Kyle Orton
サダム・フセインが失脚して以来12年が経つが、通説ではサダムの体制はアルカイダとは何のつながりもなく、つながりがあるとする「証拠」は(エジプト政府による拷問によってイラクとアルカイダの間につながりがあると自白したがCIAやFBIはその証言を疑問視していたと報道された)Ibn al-Shaykh al-Libiのようにブッシュ政権が開戦の理由を捏造するために苦心して工面してきたものだと云われてきた。だがイデオロギーから離れると、そしてスティーブン・ヘイズの「The Connection」で示されている証拠を見ると、異なる事実が浮かび上がる。
1990の10月1日:オサマ・ビン・ラディンは「使節団をヨルダンに送った(中略)イラクの政府高官と会談するために」。その使節団を率いていたのはスーダンのイスラム原理主義体制の事実上の指導者で公にサダムのクウェート侵攻を支持していたHassan al-Turabiだった。彼はこの時期のサダムとアルカイダとの主な仲介者だった。
1992:「イラクの諜報部隊とアルカイダとの最初の会談はal-Turabiによって仲介され」IISの外部主任Faruq HijaziとAyman az-Zawahiriが出席しKhartoumで行われた。この会談はサダムのイラクとザワヒリのEgyptian Islamic Jihad (EIJ)との間に「極めて秘密裏」の関係を生み出すことになった(EIJは後にアルカイダの核となった)。Hijaziはアルカイダに空欄のイエメンのパスポートを提供した。これは「1992から1995の間にスーダンで繰り返し行われた会合の最初のものだった」。他の会合はパキスタンで行われた。そしてアルカイダのメンバーは時々バグダッドを訪問していた(1992にザワヒリが訪問したものを含む)。そして「イラクの諜報部門の責任者に秘密裏に会っていた」。すべての場合で、「サダムはアルカイダとの関係を秘密に保ち続けた」。
1994:アフリカ大使館爆破事件のすぐ後に姿を消したJamal Ahmed al-Fadl(ビン・ラディンが最も信頼した側近の一人)は大量破壊兵器を求めてKhartoum郊外の製造工場にSalimと共に足を運んだ。Al-Fadlは、彼がウラン獲得の試みの責任者だったとも語った。スーダンの首都、Khartoumは(現在のアフガニスタンがそうであるように)アルカイダと深い関わりがあった場所でアルカイダはこの崩壊した国家に目をつけ苦々しい内戦の時には資金と兵士を提供していた。逆にスーダン政府はアルカイダにトレーニング・キャンプの場所とパスポートなどの国家のサービスを提供していた。スーダンのイスラム原理主義体制の庇護の下で、ローグ国家(特にイランとサダムのイラク)とテロ組織(その筆頭だったアルカイダ)は資源を共有していた。
1998の後期:サダムはアフリカ大使館爆破事件以降にアルカイダへのサポートを本格化させ始めた、とIISの内部情報者は語っている。サダムの息子Qusayがアルカイダとの主な接触先となった。そして「パキスタンのイラク諜報活動支部がバグダッドのアルカイダとの接触先となった」。
1998の12月:少なくとも2人のIIS高官がパキスタンのイラク大使館でビン・ラディン、ザワヒリ、そしてアフガニスタンのタリバンの指導者オマーと会談している。「イラクのバース党はアルカイダとの結びつきを広げようとしていた」。
1998の12月21日:当時のトルコの大使だったHijaziはビン・ラディンに会うためにアフガニスタンへ向かった。
1999の初期:Hijaziは「何人かのイラクの他の高官を引き連れてビン・ラディンと会談するために」アフガニスタンへ向かった。「Hijaziはサダムの明確な指示がなければビン・ラディンと会うことはない」と理解されていた。
2000の12月:大量破壊兵器の実験が継続的に失敗していた中で、Kandahar郊外のKhaldenキャンプを指揮していたアルカイダ幹部のIbn al-Shaykh al-Libiは「大量破壊兵器の製造方法を学ぶために2つの実行部隊をイラクへ」送った。Al-Libiとビン・ラディンのエジプトでの軍事司令官だったMohammed AtefはAbu Abdullah al-Iraqiを勧誘し他のアルカイダのメンバーにさえも関係を秘密にするように指導した後で1997に彼をバグダッドへと送った。この指導にはサダムとその体制は喜んで従った。Abu Abdullahの2回目の渡航の後に、イラクの諜報部隊は英語が話せてアルカイダのメンバーと疑われにくい非アラブ系の2人の男を勧誘するように指導した。この関係が発覚しにくくなるように図った。1人のフィリピン人と国籍不明の男が勧誘され、実際に2000の終わり頃にイラクへと送られたのもこの男たちだった。サダムは当時としては最近の出来事だったアメリカ海軍軍艦爆破事件に特に感銘を受けたようだった。このパターンはサダムが支援をしていたAbu Sayyafのようなグループによって繰り返された。
20002の10月:アメリカの諜報部は「アルカイダとイラクはイラクがアルカイダのメンバーに対して安全地帯を保証し、彼らに資金と武器を提供するとの秘密の合意を結んだ。その合意により大量のアルカイダのメンバーがイラクへ向かうことになった。(中略)パスポート偽造のネットワークに関与していたアルカイダの2人のメンバーは(中略)アルカイダの幹部用にイラクとシリアのパスポートを90個作成するようにとの指令を受けた。(中略)アメリカのアフガニスタン攻撃は保護されていたアルカイダの基地を窮地に追いやり(中略)アメリカがアルカイダの資金源をターゲットにしているので、幾つかの支部は活動を継続するのに新たな資金を必要としているかもしれない」との報告書を提出した(イラクのバース党の指導者がシリアに送った主要な資源の一つは空のパストートが入った「大量の箱」だった。このパストートはダマスカス国際空港に到着したサラフィ派の聖戦主義者に渡され、アサド政権の共謀の下に彼らはイラク国境へと移送された)。
