2016年12月9日金曜日

民主的に選ばれたチリのアジェンデ政権をCIAが陰から操るクーデターによって転覆させたというのは嘘だった?

The Allende Myth

Vladimir Dorta

1970年から1973年のチリに社会主義を生み出そうとするサルバトール・アジェンデとPopular Unity(以下、人民連合)の悲劇的な試みは世界中の左翼の間に、(暴力革命によってではなく)平和的で民主的な社会主義への移行の可能性が悪のCIAが陰からチリを操ったがためだけに破壊されたという神話を生み出した。この神話は繰り返し語られることによって自らを補強し、その後は冷戦という文脈が語られることも、CIAの文書は公開されている一方でキューバとソビエトの文書はまったく公開されていないという事実もまったく語られないまま左翼の怒りの材料として利用されている。アジェンデの神話は社会主義者の延命に一役買っているかもしれないが、明らかに歴史の事実とは食い違う。

ピノチェトの抑圧とテロリズムは正当化することは出来ないものの、どうして彼とチリ軍がクーデターを起こすことになったのかは説明する必要がある。CIAが美しく開放された社会主義の夢を破壊するために命令を下したという幻想を打ち砕くためにも。チリのマルクス主義の実験が(他の国と同じように)内戦に発展していったとすれば、もしくはその狙い通りに全体主義へと移行していったとすればピノチェトよりも遥かに長く大きな悲劇がチリを襲っただろうことは確実だろうと確信している。

クーデターの原因となった要因は数多くあるが、ここでは神話を打ち砕くのに十分と思われるものだけを選んだ。この記事を補強するためにイデオロギーの異なる4冊の本、一つは保守派の筆者によるもの(Moss)、もう一つはマルクス主義者の筆者によるもの(Roxborough)、残りは有名な歴史学者によるもの(Sigmund and Alexander)を選んだ。彼ら全員がチリの歴史に精通しており、アジェンデ政権の時代の生き証人でもある。

これらの書籍からもアジェンデと人民連合は、経済的、政治的、社会的要因の組み合わせ、それもほとんどが自らの手で生み出したものによって自ら崩壊していったことは明らかなように思われる。

そもそもがマイノリティの集合体だったマルクス主義の政府は、どのようにそしてどのようなスピードで社会主義への移行を進めていくかで対立しあっていた。人民連合の政治戦略は国民投票に大きく依存していたというのに、選挙では一度も過半数を占めたことがなかった。そしてそのような戦略は内部の過激派の派閥や人民連合外部の同盟相手から無視されるようになっていった。

財政ファイナンス、賃金上昇、価格コントロール、生産の低下と食料輸入の増加、世界記録に達するインフレーション、仕事の放棄や労働争議、国家による産業統制の失敗、労働者からの絶え間ない要求と労働活動の政治化、そして物資不足と配給がチリの経済を崩壊させた。

政局の分裂によって、行政機関がアジェンデと人民連合派と(軍部にクーデターを起こすように求めた)野党連合派とで対立するようになっていった。

最終的には民主制度を転覆させ破壊することになった社会的動乱、内戦に発展する恐れのあった「二重権力構造」、自分たちを最終的な調停者だと見做していた(実際にそうだった)チリ国防軍と警察隊からの強い圧力はアジェンデ政権の終焉を意味していた。

From Frei to Allende

チリの歴史は他のラテンアメリカの国々と共通するところが多かった。ラテンアメリカ全体を衰退させた強まる一方の統制主義とポピュリズム、latifundioと鉱物の輸出に基づいた脆弱な経済。だがチリの政治制度は強固で、20世紀初期に一度だけ政治に介入したことがある程度というぐらいに軍隊は中立を保っていた。チリには以前にも社会主義政権が1932年に誕生したことがある。その後も幾度も政治同盟が組織されたがいずれも失敗に終わった。アジェンデ自身も1964年に大統領選挙に勝利したのはほんの僅差で、中道左派でキリスト教民主主義政党のEduardo Freiが大統領に選ばれた時も38.6%の票を集めただけだった。

「イデオロギー的には起源が異なるにも関わらず、フレイの政策はポピュリスト的という意味でこれまでのチリの政権とほとんど変わらなかった(Sigmund, p. 126)」。

フレイの改革は不十分だったようで、チリはより過激な改革を必要とするようになった。それが人民連合が約束したものでもある。フレイが「chileanization」と呼ぶ改革によってすでに統制が強められた国にとってそして富裕層を絞れるだけ絞りとった国にとって人民連合の教義は致命的なダメージを発生させ、スターリン風の経済の中央統制主義が誤った解であるということを証明するのにさほど時間は掛からなかった。

