamehもこのテロの首謀者がアメリカにやってくる2か月前に46回イラクへ電話していた。その電話相手には彼の叔父でPLOの「西側部門」のテロ部隊の幹部Kadri Abu Bakrが含まれていた。これらの電話の内容は確実にイラクの諜報部隊によってモニターされていただろう。
1993のテロ攻撃に関してサダムの関与を最も示しているものはその後の動きだ。1992の6月にヨルダンでAbdul Yasinはアメリカのパスポートを入手し1992の9月にバグダッドからニュージャージーへと移動した。それには彼の兄弟Musab Yasinが帯同していた。AbdulはWTCビルの爆破の後、FBIに追われて爆弾を製造したことを認めた。当惑させられることに、協力的な目撃者として彼は釈放された。1993の3月5日に、彼はヨルダン行きの航空機に乗り込んだ後、イラク大使館へと直行しそれからバグダッドへと向かった。サダムは彼が何らかの理由で逮捕されていると主張していたが、ABCやニューズウィークからイラクへ訪れたジャーナリストはそうではなかったことを発見している。サダムの失脚後に押収されたIISの文書には彼が一度も牢に入れられていないこと、バース党が彼の家の購入費を支払っていたこと、月給を与えられていたことが記されていた。サダムはアメリカが繰り返し引き渡しを要求していたにも関わらず、様々な言い訳を駆使して彼の引き渡しを拒んだ。
9/11のテロ攻撃の実行犯Mohamed Attaが2001の4月に、IISの幹部Ahmed Khalil Ibrahim Samir al-Aniに会いにプラハへ向かったかどうかは多くの人が聞かされていることとは異なりまだ判っていない。9/11調査委員会は「アタが2001の4月にチェコ共和国にいたという証拠はない」と語りal-Ani, KSM, and Ramzi Binalshibhを引用した。さらにこの会談が行われる「理由がない」と付け加えた。会談があれば計画を危険にさらすだろうとも言った。だがチェコ政府は少なくともブッシュ政権が自己防衛を止めるまでは(要するに嘘つきメディアに対する反論を止めるまでは)この会談が行われたと断言している。9/11調査委員会自身も「これらはアタが2001の4月9日にプラハにいたという可能性を完全に排除するものではない。彼はプラハに向かうために自身の代理を立てることが出来た」と加えている。それは「彼のこれまでの行動からは例外的」かもしれないが、大規模な自爆テロの計画が関わっているということであれば例外的とはいえないだろう。
アタは1994の12月には確実にプラハにいたことが知られている。そしてアタは2000の6月という微妙な時期にプラハへ向かったと信じられていた。だがそれに対してはそれに反する証拠がある。1999の10月に、アタがプラハを訪れたという主張もまだ論争中だ。要するに、我々はアタがIISと接触していたかどうかを単に知らない、そしてこれからもしばらくは判りそうにないということだ。
残された問題はAhmed Hikmat Shakirだ。
Shakirは長い間、サダムとアルカイダとの関係を取り持ってきた。彼は1993のWTCビル爆破事件の時に少なくとも1回の電話をこの事件の首謀者たちから受け取っている。そしてZahid Sheik Muhammad (KSM’s brother), Musab Yasin, and Mamdouh Salim(サダムのイラクと交渉するビン・ラディン側の代表者)らと連絡を取り合っていた。だが重要な問題は、Shakirがマレーシアのイラク大使館での契約を通じて1999の8月にKuala Lumpur Airportで職を得ていることにある。
サダムの「外交官」の半分ぐらいがスパイだったと判明していることを考えると、Shakirの地位はバグダッドではある程度高かったことを示唆している。9/11の死亡したパイロットの一人で2000の1月5日にマレーシアへと向かったKhalid al-MihdharはU.S.S. Cole attackと当時は「Planes Operation」と呼ばれたものを計画した時の話を周囲に話した。Shakirはal-Mihdharを出迎えた(9/11調査委員会は後に彼を同じくShakirと呼ばれていたFedayeen Saddam Colonelと勘違いをするという大失態を犯した)。Shakirはal-Mihdharが書いた書類を取り寄せ、それから彼と一緒に車に乗車しアルカイダのサミットが3日間開かれる場所へと彼を連れて行った。Shakirがその会合に出席していたかどうかは定かではない。彼が最後に空港での仕事に向かったのは2000の1月10日だった。
彼は2001の9月17日に、カタールでMinistry of Religious Developmentの中間幹部として働いていた時に逮捕された。だが彼は10月21日に、釈放されるとヨルダンを経由してまっすぐにバグダッドへと向かった。ヨルダンは彼を拘留した。だがサダムは彼を自分たちに引き渡すように要求した。
Shakirがイラク大使館と連絡を取り合っていたことに加えて、尋問に対する彼の対応の様子を見たヨルダン人とアメリカ人の担当官は彼が国家の諜報部隊によって訓練されていると確信したという。アンマンは彼がIISのエージェントだと確信した。恐らくは知りようもない理由によって、当時のヨルダンは大胆な提案をした。彼をバグダッドに送る代わりにヨルダンまたはアメリカへレポートを送らせるようにした(彼は同性愛であることを告白して後にメディアの注目を集めることになった。好都合だと思った人が大勢いただろう)。CIAは同意した。それ以降、彼の消息は分かっていない。従って、サダムが9/11の計画の最後の会合にエージェントを送り込んでいたかどうかは未だに真相を知ることが出来ないでいる。これは最もひどい失敗の一つだった。