1994に、サダムの息子UdayとIISの長官がスーダンでのビン・ラディンとIISとの会合の日程を調整するためにスーダン政府の高官が話し合いの場を持った。ビン・ラディンには「大統領(フセインのこと)の許可が出た」後に「我々の方(イラクのこと)から近づいた」とサダム政権の文書に記されている。1995の2月19日にIISの高官がビン・ラディンと会談した。ビン・ラディンはサダムの国営放送に反サウジのプロパガンダを流すように依頼した。サダムはこれに同意した(更新:サダムは1995の3月4日に、サウジの王政を非難していた原理主義者の説教師を招くようにイラクの国営放送に命令を下した)。ビン・ラディンは、アルカイダとイラクがサウジアラビアに駐屯している「外国勢力に対して合同の軍事作戦を行う」という提案もしていた。イラク側の反応は文書の中に記されていない。ビン・ラディンはIISの爆発物製造のエキスパートだったBrigadier Salim al-Ahmedとも「1995にKhartoumにあるビン・ラディンの工場で」会っていた。ビン・ラディンが1996の5月にアフガニスタンに移動した後で、サダムはアルカイダと連絡を保つ「他の経路」を探し求め、これを見つけた。
同じぐらいにサダムとアルカイダとの関係を示している他の文書が、1998の3月の会談の内容を記している文書だ。この文書は相当量の長さで、サダムがアルカイダとの関係を内部にさえも秘密にし続けていたことを示している。ビン・ラディンの名前が3回言及されているところはすべて黒く塗りつぶされ、付属文書にも書き方に注意書きが為されている。
この文書は2人のレポーターによって、トロント・スターのミッチ・ポッターとテレグラフ紙のインディゴ・ギルモアによって2003の4月に発見された。ヘイズの本は2004の6月に出版されたというのに、アメリカ政府の誰もこのジャーナリストに連絡を取らなかった。私はポッター氏にこのことをどう思うかと尋ねてみた。彼は「これは本物の文書だとずっと確信しています」と答えた。だがそれがコピーだったので、「コピーだというのに、その内容があまりにも重大なものだったのでバグダッドのMukhabarat HQから持ち出される前にイラク諜報部隊の誰かがビン・ラディンの名前を注意深く塗りつぶしたのだと思います」。その文書はコピーだったので最終的には「検証できないと見做された」。
The African Embassy Bombings and Al-Shifa
サダムとアルカイダのこの活動の嵐は、クリントン大統領が1998の2月17日にペンタゴンで敵対的な演説を行うなど見掛け上は湾岸戦争の終結の準備をしていたと見做されていた時期だった。アナン事務総長はサダムが窮地から脱するように働きかけていた。だがサダムとアルカイダとの関係は1998を通じて深まっていた。
1998の夏には、アメリカは問題がやってこようとしているのを把握していた。7月29日に、CIAのCounterterrorism Center (CTC)は「ビン・ラディンによる潜在的な大量破壊兵器による攻撃の可能性」を警告していた。8月7日には、アメリカのアフリカ大使館が爆破された。8月20日にその対応として、クリントン大統領はアフガニスタンのアルカイダキャンプ地とスーダンの薬品製造工場へトマホークミサイルを発射した。
クリントン大統領は、サダムのイラクがスーダン政府の大量破壊兵器製造プログラムに技術と物資を提供したこと、そのプログラムにはその製造工程へのアクセスを与えられていたアルカイダが資金を提供したことの証拠は非常に示唆的だと議論した。
サダムとビン・ラディンがスーダンの大量破壊兵器製造プログラムに関してどのぐらい共謀していたかに関してよく議論が為される。サダムはアルカイダが「スーダンの政府と一緒になって製造していた」ということを知らなかったとする前CIAの反テロリズム分析官Stanley Bedlingtonの議論は説得的ではない。これは「共有知識」だった。ビン・ラディンが大量破壊兵器をずっと以前から欲していたこと、彼がサダム・フセインから助力を得るつもりだったことのはっきりとした証拠のことを考えると、ビン・ラディンが後援者がバグダッドにいたことを知っていたかどうか(スーダンの大量破壊兵器製造プログラムに技術と物資を提供していたのがフセインだったことを知っていたかどうか)はほとんどどうでもいいことのように思われる。だがサダムとビン・ラディンはお互いの存在さえ知らなかったというメディアによって流布された最も極端な議論が最も大衆に広まっている通説であることを思えば、仕方のないことだろう。だがアルカイダがスーダンの大量破壊兵器製造に関わっていたことをサダムが知っていたかどうか、またはサダムがスーダンの大量破壊兵器製造に関わっていたことをビン・ラディンが知っていたかどうかという議論は以下の点からは逃れることが出来ない。
「イラクがビン・ラディンに技術とノウハウを提供していたという事実(間接的であったとしても、無意識にであったとしても)はサダムを政権の座から退けないことの危険性を示している」
