2016年5月5日木曜日

誰がイラク人を殺害しているのか?Part2

Who armed Saddam? - Some reality checks

Jeff Weintraub

誰がサダム・フセインに武器を提供したのか?神話とは異なりアメリカではない(内容の要約だけを見るのであれば下の図を参照)。もっと込み入った説明は以下のようになる。

1991にアメリカが彼と決別するまでは、彼が権力を握ってからの全期間中(他のバージョンには、そもそも彼が権力を掌握するのを助けたという神話まである)に彼に武器を提供し援助したのはアメリカだと何故か広く信じられている。だがこれら広く信じられている神話のほとんどすべては間違いか、真実が少しは含まれている場合でも極めてミスリーディングとなっている。これらの神話はあまりにも多くしかも絡み合っているので一度に取り扱うのは難しい。だが基本的な事実の確認を行ってみよう。

アメリカはイラクのバース党(社会主義政党)が1968に政権を握るのに協力もしていなければ、彼らが安定的な力を維持するのに大きな役割を果たしたこともない(アメリカは恐らくエジプトのNasserが1950年代に政権に就くのに大きな役割を果たしたかもしれない。だがその関係は長くは続かなかった)。イラクのバース党はアラブバージョンのファシスト運動だった(戦間期のヨーロッパの古典的なファシズムに最も近いものだった)。バース党の他の大きな勢力は、もちろんシリアをほぼ30年間支配し続けているものだろう。だがシリアのアサド政権はイラクのバース党よりも典型的な軍事独裁に近いものだっただろう。

イラクのバース党はイラクの他の政治的勢力を力で押さえつけて権力を掌握した。特にイラクの共産党とは対立しそのメンバーは処刑されるか国外追放されるかのどちらかだった(これも戦間期のヨーロッパと同じだ)。サダム・フセインはバース党または体制の指導者だったという訳ではなかった。だが彼は背後から次第に権力を握るようになり、1979には公式に大統領を名乗り政党内の残った政敵を抹殺していった。

バース党は強固な反米だった。だから(イラクの共産党が辿った悲劇はともかくとしても)ソビエト連邦から膨大な支援を受けていたとしても不思議でも何でもない。そして、この関係はソビエト連邦が崩壊するまで続いた。サダム・フセインとその体制に対する他の支援者はフランスだった(一般的な兵器だけではなく、1980年代の前半までフセインの核兵器製造プログラムを支援していたのもフランスだった)。もちろん、イラクのバース党はこれらの国に単に操られていたというのではない。バース党は自身の利益のために行動しており利害が一致しない時には、支援国と対立することもあった。

すでに形成されていた中東の地政学的現実にサダム・フセインは適合しようとしていただけだ、親米の独裁者の一人としての役割を演じることによりという無理やりサダム・フセインを擁護しようとする議論があることも知っている。(あの手の連中が主張することが容易に予想できるように)だから彼が行ったことのすべてはアメリカのせいだと主張する議論があることは知っている。問題は、現実には彼はそのシナリオに適合していないことにある。どれだけ荒唐無稽な議論が大量にあろうとも、その誤りが僅かでも減少するということはない。それらはイデオロギー的なごまかしであって、分析でもなければまともな議論でもない。

アメリカとイラクとの関係は1980から1988のイラン/イラク戦争の頃に変化しだした、特に1982以降に。これに対するアメリカの対応は恥ずべきものだった「他の国はもっとそうだが」。

読者も知っているように、イラン/イラク戦争は1980にサダム・フセインがイランに侵攻したことにより始まった。彼がした誤算の連続の一つだ。2年後には、イランは団結しイラクが占領したイランの土地の一部からイラク軍を撤退させた。この戦争はそれから6年間続き、数十万人が死亡し、イラク軍によって毒ガス兵器が大量に使用され、都市への無差別空爆や他の残虐行為が双方の側に発生したなどなど。この戦争がこれほどまでに長期にわたったのはコメイニの決定だった。サダム・フセインは和平合意を締結することを必死に模索していた。だがコメイニは彼を政権の座から転覆させることを決意していた。そしてサダムが政権の座から退くまでは交渉することすら拒否していた。