最後の疑問は圧倒的大多数の人がサダムとアルカイダには何の関係もなかったと騙されるようになったのはどうしてか?ということだ。私は多くの人が(証拠を目の前に突き付けられた時にさえも)真実を認めようとしないことに気が付いた。例えば、「分かった、ではそれが事実だとしてそのように主張する人が(ブッシュ政権も含めて)それほどまでに少ないのはどうしてですか?」。その答えは、ブッシュ政権自体の戦略的コミュニケーションに関する判断にあるかもしれない。
Douglas Feithはイラクで大量破壊兵器を見つけることが出来ていないので、「ブッシュ大統領はサダムの脅威から焦点を民主主義の拡大に移した」と語っている。これによりブッシュ大統領はダメージを小さくしようとした。その中にはサダムとアルカイダとの結びつきも含まれていたので巻き添えに会う形となった。ブッシュ政権はイラク攻撃前の状況に関して語ることを止めてイラクの将来を語ることに完全にシフトしたのでイラク攻撃前の状況に関して馬鹿だけが、自分が気に入ったことであれば何でも言えるようになった。
イラクの将来へと焦点がシフトしたことは成功の基準もまたシフトしたことを意味した。アメリカに対する脅威を取り除いたこと(大量破壊兵器を使用し、アルカイダと同盟を結び、近隣諸国を攻撃し、自国民を虐殺した体制)という非常に重要なことを強調する代わりに、イラクの「成功」はイラクがチグリス地域のスイスになることが出来るかどうかに掛かっているとのメッセージを発している。
Conclusion
ヘイズの本で唯一誤りと認められたものはザルカウィがバグダッドの病院で足の切断手術を受けていないというところだ。これはヘイズの本に何一つ変更を迫るものではない。むしろその逆だ。ザルカウィは2002の5月にバグダッドにいてサダムの接待により足の治療以上のことをしてもらったというだけのことだ。
(省略)
ヘイズの本はイラクに関する議論を行う際の証拠がまとめられている。ヘイズはサダムがアルカイダと何の関係もなかったと主張している人たちは単にこの議題に関して何も知らないのだと見分けるのを容易にしてくれた(馬鹿を一目瞭然で分かるようにしてくれた)。大量破壊兵器に関する最近の証拠と合わせて、今では我々はサダムが大量破壊兵器を持っていたことを知っている。イラク攻撃に反対する議論は、これらの大量破壊兵器とテロリストとの結びつき(この地域の安定への脅威とイラク国民自体の安全が危機に陥っていることは言うまでもなく)はサダムを取り除く理由としては不十分だというものでなければならない。その議論の説得力は、ヘイズの本がISISなどのようなテロリスト集団が2003のイラク攻撃のはるか前からイラクに入り込んでいたことの証拠をすでに明確に提示していることから、ほとんど皆無だ。
(更新1)6月22日の朝刊のニューヨーク・タイムズはサダムの文書の一部が一般に公開されたと報じた。そこにはその他の内容と加えて、サダムとHassan al-Turabiとの間のより詳細な関係が明らかにされていた。「イラクの文書はサダムの最も重要であまり知られていない外国の同盟者の一人を明らかにした」とMichael Brillは語った。サダム時代の文書が公開される毎にサダムのイスラム原理主義との結びつきが以前に考えられていたものよりも深かったと明らかにされるのが最早決まりきったパターンのようになっている。カタールには押収された文書が大量に保管されていることが知られている。あるクルド人によると2600万文書にも相当するという。これらを調べてサダムが何をしてきたかの議論に決着をつける良い機会だ。
(更新2)Ansarの陰の指導者と見做されていてサダムのエージェントだったAbu Waelは2015の7月にSaadoun al-Qadiと名前を変えて戻ってきた(この部分の訳は正確ではないかもしれない)。彼はJaysh Ansar al-Sunna (JAS)の指導者となるために組織を離れていた。JASは2003の9月に彼らがイランからイラクへと帰ってきた時にAnsar al-Islamの指導者たちによって下部組織として結成された。JASはばらばらになったAnsar al-Islamをまとめるために組織されたもので2007の12月には実際に名前をAnsar al-Islamに戻している。「反乱活動」と呼ばれるものが勃発していた時期のいずれかの時点で彼はダマスカスにて引退した。
彼の名前はSaleh al-Hamawi(2015の7月に追放されたNusraの開祖で、2010にAbu Bakr al-BaghdadiはシリアでAbu Waelを暗殺しようとしたと語った)のコメントの中に再び現れるようになる。Fedayeen Saddamの前メンバーだったAli Musa al-Jabouri (Abu Mariya al-Qahtani)はかつてはNo.2だったNusraで「反乱勢力」と今では見られている。al-Jabouriは今はシリアでアルカイダと対立関係にある。2010には、彼はモスルでISISの指揮官をやっていた。怪我をした後、手術のために彼はシリアへと送られることになった(これ自体が示唆的な出来事だ)。彼がAbu Waelの暗殺を試みようとしていた時期に指導をしたのはal-Baghdadiだった。Al-Jabouriは断固としてその命令を拒んだと云われている。