1970年の大統領選挙ではAllendeが36.2%を、Alessandri(国民党)が34.9%を、Tomic(キリスト教民主主義政党)が27.8%を集めた。チリの憲法によると、議会は第一当選者と第二当選者から大統領を選ばなくてはならない。キリスト教民主がアジェンデに投票する絶対の条件は民主主義の存続をアジェンデが約束することだった。それを確約させるために彼らは政治文書で協定を交わした。この文書の存在がどうしてこのような形でこのドラマが終了したのかを理解するための鍵の一つとなる。この文書はアジェンデが権力の座に居座るつもりであれば超えてはならない2つの境界線を設定した。第一は、民主制度の存続で大きな変革を行う際には議会の承認を必ず必要とすることを意味した。第二は、軍部に対する不可侵を定めたものでこれは軍部が民主制度の最後の守護者で在り続けることを保証させることを意味した。

「(フレイの後継者である)アジェンデに課せられた経済的、政治的制約は同じものであったが、彼はそれを無視する傾向が強かった。社会主義への移行がまったく簡単ではないことが明らかになってくると、政治的正当性を確保することが中心的な課題となっていった。このままいけばアジェンデはナショナリストの従来型の伝統であるポピュリズムを選択するか、遅かれ早かれ暴力的な闘争に発展するであろうマルクス主義に触発された階級闘争型の政策を選択するか迫られることは明らかだった。今となっては明らかなように、彼は両方の政策を、彼やチリ国民にとって悲劇的な結果をもたらすことになったが、一度に実行しようとした(Sigmund, p. 127)」。

Political Dilemma

「人民連合の政治戦略は(党の綱領にも書かれていたが)以下のような仮定に基づいていた。社会主義への移行は幾つかの段階を踏まなければならない。その第一のステップは選挙で過半数を集めることだ」。第二のステップは国民投票で過半数を維持し続けることだ。これが社会主義への移行の鍵となる。これにより政府の三権分立による力の均衡が破壊されるからだ。これにより東ドイツ型の単一政党議会とキューバ型の最高裁を組み合わせた政治体制を生み出すことが可能になる。だが国民投票は一度も実施されることはなかった。彼は人民連合が勝つことは出来ないことをよく知っていたからだ。

人民連合は自らが生み出したジレンマに陥っていた。

その一方で、社会主義への移行を永久に先延ばしにすることも不可能だった。自分たちの支持者への裏切りと解釈されるからだ。だが漸近派が主張する憲法に則ったうえでの平和的な社会主義への移行も人民連合が過半数を割り込んでいたことを考えればこれまた不可能だった。

そのまた一方で、人民連合内部(社会主義政党のAltamirano派閥)と外部(MIRとキリスト教左派)の革命派の左翼(それ自体がマイノリティの中のマイノリティだった)も社会主義への急激な移行を推し進めることが出来ず、ロシア革命初期にも似た「二重権力構造」を生み出しつつあった。都市部の工業予定地、不法占拠された廃墟が集まる地域、スラム街などに人が集まり、「チリ南のプロヴィンスで長きに渡るゲリラ活動を展開した」労働者と農民による軍隊が組織されつつあった。その勢力は日増しに拡大し最終的にはチリ国防軍と対等、もしくは打ち破れるまでになっていた(Roxborough, pp. 71-73; Moss, pp. 101-103, 107)。

それ故、人民連合は自らが生み出した次第に勢力を拡大させる嵐のまっただ中にいた。マイノリティであるのにマジョリティであるかのように振舞ってきたツケが回ってきた。正当性は主張する、だが法律は守らない。キリスト教民主とは交渉をする、だがその裏では彼らを分裂させようとする。中間層から票を集めたくせに、内心では彼らを恐れている。過激派がそばにいる時だけは改革を語る。この行き当たりばったりの政治が人民連合が3年間の間に行ってきたことのすべてで、2つに分裂した勢力が国家と社会をそれぞれ別々の方向に引き裂き、極右からの暴力的な反応を引き起こしていった。さらに、民主右派(Partido Nacional)、中道、左翼穏健派(Partido Demócrata Cristiano and others)とが連立を組まざるを得ない状況に追いやられていった。