他の主要な議論はAl-Shifaがスーダンでのサダムとアルカイダの共謀の一環であったかどうかだ。
イラクがAl-Shifaに関与していたことはKhartoumによって実際に認められている。この工場が薬品工場であったと証明するために、スーダン政府は国連のoil-for-food programの一環としてイラクへ送られた10万箱の獣医薬をサダムから19万9000ドルで購入した契約のことを指摘している。Intelligence Communityはそうであればその契約は医療の備蓄品のための正規の取引ではなくマネー・ロンダリングであったり違法な物質の取引である可能性が圧倒的に高いと判断を下している。この判断は何もないところから導き出されたものではない。
1997に、サダムは現在の南スーダンにあるWauで大量破壊兵器を製造していると報告された。サダムは制裁の回避手段を得た。スーダンは内戦で使用するための大量破壊兵器を得た。サダムが大量破壊兵器をイラクの外、スーダンやリビア、イランにまでも輸出しているという訴えは1990から1991にまで遡る。イラクとスーダンとの協力体制は1995の後半には合意に達していたと見られ、そして初期には内戦時にはハルツーム側をイラクの「武器とパイロット」によって助ける条項が含まれていた。そしてこの「協力体制は後に大量破壊兵器の製造が含まれるまでに強化された」。スーダンの反乱軍は、イラクの戦闘機が自分たちに向かってマスタードガスを使用し、そしてハルツーム政府自身も彼らに向かって毒ガスを使用してきたと主張している。これらのほとんどは戦争時のプロパガンダとして無視された。だが1998の10月に、スーダンの反乱軍は地下の軍事施設を制圧し大量のガスマスクを発見した。
アルカイダとAl-Shifaの関わりを示すより論争を呼ぶ議論がある。Al-Shifaは攻撃の5か月前にSalah Idrisによって購入されていた。彼は攻撃の際に資産を凍結され訴えた。資金源や取得の手段の話になると彼は訴えを取り下げた。彼はサウジの「The Golden Chain」Shaykh Khalid bin Mahfouzと深く関わっていたことが後に明らかとなっている。この工場の管理・運営者もまたアルカイダが資金を提供して購入された住宅に住んでいた。だがこの工場へのアルカイダの関与の正確な実態は今も謎のままとなっている。
クリントン政権のテロ対策責任者だったRichard Clarkeは「ビン・ラディンとこの工場の現在と過去の活動、イラクの毒ガス製造の専門家、スーダンのNational Islamic Frontを結ぶ諜報活動による情報が存在する」と語っている。彼はこの工場を破壊しなければクリントン大統領は「自身の責務を放棄したことになっただろう」と付け加えている。
興味深いことに、クリントン大統領がAl-Shifaを攻撃していた時にスーダン政府の外相Osman Ismailはバグダッドにいた。そして8月27日に、ウダイが支配しているバベルというイラクの新聞紙はビン・ラディンを「アラブの英雄」だとする論説を出版した。4日後に、イラクの副大統領は表向きは陳腐な名目でスーダンに向かった。だがビン・ラディンのために動いていたハルツーム政府はイラクが彼に難民申請を与えるかどうかを尋ねていた。
1998の春に書かれて11月6日に一般公開されたアメリカのビン・ラディンに対する起訴状にはこのようにある。
「アルカイダはイラク政府の害となる活動を行わないとの合意をイラク政府との間に交わした。そして特定の活動に対して(特に兵器の製造に対して)アルカイダはイラク政府と協力を行う
ことでも合意した」。
さらに驚愕することには、1998から1999に起こったこれらすべての出来事は完全に一般の目に公開されていたということだ。サダムとアルカイダとのつながりはメディアによって広く報道されていた。1998の12月のFaruq Hijaziによるアフガニスタンへの訪問は特にだ。アルカイダのメンバーが1998の4月28日のサダムの61歳の誕生日に出席している様子は「サダムプラスビン・ラディン?」などのような見出しでニューヨーク・タイムズでもニューズウェークでも報道されている。
クリントン政権の後期には、サダムは脅威でその中でも彼が大量破壊兵器をテロリストに渡すことが最も恐ろしいことだ、というのは通説となっていた。1998の10月には、上院は反対票もなくIraq Liberation Actを通過させた。これによりサダムを政権から取り除くことがアメリカの公式の政策となった。1998の12月には、クリントン大統領はOperation DESERT FOX(砂漠のキツネ作戦)を命じた。サダムが武器の査察官を再びイラクから追い出した後に。
2002から2003にサダムとアルカイダとのつながりが問題にされた時に、一部の上院議員とほとんどのメディアがアムネシアに陥ったのは、党派性が原因であるとの疑惑を退けることは非常に難しい。
サダムはアルカイダとは何の関係もなかったと激怒しながら主張する人たちの意見があれほどまでに説得力がない理由の一つには、サダムが幅広い層のテロリストグループとつながりを持っていたことが挙げられるだろう。「昔ながら」のパレスチナのテロ集団や左翼のテロリスト集団、1980年代の初期からサダムの外交政策の影の道具となっていたイスラム原理主義のテロリスト集団までだ。