その6年間は、イラクの体制は崩壊の狭間で揺れ動いていた。イラン人は全世界がサダム・フセインを支援しているという事実に恐怖していた(大量の戦争犯罪や人道に反する他の犯罪などを含めて、彼に好き放題やらせていたことに)。私はすべての国といった。ソビエト連邦、EU加盟国、アラブ世界(シリアとリビアを例外として)、インド、中国、などなど。サダム・フセインの犯罪に目を瞑ることは「リアリズム」という名の下に正当化された(後に、2003のイラク攻撃をリアリズムの名の下で批判したのとまったく同じ人物がだ)。だがそれはC. Wright Millsが「crackpot(風変わりなとか気が狂ったの意)realism」と呼んだものに近いものであったことが判明する。

1988にイラクによる「Anfal」の虐殺(18万人以上のクルド人が虐殺されたと云われている)が明るみになると、アメリカの上院はアンファルの虐殺を非難し制裁の発動を示唆するPrevention of Genocide Actを全会一致で通過させた。アラブ世界は怒りでもって対応した、「虐殺にではなく、サダム・フセインに対する批判に対して」。そしてアラブ世界はイラクのサダム・フセインに対する「完全なる連帯」を表明した。

一方で、1968から1991の期間に、イラクのバース党に兵器を供給していたのは何処の国だったのか?Stockholm International Peace Research Institute (SIPRI)による以下の図には「1973から1990までの通常兵器だけ」しかカバーされていない。だが基本的な構図は十分すぎる程に伝えてくれる。

サダムの兵器はその大部分がソビエト連邦とその勢力内にあった国々から供給されている(この期間の69%)。以下は、フランス(13%)、中国(12%)、などが続く(1984のSIPRIの報告書によると、「1982から1983の期間に、イラクはフランスの兵器輸出の40%を占めていた」と報告されている)。アメリカは1%だった。

サダム・フセインの核兵器、他の大量破壊兵器プログラムのこととなると、全体像はより複雑になってくる。フランスが核兵器製造プログラムの圧倒的な支援国だったというのは明らかなように思われる。他の大量破壊兵器のこととなると(農業用の肥料や農薬、医薬品などにも用いられることを思うと)多くの国から供給されていると云わざるを得ない。その中でも主にヨーロッパとロシアから、そして政府というよりも民間から供給されているように思われる。例えば、サダム・フセインが毒ガス兵器、生物兵器を製造したのに際してドイツの企業が果たした役割に関する議論がある。

「大量破壊兵器の販売者?ウラン濃縮とミサイル製造を支援した?ドイツの企業はそれらを確かに供給した。だが話はそこで終わるわけではない。ドイツの企業はイラクに自分たちで「農薬」、「ワクチン」、「X線照射器」を製造するための工場とノウハウも提供した」。

ドイツの企業だけがこれらすべてを行っていたと考えるのは間違いだろう。だがイラクの大量破壊兵器の製造に関しても、アメリカが果たした役割はマイナーなものだ。

アメリカはイラン/イラク戦争の終わり頃にイラクに対して経済的、外交的な形での援助を提供した。その頃には、アメリカはイラクに対して幾らかの軍事的価値を持つと思われる衛星からの情報、諜報活動からの情報も提供を開始するようになった。そしてイラン/イラク戦争がほとんど終わりかけている頃になって、イランの海軍によって頻繁に攻撃されていた石油タンカーを守るためにアメリカは海軍を派遣するようになった。これらすべてを考慮するのはもっと長い議論を必要とする。だがここまでの説明だけでも、「アメリカがサダムを武装した」という左翼が積極的に流したがっている嘘は単純に間違いであるというのに十分だろう。その嘘が何万回と繰り返されようとも真実となることはない。

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