2016年12月10日土曜日

中東を混乱に陥れた諸悪の根源は(リベラルと)ジミー・カーターだった?

Jimmy Carter's Human Rights Disaster in Iran

Slater Bakhtavar

20世紀の中頃まではアメリカとイランとの関係は良好だった。多くのアメリカ人はイランのパーレビ国王を国王のモデルだとして称賛していた。ジョンソン大統領は、「イランで起こっていることは地球上でも最良のことだ」と表現した。

1970年代に、国王はイランを中東の大国へと変貌させた。国王は女性の権利の拡大、宗教的、民族的マイノリティの権利の拡大を含む広範囲に及ぶ経済改革、社会改革を行った。経済改革、教育改革が実行され、国民を怒らせていた政治的腐敗を撤廃するイニシアティブはシステム化され、行政システムも改革された。社会がさらなる自由を求めて暴動を起こした時にも、国王は民主主義を重視する憲法改革を行うことを国民に約束した。ソビエトとイスラム原理主義者からの圧力下では、憲法改革は後回しにせざるを得なかった。国王は紙の上では世界で5番目から6番目の軍事大国を形成していたためだ。1976年には、イランは3000のタンク、890の戦闘用ヘリコプター、200以上の戦闘機、最大のホバークラフト艦隊、9000の対戦車用ミサイルを保有していたと云われている。

国王はイランの軍事力を中東の地政学的な危機を沈静化させるために用いた。これはアメリカの中東における外国政策の目標とも完全に一致していた。ニクソン大統領とフォード大統領はこれらの努力を支援し、国王が核兵器以外のすべてのアメリカの武器をほとんど無制限に保有出来るよう支援した。

良好なイランとアメリカの関係を示す出来事として、カーターは1977年のニュー・イヤーズ・イブを国王とともに過ごし、「世界で不安定な地域の一つである中東における安定の架け橋」とイランを持ち上げた。それにも関わらず、国王の人気はカーターの誤った情報に基づいた人道政策の実行によって急降下した。

人権の重視を訴えて当選したカーターの1976年の大統領選挙が、アメリカとイランの関係のターニングポイントだった。国王は3000人の囚人を拷問しているとして糾弾された。人権を重視するという旗の下に、カーターは国王に行き過ぎた要求をし軍事的支援、社会的支援を引き上げると脅した。カーターはイスラム原理主義者、共産主義者、テロリストを含む「政治犯」を釈放するように国王に圧力を掛けた。それらの政治犯の多くが今では「テロとの戦い」で私たちが遭遇する敵となっている。

カーターは国王が軍事法廷を廃止したと主張し、代わりに市民法廷を開くようにと要求した。その結果、法廷は反政府のプロパガンダの場となりはてた。カーターは「自由集会」を開くことを許可するように国王に圧力を掛けた。それにより反政府を掲げるイスラム原理主義者たちの団結が形成され促進されることとなった。イギリス政府とMI6も国王を追い詰めた。政府が管理する国営のBBCは反国王派のデモの様子を詳細に24時間漬けでイラン人に大量に流し続けた。さらに当時のイラン人がほとんど知りもしなかった社会追放された宗教指導者のコメイニへのインタビューを一貫して流し続けた。それにより彼は一夜にしてスターとなった。

国王がカーターとイギリスの要求を満たすことが出来ないでいると、カーターはCIAにイスラムの宗教指導者たち、その後国王に対して積極的で熱狂的な敵対者となる、彼らに対する援助を止めるように命じた。不幸なことに、イランの不安定な状況を沈静化しようとする国王の努力は失敗に終わった。アメリカからの支援もなく宗教指導者たちからの強烈な敵意に晒された国王には亡命以外の選択肢は残されてはいなかった。

カーターの誤った情報に基づいた外交政策によって、その後のイランは迷宮をさまようこととなった。コメイニは独裁体制を敷き国王が囚えていた政治犯のうち共産主義者と軍人を処刑した。それに加えて、親欧米のイラン人2万人以上が処刑された。女性は再び奴隷状態に逆戻りとなった。国民は単に衛星放送を受信できる機器を保有していると言うだけの理由で逮捕されるようになった。アメリカの大使は人質となり、この混乱に乗じてソビエトはイランの隣国アフガニスタンに攻め込みイランとパキスタンへの大きな影響力を確保することに成功した。アフガニスタンでのソビエトに対する苦戦、そしてアメリカの支援によるソビエトの敗北は過激派を台頭させオサマ・ビン・ラディンのような狂信的なイスラム教徒を誕生させることになった。国王が失脚して1年も立たないうちにサダム・フセインはイランへと攻め込み10年近くに及ぶイラン-イラク戦争が勃発した。

振り返ってみると、イラン-イラク戦争はカーターが国王を弱体化させなければ決して起こらなかっただろう。この対立によって両国で合わせて50万人以上が死亡し、それにはサダムの大量破壊兵器で殺戮されたイラン人数千人が含まれていた。イラン-イラク戦争によって権力を完全に掌握したサダムはその後クエートに攻め込み占領するが砂漠の嵐作戦によって敗退を喫することになる。アメリカは砂漠の嵐作戦の継続によってサダムを権力の座から退かせることを幾度も考えたが、後に残った「権力の空白」がイランの宗教指導者たちによって埋められることを恐れてサダムを残しておくことに決めた。

従ってカーターの誤った政策によってイランの国王が失脚する羽目になったばかりではなく、宗教指導者たちによるイランの支配、イラン-イラク戦争、イラクのクエート侵略、ソビエトのアフガニスタン侵略、タリバン、アルカイダ、オサマ・ビン・ラディン、そして9月11日のテロ攻撃によって亡くなったアメリカ人なども含めて60万人以上の命が失われたことになる。

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