イランとの長い戦争の間に、サダムはイランに対して頻繁にテロ攻撃を行っていた。最も有名なものは、イランのアラブ武装組織(スンニ派)Democratic Revolutionary Front for the Liberation of Arabistanを用いて1980の4月から5月の間にロンドンのイラン大使館を包囲した事件だろう。サダムはイランの同盟相手であり自身の最大のライバルでもあるシリアのバース党に対してもスパイ戦争を行っていたが、その間にダマスカスからパリまで爆破された。
1976から1982の期間に、シリアのムスリム同胞団(SMB)はHafez al-Assadに対して反乱を起こした。アサド(父)がハマにて一切の慈悲なくこの反乱を叩き潰すと(まさにデジャヴ)、SMBの穏健派だった人々はヨルダン、サウジアラビア、ヨーロッパへと向かったが急進派たちはバグダッドへ向かい、al-Rashdiyaのキャンプで歓迎を受けた。だがその場所はそもそも彼らが初めに訓練を受けた場所でもあった。サダムは自身の政権がイスラム教義的に見て正当であることの証拠としてSMBの年長者を定期的に駆り出していた。これは少なくとも2000の2月後半までは続けられた。
Muhammad Zaidan (Abu Abbas)は、彼が1985の10月にAchille LauroをハイジャックしてLeon Klinghofferを殺害した後にもイタリア政府による拘留を逃れることが出来た。彼がイラク大使のパスポートを持っていたためだ。彼はすぐにバグダッドに逃亡した。
クリントン大統領は就任時にサダムにこれまでの犯罪をすべて水に流すと提案した。バプティストとして、「私は死の床での改宗を信じている」と1993の1月14日に彼は語った。1993の4月に、サダムは車爆弾を使ってクウェートでブッシュ(父)大統領を暗殺しようとした。そのためクリントン大統領は6月26日にイラクの諜報部隊の本部へ空爆を命じた。サダムはWali al-Ghazaliを駒として用いた。1991の3月の反乱に参加していたシーア派でサダムの関与を否定しようとするためには都合がよかった。
パレスチナの過激派へのサダムの援助は最後まで続いた。クウェート占領時のアラファトによるサダムへのサポートはサダムとPLOをわずかに和解させたが、アラファトがすぐにオスロ合意に参加したことでサダムはより暴力的なテロリストを支援するという従来からの政策に回帰した。Arab Liberation Front (ALF)を通して(パレスチナでサダムの命を受けて動いていたあからさまな偽装団体だった)、サダムは第二次インティファーダにおけるイスラエルへの暴力的な攻撃を金銭的に支援し自爆テロ実行犯の家族へ2万5000ドルまでを支払うことによりPLOにより力を失わさせた。自爆テロ実行犯の大部分はHAMASとIslamic Jihadのメンバーだった。
Saddam’s support for international terrorism also took place within Iraq’s borders.
(更新)2003の4月に、「イラクが存在しないと主張していた」テロリストのトレーニング・キャンプがバグダッドの近郊で見つかった。そのキャンプは「我々がアフガニスタンで見つけたものよりもより洗練されたものだった」とRobertsonは説明している。「そのキャンプにはアメリカ海軍がCamp Pendletonに持つ施設に匹敵するものもあった」。そのキャンプは1977以降Zaidanが指導者を務めていたPalestine Liberation Front (PLF)の拠点だった。そのキャンプの目的はイラクの内部文書にさえも明らかにされていない。2001の11月に、イスラエルはヨルダン川西岸のPLFの支部を制圧しテロリストたちがサダムから資金援助され訓練されていたことを発見した。これにより検問所やバスの爆破、18歳のYuri Gushchinの殺害などを含む数え切れないほどの犯罪を実行可能としていた。(数千人のユダヤ人が殺害された)第二次インティファーダ時の訓練されたテロリストのほとんどはサダムのイラクで訓練された者たちだった。
Salman Pakにはサダムの特別部門によって運営されるアラブ中から集まったテロリストのトレーニング・キャンプがあった。訓練の内容には暗殺、誘拐、空港機、バス、列車などのハイジャック、自爆テロなどが含まれていた。キャンプは目につかない場所に隠されバース党の幹部に対してさえも秘密にされていた。似たようなキャンプがLake Thartharにも存在していた。これらのキャンプだけでも少なくとも8000人のテロリストが訓練を受けたと云われている。アルカイダのメンバーがここで訓練を受けたかどうかは判っていない。驚くべきことではないが、Salman Pakを管理・運営していた諜報部隊の職員がサダムが失脚した後の反乱軍と呼ばれるもののコアとなっているFedayeen Saddamを訓練した者たちだった。そして今はISISの軍事的強さの源泉となっている。アメリカがバグダッド陥落の数日前にSalman Pakを制圧した時、サラフィ派の外国のテロリストがそこにいたのが目撃された。そして彼らが今も戦っているほとんど最後の勢力となっている。