議会と地方での選挙に関して、キリスト教民主と民主右派がバルパライソでの1971年の選挙時には団結するようになっていた。チリは政治的な行き詰まり状態に完全に陥った。そしてほぼすべての選挙の結果で明らかなように人民連合は選挙での優位を失っていた。オイギンス/コルチャグア とリナレスでの1972年の1月の選挙でもまたも野党が与党に対して勝利を収めた。CDPはオイギンス/コルチャグアで与党の得票率46.4%に対して52.7%で勝利した。リナレスでは国民党が与党(女性)の40.9%に対して58%で勝利した。それも女性がほぼ2対1の割合で野党に投票するという始末だった。共産党の選挙対策委員会の報告書は、「この結果は政府の立場が悪くなっていることを改めて確認した」と語っている。「この選挙は人民連合に対する劣勢に対して右派の政党を団結させたが、逆に人民連合の方は改革派と革命派との対立をさらに深めている」(Roxborough, p. 206)。アジェンデが必要としていた過半数を集めるだろうと期待していた1973年3月の議会選挙では野党が55%、与党が44%と勢力は維持されたままだった。人民連合がわずかに議席数を伸ばしたために与党の勝利とプロパガンダが行われたが、議席数は以前の選挙と一緒で政治的行き詰まりを明らかに示している。

キリスト教民主から中間層を引き離そうという人民連合の政策が失敗に終わったというのに、中間層の生活水準が急速に低下していっている中で彼らが抵抗もなく急激な変化を受け入れるだろうと仮定すること自体が非常にナイーブなことだった。もしくはカソリック教会、軍部、議会や司法などの機関が、民主主義が破壊された後でも中立のままでいるだろうと考えること自体がナイーブだった。特にそれが政治的な都合で採用された一時的な戦術にすぎない時は。アジェンデ自身がRegis Debrayに語っているように、『ゲバラのような暴力と彼との違いは、彼は仕方なく単に「戦術的」にやっているに過ぎないということだ。加えて、彼は正当性を「当面の間」は確保すると答えているしキリスト教民主との政治文書に合意したことは「戦術的に必要」だったと答えている(Sigmund, p. 140)』。そして彼自身の所属政党であるチリ社会党が1971年1月の議会で語っているように、「人民連合が権力を握ることを可能にした特別な条件が今では真の中産階級の国家を建設する障害となっている」。そして政党の所属メンバーに、「ブルジョアジーと帝国主義者との大規模な戦い」に備えよと警告している。

Economic Debacle

野党が議会の過半数を占めていたため、人民連合はすぐに倒れた1932年の社会共和党が残していった遺産である古い法律を悪用しようと考えた-過去一度も廃棄されたことがない法律で、破綻した企業を一時的に「だけ」政府が保有することを認めるものだった。政権就任1年目にこの法律を非合法的な方法で用いることにより、アジェンデは「硝酸、ヨウ素、銅、石炭、鉄、鋼鉄の生産をほぼ完全に掌握し、金融と銀行部門のほぼ90%、輸出部門のほぼ80%、輸入部門の55%、さらには繊維、セメント、金属、漁業、飲料、電化製品の大部分と流通部門の一部を手に収めた(Roxborough, pp. 89-90)」。1969年にはすでにチリ政府は33の大企業を所有していた。それが1972年になると、アジェンデの手によって264の企業が国有化されている。これは人民連合が当初予定していた数よりも91も多い。そして最後に、共産党が支配していたCentral Workers Confederation (CUT)が1973年6月29日のクーデターの失敗を盾に取り多くの民間企業を不法に手中に収めた。「たった一日で、政府により接収された企業の数は282から526へとほとんど2倍になった。アジェンデはこれを止めようとしなかったばかりか、自分たちの国家を建設するようにと労働者に呼び掛けた(Sigmund, p. 215)」。

企業はありとあらゆる手段によって接収された。国有化、経営への介入、破綻の強制、政府による無理矢理の徴収、株式の購入とストライキを起こさせ労働者に乗っ取らせるなど。典型的に行われてきた接収の手順はこのようなものだ。まずこの企業は将来の政府の計画に必要だと宣言する。そして株主から株を購入する。それからその企業に必要な資源の資源価格を強制的に引き上げさせて(すでに賃金も強引に引き上げさせているというのに)、その一方では製品価格の値上げを禁じることによって破綻させようとする。銀行は「国有化の脅迫によって株価を叩き落とし、それから市場で提示されている以上の価格で政府が買うことにより」(Sigmund, p. 157)国有化された。

賃金上昇と価格コントロールは中小企業を直撃した。供給は不足し始めブラックマーケットが拡大し政府が支援するPeople’s Supply Committeesは供給不足の解決策として店主を解雇し始めた。中間層を支援するために始めたはずの彼らの政策は失敗し、政権就任の2年目には人民連合とアジェンデは完全に孤立しまだ比較的小規模ではあったがチリ国民の多数は彼に強く抗議を唱え始めていた。