サダムは2003にバグダッドを防衛するために4000の外国のmujahideenを招集した。アメリカ政府は2000ぐらいだったと信じている。どちらにしてもサダムが聖戦主義者たちと同盟を結んでいたことに疑いの余地はない。アラブの志願兵たちのほとんどが本国に帰ったのとは異なり、軍事的訓練を受けた者たちの大部分は戻らなかった。そしてサダム体制があっさりと崩壊したことにもあまり影響を受けなかった。ヘイズの本が出版された後に、サダムの外相Naji Sabriによって書かれた手紙の内容が明らかとなった。それによりサダムが「同盟の車両検問所を市民の車による自爆テロで攻撃せよ。アメリカにイラク市民との接触は戦場と同じぐらいに危険だと思わせるために」と指令を出していたことが明らかとなっている。端的にまとめると、サダムは自爆テロリストを自分のために用意していた。そして占領を不安定化させるために彼らを使ってアメリカとイラク市民の間を分断させようと考えていた。
サダムとアルカイダとのつながりで最も重要だったものの一つはイラクのクルディスタンを拠点に持つサラフィ派のテロリストグループAnsar al-Islamだった。彼らはサダムとアルカイダの両方を支援し、ポストサダム後の反乱軍と呼ばれるものの重要な部分となった。
ISISの開祖でイラク市民の首をはね虐殺したビデオで悪名をはせたAbu Musab az-Zarqawi (Ahmed al-Khalaylah)はソビエトによる侵攻が終了する間際だったアフガニスタンにいた。そして本国であるヨルダンでジハードを起こそうとして1994の3月以降逮捕されていた。1999の3月に特赦の下に釈放されると、8月にはパキスタンに向かい12月にはアフガニスタンにたどり着いた。ビン・ラディンはZarqawiの教義を一度も受け入れたことはなかった。だがエジプトのアルカイダの軍事的指導者だったSayf al-Adelはレバントでのそしてヨーロッパにまで広がる彼のコネクションは有用だとしてビン・ラディンを「実用主義の下に」説得した。これらのコネクションはザルカウィがラディソン・ホテルを爆破しようとした「ミレニアム計画」のヨルダン側の計画に関わっていた1999の12月にはすでに利用されていた。
2000の初期に、ザルカウィとその信者たちにはHeratでキャンプを設置するための資金がアルカイダから与えられていた。ザルカウィのグループは大部分がヨルダン人とパレスチナ人で構成されていた。2001の10月には、ザルカウィの一派がアフガニスタンから追放された頃には、このキャンプには妻や子供を含む3000人が暮らしていた。
表向きにはMullah Krekar (Faraj Ahmad Najmuddin)によって率いられていたこの組織はイラクのクルディスタンで20万人の人々に対してタリバン形式の虐殺を開始した。これにより彼がアフガニスタンから撤退する時の避難場所が生まれることになった。これはまったくの偶然とは思われない。これはザルカウィと、そしてビン・ラディンの悪魔の計画の一部であったように思われる(アフガニスタンから撤退することになった時のためにあらかじめクルド人を虐殺して避難場所を確保しておいた)。そしてこれは実を結ぶことになった。ザルカウィがアフガニスタンを追放されることになった時、彼は自分に忠実だった男に導かれて撤退することが出来た。
この組織を通じたサダムとアルカイダとのつながりは恐ろしいものだった。この組織の表向きのNo.3で実際は「実質的な意思決定者」だったSaadan Mahmoud Abdul Latif al-Aani (Abu Wael)はイラクのIISの元大佐でサダムの代理としてイスラムテロリストたちとの交渉役を務めてきた人物だった。al-Aaniがサダムのために勧誘してきたサラフィ派のテロリストにはイラクのビザが与えられた。アメリカがタリバンを攻撃した後には彼との連絡が途絶えたため、再び彼との連絡を取るためにQassem Hussein Mohamedが送り込まれることになった。だがMohamedはクルド政府によって逮捕された。
これらのほとんどはリアルタイムで知られていたことだった。ショッキングだったのはクルド人がAnsarのテロリストを逮捕したことを2002の3月25日にJeffrey Goldbergが報じたというのにCIAの尋問が遅れたことだ。CIAの責任者John McLaughlinが国防総省長官Paul Wolfowitzにこの問題を尋ねられた時に、Douglas FeithによるとCIAは回答を拒否したという。CIAは衛星写真とSIGINTと呼ばれる諜報手段を好んでいた。そして有給の情報提供者を好むという極めて強いバイアスが掛かっていた(オープンソースの諜報活動(OSINT)を信頼していなかった)。これは非常に大きな問題だった。CIAは2003以前のイラクに人間の諜報活動員を誰一人送り込んでいなかったからだ(HUMINT)。OSINTの一般的な軽視傾向は悪い慣行だった。前NSAの幹部John Schindlerが指摘しているように「重要な情報源へのアクセスを得るという諜報活動の基本と思われたことに対して私が最もショックを受けたことは、諜報活動によって得た情報の90%以上は(中略)新聞で報道されていた内容よりも特に詳しいというわけではなかったということだ」と語っている。CIAの対応の遅れは単なる方法論上の論争ではないと考える理由が他にもある。CIAは「非宗教的な(世俗的な)」バース党がアルカイダと協力するはずがないと断固主張していた。だからCIAはその反対を示す証拠がどれだけ出てこようとも調べることを拒んだ。Feith drylyが述べているように「それが彼らの立場を守る手段」だった。2002の7月に、CIAはクルディスタンにようやく人を送った。そして「イラクとAnsarとの協力体制を示す報告書が大量に送られCIAの分析官によって信頼できるかつ重要であると評価された」とFeithは記している。
自分たちの理論に合うように分析を捻じ曲げたことで大批判を浴びたことによって、分析を再調査することになり2002の10月にテネットは一般向けのパブリック・レターを公開することになった。そこには「イラクとアルカイダとの間には少なくとも10年前から遡る高官レベルでの結びつきがあった」、そして2つの組織は「安全地帯と不可侵条約に関して話し合った」と記されている。アフガニスタンにいたアルカイダのメンバーがバグダッドを含むイラクに現れたことに関しては、「イラクは毒ガスの製造、爆弾の製造などの分野でアルカイダのメンバーに製造法を教えた」と記している。従ってテネットがそれと彼のファンがイラクとアルカイダとの間には何の関係もなかったとCIAは結論していると今でも主張している人がいるとすれば、それは文字を読むことが出来ない人たち(メディア、不思議なことに知識人と呼ばれる人たち)の作り話を未だに真に受けているからということになる。
2002の4月に、ザルカウィがイランからイラクへと移動した月のこと、ザルカウィはAnsarにクルド自治政府の首相Barham Salih(前回の記事を参照)を殺害するように命じたと云われている。サダムがこれに関わっていたと疑う理由が山のようにある。Salihは西側とのインタビューでサダムはテロリストとつながっていると答えているし、サダムがこれまで予防的に敵を1人残らず殺害してきたことを思えば、しかも1990年代を通して非常に人気の高かったシーア派の宣教師である彼となると、西側の攻撃が迫っている時に西側との連帯をはっきりと表明しているこのクルド人の指導者を取り除いておかない理由はサダムにとっては最早何一つ考えられなかっただろう。
2002の夏までには、クルド自治政府はAnsar al-Islamとすでに交戦状態にありそしてサダムがこの組織を支援していることは明らかだった。最近阻止された自爆テロ計画でAnsarが使用していたTNTは「バグダッドの軍事産業部門で製造されたものでイラクの軍事諜報部門の最高責任者の命令でしか使用されるはずのないものだった」、そして「兵器を満載したトラックは旧イラク政府が支配していた地域からやってきている」。9/11調査委員会自身も、9/11の後で「イラク政府がAnsarを容認した、もしくは支援さえもした」ことを「示唆する」証拠があると語っている。
CIAの最高幹部のメモには「2002の10月に」、「ザルカウィがイラク政府と同盟を結んでいた」と記されている。ザルカウィは「IISから武器と爆発物の供給を受けていた」、そして「アメリカがバグダッドを制圧する前に秘密の支部を開設していた」。まとめると、ISISにも混ざり込んでいるバース党とアルカイダとの同盟関係はイラク攻撃のはるか前から始まっていた。
2002の11月に、諜報部門の報告書はAnsarがイラク北部で毒ガス兵器をテストした(使用した)と報告している(これは、サダムがテロリストに大量破壊兵器を渡そうとしていたことを示すものとして決定的に重要)。
ザルカウィの2002の軍事作戦はイラクに限定されていたわけではない。彼はイラク内外を自由に移動することが許可されていた。2002の後半に、彼はイラクからサラフィ派の軍事拠点としてよく知られているパレスチナの難民キャンプAin al-Hilwehに出掛けていった。それから彼が持っていた昔のコネクションを再びつなげるためにシリアに向かった。ISISの現在のスポークスマンAbu Muhammad al-Adnani (Taha Subhi Falaha)などもこの中には含まれダマスカスのサラフィ派の外国のテロリストがイラク領内に連れ込まれ組織されることになった。
この早期からザルカウィはアサド政権と共謀関係にあった。彼はシリアに住んでいるパレスチナ人のサラフィ派のテロリストShaker al-Absiと一緒になって行動していた。この2人が起こした事件には2002の10月のUSAIDの職員Laurence Foleyのアンマンでの殺害がある。Al-Absiはこの攻撃を「アサドの関与、容認、許可、支援の下に行った」。Al-Absiは後にアサドとザルカウィが共同で設立したことがよく知られているFatah al-Islamの指導者となった。
2002の終わり頃までには、ザルカウィはクルディスタン内部のAnsarが支配する地域へと移動していた。2003の3月29日に、(国際同盟による攻撃とテロリストの支配領域へのクルド人の反撃による圧力に押される形で)Ansarはその基地を放棄しザルカウィたちはイランへと逃げ込んだ。このテロリストたちが破棄していったパスポートにはサダム体制がビザを発行したことを示すスタンプが押されていた。ザルカウィたちはGulbuddin Hekmatyarの助けを借りてテヘランへと移動する前にZahedanに一週間ほど滞在していた。
ザルカウィがイランに滞在したことはイランとISISとの関係が複雑であることを物語っている。いつもはテヘランにシンパシーを寄せていたRyan Crockerは、彼はジュネーブに駆けつけてイランに自国の領土がアルカイダの代理組織によってサウジ攻撃のために利用させていることを止めるべきだと伝えに行くと記している。その甲斐もなく、2003の5月12日のリアドでの複数個所へのテロ攻撃により40人近い人々が殺害された。アメリカは、ザルカウィの昔からのパトロンで当時はイランを拠点にしていたSayf al-Adelがこの攻撃を仕向けたと信じている。Derek Harveyがシンプルにまとめている。「阻止する機会があった時にまたはアルカイダやISISに打撃を与える機会があった時にイランは単に傍観していた」。