「アジェンデの経済政策はほとんど完全に失敗だった。就任一年目に行われた一部の例外を除いて、それらの政策は負の影響をもたらし独立して以来で歴史上最悪の経済危機をチリに生み出した。この経済危機は幾つかの段階に渡って被害をもたらしてきた。アジェンデ政権が終了するまでには、生産は急激に縮小し、投資は完全に削減され、貯蓄は存在しないも同義で、大衆の生活水準はアジェンデが政権についた時と同じぐらい低いもしくはそれよりも低かった。供給不足はいたるところで見られた。そして最もショッキングだったのはインフレーションがまったくのコントロール不能となり、1年で見ると300%以上、価格は毎日上昇している有様だった(Alexander, p. 173)」。

「1970年にマルクス主義者はインフレを終わらせることを約束していた。だが1972年のインフレ率は163%以上で世界記録だった。1973年の8月までの12か月の間にインフレ率は323%にまで拡大した。これらは恐らくはワイマール時代のドイツやクーデター勃発時のブラジルとのみ比較可能なものだろう。アジェンデ時代のインフレーションは無謀な国家による民間企業の接収が原因の生産の低下と財政ファイナンスの結果だった(Moss, p. 54)」。「1973年の財政赤字は(中略)政府予算の53%に達していた(中央銀行の数字は1973年の終わりまでに貨幣供給量が3400%増加したことを示している(Sigmund, p. 234)」。

「農業は製造業よりもさらに生産が低下した。1972年には生産が6.7%落ち込んだと見られ、1973年にはさらにそこから16.8%落ち込んだと見られている。個々の農作物の落ち込みはさらに特筆に値する。例えば、小麦の生産は50%低下した。大麦の生産は25%以上低下した。オーツ麦の生産は12.4%低下した。米の生産は30%減少した。同様の低下がほとんどすべての他の生産物でも記されていた。農産物の生産が低下した原因ははっきりしている。耕作地が減少したためだ。アジェンデ政権の3年間で、耕作地は22.4%減少した。1972年の社会党の「シークレット・レポート」は農地改革でアジェンデ政権が接収した土地のほとんど半分が耕作されていなかったと密かに認めた(Alexander, p. 179)」。

「貧困地域で営業している店舗が協力して行った調査によると1972年の終わりまでに、家庭でよく使用され常時在庫されている3000の生産物のうち2500が最早入手可能ではないと報告している。この不足に直面したアジェンデではあったが、配給制に移行することだけは言及を避け続けた。決して配給制は行わないと彼は繰り返し主張した。彼は最後まで配給制が存在することを否定し続けた。だが実際には、少なくともアジェンデ政権の最終年には実質の配給制が存在していた。配給制には少なくとも2種類が存在し、労働者が住む地域と中間層から都市部のアッパー・ミドルが住む地域とで別れていた(Alexander, p. 185)」。

「この危機は政府が意図して起こしたものではなかった。民間企業に社会主義を強要した結果だった。投資の激減、メンテナンスの減少、所得の再分配と経済の拡大という矛盾した政府の目標、社会的騒乱と政策の失敗によって引き起こされた生産の低下、大衆の不満に向きあおうとしなかった政府の怠慢が招いた不安定な政治的状況。経済危機の原因が何であったにせよ、それが政治に与えたダメージは壊滅的だった。経済的状況、特に供給不足とインフレーションは人民連合政府の最後の数週、最後の数か月にはすでに「革命前夜」という空気を生み出していた(Alexander, p. 193)」。

Chile, Armed Camp

1972年の3月に、人民連合のための武器を1トン以上積んだ13隻のキューバからの巨大な貨物船が到着し(あまりにも大量だったのでアジェンデの大統領邸宅にまで保管されていたほどだった)、1973年に軍部によって実施された武器の捜索により政府側、野党側双方が武器を隠し持っていたことが明らかにされている。これがこの年の終わりごろに軍部がクーデターを決行した最大の理由だった。1973年の5月23日に、空軍の8人の将軍が、アジェンデがMIRに対して何もしないことに抗議した。軍部は遅くとも1972年の4月頃には介入の可能性を考え始めていた。ピノチェト自身も認めているように、「この事態に対する平和的な解決は不可能だった(Sigmund, p. 226)」。

6月には、キリスト教民主は「政府が接収された工場や工場建設予定地に兵器を大量にばらまいて軍事行動の準備をしていることを糾弾する声明」を出した。『政府が明確に関与している「人民のための軍」の存在は憲法に定められた「民主的機関」の存在と相矛盾する」。(この頃にチリを訪ねた経験から親政府、反政府のチリ人双方が大量に武器を保有していたことに驚かされたことがある)と筆者は付け加えている(Sigmund, p. 218)。

US Intervention

アメリカのチリに対する態度は1971年の終わりごろに硬化した。キューバのフィデル・カストロがチリを訪ね1か月ほど滞在した時だった。彼はアジェンデを支持し、野党を「ファシスト」と非難する他、自由な報道、選挙、機関などの民主主義の拠り所を「デカダント的で時代遅れだと歴史によって非難されるだろう」と糾弾し、明らかにチリの政治に介入していった。同時期に、強奪されたアメリカの企業に対する補償条項も完全に無視された。だが介入自体もタイミングが悪くそれも手際の悪いもので、左翼世界で語られている重要性をまったく持っていなかった。アジェンデが大統領に就任する前にも、CIAはチリ国軍と少しの連絡も取り合っておらずアメリカ軍のチリ駐屯部隊と協議しなければならないほどだった。介入計画には現役、退役した職員両方が参加していたが、試みはすべて失敗に終わった。アジェンデが大統領に就任するのを阻止しなかったばかりか、むしろ逆効果だった。アジェンデが政権に就いている間もCIAは活動を続けたが、それはまったく影響力を持たない右翼への一般的で限定的な資金援助に留まっていた。ものすごく悪く叩かれたチリトラック協会へのCIAの援助もまったく重要ではなかった。トラック協会からの需要はほとんどないに等しくチリ国内の支援者からの援助で簡単に賄えたからだ。「CIAの資金がトラック協会のストライキの成功に決定的だったという考えは新興宗教への信仰に匹敵するものを必要とする。トラックドライバーたちからのニーズはわずかなものだったというのが事実で、ストライキはそのニーズをたやすく満たすほどの支持をチリ国内から広範に受け取っていた(Alexander, p. 229)
」。

これは3人のマルクス主義者の筆者たちも認めているところだ(別にこれまで紹介してきたところで不和があったということではない)。さらに、クレジットと新規のローンの停止というアメリカの「非公式の封鎖戦略」と云われているものに関しても、彼らは「封鎖はチリの経済に幾らかのダメージは与えた。だが「非公式の封鎖」の影響は人民連合が他から援助やクレジットを受け取るようになったこともありある程度緩和された。従って「非公式の封鎖」は経済危機の一因ではあったが(左翼の間ではこの封鎖戦略のせいでチリが経済危機に見舞われたと語り継がれているようだが、まったく関係ないのは言うまでもない)、危機の主な原因は他に求められなければならない。どちらにしても、政策を行う際には「非公式の封鎖」のようなものは予想しておかなければならない。アメリカとラテンアメリカの関係を振り返ってみれば、アメリカの資産を強奪しアメリカを攻撃した後でもアメリカから援助と貸出が施され続けると予想するようなものは何もないからだ(Roxborough, pp. 155, 156)」(マルクス主義者は認めたくないからこのような書き方しか出来ないのだろうがこれも嘘)。アジェンデはチリの債務のモラトリアムを1971年に一方的に宣言していることも付け加えておく必要がある。

ピノチェトのクーデターに関しても、アメリカが関わったという証拠は完全に何一つない。当時のチリの軍隊の置かれていた状況を熟知しているチリ軍の元将校として、私はチリ軍が外部からの命令も内部からの援助も必要としていなかったことを明確に証言できる。「CIAの活動は(それが何であったにせよ)アジェンデ政権の運命にほとんど、もしくは何らの重要性も与えなかった。CIAはアジェンデが大統領になることを阻止できなかったばかりか、最大でも反人民連合のキャンペーンにわずかばかりの貢献をしたぐらいだった。そしてピノチェトがアジェンデを下ろす決断を下したこととは少しの関わりもない(Alexander, p. 231)」。

マルクス主義者の筆者たちもとうとう譲歩せざるを得なくなった。

「アメリカは自国の利益を防衛するために行動した。だがアメリカはクーデターが起こる条件を生み出すのに役割を果たしたが、そしてアジェンデを打倒するチリのブルジョワジーに直接支援さえ行いはしたが、単独で行動したのでは決してないということは強調されなければならない。人民連合政府は自分たちの社会に真の脅威が現れたと感じ取った自国のブルジョワジーたちによって打倒された(その政治エージェントや軍部なども含む)。陰謀論がまかり通っている世界では、アジェンデがチリのブルジョワジーによって打倒された本当の理由は(人民連合の改革にも関わらず)労働者階級が社会主義革命を起こすだろうという恐れがチリのブルジョワジーの中に存在したからだということは強調されなければならない(Roxborough, p. 114)」。