「イランはAnsarのテロリストを国境周辺に配置している」とSulaymaniyaのPeshmergaの軍事司令官は語った。「彼らが一度イラク国内に侵入すると、バース党の残党がテロリストを偽装させてKirkuk地域に送り(中略)そこからイラク中央部へと向かう。それからアメリカ軍に対する戦闘に加わる」。
2003の10月に、Ansarの捕獲されたメンバー2人がIzzat ad-Douri(前イラク軍の司令官)が「Ansarの攻撃を手助けしている」と証言した。前体制の残党(FREs)がアルカイダと協力している最初の明確な証拠だった。同じ月のNewsweekは「Ansarのテロリストがバース党の残党に加わっていることを示す証拠がどんどん増加している」と記している。明らかに前体制から供給されたとしか思えない重兵器をRamadiのAnsarのメンバーが持っていたことからも明らかだ。
Al-Qaeda Affiliates
サダムのアルカイダ「中枢部」との結びつき以外にも、押収された文書にはサダムがフィリピン、アルジェリア、ウガンダのアルカイダ支部と関係を持っていたことが記されている。少なくともこのうちの一つがアメリカに対するテロにつながった。
サダムがクウェートを占領していた頃、バース党はサラフィ派の聖戦主義者(テロリスト)とも時々手を組んでアメリカを標的とした一連のテロ攻撃を実行していた。これらのテロ攻撃はその数があまりにも多かったので、1992の選挙での論争点にもなったほどだった。アルバート・ゴアはランドの研究を引用して「1400人ぐらいのテロリストがイラク国外で自由に活動していると見られている」と述べて、ブッシュ(父)大統領がバグダッドに対して必要な対策を行っていないことの証拠とした。
特に象徴的だった事件が1991の1月19日にフィリピンで起こった。そしてOperation DOGMEATとして記録されている。DESERT STORMが空爆のフェーズに突入しようとしていた2日前に、2人のイラク人学生Ahmed J. Ahmed and Abdul Kadham SaadはマニラのThomas Jefferson Cultural Centerを爆破しようとしていた。(彼らにとっては)不幸なことに、爆弾が予定より早く爆発しAhmedは死亡した。Saadは病院で連絡先を尋ねられた時にうっかりとイラク大使館の電話番号を記憶から答えてしまった。フィリピン大使館のMuwafak al-Ani、本当の役割はサダムの東アジアでの諜報部隊のトップの一人だった、はこの攻撃の以前に爆弾犯と5回会っていた。それだけではなく爆弾犯をターゲットの数ブロック先まで送り届けたのは彼の車だった。彼とその兄弟たちHusam and Hisham Abdul Sattarはこの事件への関与のため国外に逃亡するように命令を受けていた。
これは極めて重要だ。何故かというと、9/11調査委員会はサダムとアルカイダの関係の構成要件に奇妙なまでに非常に高いハードルを設定しているからだ。接触があったことをすべて認めながら、この(馬鹿)委員会はこれらの接触がアメリカに対する共同的な攻撃のみならず「協力的な軍事的関係」に発展したという「証拠が見られない」と断言している。Zamboangaの事例ですらその要件でさえも軽々と満たしてしまうというのに。
残りの一つ目の大きな疑問は、1993の世界貿易センタービル爆破事件(アルカイダがアメリカ本土を初めて攻撃した事件)に「イラクの関与を示す断片的な証拠」が存在することだろう。まずはテロが起こった日時に幾らかの疑いが持たれた。サダムは湾岸戦争に敗れた復讐を狙っていて2月26日はDESERT STORM作戦の地上部隊の投入が始まった丁度2年後にあたる。Laurie Mylroieは実行犯のRamzi YousefはIISのエージェントだったと議論している。クウェートで生まれたにも関わらず、彼の友達は彼のことを「Rashid the Iraqi」と呼んだとMylroieは記している。この議論はかなりの論争を呼んだ。確かにYousefはアメリカにイラクのパスポートで入国していてパキスタンで1995に逮捕される前にはイラクへ逃亡している。他の実行犯の一人、Mohammed Salamehもこのテロの首謀者がアメリカにやってくる2か月前に46回イラクへ電話していた。その電話相手には彼の叔父でPLOの「西側部門」のテロ部隊の幹部Kadri Abu Bakrが含まれていた。これらの電話の内容は確実にイラクの諜報部隊によってモニターされていただろう。
9/11のテロ攻撃の実行犯Mohamed Attaが2001の4月に、IISの幹部Ahmed Khalil Ibrahim Samir al-Aniに会いにプラハへ向かったかどうかは多くの人が聞かされていることとは異なりまだ判っていない。9/11調査委員会は「アタが2001の4月にチェコ共和国にいたという証拠はない」と語りal-Ani, KSM, and Ramzi Binalshibhを引用した。さらにこの会談が行われる「理由がない」と付け加えた。会談があれば計画を危険にさらすだろうとも言った。だがチェコ政府は少なくともブッシュ政権が自己防衛を止めるまでは(要するに嘘つきメディアに対する反論を止めるまでは)この会談が行われたと断言している。9/11調査委員会自身も「これらはアタが2001の4月9日にプラハにいたという可能性を完全に排除するものではない。彼はプラハに向かうために自身の代理を立てることが出来た」と加えている。それは「彼のこれまでの行動からは例外的」かもしれないが、大規模な自爆テロの計画が関わっているということであれば例外的とはいえないだろう。