Paul Sigmund

「基本的に非常に「ブルジョワ的な」社会でマルクス主義を実践すると公約していた人が大統領になったこと、そして彼が経済の崩壊だけが原因で政権の座を追われたのだろうということ、そして彼が日常的に憲法違反を繰り返していたこと、これらすべてが1973年の9月までは世界でも最も基盤が強固だったチリの政治的機関の存在を考えれば説明することが出来ない。そこでCIAやアメリカの政治が果たした役割のことを考えてみたが、それらが決定的な役割を果たしたとは私はとても信じることが出来ない。例えCIAが金銭的な援助を行っていなかったとしても政策を劇的に変更しないかぎりはアジェンデは6年間の任期を全うすることが出来なかっただろうと今では確信している(Sigmund, p. xii)」。

Robert Alexander

「アジェンデが大統領だった頃に、アメリカ政府がチリに対して「封鎖」を行ったと頻繁に主張されてきた。これがチリの経済的、金銭的状態を著しく傷つけ、国際収支の支払いの問題の最大の原因だと云われ続けてきた。事実はそのような主張を支持していない。国際的な融資機関はチリに対する融資を完全に閉ざしたわけではなかった。確かにアメリカ政府機関のExport-Import Bankはアジェンデが大統領だった頃にチリに対して貸出を行っていない。-だが実はフレイ政権の最後の2年間にしてもほとんど融資を行っていなかった。アメリカの民間銀行はチリに対する新規の融資を急激に減少させた。だがこれはビジネス上の懸念が理由で組織されたものでも意図的な「封鎖」でも何でもなかった(アジェンデがアメリカの資産を強奪していたことを思い出す必要がある)。最後に、アメリカ政府は他の国の政府からアジェンデに送られる援助を止めることはまったく出来ていなかった。事実、アジェンデ政権はチリの過去のどの政府が受け取ってきたよりも多額の援助と援助の約束を(主に共産圏から)受け取ってきた」(Alexander, p. 219)。

The Final Struggle

これがRobert Alexanderが見たアジェンデ政権の最終年の様子だ。

「振り返ってみると、この期間にチリに起こった出来事のすべては前もって定められていたもののようにも思える。アジェンデが行った行動のすべてが、彼の立場を弱め彼の運命を決定づけていったように思われる。最終的な破局を避ける道を探し求めていた者によって行われた努力のすべてが、初めから失敗するように定められていたようにさえ思えてくる。アジェンデの「友達」は実際には彼の最悪の敵だった。だが彼はこの状況から彼を救ってくれるかもしれない者を探すことも、もしくは探す気もなかった(Alexander, p. 301)」。

人民連合と野党との最後の戦場は議会だった。キリスト教民主は国有化法に対する修正案を議会に提出した。修正案は可決されアジェンデはそれに拒否権を発動した。この戦いは議会が必要とされている過半数を集めることが出来るか、もしくは大統領の拒否権を覆すことが出来る3分の2の票を集めることが出来るかどうかに移っていった。「憲法上の対立」は、多くの人によって血なまぐさい内戦に発展していったBalmaceda大統領と議会との1891年の対立にも例えられた(Sigmund, p. 168)。この対立も危機の様相を呈し、最高裁とController Generalは「この拒否権は憲法上の精神に則っていないので無効である」との命令を下した(Alexander, p. 317)。1973年の6月に、内務省長官は最高裁の命令を実行しないようにと警察に命じた。最高裁は『アジェンデに大統領の記者会見の内容に対する抗議と最高裁の命令を実行しないことは、そして法の抜け穴を悪用することは「司法制度の即時の解体」につながるとする2通の手紙を送った。だが司法を攻撃するキャンペーンはその後も続けられ、今では攻撃の対象にcontroller generalも加えられることになった(Sigmund, p. 210)』。この行き詰まりは人民連合が崩壊するまで続くように思われた。従って、「すでに危機のまっただ中にいたアジェンデ政権を袋小路に閉じ込める役割を果たした」。

アジェンデとキリスト教民主との合意が失敗した6月の終わりごろになってくると、手記は最早読むことが出来なくなっている。彼の助言者Joan GarcésはCDPの要求を拒否したアジェンデの言葉を引用している。「決して譲歩するな!それは人民連合の分裂と、革命運動の終わりを意味することになるだろう(Sigmund, footnote 10/31)」。

「アジェンデ政権は急速に孤立していった。彼と野党との最後の架け橋は壊された。他の政府機関との憲法上の権限を巡っての戦いに突入していった。軍部との関係は急速に悪化していった(Alexander, p. 316)」。

8月6日に、アジェンデは自分たちの言うことを聞く人間を昇進させる準備のためにとうとう空軍の将軍2人を止めさせた(Sigmund, p. 225)。これもキリスト教民主との明白な(政治文書で交わされた)協定違反だった。その翌日、海軍は左翼の下士官たちによる陰謀計画を発見した。43人の海兵が逮捕され、海軍は社会主義の議員だったCarlos Altamirano、MADPの責任者Oscar Garretón、MIRの指導者Miguel Enriquezを「この計画の首謀者」として糾弾した。Carlos Altamirano(彼はアジェンデのチリ社会党のSecretary Generalでもあった)はこの訴えを誇らしげに認めた。1973年の6月にはすでに、議会は民間企業を接収する権限をアジェンデが求めていたのを82対51で否決した。そして上院、下院両議院の議長は『「人民の連合軍」の事実上の創設を共同で非難する。これはチリに2つの軍を事実上創設するものであり、しかも数多くの外国の兵士が含まれている(Sigmund, p. 216)』という声明を発表した(主に共産主義者が参加していた。ベトナムにも送り込まれていたし戦争あるところないところでも世界中で工作活動を行っていた。やってることは現在のイスラム原理主義者と同じかそれよりもひどい)。「軍事力の統制への脅威は、下士官への陰謀への働きかけという下からの圧力と空軍の最高司令官を応対させるという上からの圧力によって古典的なクーデターのやり口の様相を呈している(Sigmund, p. 227)」。

キリスト教民主は態度を硬化させそして、「武装グループが存在している現在のチリでは法と憲法は破壊された。非難が日増しに強まっている現状では、クーデターが起こるのは時間の問題だろう。8月22日には、Chamber of Deputiesは内閣から武装グループは出て行けと公然と非難した。そしてチリの国民に再び民主主義をもたらすために行動を起こすべきだと要請した(Roxborough, p. 120)」。

下院議会は以下のように決議した。

「チリ共和国の大統領と大臣たち、並びに軍部のメンバーから警察隊に共和国の憲法と法の秩序が破壊されたことを告げる。そして憲法と法に忠誠を誓った者たち、その職務からして当然であるはずの大臣たち、今現在大臣になろうとしている者たちには、政府が法に則った行動を行い憲法を順守しチリの民主主義の重要な源を守るためにこの状況をすぐに終わらせる責務があることをここに告げる(Alexander, p. 318)」。

「この決議が軍事行動の法的根拠になったのかどうかが後に議論されることになった。この決議は法的拘束力はないとされた。この決議で重要なことは、この決議が「憲法と法の秩序を回復させる」ためである限りは軍事行動の倫理的根拠として解釈されたことだ。この決議は議会と軍部との関係にとって大きなターニング・ポイントとなった(Moss, pp. 197-198)」。

アジェンデはRegis Debrayと休日を過ごしていた。

「彼らはアジェンデが行った軍部への介入に関して話し合っていた。Debrayはアジェンデが彼とのチェスの対戦を楽しんでいるという印象を持った。だが彼は、「これは武装をするまでの時間稼ぎでしかないということは皆が理解していた。時計の針はすぐそこまで迫っていた」。アジェンデはこのゲームを2つの原則で乗り切ろうとしていたとDebrayは記している。一方では、彼は戦力差を考慮すれば敗北必死の内戦は必ず避けるべきと考えていた。彼は「人民連合軍」を信用していなかった。左翼の人間が「大衆による軍事行動だけがクーデターを阻止することが出来る」と言い出した時には、彼は「一体何人の人間が一台の戦車を止めるのに必要なんだ?」と答えただろう。その一方では、軍事力の前に屈した軟弱な人間というイメージを残したくないと強く思っていた。だがこれら2つの矛盾した原則の間に挟まれて、これらの原則が矛盾していないと考えたもしくはそのように振る舞いたかった彼はどちらを選ぶことも拒んだ。これらの原則が矛盾しているということを認めなかったことが3週間後に政権を追われる一因となった(Sigmund, pp. 229-230)」。

Democracy and Free Market

批判者の誰も現在のチリの繁栄には興味を持っていない。チリの民主主義はアジェンデ以前からかなり揺らいでいたにも関わらず再び確固とした基盤を持つことになった。これがこの悲劇の唯一の喜ばしい結果だろう。チリはとうとう持続的な資本主義の発展への道を歩み始めた。輸出品が多様化されたことにより銅に依存する必要もなくなった。インフレ率は2%から4%にまで低下した。貧困率はわずか20%にまで低下した。他のラテンアメリカ諸国や第三世界の国々では考えられないような数字だ)。アメリカやEUとの自由貿易協定は革命を起こして社会主義を生み出すのだという残酷なファンタジーとは違って、興味を引く話題でも何でもなくなっている。チリの繁栄は退屈すぎてニュースにもならない。