アタは1994の12月には確実にプラハにいたことが知られている。そしてアタは2000の6月という微妙な時期にプラハへ向かったと信じられていた。だがそれに対してはそれに反する証拠がある。1999の10月に、アタがプラハを訪れたという主張もまだ論争中だ。要するに、我々はアタがIISと接触していたかどうかを単に知らない、そしてこれからもしばらくは判りそうにないということだ。
Shakirは長い間、サダムとアルカイダとの関係を取り持ってきた。彼は1993のWTCビル爆破事件の時に少なくとも1回の電話をこの事件の首謀者たちから受け取っている。そしてZahid Sheik Muhammad (KSM’s brother), Musab Yasin, and Mamdouh Salim(サダムのイラクと交渉するビン・ラディン側の代表者)らと連絡を取り合っていた。だが重要な問題は、Shakirがマレーシアのイラク大使館での契約を通じて1999の8月にKuala Lumpur Airportで職を得ていることにある。
彼は2001の9月17日に、カタールでMinistry of Religious Developmentの中間幹部として働いていた時に逮捕された。だが彼は10月21日に、釈放されるとヨルダンを経由してまっすぐにバグダッドへと向かった。ヨルダンは彼を拘留した。だがサダムは彼を自分たちに引き渡すように要求した。
Shakirがイラク大使館と連絡を取り合っていたことに加えて、尋問に対する彼の対応の様子を見たヨルダン人とアメリカ人の担当官は彼が国家の諜報部隊によって訓練されていると確信したという。アンマンは彼がIISのエージェントだと確信した。恐らくは知りようもない理由によって、当時のヨルダンは大胆な提案をした。彼をバグダッドに送る代わりにヨルダンまたはアメリカへレポートを送らせるようにした(彼は同性愛であることを告白して後にメディアの注目を集めることになった。好都合だと思った人が大勢いただろう)。CIAは同意した。それ以降、彼の消息は分かっていない。従って、サダムが9/11の計画の最後の会合にエージェントを送り込んでいたかどうかは未だに真相を知ることが出来ないでいる。これは最もひどい失敗の一つだった。
Douglas Feithはイラクで大量破壊兵器を見つけることが出来ていないので、「ブッシュ大統領はサダムの脅威から焦点を民主主義の拡大に移した」と語っている。これによりブッシュ大統領はダメージを小さくしようとした。その中にはサダムとアルカイダとの結びつきも含まれていたので巻き添えに会う形となった。ブッシュ政権はイラク攻撃前の状況に関して語ることを止めてイラクの将来を語ることに完全にシフトしたのでイラク攻撃前の状況に関して馬鹿だけが、自分が気に入ったことであれば何でも言えるようになった。
イラクの将来へと焦点がシフトしたことは成功の基準もまたシフトしたことを意味した。アメリカに対する脅威を取り除いたこと(大量破壊兵器を使用し、アルカイダと同盟を結び、近隣諸国を攻撃し、自国民を虐殺した体制)という非常に重要なことを強調する代わりに、イラクの「成功」はイラクがチグリス地域のスイスになることが出来るかどうかに掛かっているとのメッセージを発している。
ヘイズの本はイラクに関する議論を行う際の証拠がまとめられている。ヘイズはサダムがアルカイダと何の関係もなかったと主張している人たちは単にこの議題に関して何も知らないのだと見分けるのを容易にしてくれた(馬鹿を一目瞭然で分かるようにしてくれた)。大量破壊兵器に関する最近の証拠と合わせて、今では我々はサダムが大量破壊兵器を持っていたことを知っている。イラク攻撃に反対する議論は、これらの大量破壊兵器とテロリストとの結びつき(この地域の安定への脅威とイラク国民自体の安全が危機に陥っていることは言うまでもなく)はサダムを取り除く理由としては不十分だというものでなければならない。その議論の説得力は、ヘイズの本がISISなどのようなテロリスト集団が2003のイラク攻撃のはるか前からイラクに入り込んでいたことの証拠をすでに明確に提示していることから、ほとんど皆無だ。
彼の名前はSaleh al-Hamawi(2015の7月に追放されたNusraの開祖で、2010にAbu Bakr al-BaghdadiはシリアでAbu Waelを暗殺しようとしたと語った)のコメントの中に再び現れるようになる。Fedayeen Saddamの前メンバーだったAli Musa al-Jabouri (Abu Mariya al-Qahtani)はかつてはNo.2だったNusraで「反乱勢力」と今では見られている。al-Jabouriは今はシリアでアルカイダと対立関係にある。2010には、彼はモスルでISISの指揮官をやっていた。怪我をした後、手術のために彼はシリアへと送られることになった(これ自体が示唆的な出来事だ)。彼がAbu Waelの暗殺を試みようとしていた時期に指導をしたのはal-Baghdadiだった。Al-Jabouriは断固としてその命令を拒んだと云われている。
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