左翼に対する歴史の皮肉の常として、左翼世界では憎悪されているピノチェトが民主主義の救世主となった。チリの現在の社会主義派の大統領であるRicardo Lagosが、ピノチェトの自由主義の原則を守り続けているのには単純な理由がある。20世紀中にチリで行われた他の試みはすべて失敗した一方で、それは機能したからだ。チリの初代金融大臣Alejandro Foxleyがピノチェトの経済政策に関して尋ねられた時、彼はこのように応えた。

「私は当時チリの経済を担当していた。私は1990年から1994年までチリの金融大臣だった。私たちがしなければならないことは変化と継続との間の均衡を保つことだと常々言い続けてきた。成熟した国は何もないところから常にスタートするわけではない。私たちはそのことを前の政権から学んだ。市場経済に移行している国では変化と継続との間の均衡が確立されている。そして経済発展と社会発展との間のバランスを回復させることによりその均衡を回復させることが出来るだろう。それが私たちがやったことだ。チリが市場経済に移行してから4年が経った頃、、周りの人間は「民主主義によって権力を握ったこの連中は経済を滅茶苦茶にするだろう」と全員が言っていた。4年間でチリの経済は年率で平均8.2%成長し貧困は半分にまで削減された。だからこれらの結果により私は民主主義に自信を持っている。経済の大きな変革に関しては、私たちは後に世界的な潮流となったこの流れが正しいことを確信していた。チリは規制緩和を開始し、経済の開放を推し進め、、世界市場での競争を認め、生産性を高めていった。これらすべては後に世界的なトレンドとなった。これは私たちの貢献だ。彼らは世界的トレンドを先取りすることが出来た。そしてチリはその恩恵を蒙ることになった」。

以下、アメリカ人のコメント

Robert Mayer Says: 

素晴らしい記事だった。チリ、それを超えてラテンアメリカ全体のことを知りたいのであれば必ず知っておかなければならない歴史だ。アジェンデは野党がアメリカから受けることが出来ると夢想するより遥かに多くの額の支援をソビエトとキューバから受け取っていた。キリスト教民主が、常にチリの政治で大きな影響力を持っていたというのが事実だ。彼らがアジェンデに背を向けた時、彼の命運は決まっていた。クーデターが起こる頃には、チリ社会のほぼ全員が彼に敵対していた。当時生まれていれば、確実に自分もクーデターを支持していただろう。そして私の友達、それに彼らの親たちも確実にクーデターを支持していただろう。

Reid Says: 

左翼がでっち上げたCIAの他の神話、イランのモサデグへのクーデターにも興味がある。悲しいことに、一部のCIAの職員が実際よりも自分たちの役割を大きく誇張して議論に混乱をもたらした。だがたった数人のCIAの職員が内部からの協力もほとんどなしにイラン政府を転覆させたという話を聞かされる時は、なんというファンタジーを信じているんだろうといつも衝撃を受けていた。事実、イランの軍部とビジネス階級がモサデグの独裁に反旗を翻したのだということは政府の文書として残されている。

モサデグを強力に支援していたのはイラン共産党だということは知っている。だがソビエトが裏から彼をどのように操っていたのかは情報を見つけることが出来なかった。誰かこのことについて知らないだろうか?

ElGaboGringo Says: 

これは素晴らしい記事というだけではなく、素晴らしい資料でもある。素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい。

疑問があるのだが、ピノチェトの支配は相対的に見て本当にそれほどひどいものだったのだろうか?彼が行動を起こさなければチリはあのまま内戦に突入、もしくは野蛮な共産主義者がチリを乗っ取っていたのではないのか?

ピノチェトは、外国の共産主義者から支援され暴力で政府の転覆を企て数百万人を殺害しようとしていた人たちを拷問し殺害した。カンボジア人やウクライナ人に訪ねてみるといいい?数千人の左翼が拷問または殺害されるのと、彼らが権力を握った時に数百万人が虐殺されるのとどちらを好むのかと。アフガニスタン人に訪ねてみるといい。左翼が殺害されるのと10年の内戦とどちらが良かったのかと。

ピノチェトのクーデターと支配はその「圧政」が記憶されるべきではない。むしろその平和さとして記憶されるべきだろう。KGBが支援した革命でこれほど流血が少なかったことが一度でもあっただろうか?

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